第17話(1),(2)

  「女刑事物語」(17)   Ⅽ、アイザック

 加藤、藤原、尼子の三人が中野の取り調べを進めた。尼子は小金井の聴取に携わっただけに事件の全体像を掴んでいる。このため中野に対する質問が的を射ていると感じられた。二人のベテラン刑事は黙って尼子に任せた。

 「なぜ渋谷に切りつけたのか。」という追及に中野はおよそ次のように供述した。

「事故を起こしても謝罪しなかった渋谷に悪い感情を抱いていたが、慰謝料を請求してはいないし危害を加えるつもりもなかった。友人である小金井の指示に逆らえず現場に行った。

事件の数日前、小金井は事故の慰謝料を請求するようなことを口にしていたが、賛同したつもりはない。実際に請求したかは分らないが、うまくいかなかったと思う。頭に来て渋谷の車を傷つけたと聞かされた。事件当日、互いに警察沙汰にならないように話し合いたいので渋谷宅へ同行するように頼まれた。

 面会した渋谷は慰謝料の話だと受け取り、金を払う気はないと述べた。さらに小金井に「ニートなど怖くない」と言った。その言葉に小金井がナイフを取り出すのを見て驚き慌てた。渋谷を刺すつもりだと思った。自分のせいで小金井が罪を犯すのが耐えがたかった。咄嗟にナイフを取り上げたものの、これでは以後、小金井から相手にされなくなると怖れて渋谷の背後から切りつけた。実際に切るつもりは無かったが、玄関で渋谷が突然立ち止まった為にナイフが腕に当たってしまった。

 出血は見なかったが怪我をさせたと分かった。気が動転し、ナイフを持って自宅アパートへ戻った。小金井が現場でその後どう行動したか知らないが、二十分ほどたって電話があった。とりあえずズラをうてと言われた。俺は名前がバレてるがお前が誰か渋谷は知らないはずだ、俺はしらを切り通してやる。どうせ大した傷じゃない。心配するなと言った。

 しかし、アパートにいると警察に捕まると思った。刑事に問い質されては犯行を認めるしかない気がした。執行猶予も消えてしまう。パニックになって厚木に逃げた。高校の友人に泊めてもらうつもりだったがそれからどうするか何も考えられなかった。」

 また、中野は事件の発端になったと主張する交通事故について次のように供述した。

 「一月の半ば午後六時頃、工場から自転車で帰宅途中、渋谷宅の前に差し掛かった際、駐車場から突然出てきた乗用車とぶつかり自転車ごと路上に倒れた。乗用車はヘッドライトを灯していなかった。車を運転していたのは渋谷だった。直後に車を止めて降り、自転車に触って「大したことはないな」と発言した。渋谷からはアルコール臭がした。それを指摘するとなにかを手渡された。無意識に受け取ったが一万円札だった。渋谷は「それで自転車のキズを直せ。」と言って家の中へ消えた。謝罪の言葉は無かった。

 翌日、肘と腰に痛みがあったが普段通り出勤した。その後も工場を休まなかった。自転車のキズは僅かだった。一万円札をどうするか迷ったがそのまま持っていた。

 渋谷宅は通勤路にあったことから翌々日、偶然渋谷と顔を合わせた。その際、事故は飲酒運転によるものだと指摘し謝罪がないことをなじると、渋谷は今更そんな事を訴えても誰も信用しないだろうと言った。また、脅迫的な言動をするつもりなら警察に通報するという趣旨の発言があった。自分は執行猶予中の身なので、警察が怖くてその場を立ち去った。

 二月の初めに友人の小金井に出会った。世間話のつもりで事故の件を喋ると、予想に反して小金井が激高し慰謝料を取るべきだと言ったが自分としてはどう答えて良いか分らなかった。あとになって曖昧な態度だったと後悔した。慰謝料の件はハッキリ否定すればよかった。」

 いったん取調室を出た藤原が加藤を呼び出した。渋谷が一日で退院したと告げ、交通事故に関して事情を聴きに行くと伝えた。加藤は残ることにした。尼子一人では不安を感じたのだ。調書の作成まで付き合うつもりだった。


 藤原は渋谷を訪ねた。加害者の中野を逮捕したことを伝え、同時に自動車事故について訊いた。

「中野が、事件にはあなたの起こした事故が関係していると言っているんですが、心当たりがありますか。」

渋谷は落ち着かない表情を見せたが、ややあって「あの男の自転車と私の車が接触したことがありました。男がいう事故とはそれを指しているのでしょう。」と答えた。

「事故があったのですね。時期は一月半ば、場所はあなたの自宅駐車場前で間違いないですか。」

藤原が確認すると渋谷は黙って頷いた。

「事故届けはされましたか。」

藤原の言葉に渋谷が慌てて釈明した。

「自転車と接触しただけですよ。相手に怪我もなかったし…。届けは不要でしょう。」

「さあ…、どうでしたかね。たしか物損事故でも届けは必要だったと思いますよ。後ほど署の交通課から連絡が来ますので事情を説明してもらえませんか。」

渋谷が眉間を寄せて言った。「出来たら今日中に済ませたいですね。明日は職場に出るつもりなので…。」

 藤原から事故の報告を聞いた交通課が渋谷を呼び出したのはその日のうちだった。担当したのは交通課捜査係、五十歳の警察官だ。「渋谷さんの希望が今日ということでしたので足を運んでもらいました。」と前置きしてすぐに事故届けについて質問した。渋谷はすでに交通事故を認めている。

「道路交通法では人身事故だけでなく物損、自損ともに警察に届ける義務を定めています。渋谷さんは区役所にお勤めで、運転免許もお持ちですからこうした法律的なことはご存知でしょう。」

渋谷が口をモゴモゴさせて小声でなにか言った。捜査員は「道路交通法」の書物を取り出して机の上で広げた。

「道路交通法第七十二条ですな。」ページを指した。

「第七十二条は交通事故を起こした際の警察への報告義務並びに緊急措置義務について定めています。これによると軽微な物損事故であっても報告を怠ると報告義務違反となり、三月以下の懲役または五万円以下の罰金を科される可能性があります。」

渋谷のうつむいた顔がみるみる紅潮した。

「事故の相手方の話ではその場で渋谷さんが一万円札を手渡したということですが、これは示談で済ます意思の表れだったと受け止めてよろしいですか。」

渋谷が頷いた。

「相手方がそれを受け取っていますよね。つまり示談が成ったと思われましたか。」

「私はそう判断しました。」

「そうですか…。」捜査員は相槌を打ってみせたがすぐに否定的な意見を口にした。

「しかしそのような解決策を取ると後のトラブルの原因になることが多いのです。実際に相手の当事者は納得できなかったようです。」

渋谷は不満そうに首を傾けたが発言しなかった。

捜査員は渋谷の様子を窺っていたが、あらためて尋ねた。

「その場で事故の連絡をしなかったのは、なにか理由があったのですか。」

渋谷が急いで口を開いた。

「先ほどから言うように、必要がないと思いましたので…。」

「そうですか。実は事故の相手方がそのとき渋谷さんからアルコール臭がしたと述べているのですが、その点はどうですか。」

「それは無いです。」渋谷の眼が泳いで見えた。

「よく思い出してください。直前の飲酒でなくてもアルコールが残っていたということはよくあることです。」

「私はハッキリと否定しましたよね。」渋谷が感情を高ぶらせた。「なぜしつこく繰り返す?」

「落ち着いてください。」

渋谷は両腕を組み、声を震わせて言った。

「もうこれ以上の…、私の不利になるような陳述は拒否します。私は憲法第三十八条で守られているはずです。」

「なんですと?」捜査員が呆気にとられた。

 渋谷を落ち着かせようと一旦聴取を中止した捜査員を交通課長の大久保が手招きした。

「どんな具合だ。」

「自分に不利な供述はしないそうです。憲法に守られていると言っています。」

大久保が目を丸くした。「悪いものでも食ったか。」

捜査員が苦笑した。

「飲酒の疑いがあったと当事者が証言していると伝えたのですが、否定すると同時に憲法を持ち出しました。追及を避けようとの意図であればその心根には憎いものがありますが、今となっては飲酒を証明するのは不可能です。

 また、相手方は診断書も取っておらず、翌日には工場に出勤したと証言しているようです。つまり軽微な物損事故の報告義務違反、それ以上のものではないと判断しています。」

大久保が頷いた。

「そうか。この件は傷害事件の公判で必ず触れられるだろう。何も無いという訳にはいかん、恰好は付けてくれ。」

「分りました。」


 凜が小金井に対する供述調書の読み聞かせと署名を終えた。小金井は黒田の指示で家に戻すことになった。

「傷害の関与で一晩拘留したからな…。器物損壊については今後の示談の成り行きを見よう。」黒田が口にした。

帰れると知って小金井は安堵したのか薄笑いを浮かべた。

「必要になればまた来てもらうよ。」と凜が念を押した。

 この頃、加藤と藤原が中野の調書を翌日に作成することを話し合った。「容疑者も尼子も、もう限界だろう…。」というのがその理由だ。二人は前日からほとんど寝ていない。それは凜も同じだった。


 凜が帰宅したのは午後八時。家の空気にバターとケチャップの匂いが漂っている。キッチンに行くまでもなく、夕食がオムライスだと分かった。美風の好物だ。声を聞いてその美風が跳んで来た。腰のあたりにしがみついて凜を見上げた。

「ただいま。」

凜が髪を撫でると可愛らしい笑みを浮かべ「お祖母ちゃん、ママが帰ってきたよ。」とキッチンを振り向いた。

「そのようだね。」香織が椅子のまま答えた。

凜を見て香織は内心驚いた。疲労のためか、眼の周りにクマが出来ている。憔悴したさまは痛々しいほどだった。

「なにか食べるかい。すぐ作るよ。」と香織が尋ねた。テーブルの上はきれいに片付いていた。

「先に、お風呂に入りたいわ。」

凜は二人が入浴を済ませたことを知ってバスルームへ直行した。一昼夜にわたって上空を覆っていた温かい大気が去り、季節どおりの気温が戻っていた。凜はそそくさとバスタブに身を浸した。冷たい昨夜の雨が肌に染み入って、いつまでも消えない気がした。両の腕を掌で何度もさすった。不意に、土砂に押し潰されそうになった体験がよみがえった。暗黒の屋根の下で感じた恐怖。凜は大きく息をついた。

 やがて体が温まると気力が戻ってくるようだった。…それにしても明がなぜあの場にいたのか。その訳をついに聞かずにいたと気づいた。彼も杉山のように造成現場が気になって、夜中に点検に来たのだろうか。その疑問は頭に浮かんではすぐに煙のように隅に流れていく。凜を睡魔が襲っていた。

 美風とベッドに入った。その温かい体を抱いて、生きていることを実感した。明が現れなかったら間違いなく死んでいた。彼の的確な行動によって今こうして娘を抱くことが出来ている。凜の意識はそこでぼんやりと立ち止まっていた。美風がなにか喋っている。「明日は保育園でしょう…。」と遮って、声に出たかわからないまま凜は眠りに落ちた。

 翌朝目覚めると傍らに美風の姿がなかった。香織が布団に運んだのだろうと思った。彼女は美風がベッドから落ちるのではないかといつも心配しているのだ。体を起こすとあちこちが痛んだ。ゆっくり伸びをして、凜は下着が濡れているのに気づいた。明を想いながら眠ったせいかもしれないと慌てた。香織に知られないように急いで下着を穿き替えた。

 キッチンからトーストの匂いが漂った。香織が朝食を準備してくれている。

コーヒーを口にする凜へ香織が小声で尋ねた。

「お休みはできないのかい。…土日も仕事だったんだから。」

凜はどこかうわの空で、なにか考え込んで返事をしない。香織はそれ以上声をかけなかった。


 尼子による調書は順調に出来上がりつつあった。藤原と加藤がついている。凜に不安はなかった。それでこの件は一応の解決をみる。

 凜は屋上に上がった。あたりに人影がないのを確かめて電話を手にした。ためらいは一瞬だった。凜の心は決まっていたのだ。すぐに明が出た。

「明さん…。会いたいの。」最も伝えたい事を最初に告げた。言い出せなくなるのが怖かった。鼓動が胸を叩いた。

「分りました。」とだけ明が答えた。静かな声だった。

凜は急いで付け加えた。

「あなたは私の一番大切な人。初めから分っていた筈なのに、私はお馬鹿さんだわ。許してください。…あなたに会いたい。私のすべてを知って欲しい。」

明の言葉はどこまでも穏やかだ。

「あなたの気持ちは分かっています。二人だけで過ごせる部屋をリザーブしましょう。私が仕事を終える時刻に連絡します。それでいいですか。」

消え入るような声で承諾して、凜が意味もなく周りを見渡した。冬空のもと、両手で頬を押さえた。

 階下に降りると尼子が刑事課の窓からぼんやりと外を眺めていた。調書が終わったのだ。すぐに検察庁に送られて今日中に起訴が決まるだろう。刑事の仕事は一段落する。

「いったいどうしたの。」

どこか元気のない尼子を訝って凜が声をかけた。

尼子がためらいがちに答えた。

「中野が少し哀れに思えて…。この事件に関わった人間で中野だけが実刑を受けることになるでしょう。でも他の二人にも責任の一端はある筈なのに、小金井は多分起訴猶予だし渋谷に至っては略式の罰金だけで終わりそうです。中野の肩を持つわけじゃありませんが…。」

「そうね…。でもこの後のことは刑事の仕事ではないわ。私たちは事実を解明し、犯罪者の真実を浮かび上がらせることで正当な裁きの期待に応えるというところかしら。」

「理屈はそうですが…。先輩はこれまで全部割り切って来られましたか。私は今回の小さな事件でもなんだか悩ましい結末に感じてしまいます。」

凜が言った。

「考えすぎ。中野は人をナイフで傷つけてはならなかった。ただそれだけだよ。情状を言うなら、それがうかがえるだけの事実は調べあげた。私たちはやることはやったんだから。」

「はあ、そうですよね。」尼子がようやく小さな笑みを浮かべた。

「中野は後悔している。きっと気持ちを入れ替えて、これからは他人の言動に左右されない強い心を持ってくれるかもしれない。」

そう口にした凜の脳裏にふと保護司の額まで薄く赤らんだ顔が浮かんだ。もしその望みを容れ、細川を伴って中野を訪ねていたらこの傷害事件は防げただろうか? その疑問はもう意味がないと知りつつどこかで凜を悩ませた。…犯罪捜査は迷いの連続だし、そこで掴む事実は割り切れないこと、納得できないことが多い。それは言葉にしなかった。これから尼子が経験するしかないのだ。

 午後五時、黒田が刑事たちを会議室に集めた。事件の解決に型通りの慰労会を催した。乾杯の後、刑事たちが次々と尼子にねぎらいの言葉をかけた。刑事の経験が浅い尼子だったが、今回の事件で容疑者の割り出しと追跡捜査、身柄の確保と移送、逮捕、調書の作成まですべてやり遂げたのだ。ようやく誇らしげな表情をみせた尼子が、やがてあたりを見渡した。凜の姿がいつの間にか消えていた。

「人と会う約束がある。」

凜は黒田に告げてさりげなく会議室を抜け出したのだ。


 よく名の知られたホテルだった。エレベーターが最上階に止まる。特上のスイートルームがリザーブされていた。凜は完全に落ち着きを失っていて、豪華な部屋に一歩入ったところで不器用に立ち止まってしまった。明が優しくソファーへ導く。大都会の夜景に向き合う窓の近くにゆったりと配置されたソファーは十数人がくつろげる大きさだ。一言も発しない凜を明も無言で抱きしめた。短く見つめ合って、凜が眼を逸らせた。喉がカラカラだ。明が凜の顎に指をやって唇を重ねた。凜の体が震えた。ずっと前にこんな夢を見た…と思った。明が凜を抱きかかえてベッドに運んだ。大きなベッドがなぜか二つ並んでいた。

 シーツの上に全裸になった凜がまるで人身御供のように横たえられた。白い大腿がⅯ字型に大きく広げられても、凜は明のなすがままだ。明の性器はすでに固く膨れ上がっている。それを中心に充てがうとそのままゆっくり挿入した。凜は腰をわななかせて明を受け入れた。

 凜の口から短い声が漏れ続ける。明の腰の動きに合わせるかのようだ。男性器の先端が体の奥、鳩尾の辺りまで届いているように凜は感じていた。そこから絶え間なく快感が湧いてくる。声を上げながら凜が身悶えした。片肘をついて上体を起こそうとするが明が体を重ねている。今度はその胸に手を当てて押しのけるような仕草をした。必死で押し返そうとしている。快感の渦に無意識に抗う行為だったのかもしれない。

 凜が下から明の体にしがみついた。長く声を曳きながら体を震わせた。明は凜の性器が明自身を掴んで痙攣するのをわずかに感じ取った。凜の体から力が抜けていく。だが明は動き続けた。凜が快楽の余韻に浸る暇を与えず、激しく腰を動かした。凜は呻き声を洩らして再び悦楽の小宇宙へ向かった。凜は何度も達した。その甘い啜り泣きを明は恍惚の中で聞いた。

どのくらい時間が経っただろう。明は動きを止めていた。凜の乳房がフワフワと頼りなげに大きく上下している。明はベッドに座って息を整えた。下腹部へ視線を落とすと目の前に凜の大腿が大きく広げられている。艶やかに黒く光る陰毛に続いて性器があらわだ。明の勃起した男根の先がまだそこに埋もれているのだった。

…なんと見事な眺めだ。明は感動をすら覚えた。愛らしくも美しい凜が今完全に自分のものだと思えた。所有欲と征服欲が充たされたと感じる瞬間だった。明は射精していなかった。それが無くても十分に性的な満足を得ていた。

 だが不意に疑念を抱いた。彼女はどの男に抱かれてもこのように狂おしく愛欲を貪るのだろうか。そのさまを想像した明は突然に激しい嫉妬に駆られた。彼女を失いたくないと切実に思った。確実に自分の物にしなければ気が治まらない。ふと、…もし妊娠したら彼女は私の妻になるしかないだろうと思い至った。明はその身勝手な考えを実行に移した。

 凜を俯せにして腰を持ち上げた。四つん這いにして背後から隆起し続けている男根を挿入した。荒々しく腰を振ると凜の口から悲鳴に似た声がこぼれた。明は頂点に向かって突き進んだ。明の下腹部が彼女の尻を激しく叩き続ける。凜は上体を突っ伏し、叫んだ。両手がシーツを握りしめていた。そしてその時が来た。明の体に電流が走った。太股の内側を小さなトカゲのようなものが奔り上る。その細やかな爪が肌を掠め、睾丸を引っ掻き、肛門を蹴って背中を這いあがった。首から後頭部に熱い震えが起きる。

「おおおッ。」明が叫んだ。眼も眩むような興奮が幾度も体を突き抜けた。これは快感なのか。頭が破裂しそうなほど体中の血管が激しく脈打つ。明の男根が痛いほど膨らんで痙攣した。たしかに射精しているはずなのだがその感覚を超えていた。明がまた太い声を迸らせた。凜の腰をしっかり掴んで体を震わせた。凜の声も聞こえず、明は忘我の中にいた。

 やがて明は自分の激しい息使いを聞いた。動悸が少しづつ治まっていく。暫く目を閉じて息が整うのを待った。ようやく凜の白い背中が目に入った。凜はピクリとも動かない。明は男根を引き抜いて凜の腰をシーツの上へ横ざまに落ち着かせた。射精を終えたにもかかわらず明の物は固く屹立している。それを凜の体に押し当てて身を乗り出し、覆いかぶさるように横顔にキスをした。凜は目を閉じたまま、口で受けるかのように唇を小さくうごめかせた。

 明はすっかり満足して浴室へ向かった。熱いシャワーを浴びる。そのさなか、凜は妊娠するだろうかと漠然と思った。しかしすぐに、無意味な考えに囚われているような不安を感じた。明にとって愛情ほど不確かなものはなかったのだ。

 寝室へ戻ると凜がぼんやりとベッドに腰かけていた。明を見ない。

「シャワーをしてくれば。」明が少し疲れた声ですすめると凜が静かに立ち上がった。よそを向いたまま「あなたが…。」と口を開いたが声の調子がおかしかったので言い直した。

「あなたが、こんな乱暴な人だとは、思わなかったわ…。」

明が鼻で笑った。見え透いていた。凜は性の快楽に溺れてしまった恥ずかしさを誤魔化そうと、取って付けたようなことを口にしたのだ。明の直感は当たっていたが凜は一瞬怖い眼で明を見た。

「シャワーをしてくるわ…。」

不機嫌そうに告げた凜が一二歩進んであッと立ち止まった。縋るような眼を明に向けた。まだ明の物が膣の中に収められている生々しい感触が甦ったのだ。明には凜がなぜ急に立ち止まったのかが分らない。様子を窺った。 凜は無言で口をへの字に結び、どこか悲しげな眼で浴室へ去った。

 明は一度ベッドに上ったが、シーツが濡れているのを知ってそれをはぎ取った。床に投げ捨ててから別のベッドを使えばよいのだと気づいた。バスローブのまま横になって溜息をついた。

…しまったと思った。凜の羞恥を嘲笑する態度を取ってしまったのだ。彼女の激しい気性は知っていた筈だった。怒りの感情を抱いたとするならここは素直に詫びるべきだろうと明は心を決めた。

 凜はまだ戻ってこない。明は目を閉じて静かに待った。女性のシャワーは時間が掛かるものだ…。そのうち明は不覚にも寝入ってしまった。浅い眠りだ。そして夢を見た。すぐ前を凜が見知らぬ男と並んで歩いている。緑の並木が季節を裏切って不自然に鮮やかだ。歩きながら、凜はその男を見上げて何か熱心に話しかけている。明は光の中にあるような凜の美しい横顔に呼びかけた。

…凜! 

凜はいったん振り向いたがすぐに隣の男性との会話に戻った。明に向けられた眼は路上の紙屑を見るようだった。

…これは夢だ。夢だと分かっている! 明は焦って繰り返した。

やがて明は自身の体が熱いものに触れているのを覚えて目を開いた。肩に凜の黒髪が見えた。凜が明にピタリと体を密着させて穏やかな寝息を立てている。

 突如として明は確信した。…凜は私を愛している。愛してくれている! 歓喜と共に、明は心の奥深くから決意が湧き起るのを感じた。…凜と結婚する。彼女と生きていく。決して誰にも邪魔させない。

明はそっと凜の頭を抱えた。


 さて、物語は終わりに近づいたようだ。  (つづく)





     「女刑事物語」(17-2)  Ⅽ.アイザック

 四月のある晴れた日、都心を離れた丘の上のホテルで凜と明の結婚式が行われた。ホテルの広い庭は芝生に覆われ、白い丸テーブルと椅子がいくつか置かれている。北の端に数本の木立があり、式用の小さな教会が建っていた。その近くにある長椅子の前で凜と明が招待客を出迎えた。凜はすでに純白のウェディング・ドレスを身にまとっている。

 客はほとんどが明の会社関係で、凜には全く馴染みのない人々だ。祝福の言葉を受け、挨拶を交わす。夫人たちの多くが花束を抱え、夫が明と話す間に凜へ手渡しながら興味深げに美しい花嫁を眺めるのだった。凜は明の望みを容れて警察を退職していた。そのせいか鋭さが消えて穏やかな表情になったようだ。

 客が途切れると凜が長椅子に腰を下ろして息をついた。

「疲れてないかい。中で休もうか。」と明が声をかけた。

「平気。」

凜が立ち上がった。一人の若者が近づいていた。明の会社では樋口を除いて唯一見覚えのある顔だった。そのため凜は控えめな微笑を投げたのだが相手は気づかない。

「会長、まことにおめでとうございます。この度は…。」

明に祝いの言葉を述べたのだが途中で言葉を失ってしまった。俯いて口をモゴモゴと動かした。

若者はすぐに気を取り直して凜を向いた。

「初めまして、杉山と申します。宅地を造成する会社の代表取締役社長を務めています。」と胸を張った。

凜が微笑んだ。

「杉山さん、私を忘れたの?」

杉山はポカンと花嫁を見たが、次の瞬間に大きく口を開けて叫んだ。思い出したのだ。豪雨に見舞われた造成地の現場で砂と泥にまみれて頂上に立っていた半裸の女性を。

「アアアッ。」杉山はもう一度叫んで口に片手の指すべてを押し込んだ。

明が肩を震わせて忍び笑った。

 楽し気な雰囲気だと見てとったのか美風が遠慮がちに、だが確固とした足取りでやって来た。彼女は小さいがまるでもう一人の花嫁のようだった。真っ白なワンピースは上品なレースがふんだんにあしらわれ、裾は豊かに波打っていた。実のところ美風は香織の傍でおとなしくしていることに飽きていた。凜のすぐ傍にやって来た。

 美風は明を横目で見やったが、思い出したように両手を足に揃えてペコリとお辞儀をしてみせた。もともと美風は明をかなり気に入っていたうえに、何度か「お泊まり」をしてすっかり打ち解けていたのだが、この日は近寄りがたいムードに勝手が違うと感じたのかどこかぎこちない。凜はまだ「お父さん」と呼ばせていない。それは式の後と決めていた。明もそれについて口出しする気はなかった。その結果、美風に結婚式の意味が十分に理解されていないきらいがあった。

 唐突に凜が声を上げた。美風の存在を忘れたかのようだった。

「ああ、なんてきれいなの。明さん。」

凜の視線の先にスラリとした若い女性が姿を見せていた。ユリだ。ピンクのワンピースが庭の芝に映えて、まるでマネの絵画を思わせた。

「寒くはないか…?」明がドレスだけの服装を案じて呟いた。

ユリは真っ直ぐ父親のもとへ歩み寄った。

「パパ、おめでとう。」

二人は抱き合った。

「ありがとうユリ。」明が優しく応えた。

ユリは凜の手を取った。顔を間近に寄せてほほ笑んだ。

「私にはこうなることが分っていたわ。」

「来てくれてありがとう。」と凜。

「おめでとう…、なんと呼べばいいのかしら。」

「凜でいいわ。」

「おめでとうございます、凜さん。」

ユリは凜に抱きつくと、遠慮がちに囁いた。「私たち、家族になったのね。」

「そうよ、ユリは私の大事な家族。」と凜が答えた。

眼を潤ませたユリと上目遣いの美風の視線が合った。美風は自分がまったく除け者にされていると感じていた。

ユリが腰を屈めて声をかけた。

「美風ちゃん。私を覚えている?」

言い終わる前に美風が糺した。「誰?」

噴き出すのを堪えてユリが告げた。

「私の名前はユリ、あなたのお姉さんよ。」

あまりに意外な言葉に美風は声も出ない。

「今、証拠を見せてあげるわ。」

ユリがゆっくりと顔を近づけて美風の頬に唇を当てた。美風は一瞬驚いたようだったがすぐに大きな眼を輝かせた。

「さあ、今度は美風の番よ。ユリにキスして。」

美風は真っ赤になりながら子供っぽい乱暴な仕草でユリの首に手を廻し、ユリの唇に自分の小さな口を押し当てようとした。堪らずユリが笑い声をあげた。

「美風、ここよ。」そう言って自身の頬を指差した。

小さな唇のキスを受けてユリは軽く目を閉じた。「ありがとう美風。」と優しい声で伝えた。

 ユリと美風は連れ立って教会の探検に向かった。ユリが宣言したとおり二人の後ろ姿は仲の良い姉妹だ。

 不意に凜が動きを止めて前方を凝視した。若いカップルがどこか慎重な足取りでやって来る。武田とみどりだ。武田は銃創の治療過程で腹膜炎を併発し恢復が遅れていたのだ。凜はフラフラと進み出て待ち構えた。

「健太ッ。」

凜の呼びかけに応えた武田の笑顔は頼りなげなものだった。凜は不安を感じた。

「退院したの?」と訊いた。

「昨日、娑婆に出てきたばかりさ。」

凜が抱き着いた。武田は両手を広げ、少し迷ってから遠慮がちに凜の肩に手を添えた。庭のあちこちに集った客の中には花嫁の思いがけない行動を目にして驚きと興味を示す者もいたようだ。

 凜がパッと武田から離れた。腰に両手を当てて言った。

「回って。」

「えっ?」

「回ってごらん。」

凜が右手を頭の高さに上げ指で輪を書いた。武田は言われたとおり用心深い仕草で体を一回転させた。

「こうか?」

とくに後遺症を感じさせるものも無く、安心した凜がみどりに告げた。

「みどりちゃん、こいつを逮捕して。非番の時は家から出してはダメよ。」

「了解しました。」みどりが笑顔で答えた。

凜が二人の手を取った。「次はあなたたちの番ね。」

「オッとそのまえに、ご結婚おめでとうございます。」武田が姿勢を正して言った。

「あら、ありがとう。」

凜が輝く笑みを浮かべた。


 正午前に教会で式が行われた。正確にはホテルの施設だが、祭壇とステンドグラス風の高い窓など、それらしく造り込まれている。赤い絨毯が敷かれた通路の左右に長椅子が並び、客たちが腰を下ろしていた。業界では普通、左側が新婦の親戚や知人、新郎は右側となっているようだが、凜と明はともに係累が極端に少ない。そのうえ警察官は勤務に縛られている。出席者はほとんど明の会社関係に限られた。そのため自由に席に着いて貰うよう参列者に告げられていた。

 式場は教会を模したものだが、式に立ち会うのは本物の牧師だ。これについては凜と明へホテル側から事前に説明があった。彼はプロテスタントの牧師であり都内に永く在住するアメリカ人だ。ブライダルの責任者と親交があった。その関係で、教えについて話す時間が与えられるなら結婚式を手伝いたいと申し出があったという。ホテル側は話し合い、施設にキリスト像を飾らない、神父と呼ばないなどの牧師の要望を認めたうえで協力を貰っている。

 牧師は褐色の短い髪型で額の両側がかなり禿げあがっていた。鬢の辺りに白髪も見え、その印象は年配者を思わせたが、白い肌は艶が良い。年の頃が分かりにくい人物だった。

 彼は青い眼で人々を見回し、威厳をもって告げた。

「これより、人生で最も重大で神聖な誓いが行われます。」流暢な日本語だった。「花嫁はこちらへ!」

牧師の言葉に皆が一斉に入り口を振り向いた。大きな扉が左右に開かれ、白いウェディングドレスを身にまとった凜が姿を現した。寄り添ってエスコートしているのはユリだ。反対側で美風がドレスの裾を掴んでいる。花嫁の入場としてはかなり変わっている。一瞬の静寂の後、会場内がざわめき、囁きがあちこちで起きた。

 実は当初、板垣に父親役を頼んでバージンロードを歩く予定だったのだが、直近になって板垣に本庁での会議が入ってしまった。それならと、凜がユリや美風と一緒に入場することにしたのだ。この提案に明は初め気が進まないようだった。

「招待した人々に私たちの事情を逐一知ってもらう必要はないと思うが…。」というのだ。

しかし凜は引き下がらなかった。

「署長がこられなくなって却って良かったわ。初めからこうするべきだったのよ。」

明はもう何も言わなかった。

 小さなさざめきが残る場内の赤い絨毯を三人は進んだ。ユリは堂々と頭を上げ、美風は凜の横で真っ直ぐ牧師を見ている。明がにこやかに花嫁と娘たちを待ち構えた。

 この後、誓いの言葉を述べる大事な場面で、凜は失敗してしまう。集中力がおろそかになっていた。明が凜を妻とし終生変わらず愛し続けると誓った。牧師は凜に顔を向けた。青い眼が凜を優しく見つめた。

「私も終生変わらず愛し続けます…。」と凜が誓った。

だが牧師は納得しない様子で沈黙している。凜は焦った。練習した言葉が出てこない。

「どんな時も愛し続けます。」と付け加えた。

牧師は僅かに顔を傾けた。白い頬に赤みがさしている。非難のまなざしではないか。

「命にかけて…。」と凜が言い添えた。

牧師は憤りを忍耐と慈悲深さで鎮めている雰囲気を醸し出して青い瞳で凜を見つめた。凜は明を「夫とする」それから「妻として愛する」と誓わなければならなかったのだが、その言葉が欠けていた。そのくだりは牧師が述べていると思い込んでいたのだ。

凜が困惑するさまを見て明が小声で口を挟んだ。

「牧師さん、どうぞ先へ進めてください。」

明はキリスト教徒ではない。いわばホテル側の準備したセレモニーに付き合っているだけで、その形式にこだわりはなかった。

牧師は微かに溜息をついて、「それでは指輪を交換し、生涯の伴侶にキスを…。」と二人にうながした。

明は凜の耳元で「君の誓いは良かった。何も気にする必要はないよ。」と囁いた。

牧師がゆっくりと参列者に両手を広げ、肩より高く上げた。

「ここに、二人の結婚を宣言し、証人となります。この後誰といえども異議を述べることは許されません。」

 凜の些細な失敗以外は何事もなく披露の宴までこの日の予定は滞りなく終わった。


凜の結婚生活は当初、平穏そのものだった。香織は当分一人で暮らすという。美風はそれまでの予定を変えて私立の小学校へ入学した。登下校に運転手をつけると知って凜は驚いたが、明は至極当然なことだと考えていた。車で登校する美風を見送ると、娘がお嬢様らしく見えてくる。凜はくすぐったい気持ちで微笑むのだった。

 新しい環境に慣れるにしたがって凜は暇を持て余した。ウメをはじめ家政婦たちがそのまま残っている。凜はすることがないのだ。なにしろ刑事生活がすべてだった。趣味もなく、気づけば家事をすべて香織に任せていた報いか、料理ができない。ならばと掃除を始めると家政婦にやんわりと断られるばかりだ。庭に足を運べば午前中だけ勤める庭師の老人といちいち思いがけない場所で突然出くわしてびっくりするのだ。

 凜は買い物に出かけることを思い立った。それほど遠くない商店街にスーパーマーケットがあるのを知っていた。香織が良く利用する店で、食品が豊富に揃っているらしい。まずウメに相談した。夕食の調理を任された家政婦が翌日必要な分の買い物リストをウメに託していた。

「蘭ちゃんを連れていきたいのだけど…。」

凜の言葉にウメは考え込んだ。凜は対人恐怖症の傾向がある蘭を人のいる場所に慣らせば緊張する度合いも減るのではないかと考えたのだ。

「お買い物は敏子さんの役割と決まっています。蘭ちゃんはお買い物に向きませんよ。」ウメが断言した。

「そうでしょうね。でも人を避けてばかりじゃどうかしら。私は蘭ちゃんに人の観察をしてもらいたいの。そうすれば何か良い結果があるかもしれないわ。スーパーでは蘭ちゃんはただ私の傍にいればいいのよ。」

「そうかも…しれません。ウメには分りません。」

「ダメかしら…。」

凜が自信なさそうに呟くとウメが急いで口を開いた。

「勿論奥様がお決めになれば、それでいいと思います。ただ、旦那様がどうおっしゃいますか…。」

「スーパーの人混み、試してみるわ。」

ウメの心配に頓着なく凜が口にした。

 この計画を凜から告げられて高校生のような若さの蘭の白い頬がこわ張った。視線が足もとから動かない。両手を揉んで沈黙した。

「蘭ちゃんは私の傍でスーパーの店内を見物していればいいのよ。ねっ、行きましょう。きっと気分転換になるわ。」

凜の説得に蘭が微かに頷いた。

 駅の近くの商店街はかなりの賑わいだ。目的のスーパーも人が溢れている。道路に面したテントの軒下に野菜類、果物が堆く積まれていて、男の店員の呼び声が威勢よくあたりに響く。赤い文字で価格が書かれた札がてんでに並んでいるがその値段が高いのか安いのか凜にはイマイチ分らない。

店内は奥行きがあって思ったより広かった。青果物に限らず魚、肉などの生鮮食品、冷凍食品、インスタントラーメンまで品揃えが豊富だ。同行した家政婦の敏子が手際よく買い物を進める。蘭は店内に足を踏み入れてから凜の腕を力いっぱい掴んでいた。周りを見渡す余裕はなさそうだ。その様子に凜は申し訳ない気になった。人との距離が近いことが予想以上に負担になっているのかもしれなかった。だが後悔してもはじまらない。

「蘭ちゃん見てごらん。」凜が明るい声を上げた。

「これお豆腐だって。紙パックに入っているわ。私、初めてよ。ビックリだね。」

蘭はゆっくり顔を上げて陳列棚を見た。依然ピタリと凜にくっついている。凜が再び立ち止まり、棚を指して言った。

「これはカニカマよ。これ傑作だと思うわ。ねえ、蟹の身にそっくりだと思わない。」

蘭が小さく笑った。

ホッと胸を撫でた凜が「敏子さんを手伝おうか。」と口にすると大きく頷いた。蘭は相手が人間でなければなんでもできるのだ。

 突然、蘭の唇が「あっ。」と小さく漏らした。同時に蘭の背後でパリパリと乾いた物音がして何か床に落ちたようだ。

「ああッ。」男の大きな声がした。

凜が目をやると作業服の男が卵のパックを手にしていて、床に割れた卵の殻が見えた。男は蘭にくってかかった。

「なにやってんだ!」

蘭が顔を背けて体を硬直させた。固く目を閉じて凜にしがみついた。二人がぶつかったようだが、蘭の動きを察知できる体勢だった凜は男の行動が事態を招いたと直感した。男との間に立ちはだかると落ち着いた声を投げた。

「どうしました。」

「どうもこうもあるか。」男が怒りを顕わにした。

「店員さんを呼びましょう。」と凜が言った。卵の落ちた床を清掃しなければ滑る恐れがあった。

男は凜の言葉を無視した。背後で身を竦ませている蘭を睨んで、さも忌々しげに叫んだ。

「なんとか言ったらどうだ。一言の詫びもねえのかッ。」

「まことにすみません。」と凜が静かに頭を下げた。

「あんたじゃ無ェ。そこの…女だ。」男は蘭へ顎をしゃくった。

凜が顔を上げて言った。

「混みあっていますから、ぶつかったとしてもお互い様でしょう。冷静になってください。」

「なんだと、俺のせいだというのか。ふざけるなッ。」男の怒りが凜に向けられた。蘭はいよいよ凜にしがみついている。体が震えているのが分った。

凜が男をたしなめた。というより怒鳴った。

「おい、しつこいぞ。いい加減にしろッ。」

「な、な、なんだと?」男は思いがけない言葉を浴びせられて顔を紅潮させた。

「この女ッ。」怒りの形相で凜に掴みかかろうとして、さすがに躊躇した。

そのとき遠くから「ケンッ!」と鋭い声が飛んだ。

目を向けると作業服の人物がゆっくり近づいて来る。凜の前に立つケンと呼ばれた男と同じ会社の者だと思われた。

「ケン、みっともないぞ。静かにしろ。」

その男が落ち着いた声で告げると、ケンは電流に撃たれたように姿勢を正して「しゃ、社長…。すみません。」と呻いた。

 凜が急いでその男たちにくるりと背を向けたが遅かったようだ。社長らしい男は廻り込んで凜の横顔を確かめると、目をまるくして声を弾ませた。

「お凜、お凜じゃないか?」

凜が諦めたように振り向いて軽く笑みを浮かべた。

「やはりそうだ。俺だよ、近藤だ。忘れてないよな。」

「お元気?」

凜の説得に応じて詐欺事件の被害届を出した建設会社の経営者だった。

「ああ、お蔭でな。それにしても思いがけない処で会うもんだ。こっちはこれから宴会の買い出しだ。」近藤の顔が赤らんでいた。

「なにしろ余計な経費はかけられないからな…。」と続けた。

「頑張ってね。」

近藤は凜の言葉に頷いてからケンを引き寄せた。

「迷惑をかけたなら謝る。こいつはイイヤツなんだが、そそっかしいのが玉に瑕だ。」

ケンは小さく何度も頭を下げた。

「いいのよ、お互い様なんだから…。」と凜が応じた。

「じゃあな、いつでも電話しろよ。」と軽く手を上げた近藤だったが、あらためて凜を見つめて言った。

「数か月のうちに、お前さん少し感じが変わったな…。なんというか優しい顔になった。」


 買い物を終えて帰宅すると、後を追うように明が姿をみせて凜を驚かせた。

「随分とお帰りが早いのね。なにかあったの?」

明はその問いに答えず凜の前に仁王立ちになった。

「聞いたぞ、凜。スーパーでトラブルになったそうだね。」

「なぜ知ってるの?」凜には不思議だった。

「たまたま電話を入れたらウメさんが知らせてくれた。」

「そうだったの。でも蘭ちゃんには謝ったわ。たしかに私が軽率だったけど、あの子はけっして病的じゃないわ。」

「そんな事じゃない。君はもう当分外出はするな。」

明の思いがけない言葉に凜は唖然とした。

「だいたい君がスーパーに行く必要はない。そのために家政婦さんがいる。」と明が決めつけた。

凜は茫然と言葉を失った。明の態度が信じられなかった。何も考えられずに凜は明の前を逃げ出した。

「待て。」

応接室を抜けようとしたところで追いついた明が凜の腕を掴んだ。

「凜、君は鮎川家の人間になった。そこをよく考えてくれ。もっと用心深くあるべきだ。」

凜は顔を逸らせて何も言わない。夫は私を閉じ込めておくつもりなのかと疑った。怒りよりも衝撃を受けていた。

明は凜の思い詰めた様子に気づいて急いで言葉を継いだ。

「君が心配なんだ。君を大事に思っているからだ。私の言うことを理解してくれるよね。」

部屋の壁際に飾られた、男女が抱き合って立つかのような木造りの像が凜の目に入った。

「あなたは…。」と凜が口を開いた。

「あなたは私を大事だと言ってくれる。そういえば明さんはこの変な仏像も大切にしていると言ってたわね。少し埃をかぶってるけど…。」

凜は明を見ずに続けた。

「明さんにとって大事なこの仏像と私と、どこか違うところがあるなら教えて欲しいわ。」

凜は明の手を振り払って急ぎ足で部屋を出た。

「凜!」明が叫んだ。

 自室に駆け込んだ凜はソファーに身を投げた。…夫は私に命令して従わせようとしている。一方的で威圧的な明の一面を初めて知らされたようで凜は悲しかった。

…これが明さんとの結婚生活なの?

凜は唇を噛んだが、すぐに頭を上げ、ソファーに浅く掛けて姿勢を正し、明を待った。

入口に姿をみせた明は立ち止まり、開いているドアを遠慮がちにノックして声をかけた。

「凜、入ってもいいかな。少し言葉が足らなかったようだ。」

凜が意外なほど明るく応じた。「明さん、どうぞこちらへ来てください。」

凜は明を見上げ、微笑を浮かべて口を開いた。

「一つ提案があるの。私たちの結婚生活をより良いものにするためのルールよ。私は今後、必要と感じたら出かけるときにあなたの意見を聞くわ。そしてそれを尊重する。でも最後に決めるのは私。…どうかしら。」

明が並んで腰を下ろして言った。

「勿論だ。君が決めていいことだ。…さっきはすまなかった。君が心配のあまり冷静さを欠いてしまった。」

明が凜の腰に手を廻した。頬にキスしようとすると凜がそれを唇で受けた。

 二人は暫くそのまま動かずにいた。やがて凜が溜息を小さく吐くと擦れた声で言った。

「お仕事の途中だったんでしょ。ごめんなさい私のために。きっと今日はお帰りが遅くなるわね…。」

明は少し間を置いてから「そんな事はないよ。早く帰るつもりだ。」と答えた。

「あら、そう。」

凜はさして興味がなさそうに口にしたが、顔がみるみる赤くなった。わかりやすいぞ、凜!

 その夜ウメはいつもより早く床に就きたいと考えた。新しい夫婦の諍いにウメなりに気を揉んだのだ。ウメは家中の戸締りを確かめて明かりを消してまわった。階段の傍を通ると、ふと誰かが呼ぶような遠い声を聞いた。ウメが耳を澄ますと、それは二階から伝わってくるようだ。静かに階段を上ると、夫妻の寝室のドアが僅かに開いている。間近に立つと、性の営みか新妻があげる悦びの声が漏れ聞こえた。ウメは心臓をドキドキさせながらもドアをそっと押して閉めきった。もうなにも聞こえてはこない。ウメは首を二度ほど振って階下に降りた。ダイニングに立ち寄ると戸棚から褐色のガラス瓶を取り出した。ウメが寝酒にブランデーを呑むと知って明が常に用意しているものだ。ウメはコップにほんの僅か注いだが、少し迷ってさらに同量を継ぎ足した。

…この分ではブランデーの減るのが早くなりそう。

ウメはそう呟くと、両手でコップを抱えて自室に戻った。

                 (つづく)






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