12 絶対に、姉さんじゃなかった


 暗い。ここはいったいどこだろう。


 周囲を見回して、鈴花はどうやら後宮のどこかで迷ってしまったのだと気がついた。


 闇に沈むように立つ木々が幽鬼のように見え、鈴花は恐怖に駆られて走り出す。


 雨が降ったのだろうか。ぬかるんだ地面は泥の中を進むかのように走りにくい。じっとりと重い空気が、全身に絡みつく。


 木々の間をあてどなく走る鈴花の目の前に、古びた蔵が現れる。


 見ちゃだめだ、と本能が警告する。けれど身体は勝手に動き、開いたままの扉へ駆け寄る。


 外よりもなおくらい蔵の中。それなのに、床に横たわった宮女の姿ははっきり見える。


 乱れた衣。もう何も映さぬうつろな瞳の宮女の顔は――、


「姉さんっ!」


 恐怖にひび割れた自分の声で、鈴花は悪夢から目が覚めた。

 同時に、どんっ、と衝撃が身体を襲う。


「うぅ……」


 呻いた拍子に完全に目が覚める。飛び起きようとして、長椅子から転がり落ちたらしい。


 幸い布団にくるまっていたので痛みはない。だが。


 ぎゅっと布団を抱きしめ、鈴花は身体を丸める。

 全身の震えが止まらない。心臓が恐怖にばくばく騒いでいる。


 夕べ見た宮女は、絶対に姉ではなかったと断言できる。だが、嫌な想像が頭を巡って離れない。


「大丈夫。きっと大丈夫……っ」


 ぎゅっと固く目をつむり、言い聞かせるように呟いて、ふと気づく。


 まぶたを通して感じる光がやけに明るい。まるで、とうに陽が昇っているかのような……。


 いや、実際に明るいのだと気づいた途端、一瞬で眠気が吹っ飛ぶ。


 掌服の同僚達はもう、洗濯へ出ただろうか。掌服長にどれほど怒られるか。一刻も早く珖璉か禎宇に道を教えてもらって戻らねば。


 あわてて布団を畳んで長椅子の上に置き、昨日から着たきりのお仕着せの乱れをざっと直して、長い髪をひとつに束ね直す。


「すみませんっ! 寝坊しました!」


 隣室に駆け込み、卓で書き物をしていた珖璉にがばりと頭を下げて詫びると、呆れた声が降ってきた。


「何やら大きな音が聞こえたが……。元気なようで何よりだ」


「す、すみません。寝ぼけて長椅子から落ちてしまって……」


 聞こえていたのか、と冷や汗をかきながら顔を上げたところで、くぅ~っとお腹が空腹を訴える。


「す、すみません……っ」


 昨日、豪華な夕食をたらふく食べたというのに、夜中に全部吐いてしまったせいだ。恥ずかしさと情けなさで顔が熱くなるのを感じながら鳴りやまないお腹を抱えていると、書き物の手を止めた珖璉が、ふっと笑みをこぼした。


「夕べは紙のように白い顔をしていたゆえ、どうなるやらと思ったが……。それだけ食欲があるなら、大丈夫そうだな」


 もしかして、心配してくれていたのだろうか。思いがけず柔らかな珖璉の笑顔に、なぜか心臓がぱくりと跳ねる。見間違いじゃなかろうかと思わずまじまじと見つめると、途端、「何だ?」といぶかしげに問われた。


「いえっ! なんでもないです!」


 かぶりを振った拍子に、卓のそばに見知らぬ女人が控えていることにようやく気づく。


 仕立てのよい絹の服を着た目鼻立ちがはっきりした綺麗な女人だ。年は博青と同じ二十代後半くらいだろうか。


 術師なのか、水で溶いた朱のような淡い色の《気》を纏っている。


 だが、鈴花が目を奪われたのは、女人の美貌ではなく、彼女がお腹のところで両手に抱えている何本もの巻物だった。巻物から、珖璉が纏うのと同じ銀の光が淡く揺蕩っている。


「その巻物……っ!」


 驚きに思わず息を飲むと、珖璉が「巻物がどうかしたのか?」と首をかしげた。ひとつに束ねられたつややかな長い髪がさらりと揺れる。


「その……。巻物から珖璉様の《気》が見えます……」


 巻物から目が離せぬまま告げた瞬間、鋭く息を飲む音が聞こえた。次いで、かんっ、と巻物が一本落ちた音が高く響く。


「も、申し訳ございません!」


 あわてて女人が巻物を拾い上げる。が、珖璉はそれどころではない様子だった。


「確かにこの巻物にはわたしがんだ蟲を封じているが、そんなことまでわかるのか!?」


「えっ!? 巻物に蟲を封じることなんてできるんですか!?」

 驚いた声を上げた珖璉に、鈴花も驚いて返す。


「特別な紙で作った巻物に蟲を入れておくと、その巻物をほどいて蟲の名を呼べば、術師じゃなくても蟲を召喚できるんだよ~。奥の手ってヤツ? まっ、紙に込められる腕前の術師はそうそういないんだケド」


 楽しそうな口調で教えてくれたのは、珖璉と同じ卓につく泂淵だ。


「でも、巻物に込められた《気》まで見えるなんて、《見気の瞳》ってほんっと面白いね~っ! これはイロイロと楽しみだな~!」


「物に宿った《気》まで見えるとなると……。捜索もはかどるやもしれんな」


 うきうきと目を輝かせる泂淵とは対照的に、珖璉が何やら考え込むような口調で呟く。


 巻物を抱える腕にぎゅっと力を込め、探るような視線を鈴花に向けながら口を開いたのは、綺麗な女人だ。


「あ、あの……。この者は、何者でございましょう……? 本当に、《見気の瞳》の持ち主なのですか……?」


 何だか夕べもこんなやりとりをした気がする。ぼんやりと思う鈴花に代わり、あっさりと答えたのは泂淵だった。


「珖璉が偶然見つけたんだ~。ワタシと珖璉は《見気の瞳》の持ち主に違いないって思ってるんだけど……。茱栴しゅせんは何か疑義でも?」


「いえ! とんでもございません!」

 茱栴があわてたように首を横に振る。


「《見気の瞳》の持ち主なんて初めて見たものですから、驚いてしまいまして……。今後は、宮廷術師の一員に加わるのですか? 掌服のお仕着せを着ておりますが……」


 泂淵に問うた茱栴が、そこで我に返ったように鈴花を振り返り、にこやかに微笑む。


「初めまして。わたしは泂淵の弟子で宮廷術師の茱栴といいます。女人で宮廷術師となるなら、私と同じ、後宮付きになることでしょう。どうぞ、これからよろしくね」


「は、初めまして! 鈴花と申します!」


 美人に微笑まれ、どきまぎしながらあわてて頭を下げる。


「で、でも私、術師じゃないんです! 蟲招術のことも、何も知らなくて……っ」


「あら、そうなの? せっかく《見気の瞳》という珍しい能力を持っているのに……。では、これから泂淵様に弟子入りを?」


「はぇっ!? いえ……っ」


 予想もしていなかったことを言われ、びっくりする。


「掌服に戻って、いつも通り洗濯を……。あ、あのっ、珖璉様! 帰り道をお教えいただけますか!? 早く戻らないと、掌服長に叱られてしまいます!」


「は? 何を言っている?」


 珖璉が呆れ果てた声を出す。


「お前を掌服に帰すわけがなかろう。掌服長にはすでに話を通しておる。お前は今日から、わたし付きの侍女だ」


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