10 まるで、悪い夢の中に迷い込んだようだ
こんな夜更けに後宮内を歩くなど、鈴花には初めての経験だ。
夕暮れに降り出していた雨は、眠っている間にやんだらしい。湿気を孕んで重い夜気の中にぼんやりと浮かぶのは、銀の光を纏う珖璉の後姿と、珖璉と禎宇がそれぞれ手に持つ灯籠の明かりだ。
光蟲だと動くたびに光が揺れるということで、禎宇がわざわざ
いったいどこを歩いているのか、鈴花にはまったくわからないが、銀の光を纏う珖璉が前を歩いているので、ついて行けば迷う心配はない。
珖璉は宮女殺しの現場だと言っていたが、本当に殺人が起こったというのだろうか。
まるで、悪い夢の中に迷い込んだようだ。
雨でぬかるんだ地面が、歩くたび靴の裏に湿った土の感触を伝えてくる。
「あちらです」
朔の声に、鈴花はいつの間にかうつむいていた視線を上げた。
「……?」
男達が掲げる灯籠の向こうで、闇が
夜の闇よりも
だが、目を
見間違いだろうかと瞬きしたところで。
「
蔵の入り口付近にいた男の一人が、泂淵を見て驚いた声を上げる。声を上げた若い男だけ、明らかに警備兵達と服装が違う。
鈴花の目には、灯籠のぼんやりとした明かりの中に、薄くたゆたう青色の《気》が見えた。
「どうしてこちらに……っ!?」
「いや~。珖璉がおっもしろいモノを見つけたっていうから、たまたま来ててさ~。
「わたしは、その……」
「わたしも宮女殺しの件は気になっておりまして、都合がつく夜は見回りをしているのです。警備兵が騒いでいるのに気づいたためこちらに……」
鈴花の後ろにいた禎宇が大きな身体を屈め、「後宮付きの宮廷術師の一人、博青殿です。泂淵様の高弟の一人ですよ」と小声で教えてくれる。
泂淵は珖璉と同じく、
「あ、ちなみに泂淵様は、宮廷術師の筆頭であり、術師を統べる名家・
衝撃の事実に鈴花は思わず息を飲む。
術師の存在とともに、蚕家の名も人口に
蟲招術を悪用する禁呪使いを退治する蚕家の術師の物語は、劇や読み物の題材として広く使われており、鈴花も幼い頃、姉の菖花と一緒に、旅芸人が語る冒険譚を胸を躍らせて聞いたものだ。おとぎ話の中の人物がいま目の前にいるなんて、にわかには信じられない。
だが、泂淵が蚕家の当主というのなら、極彩色の《気》も、後宮内で最上位の官職のひとつである官正の珖璉に気安く話しかけているのも納得だ。
「それで、被害者はこの蔵の中か? 博青。おぬしは何か見たのか?」
珖璉に鋭い視線を向けられ、博青が怯えたようにかぶりを振る。
「いいえ。わたしはつい先ほど来たばかりでして、何も……」
「我々は、この蔵の扉が薄く開いているのに気づきまして。閉める時に中を覗きましたら、その……」
警備兵の一人が、かしこまって珖璉に報告する。夜目のせいでなく、顔色が悪そうだ。
「そうか。泂淵、お前も来い」
短く告げた珖璉が、さっと道を開けた兵達の間を通り、蔵へ進む。朔が心得たように扉を引き開けた。
鈴花もつられるように進んで蔵の中を覗きこみ。
「っ!?」
宮女の遺体を見た瞬間、息を飲む。
闇が重く沈む中、壊れた人形のように床に横たわる宮女の身体からは、魂が抜けているのが一目で知れた。
お仕着せの裾はひどく乱れ、ふとももまで
そして、絞められて赤黒く変色した首と、苦悶に満ちた表情――。
いまや何も映さない濁った
後ろに立っていた禎宇を押しのけて外へ飛び出し、近くの茂みへ駆け寄る。
我慢しなくてはと思うより早く、胃からせりあがってきたものを地面にぶちまける。つんと酸っぱい臭いが鼻をつき、無理やり収縮させられた胃が無音の悲鳴を上げる。
頭の片隅で生まれて初めて食べた豪華な夕食がよぎり、もったいないという気持ちが湧くが、かまっていられない。
前かがみになり、胃の中のものを全部吐き出していると、大きな手が背中に当てられた。
「大丈夫かい?」
気遣わしげに問いながら、禎宇が遠慮がちに背中をさすってくれる。
夕食を吐いてなお、口を開けば胃液まで出てきそうで、鈴花は口元を手で押さえて無言でこくりと頷いた。
「すまない。若いお嬢さんに何の予備知識もなく見せるものではなかったね。こちらの手落ちだ」
優しく背を撫でながら禎宇が詫びてくれる。その声に混じって、開けっ放しの扉から珖璉達の声が聞こえてきた。
「まだあたたかいな。それほど時間は経っておらんようだ。……今回も、乱暴された上で首を絞められているな」
「え~? でも、後宮にいる男は《宦吏蟲》が入ってるから不可能でしょ?」
「おそらく道具を使っているんだ。今までも、体内に痕跡は残っていないからな……。
怒りに満ちた低い珖璉の声に、矛先を向けられているのが自分ではないとわかっていても鳥肌が立つ。禎宇があやすように背中をぽんぽんと叩いてくれた。
「泂淵。お前はどう見る?」
「うーん。変態野郎が
泂淵があっさり答える。途端、珖璉が声を荒げた。
「真面目に考えろ! 警備の目をかいくぐって、もう八人も殺されてるんだぞ!?」
「いやでも、犯行に《蟲》が使われたような形跡はないしさ~。首を絞めたのだって、手でしょ?」
「それはそうだが……。おい鈴花、お前は何か……。鈴花?」
珖璉がいぶかしげに鈴花を呼ぶ。代わりに答えてくれたのは禎宇だった。
「珖璉様、少しお待ちください。鈴花はその……」
足音がし、珖璉が蔵から出てくる気配がする。
「何をしている?」
「す、すみません……」
少し汚れてしまった口元を手の甲でぬぐい、あわてて珖璉を振り返る。
ちゃんと謝らねばと思うのに、先ほど見た宮女の無残な姿が脳裏にちらついて、震えが止まらない。
夜気に混じるすえた臭いに察したのだろう。珖璉の眉間にしわが寄る。
「……よい。そこにいろ。禎宇、そのまま鈴花についていてやれ」
「あ、あの……っ」
これだけは伝えておかねばと、鈴花は必死に唇を動かす。
「み、見間違いかもしれないんですけれど、さっき一瞬、黒い
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