30 まさか、牡丹宮に招かれるなんて


 華やかな牡丹宮の応接間で、全身に冷や汗をにじませながらひざまずいてこうべを垂れる鈴花は、未だに状況を把握できていなかった。


 いったいこれは、どういうことなのだろう。二日前の偶然の出会いを除けば、中級妃にすら拝謁したことのない鈴花が、まさか四妃の一人である牡丹妃の宮に招かれるなんて。


「ほ、本日は牡丹妃様に拝謁の栄誉を賜り、恐悦至ぎょっ!」


 死ぬ気で覚えろと珖璉に叩き込まれた挨拶の途中で舌を噛み、痛みに呻く。


「ひょ、ひょうえつしぎょくにぞんじまふ……っ」


 不明瞭になりつつも痛みをこらえて口上を言い切ると、周りに控える侍女達から失笑が洩れた。


 恥ずかしいやら情けないやらで、かぁっと頬が熱くなる。やっぱり、鈴花などがこんな華やかな場所に来るなんて、身の程知らずだったのだ。


 だが牡丹妃・玉麗は鈴花のしどろもどろな挨拶を意に介した様子もなく、


「あなたが鈴花ね。来てくれて嬉しいわ」

 と何やら上機嫌だ。


「珖璉は上役としてどうかしら? 厳しくて毎日泣いているのではない?」


「と、とんでもございませんっ!」


 玉麗のご下問に、鈴花は顔を伏せたまま、ぶんぶんと首を横に振る。


「珖璉様はとてもお優しいです! 道に迷ったら引き戻してくださいますし、わからぬことは教えてくださいますし、それにえっと……っ。あっ、おいしいお菓子をくださいますっ!」


 気合をこめて珖璉の素晴らしさをたたえたのに、なぜか玉麗に吹き出された。


「……わたしの一番の価値は菓子なのか?」


 憮然ぶぜんとした珖璉の声に、失敗したのだと気づく。心なしか、周りにいる侍女達の視線の圧が高まった気がする。


「あのっ、えっと……っ」


 頭が真っ白になって何も思い浮かばない。こいみたいに口をぱくぱくさせていると。


「ふふっ、なんて楽しい子かしら! わたくしが侍女として側に置きたいくらいだわ!」


 玉麗がころころと鈴が転がるような笑い声を上げる。


「恐れながら、おやめになられたほうが賢明かと。牡丹宮の品位が一気に下落してしまいます」


 真面目くさった声で進言した珖璉に、玉麗がさらに笑う。


「大丈夫よ。無理やり召し上げたりしないから安心なさい」

「いえ、わたしがご心配申しあげているのは、牡丹妃様で……」


 珖璉の言葉を軽やかに無視した玉麗が、「鈴花」と呼びかける。


おもてを上げることを許します」


「は、はいっ! ありがとうございます!」


 さらに深く頭を下げてから、そろそろと顔を上げる。


 一段高く設えられた壇に置かれた椅子に、優雅に座していたのは、天上の仙女もかくやというたおやかな美女だった。


 珖璉を除けば、こんなに美しい方は見たことがない。いや、珖璉のように薄ぼんやりとしておらず、はっきり見える分、玉麗に軍配が上がる。


 玉麗がいるだけで、部屋の中に光が満ち、かぐわしい薫りが広がってゆくような気がする。


 不敬だとわかっているのに、目が離せない。

 だが、何より鈴花の目を捕らえたのは。


「どうしたの?」

 くすくすと笑いながら玉麗が尋ねる。


「牡丹妃のお美しさに、驚嘆しているだけでしょう」

 すげなく珖璉が応じるが、玉麗は納得しない。


「あら。そんな様子ではないようだけれど……。鈴花、どうしたの? 言ってごらんなさい」


「いえっ、あの……っ」


 どうすればよいかわからない。

 すがるように隣でひざまずく珖璉を見つめると、


「……牡丹妃のご下問だ。失礼のないよう、重々気をつけてお答えせよ」

 と諦めた様子で促された。


「その……っ」

 珖璉に背中を押され、玉麗に視線を戻す。


 やっぱり見間違いではない。優雅に座る玉麗の中に。


「ぼ、牡丹妃様のお腹に、かすかな光が宿っているのが見えます……っ」


 告げた瞬間、珖璉と玉麗が同時に息を飲んだ。玉麗が白い繊手せんしゅで己の腹部を押さえる。


「光の色はわかるか!?」

 噛みつくように問うたのは珖璉だ。


「ぎ、銀色の光です……っ」


 うっかり「珖璉様と同じ」と続けそうになり、あわてて口をつぐむ。


「まさか……。わたくし自身も自覚はないというのに……。鈴花! 偽りではないのですね!?」


 玉麗がお腹を押さえたまま、身を乗り出して問う。偽りは許さぬと詰め寄るような迫力に気圧けおされ、鈴花はこくこくと頷いた。


「は、はいっ! まだ小さく弱々しい光ですが、確かに……っ!」


 術師ではない玉麗からは《気》の色は見えない。ということは、銀色の《気》はお腹の子どもが放つ《気》に違いない。


 だが、なぜ珖璉と同じ銀色の光なのだろう。宦官である珖璉が子どもをすなど、ありえないのに。


 それとも、狭い村で暮らしていた鈴花が知らないだけで、銀の《気》を持つ者は何人もいるのだろうか。確かに、後宮に来て珖璉の侍女になってからというもの、今まで想像もしなかったことばかり起こっている。


 が、今の状況は疑問を口に出せる雰囲気ではない。


 玉麗が感嘆とも呆れともつかぬ吐息をこぼす。


「あなたが侍女にするだけあって、本当に思いもかけない事態を引き起こす子ね。――珖璉」


 玉麗の呼びかけに、珖璉がさっと一礼する。


「はっ、ただちに医師を手配いたします」


「ええ、お願い。それと……」


「存じております。このことは、他言無用でございますね」


 打てば響くように応じた珖璉の声は、緊張をはらんでひどく硬い。

 珖璉が立ち上がったのを皮切りに、周りの侍女達があわただしく動き出す。


「行くぞ、鈴花」


「は、はいっ」

 珖璉に促され立ち上がろうとした鈴花は、玉麗に呼び止められた。


 顔を上げた鈴花と玉麗の視線がぱちりと合う。幸福に光り輝く玉麗の面輪は、同性の鈴花ですら思わず見惚れるほど美しかった。


 愛おしげに腹部に手を当てながら、玉麗が花のように微笑む。


「教えてくれて、ありがとう。感謝します」


「も、もったいないお言葉でございますっ」

 一瞬で頬が熱くなり、目の前がくらくらする。


 まさか、鈴花などが、雲の上にも等しい存在の牡丹妃に礼を言ってもらうなんて。


「おいっ!?」

 ふらついたところを珖璉に腕を掴まれる。


「急にどうした!?」


「ぼ、ぼぼぼ……っ、牡丹妃様がお美しすぎて、感動で……っ」


 やっぱりこれは夢なのではなかろうか。それにしては、珖璉の腕がやけに力強い気がするが。


「……今頃か?」

 珖璉の呆れ声に、玉麗の笑い声が重なる。


「本当に楽しい子だこと。鈴花、今日のお礼に後であなたにお菓子を届けさせましょうね」


「えっ!? よろしいんですか!? ありがとうございますっ!」


 深々と頭を下げると、玉麗が吹き出した。


「ころころと表情が変わる子ねぇ。これは、珖璉が可愛がる気持ちもわかる気がするわ」


「お言葉ですが、わたしは鈴花を可愛がったことなどありません」


 間髪入れず、珖璉が憮然ぶぜんとした声で抗議する。


「あら……。では、今はそういうことにしておきましょうか」


 楽しくてたまらないとばかりに優雅に笑む玉麗に見送られ、鈴花は腕を放した珖璉の後について牡丹宮を出た。



 塵ひとつなく掃き清められた石畳を進み、牡丹宮から離れたところで、鈴花は今さらながら不安に襲われ、珖璉の凛々しい後ろ姿を見上げておずおずと尋ねる。


「あの、珖璉様……。わ、私、もしかしてとんでもないことを口にしてしまったんでしょうか……?」


 妃嬪の懐妊が後宮の一大事だというのは、鈴花でもわかる。

 にもかかわらず、雰囲気に飲まれて考えなしに口にしてしまった。


 不安を隠さず問うた鈴花に、珖璉が重々しく頷く。


「今回のことが広まれば、後宮に大きな動きが起こるのは確かだろう。だが」


 息を飲んだ鈴花をあやすように、珖璉の大きな手が鈴花の頭を撫でる。


「お前は牡丹妃様のご下問に答えただけだ。責任を感じる必要はない。なにより、早めに知れたのは、牡丹妃様にとってもよいことだ。茶会の主催ゆえ、お忙しくなさっていたが、さすがにお身体をいたわられるだろうからな」


 玉麗を案じる珖璉の表情は、別人のように優しい。


 鈴花の頭を撫でる手は不安を融かすかのようだ。わけもなく鼓動が速くなり、鈴花は熱を帯びてきた顔を見られまいと下を向く。


 鈴花を慰める手のひらが優しいのは、玉麗を思いやる気持ちの欠片がうつったからだろう。心臓がぱくぱくと高鳴っているのも、姉以外に頭を撫でられた経験がないからだ。


 ましてや珖璉は本来なら鈴花などが仕えられない高位の官職なのだから、緊張してしまうのも当然だ。


「どうかしたのか?」


「い、いえっ、珖璉様にそう言っていただいて安心しました! ありがとうございますっ」


 いぶかしげな珖璉の声に、鈴花は礼を言ってさらに深く頭を下げた。




 だが。

 珖璉が箝口令かんこうれいを敷いたにもかかわらず。


 「牡丹妃、ご懐妊」の報は、燎原りょうげんに放たれた火のように、一夜にして後宮中に知れ渡っていた。


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