50 心の中で嘲笑う声がする


「のんびりしていていいのか? まもなく茶会の場は禁呪が荒れ狂う。阿鼻叫喚の地獄になるぞ? お前の姉も無事では済むまい。妃嬪や宮女が皆殺しにされれば、一人くらい消えてもわからんだろう?」


 言うなり、博青が鋭い刃の羽を持った《蟲》を放つ。


 どんっと突き飛ばされた鈴花のすぐ横を、蟲の鋭い羽が通り過ぎる。


 ふところから取り出した短剣を素早く抜き放った影弔が、くうを裂いて飛ぶ蟲を斬りつけた。


 胴を切断された蟲が、風に散るちりのように形を失ってかえってゆく。


 それを確認する間もなく、突き飛ばされた勢いのまま、鈴花は駆けだしていた。


「おいっ! 嬢ちゃん!?」

「ごめんなさいっ!」


 博青と相対した影弔のあわてた声が聞こえるが、立ち止まってなどいられない。


「ああくそっ! 茶会の場は黒い屋根の建物を右に曲がって、次の角を左だ! 後は楽のを頼りに進め! いいか!? 無茶なんかすんじゃねえぞっ!?」


 舌打ちの音とともに背後から影弔の声が飛んでくる。

 鈴花は返事する間も惜しんで建物の角へ駆け込んだ。


 影弔が教えてくれた通り、耳をすませば華やかな楽の音がかすかに聞こえてくる。楽が奏でられているということは、まだ何も起こっていないということだ。


 一刻も早く茶会の場へ行って、禁呪のことを知らせなくては。


 博青が言っていた阿鼻叫喚の地獄とは、いったいどういうことだろう。


 わからない。だが、あそこにずっと探してきた姉と珖璉がいるのなら、行かないという選択肢はない。


 駆ける鈴花の脳裏で、「役立たずのお前なんかが行ってどうする?」と嘲笑あざわらう声がする。


 村でも後宮でも、ずっと役立たずだとさげすまれてきた。


 《見気の瞳》も使えず、《蟲》の一匹もび出せない鈴花などが行って、何ができるというのか。


 何より、禁呪使いがいるだろう場所に行くということは――。


「っ!」


 恐怖に息を飲んだ瞬間、足がもつれて勢いよく転ぶ。


 咄嗟とっさに地面についた手のひらをりむき、鈴花は倒れ伏したまま、痛みに呻いた。


 手のひらを擦りむいただけでこんなに痛いのに。もし、さっきのような蟲に斬られたら、どれほどの痛みに襲われるだろう。


 不意に、襲われた時の恐怖が甦り、息ができなくなる。


 苦しいのに息が吸えない。

 着物の合わせを握りしめ、額を地面にこすりつけるように身体を丸める。


 首を絞められた時も同じだった。どんなにもがいても男の手は離れなくて、「お前だけは殺せと言われているんだ」と告げられた言葉が恐ろしくて。


 不気味だと言われ続けてきたこの目を、殺そうとするほど憎んでいる誰かがいるなんて。


 苦しい。怖い。誰か……っ!


 助けを求めて心の中で叫んだ瞬間、脳裏に珖璉の声が甦る。


「吸おうとするな。息を吐け。大丈夫だ、わたしがついている」


 背中を撫でる大きな手の幻まで感じて、鈴花は必死で息を吐き出した。吐ききったところで、欲していた空気が自然に入ってくる。


 はっ、はっ、と荒い息をこぼす。身体の震えはまだ止まらない。


 耳元で心臓ががなり立てているようだ。どくどくと響く鼓動の音に混じって。


 行く手から、宮女達の悲鳴が聞こえてきて、鈴花は息を飲んだ。


「そんな……っ」


 間に合わなかったのだ。


 絶望が鈴花の心を塗り潰す。


 やっぱり自分はどこまでいっても役立たずだ。ようやく姉の居所がわかったというのに、間に合わなかった。


 絶望にし潰され、地面に突っ伏しかけて。


「鈴花」


 心の中で、凛とした声が響く。


 たった一人、鈴花を役立たずではないと言ってくれた人。


「珖璉、様……っ」


 茶会の場へ歩いて行った珖璉の横顔を思い出す。


 疲労をにじませ、それでも挑むように真っ直ぐ前を見据えていた人。

 あの方の瞳に、もう一度自分が映れるとは思わない。


 それでもいい。せめて、恋しい人の役に立ちたい。


 がりり、と地面を引っかくようにして立ち上がる。


 呼吸はまだ荒い。気を抜けば身体が震えそうになる。まるで、見えない鎖ががんじがらめに巻きついているようだ。


 けれど。


「行かなきゃ……っ」


 あの方のところへ。

 たとえ、禁呪使いと相対することになろうとも。


 もう恐怖に立ち止まったりしない。


 決然と一歩踏み出した途端、心の中で、ぱきん、と薄氷が割れるような音がする。 

 同時に。



 世界が、鈴花が知る色を取り戻す。



 辺りに漂う黒いもや。見上げた視界に映るのは、建物の屋根を越えて立ち昇るどす黒い九本の柱――。


 土に汚れた着物の裾をはためかせ、鈴花は迷わず黒い柱を目指して駆けだした。

 

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