第18話

  「女刑事物語」(18―最終章) Ⅽ、アイザック

 時間は休みなく流れ続ける。日々の喜びや悲しみを置き去りにして遥かに移りゆく。人は過去を振り返り、「あっと言う間だ…」と口にする。あるいは「過ぎれば短い夢のようだ」と表現する人もいるだろう。凜とその家族にも年月は陽の光や月の明かりのように絶え間なく降り注ぎ、風のように休みなく吹き過ぎた。

 朝、出かける前に明は鏡を見た。豊かな髪はほとんど白く、顔には皺がいくつも刻まれている。明は八十歳だ。鏡の中に老いを見ることにすっかり慣れてはいたが、まだまだ壮健だと密かに自負していた。永く続けてきたジョギングの成果か、これといった病気もない。髭の剃残しがないのを確認して午前八時に家を出た。

明は長男の家族と同居していた。長男と妻、そして孫三人だ。美風と次男はそれぞれ家庭を持ち都内に暮らしていて、孫は全部で八人を数える。会社の方は長男に譲り、今では仕事に口を出すことはない。明が唯一現役としているのは神奈川県にある老人保健施設「桜が丘園」の理事長職だ。神奈川へ県境を越えるが都内の町田市から僅か十分、自宅から四十五分の距離に運転手付きで通っている。

小高い場所にある「桜が丘園」には二十人の老人が入所している。介護士が二十人、職員四人、看護師一人、医師一人がスタッフだ。明がこの施設の経営に乗り出してすでに十年が経った。園の庭に大きな桜の樹が聳え、今は緑の葉が茂っている。しかし広々とした庭で存在感を誇っているのは幾種類ものバラの花だ。クリスマスローズとスノーフレイクは満開の桜に隠れるが、五月になればその他のバラが一斉に花開き、オルレアが祝福するように白く色を添え、賑やかに縁どる。明は車を降りるとよくバラの香りを吸い込もうと試みた。

明の出勤を必ず事務長と介護士長が揃って出迎える。事務長は六十間近の小男で、士長は痩せぎすの中年の婦人だ。

「お早うございます、理事長先生。」

士長が先に声を掛けた。事務長より背が高い。彼女は微笑んで明に告げた。

「奥様は今日、ご機嫌がよろしいようです。」

事務長が急いで付け加えた。

「奥様のお好きなバラの花がたくさん咲きましたので…。」

「そうですか。私も心が明るくなります。」

明が当たり障りのない言葉を口にして、士長の後に付き従った。

 士長がとある部屋の前で立ち止まり、「失礼します。」と中へ声を掛け、返事を待たずにドアを開けた。

「奥様、理事長先生がお見えです。」

士長は車椅子の老婦人に告げると、明に一礼してその場を去った。老婦人は窓の外を眺めているのか背を向けて身動きしない。

明が車椅子に近づいた。

「凜、気分はどうかね。機嫌が良さそうだと聞いたが…?」

凜はボンヤリと窓へ視線を投げている。車椅子の隣で腰を屈める明に関心を払う様子はなかった。

「凜、後で庭に出てみよう。バラがいっぱい咲いているよ。」

明が構わず話しかけた。「勿論すぐにでもいいよ…。」

凜はただ静かに座っている。明がその横顔を見つめながら、肘掛けに置かれた手の甲にそっと自らの掌を重ねた。凜はふと明を見上げたが、すぐに重ねられた掌へ視線を落とした。振り払うでもなく、そのままの姿勢でやがて小さく声を上げた。

「おかしな人…。」

凜は明が誰か分っていなかった。

 凜がアルツハイマー型認知症を発症して十年が経とうとしていた。自宅で療養するなかで凜の病状はゆっくりと、だが確実に進行した。ある日、二階の階段を滑り落ちて大腿骨を骨折してしまった。治療の為に長期の入院生活を送ったが、骨をチタン合金で継いだ方の足で初めて床を踏んだとき凜は短く叫んだ。足の裏が突然、急傾斜の屋根の上に置かれた感覚に驚愕した。平衡が知覚できない。凜は両足で立つ試みを受け入れず、リハビリを拒否した。リハビリが理解できなかったのだ。それは車椅子に頼る生活を意味した。やがて明は自身が経営する老人施設で凜のケアをすることを決意した。自由に動くことが出来ず、記憶を次々に失って途方に暮れる凜の姿を、家族と謂えど、いや家族にこそ見せたくなかったのだ。

「また後で…。」

明は凜に告げて理事長室に向かった。机のパソコンに向かう。オンラインで繋がった先は有名な医大の研究室だ。アルツハイマー病の治療を研究する教授が画面に現れた。

「臨床試験のデータを調べましたが、明かな効果は示されていません。血液中の薬品の成分が脳に届いていないようです。」

教授は困惑した様子で続けた。

「異常なアミロイドを分解する成分が血管内を素通りしていると思われます。脳に取り入れるには酵素の働きが必要で、そこに問題があるようです。」

明が気落ちした様子を画面に見て教授は言い足した。

「他にも臨床試験を行っていますので、そちらで効果が得られたらその方の酵素を詳細に調べます。つまり逆方向からアプローチすることも可能です。」

「分りました。今後ともよろしくお願いします。」

明はアルツハイマー病を研究するいくつかの施設や大学に寄付を続けてきた。凜の治療に役立てたい一心だった。

 最先端の医療技術とされるIPS細胞の研究施設にも多額の寄付をした。同時に治験を申し出た。本人の細胞から造られるなら副作用は無いと考えたからだ。やがて望みのIPS細胞が培養され、凜の髄膜下に移植された。このとき明は期待に身が震えた。だが数か月が過ぎても効果が見られなかった。細胞は神経細胞に成長し、異常タンパク質に侵された神経細胞にとって代わると考えられたが、必ずそうなるという理論的な裏付けはなかった。しかし治療が失敗した証拠も認められない。さらに時間をかけて経過を見るしかなかった。

 ある科学者は一酸化窒素を注入することによってアルツハイマー型認知症の治療が可能だと提案した。明が協力を申し出て、現在その動物実験が行われている段階だ。

 この病気については世界中の研究所や製薬会社が治療の決め手を見い出せない状況が三十年以上も続いている。アルツハイマー病は治療が困難な病として患者とその家族に重く圧し掛かっているのだ。

 食事の準備ができたと介護士長が報せた。昼食は明が介護することが多かった。明は凜の食が細くなったのを懸念していた。医師に相談するとしかるべき総合病院で検査したいという。だがその際「奥様は姿勢の維持が難しいのでCTやMRIが使用できません。」と断わったうえで、麻酔を使用して内視鏡を用いるかエコー検査に限定される可能性があると告げた。明に異存はなかった。なるべく早く検査してもらいたいと依頼した。

 この日、凜を見舞う客が予定されていた。かつて凜と共に刑事として働いた武田だ。武田は凜がアルツハイマー型認知症を発症したころに定年退職を迎えた。その後、凜の骨折を知って、妻のみどりを伴い整形外科病院に見舞いに訪れたことがあった。凜の症状を間近に見たみどりが絶望的な表情で顔を伏せたのが明の印象に残っている。武田と会うのはそれ以来だ。明は車椅子を押して凜を庭に連れ出した。居室で武田を迎えても会話が成立しないのが分っていた。せめて凜が好きなバラの花に囲まれて穏やかに過ごしている様子を知って欲しいと考えたのだ。

 やがて武田が落ち着いた足取りで庭に姿を現した。明は遠くから手を上げて合図し、緑の葉が茂る桜の木陰で待ち受けた。

「ほら、懐かしい人が来るヨ。君の相棒だった武田健太君だ。」

明が話しかけた。

凜は少し離れたバラの茂みに顔を向けていた。近づく人影に全く関心を示さなかった。

 武田も七十を越した。髪の大半が白くなっている。体型はスリムで引き締まった頬に続く口元に深いしわが刻まれていた。

「ご無沙汰しています。」

武田は明と簡単な挨拶を交わして車椅子の傍にしゃがみ、凜の顔を見つめた。

「健太です、お元気ですか。」と声を掛けた。

凜は武田を見やったが、すぐに視線を逸らした。

「先輩、美しさは変わりませんね。」

武田が笑顔で冗談ぽく続けた。凜は何も答えず遠くを見ている。

明が口を開いた。

「妻は心穏やかに過ごしているよ。病気が進んだのか、困惑して怒ったり、恥じたりということもほとんどなくなった。落ち着いて、静かに暮らしている。…もう私のことも他のことも、全て忘れているようだ。」

武田は言葉を失い、視線を地に落とした。

明は後悔した。見舞客に病状を逐一告げても仕方がない。

「みどりさんやご家族はお元気ですか。」明るく問いかけた。

「はい、おかげさまで皆元気です。ただ…。」武田が言い淀んだ。

「みどりが…体調が悪いというか…。」

「それはご心配ですね…。」

「いいえ、病気という訳ではありません。」歯切れが悪かった。

「実は今、駐車場にいるのです。」

怪訝な表情を浮かべる明に武田が告げた。

「みどりが車を降りようとしないのです。」

そして小さく頭を下げた。「みどりを許してやってください。みどりにとって、いや、あの頃の署の女性警察官にとって、凜さんはスーパースターでした。妻はその思い出を失いたくないのです。」

「そうでしたか、どうぞ気になされずに。」

明が何気なさそうに答えた。

 武田自身が実は凜の姿を目の当たりにして密かな衝撃を受けていた。顎は細く尖り顔面蒼白、目尻から頬に細かな血管が乱れ走るのが透けて見えた。武田は説明できない不安に胸が塞がれた。

「しかし、まったく治療の望みがないわけでもありません。」と明が言った。「IPS細胞を使った治療を行っています。その効果がやがて現われることを期待しています。」

武田が大きく頷いた。

「先端の医療ですね。きっと良い結果が出るのでは…。」

「そう信じています。」

武田が凜に話しかけた。

「先輩、バラの花がきれいですね。」

その声に凜が顔を向けた。武田が「健太です。バラがたくさん咲いていますね。」と繰り返した。凜の記憶のどこかに自分が存在していると思いたかった。

そのまま顔を見合わせていたが、凜が口を開いた。

「おかしな人…。」呟くような声だった。

取り付く島もないと感じて武田は肩を落としたが、すぐに明が告げた。

「今の言葉、普段私以外には口にしません。おかしな人…とは、彼女が気を許した印だと思っています。きっと武田君に何かを感じ取ったのではないかな。」

「そうですか…。」

武田が笑顔で凜を見つめた。しかし凜の視線は武田を通り越した先に向けられている。

武田が数歩離れて凜の正面に立った。突然、敬礼して声を上げた。

「武田警部、これより署に戻ります。」

凜が驚いて武田に目を向けた。二人は無言で見つめ合った。武田はまるで目で語りかけているような面持ちだ。明から凜の表情は見えない。やがて武田が寂しげな微笑を浮かべた。凜の注意がすでにどこかに去っているのだろう。

武田が一つ息をついて力なく言った。

「お会いできて嬉しかったです。いつまでもお元気で…。これで失礼します。」

明に一礼し「どうぞお元気で…。」と別れの挨拶を告げた。

 二人から遠ざかる武田が一度足を止めて空を見上げた。またすぐに歩きだし、駐車場の方向へ去って行く。武田は一度も振り返らなかった。

 

凜はほとんど食事を摂っていない。顔色は透き通るように青白く、車椅子の上で目を閉じている。明は事務長を呼んだ。この日、病院で精密検査を受ける予定だった。

「只今お車の準備をいたしております。今しばらくお待ちください。」

事務長が額の汗を拭いた。いつになく手際が悪かった。

「庭で待ちます。」と告げて明が凜の車椅子を押した。

「バラの花を眺めよう。」

凜に話しかけながら庭に出ると空は一面の雲に覆われていた。バラの細い弦の先端が忙しく揺れている。灰色の低い雲は風を孕み、突然駆けだす直前の子供のように形を蠢かす。頭上を仰ぎ見た明は車椅子もろとも曇天に吸い込まれる感覚に眩暈を覚えた。

「凜、日差しが弱くて却って良いようだ。」

声を掛けると凜の頭が動いた。覗き込むと大きな目を開けている。明を見て口を開けた。なにか告げようとしているように唇の形が「ア、イ、ア、イ…」と動いた。

明は少なからず驚いた。このところ凜は言葉を口にしなくなっていたのだ。顔を間近に寄せた。

「凜、私は聞いているよ。なんでも言っておくれ…。」

凜が静かに笑みを浮かべた。明は根拠もなく凜が認識できているような気がした。

「私だ、明だよ、凜。」

手を揺すると期待とは裏腹に、凜がゆっくりと目を閉じた。言葉は聞こえない。口許に微笑の影だけが残った。

「私はここにいるよ。」

明が手を握りしめた。しかし凜の応えはなかった。

 小さく溜息をついた明だったが、施設の玄関あたりに白い車が見えた。ガッチリした体格の介護士がやって来る。病院へ向かう準備ができたようだ。

「凜、私と一緒に病院に行こう。」

声を掛けた明の顔が曇った。凜の様子がおかしいと思えたのだ。いつの間にか顎が深く沈んでいる。顔色がいよいよ蒼く、唇に血の気がなかった。底知れぬ不安が不意に明を襲った。思わず手で合図すると、介護士が駆け寄った。

「どうしました。」

「妻の様子が変だ。」

介護士は凜のすぐ近くに顔を寄せ、大声で呼びかけた。

「奥様、車の準備が出来ました。」

凜はピクリともしない。

「奥様、起きてください。奥様、いちど目を開けてください。」

凜の瞼が微かに動いたが眼は開かない。介護士が急いで車椅子の向きを変えた。

「どうするんだ?」

明の問いに車椅子を押しながら答えた。

「病室へ運びます。今日は先生がいますので…。」

施設には病室が設けられていて医師と看護師が週に四日間勤務する態勢がとられていた。

 ベッドに凜を移すと同時に医師と看護師が駆けつけた。医師が凜に呼びかけても答えがない。聴診器を体のあちこちに当てた。

「肺に水が溜まっているようですね…。」

独り言のように漏らしてから「酸素の準備。それとアドレナリン。」と看護師に指示した。

「肺に水が…?」

意味もなく繰り返した明は突然の事態に茫然としていた。凜が只ならぬ状況に陥っているのは疑いようがない。だが妻に危険が迫っていると誰からも告げられていない。予兆があったのか? 気づかずにいたのか? 明は自問を繰り返し、ベッドに横たわる凜を医師の肩越しに無言で見つめた。

 医師は手早く強心剤を注射し、細いビニール・チューブで鼻孔に酸素を送った。看護師の処置で医療用のモニターが血圧と心拍数を表示する。再び聴診器を当てた医師が眉間に深い皺を寄せた。

明が堪らず口を開いた。

「いったいどうしたのか、説明してくれないか。」

「心臓がかなり弱っています。」

明の問いに医師が告げた。彼は明に視線を移して「息苦しいとか、胸の痛みを訴えていたのじゃありませんか。」と質した。

「心臓…。」明は唸った。

思いがけない疾病が隠れていたのだ。明はこの不意打ちに言葉を失い、同時に強い自責の念に駆られた。もし医師のいう症状があっても凜が言葉でそれを訴えるのは困難だっただろうと思えた。明は自身の迂闊さに頭を殴られた気がした。

「血圧、五十です。」看護師が声を上げた。

医師が沈鬱な表情で明に告げた。

「ご家族に集まるようお伝えになるのが良いと思います。急いだほうが…。」

明は思考力を失ったかのようだった。目前の事態が絵空事に感じられた。それでも、ただ肯いた。

「血圧、四十…。」看護師の声に切迫した響きがあった。

「お話をされてください。」と医師が明を促した。

明は枕もとに歩み寄った。何を話すべきか分らない。それより状況がよく理解できなかった。

「凜!」と呼びかけた。返事がないのは予想できた。

白く穏やかで小さな顔を見守るうちに、明の脳裏に疑問が恐怖と共に走った。

「先生、妻は息をしていますか?」

医師が急いで凜の顔に耳を近づけた。

「酸素の圧を上げて…。」

看護師に言い終わらぬうちに医療用モニターが警告音を鳴らした。心停止だ。

「AEDの準備。」

医師と看護師が慌ただしく動く。明は信じられない気持ちで立ち竦んだ。

 AEDがセットされ、機械的な音声が流れた。

「体から離れたことを確認して除細動のスイッチを入れてください。」

看護師がスイッチを入れるとベッドの上で凜の体が小さく弾んだ。すぐに医師が聴診器を当てて心音を探す。眉間を寄せて「もう一度。」と指示した。再びAEDが作動し凜の体を電流の衝撃が走る。しかし凜の心臓は動かなかった。

 医師が凜の瞳に細い光を当てて反応を調べた。彼は唇を噛んで腕時計に目をやり、明に告げた。

「ご臨終です。」

「バカな…!」明が呻いた。

医師と看護師がベッドに横たわる凜に頭を垂れ、静かに病室を去るのを明は茫然と見送った。

 信じ難かった。あまりに突然の死の訪れだった。明は妻の白く小さな顔を見つめた。もう凜の命は失われてしまったのだと、事実を受け止めるしかなかった。

 病室のドアが開き、事務長が立っていた。明が手で制して言った。「少しの間二人きりにしてくれないか。妻と話がしたい。」

事務長は戸惑い、しかしすぐに深く頭を下げてドアを閉めた。

 明は部屋の隅から椅子をベッドの傍らに運び静かに腰を下ろした。凜の顔はまるで眠っているように穏やかに見える。それを縁どる髪を明は優しく撫でた。二人はただ静寂の中にいた。

 静かだった。あたりは、世界から忽然と総ての音が消え去ったかのような静けさに包まれていた。

「凜、すまない…。」と小さな声で明が呼びかけた。

「君は逝ってしまったんだね。」

凜の手を握った。血流が悪かったせいかその手はもう冷たい。

「もう、私の声は聞こえないのかい? …凜、私は君を幸せに出来たのだろうか。君は幸せだったかい…。」明は返事を待つように暫く黙った。

「遠い昔、丘の上の結婚式で約束を交わした。あの時の青い眼の牧師を覚えているよ。…凜、私を褒めてくれるかい。私は誓いのとおり君を愛し続けた。最後まで、君の手を離さなかったよ。それは君も同じだったね。最後に私の名を呼んでくれた。口の動きで分かったよ。君も最後まで私の手を離さなかったんだ。」

「凜、私は幸福だった。人を愛する喜び、愛される喜び、それを君が教えてくれた。母の顔さえ知らずに育った私に君が教えてくれたんだ。凜、ありがとう。」

「…凜、君に感謝をはっきりと伝えただろうか。今となってはそれが気懸りだ。それが伝わったら、君はどんな顔をしただろう。とびきりの笑顔かな。」

「凜、君の表情が思い浮かぶ。私を見上げて、なんて素敵なの…と呟くことがよくあったね。勿論悪い気はしなかったよ。そして怒ったときは大きく眼を見開いて、信じられないわッと叫ぶんだ。ありありと目に浮かぶよ。…もうここ何年もそんな君を見ることがなかった。そんな君が見たかった。…一度でよかった。一瞬でよかった。私は君に会いたかった、会いたくて堪らなかった!」

明の頬にハラハラと涙がこぼれた。

 やがて明は気息を整え、ハンカチで顔を拭った。

「すぐに皆が集まるだろう。君が愛し、君を愛する者が駆けつけてくる。少々賑やかになるが勿論君は気にしない筈だ。…凜、君と別れる時が来た。だがさよならを言うのはまだ早い。」

明はドアの外に向かってやや大きな声を上げた。

「誰か来てくれないか。妻を送る準備をしたい。」

そこには事務長と介護士長が控えていた。数人を連れて病室に入ると、いったん整列した。

「ご愁傷様です。」介護士長の声に合わせて全員が頭を下げた。

 入所する老人が園内で亡くなるのは珍しいことではない。職員らは慣れた様子でテキパキと動いた。ベッドよりひと回り小さなストレッチャーが運び込まれた。黙祷の後、遺体の傍に集まる。誰がどこを持ちあげるのか決められているようだ。

「いち、に、さんッ。」

小さな掛け声とともに凜の体が軽々とストレッチャーに移された。ま白い布で体を包む。その美しい顔にも白い布が被せられた。事務長が病室のドアをあけ放つとストレッチャーが慎重に動かされる。施設の一角にある霊安室へ運ぶのだ。明はその後に付き従った。細長い通路を白布に包まれた凜が運ばれる。後を追う明の耳にキャスターの回転する小さな音だけが届いた。

 歩みを進めると、明るい日差しが忽然と通路に溢れた。空を覆った雲が晴れたのか、並んだ窓やガラス戸から眩い陽光が一斉に差し込んだのだ。この輝くばかりの光の渦のなかで明はすぐ傍に、ある存在を感じた。それは明の左腕をとって顔を見上げ、囁いた。

「…なんて素敵なの。」

明は驚いた。

「凜、君だね。」

含み笑いが聞こえた。

「凜、私には君が来ることが分っていたよ。」

明の口元にゆっくりと微笑が浮かんだ。…明は光のなかを歩いていた。暖かく懐かしい、輝く時の中を。

                 (おわり)


   あとがき

 二年余にわたって連載させていただきました。ご愛読、嬉しく、また感謝しています。

 さて、最終章は蛇足との批判は甘んじて受けます。筆者はただ、凜の愛の結末を見届けたい欲求に従ったのです。彼女の愛は何処へ辿り着くのか、どうしても確かめたかった。愛の果て、それは凜の命が失われるときに他ならない。凜の命が終わるとき、その愛も終焉を迎えるだろう。

 私は頭の中で文章を組み立てた。そしてその時が来る。凜の顔に白い布が静かに被せられる。

「凜が死んでしまった!」

私は自ら描いた結末に衝撃を受け、同時に深い悲しみに襲われた。こんなことがあるだろうか、涙が頬をつたう。

「凜が死んでしまった…。」

私は想像もしなかった悲しみに沈み、同時に喪失感に打ちのめされた。

 このとき物語の過程はまだ前半で、明の娘ユリが一時帰国するエピソードを書いている段階だった。それにも係わらず私はもはやこの小説を書き続ける意欲を失いかけていた。愛すべきヒロインが私の中で死んでしまったのだ。

 物語が輝きを失ってしまったのを感じながらも私は執筆をダラダラと続けた。それが義務であるかのような心理状態の中で、筆を止めてしまう理由をどこかに探していた気がする。虚しいともいえる時間が過ぎて、しかし私は徐々に元気を取り戻しつつあった。私の思いとは別に、文章の中で凜が躍動する。それは私の心を癒し、意欲を再び沸き立たせてくれたのだ。最後の章の終わりに数行を加えなければならないと思った。そのインスピレーションはこの経験によるものだ。

 物語は終わった。しかし私にはわかる。我々はまた女刑事の活躍を知ることになるだろう。凜、君は気づいていないようだが君を作り出したのはこの俺なんだぜ。だからこの言葉が嘘じゃないのは分ってくれるだろう。

君とまたどこかの街角で会おう。そのときはそっと肩を抱いてあげるよ。だから驚いていきなり俺の頬をはたくなんてことはやめてくれよ。頼んだぜ、凜!


2021、11,5                Ⅽ.アイザック

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

女刑事物語 Ⅽ、アイザック @c-izack

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ