36 嫌な予感がひたひたと胸に押し寄せる
「珖璉様!」
取り乱した禎宇の声に振り返った珖璉は、血相を変えて駆けてくる忠臣の姿を見とめた。
「牡丹妃様に何事か起こったようでございます!」
昔から珖璉に仕える禎宇は、珖璉の本当の身分や玉麗が叔母であることを知っている。禎宇の言葉に珖璉は眉をひそめた。
「牡丹妃様に? 先ほど牡丹宮を辞した時には、特にお変わりはなかったが……」
「っ!? 侍女に呼ばれて牡丹宮へ行かれたのですか!?」
「いや、呼ばれてはおらぬ」
かぶりを振った珖璉の言葉に、禎宇が凍りつく。
滅多に穏やかさを失わぬ禎宇の急変に、珖璉の警戒心が反応する。
今日、禎宇は鈴花についていたはずだ。だというのに。
「鈴花はどうした?」
「それが、侍女に牡丹宮が大変なことになっているので、至急来てほしいと請われまして、侍女に鈴花のことを頼んで別れたのですが……」
話しながら、禎宇の顔から血の気が引いていく。が、珖璉はろくに見ていなかった。
「《
知っている《気》であれば、その《気》の主を追うことができる蟲を喚び出す。禁呪使いの《気》はわからぬが、鈴花の《気》ならば労もなく思い出せる。
風を斬るように飛ぶ《感気蟲》を追う。術師でないため蟲が見えぬ禎宇も、主の後を追って駆けてくる。
一歩進むたび、嫌な予感がひたひたと胸に押し寄せる。
珖璉の侍女という立場に嫉妬した誰かの悪戯ならばよい。だが――。
人気のない一画まで飛んできた《感気蟲》が、扉が開いたままの古びた蔵へ迷いなく入る。
続いて駆け込んだ珖璉が見たものは。
床に組み伏せられた鈴花と、彼女に馬乗りになって首を絞める男の姿だった。
「《
刃の羽を持つ蟲を喚び出し、男の首を
「珖璉様!」
禎宇の叫びに、わずかに冷静さを取り戻す。
《刀翅蟲》が男の背中を斬り裂き、男が悲鳴を上げて転がり落ちるように鈴花から降りた。
「鈴花!」
男が離れた途端、身体を丸め激しく咳きこむ鈴花に駆け寄り、抱き起こす。空気を求めて苦しげに喘ぐ鈴花の面輪を見ただけで、刃を差し込まれたように胸が痛む。
「む、むし、を……っ」
荒い息の中、苦しげに鈴花が呻く。視界の端で床に転がる竹筒に気がついた。
胃を
珖璉は鈴花の顎をつかみ、無我夢中でくちづけていた。
くちづけから己の《気》を送り込む。
どんな強力な《毒蟲》であろうと、鈴花を傷つけることなど許さない。即座に滅してやる。
唇を離すと、鈴花がはっ、と息を吐き出した。まだ荒いが、苦しげな表情が少し緩んだ気がする。
と、不意に腕の中の身体が重みを増した。
「おいっ!?」
気を失っただけ――。
理性ではわかっているのに、心がどうしようもなく
飲まされたのが毒蟲だけとは限らない。一刻も早く、医師に診せなくては。
気を失った鈴花を横抱きにし、立ち上がったところで、珖璉はようやく禎宇が男を縛り上げているのに気がついた。
鈴花の姿を見た途端、男のことなど頭から消し飛んでいた。
「よくもわたしの大切な侍女を傷つけてくれたな」
ほとばしる怒りのままに男を睨みつけると、「ひいぃっ!」と男が情けない悲鳴を上げた。
「ただで済むと思うな。禎宇、引っ立てろ! それとすぐに医師を呼べ!」
禎宇に命じ、
きゅっと眉を寄せた面輪を見るだけで、斬られたように胸が痛む。
自分で自分を殴ってやりたい。鈴花が襲われる事態を、予測してしかるべきだったというのに。
鈴花は侍女達の前で、玉麗に宿る銀の光を言い当ててみせた。玉麗の懐妊が広まったのならば、同時に《見気の瞳》のことも広まっていると思うべきだった。
禁呪使いにとって、《見気の瞳》を持つ鈴花は脅威に違いない。鈴花の排除に動く恐れがあったのに警戒を
鈴花を横抱きにし脇目もふらず歩む珖璉を、すれ違う宮女や宦官達が何事かと振り返っていく。だが、余人の視線に気を向ける余裕など、今はない。
私室の扉を肩で押し開け、内扉でつながった鈴花の寝室に足を踏み入れる。
壊れ物を扱うようにそっと寝台に下ろすと、鈴花がかすかな呻き声を上げた。
「鈴花」
呼んでも鈴花は苦しげに眉を寄せたまま、目を開ける気配がない。
床に膝をつき、頬にそっとふれようとして。
首に刻まれた赤い手形に気づいた瞬間、珖璉は怒りに奥歯を噛みしめた。
「《
即座に、傷を癒す力を持つ蟲を召喚する。羽も脚もない白い芋虫のような姿をした《癒蟲》が鈴花の首筋に融けるように消えていき、赤い手形がゆっくりと消えていく。
こんな手形がつくまでかよわい乙女の首を絞めるなど、言語道断だ。今からでも、あの男を怒りのままに叩っ斬ってやりたい。
血の気が引いた面輪は、いつもくるくると表情が変わる鈴花とは別人のように表情がない。《癒蟲》は怪我には効くが、毒を消すことはできない。
早く医師が来てくれと、居ても立ってもいられぬ気持ちになる。いっそのこと、代われるものなら珖璉が代わってやりたい。
鈴花が襲われている姿を見た時、一瞬で怒りで我を忘れた。
禁呪使いにつながる貴重な手がかりだというのに、禎宇が止めてくれなければ、あのまま男の首を掻き斬っていただろう。
それほど、胸を
己以外の男が鈴花にふれるなど許せぬ、と。
心の内で洩れた呟きに、珖璉は息を飲む。今、自分は何を考えたのかと。
最初は、珍しい《見気の瞳》を得られたと単純に喜んだだけだった。珖璉が官正として後宮で生き残るため、犯人を見つける手立てになればいいと。道具に等しい存在のはず、だったのに。
なんと愚かな娘だろうと呆れていた。せっかく
さらには、罪人の他人を助けるために、姉の情報を得られる機会を自ら放棄するなんて、と。
鈴花の言動はいつも突拍子がなくて、それゆえに目が離せなくて。
女人など、玉麗などのごく一部を除けば、珖璉の美貌と身分だけを見て
けれど鈴花のまなざしはいつも裏表がなく、真っ直ぐで――。
毎晩、鈴花に肩をもんでもらいながら、癒しと同時に渇きを感じていた理由が、今わかった。
自分が求めているのは――。
「鈴花……」
そっと指先で頬を辿る。
目覚めて微笑んでくれるだけでいい。そのためならば、できることは何でもする。だから。
「どうか、早く目覚めてくれ……。鈴花」
祈るように、珖璉は愛しい少女の名を呼んだ。
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