45 お願いしたいことがあるんです……っ!


 珖璉が私室へ戻ってきたのは、夜もかなり更けてからだった。


「おかえりなさいませ」

 お仕着せのまま帰りを待っていた鈴花を見た珖璉が、驚きに目をみはる。


「鈴花……!? どうした? 何かあったのか!?」


 足早に歩み寄り、肩を掴んで問いただす珖璉に、あわててかぶりを振る。


「ち、違います! その、おかげ様で体調が戻りましたので、せめて珖璉様のお出迎えをと思いまして……。禎宇さんに早く休んでいただきたかったですし!」


 珖璉の帰りを待つという禎宇を、「代わりに私がお出迎えしますから! 珖璉様にお礼も申しあげたいですし!」と説得して代わってもらったのだ。

 禎宇だって疲れているのだから、せめてこれくらいしなくては罰が当たる。


「そう、か……」

 鈴花の返事に、珖璉がほっとしたように吐息する。


 が、鈴花はそれどころではなかった。


 珖璉の顔を見ただけで、心臓がばくばくと騒ぎ出し、顔に熱がのぼってくる。掴まれた肩から鼓動の速さが伝わったらどうしようと不安になる。


「あのっ、お疲れでございましょう? 何か召し上がりますか? お茶とお菓子を用意いたしましょうか?」


 禎宇から珖璉は食事を済ませて戻ってくると聞いていたが、これほど遅くまで働いていたのだ。お腹もすいているに違いない。


 珖璉の顔を見ないよう、視線を伏せて早口に問う。


「そ、それとも、お肩をおもみしましょうか……?」


 告げた瞬間、鈴花の肩を掴む手に力がこもった。その強さに驚きながら、急いで言を次ぐ。


「て、禎宇さんから、ずっと働きづめだと聞いております。珖璉様さえよろしければ――」


「不要だ」


 突き放すような拒絶に、びくりと身体が震える。鈴花の反応に、しまったと言いたげに顔をしかめた珖璉が、あわてて柔らかな声音で謝罪する。


「すまん。その、疲れているのですぐに休みたいのだ。出迎え感謝する。だが、お前ももう休め」


 一方的に告げて踵を返そうとする珖璉の袖をはっしと掴む。


「お待ちください! 私、珖璉様にお願いしたいことがあって……っ!」


「お願い?」


 振り返った珖璉の指先が鈴花へ伸びる。長い指先が頬にふれただけで、ぱくりと鼓動が跳ねる。


「お前が願い事を言うなど、珍しいな。どうした? 何が望みだ?」


 打って変わって優しい声で珖璉が尋ねる。甘く微笑まれ、かぁっと頬が熱を持つ。


 端麗な微笑みにうっかり見惚れそうになる己を叱咤し、鈴花は真っ直ぐに珖璉を見上げた。


「わ、私を、掌服に戻していただきたいんです!」


 告げた瞬間、珖璉の手がびくりと震える。だが、必死な鈴花は気づかずに言い募った。


「禎宇さんから、新しい隠密の方が警護についてくださると聞きました! ですが、《見気の瞳》を失った私なんかに警護をつけてくださっても、もったいないだけです! それなら……っ。まだ禁呪使いが私を狙っている可能性があるなら、私をおとりとして使ってくださいっ!」


「そんなことできるはずがないだろう!」


 間髪入れず放たれた怒声に、ぎゅっと身を縮める。己の声の鋭さにひるんだように、珖璉の瞳が揺れた。


「これほど震えているのに……。囮など、できるはずがないだろう?」


 言い聞かせるように告げた珖璉の手が、頬を包む。


 珖璉の言う通りだ。また襲われるかもしれないと思うだけで、恐怖に震えが止まらない。けれど。


「でも、いま私がお役に立てることは囮くらいしかありません! 珖璉様達が禁呪使いを捕らえようとお忙しくなさっているのに、私だけが安穏あんのんと閉じこもっているなんて……っ! そんなの耐えられません!」


 「それに」と泣きたいような気持ちで珖璉を見つめる。


「そもそも私は元々、姉さんを探していただくために珖璉様にお仕えしたんです! ちゃんと約束を果たさせてくださいっ!」


「だからといって自分から囮を申し出る奴がいるか! 馬鹿者!」


 強い声で叱った珖璉が、わずかに声を落とす。


「前にも言っただろう? 菖花は『十三花茶会』が終わったら、必ず探し出してやると」


「はい、承知しております」


 珖璉の言葉がどれほど嬉しかったか、きっと告げた本人は知るまい。


 おとなしく『十三花茶会』が終わるのを待っていれば、労せず姉を捜してもらえるのに、自分から囮に志願するなんて。

 余人が見れば、なんと愚かな娘よと嘲笑するだろう。鈴花だってそう思う。けれど。


 この胸の想いを伝えられぬなら、せめて、少しだけでよいから珖璉の役に立ちたい。


「どうか、掌服に戻してください……っ」


 祈るような想いをこめて告げる。


 どうせ、禁呪使いを捕らえ、『十三花茶会』が終われば、鈴花などお役御免になるのだ。ならば、恋心が知られぬうちに、そばを離れたほうがいい。


 今ならばきっと、幸せな夢だったと忘れられる。


「……わたしは、《見気の瞳》を失ったからといって、お前を放り出す気はない。お前が囮役にならずとも、禁呪使いを見つけてみせる」


 珖璉がゆっくりと口を開く。聞いている鈴花の胸まで痛くなるような、低く苦い声。


「もう二度とお前を傷つけさせるつもりはない。それでも」


 黒曜石の瞳が、真っ直ぐに鈴花を見下ろす。

 苦しんでいるような、祈るような、そんな表情で。


「――わたしのそばから離れたいと?」


「はい……っ」


 想いを断ち切るように、ぎゅっと目を閉じて頷いた瞬間、乱暴に腕を引かれた。「ひゃっ」と声を上げた顎を掴まれ、強引に上を向かされたかと思うと。


「っ!?」


 柔らかくあたたかなものが唇をふさぐ。


 とっさに押し返そうとした抵抗を封じるように、背中に腕を回した珖璉が鈴花を引き寄せる。


 かぶりを振って逃げたくても、顎から頭の後ろへ移動した手が許してくれない。


 みつくような深いくちづけ。長い指先が髪をくだけで背中にさざなみが走り、膝からくずおれそうになる。


「んぅ……っ」


 息ができない苦しさに呻くと、ようやく珖璉の唇が離れた。


 はっ、と肌を撫でた呼気の熱さに、融けたろうのように身体から力が抜ける。


 へにゃり、と床に座り込んだ鈴花の目が捉えたのは、踵を返した珖璉の後姿と、怒りを押さえつけたような低い声だった。


「……わかった。お前がそう望むなら、掌服に戻るがいい」


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