5 土下座でも何でもして、許しを請おう


 恐怖と緊張でうまく息ができない。


 本降りになった雨の湿気が鈴花の胸に忍び込み、溺れるような心地がする。


 ぬかるみの中を歩いているように足がもつれる。いっそのこと、転んでしまえばこれ以上、進まなくていいのかもしれないが、数歩前を行く珖璉に見えない糸で引っ張られているかのように、身体は勝手についていく。


 人気のない廊下はしんとしていて、宮女達の悲鳴と怒りの声が渦巻いていた食堂とは別世界だ。しとしとと降る雨が、すべての音を吸い込んでしまったのかと思う。


 いったいここがどこなのか、これからどこへ連れて行かれるのか、鈴花には見当もつかない。


 食堂を出る際に「ついてこい」と命じたきり、珖璉は無言のままだ。


 これからどうなるのか気になって仕方がないが、恐ろしくてとても聞けない。


 珖璉は「側仕えにする」と言っていたが、間違いなく嘘だろう。そう言って連れ出せば、鈴花が掌服へ戻らなくても、疑問に思う者は皆無だ。


 珖璉に無礼を働いた罪で折檻せっかんされるのだろうか。いや、折檻だけならいい。こんな無礼者は雇っておけぬと後宮を追い出されたら……。


 考えるだけで、全身からぞっと血が引く。


 何があっても後宮から追い出されるわけにはいかない。追い出されたら、姉を捜せなくなってしまう。


 菖花が後宮へ奉公にあがったのは約二年前だ。村一番の器量よしで気立てもよく、頭の回転も速かった菖花は、村長からぜひにと推されて、村に課された賦役ふえきを減じる代わりに宮女となった。


 許嫁いいなずけがいる姉は渋ったが、村長も諦めなかった。


 三年の奉公が終われば、結婚するための十分な資金も貯まる。何より、これは村のためなのだ。


 ここ数年の不作で、村の蓄えは底をついた。課された税を納めるのもやっとだ。このままでは離散する家族が出るやもしれん。娘を女衒ぜげんに売る親も……。


 そういえば菖花、お前には妹がいたな。出来のよいお前と違って、役立たずの妹が……。あの娘は見目だけなら悪くない。よそから来た女衒なら、きっといい値をつけてくれるんじゃないか?


 村長がそう言って姉を説得しているのを偶然聞いた時、鈴花はすぐさま飛び出して姉の不安を打ち払いたかった。


 けれども、鈴花が役立たずなのは明白な事実で、どうしても足がすくんで動けなくて……。


 大好きな姉がどんな思いで奉公を決意したのか、鈴花は知らない。だが、鈴花さえいなければ、姉はきっと村長の説得にあらがっていただろう。


 ただ、鈴花が知っていることは、優秀な姉は宮女を徴募しに来た役人にも気に入られ、村の賦役が大幅に減じられて、村人全員が喜んだという事実だけだ。


 奉公に出てからも、姉は月に一度は給金の仕送りと一緒に、鈴花に手紙を送ってくれた。


 後宮はどれほど華やかなところか。同時に、どれほど気を遣って妃嬪に仕えねばならないか。


 優秀な姉は、妃嬪の宮の掃除や調度を整える掌寝しょうしんという部署に配属されたらしい。妃嬪のご尊顔を拝謁する機会もある部署だ。


 そんな姉が誇らしくて、いつも鈴花を気遣ってくれる優しさに満ちた文面が嬉しくて、姉からの手紙は、寂しい村での暮らしを照らす、たったひとつの光だった。なのに。


「どうしよう。私、もう後宮から出られないかもしれない」


 二か月前に届いたたった一文だけの手紙。書かれていた文字は、いつも綺麗な姉の字とは思えないほど乱れていて。


 姉の身によからぬことが起こったのだということはすぐにわかった。


 けれど、両親に相談しても、鈴花の杞憂に過ぎないと。もし奉公の途中で帰ってきたら仕送りがなくなってしまうじゃないか、滅多なことを言うなと叱責され……。


 姉の許嫁にも相談したが、無駄だった。許嫁は心から姉を心配してくれたが、王都から離れた片田舎で、いったい何ができるのかと。もし、王都に行ったとしても、宮女か宦官、限られた商人くらいしか入ることのできない後宮にいる菖花のことを、どうやって調べるのかと正論で説得された。


 けれど、鈴花は諦められなかった。いつも迷惑ばかりかけている姉が、初めて鈴花を頼ってくれたのなら、何としてもそれに応えなくてはと……。


「私が宮女として後宮に奉公して、姉さんを捜し出してみせます!」


 そう啖呵たんかを切って、後宮へ来たのだ。


「お前なんかに後宮務めができるはずがないだろう!? 徴募役人はうまくごまかしたみたいだが、働けば、すぐに化けの皮がはがれるに決まってる!」


「お前のせいで村への賦役が増えたら、どう責任を取るつもりだい!? あたし達に迷惑をかけたらタダじゃおかないよ! ったく、こんなことを言い出すなら、さっさと女衒に売っぱらっちまえばよかったよ。どうせ、あんたなんかを嫁に欲しがる男なんざ、この村じゃいないんだし」


 姉を捜しに後宮に行くと告げた途端、悪鬼のような形相で鈴花に食ってかかった両親の罵詈雑言ばりぞうごんが脳裏に甦り、鈴花は強く唇を噛みしめる。


 何があろうと、後宮から追い出されるわけにはいかない。石にかじりついてでも残らなければ。


 でないと、姉を捜せない。


 土下座でも何でもして、珖璉に許しを請おう。掌服にいられなくなってもかまわない。どぶさらいでもかわや掃除でも何でもするから、後宮に残してもらおう。


 意を決して詫びようとした瞬間。


「入れ」


 足を止めた珖璉に出鼻をくじかれる。珖璉が宵闇の暗さでも美しい彫刻が施されているのがわかる扉を開けた。


 雨で湿気た空気にかすかに揺蕩たゆたったのは、珖璉の衣に焚き染められているのと同じ薫りだ。


 おそらく珖璉の私室なのだろう。燭台しょくだいが灯されてるのか部屋の中は薄明るい。


「し、失礼いたします……」


 命じられるまま、室内に足を踏み入れる。一目で高級品とわかる調度品に感心する余裕もない。


「こ、珖璉様! 誠に申し訳――」


 ばたりと扉を閉めた珖璉を振り返り、土下座しようとして。


 それよりも早く、強く肩を掴まれる。

 無理やり起こされた眼前に、端麗な面輪が迫り。


「お前は、何を見た?」


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