第17話(3)(4)

「女刑事物語」(17-3) Ⅽ.アイザック

 翌日の午前中、凜に明から電話が入った。明はどこか弾んだ調子で用件を告げた。

「エース輸送の直江社長が君に頼みがあるそうだ。樋口君を迎えにやる。直江君を訪ねてくれ。私も顔を出す。」

凜は直江がどんな人物か思い浮かばなかった。結婚式で顔を合わせたかもしれなかったが初対面が多すぎてその記憶はなかった。以前、樋口から立派な経営者だと聞かされたのみだった。

 一方で一分の隙も無いスーツ姿で現れた樋口は何処かウキウキしている印象だ。凜には彼女が直江への思慕を抱き続けているように思えた。しかし直江には妻子がいると樋口自身が口にしたはずだ。その愛は実らないだろう…。凜は複雑な思いだった。

 エース輸送の真新しい社屋に入って正面の受付に向かうと、一人の男が女子社員となにか押し問答していた。

「社長はお会いしません。そう申し上げました。」女子社員は切り口上だ。

男は五十がらみ。きちんとネクタイをして崩れた感じがしない。スポーツをやっているのか体躯が引き締まって見える。

「五分とかからない。私は社長さんに事情を説明してお詫びしたいんです。」熱心に女子社員へ訴えた。

「もう何度も申し上げました。社長はお会いになりません。」

彼女の顔は苛立ちからか紅潮していた。

 凜は思いがけない事態に遭遇して少々驚いた。小声で樋口に告げた。「なにかトラブルかしら。」

しかし樋口は何事もないかのように「奥様、参りましょう。」と凜を促した。彼女は直江と会う高揚感に包まれていて、その場の男の存在を歯牙にもかけていない素振りだ。女子社員が樋口に気づいて恭しく頭を下げた。男には制服のガードマンが肉迫していた。

「直ちに当社の建物と敷地から退去してください。通報することになりますよ。」とガードマンが警告した。

一瞬、凜と男の眼が遭った。男は途方に暮れた表情を浮かべていた。

「奥様、参りましょう。」樋口が委細構わず重ねて凜を促し、凜はそれに従った。

 エース輸送の直江社長は広々とした応接室で凜を待っていた。渋い色調の大型ソファーがいくつも並んでいて、そこに明と二人で腰を下ろしている。他に誰もいない。凜は思いがけなく目に飛び込んできた明の顔から眼が離せなかった。自分が赤くなっていないかと気にした。

 直江は素軽い動きで立ち上がると凜に手を差し出し、柔らかな物腰で口を開いた。

「あらためてご挨拶させていただきます、直江と申します。今日はお越しいただいてありがとうございます。」

直江を間近で見ると若々しい印象が強い。凜は自分とさほど年齢が離れていないように感じた。樋口によると卓越した経営手腕で会社を飛躍的に発展させたという。たしかに理知的で聡明な雰囲気を纏っている。秀でた額と焦点が鋭く結ばれた瞳によるものだろう。それでいて誠実そうな表情もうかがえる。余人にむやみに疑念を抱かせない魅力的な人物と映った。

「奥様にお願いがあるのですが、まずこちらへどうぞ。」

直江はそう告げて大きな陳列台の前へ凜を誘った。台の上には美しく彩色された大型船の模型が飾られていた。凜にその種類は分らないが、船腹と船首に大きな開口部があり、巨大な扉が張り出すように半ばまで開かれている。

「建造中の大型フェリーの模型です。総トン数が一万五千トン余り。もうほとんど出来上がっていて、塗装などを残すだけとなっています。」と直江が説明した。

凜が物珍しそうに模型に見入った。かなり精巧に造られているように思えた。

 興味深く眺めながら船尾に回り込んだところで凜の足がピタリと止まった。濃紺の船体に「くいーん・りん」と記されていたのだ。凜が気づいたと察したのか直江が微笑とともに口を開いた。

「お願いしたいのはまさにこのことなんです。奥様のお名前をこの船に使わせて頂きたいのです。」

直江はそう述べて、丁寧なしぐさで凜をソファーへ促した。凜は直江の手が伸ばされた明の隣に座った。直江がその正面に腰を下ろし、樋口が離れた場所に慎ましく腰かけた。

「船には女性の名を使うのが慣習らしい。」と明が凜に話しかけた。

「そうなの、知らなかったわ。」

直江が言った。

「はっきりした理由は存じませんが、船には女性の名前が命名されることが多いのです。海の神の機嫌を損ねないためという説があります。つまり航海の安全を願ってのことでしょう。」

「どうだね。」と明が尋ねた。「クイーン凜、良い名前だと思うが。」

凜にとって考えも及ばない依頼だったが、晴れがましい気分に包まれたのも事実だ。凜は顔を輝かせて答えた。

「私の名前を使ってもらえるなんて嬉しいし、名誉なことです。喜んで協力させていただきます。」

直江は謝意を述べた後、「ご相談ですが…。」と切り出した。

「表記について検討しておりますが、ローマ字ですとラインと誤読される可能性があります。そこで『くいーん・りん』と平仮名で大書し、その下にQWEEN RINと並べるのはいかがでしょうか。」

凜が明を振り向いた。明がにこやかに頷く。

「お任せします。」と凜が直江に告げた。

「有難うございます。」直江は深く頭を下げた。

明が口を挟んだ。

「船はいつごろ完成するのかね。」

「一か月後の予定です。進水式には会長にご出席願いますが、ぜひ奥様にもお願いしたいのですが…。」

直江の言葉に明が凜に顔を向けた。

「どうだい、構わないだろう。何しろ君の名が付く船だからね。」

「喜んでそうさせて頂くわ。」

凜はこのサプライズが直江の用意したものだと想像した。鮎川家の妻となった凜の歓心を得ると同時に、祝福を表す行為とも受け取れた。凜は素直にそれを喜んだが、同時に直江の如才ない振る舞いに気圧される感覚もあった。…直江は経営に優れているだけでなく、人をそらさない気遣いができるのだろう。凜は完璧な人物と相対している気分になった。

 その気持ちとなんの繋がりがあったのか、凜はふと樋口のことが気になった。さりげなく様子を窺うと、彼女は微笑を浮かべてその場のやり取りに耳を傾けてはいるものの、直江と瞳を合わさないように用心しているようだった。だがその態度とうらはらに、樋口の全神経が直江に注がれているように凜には感じられた。果たして直江が樋口に顔を向けると彼女は表情を輝かせながらも決して直江を見ようとしなかった。ストイックなまでに秘書の役割に徹していた。やがて凜は自分がどこかで直江に腹を立てているのを感じた。

 「ねえ、樋口さんのことなんだけど…。」とその夜、凜が明に切りだした。「あの方、私と同じくらいの年齢だと思うけど、結婚はしていないわよね。今、彼氏がいるのかしら。」

唐突な話題に明が戸惑いながら答えた。

「いや、誰かとお付き合いをしているとは聞いていないが、彼女が口にしないだけかもしれない。はっきりしたことは分からないが、どうかしたのかい。」

「誰か好きな人でもいるのかしら。」

凜が探るように明の眼を覗き込んだ。

「さあ…。」

樋口の直江に対する感情に気づかないのか明が首を傾げた。やはり夫はこの手の話には鈍感なのだと凜は思った。

「もし恋人がいるわけじゃないなら、明さん、どなたか紹介して差し上げたら? つまり結婚相手を。」

「凜、いきなりだね…。」

それから明が少し間を置いて言った。

「たしかに樋口君は結婚していてもおかしくない年齢だ。私だってその辺りは無関心なわけじゃない。いい人がいれば…と思うし、彼女が結婚するとなればこんな嬉しいことはない。どんな協力もさせてもらうつもりだ。でもね、こればかりは本人にその意思があるかどうか…ということじゃないかな。」

「だからいい人をひき合わせてあげるのよ。樋口さんがその気になるような人を。あなたは沢山お知り合いがいるはずよ。」

「たしかにそうだけど、樋口君にも好みというかタイプがあるだろうし…。凜、正直に言って私はこういうのは苦手だ。彼女に何がしてあげられるのかわからない。それに私の知人のことごとくを彼女も知っている。紹介すると言ってもね…。」

凜の不満そうな様子に、明が急いで付け加えた。

「本人に聞いてみよう。もし好きな男性がいるということなら彼女を強力にバックアップする…どうだね。」

凜は寂しげな微笑を浮かべた。樋口が恋する男の名を口にすることはまず無いだろう。

「なにかあったのかね?」

沈黙した凜へ明が心配そうに尋ねた。

凜は考え込むように、ゆっくりと口を開いた。

「私、直江さんに相談してみようかしら。あの人は細やかな心配りができる人だと思うわ。」

「ちょっと待ってくれ。君は樋口君になにか頼まれたのかね。相談でもされたのかな。」

「そういう訳じゃないけど…。そうした方が良いって思いついたの。」凜はこのとき直江と対決してみようと考えていた。それは不意に脳裏に浮かんだことだ。直江が樋口の気持ちを悟っていながら素知らぬ振りをしているとしたら、それが樋口の思慕の念を迷路に閉じ込める結果につながっているのではないかと疑ったのだ。直江に下心があるとは思いたくなかったが、果たしてどうか確かめる必要があると感じていた。

「待ってくれ、君の親切心が却って樋口君を困らせることになりはしないかね。ここはよく考えた方が…。」

明の反応はあくまでも穏当なものだった。

「大丈夫、私に任せて。」

凜が強引ともとれる言葉を口にすると、明は心配そうに言った。

「君が無理する必要はないんだよ。おせっかいはやめよう…。」

凜は黙って微笑んだ。

 翌日、凜がエース輸送を訪ねると直江がにこやかに迎えた。

「私で出来ることでしたら何なりと…。」

相談したいことがあるとだけ伝えていた。

凜は本当のところ迷いの中にあった。もしかすると樋口を傷つけるだけで終わるかもしれない。夫の危惧が現実となるのは避けたかった。どうする?

「実は、ご相談というのは樋口さんのことなんですけど…。」口に出してしまうと腹が決まった。あとは黙って直江を窺った。

直江は表情を動かさずに言葉を待っている。だがその自身の態度に不自然さを感じたのか「と言いますと?」とにわかに興味を抱いたかのような顔をしてみせた。凜は直江が樋口の思慕に気づいていると確信した。

「樋口さんと二人でおしゃべりしたことが一度だけあります。互いの年齢など話しました。そのとき彼女には好きな男性がいると知ったのです。でもその恋は実ることがないわ。相手には家庭があるのですから…。」

直江は無言だ。

「私が他の人を好きになった方が良いと言ったら、樋口さんはずいぶん怒ったわ。直江さん、私は彼女に普通の恋を見つけて欲しい。直江さんに相談というのは、誰か良い人を彼女に紹介してもらえないかというお願いです。」

凜が真っ直ぐ直江を見つめた。

短い沈黙の後、直江が静かな声で言った。

「驚きましたね…。奥様と深いかかわりのある事と思えませんが、それでしたら会長から樋口さんに働きかけるのが自然ですね。私はお役に立てそうもありません。」

「直江さんが協力してくださると良いんだけど…。」

「協力は喜んでさせていただきますが、私から樋口さんに直接コミットするのはご容赦ください。」

「だめなの?」凜はしつこい。

直江は困惑を滲ませて両手を組むと、言葉を選びながら慎重に口を開いた。

「奥様がご推察のとおり、樋口さんは私に好意を抱いてくれているようです。それに気づいたときは、困ったことになったと感じたのが正直なところです。すぐにハッキリと拒絶するのが正しかったのかもしれません。しかし私は彼女に好感を持っていました。だから彼女を傷つけたくなかった。…結局私は彼女の好意に気づかぬふりを押し通してきました。けれども私の態度はそう不自然なものではなかった筈です。樋口さんと顔を合わせるのは月に数回に限られていますから。」

「ではこれからもそれが続くということかしら。」

「彼女の気持ちが変わってくれるのを期待しています。」

「それは却って可哀そうだと思いません?」

「どうでしょうか。樋口さんとは同じ企業グループの一員というだけで、密接な関係じゃありません。彼女は私の秘書じゃないのです。私があえて彼女の心を踏みにじる必要はどこにもありません。」

凜は黙り込んだ。直江の言うとおりだという気がした。当初の意気込みはどこかへ去り、後悔が湧いてくる。軽率だったと認めるしかなかった。明の心配が当たってしまったようだ。

直江がそんな凜の気をほぐすつもりなのか明るく語った。

「樋口さんは社内でいわゆる高嶺の花の存在です。彼女がその気になれば結婚相手に事欠かないはずですよ。奥様の気持ちも分かりますが、多分心配は無用でしょう。」


 凜は直江のオフィスを後にして暫くぼんやりと歩を進めた。気が抜けてしまった。直江に唐突な印象を残しただけで終わったようだ。思わず苦笑した後で、車を呼んでもらえばよかったと立ち止まった。エース輸送の建物がすぐ後ろに見えている。凜は少し迷ってまた歩き出した。タクシーが拾えるだろうと考えたのだ。

 小さな公園が目に入った。歩道からの入り口に芝生が帯状に植えられている。グランドの土や砂が歩道側にこぼれるのを防ぐ意味と思われた。明るい日差しの中で緑が目に鮮やかだ。誘われるように凜が足を踏み入れた。公園には他に人影がなかった。

 このとき凜を追って一人の男が近づいた。「もし…。」と声をかけた。

振り向いた凜に見覚えがあった。昨日エース輸送の受付で女子社員と揉めていた人物だと気づいた。

「なんでしょう。」警戒心が声に出た。

男は精一杯の愛想を湛えて問いかけた。

「直江社長の奥様ではありませんか?」

「違います。」

凜が即座に否定すると、男はなにか納得できないのか僅かに首を傾げた。

「昨日直江さんの会社であなたをお見かけしました。私は直江さんと取引があった者です…。」

凜は合点がいった。樋口が「奥様」と口にしたのを聞いて勘違いしているのだ。

「直江社長の奥様じゃないのですか…。」男が重ねて尋ねた。前日と同じように何処か切羽詰まった雰囲気があった。

「違います。」凜があらためて答えた。

男は落胆した様子をみせながら「直江社長に取り成してほしかったんだけど…。」と未練がましく独り言ちた。

凜は少しばかり男が可哀そうになった。たぶんエース輸送から仕事を断られたのだろう。エース輸送には多くの下請け会社があると樋口が教えてくれた。男はそんな会社の一つに関係しているのではないか。だが男は随分と困っている様子でありながら下卑た言動をみせない。恨み、怒りを匂わせないのだ。放っておくこともできたが、凜は男に同情を覚えた。

「私は鮎川の妻で凜と申します。」

突然口にしたのは男に目の前にいるのがエース開発グループの会長夫人と気づかせたい思いがあった。もし男が事情を告げてくれればなにか力になれるかもしれないと考えたのだ。

「そうですか、会長さんの…。」果たして男が顔を輝かせた。「お名前が凜さんとおっしゃる。」

凜が頷くと、その顔を男は見つめた。なぜか表情から明るさが消え、いつしか黙り込んでいた。やがて男は口許を僅かに蠢かせた。凜の名を呟いたのだ。不自然にもまだ凜を見つめている。

 凜が奇異に感じて「どうかしましたか。」と質したが、男は何も答えない。やがて凜の顔か表情に何かを見い出したように目を見開いた。

「もしや…。」男の声が震えた。

「もしやあなたのお父さんはシゲルさん…?」

茂は父の名だ。凜は偶然に出くわした見知らぬ男が父の名を口にしたことに驚いた。

「そうですけど…。」いったい誰なのか訝った。

男が呻き声をあげた。その眼に恐れと緊張の色が浮かぶのを見て凜にある予感が奔った。

「島かッ。」声を押し殺して鋭く糺した。

男は地面に崩れるように両ひざを突いた。

「島 達彦ッ。」凜が叫んだ。衝撃が体を貫く。島 達彦は父を殺害した銃撃犯だ。

「立てッ。」

だがその暇も与えず首許のシャツを両手で握りしめた次の瞬間、凜は力一杯手首を交差させて締めあげた。「グエッ」というような呻きが男の喉から漏れた。島はあえて抵抗を試みなかったがもう遅い、頸動脈の血流が極端に減って島は凜の手を掴んだ腕を痙攣させた。

 凜は力を緩めない。激しい感情の渦が凜を襲っていた。幼いときから積もり続けた怒りと憎しみ、その対象が突如として目の前に現れたのだ。

「殺してやるッ。」

凜はその声を聞いた。それが紛れもなく自身の口を突いたものと悟った刹那、凜は愕然として両腕の力を解いた。自分が信じられなかった。今、危うく罪を犯す瀬戸際にいたのだと自覚して体がガタガタと震えた。

「二度と…。」凜が圧し潰されたように吐き出した。「二度と俺の前に姿を見せるな。」

くるりと背を向けた。

 島は公園の土に蹲り両手で喉の辺りを押さえて咳き込んだ。それから凜の後ろ姿に片手を伸ばした。激しく息をついてようやく「待って…。」と呼び掛けた。「…待ってください。」

凜が振り向きもせず去ろうとすると、島は必死に声を上げた。

「あれは事故だったんです。信じてください。」

凜の足が止まった。怒りの炎がゆらめく瞳を島に向けた。

「事故だった? 事故?」

「本当なんです。信じてください。」

島は凜を見上げて声を振り絞った。「あなたにだけは信じて貰いたい。私は撃っていない、本当です。」

「お前は殺人罪の判決を受けた。人を殺したんだ。」

凜が叩きつけるように言うと、島が両手をついた。

「私が銃を持っていたためにあなたのお父さんは命を落とされました。いくら詫びても許されないことは分かっています。この通りです。」

島は頭を地面に擦り付けたがすぐに顔を上げて再び口にした。

「でも、私は撃っていない。本当なんです…。」

凜は額に砂が付いた島の顔を睨んで無言だ。男への怒りと憎しみが熱病のように纏わりついている。口を開けばまた感情が爆発しそうで凜は唇を固く結んだ。

「誰も、…検事さんも、裁判でも私の訴えを信じてくれませんでした。でも、茂さん…お父さんは最後までそれを証明しようとしてくれました。私のために。」

島の意外な言葉に凜は耳を疑った。

「今なんと言った。」島の眼を見つめた。

                    (つづく)






    「女刑事物語」(17―4) Ⅽ、アイザック

 朝倉刑事は島 達彦が居住するアパートに到着した。土曜の午前中だ。在宅の可能性が高いと踏んでいた。同行の刑事と二手に分かれて四階の部屋へ向かう。相棒はエレベーターを使い、朝倉は階段を上った。島が改造のモデルガンか拳銃を所持している容疑を抱いていた。

 発端は、走行中の車内から歩道を散歩する犬に向けてエアガンを発射した事件だった。飼い主の訴えを受けて現場周辺で情報を集めるさなか、小学生の男子児童がエアガンで足を撃たれる事件が発生した。やはり走行する車の中からの犯行で、同一犯の可能性が疑われた。被害児童の足に傷が認められたことから傷害事件として所轄署の朝倉刑事が捜査を担当することになった。

 事件の発生時刻に絞って付近を通過した車両の洗い出しをする中で、タクシーの車載カメラにそれらしい映像が残されていることが突き止められた。タクシーの前を走る車の窓から細い筒状の物が突き出されている。歩道を歩く児童が突然足を押さえて立ち止まる姿も捉えられていた。

 車のナンバーからすぐに所有者が判明した。二十五歳の会社員だったが、同乗者がエアガンを撃ったと素直に認めた。詳しく話を聞くと、児童が被害を受けた当日は職場の同僚とその友人を乗せていたという。三人はモデルガンやエアガンの収集が共通の趣味だった。車にエアガンを持ち込んだのは同僚だったが、エアガンを発射したのはその友人だったと証言した。桑田という名前以外は知らないという。エアガンの発射音がしたのでバックミラーを見ると桑田が後部座席でそれを手にしていた。歩道に小学生の姿が見えたが、このときBB弾が足に当たったとは気づかなかった。また散歩中の犬については、別の日に同僚が撃ったもので、「止せよ。」とすぐに注意したと説明した。

 刑事たちは次にその同僚に事情を聴いた。「器物損壊罪」の容疑があると追及したのはその後の情報を引き出すためだった。男は青くなって項垂れたが実は犬に被害があったか証明されていない。朝倉は本題に移った。

まず小学生を撃ったのが桑田という人物だったと確認された。男は桑田と最近になってSNSを通じて知り合い、エアガンやモデルガンの情報を交換した。趣味が同じことから数回会って、桑田宅にも一度行ったことがあるが特別に親密な仲ではない、と供述した。

男は捜査員の求めで桑田の住所を告げる際、気になることを口にした。桑田が本物の拳銃を持っていると語った、というのだ。それは男が自宅のガレージで自慢のモデルガンを見せたときだった。カートリッジと呼ばれる火薬式の弾をフルオートで連射すると、銃身の一部がコンマ何秒かの速さでスライドを繰り返し薬莢に見立てたカートリッジが次々と横方向に弾き出される。あっという間に七発を撃ち終えた。満足げに振り向くと驚いた様子の桑田が短い沈黙の後、声を押し殺して「すごいけど、俺は本物を持っている。」と言ったというのだ。

話を聞いていた朝倉刑事が身を乗り出した。

「拳銃を見たのか?」

「見てはいません。」

同行の大山刑事が問い質した。

「桑田とはどんな人物だ。拳銃を手に入れるなど簡単にできることじゃない。」

「さっきも言いましたが詳しいことは知らないです。」

朝倉が尋ねた。

「桑田の家へ一度だけ行ったというが、もし拳銃を持っていたら見せて自慢しそうなもんだが…。それはなかったわけだな。つい見栄が口から出てしまったか、あるいは改造モデルガンを持っているのかもしれないな。」

再び大山が口を挟んだ。

「さっき火薬式のモデルガンを撃ってみせたと言ったが、それは改造すれば実弾を発射できるということか。」

男は即座に答えた。

「それは無理だと思うけど。金属製のモデルガンは改造防止のため銃身を鉄材で充填してあります。銃口から薬室までインサートメタルで完全に埋まっているんです。…でも、コンピューター制御の旋盤などを使えば可能かもしれません。」

「そうか、分った。最後になったが桑田が使用したというお前のエアガンは暫く預からせてもらうぞ。」

男は渋々肯いたが不機嫌に呟いた。

「人を撃つなんて考えられないよ、アイツ…。」

似たようなもんだ…と刑事達は呆れた。

朝倉らは桑田のマンションに急行した。ドアのチャイムを鳴らすが応答がない。留守なのか。無意識にドアノブに手を掛けると鍵が開いている。刑事は顔を見合わせた。

「桑田さん。」中へ呼びかけた。

「警察です。いらっしゃいますか。」

人の気配がして、やがて男がドアを開けた。島 達彦だった。

「桑田さんですか。」

「いや…。」と島が否定した。

同時に奥から別の男の声がして桑田が小太りの体を現した。

「桑田だけど。なに?」

朝倉が言った。

「桑田さん、エアガンのことで話を聞きたいんだけど、何のことか分かってるね。」

桑田は驚きをみせ、すぐには返答しなかった。

「分かってるな? 子供が怪我をした。一緒に来てもらうぞ。」

朝倉が畳みかけると桑田は小さく肯いた。

 大山が島に話しかけた。

「どういう関係?」

「友人です。」と島が答えた。

「君もモデルガンやエアガンが趣味なのか。」

「いや。全然。」

「じゃ、どういう知り合いなの。」

「高校の同級生です。」

「そうか…。悪いがこれから桑田君に用事なんだ。」

その言葉に島は刑事達にペコリと頭を下げた。

「では自分は失礼します。」

それから桑田に向かって「またな…。」と告げて廊下を去っていく。右手に小さなバッグを携えていた。

 黙って後ろ姿を見送る朝倉に「この格好で良いですか。」と桑田が声を投げた。

「君が良ければね。」

答えた朝倉が桑田の真正面に立ち塞がった。

「ついでに部屋の中を少し見せてくれないか。」

桑田は断れないと思ったか、短い逡巡の後に小さく肯いた。

 賃貸の1Kに桑田は一人で住んでいた。若い男の所帯にしてはきれいに片付いている。ベッドを兼ねたソファーに相対してテレビと木製の白い棚が並び、そこには十丁ほどのモデルガンが整然と陳列されていた。どれも精巧にできているように見えた。

「これは全部モデルガンか。」朝倉の問いに桑田は黙って肯いた。

「エアガンは無いのか。」

桑田が棚の一隅を指した。金属製の小さなボンベが付いた拳銃型のエアガンが無造作に転がっていた。

「エアガンはあまり大切にされていないようだな…。」

「連射できるから買ったんだけど、ダサいよ。」と桑田が吐き出した。

「モデルガンの方は本物そっくりに出来ているようだが、改造すれば実弾が撃てそうだな。」

大山の言葉に口元を歪めて否定した。

「無理、無理。そんなことしたらバラバラに壊れちゃうよ。」

「え?」刑事は意外そうにモデルガンを見渡した。「つまりこれは金属製じゃないってことか。」

「ぜーんぶ硬化樹脂製だよ。金属製は値段が…。」

桑田の声が不意に途切れた。朝倉は表情の変化に気づいた。桑田は大きく目を剥いて棚の一角を凝視している。そこには黒い箱が置かれていた。ティッシュペーパー二箱分ほどの大きさだ。

視線の先を追った朝倉がすかさず尋ねた。

「箱の中は何だ。良かったら見せてくれるか。」

桑田はゆっくりとした動作で箱を手に取り、そのまま刑事に渡した。

「これ、モデルガンの手入れに使うんだ…。」と説明した。

蓋を取ると数本の細いブラシと透明な瓶が布に覆われて納まっていた。朝倉が鼻を近づけて匂いを嗅いだ。鉱物油のようだ。…これでモデルガンの手入れをするのか。漠然とした違和感を抱いた朝倉が、突然あることに気づいた。

「ここにあるモデルガンは全部が樹脂製だと言ったじゃないか。オイルのようなもので手入れするのはおかしいんじゃないか?」

桑田は唇を震わせた。緊張した様子が感じられた。喋ろうとして、ついに言葉が出ない。

「実はね…。」朝倉が疑念を口にした。

「もしかしたら君が改造したモデルガンか、ひょっとしたら本物の拳銃を持っているんじゃないかと考えているんだ。」

桑田は視線をそらして何も答えない。

「君自身がそう喋ったそうじゃないか。」

桑田は沈黙を続けた。…否定しないのか、と朝倉は驚いた。

「もし持っているなら出しなさい。悪いようにはしない。」

「そんなの、ありません。」やっと声を絞り出した。

大山が口を開いた。

「令状を取って家探ししても良いんだぞ。自主的に出せば刑が軽くなることもある。」

「ないですよ。家宅捜索でもなんでもやれば。」

桑田は急に態度を変えて強く反発した。

「そう怒りなさんな。こっちも決め付けようってんじゃない。だからこのオイルとブラシはどう使うのか、納得のいく説明をしてくれ。」朝倉が穏やかな口調で質した。

桑田は蒼褪めた顔を俯かせて黙りこんだ。刑事たちは顔を見合わせた。当初まさかと思ったのだが、今となっては銃器不法所持の容疑が現実になろうとしていた。桑田を任意同行するとともに部屋に第三者が出入りしないように規制する必要があった。とりあえず署に応援を求めた。

 このとき朝倉の脳裏に今しがた桑田の部屋を去った男の姿がよみがえった。小さなバッグを小脇に抱えていた。

「さっき出て行ったのは誰だ。」

朝倉の問いに桑田は動揺した。

「誰って…、知り合いです。」

「名前は?」

すぐには答えない。

「名前。」厳しい声になった。

「島です。」

「住所は?」

桑田は追い詰められた表情で刑事を見返した。

 刑事たちは桑田の態度からある疑いを強くした。突然の警察官の来訪を知った桑田が、違法に所持したモノを居合わせた友人に咄嗟に預けたのではないか。可能性がないとは言えなかった。


 アパートに戻った島は手提げバッグの中を確かめた。モデルガンとは思えなかった。島は動揺した。桑田が「警察だ。」の声を聞いて慌てて島のバッグに拳銃らしいものを押し込んだのだ。

「どこかコインロッカーに預けてくれ。ワリイな。」囁いて島の背を押した。早く帰れと言わんばかりだった。

 桑田とは高校の同級生だ。互いに腕っぷしに自信があったせいで入学早々にケンカになった。やがて気心が知れて、いつの間にか友人になり、卒業後も時々会って酒を飲んだ。

 社会人になった桑田はいつの間にかモデルガンに熱中していた。ついには海外まで出かけて射撃練習場で実弾を撃ったと自慢した。島はあまり興味がなかったが適当に話を合わせた。しかし「本物の拳銃を手に入れるつもりだ。」と口にするのを聞いて、さすがに不安を感じた。

「それはヤバイよ。バレたら刑務所行きだぜ。」と諫めたが、桑田に聞く耳は無いようだった。

「射撃場で日本人の年寄と知り合った。在日米軍のキャンプで何十年もバーで働いていたらしい。いろいろと話をしたよ。帰国したら会おうって約束したんだ。俺が欲しいものが手に入るかもよ…。」

桑田は秘密めかして笑ったが、島はその言葉の意味を突然知らされたことになる。

 手に取ってしげしげと眺め、それが本物の拳銃だと確信して島は迷った。友情を取るべきか、社会的常識に従うべきか。本来であれば警察に届けなければならない。しかし桑田は拳銃を犯罪に使用するような人間ではないと思いたかった。ここは一旦桑田の依頼どおりコインロッカーに預けておいて、本人が自発的に警察に提出するのを待つ方法もある。それとも頼みは果たすが桑田とは距離を取って関わりを避け、様子を見る。その場合は預かったものが何か知らなかったと通すつもりでなければならない。共犯とされるのは我慢できないと思った。

 どう行動するか、すぐには結論が出ないなか、このまま拳銃を室内で保管するのがマズイことだけは頭に浮かんだ。急いでどこかのコインロッカーに収める必要があった。島はまず拳銃に付いたであろう自分の指紋を拭きとった。あとは容れ物だ。バッグや袋はダメだと思った。指紋を消し去っても運ぶときにまた付いてしまう。手袋が何処かにある筈だが見つけられないのだ。袋などに自身の指紋が残されていても中身を知らない主張と矛盾するとは限らないのだが、焦った島はそこに思い至らなかった。タオルで巻いてコインロッカーに入れることにした。タオルに指紋は付かないと単純に考えたのだ。運ぶ時だけ紙袋に入れればいいわけだ。

 タオルを手にしたとき庭から車のクラクションが聞こえた。嫌な予感がしてベランダから見下ろすと駐車場の出入り口で車が離合に苦心しているようだ。譲り合いのすえ、見慣れぬ乗用車から先ほど出会った刑事が降り立つのが四階の高さから見てとれた。島は息が止まるほど驚いた。震える手で拳銃をタオルで包み急いで部屋を出た。エレベーターを避けて階段へ向かった。一度立ち止まった。財布は身に付けていたが拳銃をタオルだけで掴んでいるのに気が付いた。しかし引き返す暇がない。そのまま階段を駆け下りた。

 二階まで下りたところで靴音を聞いた。階段を上ってくる気配だ。手許に目をやるとタオルが捩れて拳銃のグリップが露出している。着古したセーターの袖を一杯に引っ張ってグリップに被せ、さらに手首ごと前裾で覆った。素知らぬ風で行違うしかない。

 階段を上がって来た男は「おっ。」と声を上げて島の行く手に立ちはだかった。

「島君だね。」男がそう念を押した。刑事だ。

「はい…。」島は観念した。刑事が来たのは拳銃を探しているからだろうと思った。

「先ほども会ったが、東署の朝倉だ。」

刑事はそう名乗って島のセーターの膨らみに目を落とした。

「これ、桑田から預かったモノだね?」

島が黙って肯いた。

「渡しなさい。」

朝倉は差し出された銃身を素早く握って銃口を壁に向けた。

「手を放して…。」

島は言われるままに掌の指をパーに開いて、項垂れた。罪に問われるのは確実だと考えた。

 次の瞬間、島の目の前に閃光が走り、乾いた破裂音がした。朝倉が後ろ向きに倒れ、拳銃が床に固い音を立てて転がった。島は何が起きたのか理解できなかった。

「刑事さん?」硝煙が刺激臭となって立ち込める。

朝倉は上体を起こそうとして藻掻いた。背中の半分と頭部が二階通路の踊り場から下降階段へはみ出している。島が助け起こすと、朝倉は床に腰を下ろして壁に凭れ掛かった。右の脇腹辺りを掌で押さえている。そこに血の色が見えた。暗赤色の染みはシャツを濡らして見る間に広がっていく。島の口から悲鳴に似た声が漏れた。破滅的な悲劇が起きたと悟ったのだ。

「すぐ救急車を呼びますから。」

告げて島は最も近いドアに走った。片手で叩きながら叫んだ。

「お願いします。救急車をお願いします。」

島はパニック状態にあった。忙しく足踏みすると、返答もなくいきなりドアが開いた。

「なに。うるさいよ…。」無精ひげの中年男がだらしない部屋着で立っていた。

「救急車を呼んでください。急いで…。」

島の切羽詰まった様子に男が首を突き出して辺りを窺った。階段の床に蹲る朝倉に気づき、シャツの血に息を呑んだ。

「いったいどうしたの。」

不安な面持ちの男が眉を寄せた。焦げ臭い匂いがしたのだ。床に落ちたタオルの端から幽かに煙が立っている。男は目を凝らして眺めたが、慌ててドアを閉じた。中から施錠する音がした。

「救急車を…。」島は住人へ念を押して朝倉のもとへ駆け寄った。出血がさらに増えている。

「今の男を呼べ…。」朝倉が苦しい息で島に告げた。

「えッ。」

「暴発事故だと伝える。あの男が証言してくれるだろう。」

島は言われた通りドアに走り寄った。

「刑事さんが…、あの人がアンタを呼んでる。」

ドアを叩きながら声を掛けると、部屋の奥から男が叫んだ。

「ドアから離れろ。警察を呼んだ。近づくな。」

島は急いで朝倉の傍に戻った。

「救急車を呼んでくれたみたい。もう少しで来るよ。」励ましたつもりだった。

朝倉は血に染まった手をモゾモゾと動かし黒い手帳を取り出した。ページを開いて何か書こうとして、その手がパタリと落ちた。眼を閉じ、苦しそうに息を次いだ。

「どうしたの。何を書くの。」

「暴発だったと書く…。」

その力がもはや残されていないと島は感じた。

「今はジッとして、動かないほうが…。」

島は刑事が命の危機にありながら暴発にこだわる意味がよく分らなかった。朝倉が意図したことの重大性を理解したのはずっと後、自身の裁判が始まってからだった。

 島は両膝を突き、手に触れたタオルで朝倉の傷口辺りを押さえた。少しでも出血を止めようとしたのだが、それが簡単でないことがすぐに感じられた。救急車はすぐには来ないだろう。刑事は多分死ぬかもしれない…。島の目から自身でも思いがけず涙が流れた。

「リンを頼む…。」

朝倉の口から言葉が漏れた。それはこの場にいない誰かに向けられていた。島はハッとした。刑事は何か言い残そうとしている。

「刑事さん、誰に何を頼むのですか。」

朝倉は顔をゆっくり島に向けたが、意識が薄れているようだ。

「俺が伝えるから。何を頼むの?」

大声が届いたのか朝倉の目が島を捉えた。息を吸い込んで絞り出すように言った。

「リンは娘の名だ。幸せになってくれと…。」

「分った。幸せになってくれと伝えるよ。」

朝倉は幽かに肯き、微笑して呟いた。

「娘には、ハートの形のホクロがある。…愛情に恵まれる印なんだ。きっと幸せになる。」朝倉が目を閉じた。

「刑事さん。」

島が呼びかけると朝倉は目を開けた。島をジッと見つめているようで、どこか朦朧としている。

「しっかりしてよ。」島が悲痛な声を上げた。

朝倉の唇が僅かに動いて小さな声がこぼれた。

「島君、立派に更生するんだよ…。」

島はよく聞き取れなかった。「コーセイって?」

朝倉の首がガクリと垂れた。愕然とした島の叫びが虚しく壁に響いた。燃え尽きる炎が躊躇いがちに消えるように、命は静かに失われた。


 「朝倉さんは、私が暴発だと説明しても認められないと分かっていたんですね…。後になって朝倉さんの気持ちの有難さが分りました。でも私は自分の務めた刑期に文句を言う資格はない。ただ知って欲しかった。私は朝倉さんを撃っていない。信じてください。」

凜は長い息を吐いた。島の話は内容に不自然な点がなかった。父の傍らに手帳が残されていた事にも説明がつく。

「とりあえず、立って…。」

凜の声からは憎悪の気配が消えていた。

「もう少し話を聞かせて。」背凭れのない細長いベンチを指し示した。

「父との遣り取りは調書になかったけど、警察で話さなかったの。」

「話したが真剣に取りあってくれなかった。何度も質問されたのは、拳銃を握っていたのは両手か、片手なら左右どっちだ…と。それからなぜ逃げなかったのかと。」

「だけど、銃の暴発は自然現象のように突然起きたりしない。理由がなければ起こり得ない、と私は思う。」

凜は島が暴発の原因としてセーターの袖が拳銃の引き金に引っ掛かったと主張した記録を覚えていた。

「あの時…。」島は言いかけて慌てて口を噤み、凜に視線を走らせた。俯いて言葉を選んだ。

「私は記憶が跳んでいました。ハッキリとはしませんが、セーターの袖が引っ張られた感覚がありました。だから袖が引っ掛かって暴発したと訴えました。けれど取り調べの刑事さんがいい加減な事を言うなと机を叩きました。言われてみて、あり得ない事なんだと思いましたが、他には何も思い出せなかった。」

島は地面に目を落として言った。

「後々、何度も記憶を追いました。何が起こったのか、正確に思い出そうと努力した。刑務所では時間が十分ありましたから…。しかし結局は確証のない推測にしかたどり着けませんでした…。」

「推測とは?」

「拳銃の指紋を拭ったときに安全装置に触れてしまったのではないかということ。それから階段を降りながら拳銃の握りをセーターの袖を引き下ろして覆ったとき化学繊維が引鉄に絡んだのではないかという推測です。ループ状の繊維が引鉄に引っ掛かるのはあり得ない事じゃない。…しかし根拠を示すことはできない。同時にそんなことで暴発するだろうかという疑問を自分でも抱きました。結局考えは同じところをぐるぐると回り続けた。ずうっと…。」

凜は事件の公判に使用された書類の内容を思い浮かべた。検察による事実認定は、「拳銃を押収しようとした捜査官と押し合いになり、逮捕を逃れようと短絡的な意図で発砲した。相手が死亡しても構わないとの冷酷で利己的な犯行だった。」というもので、判決では大きな誤りは無いとしてその概略が採用されている。凜は公判記録を調べた当時に抱いた違和感を、島本人を前にしてあらためて感じた。それは拳銃の実弾を含む加重所持であっても三年以下の懲役だ。これを逃れようと殺人を犯すだろうかという疑問だ。検察が示した「短絡的、冷酷、利己的」という犯人像が目の前にいる島にはそぐわない気がした。だが二十五年もあれば人は変わる。何が真実なのか…。

もう一つ、犯行に使用された拳銃に付いての鑑識結果の一部が検事調書には記載されていなかった。拳銃は米軍基地の従業員だった男が親しかった米兵から譲り受けたもので、軍用拳銃ではなく個人で所有していたリボルバー式のものだった。記載がなかったのは拳銃がアメリカ中西部でひと昔前に行われた早撃ちコンテスト用に改造されていたことだ。引鉄を絞る力が通常の十分の一程度で撃鉄が落ちるフェザータッチと呼ばれる仕様に改められていた。検察はこれを犯行とは無関係と判断したようだったが、島の主張と組み合わせると新たな事実に結びつく可能性があると凜は考えた。

そしてなにより重要なのは、島が真実を語っているとすれば父は暴発を認めていたことになる。

「父は手帳を書こうとした後、なにか喋ったのか。」

「あなたを頼むと…。奥様に…。」島が口にして深く頭を垂れた。

凜は複雑な思いに苛まれながらも尋ねた。

「その他には…なにか?」

島は凜から顔を逸らせたままで遠い記憶を辿るように口を開いた。

「娘にはハートの形のホクロがあるから、きっと幸せになる…と。」

凜は絶句した。それは自分を銃撃した犯人に語るなどあり得ない内容だ。…島は二十五年前の真実を告げているのではないか。凜の心が揺れ動いた。

「私には、きっと更生するように…と言い残されました。その言葉を大切に、働いてきたつもりです。」

 凜が腰を上げた。二、三歩足を運んだが振り向き、考え込みながら言った。

「あんたの言う事を信じても良いと思う。…そんな気がする。」

島が勢いよく立ちあがった。

「私は今、ただ嬉しくて有難い気持ちで一杯です。私の言葉を信じて貰える、それだけで苦しみが軽くなるようです。」

島は訴えた。「私は許して貰えるとは考えていません。ただあなたの言葉を胸にこれからも更生の道を歩みます。…きっと、誓います。」

「何か私にできることがあれば…言って。」

つい口に出た自分の言葉に凜は驚いた。

島は頭を振った。

「お気持ちだけで充分です。…有難うございます。これで失礼します。もうお会いすることはないと思います。」

深く頭を下げて、島は凜の前から立ち去った。

 凜は茫然と佇んだ。頭の中を整理しきれないでいた。島は殺人犯ではない。しかし島が拳銃を隠匿しようとした結果、父の命が奪われたのは紛れもない事実だ。凜の感情は行き場を失い、激しくうねった。一方で過重な刑務所での年月を強いられた島に同情する自分がいるのも確かだった。

 やがて凜は自分の心が解き放たれる感覚を抱いた。幼いながら父の死を理解した頃から抱いた悲しみと悔しさ。それはやがて怒りと憎しみとなって心の奥底に永い間埋もれ、棲み続けてきた。それが突然開けた空に羽ばたく鳥の群れのように飛び去っていく。凜は青空を仰いだ。「お父さん…。」と呟いた。

 体中の緊張がほどける気がした直後、凜は出し抜けに吐き気が込み上げるのを感じた。胸の辺りに手をやって首を傾げ、不思議そうに眉を寄せた。


 明が帰宅するとウメが待ち構えていた。心なしか表情にわずかな笑みを湛えている。

「奥様と、お嬢様がお待ちです。」

怪訝な面持ちで妻のもとへ向かうと、凜と美風が揃ってにこやかに迎えた。

「お帰りなさいあなた。」

凜は顔を輝かせてそれ以上何も言わない。美風は大きな眼で明を注視している。

明はある予想が閃いた。

「さて、何を勿体ぶってるのか教えてくれないか。」

「ニュースよ。私たちに新しい家族が増えたようです。」

「ここにね…。」美風が小さな丸っこい掌を凜の腹に当てた。「弟がいるの。」

「素晴らしいニュースだ。凜、なんと言えば良いんだろう。感動と、感謝で一杯だ。私は幸せ者だ。」

「そうよ、あなた。どんなに沢山お金を手に入れても、人を愛さないと幸せは手に入らないのよ。」凜が厳かに告げた。

「たしかにその通りだ。君がたとえ警視総監賞を貰うような活躍をしても、人を愛さないと幸せは手に入らない。」

「あら、あなたの言うとおりね。」

互いに笑みを交わすと、美風がさかんに意見をまくし立てた。窓を柔らかな夕日が染めていた。

                (つづく)

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