第16話

   「女刑事物語 (16-1)」 Ⅽ、アイザック

 凜と尼子は真っ直ぐラフォーレ田山に向かった。傷害事件の起きた地番を調べ、シブヤイチロウが器物損壊事件の被害者と同一人物であることを確認していた。

「やっぱり怨恨が絡んでいたんですね。でも…。」と尼子が首を傾けながら言った。

「そうだとしても刑事が尋ねてきた同じ日の午後に事件を起こすとは驚きますよね。…まだ中野の犯行と断定はできないですが。」

 中野は不在のようだった。ドアには鍵が掛かっている。

「おーい、中野君。居たら返事をしてくれ。」

ドアに耳を近づけてみるが物音がしない。

「管理者を呼んで鍵をあけさせますか。」

尼子の言葉に凜が首を振った。

「それはまだ難しいな…。藤原さんが被害者から何か聞き出していないか確かめよう。」

言い終わらないうちに凜の携帯が鳴った。加藤からだ。

「お凜ッ。」大きなしゃがれ声が耳に突き刺さり、思わず凜が携帯を遠ざけて眉を顰めた。

「そっちの容疑者の写真があるか。」

「ある。」

「病院へ来てくれ。被害者が犯人の顔を見ている。」

「了解した。」


 渋谷一郎は背後から上腕を切りつけられていた。傷は肩口から肘の方へ走り、縫合が十針に及んだ。さらに念のため一日の入院が必要とされた。

 凜と尼子が急ぎ足で病室へ向かった。ドアの前で藤原が婦人と言葉を交わしている。渋谷の妻だろう。その藤原に身振りでうながされて室内に入ると中にいた加藤が二人を手で招いて言った。

「写真を見せてやってくれ。」

渋谷は蒼白な顔でベッドに腰かけていた。

「あなたに傷を負わせたのはこの男ですか?」

凜が中野の顔写真を示すと手に取ることもなく見つめた。刑事たちは息をひそめて返答を待った。

「そうかもしれません。」渋谷が小さな声で言った。

すかさず加藤が問い質した。

「相手の顔を見たんでしょう? そうかもしれないとはどういうことですか。」

「後ろ向きになったところを刺されたんです。」

「あなたはさっきそんなこと言わなかったじゃないですか。玄関先に出たら不意に襲われた、そう聞きましたが。」

加藤がイライラしているのが感じられた。

「そこは聞かれなかったので…。」渋谷は消え入るような声で答えた。

「渋谷さん。」凜が口を挟んだ。

「刺したのが誰か分らないということは、この男以外に人がいたのですね?」

加藤が凜に告げた。「二人組の男だったらしい。」

凜が急いで携帯を取り出した。小金井の免許証を撮影した画面を呼び出して顔写真をズームした。

「もう一人の男はこの人物ではないですか?」

画面を覗いた渋谷が驚きの表情で凜を見上げた。

「そうです。この男です。」

凜の質問が続いた。

「この二人のどちらかが刃物、ナイフのようなものを手にしているのを見ましたか。」

「果物ナイフを持ち出したのは後の男です。でも…危険を感じて家に逃げ込むとき後ろから刺されて…、恐怖を感じて咄嗟に振り向くと私の後ろに写真の男がいました。だから刺したのはその男だと思います。でも気が動転していたのでよくわからない。」

加藤が興奮を抑えながら話を引き取った。

「協力ありがとうございます。必ず捕まえますから。」

 病院を出たとたん加藤が凜に迫った。獲物を前にした猟犬のように目が輝いている。

「お凜、その男たちを詳しく話せ。二手に分かれて一気にパクるぞ。」

さすがに凜は乗らなかった。

「その前に係長へ報告しようよ。私たちだけで動いて逃げられたらまずいわ。」

加藤が不機嫌そうに電話を手にした。

「警部殿。容疑者二名が特定されました。これから直ちにヤサへ向かいます。」

黒田の弾む声が漏れ聞こえた。

「大きな目途が立ちましたね。」それから声の調子が変わった。

「その二名の住居地は同一ですか。」

加藤が慌てて説明した。「いや、それは別々でして、我々とお凜の班に分れて向かうつもりです。」

「加藤さん、ヤサを張ったら応援を待ってください。事件の背景がはっきりしません。他に共犯者がいる可能性があります。不測の事態を避けたいので、必ず応援が来るまで踏み込まないでください。」

「はあ…、分りました。」加藤が電話を切ってから不満そうにつぶやいた。「慎重だな…。しかし在宅かどうかくらい確かめないとな。」

 容疑者二人の姿は消えていた。小金井の自宅で藤原が両親に尋ねても行方が分からない。傷害罪の疑いがあると明かされた五十代半ばの父親が早く息子を刑務所に入れてくれと刑事に訴えた。「いつかこんなことになると思っていた。」と唸るように言った。母親は涙を拭きながら哀願するような目で藤原を見つめた。

「何処にいるかほんとに知らないのか?」加藤に容赦は無かった。

 凜と尼子は保護司の細川のもとへ急いだ。中野が立ち寄りそうな所を聞きたかった。家の前で車を降りた尼子が空を仰いだ。

「雲が怪しいですね。」

黒い雲が空の一部を覆っていた。風が強くなっている。路上に落ちた小さなビニール袋がふわりと頭より高く舞い上がった。驚く間もなく突風が刑事を正面から襲った。凜が眼を閉じて顔をそむけた。咄嗟のことで息ができない。だが次の瞬間、今度は真後ろから激しい風が背中を叩いた。体が揺れる。すぐに風は止んだ。凜が空を見上げると先ほどのビニール袋なのか、はるか上空五十メートル以上の高さに飛ばされていた。

尼子が髪を手櫛で触りながら口を開いた。

「いったい今の何ですかね。竜巻かな。」

凜が相槌を打った。

「そうかも知れない。びっくりしたね…。」

「春一番か春の嵐か。いずれにせよ雲がどんどん広がっているような…。最近は異常気象が異常でなくなって通常気象が…えっと。」

凜が笑った。

「ウケましたね。」と尼子が軽口を叩いた。

このころ関東一円に大雨注意報が出された。日暮れには神奈川地方で大雨警報に変わることになる。

 保護司の細川が顔を紅潮させて刑事たちを見た。「中野君がどうかしたのでしょうか。」と聞いた。

「その質問にはお答えできません。現在捜査中なので…。」

凜が言いにくそうに言葉を選んだ。

「刑事さんは、昨日もそう言われた。」

細川が指摘した。

「そして今日、あなた方の表情が昨日とは全然違う。何かあったのですね? 私は保護司を長く務めさせてもらっています。その経験から言わせてもらえば、もしあなたが昨日事情を教えてくれたならば、私は中野君が事件に巻き込まれるのを防ぐことが出来たかもしれない。違いますか。」

凜は黙って細川を見つめた。昨日の今日の出来事であるのは確かだ。尼子が口を挟んだ。

「細川さん、我々が捜査情報を漏らしたらそれがどんな重大な結果を招くか予想できません。あなたも保護司なら分るでしょう。」

「私が…それを知ったところで誰にも言いませんよ。私一人の胸に収めます。そして中野君を見守りたかった。」

「細川さん。」凜が決然とした口調で告げた。

「中野の立ち回り先を教えてください。」

細川は悲しげに凜を見て尋ねた。

「行方が分からないということなら、私が中野君に電話を掛けてもいいでしょうか。」

刑事が顔を見合わせた。もし連絡がつけば中野が自ら出頭することも考えられた。それは望ましい結果と言える。

「構いません。電話してください。」

それが逃走の契機になるかもしれないという危惧はすでに意味がなかった。

 やがて細川が独り言のように呟いた。

「電話に出ない。…どうしたんだろう。」

凜があらためて尋ねた。

「中野の立ち回り先をご存知なら教えてください。」

「立ち回り先…。」細川が繰り返した。「彼は運転免許を持っていませんから…。」

すぐには思い浮かばないようだった。

「中野は恐喝事件を起こしたとき不良グループと関係があったのではないでしょうか。今、その中の誰かといっしょにいるとも考えられます。心あたりはありませんか。」

凜がたたみ掛けると細川の表情が動いた。

「グループというわけでは無いですが中野君から聞いたことがあります。なんという名前だったか…。たしか…。」

刑事たちが無言で待った。

「小金井でした。小金井という友人がいると聞きました。でもどこの人かまでは知りません。」

結局、細川からそれ以上の情報は聞けなかった。

「どうします?」と尼子が尋ねた。ラフォーレ田山はすでにほかの班が張り付いている。

「ガサ入れで手掛かりを探すかな…。」凜がそう答えて電話を手にした。

「中野、小金井の居所二か所をガサ入れしたい。」と黒田に伝えた。

「良いだろう、目的物は何だ。」

「ナイフ、刃物等傷害事件に関わるもの全て、さらにメキシコ製の履物、マイナスドライバー等の工具類ほか器物損壊事件に関わるもの全てです。」

「分った。課長に手続きをしてもらう。」

「課長、いるの?」

「課長は裁判所に向かってる。容疑者二人の携帯電波の位置情報を通信会社に求める予定だ。すぐ人をやってガサ入れと差し押さえの許可状を追加してもらおう。」

 これを黒田から伝え聞いた加藤が藤原に言った。

「ガサ入れが決まったようだ。とりあえずもう一度両親に立ち会わせて部屋を調べよう。このままでは何の手掛かりも無い。」

藤原は躊躇した。

「許可状が届くのを待ってからでいいじゃないですか。というのも被害者の話では小金井は果物ナイフを持ち出しただけで何もしていない。遠くに逃げる理由があるでしょうか。案外と何食わぬ顔で帰宅するかもしれません。」

「渋谷の言うことはあてにならん。刺したのが小金井かも知れん。それに渋谷は事件の原因を何一つ喋っていない。まあ、それは容疑者を挙げれば分かることだから病院で詳しく訊かなかったが…。」

加藤が不満を露にして反駁したが、藤原の反対を押し切ってまで住居内に立ち入る意思はないようだった。

夕方になって雨が降り始めた。あたりは暗くなり、車のフロントガラス越しに見える街灯が雨滴に歪む。車の中で加藤が舌打ちした。少し離れた場所に別の捜査車両が停まっている。刑事たちは忍耐強く張り込みを続けた。それが徒労に終わるのはごく普通だ。季節外れの温かい空気が救いだった。

やがて雨が降りしきる中、一人の男が傘もなく駆けてきた。刑事が見張る建物に走り込む。加藤と藤原が暗い路上に飛び出した。男は階段の上り口で立ち止まり両手で顔の雫を拭っている。

「小金井だなッ。」走り寄った加藤が鋭く声を投げつけた。

「警察、警察。」と藤原が告げた。

小金井は突然現れた男たちに驚愕し、茫然と佇んだ。

「俺たちが来た訳は分ってるだろッ。」

加藤がにじり寄った。「分ってるな。」と念を押した。

小金井が僅かに頷いた。

「では署まで来てもらおうか。」加藤が顎で車の方を指した。

もう一台の車から数人の刑事が小走りに近づいて来る。小金井がようやく慌て声を上げた。

「俺は何もやってない。俺じゃない。」

「その話はむこうで聞くから。」

加藤が促すと小金井は逆らえないと感じたのか口を結んだ。

 一階の玄関に明かりがさして母親が現れた。低いブロック塀を回って泳ぐように歩いて来る。傘を差していない。

藤原が声をかけた。

「お母さん、 時刻は分りませんが連絡をします。その時は息子さんを迎えに来てもらえますか。もしかすると明日になるかもしれません。」

藤原は明朝になるであろうガサ入れを念頭に置いていた。

 小金井正雄の身柄を押さえた報せがラフォーレ田山を張り込む刑事たちに届いた。小金井が自宅へ戻ったという。

「こっちは戻りますかね…。」

尼子が聞くともなく囁いた。凜は無言だ。

「あり得ない訳じゃないですよ。」尼子が今度はハッキリ声に出した。

「事件が何らかのトラブルによるものだとしたら中野には言い分がある筈です。それにコロシじゃない。凶悪な犯行であることは否定しませんが、この件で逃亡を続けるか疑問が残ります。」

「事件を起こして動揺してるのかも。執行猶予もなくなると考えて自棄になって逃げてしまった、そう考えている。何しろまだ子供…じゃあないが、二十歳そこそこだ。」

「でもいったい何処へ…。神奈川の田舎の出身ということでしたがそっちですかね。」

「可能性はあるわね。」

凜の反応に尼子が声を強めた。

「私は山陰の田舎から出てきたんですけど、田舎って目立つばかりで、野宿なら別ですが隠れるとこなんか逆に少ないですよ。潜むとすれば平凡ですが都内のインターネット・カフェあたりが順当ですかね。」

「…可能性はあるわね。」

凜は雨が幾筋も流れ落ちるフロントガラスの先のアパートに視線を投げてまったく同じ言葉を呟いた。

尼子が肩をすくめた。

 凜は細川が見せた反応を思い返していた。中野が新たな犯罪にかかわったと推察し、残念で居たたまれない様子を顕にした。保護司として当然の事だろう。そして彼が指摘したとおり、昨日のうちに中野へ向けられた容疑の一部を細川に告げていれば、今日の刺傷事件は無かったかもしれない。情報は漏らさない…その判断がこの場合あまりに柔軟性を欠いたものだったか。中野の素朴な童顔が思い浮かび、凜の心の奥に密かな後悔があった。

 夜十時を過ぎて刑事たちが署に呼び戻された。中野の携帯電話の電波が神奈川県厚木市の基地局で受信されていた。

北条が刑事たちに告げた。

「中野容疑者はすでに神奈川方面に逃亡したとみられる。そこで、

容疑者を別件の器物損壊の疑いで捜査対象としていた朝倉刑事に意見を求めたい。」

凜が口を開いた。

「中野容疑者は神奈川県厚木市の北にある清山村の出身です。逃亡したとすれば実家を目指した可能性があります。現在、実家には都内で中野と同居する祖母が一時帰宅しています。」

北条は何も言わない。逃亡先に田舎の実家を選ぶ。ありそうで実はあり得ない行為と思われた。北条にとって中野は前歴のある強行犯だ。祖母を頼るようなしおらしい人間とは違うと受け止めていた。

黒田が北条の心中を見透かしたように発言した。

「これは朝倉が言うように、そこに身内がいるのであれば一時的にせよ立ち寄る可能性がある。他に手掛かりがない以上、我々としては早急に動く必要があると考えますが…。」

勿論、北条に異論はなかった。

「小金井はどのような供述をしているのですか。」凜が突然黒田に尋ねた。「本当に中野が刺したのでしょうか。」

「加藤が今も話を訊いているが、小金井は渋谷とのトラブルの原因が中野にあり刺したのも中野だと言っているようだ。しかし供述に曖昧な部分が多くたしかな事は分かっていない。刀類の不法所持以外にも容疑があり、今夜は留置して明日、親を身元引受人として釈放し、同時にガサ入れを予定しています。」と終いは北条に報告する形になった。

 捜査態勢と方針が決まった。四班が厚木方面へ向かい、二手に分かれて一方は市内の宿泊施設を当たり、他は清山村へ足を延ばす。都内に残る捜査員が駅の改札情報から中野の逃亡先の特定に取り組む。これとは別に容疑者宅二か所の家宅捜索を行う。また器物損壊事件と脅迫容疑について被害者の渋谷をあらためて聴取して裏付けを取る。最終的には中野の逮捕、取り調べを待って事件の全体像を把握し、総合的な観点から二人の検察送致の扱いを決める。

 厚木方面に向かう捜査員を前に北条が注意を述べた。神奈川地方に大雨警報が出されていたからだ。

「夜間に出発してもらうタイミングになり、さらに悪天候が重なった。事故に十分注意して職責を果たしてほしい。犯行は傷害罪にすぎないが、白昼の事件を受けて小中学校が保護者に一斉メールで注意を喚起するなど、地域社会に大きな影響を及ぼした。速やかに容疑者を逮捕して一刻も早く地域に安心を与えて貰いたい。」

凜と尼子は清山村に向かう班だ。署内で装備を整えた。防刃ベストは身に付けない。トレンチコートと重なると動きが制限されることになる。もっとも捜査車両には防刃、防弾ベスト、ヘルメット、警棒、刺又などが常時積まれている。

暗い中を駐車場に向かう。雨は小降りになっていた。強い風の中、凜の携帯電話が鳴った。明からだった。夜中に電話を受けるのは初めてだ。しかも突然だった。その驚きに自分の意思で一度は途絶えた電話であることを忘れていた。

「明さん、いったいどうしたの?」何か只ならぬことが起きたと疑った。

明は凜が電話に出るのを予期していなかったのか、一瞬の間があってから答えた。

「急用ではありません。申し訳ない。ただあなたの声が聞きたかったので…。」

凜は樋口に自分から連絡すると伝えたのを思い出した。

「私、明さんに電話するつもりでした。でも急ぎの件があって後回しになってしまいました。実はこれから出るところ。ごめんなさい。」

出動する一台のパトカーが短くサイレンを鳴らすのが聞こえて、明は凜が警察署にいるらしいと悟った。

「この夜更けに出かけるのですか。いったいどこへ?」

明の無邪気ともいえる問いに凜が自分でも思いがけず「隣県へ行きます。」と答えていた。

「隣県? 神奈川あたりですか。」

凜はもう何も言わない。

明は確信めいたものを得たようだ。「向こうには大雨警報が出されているようですよ。」と注意した。

「気を付けます。」

凜が仕方なく答えると、明がさらに訊いた。

「川崎ですか。それとも横浜?」

「…ごめんなさい。」

「違うんですか。」

「答えられないの。ごめんなさい。」

「仮にあなたが何か答えても、私がそれを誰かに話すようなことは絶対にありませんよ…。」

明の口調が非難めいて聞こえた。凜の脳裏にふと細川の上気した顔が浮かんだ。

「申し訳ない。もう何も訊きません。」

明の言葉に凜が急いで口を開いた。

「厚木の…、北の方です。」

「そうですか、どうぞ気を付けて。お仕事に区切りがついたら電話を頂けますか。」

「分りました。」凜は何か付け加えようとしたが後の言葉が出ない。そのまま電話が切れてしまった。

 思わず溜息をついたところへ尼子が運転する車が近づいた。ヘッドライトの光の中に雨足が白く見える。凜は携帯電話をトレンチコートのポケットに押し込んで車に乗り込んだ。四台の捜査車両が次々と署を後にし、やがて東名高速に乗って厚木インターを目指した。

 厚木署に着いたのは深夜だった。神奈川県警に話は通してある。当直の若い刑事と地域課の捜査員が待ち受けていた。

「ご苦労様です。」と初老の捜査員が警視庁の刑事たちをホワイトボードが準備された一室へ案内した。ボードには二枚の大きな地図が止められていた。捜査員はビジネスホテルや簡易宿所が点在する地域を説明して数ページの資料を配った。

「このリストにはいわゆる民泊は含まれておりません。というのも民泊は予約制が普通ですので、今回の事案にはそぐわないと考えて除外し、数を絞ってあります。…管内の宿泊業者さんにはこれまで多大な協力を頂いていますので皆さんの捜査に支障を来たす恐れはないと思います。」

それからもう一つの地図を指し中野の出身地を説明した。

「署から北へ進み、国道四一二号線へ替わって更に行きますと、県道と連絡します。これを五キロほど行くと温泉地があります。その温泉地と県道を挟む反対側、東側に皆さんが目的とする剣先という地区があります。戸数は僅かで、急傾斜地があり、現在雨が小降りとなっていますが剣先地区には土砂災害警報が出されています。

清山村には二つの派出所があり、すでに連絡済みで、避難所に指定されている剣先地区の集会所で待機させる予定です。とりあえず皆さんを本官がそこまで先導するつもりですが…。」

神奈川県警の懇切な協力に刑事たちは驚き、白髪頭の警察官に交々頭を下げた。まさに至れり尽くせりだった。

 凜と尼子、そして竹中班が剣先地区に向かった。竹中刑事はもう四十を超えている。無口で目立たない男だが時おり押しの強さを見せることがあった。いつも無精ひげを伸ばしている印象だ。その相棒も口数が少ない。

雨はまだ降り止まない。フロントガラスに見慣れぬ街灯や看板の明かりが浮かんでは過ぎていく。剣先地区まで約四十分だという。

「大丈夫? 運転代わろうか。」凜が尼子に声をかけた。

「全然平気ですよ。先輩、少し仮眠をとったら?」

そんなやり取りのあと、凜はコトリと何かが車内の床に落ちるような音を聞いた。足もとを見るが何も見えない。ダッシュボードから細い電灯を取り出した。

「どうかしましたか。」尼子が尋ねた。

「何か落ちた音がした。」

小さな光の輪が足の間の床を動いた。

「何も無いな…。」凜が呟いて運転席の床を照らした。

「無いな…。」と繰り返した。

「車を止めますか。」

「いや、置いてかれるとまずい。」

凜が明かりを消して詫びた。「ごめん。勘違いだったかも…。」

 音を立てたのは凜の携帯電話だった。トレンチコートのポケットから滑り落ちて、ドアと座席の隙間に立て掛けられていた。凜は目的地に着いてから席の下を目で確かめようと考えただけで、落ちたのが自分の携帯だとは気がつかなかった。

 剣先地区の集会所に着くと、そこかしこに赤い光がいくつも点滅している。数台の消防車の赤色灯だった。集会所の傍の空き地に神奈川県警のパトカーが停まっている。尼子がそこへ車を滑り込ませた。集会所の入り口、窓々に明かりが灯り、深夜にも関わらず多数の人影が動き、緊迫した雰囲気に満ちている。地区には土砂災害警報と非難指示が出されていた。

 凜がドアを開けて足もとに目をやった。空き地のいたるところに水溜りがあったから用心したのだ。だが同時に何かがそこに落ちるのが見えた。一瞬の間を置いて、凜はそれが携帯電話だったと疑った。反射的にコートのポケットを押さえたがやはり手ごたえがない。慌てて暗い水溜りを手で探った。ツルツルした小さな板に指が触れた。取り上げると自分の携帯電話から水が滴り落ちている。

「アチャー。」

凜の口から刑事らしからぬ悲鳴が漏れた。

「どうしたんです?」尼子が声をかけた。

「ケイタイを水溜りに落とした。…まったくドジだね。」

「あ、すぐには電源を触らない方が良いですよ。とりあえず乾かさないと。」と尼子が注意を投げた。

 パトカーを降りた厚木署の捜査員が一人の制服警察官を刑事たちにひき合わせた。派出所の新田巡査部長だと紹介した。

「新田巡査部長です。」新田はそれだけ口にして敬礼した。凜より少し歳が上か。制帽の顎紐を締め、レインコートできっちりと身を包んでいる。

「集会所の中を見たいのですが。」

凜の言葉にキビキビとした様子で出入口へ案内した。ガラスの引き戸が左右に開け放たれている。六畳ほどの土間にあたる部分に履物が整然と並んでいた。集会所の室内は畳敷きでかなり広い。約三十人ほどの住民が避難していた。ほとんどが毛布などを被って横になり、座っている者も数人いる。二月とは思えぬ蒸し暑さに、隅に積み上げられた布団はそのままになっていた。

凜は中野の姿を探した。明かりが灯されているので室内が良く見えるのだが、横になった人物は顔などが分らない。新田が凜の傍で誰かをしきりに手招きしている。やがて七十歳くらいの老人が近づくのを待って刑事たちに紹介した。

「剣先地区の自治会長さんです。この人に尋ねれば大概のことは分かります。」

この言葉にさっそく凜が訊いた。

「中野さんはいませんか。」

老人はキョロキョロと室内を見渡して「いや、静江さんはみえないね。」と答えた。

新田が聞き咎めた。

「避難してないの?」

「小学校に行ったはず。静江さんは小学校の方がここより安全だとかねてから言ってますからね。」

「まだ自宅にいるってことはないかな。」

老人が新田の問いかけに掌を振ってみせた。

「静江さんの家は去年の台風でかなり被害を受けてね、今あんなとこにいたら遭難を待つようなもんです。」

「小学校というのは?」尼子が口を挟んだ。

「すぐ百五十メートルほどに小学校がありまして、そこの体育館も避難場所に指定されているんです。地区民は自分の判断でどちらかへ非難することになっています。」

自治会長の老人が説明を終えてようやく刑事たちが何者だろうと問いたげな顔をしたが、新田はとくに何も言わない。

凜の背中で竹中が突然に口を開いた。

「小学校の方はこちらがあたろう。」

「えっ?」尼子が小さく息を吐いた。

すぐに新田が竹中に声をかけた。

「案内しましょうか。」

竹中は何も言わず、しかし言葉に甘えるつもりであることを示そうと二度、頭を下げた。

 竹中らが去ると尼子が不満そうに訴えた。

「なんだか、いきなり捜査のホン線から外された気分です。竹中さん、どういうつもりなんですかね…。」

「まあ、いいじゃないの。…ワン・チームなんだから。」と凜が宥めたが、尼子は納得できないようだった。

「いつからラグビーファンになったんですか。」と毒づいた。

凜は素知らぬ顔をして笑いを堪えていた。


 凜と尼子は車に待機して集会所の出入り口を見張った。午前四時を過ぎていた。いつしか雨は止んだが、星のない漆黒の空がすべてを覆っている。

尼子の携帯が鳴った。

「課長からです。」意外に感じたのかそう断って通話に耳を傾けたが

すぐに驚きの声を上げて叫んだ。

「今、班長に代わります。」

凜の耳に北条の声が飛び込んだ。

「容疑者の携帯の位置情報を伝える。通信会社によると現在位置は清山村剣先あたり。充分に警戒してください。」

「…了解したッ。」

凜と尼子が顔を見合わせた。

                 (つづく)



    「女刑事物語(16-2)」 Ⅽ、アイザック 

 明は雷鳴を聞いて目覚めた。雨音がする。半身を起こすとカーテン越しに光が明滅した。枕もとの時計に目をやる。深夜の二時三十分だ。部屋は暖かく、季節の感覚を狂わせた。雷が遠く響く。目を閉じたが眠気が失なわれていた。

 階下に降りてテレビを点けた。ウメが起きるのを恐れて音を消し映像だけを見る。天気図や雨雲の動きが画面に次々と現れた。「神奈川県北部に大雨警報、土砂災害警戒区域に非難指示」の文字が映し出された。明はそれをぼんやりと眺めていた。夜中に起き出すなど最近にないことだった。

 やがて画面を凝視した。警報が出された地名が繰り返し示されていた。その中に厚木市と清山村の文字がある。なぜか明の心に漠然とした不安がよぎった。凜の身を案じたのだ。睡眠が足らないせいか、それは徐々に膨らんでいく。落ち着かない様子でソファーを離れ寝室に戻った。テーブルの携帯電話を手に取った。暫くためらっていたが思いきって凜に電話する。しかし繋がらない。呼び出す間もなく切れてしまう。発信やコールの音が全く聞こえない。何回か繰り返したが結果は同じだ。突如として胸が騒いだ。

…彼女の身に何かが起きたのでは。

明はそう思った。ウロウロと歩き回った。また電話を取り上げた。しかし繋がらない。通話が断たれたときの短い音が鳴っている。おかしい、とまた思った。携帯電話の機器的な問題なのか。それともこれは凜が異常事態に陥っているのを暗示しているのか。

…こうしてはいられない。

明は自分が何か行動すべきだと思った。

 闇に光が走った。窓を開けると、雨まじりの風が吹き込んで、明は我に返った。雷鳴が轟く。…凜の危機、それは根拠のない空想にすぎない。それに彼女がいま何処にいるか知らないじゃないか、と自分に言い聞かせた。私にできることは無い。

 だが心の奥に芽生えた不安がいつまでも消えない。ついに明は凜の居所が全く分からない訳じゃないと考えはじめた。神奈川にいるのだ。そして厚木市の北へ向かうようなことを口にした。厚木の北方…あまりに漠然としている。明は凜の言葉を克明に思い返した。大雨警報が出されていると注意すると彼女は「気をつけます。」と答えた。

その語調は単なる儀礼的な返答ではない響きがあった。凜が自分自身へ言い聞かせるようでもあった。…彼女は危険な場所へ向かうことを知っていた。では大雨と関係する危険とは何か。考えられるのは川の氾濫と崖崩れか。凜は川の流域に行ったのか。だが氾濫は突如としておこるものではないだろう。氾濫水位をすでに関係者が警戒しているはずだ。むしろ避けがたい危険は土砂災害にある。凜は崖地を含む所にいるのではないか。

 会社が急傾斜地からさほど遠くない場所で宅地を造成している。たしか厚木市の北方に位置する清山村だった。明は記憶を手繰った。崖地と隣接する地点にコンクリートブロックの擁壁が示された模型を思い浮かべた。擁壁の外側の空地と幅の狭い雑木林。その外に崖が迫っている。緑色で形造られた崖地の模型に白い紙が貼ってあった。それに地名が書かれていた。たしか…剣先。凜は清山村剣先にいる!

 明は手早く身支度を整えた。階下の明かりをつけて車のキーと懐中電灯を探した。剣先に行く決心をしていた。

「旦那様、どうされましたか。」

ウメの声がした。物音に起きたらしい。

「神奈川の宅地造成現場に行きます。心配いりません。」

「お一人で行かれるんですか。」明が肯くとウメは絶句した。

車を走らせながら明は自分に問いかけた。

…私は妄想に囚われているのか。多分そうだろう。しかしだからといって誰に迷惑をかけるわけじゃない。私の気の済むようにさせて貰おう。

 明を捉えて離さない不安が遠い記憶につながった。小学校に入学したその日、母の顔写真を求めて家中を探したがついに一枚も発見できなかった。そのときの失望は不思議な感覚をまとっていた。理由もなく大切なものが手に入らない。初めからそれを失っていたと気づいた虚無感。それは今の明に不吉な連想を与えた。…凜が自分の前から姿を消してしまうのではないか。自分でも説明できない不安に駆られて明は夜の高速道路を突っ走った。


 容疑者が剣先地区にいる。北条の報せに尼子が車を跳び出そうとした。

「待って。」凜がかろうじて呼び止めた。

「竹中さんに連絡を取ろう。」凜の電話は使えない。

竹中班は車中から辺りを警戒していた。避難場所の体育館は午前三時を過ぎたころから全く人の出入りが無かった。中野の祖母静江の  避難が確認できたが館内に中野の姿はない。雨が止んだことから何処かに潜んでいる可能性があったが、小学校の敷地と施設は広く、わずかな数の捜査員では捜索が難しい。さらに容疑者側から先に姿を発見されると容易に逃走されてしまう恐れがあった。今は目立たない車内から人の動きに注意を払い夜の明けるのを待つ。それが竹中の考えだった。

 これを尼子から伝え聞いた凜はひとまず妥当な判断だろうと思った。だが容疑者の行動に分からないところがあった。なぜ中野は地元に戻ったのか。警察に手配されている、それを知っていた筈だ。逮捕される危険をなぜ冒すのか。それを理解しないと的確な捜査行動がとれないのではないか。

「中野はなぜ剣先に戻ったのだろう。」

凜が尼子に訊いた。「カネの問題かな…。」

「それは違うと思いますよ。」尼子が即座に答えた。

「中野は工場で働いていますからね。カネはある筈です。祖母に頼る必要はないでしょう。」

「では逆かな…。いやカネを祖母に渡すのなら口座に振り込めば済むことだし…。」

「言われてみれば、なぜ地元に舞い戻ったのか不思議ですよね。どんな理由があるのか…。それに現時点で剣先地区にほんとにいるのかどうかも疑問ですが…。」

「そこだよね…。」凜が言った。

「携帯のGPS情報は通信会社の測位と社内的な処理を経由して警視庁に通知されるからどうしてもタイムラグがあると聞く。この瞬間の情報じゃない。」

「どうします。竹中さんの方で異常ないのならこちら側の可能性があるとなりますが…。集会所をもう一度調べますか。」

「ちょっと待って。」凜が尼子を見つめた。

「…私たちは厚木の基地局が電波を拾ったという通報でこちらに来たわ。つまり中野にずいぶん遅れて厚木に着いたことになる。それから四時間も経って中野が剣先にいる? 逆に私たちを追ってきたみたいだわ。なぜかしら。」

「なぜですかね。」尼子が気楽な調子で相槌を打った。

「ちょっとは考えろよ。」凜が口をへの字に結んだ。

尼子は顔を赤くして口を開いた。

「中野の行動は分りようもありませんが、早い段階で厚木かその周辺にいたと考えられます。土地勘があるでしょうし、多分同級生とか友人がいるんでしょうね。事情を隠してとりあえず泊めてもらうようなことだったんでしょう。しかし未明を過ぎて突然剣先に向かった。なぜか…。」

凜は無言だ。

「なぜだ…。真っ暗な中、大雨警報が出ているさなか…。」

尼子が考え込んだが、すぐに小さく声を上げて凜を振り向いた。

「土砂災害警報! 中野はそれを知って祖母の身を案じ、タクシーか何かで剣先に駆けつけた。何らかの事情で祖母と電話が繋がらなかったのかもしれない。我々が気づかぬうちに集会所を覘き…、他にも裏口があるのが当然でした。祖母がいないと知って…、自宅に向かった? 先輩、中野は土砂崩れの危険を承知で自宅を目指したのでは。」

凜に異論はなかった。

車を跳び出した二人の慌ただしい様子に新田がパトカーから姿を見せた。膝まで下ろした雨合羽を急いでたくし上げながら「どうしましたか。」と声をかけた。合羽の上着は脱いでいる。

「中野静江さんの自宅に行きます。」

凜の答えに「私も同道してよろしいですか。」とダッシュボードの制帽を被った。三人は懐中電灯の光を投げながら集会所の脇を進み、徐々に登る細い道を辿った。

「静江さんの家は坂のいちばん上だそうです。」

新田が息を切らしながら説明した。「母屋と隣に物置があって、母屋の方が昨年の台風で被害を受け、危険な状態だと自治会長が言っておりました。」

 手にした明かりに照らされた道は細く、車が離合することが出来そうもない。片側に崖が迫っている。一方の端は黒々と低い灌木に縁どられ、その先が段差で小さな谷のように落ち込んでいる。崖下の住宅地と谷に続くわずかばかりの土地を縫うように道が走っているのだ。その谷に目を向けると壁のようなものが建っている。光を当てるとコンクリートの造作物と分かった。新田が言った。

「あれはこの先で東京の会社が宅地を造成していまして、その土砂が流出しないための沈砂池と聞いています。大きな升のようなものですな。静江さんの家はもう少し上がったあたりでしょう。」

風が起き、暗黒の空から雨が落ち始めた。三人は急き立てられるように坂を上った。

 やがて暗い崖の傍にポツンと小さな建物が目に入った。雨が激しさを増している。

「多分あれが…。」言いかけて新田が口をつぐんだ。

その物置と思われる戸口から小さな光が動いて人影が現れ、隣接する母屋に消えるのが見えた。

「新田さん、気をつけて。」凜が鋭く声をかけた。

二人の刑事が母屋に駆け寄る。新田も続いた。尼子を先頭に建物へ飛び込んだ。手にした懐中電灯が暗い内部の壁や床を走った。

「中野かッ。」尼子が奥に叫んだ。

襖の向こうで小さな光が畳に落ちた。そこに人の気配があった。

「警察だ。落ち着きなさい。ゆっくり出てきなさい。」

凜が声をかけた。

新田は懐中電灯を掲げ、片手に警棒を握って警戒態勢だ。中野が明かりの中に進み出るのを見て「容疑者ですか…。」と緊張に震える声を刑事に投げた。

尼子が突きつけた。

「聞きたいことがある。分ってるだろう。」

中野がゆっくりと頷いた。

「よし…。危ないものとか持ってないだろうな。」

尼子の言葉に首を振った。

「調べさせてもらうよ…。」尼子が言いながら服のあちこちを探った。

「静江さんは小学校に避難している。心配いらないぞ。」

凜が雨音に負けない大きな声で伝えると中野が顔を上げた。暗くてわからないが凜を見つめているようだった。

「とりあえず一緒に来てもらおう。」尼子がやや穏やかな言い方をした。

 中野に抵抗の気配はない。

「ここは危険だ。早く非難しよう。」尼子が促した。

一行はすぐに建物を出た。黒々とした崖が不気味に迫った坂道を全員で下る。雨は降り止まない。

「お祖母さんに連絡がつかなかったのか。」

歩きながら尼子が中野に話しかけた。

中野はつかの間黙っていたが、「ばあちゃん、携帯のバッテリーが切れてるのにいつも気づかないんだ。」と小さな声で答えた。

その直後、中野が突然に立ち止まった。

「どうした?」尼子が質した。

「携帯を忘れた。」中野が訴えた。

「忘れたって、お祖母さんの自宅に?」

警察官たちが立ち止まって暗い道を振り返った。すでにかなりの距離を来ている

「母屋の座敷に上がった辺りだね?」と凜が尋ねた。

中野は「はあ…。」と自信無げな声を出した。

凜は家の中に踏み込んだ状況を思い返した。声をかけた際に奥で小さな光が畳に落ちるのを見た。あれは光が動いたのではなくて携帯電話を落としたのだと悟った。

「私が取って来るから、先に行って。」

「えッ。」尼子が何か言いかけた。

「いいから先を急いで。ひとっ走り行ってくるからさ。」凜がそう告げて新田にも頭を下げた。

「お願いします。」

「気をつけてください。」と新田が心配そうに応じた。

凜が足もとを照らしながら雨の中を走った。携帯電話の通話やメールの履歴は重要な証拠となることが多い。確実に入手しておきたかった。

凜の髪を濡らした雨が雫となって幾筋も顔に流れた。建物に着いてとりあえず小さなハンカチで顔と頭を拭いた。くるぶしのやや上までの短いブーツを脱いで土間から板敷に上がった。靴下はすっかり濡れていた。すぐ近くの襖の裏あたりに携帯電話がある筈だった。ところが目に入らない。案外な思いで光を座敷の隅々まで走らせたが携帯電話が無い。少しためらってから座敷に踏み込んだ。

奥の方へ進んだときだった。突然足もとが大きく揺れて壁の方から破裂音が聞こえた。何かが顔をかすめて飛んだ。ハッとして明かりを向けると黒い大きなものが飛ぶように倒れてくる。凜は咄嗟にそれを躱した。…つもりだった。しかし次の瞬間体が畳に叩きつけられていた。大きな音が響いた。冷たく重いものが覆いかぶさりながら凜を畳の上で押し流した。その動きが引っ掛かるように止まった。しかし重量物はどんどん圧(の)しかかって来る。凜は恐怖のあまり叫ぼうとしたが声が出なかった。着ている服がまるで歯車で巻き取られるようにギリギリと体を締め付けた。身動きが取れず息をつくのも容易でなかった。唇と歯の間から水が浸み込み、鼻孔に土の匂いが充満した。

…窒息死だ、と検視官が指摘するだろうな。間違えようが無いと凜は他人事のように考えた。意識が遠のいた。


 明のカーナビが「目的地に着きました。」と音声で伝えた。剣先地区公民館を目指したのは当てずっぽうにすぎなかったが、着いてみるとその庭にパトカーが止まっているのを知って明の胸が騒いだ。しかしすぐに神奈川県警の文字が読めた。警視庁の車ではない。明が未練がましく車に近づくと集会所の入り口から声が飛んだ。

「新田さんですか?」

見ると老人が公民館の出入り口に立っている。

「新田さんならその道を上がっていきましたよ。」と建物脇の暗い道を指した。

自治会長だった。明の車のライトに気づいて姿を見せたのだ。

「県警の刑事さんも一緒でした。」と付け加えた。

明は新田という人物を知らない。さらに神奈川県警の刑事に用があるわけでもない。言葉もない明だったが、俄然目を見張った。パトカーの傍に品川ナンバーの車が止められている。

明が反射的に自治会長を振り向いた。「女がいた?」

会長は微笑して答えた。

「…とても美人の刑事さんですね。あの人もやはり神奈川県警の方ですか。」

明は老人が指示した道へ急いだ。

「気を付けてくださいよ。避難指示が出ていますからね。」

自治会長の声を後ろに先へ進む。待っていれば、やがて凜が下りてくるだろうと思いながらも足を止めなかった。途中でバッタリ会うことになるかもしれない。バツの悪いことになる。なんと釈明すればよいのか、不意に抱いた疑問に答えは浮かばなかった。

 やがて暗闇の中に二筋の明かりが動くのが見えた。三人の人影が道を下って来る。

「今晩は。」明が先に大きな声で呼びかけた。

男三人が近づいて、その中の制服警官が口を開いた。

「あなた、何処に行くんですか。」

明は雨に濡れた男たちを見回した。凜がいない。

「人を探している。警視庁の婦人が一緒の筈だが。」

若い男が「あなたはいったい誰ですか。」と詰問した。

明は確信した。

「朝倉さんの知人です。彼女を探しているのだが、一緒じゃないんですか。」

尼子は状況が理解できなかった。しかし突然現れた男の必死な雰囲気を感じてありのままを答えた。

「朝倉刑事はすぐに追いついて来る。本人の言葉です。」

明が無言で男たちの脇を通り抜けた。

新田が「避難指示が出てるんですよ。」と注意した。

明は振り返って口早に告げた。

「私の会社がこの先で造成工事をしています。何かあったら朝倉さんとそちらへ避難するつもりです。この道を降りるよりはるかに安全です。」

明はもう後を見なかった。

…すぐに追いつく? バカな、と明は苛立たしく若い刑事の言葉を思い返した。あの武田という青年ならこんなことは無かっただろう。凜を雨の夜に一人で置き去りにするなど。…しかし、とすぐに考えた。危険と隣り合わせの仕事だ。刑事にとってこんなことは当たり前なのかもしれない。

 かなり上ったところに二棟の小さな家があった。あたりに人影は無い。

「凜ッ。」呼びかけて耳を澄ましたが、聞こえるのは雨と風の音だけだ。

母屋らしき建物はどこか歪に見えた。中に入ると襖が土間に倒れている。明かりで照らすと大量の泥とも土砂とも見えるものが壁を押し破って畳の上に堆く積もっていた。明の胸を不吉な予感が襲った。夢中で泥の塊のあちこちに光を走らせた。敷居から外れた一枚の襖を跳ねのけて、明は思わず唸りともつかない叫びをあげた。濡れ光る泥の塊から土と砂にまみれた人間の顔が突き出ている。

「凜ッ。」

悲痛なだけの叫びではなかった。明の声の底に力強い響きがあった。


傍に美風が座っていた。あの大きな眼で黙って凜を見つめている。

「美風。ママのお顔を拭いてちょうだい。」

凜の呼びかけに黙って布で顔を拭う。凜はそれに任せながら違和感を覚えた。小さな女の子にしては乱暴だ。すると今度はパクリと凜の鼻を口に含んだ。強く吸って吐き出した。凜は反射的に鼻から息を吸い込んだ。

…美風じゃない。誰だろうと凜は訝った。いったい誰が何をしているのか?

続いて指が口のなかの土を掻きだした。舌の裏と歯の間に土が入り込んでいた。凜が咳き込んだ。

「凜ッ、しっかりしろ。」

その声で傍らの人物が明だと悟った。

「明さん? どうして?」と声を上げたが自分の耳ですら聞き取れなかった。

本当に明なのか。だとすればウメの香りが漂う公園の道で分かれて以来だと凜は懐かしく感じた。一方で自分の置かれた状況がすぐには理解できなかった。全身を痛苦が襲っている。それより呼吸が満足にできない。何かが自分を圧し潰そうとしている。

「凜、必ず助けてやる。」明の声がして身近からその気配が遠ざかった。

凜は闇に眼を凝らした。雨の音が聞こえる。湿った風と土の匂いに凜の頭が突然働きを取り戻した。土砂崩れに巻き込まれたのだ。大量の土と泥の下敷きになっている。建物がまだ形を留めているのを考えると、壁の一部を破って土砂が流入したのだろう。幸いまだ生きてはいるが、明の力を借りても脱出は困難かもしれないと凜は思った。

 凜の目を懐中電灯の光が一瞬眩しく射て、明が再び傍に膝をついた。

「少し我慢してくれ。」

明は凜の上半身に被さった土砂を掻き分けて衣類の合わせ目を手探りで捕まえた。それを両手で握りしめ、力いっぱい引っ張る。だが凜の体はピクリとも動かない。そして明が掴んだトレンチコートは凄まじい力で凜を締めあげていた。今はそれに明の力が加わる。

「苦しい…。」凜が堪らず呻いた。

明は片手に意外なものをかざした。草を払う鎌だ。土間の隅で見つけたものだ。凜はその刃の一部が鋸のようになっているのを視界の端でとらえた。

「凜、動くな。」

明が慎重に鎌の刃を泥に埋める。トレンチコートの身頃の合わせ目に刃先を掛けた。

「凜、鎌の先が体に当たっていないか。」

凜の体中に緊張が走った。

「分らないわ。」

「痛みはないか。」

「分らないわ。」事際に分らなかった。

明が鎌を動かして言った。

「どうだ、刃先が当たっていればチクリとした痛みを感じると思うが…。」

「いったいどうしようというの。」

「君の着ている服を切り裂く。でなければ君をこの黒い塊から引っ張り出せない。」

凜は覚悟を決めた。

「分ったわ。…鎌の刃は当たらないと思う。」

明が両手に力を込めた。服地が裂ける小さな高い音が聞こえて凜の上半身が緊縛からいくらか解かれた。

「どう、腕が脱げないか。」

「だめ、手が動かない。」

凜が大きく息を継ぎながら答えた。

明は凜の首筋から肩口に向けて鎌の刃先をコートに差し込んだ。小刻みに、だが力を入れて布地を裂いた。凜の右手が泥から抜き出された。明がその脇に腕を差し込み、凜の上半身を抱えて力を込めて引っ張る。僅かに動いた。

「左腕の、肩の辺りも切って。」

言葉が終わらぬうち頭上で材木に亀裂が走る鋭い音が響いた。凜が驚愕して暗い天井を見上げた。

「明さん、逃げて。家が潰れるわッ。」

明は凜の叫びに無言で鎌を動かした。

「もう一度いくぞ。」明が凜の上半身を力いっぱい引っ張った。今度は動いた。

「よし。」明が足場を変えて更に引っ張ると凜が悲鳴を上げた。

「凜、どうしたんだ。」

「パンツが、ウエストが…、私の体が千切れちゃうわ。」

「分った。」

明が凜の右手に懐中電灯を握らせた。

「明かりを向けていて…。」

明は凜の体に積もった土砂を素手で遮二無二掻き分け始めた。再び材木の軋む音が聞こえた。

「明さん逃げて。早くッ。私は自分で何とかするわ。鎌を…ください。」

凜は真っ暗な頭上を見上げた。それが今にも落ちてくるような気がした。このままでは明を巻き添えにしてしまう。

「もう少しだ。」と明が応じた。

明が手を動かすたびに凜の首や顔に土の一部がバラバラと落ちてくる。明は必死だ。荒い息を吐きながら土砂を掻き出す。いや、手で掘っていると言った方が正確かも知れない。

「あっ。」と凜が小さく叫んだ。重く押し包まれた体に触れるものがある。明の指だ。その指がパンツのウエスト部分を探し当てた。そこを掴むと慎重に鎌を埋めていく。凜の腹部に硬く細いものが押し当てられた。鎌刃の背だと想像して凜は固く目を閉じた。

「痛みは感じないか。」

明が念を押して慎重に、しかし力を込めて鎌を動かした。

ブツリと大きな音がして凜は体が縛めから解放されるのを感じた。明が再び脇腹に手を入れて凜を引っ張った。体が動いた。

「大丈夫か? 足が挟まれていないか。」

「それは無いみたい。」

「よし。」明がありったけの力を振り絞ると凜の体が泥の山からズルズルと引き出され、まるで鞘から滑り出る枝豆のようにその全身を現わした。

「凜、やったぞ。」

明が快哉を叫んだ。奇跡と言ってよかった。

一方の凜はほぼ全裸に近い有り様だったが、二人がそれに気づく余裕はなかった。

「早く外へ…。」

明が凜の腕を掴んで、暗い戸外へ走り出た。凜の肌を雨が叩く。明が自分のレインコートを着せ掛けた。

「私、助かったのね。信じられないわ。」凜が明を仰ぎ見た。

 安堵が二人を包んだその時、崖の中腹から不気味な音が響いた。「ブツリ。」と何かを引きちぎるような音だ。凜は戦慄した。重大で破滅的な事が起ころうとしている。本能的にそれを感じた。

「凜、走れるか。」明が道を照らした。「こっちだ。」

凜は明の後を追った。だがすぐに疑問が湧き起った。明の進む方向が逆ではないか、という感覚だ。坂を下らずに上っている。不安になりながら足もとの見えない暗闇を走った。この先に民家はない。道は狭くなり崖は迫っているはずだ。しかし明の足取りは迷いが感じられない。凜は明の手で揺れ動く光だけを頼りに走った。

「ここだ。」と明が立ち止まって道の縁を照らした。細い竹が生え並んでいる。

「ここから降りる。段差はせいぜい一メートルか二メートルだ。転びそうになったら竹を掴めば良い。さあ、おいで。」

明が竹を掻き分けて進んだ。密生した細い竹に灌木が雑じっている。足もとはかなりの傾斜だ。

 後に続いた凜だったが突然足を躓かせてその体が投げ出された。竹を押し分けて落ちる寸前で一本の木に体が引っ掛かった。

「大丈夫か。」と明が光を投げた。

「大丈夫。」と答えたがそうではなかった。

凜を受け止めた有難い木の幹には困ったことに沢山の瘤と棘があった。凜はその木の種類など知る由もなかったがレインコートが棘に引っ張られて下に降りられない。

「どうしたの。」先に平地についた明が駆け寄った。

「コートが…。」

凜の苦戦を垣間見て明が告げた。「コートを捨てよう。急がないと…。」

凜が雑木林にコートを残して草地に降り立つと、待ち受けた明は茫然とその体を照らした。凜が全裸だと初めて気づいたのだ。慌ててジャケットを脱いで凜の肩に掛けた。

「さ、こっちだ。」

明が照らす先にコンクリートブロックの擁壁が連なっているのを見て凜は明の目的地を知った。

明は凜の手を曳いて走る。横に延びる擁壁の真ん中あたりに石段がある。それを駆け上がりながら明が口走った。

「杉山ッ。お前の力を見せろ。」

「スギヤマ?」凜が息を切らして尋ねた。

「この造成地を設計した男だ。」

明は擁壁から更に小高い場所に登って崖の方を振り向くと大きな声で続けた。「さあ、見事に守ったらお前を社長にしてやる。」

その言葉と同時に轟音が響いた。黒々とした夜の壁が盛り上がり雑木林を一瞬でなぎ倒しうねりながら奔り来る。鉄砲水だ。

「危ないッ。」

明が凜を抱いて背を向けた。

凄まじい衝撃がコンクリートブロックの壁を襲い岩や石が叩きつけられる音が耳を突き刺した。

明は無我夢中で凜を抱きしめた。直撃を受けたら命はない!

                (つづく)



     「女刑事物語(16-3)」Ⅽ、アイザック

 土石流はコンクリートブロックの擁壁に激突して大きな波となって立ち上がった。擁壁の天端にボトボトと石が落下し、泥水の飛沫が雨に混じって二人に降り注いだ。明が小さく呻いた。小石が肩を撃ったのだ。

「明さん、大丈夫ッ?」凜が明の胸で叫んだ。

明が振り向くと目の前に迫っていた不気味なうねりは闇に消え去り、地響きが細く遠ざかっていく。崖の中腹を破って突然迸り出た泥水は同じように忽然と消え去ったのだ。二人は唖然として、たった今の出来事が信じられない思いで佇んでいた。

明は空の変化に気づいた。雨が止み、どこか明るさを増している。重く頭上を覆っていた黒雲がほころび始めた。天候が急激に回復していくようだった。

「凜、見てごらん。」

その声に促されて空を見上げると、黒い雲がいくつもの塊となりものすごい疾さで翔んでいく。その背後には白い雲がたなびき、小さな青空すら目に入った。夜は明けていたのだ。

 明が両腕を突き上げて叫んだ。

「やったぞ。凜を救った。凜を守ったぞ。」

凜は明の歓喜の叫びに自分が九死に一生を得たのだとあらためて感じた。明のおかげで助かったのだ。

「明さんッ。」感謝という言葉で表せるものではなかった。涙が滲んだ。一方で明を危機に陥れてしまったのも事実だ。それは決して凜が望んだものではなかった。相反する感情が込み上げた。

「明さん、なんて無茶なの。あなたまで死んでしまうとこだったのよ。」意に反してむしろ非難に聞こえた。

明が静かに言った。

「私は生きているよ凜。約束する、これからもきっと君を守る。」

直情家の凜は感激のあまり思わず叫んだ。

「私、あなたのためならいつでも死ぬわ。」

明が目を丸くした。

「それはよしてくれ。私のしたことが無駄になる。」

凜が真っ赤になった。

「ごめんなさい。私、変なこと言っちゃったわ…。」

「でも、君の気持ちは嬉しいよ。」

明が優しく語りかけ、凜の体を抱いた。

眼と眼が瞬きを忘れて見つめ合った。ゆっくりと唇を重ねた二人だったが、短く呻いて顔を背けた。口の中で泥の味がした。舌や歯に砂を感じて、二人は抱き合ったまま互いに顔を逸らしてペッペッと唾を吐いた。

 ついに二人は笑いだしてしまった。凜は息を整えながら明を見つめた。うっとりするほどハンサムだ。…なんて素敵なの、と心で呟いた。明が唇を求めている。今度は遠慮がちに応えた。口に残った砂の主張は少々我慢したが、やはりそのせいでキスに没頭できない。明も同じだったようで、唇を離してふうと息を継いだ。二人とも妙に冷静になっていた。

 凜が身に着けた明のジャケットは凜にとってサイズが大きく、まるでコートのようだ。それは裸の凜にとって有難いことだが、釦を合わせても胸前が下腹部まではだけていた。凜は明の視線に気づいて両手でジャケットの前を掻き合わせた。明は何も口にしなかったが、凜は明が目にした物がよく分っていた。

「私…、胸に痣があるの。」と凜が告げた。

乳房に褐色の痣があった。硬貨一枚ほどの小さなものだったが場所が場所だ。思春期の頃、鏡でそれを確かめては溜息をついたのだ。

「でもね、よく見るとハートの形をしているのよ。」

凜がそう言って唐突に胸をはだけた。乳房が晒された。

「ハートの形でしょ?」

凜が顔を逸らせて目を閉じている。明は戸惑った。

凜はただ自分の全てを明に知って欲しいという気持ちだったのだが、その子供っぽい仕草で明には十分伝わった。

「気にするようなことじゃないよ。」と優しく口にした。

「ええ、でも中学生の頃はずいぶん気になったわ。母に文句を言ったの。なぜこんなものが、って。」

「お母さんは困った…?」

「母が教えてくれたわ。私が幼い頃に亡くなった父が、ハートの形は私が幸せになる徴(しるし)と言ったそうよ。愛情に恵まれるという意味でしょうね。それからは逆にちょっと気に入ったわ。」

「凜、君を必ず幸せにする。お父さんの予言はきっと当たる。」

明が凜を抱きしめてそう告げた。

凜は嬉しそうに微笑み明の唇に軽くキスをしてから言った。

「一度現実に戻りましょう。たぶんあなたの携帯はあのレインコートの中だったのね…。ジャケットには無いもの。」

「そうだった。」

明がそう答えて雑木林の方を眺めた。レインコートは泥の下か。

「私は急いで同僚と連絡を取りたいの。」

二人は眼前に広がる造成地を見下ろした。視界の先に民家は無い。しかし明が力強く口にした。

「ここを降りて端に見える林を回り込むと剣先の公民館がある。とりあえずそこを目指そう。が、君の格好が心配だ。」

「捜査車両に着替えが準備してあるわ。」

少しも動じない凜だったが「あっ。」と声を上げた。朝日の中、一台の白い軽自動車が造成地の坂を上ってくる。

注視した明が言った。

「会社の車だ。多分、杉山だな。造成現場が気になって様子を見に来たのだろう。」

軽自動車は区画の交差点のたびに減速しながら近づき、二人から百メートルほどで停止した。ドアが開き若い男が降り立った。あたりをキョロキョロ見渡している。

「おおい、杉山ッ。」明が大声で呼びかけた。

男はそうとう驚いたようだ。声の方を見上げて体を固まらせた。無人のはずの造成地に人の姿がある。

「おおい、こっちへ来い。」明が声を張り上げた。

杉山は凍り付いたように身じろぎしない。

「杉山ッ。」明が口に両手でラッパを作って叫んだ。

「杉山さんッ。」凜も大きく手を振った。

それでも杉山は動かない。茫然と二人に顔を向けている。

たまらず凜が口にした。「あの人、社長で大丈夫?」

明が愉快そうに大きな笑い声をあげた。この時になって杉山は声の主が誰か分ったようだ。慌てて車に飛び乗ると、すごいスピードで駆け上った。

 二人のすぐ側まで到達して杉山は言葉を失った。会長の姿は衣類から髪まで砂と泥にまみれている。さらに凜は表現のしようがない格好に見えた。大きすぎる上着の胸前を両手で合わせ持ち、杉山の視線を避けるように身を捩っている。裾から伸びた素足には砂と枯草のかけらが無数にこびりついていた。

杉山が明に怖々問いかけた。

「どこか崩れていたでしょうか。」

明が造成地を点検していて穴などに落ちたのではないかと考えたようだった。それが大雨の影響によるものなら設計か施工のミスがあったことになる。

「いや、どこにも問題はない。立派なものだ。」

明が杉山を安心させてから、凜を包み込むしぐさをした。「何かないか。」

杉山は明の言葉を一瞬考えたようだったがピョンと車に跳ねてトランクから毛布とタオルを取り出した。明が受け取り、凜はジャケットを両手で掻き抱いたまま「有難う。」と杉山に伝えた。若い男は顔を赤くした。

 凜が体に毛布を巻き付け、全員が車に乗り込んだ。

「私たちを剣先の公民館まで運んでくれ。そこに私の車がある。それから悪いが携帯電話を貸してくれないか。」と明が頼んだ。

杉山は二つ返事だ。車が動きだし、凜が尼子に電話をかけた。番号は覚えている。すぐに聴き慣れた声が応えた。

凜が叫んだ。

「俺だ、凜だッ。無事かッ。こちらは大丈夫だ。」

ハンドルを握った杉山がその声に驚き、目を丸くしてミラー越しに凜を見つめた。

「杉山、前を見ろ。」と明が注意した。


剣先地区では二か所で崖崩れが発生していたがこの時点で村当局はそれを把握できていなかった。やがて凜の通報により少なくとも一か所の災害を知ったものの現場に近づけず、その全容が明らかになったのは午後遅くだった。結局、家屋二棟が全壊したが人的被害は無かった。

集会所で凜の姿を目にした尼子が衝撃を受けた。土砂崩れに巻き込まれたのだと想像できた。

「あまり見るなよ。」と凜に告げられて慌てて背を向けた。

「怪我は無かったですか。」ようやくそう口にした。

「中野は?」

「派出所です。…先輩、中野が犯行を認めました。」

「そうか。ちょっと着替えるまで待ってくれ。」

凜が身支度を終えるのを見届けて明が近寄り声をかけた。東京へ戻るという。「いつでも電話をください。」と付け加えた顔にさすがに疲労の色があった。

凜は微笑みを返してただ小さく頷いた。二人の様子に、尼子が興味深そうな視線を投げた。

凜が尼子に話を戻した。

「で、係長の指示は?」

「それは多分、竹中さんが聞いていると思います。」尼子の返事は歯切れが悪かった。

凜が意外そうに尋ねた。「係長に報告はした?」

「直接にはしていません。」

突然グイと凜が手を伸ばした。びっくりする尼子に「電話。」と短く指示した。携帯電話を貸せというのだ。

 凜はまず黒田に電話する。報告は竹中が済ませたことを知っている尼子は気を揉んだが、凜が構わず口を開いた。

「係長、改めて報告いたします。本日明け方、警戒中の地区で容疑者を発見、班の尼子捜査員がその身柄を確保しました。これは神奈川県警並びに清山村派出所の新田巡査部長の協力によるところ大なものがあったことを申し添えます。」

凜が一息ついて、少し砕けた調子になった。「これから署に移送するということで良いですか?」

 凜は次に派出所で被疑者の留置に当たっている竹中に電話した。

「連絡がつかないというんで心配していた。」竹中が驚きと安堵の声を上げた。

「すみません。そのせいでお手数をかけたんじゃない? 尼子はまだ経験不足だから勘弁してください。私からも謝ります。被疑者については移送の手続きが済みしだい署へ連行する予定ですので引き続き協力お願いします。」

凜は一気に喋って通話を終えると、尼子に携帯を返しながら言った。

「ここは遠慮するとこじゃないからね。中野を逮捕するのは尼子なんだから。」

尼子の顔が赤らんだ。


この同じ時刻、港中央署は中野、小金井双方の自宅を家宅捜索して一連の事件の証拠を押収した。中野宅からは果物ナイフ、車を傷つけたと仄めかした小金井宅からは工具一式、凜が指摘した履物などだった。これらの鑑識結果が出そろったころ、被疑者中野が署に到着した。移送が無事に終わった。重大犯罪ではないが身柄の確保はやはり一係全体に安堵感を与えたし、大袈裟に言えば達成感もあった。

 事件には三人の人物が関わっている。中野、小金井、そして被害者の渋谷だ。傷害容疑の中野が捜査の中心になるのは当然だが、器物損壊の容疑が急遽浮かんだ小金井の取り調べも行わねばならない。黒田は中野については加藤と藤原の班、これまで器物損壊事件を追っていた朝倉班を小金井の担当とした。

「黒田さん。」一人でいるところへ凜が声をかけた。署内でシャワーと身支度を整えていた。

「尼子を中野の取り調べに加えてもらえないかしら。」

「どうした。」

「中野の逮捕は尼子にさせたい。」

「分った。」黒田の話は早い。

 凜は鑑識員から説明を受けた。小金井宅から差し押さえた履物と現場のゲソ痕が一致したという。また傷と同じサイズのマイナスドライバーが見つかり、工具入れの中からは被害を受けた車と同じ塗料の細片が発見されていた。器物損壊が小金井の犯行である疑いは限りなく濃厚だった。また小金井には暴行と傷害の容疑で逮捕歴があった。当時十七歳。鑑別所に四週間収容され、少年審判の結果在宅観護となった。この処分は二年間で終了している。

 その小金井はガサ入れと同時に母親を身元引受人として自宅へ帰されていた。拘留しなかった理由を凜は知らない。しかし物証が出たからには取るべき道は一つだ。

「出頭を待たずに任意同行しましょう。」と尼子が言った。凜もそのつもりだった。

小金井の自宅を訪ねて本人に容疑を告げると、母親が必死な面持ちで刑事に訴えた。

「先方様には私どもで弁償させていただき、深くお詫びするつもりですので、どうか息子をよろしくお願いします。」

父親が一緒に頭を下げるのを目にして小金井は黙ってそっぽを向いたが、さすがに神妙な面持ちだった。

 署での取り調べの冒頭、小金井は言い放った。

「アイツが悪いんだぜ。飲酒運転で和昭を撥ねておいてバックレやがったんだからな。」

凜と尼子が顔を見合わせた。

「アイツというのは渋谷さんのこと?」

「それはいつのことだ。」

小金井は首を傾げた。

「二か月、いや一か月前かな。」

「日付は?」

「分んねえよ…。」

尼子が腰を浮かせた。「交通課に問い合わせます。」と凜に伝えた。

「いや、事故届けなんかしてないよ。バックレたんだから。」小金井が急いで付け加えた。

「じゃあ、あなたはなぜ事故を知ってるの?」と凜が尋ねた。

「和昭から聞いたんだ。」

「現場に居合わせた訳じゃないのね。」

凜の言葉に小金井は不服そうに眉を顰めたが、すぐに中野が口にした事故のもようを熱心に刑事たちへ説明した。

ひととおり耳を傾けてから凜が問いかけた。

「中野の話を聞いてあなたはどう思ったの?」

妙な質問だ…。尼子はそう感じたが黙って小金井の反応を見まもった。

すると小金井が目を怒らせてまくしたてた。

「アッタマに来たよ。飲酒運転で人身事故だぜ? それをバックレたんだ。和昭は気の弱いところがあるからよ、文句も言えねえで引き下がっちゃったわけよ。」

刑事たちは無言だ。短い沈黙が訪れた。

「だからよ…。」小金井がためらいがちに口を開いた。

「俺が落とし前…じゃない、ナシをつけてやろうとしたんだ。」

「ナシとは?」尼子が反射的に口を出した。

小金井が黙り込んだ。

「お金を要求したってこと?」

凜の追及に真っ赤になって反駁した。

「そうじゃねえよ。誰がそんな事を言ったよ。俺はただ…、慰謝料を払えと言いたかったんだ。いや、俺にじゃねえよ。和昭に慰謝料を払えと言ったんだ。だってそうだろうよ。渋谷の野郎は和昭を撥ねたんだぜ…。」

「落ち着け。」と尼子が声をかけた。「だいいち、その事故が実際にあったのかどうか、確信はないだろう。」

「いいや、俺が事故のことを言ったら渋谷は真っ青になって震えていた。間違いないさ。」

「ちょっと待って。順を追って聞かせて。」

凜が小金井に掌を向けた。「中野から事故の話を聞かされたのはいつ?」

「月曜日だったかな。先々週の。」

「その時に事故がいつあったのか日時を聞いた?」

「それは良く分らねえや。和昭に聞いてくれよ。」

「そうね…。それでナシをつけようと渋谷に会ったの? それはいつ?」

「和昭の話を聞いた二日後かな。一人で会いに行った。水曜日か木曜日だった。」

凜の質問が矢継ぎ早に続いた。

「渋谷さんと面識があったの?」

「それはねえけど、同じ町内会だからな。アイツが公務員だとか、そんな事は知っていた。」

「どこで会ったの?」

「アイツの家さ。」

「電話番号とか知ってたの?」

「知らねえけど。」

「突然に渋谷さんの家を訪ねた訳ね。」

小金井が不機嫌そうに口を結んだ。

「驚いたでしょうね、いきなり押しかけられて…。」

凜が独り言のように呟くと、小金井は気色ばんで声を荒げた。

「あのよお、押しかけたって何だよ。やっぱりあんたは俺が恐喝かなんかしたと疑ってんだろ。」

「静かにしろ。」尼子が注意した。

小金井は声を低めて「違うっツウの…。」と不満げに吐き出した。

「そう、じゃあ渋谷さんと何を喋ったの。」

「なにって、…ダチを撥ねてバックレてんじゃねえッてことよ。事故を起こしたんだろ? と言うと、ヤツは真っ青になりやがってよ。ついでに、酒を飲んでたらしいなと言うと震えだしやがってよ。ざまあねえよ。」

「それから慰謝料の話をしたのね。」

小金井は口を閉じた。何と答えるか考えを巡らしているようだ。凜は急かすでもなく静かに待っている。尼子はさりげなく小金井の表情を注目していた。

小金井が口を開いた。彼なりに言葉を選んでいるらしい。

「だから…当然のことをしろって。責任を取れって言ったわけよ。」

「慰謝料を払えって言ったわけね。」

「俺にじゃねえよ、和昭にだよ。」

「金額を言った?」

小金井がまた黙った。凜は穏やかに諭した。

「渋谷さんに聞けば分ることだから…。」

小金井が追い詰められたように言葉を吐きだした。

「…百万。」

「百万円を払えと言ったわけね。渋谷さんはなんと?」

 渋谷は小金井を残して自宅の玄関に姿を消すと、すぐにゴルフクラブを手にして現れた。

「因縁をつけて金を脅し取るつもりかもしれないが、いい加減にしないと警察を呼ぶぞ。」

渋谷はクラブを小金井の顔に突きつけて強い口調で告げた。

「上等だ、この野郎。」小金井が一度は怒声を上げたものの、戸口に渋谷の妻が顔をのぞかせるのを目にしてくるりと背を向けた。そのまま立ち去った。小金井はその夫人とどこかで会ったことがあると感じた。自分の顔を知られていると思ったのだ。

 慌てて引き下がる必要は無かったと後にして思えたが、結局なにも得るところがなく退散してしまったのだ。この事は小金井の自尊心を大いに傷つけた。…ナメやがって、と鬱々とした数日を過ごした。中野を抜きにナシをつけるのは無理があると気づいた小金井だが、二人を対決させるだけでは腹の虫が治まらない心境だった。

 中野の工場が休みの土曜日、自宅に呼びつけて二人でゲームをして遊んだ。小金井は楽しかった。田舎から出てきたという年下の友人の人懐っこさが好きだった。警戒心を見せることも抱かせることも全くなかった。そのうえ自分には逆らわないのも心地よかった。…その和昭の面前で渋谷を遣り込めて慰謝料を取り、俺の力を示す。漠然とそう計画していた小金井だったが、中野がビールを飲んで寝てしまったため予定を話せなくなってしまった。仕方なく一人で飲んでいてビールが空になった。

「和昭、自転車の鍵を貸せ。」

それを手にして立ち上がると勃然と渋谷への怒りが湧き起った。酔いもあった。

「あの野郎にコケにされて黙ってる俺じゃねェ。なあ和昭、そうだろ?」

中野に声をかけたが返事は無く横になったまま動かない。眠っているのだ。小金井は引き出しから小さな工具入れの袋を鷲掴みにして外へ出た。

 「持っていたマイナスドライバーで車にキズをつけたのね。」凜が念を押した。「関係のない看護師さんの車をキズつけたのは?」

小金井があんぐりと口を開けて凜に目を向けた。

「一台は渋谷んとこの車じゃなかったのかよ…。」と呟いた。

「渋谷さんか家族の所有と思い込んで結局二台ともキズをつけた訳ね。なぜそんな事をしたの?」

「なぜって…あの野郎が人をナメてっからよ。」

「正直に答えて。慰謝料を払わせるための脅しのつもりだったんじゃないの?」

「そうじゃない。」小金井は密かに嘘をついた。

「では、なぜ。」

「まあ、腹いせというか…そんな感じ。」

凜が一つ大きく息をついた。器物損壊事件についての大まかな経緯が明らかになったと思えた。犯行の自供を得て、物証も揃っている。問題はこれに連なる事件の後半の部分だ。

「その後のいきさつを教えて。」凜が小金井を見つめた。

「土曜日に中野のアパートで会ったよね。警察が調べてるって察しがついた筈なのに…。あれから後の行動を話してくれないか。嘘のないところを正直に話しなさい。」

 小金井は犯行から数日はさすがに緊張して過ごした。渋谷が小金井の仕業だと悟って警察に告げる可能性があったからだ。けれど証拠は何もない筈だとも考えた。いざとなれば知らぬことと押し通すつもりでいた。だが一週間が経って警察が動いていることを知ると急激に不安が高まった。なぜか中野和昭を刑事が訪ねて土曜の深夜の行動を訊いたのだ。小金井は帰ると見せて近くの建物の陰からラフォーレ田山を窺った。

 小金井は動揺していた。刑事は車がキズつけられた件を調べていると考えて間違いなさそうだった。だがなぜ中野のところに来たのか。渋谷夫人が小金井の顔を知っていたとすれば警察にそのことを伝えるだろう。真っ先に捜査の対象になるのは自分だ。ようすが違うのは夫人に顔を知られていなかったということになる。…ひとまず安心できそうだと思ったが、容疑者が分ったうえで身辺から調べているのではないかと疑念が生まれた。自分のすぐ近くまで警察の手が伸びているように感じて落ち着かなかった。

 アパートを眺めると刑事たちの車が消えていた。小金井はあたりを見回し、緊張した面持ちで中野に電話をかけた。

「奴らはもういないか。」といきなり聞いた。

「うん。」中野の声が暗い。

「で、なんだって?」

「土曜の夜にどこにいたか聞かれた。」

「なぜそんな事を聞いたんだよ。」

「それは分らない。」

「何と答えたんだ。」

「小金井さんのとこに行ったと答えた。」

「なんでもくっちゃべってんじゃねえよ…。」小金井がイラついた声を上げると中野が電話の向こうで黙り込んだ。

一時は憤然とした小金井だったが、思い直して平静に語りかけた。

「ちょっとよ、ヤバイかも知れねェ。出て来いよ。話がある。」

 小金井と中野は急ぐでもなくブラブラと歩いた。小金井は何も話さない。コンビニでおにぎりと飲み物を買って小金井の自宅に着いたのは、刑事たちと行き違いのタイミングだった。

 簡単な食事の後で小金井が切りだした。

「実はよォ、渋谷の車を引っ掻いてやったんだ。アイツが横着な事を言うからよ。」

中野は黙っていた。…やはりそうか、という思いだった。事故を軽率に語ったことをあらためて後悔した。

「渋谷は俺の仕業だと勘づいてるだろうよ。サツも動いてる。だからめちゃヤバイわけよ。だからな、サツにチクったらこっちも事故をばらすぞと釘を刺しときたいわけよ。だから和昭よォ、アイツのとこに一緒に行こうぜ。お前の顔を見ればアイツはぐうの音も出ねえよ。」

中野は逆らうことが出来ず、気乗りのしないまま小金井に従って渋谷の自宅を訪れた。小金井は刃渡り七センチほどの小さな果物ナイフをポケットに忍ばせていた。渋谷が再びゴルフクラブなどを持ち出す恐れがあると考えたのだ。

まず中野一人が渋谷宅の戸口に立った。小金井は物陰に身を隠していた。渋谷は在宅した。妻に告げられて玄関に姿を現し、中野を認めて顔をこわばらせた。それでも歩み出て後ろ手で戸を閉めた。妻に聞かれたくなかった。

「君か…。なにか用か。」硬い声を投げた。

中野が無言でいると「一万円を返しに来たのか。」と皮肉っぽく言った。

このとき小金井が物陰を出てゆっくりと二人に近づいた。渋谷はさほど驚きもせずに二人を見渡した。

「お前たちが仲間だろうと思っていた。」

「渋谷さんよォ…。」小金井が口を開いた。

「飲酒事故を警察に話すか、あんたの出方次第なんだ…。」

犯行を渋谷が気づいているか、小金井は探っていた。このため意図のはっきりしない喋り方になった。カネを要求していると渋谷が解釈したのは無理のないところだった。

「お前たちに金を払うつもりもその必要もない。」ピシャリと口にした。

「だから聞けよ…。」小金井は内心慌てた。

渋谷が小金井を睨んだ。「車をキズつけたのもお前たちだろう。証拠がないから警察には言わなかったが、調べてもらう。」

小金井が焦って声を張り上げた。

「勝手な事をくっちゃべるんじゃねえよ、分ってんのか。」

「お前を知ってるぞ。小金井だろう。」渋谷が突然指摘した。妻から聞いたのだ。「いくら凄んでもどうってことないね。悪ぶっているがただのニートじゃないか。」

小金井の顔が真っ赤になった。

「上等だッ、この野郎。」右手に果物ナイフを握った。

この事態に中野が思いがけない行動をとった。それまでなにも語らず静かな態度を見せていた中野がいきなり小金井の手からナイフを奪うと、家に逃げ込もうとした渋谷を追って背後から腕の辺りを切りつけたのだ。

 凜が小金井に質した。

「そうし向けたのじゃないの? ナイフで脅すように…。」

「冗談じゃねえよ。」小金井が凜の視線を跳ね返して言った。

「マジで驚いたよ。なにやってんだよ…って。」

凜が追及した。

「お前の説明じゃ、中野が切りつけた理由がはっきりしないだろう。ナイフを取り出して中野に手渡したんじゃないか。」

「違うって。」小金井が悲鳴に似た声を上げた。

「頭にきてナイフを出したけどただの勢いってもんだ。俺は行きがかりで車を引っ掻いたけど、イッテコイじゃねえか。渋谷をどうこうはねえよ。」

「イッテコイとは?」

「奴はダチを撥ねてバックレた。俺はお返しに車を引っ掻いた。イッテコイだ。和昭が余計なことしなければそれで済んだ話よ。」

「調子の良いことを言うわね。慰謝料の話はどうなったんだい。」

「和昭があまり乗ってこなかったからよ、俺としては、どうしてもっていう気は無かったぜ。」

凜が腕を組んだ。ゆっくりした口調で問い質した。

「頭にきて取り出したナイフ…。カッとなってナイフを握りしめたんだろ? そう簡単に中野に取られるか? おかしいんだよ。」

「嘘じゃねえよ。和昭に聞いてくれよ。」小金井は必死な面持ちだ。

「勿論中野に聞くが、今の話間違いないか? ナイフを手渡していないんだな?」

「嘘じゃねえ。」と小金井が肯いた。

「それからナイフはどうした。」

「和昭が持ってったのかな。分らねえや…。」

「もう一つ聞くが、ナイフを用意したのは中野と話し合ってのことか。」

「ちげえよ…。和昭は知っちゃあいねえよ。」小金井は力なく答えて肩を落とした。

 短い沈黙のあと、その小金井が凜と尼子に逆に問いかけた。

「果物ナイフを持っていても犯罪じゃねえよな…。」

「銃刀法違反だ。」尼子が即座に答えた。

「果物ナイフだぜ。どこの家にもあるじゃねえか。」小金井が不満そうに訴えた。

「正当な理由なく持ち運べば違反だ。」尼子が無表情に告げた。

「七センチだぜ、刃がたったの…。」

「七センチでも、たとえ六センチでも駄目よ。」

凜の言葉に小金井が焦った。「護身用だよ、護身用に念のためポケットに入れといたんだ。」と口にした。

「護身用は所持の正当な理由にはならない。」尼子が諭した。

凜が小金井を見つめて指摘した。

「ナイフが凶器になり傷害事件へ発展した。お前の不法所持が事件の要因になったともいえる。責任は逃げられない。」

「マジかよ…。」小金井は消え入るように呟いて肩を落とした。

 おおまかな聴取を終えたと判断した凜が、尼子に中野の取り調べに参加するよう指示した。逮捕と調書の作成を尼子にまかせて経験を積ませる、その意図は黒田に告げてある。

「こちらはいいから、向こうに集中しろ。逮捕から調書の作成まで四十八時間だからな。」と念を押した。

「了解しました。」

尼子は緊張しながら一方で顔を輝かせた。

                   

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