26 秘められた本当の名


「……ですが、「龍璉りゅうれん」であれば、このように隣り合って座ることすら、叶わぬでしょう?」


 侍女頭が諦め顔で何も注意しないのをいいことに、ここぞとばかりに腕を絡ませてもたれてくる玉麗に、珖璉は余人には決して聞かせられぬ名を紡ぐ。


 珖璉の本当の名は「龍璉りゅうれん」だ。


 龍華国において、皇族の男性のみに許された「龍」の字を冠する名。


 珖璉の母は皇帝の姉だ。そして、皇帝の甥である珖璉は、皇帝に子がいない現在、唯一の皇位継承者でもある。


 本来ならば王城で数多あまたの者にかしずかれ、皇帝の補佐をするべき珖璉が、身分を隠し、官正として後宮勤めをしているのは――ひとえに、皇位を狙う野心はないと、行動でもって皇帝に示すためだ。


 そもそもの原因は、珖璉の祖父であり玉麗の父でもある大臣が、己の血を引く男子に皇位を継がせたいという野望に囚われたことに始まる。


 手始めに祖父は、美貌の息子を皇帝の姉とめあわせた。それにより生まれたのが龍璉だ。


 玉麗が後宮へ入ったのも、祖父の差し金に他ならない。


 だが、強力な外戚がいせきまつりごとを乱す事態を懸念した皇帝は、皇太子の不在を案じる高官達の再三の勧めにも、「御子ならば、これから何人も生まれるであろう」と、決して龍璉を皇太子として立てようとはしなかった。翠蘭の流産が起こるまで、玉麗に深い寵愛を与えることがなかったのも、大臣を警戒したためだ。


 珖璉自身、祖父のこまになる気など毛頭ない。


 だが、皇帝を除けば唯一の男性皇族であり、《龍》を喚ぶことのできる龍璉を、周りが放っておくはずがない。


 兄皇子達との政争を勝ち抜き、皇位を手にした皇帝は、有能であると同時に非情でもある。


 龍璉の存在が皇位をおびやかすと判断すれば、甥であろうともためらわずに粛清するだろう。


 そうならぬために珖璉が選んだ道が、身分を偽り、決して表舞台に出ることはない後宮の役人として皇帝に仕え、働きをもって忠誠を示すことだった。


 何より、後宮ならば、龍璉を己の野望の道具としか見ていない祖父の手からも逃れられる。


 表向きには、龍璉は《龍》を喚び出す力こそ発現したものの、《龍》の強大な力に身体が耐えられず、公務につくことも叶わず屋敷の奥深くで静養中ということになっている。


 龍璉が人前に姿を現すのは年に一度、『昇龍の儀』において皇帝とともに露台に立ち、民衆の前で《龍》を喚び出す時だけだ。


 いっそのこと『昇龍の儀』に出ずに済むのなら、龍璉に取り入ろうとする者も減るだろうに、民に龍華国の繁栄を安寧を信じさせるためには、たとえ張りぼてのお飾りといえども、皇位継承者の存在を示さねばならぬらしい。


 珖璉自身は皇太子になりたいわけではない。皇位を欲してもいない。


 だが、表舞台で己の力を試すことすら許されず、ただ皇子が生まれるまでの中継ぎとして、飼い殺しにされている現状は……。


 不本意以外の、何物でもない。


 珖璉は己の隣でにこやかに笑う玉麗を見やる。玉麗が後宮に入ってから早三年。大臣の野望のせいで、上級妃として入ったにもかかわらず、なかなか皇帝のお渡りのない不遇をかこっていたはずなのに、玉麗からは暗い過去は微塵みじんも感じられない。


 翠蘭すいらんの流産がきっかけだったにせよ、現在、玉麗が皇帝の寵愛を独占しているのは、彼女自身が持つしなやかさが皇帝を魅了したからなのだろう。


 甥として、また幼い頃は姉弟のように過ごしてきた者として、玉麗が幸せを掴むのは素直に嬉しい。


 何より、玉麗ほど皇后にふさわしい女人を、珖璉は他に知らない。玉麗ならば、いつかきっと皇后として立后するだろう。そして、皇帝を補佐し、龍華国をさらなる繁栄に導いてくれるに違いない。


 だが。


 幸せを願うと同時に、陽の当たる場所を歩む玉麗への嫉妬が、胸の奥できしむようにうずく。


「珖璉? 難しい顔をしてどうしたの?」


 玉麗の声に、珖璉は思惑しわくの海から浮上する。敬愛する彼女に、嫉妬を覚えていたなど知られたくない。


「いえ、盗難事件は解決したものの、宮女殺しのほうは未だ五里霧中……。なんとしても、『十三花茶会』の前に解決せねばと考えておりました」


 殺人事件も盗難事件も、箝口令かんこうれいを敷いている。だが、玉麗にだけはさくに文を託し、事件のあらましを密かに伝えていた。妃嬪の情報は、同じ妃嬪である玉麗のほうが得やすいので、情報を流してもらうためだ。


 殺人犯の真意はわからぬが、『十三花茶会』が迫る中、殺人を繰り返しているということは、茶会の妨害が狙いに違いない。


 だが、上級妃である玉麗の力をもってしても、今のところ有用な情報は集まっていない。


 今年の主催は玉麗だ。茶会が成功すれば玉麗の権勢は高まるが、不手際があれば失墜につながる。


 他の妃嬪は全員、皇帝の玉麗への寵愛を苦々しく思っていることだろう。つまり、容疑者は数え切れぬほどいるわけだ。


「盗難事件の犯人だって捕らえられたのだもの。遠からず殺人犯も捕らえられるに違いないわ。あなたが幼い頃から優秀なのは、よく知っているもの」


 信頼に満ちたまなざしで玉麗が珖璉を見上げる。


「実は……」


 珖璉は鈴花の《見気の瞳》のことを、手短に説明した。


「あら。あなたが初めて侍女を置いたというから、どんな理由かとわくわくしていたのに」


 聞き終えた玉麗が、つまらなさそうに唇をとがらせる。


「《見気の瞳》がなければ、下級宮女を侍女として召し上げたりなどしませんよ。使いに出れば迷子になって帰ってこないわ、思いがけぬ言動を取るわ、まったく手のかかる……。あなたに迷惑をかけたくはありませんが、不慮の事態が起こった際はご容赦ください」


 むろん、そんな事態を引き起こす気はないが、なんせ相手はあの鈴花だ。いったい何をしでかすのか、珖璉にも読めない。


「さあ……。どうしようかしら?」


 玉麗が思わせぶりに唇を吊り上げる。


「あなたの頼みだけれど、引き受けるかどうかは……。その鈴花とやらを実際に見てから決めましょうか」


 うきうきと楽しげに告げられ、絶句する。


「本気ですか!? 鈴花はとてもではありませんが、玉麗様の御前に連れてこられるような礼儀作法は備えておりません。どんな失礼を働くことか……っ!」


 必死で言い募る珖璉に、玉麗は何が楽しいのか鈴を転がすような笑い声を上げる。


「いいのよ。わたくしが会ってみたいのだもの。礼儀作法なんて気にしなくてよいわ。いつも冷静沈着なあなたにそんな顔をさせるなんて……。どんな子なのかしら! 今から楽しみだわ!」


 珖璉は思わず憮然ぶぜんと己の顔に片手をやる。いったい何がこれほど玉麗を喜ばせているのか、さっぱりわからない。


 ただひとつはっきりしているのは、こうなった玉麗は絶対に言を翻したりしないということだ。


「……わかりました。近いうちに、鈴花を連れてまいります……」


 鈴花のことを話したのは失敗だったかもしれないと悔やむが、今さらなかったことにはできない。


 珖璉は嘆息とともに玉麗に請け負った。


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