11 よく、見てくれた


 告げた途端、珖璉が鋭く息を飲む。


「何っ!? まだ残っているか!?」


 珖璉の声に鈴花はゆっくりと辺りを見回す。だが、黒い靄はどこにも見えない。


「い、いいえ……」

「蔵の中でも見えたか?」


「あ、の……」


 のぞいた瞬間、宮女の遺体に目を奪われてしまったため、蔵の中はろくに見ていない。が、それを言い出せる雰囲気ではなかった。


「鈴花……」


 禎宇が励ますように気遣わしげな声をかけてくれるが、止めてはくれない。


「も、もう一度、見てみます……っ」


 逃げ出したい気持ちを潰すように拳を握りしめて宣言する。


 言った勢いで動かなくては恐怖に足がすくんでしまいそうで、鈴花は唇を引き結んで歩き出す。


 本心を言えば、もう二度と見たくない。だが、自分が見たと言ったからには、責任を取らなくては。


 深く吸った息を止め、もう一度、蔵の中を覗きこむ。できるだけ、宮女を見ないようにしながら、中を見回し。


「い、いえ。もう黒いもやは見えません……」


 告げた瞬間、張りつめていた気持ちが緩んで、その場にへたりこみそうになる。


「おいっ!?」


 よろめいた鈴花を支えてくれたのは、鈴花の後ろから覗きこんでいた珖璉だった。


 とすりとぶつかった拍子に、絹の衣にめられていた香の薫りが揺蕩たゆたい、その爽やかさに、ほんの少しだけ心が軽くなる気がする。


「も、申し訳――」

 あわてて身を離そうとした途端。


 不意に浮遊感に襲われたかと思うと、鈴花は珖璉に横抱きに抱き上げられていた。


「わたしが見せたからとはいえ……。夜目にも白い顔をしているぞ」


「だ、大丈夫ですっ! 下ろしてくださいっ!」


 異性の、しかも見惚れるほどの美貌の珖璉に抱き上げられるなんて、心臓に悪すぎる。死体を見た衝撃さえ、吹っ飛んでしまいそうだ。


 さっきまで血の気が引いていた顔が、一瞬で熱を持っている。下ろしてもらおうと足をばたつかせて抵抗したが、珖璉は危なげない足取りで進むと、禎宇の前に立った。


「鈴花はお前に任せる。先に戻っていてよいぞ」


「だ、大丈夫ですから!」


 ようやく珖璉の腕が緩み、鈴花は罠から逃げ出すうさぎのように地面に降りる。そそくさと珖璉から距離をとろうとして。


 不意に、珖璉が手を伸ばしたかと思うと、くしゃりと頭を撫でられる。


「よく、見てくれた」


「……はぇ?」

 何が起こったのかわからない。


 姉以外に頭を撫でられたことなんて――ましてや、ねぎらわれたことなんて、初めてで。


 呆気あっけにとられる鈴花をよそに、珖璉が兵達を振り返る。


「朔。まだ犯行からさほど時間は経っておらん。怪しい者や目撃者がいないか捜索せよ。警備兵達は死体を人目につかぬよう浣衣堂かんいどうへ運べ。蔵の中の長持ながもちを使ってよい。わかっていると思うが、今夜のことは他言無用だ」


 珖璉の指示に朔が無言で一礼して身を翻し、兵達があわただしく動き出す。戸惑った声を上げたのは博青だ。


「あの、黒い靄というのは……?」


 泂淵が弟子にあっさりと暴露する。


「このコ、《見気の瞳》の持ち主なんだよ~。でも、鈴花が黒い靄を見たって言うんなら……」


 爛々らんらんと好奇心に目を輝かせた泂淵が、唇を吊り上げる。


「もしかしたら、この件、禁呪が絡んでるかもしれないねぇ~」


「禁、呪……」


 不穏な響きにおうむ返しに呟いた鈴花に、「そーそー」と泂淵が軽い調子で頷く。


「禁呪っていうのは、本来の蟲招術から外れた外道の術さ。禁呪の中には、人の命をにえに使って、強力な呪を練り上げるモノもあるからねぇ」


 飄々ひょうひょうとした口調とは裏腹のとんでもない内容に、背筋が寒くなる。鈴花は思わず自分の身体に腕を回すと唇を噛みしめた。


 旅芸人の物語では悪役として正義の術師に倒される禁呪使いだが、先ほど見た宮女の遺体が、これは物語ではなく現実なのだと、否応なしにつきつけてくる。


「禁呪か……。なるほどな」

 珖璉が低く苦い声で呟く。


「単なる下衆げすというわけでなく、極めつけの下衆ということか」


 地を這うような低い声に宿る苛烈な怒気に、鈴花は大きく身を震わせる。


「泂淵、どんな禁呪か見当はつくか?」


「えーっ、蚕家が禁呪の取り締まりをしてるとはいえ、さすがにそれは無茶振りだって! 黒い靄ってだけだよ? しかも、ワタシが直接見たワケじゃないしさぁ。禁呪にふれて術師の《気》がわかれば、《感気蟲かんきちゅう》で禁呪使いの居場所を追えるカモだけど……」


「感気蟲?」

 鈴花の呟きに、


「特定の《気》を覚えてその《気》に反応する蟲だ。だが、そもそも相手の《気》がわからねば、使いようがない」


 と珖璉が簡単に説明してくれる。どうやら、蟲招術も万能ではないらしい。


「まあ、禁呪が絡んでくるとなれば蚕家として放置はできないし、文献なんかも当たってみるけどさぁ。ねぇ、博青?」


「えっ!?」

 急に振られた博青が驚きの声を上げる。


「も、もちろん、わたしでできることでしたら、何なりといたしますが……」


「泂淵。面倒な作業だからといって弟子に押しつけるな。お前も当主として働け!」


 厳しい声で泂淵を叱った珖璉が、博青に視線を向ける。


「禁呪が関わっているやもしれぬとわかったからには、お前も泂淵を助けて働いてもらう。が、今まで通り宮女殺しのことも、《見気の瞳》のことも、他言無用だ。それと、もし泂淵がさぼっていたら、遠慮なくわたしに言え」


「ちょっ!? ひどくない!? 言っとくけど、ワタシだって『昇龍の儀』の準備とかで忙しいんだよ!?」


 博青が答えるより早く、泂淵が唇をとがらせる。が、珖璉の返事はにべもない。


「ふだんは術の研究ばかりして、ろくに働いてないんだ。重要な儀式が控えている今くらい、しっかり働け!」


「横暴~っ! 博青っ、珖璉ってばヒドくない!?」


「そ、その……」


 泂淵の問いかけに博青が苦笑いをこぼす。その顔には、「お願いですからわたしを巻き込まないでください」と太字で書かれていた。


 弟子が当てにならないと察した泂淵は、「禎宇だってそう思うだろ!?」と、今度は禎宇を振り返る。禎宇がにこやかに微笑んだ。


「珖璉様の従者であるわたしには、主のげんを否定するなど、恐れ多くてとてもとても……。というわけで、泂淵様もどうかお力をお貸しくださいませ」


「泂淵。今夜は泊っていけ。逃げようとしても無駄だからな」


「えぇ~っ!」

 泂淵が不満の声を上げるが、誰も慰める気配はない。


 にぎやかなやりとりにわずかに恐怖も薄らぐ気がして、鈴花はほっと息を吐き出した。


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