32 牡丹妃への呪い


「鈴花、頼む」


「は、はいっ!」

 私室に帰ってきた珖璉に呼ばれ、鈴花はぱたぱたと主へ駆け寄った。


 ぐったりと椅子にもたれた珖璉の面輪には、疲労の色が濃い。


 無理もない。ここ数日、朝早くから夜遅くまで休む間もなく働き通しなのだから。禎宇と朔もまだ後宮内を走り回っているのか、帰ってきていない。


 気だるげな様子の珖璉はかえって凄絶な色気を纏っていて、銀の光に包まれて薄ぼんやりとしていなければ、直視できそうにない。


 噂に伝え聞いたところによると、珖璉が歩いているだけで、色気にあてられて仕事が手につかない宮女や宦官が続出しているのだという。


「すみません……。私が迂闊うかつなことを言ってしまったせいですね……」


 いつものように珖璉の後ろに回り、肩をもみながら鈴花はうなだれた。


 申し訳なさで胸が痛い。鈴花が大勢の侍女がいる前で玉麗の懐妊を伝えてしまったせいだろう。箝口令かんこうれいが敷かれたにもかかわらず、いまや後宮中が玉麗の懐妊を知っている。


 同時に、妊娠を望まぬ者達が暗躍しているのだ。


 呪いの言葉が書かれた呪具や木簡が見つかるのはまだ可愛いほうで、昨日など食事に毒物が混入していたらしく、玉麗付きの毒見役の一人が腹痛を起こした。もし玉麗が口にしていたらと思うと、ぞっと血の気が引く。


「御子のご誕生は喜ばしいはずなのに……。牡丹妃様はどれほどおつらい思いをなさっているんでしょう……」


 一度だけ拝謁した玉麗の美しい姿を思い出しながら沈んだ声でこぼすと、珖璉が吐息した。


「皆がお前のように、ご懐妊を純粋に喜んでくれればよいのだがな……。実際にはそうもいかん。妃嬪達は皆、己の権勢を伸ばすため、しのぎを削っておるからな」


「で、ですが、《気》が宿るほど呪うなんて……っ」


 恐怖のあまり、思わず身が震える。

 報告のため珖璉の元に持ってこられた呪いの言葉が刻まれた物の半分近くが、うっすらと薄墨色の《気》を放っていたのだ。


 常人が《気》を放つことがほとんどない。だが、強い感情に支配された時だけは、薄く色を纏うのだ。


 薄墨色の《気》は、怒りや嫉妬といった負の感情が凝り固まったものに他ならない。


「鈴花……」

 不意に、珖璉が肩をもんでいた手を掴む。


 鈴花の恐怖を融かすかのような、あたたかくて力強い手のひら。

 ほっとすると同時に涙がにじみそうになる。が、これでは肩がもめない。


「こ、珖璉様……っ」

 おろおろと声を上げると、ぐっと珖璉の手に力がこもった。


「泣いているのか?」

 椅子を引いた珖璉が身体ごと振り返る。


「その……っ」


 掴まれていないほうの手で顔を隠して退こうとしたが、珖璉が腕を引くほうが早かった。


「ひゃっ!?」


 よろめいた身体が椅子にぶつかる前に、立ち上がった珖璉に抱きとめられる。ふわりと爽やかな香の薫りが揺蕩った。


「あの……っ!?」


 鈴花の声を無視して、珖璉の手が伸ばされる。


 目の端ににじんでいた涙を、長い指先が優しくぬぐう。そのまま大きな手のひらが頬を包み、そっと上を向かされた。


 鈴花を真っ直ぐに見つめる黒曜石の瞳と、ぱちりと目が合う。鈴花には読み取れぬ不可思議な熱を宿したまなざし。


 珖璉の指先が頬から顎へとすべり、くいと持ち上げ――。


「珖璉様。いらっしゃいますか?」


 扉を叩く音と同時に聞こえた博青の声に、珖璉が我に返ったように動きを止めた。


「何用だ?」


 さっと身を翻した珖璉が扉へ歩み寄りながら応じると、「失礼いたします」と博青が入ってきた。


「また呪具が見つかりまして……」


「っ!」

 博青が差し出した物を見た途端、鈴花は息を飲む。


 それは、玉麗を模したとおぼしき、高さ七寸ほどの木彫りの人形だった。血文字だろうか、赤黒い字で「淫婦死すべし」と前面に大きく書かれ、腹部には五寸釘が裏まで貫きそうなほど深く刺さっている。


 深い憎悪がそのまま形を成したかのような呪具に、震えが止まらなくなる。


「そ、それ! よくないモノです……っ!」


 たまらず声を上げる。人を呪う物がよいものであるはずがないが、それだけでなく。


 人形からのぼる薄墨色の《気》が、まるで獲物を探す蛇のようにゆらゆらと揺らめいている。


 鈴花を見た博青が、やはりと言いたげに頷いた。


「よほど強い感情がこめられているのでしょう。これが埋められていた場所に、小さな《蟲》が集まっておりまして……。放っておいてはますます蟲を集め、疫病発生の原因になるのではないかと思い、すぐに掘り出してお持ちしたのです」


 博青の説明によると、《蟲》が人にとりつくことによって、病になる場合があるのだという。そして、人に害をなす《蟲》は、負の感情にひかれて、術師の手によらず勝手に界を渡って湧き出てくるのだと。《蟲》があまりに多く集まると、疫病が発生する場合もあるという。


「蘭妃様がご懐妊なさった時も後宮が荒れたが……。今回はその比ではないな」

 嘆息した珖璉が、博青から受け取った人形を右手で握る。


「滅せよ」


 珖璉が呟くと、銀の《気》が炎のように揺らめき人形に宿っていた《気》が霧散した。


「どうだ、鈴花?」


「はいっ、もう薄墨色の《気》は見えません!」


 こくこくと頷くと、珖璉が「後の始末はおぬしに任せる」と博青に人形を返す。


「しかし……。これでは牡丹妃様の身が心配だ。心根のしなやかな御方でいらっしゃるが、こうも敵意を向けられては……。心より先に、身体がまいってしまうやもしれん。今は大切な時期だというのに……」


 珖璉が無力を嘆くかのように拳を握りしめる。


「わたし自身がずっと牡丹妃様についているわけにはいかぬ」


 珖璉の声は地に沈みそうなほど低く、苦い。珖璉達を嘲笑あざわうかのように、二日前にも宮女がまた一人、殺されている。


 珖璉や禎宇が休む暇もないのは、ただでさえ『十三花茶会』の前で忙しい上に、宮女殺しの犯人捜しに加え、ここ最近は玉麗を害そうとする不埒者の取り締まりまでしなければならないためだ。


「博青。茱栴しゅせんを……」


「差し出がましいことを申し上げるのは恐縮ですが……」

 何やら言いかけた珖璉を遮って、博青がかぶりを振る。


「牡丹妃様のご懐妊により、蘭妃様はひどくお心を乱されておられるようでございます。己の流産は牡丹妃様の陰謀だと断じ、証拠を探してくるよう、毎日侍女達を責め立てているとか……」


 妃嬪への遠慮ゆえか言葉こそ控えめだが、博青の表情も声音も、それ以上のものを感じさせる。


 引き寄せられるように鈴花は博青が持つ呪いの人形を見つめた。


 もしかしたらこれは、蘭妃が指示したものかもしれない。


「蘭妃様は、茶会の主催と懐妊を機に牡丹妃様が一気に皇后の座に昇りつめようとしていると、疑心暗鬼に囚われていらっしゃいます。いま茱栴を蘭妃様から外し、牡丹妃様付きにすれば……」


「……手に負えなくなるに違いない、か」


 苦い声で呟いた珖璉に、博青が無言で、だがきっぱりと頷く。


「わかった。残念だが、茱栴は茶会が終わるまでは蘭妃様につけておくのが無難であろうな」


「はい……。茱栴も苦労しているようでございます」

 博青が同情を隠さぬ声音で頷く。


 鈴花は、珖璉に仕えることになった翌朝に一度会ったきりの美しい女性術師を思い出す。あの時も巻物を抱えてあわただしく退室していたが、蘭妃はかなり厳しい主人なのだろう。


 厳しいながら、決して無体な要求はしない珖璉に仕えられた幸運に、今さらながら感謝する。


「わかった。もう下がってよい。今宵も見回りをしていたのだろう? あまり無理をするでないぞ。お前も大切な宮廷術師なのだからな」


「ありがたいお言葉でございます。ですが、わたしが今できるのは、この程度ですので……。またご指示がありましたら、何なりとお申しつけください」


 恭しく一礼した博青が退室する。扉が閉まると同時に、珖璉が心の底からの嘆息を吐き出した。


「まったく……。思うようにならぬことばかりだな……」


 鉛のような疲労をにじませる珖璉の姿に、鈴花の心まで締めつけられる。


 何か、少しでも珖璉の役に立てることはないだろうか。


 役立たずの鈴花にできるなど、限られている。それでも、わずかなりとも珖璉のためにできることはないかと、知恵を絞り――。


「あ、あのっ、珖璉様! 寝室へまいりませんか!?」


 ありったけの勇気を振り絞って告げると、珖璉が目をむいた。


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