57 本当に欲しかったものは――。


 『昇龍の儀』の締めである民衆への《龍》のお披露目を終え、露台から城内へと下がろうとしたところで、珖璉は皇帝からねぎらいの言葉をたまわった。


龍璉りゅうれんとしての務め、ご苦労であった」


 皇帝の低い声が、からかうように揺れる。


「毎年、わたしに気を遣って、小さい《龍》をぶのは面白くないのではないか?」


「とんでもないことでございます。わたしめが喚び出せる《龍》はあれが精いっぱい……。とてもではありませんが、陛下の御力には及びませぬ」


 喚ぼうと思えば、あれより大きな《龍》を喚ぶことは容易だが、わざわざ皇帝の疑いを招く愚を犯す気はない。


 恭しくかぶりを振った珖璉の言葉を信じているわけではなかろうが、皇帝もあえて問いたださない。


此度こたびの後宮での顛末てんまつを聞いた。……大それた望みを抱かなければ、子を産んだあかつきには、妃嬪の一人として召し上げてやらぬこともなかったものを……」


 淡々と告げる皇帝の声からは、自分の子を産まれる前に喪った嘆きも、子を宿した女人が罪を犯した哀しみも、どちらも感じとれない。


 強大な龍華国の皇帝として理性を失わずに生きていくためには、代わりに人としての情を失わねばならないのかもしれないと、ふと珖璉はらちもないことを思う。


 妃嬪の命を狙ったと発覚すれば、極刑に処されると知っていながら、皇后の座を求めた茱栴。


 本来の「龍璉」ではなく官正の珖璉として生きる珖璉は、陽の当たる場所へ出たいと足掻あがいた茱栴の気持ちが、ほんのわずかだがわかるような気がする。口が裂けても、言葉に出すことはできないが。


 ゆっくりと歩みながら、珖璉を振り返りもせず、皇帝が低い声を紡ぐ。 


「今回のことは、いまだ皇太子が不在であることも原因であろう。……であれば龍璉。皇子が生まれ、健やかに育つまで、いっとき皇太子として立つか?」


「っ!」


 息を飲んだ珖璉の鋭い呼気が、露台に忍び込んできた夜気を揺らす。


 心の中で、ずっと願ってきた。


 名家の嫡男として生まれたからには、いつか、表舞台で思う存分、己の力を振るってみたいと。


 以前の珖璉ならば、野心をはかるための問いかと疑いながらも、誘惑にこうしきれずに頷いていただろう。だが。


「陛下のお心遣いはこの上なく光栄に存じます。ですが……。今回の事件で身に染みました。王城がまつりごとの花であるならば、後宮はそれを支える根。後宮が健やかであればこそ、陛下もご政務に励まれ、龍華国の繁栄が続くことでございましょう。わたしは官正の珖璉のままで十分でございます」


 ゆるりとかぶりを振った珖璉に、先を行く皇帝が歩を止め、甥を振り返った。


「……何があった?」


 欠片も甥の言葉を信じていない探るような視線に、珖璉は吹き出したい気持ちを抑え、ゆったりと微笑み返す。


「先ほど申し上げた通りでございます。わたしは表舞台に立たねば、己の力を振るうことは叶わぬと思い込んでおりました。ですが、それは誤りだと気づいただけでございます」


 「珖璉」として後宮に飼い殺しにされている自分は、このまま、妃嬪達のご機嫌取りに汲々きゅうきゅうとして腐っていくだけだと思っていた。けれど。


 脳裏に思い浮かぶのは、朝露に濡れた花のように笑う鈴花の明るい笑顔と、自分に向けられた心からの称賛だ。


 ずっと、己の力を振るえる場が欲しいと思っていた。


 だが、珖璉が本当に欲しかったのはその先の――。


 地位も家柄も美貌も関係なく、ただ珖璉の行いだけを見て、認めてくれる言葉だったのだ。


 胸の中で愛らしい鈴の音が鳴る限り、どこで励もうと、己自身は変わらない。


 本心から、珖璉は恭しく皇帝へこうべを垂れる。


「わたくしなどに皇太子が務まるとは思えませぬ。どうか、今後とも珖璉として陛下を陰でお支えさせていただけるのでしたら、これに勝る喜びはございません」


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