27 かすかに聞こえた子守唄
姉の優しい声が紡ぐ子守唄がかすかに聞こえた気がして、茂みの陰から通り過ぎていく宮女や宦官達を観察していた鈴花は、耳をそばだてた。
幻聴だろうか。後宮に入ってから子守唄なんて聞いたことがない。皇帝には、未だに御子が生まれていないのだから。
だが、幻ではなく、かすかな歌声は確かに聞こえてくる。
姉によく似た――慈しみに満ちた優しい声。まだ鈴花が小さい頃、夜ひとつの布団に一緒にくっついて寝ながら歌ってくれた子守唄だ。
「朔さん、いますか……?」
鈴花をここまで連れてきてくれた少年の名をそっと呼んでみるが、返事はない。
今日は珖璉が盗品の返却のために各妃嬪の宮を回っており、禎宇も別の用事があるということで、宦官の格好をした朔にここまで連れてきてもらった。
「ったく、珖璉様の頼みじゃなかったら、なんでこんな奴を……。違う! そっちじゃない! おいっ、ほんとに頭がついてるか!?」
と、文句を言いながらも、宦官達がよく行き来するという広い通路の近くまで案内してくれた朔は、
「また宮女に絡まれたら面倒だし、この木陰から怪しい奴を探せば? 言っとくけど俺は頼まれても助けないからね! 俺だって、いろいろ調べなきゃいけないことがあるんだから。動かなければ、さすがに迷子にもならないだろ?」
と一方的に告げると、さっさとどこかに行ってしまった。
呼んでも反応がないなら、そばにいないのだろう。
どうしよう、と迷う。来る道すがらも、
「俺は目立つわけにはいかないのに、なんでこいつのお守りなんかを……。いいか!? 《見気の瞳》のおかげで、非の打ちどころのない珖璉様にお仕えできるという幸運に恵まれたんだからな!? そこんところを勘違いするなよ!? でなかったらお前みたいな間抜けが珖璉様の侍女になれるはずがないんだからな!? ご恩を感じてるんなら、目を皿のようにして怪しい奴を見つけろよ!」
と、大いに叱咤激励されたのだ。勝手に持ち場を離れたと知ったら、きっと怒るに違いない。けれど。
(姉さんの声に、すごく似てる……)
そう思うだけで、居ても立ってもいられなくなる。
もし本当に菖花だとしたら、一生悔やんでも悔やみきれない。
(ちょっとだけ……。歌っているのが誰か確認して、すぐに戻ってくれば……)
ぐずぐずしている間に去られたら大変だ。焦燥に
かすかに聞こえる歌声を頼りに、茂みの間を通り過ぎ。
「あの……っ!」
ゆっくりと歩く若い女人の後姿を見つけた鈴花は、大声で呼び止めた。
「なぁに?」
おっとりとした口調で女人が振り返る。
その面輪は――髪飾りから垂れる薄い紗によって、隠されていた。
「どうしたの?」
「あ、あの……っ、し、失礼いたしました!」
呆然と女人を見つめていた鈴花は、声をかけられ、あわててひざまずいて
女人が纏っているのは美しい絹の衣だ。おそらく、どこかの宮の妃嬪がお忍びで散策しているに違いない。
「き、綺麗なお声の子守唄が聞こえたので、いったいどなたが歌ってらっしゃるのかと思いまして……っ」
妃嬪の不興を買ったのではないかという焦りに、あわあわと言を紡ぐ。
声はそっくりだが、彼女は菖花ではない。姉ならば鈴花に気づかぬはずがない。
うつむいたままの鈴花の心に、落胆が広がっていく。一瞬、姉かもしれないと期待してしまった分だけ、落胆が激しい。と。
「ふふっ、素敵な歌でしょう?」
女人が弾んだ声を上げる。
「眠れぬ夜に教えていただいたの。だから、今度はわたくしが歌ってあげるのよ」
愛情にあふれた優しい声に、鈴花は思わず顔を上げて女人を見た。紗の向こうの表情は見えない。けれど、声だけで彼女が幸せそうに微笑んでいるのがわかる。
姉に似た声の女人が幸せそうにしているのは、それだけで嬉しくなる。行方が知れぬ姉も、せめてどこかでこんな風に笑っていてくれたらと、心から願わずにはいられない。
それにしても、と鈴花は女人を見上げたまま、不思議に思う。彼女の全身にうっすらと《気》が見える。博青と同じ、薄い青の《気》と、清浄さを感じさせる白い《気》。
どういうことだろうとしげしげと見つめ、鈴花は《気》が彼女が纏う衣から発せられていることに気がついた。
「不思議なお召し物を着てらっしゃるのですね」
口に出してから、失礼だっただろうかとあわてる。が、女人は気を悪くした様子もなく、おっとりと頷いた。
「あら、わかるの? 蚕家の
うふふ、と女人が嬉しげに笑みをこぼす。
「護り絹……」
掌服に入った時に聞いた覚えがある。
なんでも、代々宮廷術師の筆頭を務める蚕家の屋敷には、破邪の力を持つご神木の桑が植えられていて、桑の葉を食べた蚕から紡ぎ出される絹糸は、ご神木と同じ破邪の力を持っているのだという。そして、その絹で織られた布は『護り絹』と呼ばれ、同じ重さの金よりもさらに高価だそうだ。
妃嬪の中には『護り絹』を纏う者もいるが、掌服の中でも許された一部の宮女を除いて、指一本ふれてはならないと厳命されている。もちろん鈴花は、見たのも今が初めてだ。
鈴花の目に白い清浄な《気》が見えるということは、破邪の力は本物なのだろう。ということは、やはりこの女人は妃嬪なのだ。
だが、いくらお忍びとはいえ、妃嬪が侍女もつけずに散歩していていいのだろうか。おっとりとした女人の様子からは、焦りなどはまったく感じられないため、一人きりのちょっとした冒険を楽しんでいるのかもしれない。
と、不意に近くの茂みががさりと鳴る。飛び出してきたのは、五十歳くらいの侍女だった。
「お嬢様!」
女人の姿を見とめた途端、侍女が安堵と恐怖が入り混じった叫びを上げる。
「大切なお身体だというのに勝手に出歩かれるなんて……っ! どれほどご心配申しあげたか……っ!」
裾を蹴散らすように駆けてきた侍女が、ひざまずく鈴花に気づいた途端、息を飲む。鼻の横に目立つ
「何者です!?」
刃のように鋭い
「こ、珖璉様の侍女で、鈴花と申します……」
「珖璉様の!?」
侍女の声は悲鳴に近い。顔を上げずとも、侍女から注がれる視線の圧が強まったのがわかった。
きっと、鈴花などが珖璉の侍女だなんてと呆れているのだろう。おとといさんざん投げつけられた敵意に満ちた視線を思い出し、つきりと胸が痛む。
「珖璉様の侍女が、こんなところで何をしているのです!?」
「そ、その……」
怪しいものを探していましたと、正直に言うことはできない。そもそも今の鈴花は、任務を放り出している状態だ。言い淀んでいると、助け舟は意外なところから出た。
「わたくしの子守唄を、褒めてくれたの」
嬉しそうに告げた女人の言葉に、こくこく頷く。
「そ、そうですっ。美しいお声に魅せられ、ついこちらへ……」
「わかりました。もうお黙りなさい」
ぴしゃりと言われ、あわてて口をつぐむ。何が原因かわからぬが、侍女の機嫌をひどく損ねてしまったらしい。
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