2 宵闇の邂逅


 鈴花が片づけを終えた時には、辺りはすっかり薄暗くなっていた。


 重く垂れこめた黒雲からは、今にも雨粒が落ちてきそうだ。間違っても、籠の中のお仕着せを濡らすわけにはいかない。


 おぼろげな記憶を辿り、掌服しょうふくの棟を目指して足早に進んでいくが。


「どこ、ここ……?」


 はたと立ち止まり、鈴花は情けない声を洩らした。


 見覚えがあると思って曲がった角なのに、曲がった瞬間、見知らぬ景色が広がっている。


 いつもそうだ。この道だと思って進んでも、いつも目指す場所と違うところに出てしまう。


「早く戻らないといけないのに……っ」


 焦ってきょろきょろと周りを見回す。だが、辺りはしんと静まり、湿り気を帯びた空気に桃の甘い薫りが漂うだけだ。


 誰かいないだろうか。宮女でも宦官でもいい。誰か道を教えてくれる人に出会わなければ、いつまでも掌服の棟に戻れる気がしない。


 祈るような気持ちで視線を巡らせた視界の端が、かすかな光を捉える。


 まだ日は沈んでいないとはいえ、この暗さだ。誰か灯籠とうろうでも手にしているのだろうか。


 とにかく助かったと安堵しながら、籠を抱えたまま、薄ぼんやりと明るい茂みの向こうを目指して早足で進む。


 がさりと茂みに袖をこすらせながら回り込み。


「っ!?」

 目の前の光景に、思わず息を飲んで立ち尽くす。


 灯籠の明かりだと思い込んでいたが、違う。


 鈴花の視線の先にいたのは、天上から舞い降りた神仙と見まごうような、全身に淡い銀の光を纏う、文字通り光り輝く美貌の青年だった。


   ◇   ◇   ◇


 鈴花は昔から、人や物が色づいて見えることがあった。


 原因はわからない。物心ついた時には見えていたので、おそらく生まれつきなのだろう。


 淡い青だの、薄墨色だの、浅緑だの……。鈴花の目には見える色が、家族はもちろん他の村人達の誰ひとりとして見えないものだと知った時にはもう、「見えないモノを見えるという不気味な娘」という評判は、揺るがぬものになっていた。


「そう。私には見えないけれど……。鈴花には見えるのね。きっと鈴花の目は特別なんだわ。こんなに大きくてくりくりした可愛い目だもの」


 村の子ども達に嘘つき呼ばわりされていじめられるたび、優しく慰めてくれたのは、姉の菖花しょうかだけだった。


 両親ですら、「わけのわからぬことを言う娘」「見えないものを見えると嘘をつくわ、使いにやれば道に迷って帰ってこないわ……。出来のいい菖花と比べて、何と役立たずなんだろう」とうとんじていたほどだ。


 洗濯物が入った籠を抱えて立ちすくみ、鈴花は魅入られたように美しい青年を見つめていた。


 色を纏った人を見たことは何度もある。

 けれど。


 内側から光があふれ出すような白銀の光を纏う人物なんて、見たのは生まれて初めてで。


「綺麗……」


 青年から目が離せぬまま、ほうけた声を洩らした鈴花は、青年もまた、いぶかしげに自分を見ていることに気がついた。


 役職こそわからないが、青年が纏う高価そうな絹の衣は、下級宮女の鈴花などより遥かに高い身分だと一目瞭然だ。


「も、申し訳ございませんっ! 失礼いたしました!」


 我に返った鈴花は籠を脇において地面に両膝をつき、あわててこうべを垂れる。


 青年の神々しいほどの美しさに、魂が抜かれたように見惚れてしまった。

 無礼者と叱責されるかと、びくびくしながらうつむいて身を強張らせていると。


「掌服の者か。おぬしの名は? なにゆえここへ参った? 掌服の棟とはずいぶん離れておろう?」


 美貌にたがわぬ耳に心地よく響く声で、青年が問いを発した。


 天上の調べを連想させるような響きの低い声に、あ、やっぱり男の人で間違いなかったんだ、と鈴花はのんきなことを思う。


 着ている衣や引き締まったしなやかな長身から、男性だろうと推測していたものの、顔立ちがあまりに整いすぎていて、ひょっとしたら男装した女人の可能性もあるかもしれないと考えていたのだ。


 下級宮女の鈴花は妃嬪ひひんのご尊顔を拝謁したことなどないが、もし華やかな女物の衣を着ていたら、確実に妃嬪の一人だと誤解したに違いない。


 というか、銀の光のせいで薄ぼんやりとしか見えない程度の鈴花でも、思わず見惚れてしまいそうになる美貌なのだ。もしはっきり見えていたら、老若男女問わず魅了していたに違いない。


「聞こえなかったか? なぜ、ここに来たかと聞いておる」


 わずかに圧を増した声音に、不可視のむちで打たれたように身体が震える。


 下手な言い訳をしたら、即刻クビになって後宮を追い出されそうだ。それだけは何としても避けなくては。


「も、申し訳ございません! 掌服の担当で鈴花と申します! こ、後宮に勤めてからまだ日が浅いため、道に迷ってしまったのです! そ、その、銀の光が見えたので、道を教えていただけないかと思いまして……っ!」


 口に出した途端、しまったと悔やむが、もう遅い。

 嘘を申すなと叱責されるに違いない。


「あ、あの……っ」


 とっさに言い繕おうとした瞬間、不意に肩を掴まれ、乱暴に引き起こされる。肩に食い込んだ指先は喰い破るかのように強い。


「お前……っ! 何を見た!?」

「ひぃっ!」


 無理やり持ち上げられた眼前に光り輝く美貌が迫り、見惚れるより先に、恐怖に悲鳴がほとばしる。


 刃のようにきらめく黒曜石の瞳は、鈴花を刺し貫かんばかりに鋭い。


「銀の光だと!? お前はいったい何を……っ!?」


「ち、ちちちちちちがうのですっ! その、光り輝くご容貌がですね……っ」


 恐ろしさのあまり口からでまかせを言うが、肩を掴む青年の手は緩まない。


「痛……っ」


 みしりと骨がきしみ、思わず呻くと、我に返ったように青年の手がわずかに緩んだ。


 その隙を逃さず、地面に置いた籠を拾い上げる。


 鈴花の何が、青年の激昂を招いたのかわからない。

 とにかくこの場に留まっていては危険だと、鈴花の本能ががんがんと警鐘を鳴らしている。


「す、すみませんっ! 失礼します……っ!」

「おいっ!? 待て!」


 制止の声を振り切り、鈴花は身をひるがえすと脱兎のごとく駆けだした。


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