4 美貌の宦官のご所望は


 宮女達のざわめきに、鈴花は初めて青年の名前を知る。同時に、彼こそが宮女や宦官かんがん達の間で、妃嬪ひひんよりも美しいと密かに噂される官正かんせいなのだとようやく気づいた。


 確かに、女人であれ男性であれ、珖璉こうれんほど見目麗しい人物は見たことがない。


 しかも官正とは。官正は後宮内の不正を取り締まる役職である。その地位は、掌服しょうふく掌食しょうしょくといった各部門の長よりもずっと高い。


 絹の衣からして高い身分だろうと推測していたが、そこまで高かったとは。そんな珖璉に無礼を働いたのだと思うと、ただでさえ空腹で悲鳴を上げている胃が、きりきりと痛くなってくる。


 が、そんな珖璉が、なぜ急に掌服にやってきたのだろう。疑問に思ったのは掌服長も同じらしい。


「これはこれは珖璉様! いかがなさいましたか?」


 珖璉へ駆け寄った掌服長が、両手をみしだくようにして恭しく尋ねる。先ほど鈴花に怒鳴り散らしていた人物とは別人のような腰の低さだ。


「なに、掌服長にひとつ頼みがあってな」


「まあっ、わたくしに!」

 掌服長が少女のように華やいだ声を上げる。


「いったい何でございましょう!? 珖璉様のお頼みでしたら、どんなことでも叶えてみせますわ!」


 掌服長が気合いをみなぎらせて告げる。熱に浮かされたように己の半分ほどの年齢の珖璉を見つめるさまは、まるで恋する乙女のようだ。


 いや、掌服長だけではない。食堂にいる宮女達が全員、魅入られたようにうっとりと珖璉を見つめている。


「大したことではないのだが」


 珖璉がわずかに口の端を持ち上げてみせただけで、宮女達から、ほぅっ、と感嘆の吐息がこぼれる。が、珖璉は己の微笑みが宮女達にどんな影響を及ぼしているのか頓着とんちゃくしていないようだ。


 あれほどの美貌の主なら、この程度のことは日常茶飯事なのかもしれない。


「『十三花茶会』が近づいていることもあり、人手が足りなくてな。一人、宮女を譲ってもらえないかと頼みに来たのだ」


「っ!?」


 鈴花は一瞬、食堂が揺れたのかと思った。


 それほどに、珖璉のひと言が宮女達に与えた衝撃は激甚げきじんで。


 宮女達が一斉に息を飲んで固まる中、最初に我を取り戻したのは、さすが年の功と言うべきか掌服長だった。


「ま、まことでございますか!? 今まで、かたくなに宮女は側仕そばづかえに置かれませんでしたのに……っ!?」


「うむ。さすがに最近、禎宇ていうだけでは手が足りぬことが多くなってな。あいつに何かあっては困るゆえ……」


「なんと思いやり深くていらっしゃるのでしょう!」


 掌服長が感極まったように褒めそやす。


「わたくしめにご相談いただき光栄でございます! 掌服の者は皆、わたくしが厳しくしつけておりますゆえ、珖璉様の側仕えとなっても申し分のない働きをする者達ばかりと保証いたします! ですが、珖璉様のお側近くに侍るのが生半可な者ではいけません! ここはわたくし自らが珖璉様にお仕えいたしましょう! ええもう、身も心も尽くしてお仕えさせていただきます!」


「あ、いや……」


 掌服長自らが名乗りを挙げるとは予想外だったらしい。珖璉が戸惑った声を上げる。


「心遣いはありがたいが、『十三花茶会』も近い今、掌服長の位に穴をあけるわけにはいかぬだろう?」


 珖璉の言葉に、宮女達がものすごい勢いで頷く。


 目をらんらんと輝かせ身を乗り出すさまは、次は自分が立候補しようと力みつつ、互いに牽制けんせいしあっているようにも見える。鬼気迫るさまは見ていて恐ろしいほどだ。


 鈴花だったら絶対に関わり合いになりたくない。もっとも、役立たずの鈴花には、天地がひっくり返っても縁のない話だが。


 珖璉に見つかる前にそっと食堂を立ち去ろうと、鈴花は前を向いたまま、じり、と一歩後ずさった。本当は背を向けて脱兎のごとく走り去りたいが、全員が珖璉に見惚れているこの状況では目立ちすぎる。


 と、珖璉がゆっくりと口を開いた。


「もう、誰を側仕えにするかは決めているのだ」


 宮女達がどよめく。


 その顔に浮かんでいるのは、もしかしたら自分こそが選ばれるのかもしれないという、隠しきれない期待だ。


 珖璉が水鳥のように優雅な仕草で食堂を見回す。それだけで、広い食堂がしん、と水を打ったように静まり返った。


 なんだかすごく嫌な予感がする。


 目立ってもよいから駆け去ろうと、きびすを返そうとした瞬間。


 珖璉の黒曜石の瞳と、目が合った。

 たったそれだけで、不可視の針にい留められたかのように身体が動かせなくなる。


 珖璉の端麗な面輪が淡く笑みを刻む。


「鈴花という新人がいるだろう? わたしの侍女として、彼女をいただこう」


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