31 皇帝の疑心


 牡丹宮を辞して私室へと歩きながら、珖璉は無意識に深い溜息を吐き出した。桃の花の薫りをかすかに乗せた夜風が、嘆息を吹き散らしていく。


 耳の奥で渦を巻いて巡るのは、揶揄やゆするような皇帝の声だ。


「玉麗が男児を産めば、おぬしも、後宮から出られるやもしれんな、龍璉りゅうれん


 鎖に繋がれ、飢えた犬の前でえさをちらつかせるような皇帝の表情が、頭から離れない。


「表にいようと後宮にいようと、わたくしの務めはただひとつ。身を粉にして至上の御方にお仕えするだけでございます」


 こうべを垂れた己の声は、真摯しんしに聞こえただろうか。ささいなことで皇帝の猜疑心さいぎしんを買うような事態は御免こうむりたい。


 今宵、皇帝が牡丹宮を訪れた理由は、医師の診察を受けて懐妊が明らかになった玉麗をねぎらうためだ。


 そこに珖璉を呼んだのは、『昇龍の儀』を前に、珖璉に釘を刺しておきたかったからだろう。 


「懐妊した玉麗に負担がかかっては困る。『十三花茶会』までには、後宮内に平穏を取り戻してほしいものだな」


 絶大な権力を持つ皇帝にとっては、宮女の命など塵芥ちりあくたと同じ。

 だが、それが寵妃に影響を及ぼすとなれば、捨ておけぬのだろう。


「お前とて、心おきなく『昇龍の儀』に参加したいだろう? 本来の身に戻れる数少ない機会だからな。――龍璉」


 いたぶるように秘められた名を呼ばう皇帝に、珖璉は、


「我が身の不徳を恥じ入るばかりでございます。なにとぞ、今しばらくのご猶予ゆうよをくださいませ」


 と詫びることしかできなかった。実際、宮女殺しの犯人の手がかりはないに等しいのだ。


「陛下。珖璉はしっかり働いてくれておりますわ」

 と庇ってくれたのは玉麗だ。


「たった一人の甥が可愛いのはわかりますが、わたくしもかまってくださいませ。今宵はわたくしの御子のために来てくださったと思っておりましたのに……。珖璉ばかりかまわれていては、寂しゅうございますわ」


 ねたように唇をとがらせ、皇帝の腕に手を絡めて気を引く玉麗に、珖璉は心から感謝した。


 珖璉は皇位など望んでいないというのに、ありもしない二心ふたごころを疑われ続けるのは心ががれていく心地がする。


「はっ、可愛いか。大の男を評する言葉ではないな」


「まあ。では、女であるわたくしでしたら、陛下に可愛いと評していただけるのでしょうか?」


 皇帝へ向けた玉麗の笑顔は彼女を昔から知る珖璉でさえ、思わず見惚れるようなあでやかさだ。


「当たり前だろう? でなければこうして訪れぬ。珖璉、もう下がってよいぞ」


 用は済んだとばかりに手を払われ、こうして牡丹宮を辞して私室へと戻っているのだが。


 未だに手がかりひとつ掴めぬ下手人のことを思うと、嘆息しか出てこない。


 襲われた宮女に共通点があるのではないかと調べたが、所属も年齢もばらばら、目についた者を手にかけたとしか思えない状況だ。


 『十三花茶会』が近いため風紀を乱さぬようにと、宮女や宦官が夜間に出歩かぬよう通達を出し、同時に警備兵も増やしてはいるが、なんせ後宮はひとつの町ほどの規模がある上に、建物や茂みも多く、死角が多い。目撃者の情報も、未だにひとつも得られていない。


 だが、《見気の瞳》を得られたのは僥倖ぎょうこうだ。


 犯人はこちらに《見気の瞳》があるとは知らぬだろう。しかも、玉麗の懐妊に誰よりも早く気づいたように、鈴花の瞳は思いがけぬものまで見えるらしい。


 鈴花をうまく活用すれば、きっと犯人を見つけられるだろう。いや、必ず捕らえてみせる。


 皇帝への拝謁で疲労した心を奮い立たせ、私室の扉を開けると、「お帰りなさいませ!」と珖璉の帰りを待っていたらしい鈴花が出迎えてくれた。


 ぱたぱたと駆け寄ってきた鈴花が、じっと珖璉を見上げて小首をかしげる。


「あのぅ、お疲れでいらっしゃいますか? このところずっと働き通しで、あまり休まれてらっしゃらないのでは……?」


「ああ、まあな……」


 鈴花からそんなことを問われるとは思わず、戸惑いながら頷く。


 禎宇と朔は忠臣だが、珖璉が無理をしている時は、無理をしなければならないだけの理由があると承知しているため、よほどのことがない限り尋ねてこない。その代わり、影に日向に珖璉を支えてくれる。


 というか、鈴花にもわかるほど疲れた顔をしていたのか。私室に戻って気が抜けたのかもしれない。


「あ、あの……っ!」

 珖璉を見上げていた鈴花が、やけに気負った様子で口を開く。


「よ、よろしければ、肩をおもみしましょうか……っ!?」


「……肩?」


 思いがけない申し出に呆気あっけに取られて呟くと、鈴花がわたわたと両手を上げ下げした。


「こ、珖璉様はいつも夜遅くまで書類仕事をなさってらっしゃるでしょう!? なので肩がってらっしゃるんじゃないかと……っ! わ、私、肩もみだけは、姉さんにも褒めてもらってて……。だからえーっと……。あっ、でも私などがお肩にふれるなんて、不敬ですよね……っ!?」


「肩もみか。たまにはよいかもしれんな」


「えっ!?」

 頷くと、鈴花のつぶらな瞳がこぼれんばかりに見開かれた。


「よ、よろしいんですか!?」


「うん? お前から言い出したのだろう? それとも、してくれぬのか?」


「いえっ、いたします! させてくださいっ!」


 珖璉にこびを売り、取り入ろうとする宮女などに肩をもんでほしいとは欠片も思わない。が、純粋に珖璉を心配してくれている鈴花なら、むしろ望むところだ。


「では、こちらにいらしてください」

 鈴花に言われるまま、椅子に座ると、


「失礼いたしますね……」


 と背中に回った鈴花の手が肩に置かれた。かと思うと、ぐっぐっ、と肩をもまれる。


 心地よさに思わず声を洩らすと、ぱっと鈴花の手が離れた。


「すみませんっ! 痛かったですか!?」


「いや、大丈夫だ。続けてくれるか?」


「は、はい……」

 おずおずとふたたびもみ始めた鈴花が、驚きの声を上げる。


「珖璉様! 肩ががっちがちですよ!?」


「そうなのか?」


「そうなのかじゃありませんっ! こんなに凝ってらしたら、寝てもろくに疲れがとれないのではないですか?」


 ぽんぽんと言いながらも鈴花の手は止まらない。気遣いといわたりに満ちた手が、肩だけでなく心までほぐしていくようだ。気を抜くと睡魔に襲われそうになる。


 あくびを噛み殺すと、


「そんなに疲れてらっしゃるなんて……。今日はお帰りも遅かったですし、何かあったんですか?」

 と遠慮がちに問われた。


「ああ。今宵は皇帝陛下が牡丹妃に会いに来られていてな。茶会までに、なんとしても宮女殺しの犯人を捕らえよと……」


 話すつもりのなかった言葉が、するりとこぼれ出る。案の定、鈴花が「ひぇっ!」と悲鳴を上げた。


「そ、それは疲労困憊ひろうこんぱいしちゃいますね……。私だったら、恐れ多くて気絶しちゃいそうです……っ」


 まるで幽霊でも怖がっているような口ぶりに、思わず笑みがこぼれる。


 お前がいま肩をもんでいるのは恐ろしがっている皇帝陛下の甥だぞ、と鈴花を驚かせてみたい悪戯心が湧き、すぐさま己を叱咤する。


 身分を明かすことなど、決してできぬというのに。どうやら本当に疲れているらしい。


「あの、泂淵様にご助力を願うことはできないんですか……?」


 珖璉の沈黙をどう受け取ったのか、鈴花がおずおずと提案する。


 ちなみに、泂淵からは三日前に手紙が来ている。「鈴花が見たってゆー黒いもやだけど、間違いなく、人の命をかてにした禁呪だろーね。そーゆー禁呪は種類がありすぎて、特定はできないけど……。せめて、これ以上は被害者を出さないようにするのがいいと思うよ? っていうかさ、鈴花はどうしてるの!? 珖璉だけ独占しててズルイ! 『昇龍の儀』の準備がなければ、ワタシだって後宮に入り浸るのにさ! 鈴花でイロイロ遊びた――い!」と前半はともかく、後半はひたすら蛇足だった。


「確かに、泂淵は人格はともかく、術師としては一流だからな。助力を得られれば心強いが、筆頭宮廷術師として『昇龍の儀』の準備をないがしろにはできん」


「そうなんですね……」

 背後にいる鈴花の声がしゅんと沈む。


「まあ、お前をえさにすれば来るだろうが……」


 取りなすように告げた途端、なぜか、もやりとした感情が胸の奥にわきあがる。


「珖璉様?」


「いや……。今日はここまででよい。おかげで少し疲れが癒された気がする」

 かぶりを振って鈴花を振り向く。


「また、頼めるか?」


「はいっ、もちろんです! 珖璉様のお役に立てるなんて……。嬉しいです!」

 花が咲くような満面の笑みで頷いた鈴花が、あわてて言い足す。


「あっ、もちろん、禁呪使いを捜すのも頑張りますから……っ」


「ああ、頼んだぞ」

 無意識に手を伸ばし、鈴花の頭を撫でる。


「はぇっ!?」


 途端、鈴花からすっとんきょうな声が上がって、珖璉は思わず吹き出した。


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