56 夢の時間の終わり
「珖璉様。そろそろご支度が……」
ひっそりと控えていた禎宇が主を促したのは、茶を
「もうそんな時間か」
顔をしかめて呟いた珖璉が立ち上がる。
夢の時間の終わりが来たのだ。この部屋を一歩出れば、もう二度と珖璉と親しく話すことはできまい。
珖璉に続いて立ち上がった菖花が、深々と腰を折る。
「珖璉様。数え切れぬお心遣いをありがとうございます。このご恩は故郷に帰っても忘れません」
「ああ。お前が幸せを掴めば、鈴花も喜ぶことだろう。幾久しく健やかに暮らせ」
「もったいないお言葉でございます」
柔らかに微笑んで菖花に告げた珖璉が、次いで鈴花に向き直り、手を差し伸べる。
「鈴花。来い」
「……はぇ?」
わけがわからず、端麗な面輪をぽけっと見上げると、鈴花の手を掴んだ珖璉にぐいと引っ張られた。そのまま、珖璉が歩き出す。
「あ、あの……っ!?」
廊下に出ても、珖璉は鈴花の手を握ったままだ。
「こ、珖璉様! 手を! 手をお放しくださいっ!」
「だが、放せば、お前はまた迷子になるだろう?」
「なりませんっ! 珖璉様ほど目立つ方についていって、迷子になるわけがないですっ!」
からかうような珖璉の声に、まさか後宮内を手をつないで歩く気かと必死で抵抗すると、仕方なさそうに放された。ぶはっ、と背後で禎宇が吹き出す声がする。
どこをどう通ったのか、門番達が守る
牡丹宮に連れて行かれた時も壮麗さに気圧されたが、ここはそれ以上にきらびやかだ。
「あ、あのっ、ここはどちらなんですか!? 絶対に、私なんかがいていい場所じゃありませんよね!?」
雅やかな珖璉は、むしろ、こここそが本来いるべき場所であるかのように違和感がないが、余人からすれば、鈴花は華やかな場を汚す
幸い今は廊下に誰もいないが、見つかったら叱り飛ばされるのではなかろうか。
鈴花は歩みを緩めると、最後尾を歩く禎宇を待ち、
もしこんなところで迷ったりしたらと思うと、恐ろしくて仕方がない。
「私、絶対に禎宇さんから離れませんっ!」
「いやあの、鈴花……」
禎宇が困り果てた声を上げる。不機嫌そうに眉を寄せ、鈴花の手をもぎ取ったのは珖璉だ。
「なぜそこで禎宇に縋る!? 手をつなぎたいのならわたしの手を握ればよいだろう?」
「こ、珖璉様の手だなんて! そんなの恐れ多すぎますっ!」
「なんでそこでわたしを睨むんですか!?」
刃のように鋭い視線で珖璉に睨みつけられた禎宇が哀れっぽい声を出す。納得がいかぬと言わんばかりに、珖璉が吐息した。
「お前が見たいと言ったのだろう? だから特等席で見せてやろうと連れてきてやったというのに……」
「はぇ?」
呆けた声を上げた鈴花を放って、「ちゃんと鈴花を見張っておけよ」と禎宇に命じた珖璉が、一人で部屋に入ってゆく。
「あの……?」
わけがわからず禎宇を見上げると、困ったような笑顔でごまかされた。
「大丈夫だよ。後で、珖璉様がちゃんとお教えくださるから。うん、たぶん……」
「はぁ……?」
どうやら、それ以上は教えてくれる気はないらしい。諦めて、鈴花はせっかく珍しい場所に来られたのだから、しっかり見ておこうと、きょろきょろと辺りを見回した。
こんなきらきらとした場所、今後、一生訪れる機会はないに違いない。なら、しっかり見ておかなくては損だ。
廊下に人影はないが、誰もいないわけではないらしい。少し離れた場所からは人々が立ち働く気配がするし、遠くからは
しばらく待っていると、扉が開き珖璉が姿を見せた。
「ふぁああ……っ!」
見た瞬間、感嘆のあまり歓声が洩れる。
珖璉が纏うのは、濃い青の地に銀糸で《龍》の
鈴花の目には、珖璉はいつも銀の光を纏って光輝いて見えるが、今は誰が見ても同じことを言うだろう。
口を閉じるのも忘れて見惚れていると、珖璉がくすりと笑みをこぼした。
「どうした? そんなに大きく口を開けて。菓子でも放り込んでほしいのか?」
鈴花へと伸ばされた珖璉の指先が頬にふれる寸前で。
「あっ、鈴花! 《見気の瞳》が戻ったんだって!? いやぁ~、またいろんな実験をして遊べるねっ!」
廊下の向こうから、これまた立派な衣を纏った泂淵が、鈴花を見るなり早足にやって来た。
「おい!」
と目を怒らせた珖璉が、泂淵の手を叩き落とす。
「こいつはお前の玩具でもなんでもない! そもそも、お前は弟子達の監督不行き届きで、明日からしばらく謹慎だろうが!」
「えっ、だからじゃん!」
泂淵が何を当然のことを言うのか、とばかりにあっさり頷く。
「しばらく王城に詰めなくてよくなるからさ! それなら、後宮に入り浸って鈴花と……」
「謹慎場所は蚕家に決まっているだろう、馬鹿者! おい禎宇! こいつをしっかり見張っておけ! 鈴花に指一本ふれさせるなよ!?」
「えーっ、『蟲封じの剣』まで貸してあげたのにひどくない!?」
「……わたしからは回答を控えさせていただきます……」
禎宇が苦笑をこぼしながら首を横に振る。
「泂淵。
珖璉が泂淵を引っ張るようにして歩を進める。
廊下の先はちょっとした広間のようになっていた。幾つもの廊下がその広間へ通じているらしい。
広間のその先は、建物から突き出した広い露台になっている。露台の向こうに広がるのは。
「ふぁああ……っ!」
龍華国王都の絶景に、鈴花はふたたび歓声を上げる。
時刻は夕刻。西の空は茜色に染まり、薄くたなびく紅に染まった雲が天女の羽衣のようだ。東の空には宵闇が忍び寄り、藍色の空に、そこだけ白く切り取ったような細い月が浮かんでいた。
龍華国の繁栄を示すかのような、遥か遠くまで続く家々の屋根。軒先に吊るされているのは、『昇龍の祭り』の灯籠だ。
数え切れないほどの灯籠は、まるで空より一足早く、地上で星が瞬いているかのよう。
露台が設けられているのはよほど高い建物なのだろう。露台の下の広場にいる人々が、豆粒のように小さい。
「あまり顔を出し過ぎるなよ」
ぽふ、と鈴花の頭をひと撫でした珖璉が泂淵を従え、広間へと歩を進める。
「鈴花、
禎宇に低い声で促され、絶景に見惚れていた鈴花は、あわてて両膝をつき、
と、視界の端で銀の光がふたつ揺れた。
「もう大丈夫だよ」
禎宇の声に、そろそろと顔を上げた鈴花の視界に映ったのは、露台の中央へと進んでいく男性の後姿だ。
紫の絹の衣に、金糸で《龍》が刺繍されたきらびやかな衣。
男性の姿を見た民衆から、うねるような歓喜の声が上がる。
鈴花は、呆けたように壮年の男性の後姿を見つめていた。男性の後ろにつき従うのは、珖璉と泂淵だ。
銀の《気》を纏う珖璉と、極彩色の《気》を纏う泂淵。そして、男性が纏う《気》の色は――。
珖璉と同じ、銀の光だ。
「あの御方が皇帝陛下だ」
禎宇の低い囁きは、耳には入るが脳にまで達さない。
珖璉と皇帝が、それぞれ右手を天へと伸ばす。その手から。
人の身丈の五倍はありそうな巨大な白銀の《龍》が放たれる。
わぁっ、と民衆から歓声が上がる。祈りと喜びに満ちた
二匹の《龍》が優雅に身をくねらせながら、紅と藍色に染まる空を昇ってゆく。
高くたかく、天の果てを目指すように。
銀の燐光を纏い、きらめきながら昇る《龍》が星のように小さくなるまで、鈴花は瞬きも忘れて見惚れていた。
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