40 覗きこむ黒い影
ぎし、と床板が
男に襲われたせいで神経が過敏になっているらしい。
寝る前には、珖璉が「決して
そう思うのに、心臓がばくばくと鳴り響いて、もう一度寝つけそうにない。
鈴花は頭までかぶっていた布団をそぅっと目元まで下げて、おそるおそるまぶたを開けた。
途端、見えたのは覗きこむ黒い影――。
「いやぁ――っ!」
自分でも驚くほどの声が喉の奥からほとばしる。
「鈴花っ!?」
乱暴に扉を開ける音と同時に、珖璉が飛び込んでくる。だが、《見気の瞳》がない鈴花には、暗闇の中でどこに珖璉がいるのかわからない。
「こ、珖璉様……っ」
潤んだ声で名を呼ぶと、駆け寄った珖璉にぎゅっと強く抱きしめられた。爽やかな香の薫りに泣きたくなるほど安堵する。
「何者だ!?」
光蟲を喚んだ珖璉が、鈴花を抱きしめたまま侵入者を振り返り。
「
泂淵の姿を見た途端、目を吊り上げた。
「夜中に寝室に忍び込むなど、何を考えている!? 鈴花は襲われたばかりなのだぞ!? 先にわたしに声をかけろ!」
「え~っ、ホントに《見気の瞳》が使えなくなったのか、確かめようと思ってさ~。無意識だったら使えるかもしれないじゃん? ってゆーかヒドくない!? 手紙をもらって、こりゃ一大事だと、ようやく時間を作って来たんだよ!?」
「どう考えても、真夜中に婦女子の部屋に忍び込んだお前が悪い」
珖璉の返事はにべもない。続いて部屋に入ってきた禎宇も、
「泂淵様……。これは誰がどう見ても、悪いのは泂淵様だと思います……」
と、困り顔で告げる。泂淵が不満そうに唇をとがらせた。
「え~っ! いーじゃん、別に
「それ以上、無駄口をきいてみろ。叩っ斬るぞ」
珖璉が
そこでようやく、鈴花は珖璉に抱きしめられたままだと気がついた。一瞬で、ぼんっと燃えるように顔が熱くなる。
「こ、こここ珖璉様っ!」
ぐいぐいと押し返すが、抱きしめた腕はまったく緩まない。
「も、もう大丈夫ですからお放しくださいっ!」
押し続けると、ようやく珖璉の腕が緩みかけた。が。
「禎宇。上衣を持ってこい」
ふたたび包み込むように抱きしめられ、思考が沸騰する。
「だ、大丈夫です! 別に寒くなんて……っ」
「年頃の娘が、夜着を晒すでない」
不機嫌極まりない声に、「それはご無礼を……」と謝りかけ、
「いえでも、人前で抱きしめるのも十分に恥ずかしいと思うんですけれど!」
と反射的に言い返す。
「夜着を見られるより、こっちのほうが恥ずかしいです! というか、珖璉様だって夜着じゃないですか!」
ぐいぐい押し返しながら抗議すると、
「男のわたしの夜着など、どうでもよい」
と
が、納得いかない。珖璉の夜着姿を見たら、宮女達が興奮してしまって大変なことになるに違いない。
いつもの隙無く凛々しい珖璉と異なり、つややかな長い髪をほどき、少し乱れた夜着を纏う珖璉は、後宮の美姫達も裸足で逃げ出すような色気を纏っていて……。
はっきり見えるようになった今、正直もういつ鼻血を噴いて気絶してしまってもおかしくない気がする。
「上衣をお持ちしました。……珖璉様。いい加減放してやらねば、鈴花がゆでだこのようになっておりますよ?」
「真っ赤に……!?」
「違いますから! 熱じゃありませんから、とにかくお放しくださいっ!」
この上さらに額をくっつけられたりしたら、本気で気絶する。早口でまくし立てると、ようやく珖璉が放してくれた。
大急ぎでお仕着せを羽織り、寝台に座り直したところで。
「で、鈴花が《気》が見えなくなったって話だけど……。ホントに見えないわけ?」
泂淵が手のひらの上に、鈴花が見たことのない蟲を召喚する。
「はい……。蟲自体は見えるんですけれど、召喚された泂淵様の《気》は見えません……。その、泂淵様が纏ってらっしゃる《気》も……」
「毒蟲がまだ身体に残ってるって可能性は?」
「わたしが直接、《気》を送り込んで滅した」
寝台の端に腰かけた珖璉が即座に答える。
「でも、毒蟲が禁呪で作られたモノの可能性もあるデショ? まあ、珖璉ならそれでも滅せられるだろうケドさ。もう一回、試しておいたら?」
泂淵に促された珖璉が、鈴花を振り返る。
熱を宿したまなざしに居心地の悪さを覚えるが、意識が
きょとんと首をかしげて珖璉を見返すと、ふいと視線を逸らされた。
「お前が帰ってから、もう一度試す」
「あと、毒蟲だけじゃなく、ふつーの毒も飲まされたんでしょ? そっちは?」
部屋の端に控えていた禎宇がてきぱきと答える。
「医師に薬湯を
禎宇と泂淵の視線を受けて、鈴花は自分の身体を見下ろした。
「おなかが痛いとか、気持ち悪いとか、特に違和感はないんですけれど……?」
ふぅむ、と泂淵が腕を組む。
「身体に異常がないんなら……。後は精神的なもの、とか? なんせ、ワタシも《見気の瞳》の持ち主に会ったのは初めてだから、今はそれくらいしか思い浮かばないんだけど……」
「精神的なもの、ですか……?」
泂淵の言葉を繰り返した鈴花は、「でも!」とぶんぶんと首を横に振る。
「珖璉様に助けていただきましたし、犯人だって捕まりましたし……っ! 毒が残っていないのなら、どうして急に《気》が見えなくなったのか、本当にわからなくて……っ」
宮女殺しの犯人はいなくなっても、禁呪使いはまだ捕まっていない。今こそ、《見気の瞳》が必要だというのに。
話しているうちに、どんどん指先の感覚がなくなっていく。
「あ、れ……?」
がくがくと身体の震えが止まらない。視界が
「鈴花」
ふわり、と爽やかな香の薫りが揺蕩う。同時に、珖璉のあたたかな身体に抱き寄せられていた。
「大丈夫だ。わたしがついている」
大きな手のひらが、強張りをほどくように背中を撫でてくれる。耳元で囁かれた声にぱくんと心臓が跳ね、全身に血が巡り始める。
「す、すすすすみませんっ! 大丈夫です!」
さっきまで凍えそうだったのが嘘のように、全身が熱い。
「もう大丈夫ですから!」
訴えると、しぶしぶといった様子で腕をほどかれる。
「うーん。精神的なものが原因っぽい気がするけど、それだと一朝一夕で治るもんじゃないだろうからなぁ。ま、禁呪の可能性もまだ捨てきれないし、明日は博青と茱栴も来させるよ。守りや癒しの術については、あの二人のほうが
泂淵の言葉に、珖璉が驚いたように目を
「お前……。一応、自覚はあったんだな……」
「まず、何よりもその点に驚きました」
禎宇も主に続いて失礼極まりないことをのたまう。泂淵が
「二人とも失礼すぎない!? ワタシのことを血も涙もない鬼畜だと思ってるだろ!? ……まあ、確かに襲われたのが《見気の瞳》を持つ鈴花じゃなかったら、ここまで親身になってなかったケドさ~」
「そういうところが人でなしだというんだ」
珖璉が呆れたように吐息する。
「も、申し訳ありません……っ! まだ、禁呪使いは捕まっていないというのに……っ」
宮女殺しの男が殺されたせいで、禁呪使いにつながる手がかりは断たれてしまった。
夕刻、珖璉と禎宇が男の部屋を調べたが、手がかりや呪具などは見つからなかったと聞いている。《見気の瞳》があれば、もしかしたら隠された呪具を見つけられたかもしれないのに。
ずきずきと胸が痛い。
故郷では「役立たず」「不気味なことを言う娘」とずっと罵られてきた。珖璉と会って、《見気の瞳》のことを教えてもらって、ようやく自分でも人並みに役に立てることがあるんだと思い始めた矢先だったのに。
その力を、失ってしまうなんて。
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