第15話

   「女刑事物語」(15) C.アイザック

 武田は弟が一人暮らしを始めたマンションを尋ね歩いた。新しく購入した家具が届くから手伝ってくれと母親に頼まれていた。ところが先着したはずの母が電話に出ない。弟本人は急な仕事で留守だ。当直明けの武田は眠そうな目で目的の建物を探した。

 住宅が並ぶ道路に入った。閑静な雰囲気だ。前方に三階建てのそれらしいマンションが見えた。目的地に近い番地の表示を見つけて少し安堵した。

途中、小さな家の玄関口に軽自動車が止まっていた。側に若い男が立っている。突然ガラリと家の戸が開けられ、初老の婦人が姿を見せた。若い男に声をかけた。

「警察の方ですか。」

武田の足が止まった。

「いいえ、弁護士事務所の田中です。」男が答えた。

「ああ、田中さんですね。ご苦労様です。先ほど警察の方にもお電話を頂きました。これで安心です。よろしくお願いします。」

夫人がそう言って手にした封筒を差し出した。

 武田が素早く近づいた。封筒を受け取ろうとした男の手を掴んだ。驚いた若者が振り放そうと藻掻く。夫人は眼を丸くして小さな悲鳴を上げた。

「聞きたいことがある。」

武田の言葉に若者が上擦った声を出した。

「警察だ、私は警察だ。」

武田は若い男の襟首を取って言った。

「ほう、偶然だな。俺も警察だ。」

男が小さく喚いて手足をばたつかせた。

武田はその体をしっかり捕まえて夫人に向かって告げた。

「奥さんこいつは電話詐欺の一味ですよ。すぐに百十番してください。」

驚愕の表情を見せていた夫人が封筒を両手で胸に抱くと武田に怖々と尋ねた。

「電話詐欺なんですか。ホントにそうなんですか?」

「そうです。警察に連絡を…。」

「はいッ。」夫人が家に駆けこんだ。

男は武田の腕力を思い知ったらしく抵抗を止めていた。

「これはお前の車か。」

武田の問いに黙って肯いた。武田が男を後部座席に押し込んだ。

「免許証を出せ。それと携帯電話だ。」

「ホントに警察なの。」震える声で尋ねた。

「港中央署。刑事課の武田だ。」

男は観念した様子で携帯電話を手渡し、さらにダッシュボードを指した。中を検めると免許証と、意外なものが収められていた。有名私大の学生証だ。男は二十一歳の学生だった。武田は驚いた。

「学生か…。いったいなぜこんなことをしたんだ。」

男はますます俯いて一言も喋らない。その顔を覗き込んでいて、ふと武田は気づいた。

「受け取った金はどうする予定だったのか。」

学生が受け子と呼ばれる役割なら詐欺グループの上位者に金を届けるはずだと思った。

武田の声が厳しくなった。

「金はどうするつもりだったんだ。誰かに送金するのか。」

男は黙り込んでいる。武田が運転席から手を伸ばして男の胸元を掴んだ。

「聞こえてるのか。おいッ。」

男が喘ぎながら答えた。

「受け取ったらボスに渡す予定だった。」

「何処でだ。」

「…戸越の駐車場。」

「いつ。」

「今、待っているはず…。」

「ボスとは誰だ。名前を知っているのか。」

男は答えずに怯えた表情であたりを見渡した。殺到する警察官の姿を思い浮かべたらしかった。すぐにガックリと頭を垂れ、髪を両手で掻きむしった。

「俺…。」と呻くようにつぶやいた。

「俺、刑務所に行くのかな…。」

「さあ、分らん。」と武田が答えた。しかし武田は係が違うとはいえ刑事課の人間として特殊詐欺事件に対する検察の方針を知っていた。未遂であるなしを問わず、さらに受け子のような末端の者であっても実刑が科される可能性が高い。

 武田は男を助手席に座らせた。

「おとなしくしてろよ。行くぞ。」

「えッ。」

「その公園に行くんだ。ボスに会いたいからな。」

「まさか。ダメだよそんなの。」男が目を見開いて早口で叫んだ。

「殺されちゃうよ。あんたも俺も。」

武田が苦笑した。

「簡単に殺されやしない、そうだろ。」

「拳銃を持ってるんだ。拳銃を…。」

武田が驚きの声を上げた。

「ボスが拳銃を持っているのか。お前はそれを見たのか。」

「Webでそう言っていた。」

「Web? ボスというのはいったいどういう人物だ。暴力団の人間じゃないのか。」

「暴力団なんかじゃない。ボスはもっとカッコいいんだ。クールでスマートだ。フォロワーが一万人いるけど、みんなボスに憧れているんだ。週に何億も稼ぐんだぜ。」

武田は違和感を覚えた。詐欺犯が自身の情報を公表しているというのか。

「ヒーロー気取りか。ただの詐欺師じゃないか。しかもSNSなんかやってるようじゃパクられるのは時間の問題だ。」

男は嘲笑を浮かべた。

「ボスはスマートだと言ったろ。ⅠP情報を調べても、どっかアフリカあたりの人間のアカウントが出てくるだけさ。画像だって加工されてる。簡単にパクられないさ。」

「なるほど、知能犯だけのことはあるようだな。」

武田は話を合わせてから「その公園を詳しく教えてくれ。」と迫った。至急に手配すれば引っかかる可能性はある。男が黙り込んだ。

武田が語気を強めた。

「早く喋れ。戸越の公園と言ったな。戸越のどこだ。」

「…公園は嘘です。」

「では何処なんだ。」

口を開かない。無言を貫くつもりなのか、表情に決意がうかがえた。

「やはりな…。」不意に武田が声の調子を変えた。

「金をボスに届けるなど嘘だ。お前はWebでしかボスを知らない。多分顔も分からないだろう。会ったこともないはずだ。」

男は顔を紅潮させて口を尖らせた。

「だいいち…。」武田が極めつけた。「お前は一番下っ端だ。ボスどころかずっと下のチンピラに使われているんだ。」

「ち…違う。」やや大きな声を上げた。

「違わんね。お前は使い捨てのコマさ。」

「俺を幹部にすると言った。受け子、掛け子、リクルーターをちょっと経験すれば幹部になれる、そうボスが言ってくれた。俺はでっかく稼げる器だってね。」

武田は甘い言葉で男が利用されているとしか思えなかった。二十一歳の大学生がとる行為ではない。かすかに憐れみを感じて口にした。

「軽率だぞ…。有名な大学なんだからまともに会社勤めをしてもかなり稼げるはずだった。そんな言葉に乗せられるとはな。」

男が感情を高ぶらせた様子で言った。

「あんたは何も分かっちゃいない。俺たちがあてもなくアポ電入れてると思うかい。情報があるんだ。名簿屋だけじゃない。いろいろな人間がボスに情報を売りに来る。その中に俺が就職を希望していた会社の現役の社員がいた。保険金の支払い情報を売っていたんだ。

 わかるかい。カネだよカネ。要はカネが欲しいんだ。そのためになんだってやるのさ。でっかく稼いだら勝ち、チマチマやってたんじゃ負け。それが社会ってやつの正体だ。」

「まあ、理屈は勝手だが、結局利用されているにすぎない。お前がボスと呼ぶ人物はお前の名前すら覚えちゃいないさ。」

突然、運転席に置いた男の携帯電話が短く振動した。男が目を走らせて「ボスだ。」と呟いた。勝ち誇った響きがあった。

「ボスからの連絡か。ボスは今何処だ。」

武田が携帯の画面を男の顔先に突きつけた。

男はためらいがちに指を伸ばして画面に触れた。ロックが解除される音が鳴った。男がもったいぶって口を開いた。

「近くにいる。二、三分の距離だ。」

「どの方角だ。場所の目印は。」

武田の詰問に男はわざとらしい軽い調子で答えた。

「無理だって。返信が無ければすぐに移動する。それがボスのやり方さ。決断が速いんだ。」

「返信しろ。向かっている、とな。」

男が嘲るように言った。

「さあ。俺はどうせ下っ端だし、あんたに言わせりゃ相手もチンピラなんだろ。そんなの捕まえたってね…。」

「良いから返信だ。」

「嫌だね。」

いきなり武田が軽自動車のエンジンをかけた。

「えッ、何をするの。」

「心配するな。車をちょっとだけ借りるぞ。ボスに会ってみたい。」

「無理だよ、そんなの。」男は不安そうに目を泳がせた。

 武田は賭けに出た。若者の言葉が本当だとしたらボスが三キロか二キロ圏内にいることになる。幸い弟のマンションを捜し歩いてだいたいの地理が頭にある。…ボスは移動が容易な場所、幹線道から少し入った人気の少ない生活道にいるだろう。さらにボスの性格は用心深いながら自己顕示欲と虚栄心が強いとうかがえる。使用する車は多分高級車だ。武田はゆっくりと車を走らせた。

 武田の勘が当たっていた。前方に白い大型の乗用車が止まっているのを見て若者が小さく叫んだ。武田は息を呑む思いだった。ビンゴか。車のナンバーを脳裏に刻み付けた。静かに近づいて真ん前で停車した。助手席のドアを開けて若者が跳び出し、一目散に逃げていく。高級車の男は電話を手に誰かと話していた。走り去る学生に目をやったが慌てる様子もなく会話を続けている。電話を掴む指の全てに光り輝く派手なリングが嵌められていた。

 武田がドアの横に立ってウインドーを叩いた。音もなくガラス窓が下りて男が武田を見上げた。三十歳くらいか。首をタツーが一周している。不機嫌そうに眉を寄せて言った。

「なんだ?」

「ボスだな。」武田が鋭く声をかけた。

「お前、誰?」

「警察だ。詐欺グループのボスだな。あの学生が証言したぞ。」

武田が窓から腕を突っ込んだ。実はキーを預かろうとしたのだが、それが無い。キーレスの高級車だ。

「なんだよ。」男が声を荒げた。

「とりあえず降りてもらおう。」

武田の言葉を聞き流して男は抜け目なく辺りを窺った。武田以外に人影はない。

「お前は警察じゃないな。ふざけたことを言いやがって。ナメてんじゃねえぞッ。」怒声に変わった。

「車を出るんだ。」

武田がドアに手を掛けた。意外にもロックされていなかった。いきなり開いたドアに男が助手席側に身を傾けた。武田は素早く上着を掴んで逃がすまいとしたが、男の意図は違った。ダッシュボードから何かを取り出した。白銀の光を放つ拳銃だ。男は脅すつもりにすぎなかったが、銃口が向けられるのを目にした武田が咄嗟に男の手の上から両手で押さえつけた。これに男が慌てて左右の手で抗った。武田に劣らず力が強い。二人は狭い車内で揉みあった。武田は拳銃が本物かどうか疑念を捨てきれなかったが、とにかく奪い取ろうと必死だった。

不意に男が身を捩りながら助手席に上半身を倒した。拳銃を握った手が武田の両手から滑り抜けた。次の瞬間、男が銃口を武田に向けて引鉄を絞った。が、弾が出ない。武田が座席に片膝をついて覆いかぶさると男が右足を上げて押し返した。男の手許で安全装置が外れる小さな音がして、死の影が武田に差した。

銃声と共に武田は弾き飛ばされて路上に倒れた。腹部を丸太棒で強烈に衝かれた感覚だった。甲高くエンジンが始動すると同時に男が車を急発進させた。進路を塞いで止められた軽自動車と倒れた武田との狭いスペースを強引に突っ切った。後輪が伸ばされていた武田の右足を踏んだ。タイヤは一瞬激しく空転して武田の足を跳ね、路面に音を鳴らして走り去った。

衝撃に続いて激痛に襲われた武田が呻いた。上体を起こして下半身に目をやると自分の足首が見たことのない角度を向いている。ピクリとも動かせない。骨が折れたのだろう。体の奥深くに食い込んだ弾丸は内臓を引き裂き、武田は腹の中に痛みではなく熱く灼けるものが蠢くのを感じた。片手で腹部を押さえ、血の付いた右手で携帯電話を取り出した。車のナンバーを覚えている。高級車の新車だった。盗難車ではないだろうと武田は思った。本人所有の車に違いない。パクってやる、武田が絞り出すように呟いた。太股の辺りの痛みがさらに強くなる。必ずパクってやる…。俺の相棒がお前を逃がしやしない。武田の脳裏に五年近くコンビを組んだ凜の顔が浮かんだ。


凜と尼子は捜査車両で病院に向かった。その間にも無線で次々と情報が伝えられてくる。

「武田刑事を銃撃した犯人は拳銃を所持したまま逃走中。使用された車は白の国産乗用車。」北条の声がナンバーを読み上げた。「このナンバー情報をNシステムに登録、現場周辺で緊急配備が行われている。捜査員は車両にあっては装備を確認し、そうでない者は署に集合して装備を整えよ。」

捜査車両には防弾ベストなどが常時積まれている。

尼子が尋ねた。

「先輩、サクラを所持されてますか。」

「うん。」凜が小さく肯くと、尼子は悩まし気な顔をした。自身は携行するタイミングを失っていたのだ。

サクラというのは五連発のリボルバーで、主に制服警察官が装備する拳銃だ。刑事は私服のため扱いやすいオートマチックを使用するのが普通だが、凜はサクラにこだわった。交番勤務時代の初心を忘れないためだと口にしていた。

北条の声が聞こえた。

「車の所有者が判明した。佐々木勉、三十歳。現住所品川中延、セントラルマンション1508号。」

「よし、急行しよう。」凜が赤色灯を回した。

尼子がカーナビに叫んだ。「品川中延セントラルマンション。」

すぐに機械的な声が返った。「目的地まで約五キロ、所要時間約十分の距離です。」

刑事たちを乗せた車はサイレンを鳴らして突っ走った。

 だが数分後、新たな情報が伝わった。黒田の声だ。

「中延のマンションに到着、佐々木の1508号をノックするも応答なし。手配の車を駐車場に確認できない。現在、藤原が管理事務所と交渉中。佐々木宅に踏み込んでよろしいか。」

すぐに北条が応えた。

「強制捜査を許可する。潜伏の可能性がある。今一度装備を確認し、細心の注意をもってあたれ。不在にあっては立ち回り先を示唆する資料の発見に留意してください。」

ハンドルを握る尼子に凜が声をかけた。

「ちょっと待って。目的地を変えて病院へ行きたい。」

「えッ。」

「病院だ。武田が搬送された病院へ行く。」

尼子が無言でハンドルを切った。方角が九十度違った。

直後に「手配車両、N号ヒット。」の無線が入った。

「よしッ。」尼子が叫んだ。

「世田谷区、玉川通りから厚木街道方面。N号ヒット。」

「どうします?」

尼子の問いに凜は苦しそうに眉を寄せた。

「健太のところへ…。」と指示した。すぐに検問が敷かれるはずだ。今その方面へ向かう意味は補足的なものにすぎない。

 病院のフロアに飛び込んだ凜はまごついた。どこへ行けば良いか咄嗟には分らない。すると同じように慌てた様子の婦人がいて凜に向かって手を上げて叫んだ。

「お凜さんッ。」

武田の母だった。

「健太は、健太はどこでしょう。」オロオロと問いかけた。

凜は側にいた看護師に尋ねた。

「港中央署です。今しがたこちらに救急搬送された人がいます。今どちらに?」

看護師は私服姿の凜をジロジロ見ながら「さあ…、受付に行きましたか。」とそっけなく言った。

「手術室はどこだッ。」凜が鋭い声を上げた。

その剣幕に看護師は慌てて答えた。「二階です。手術室は二階です。」

手術室のエリアと隔てる大きなドアの近くに板垣が佇んでいた。「署長です。」凜の小さな声に夫人が眦を上げて駆け寄った。

「武田です。武田健太の母ですッ。」

「お母さん。今、御子息は緊急の手術を受けています。」

板垣はそう説明して母親をすぐ側の待合所にうながしたが彼女は気づかないのか立ち尽くしたまま動かない。

「スタッフ以外 立入禁止」と書かれた二枚のドアには窓があったが、母親が中を見渡しても番号の付いた手術室が並んでいるのがうかがえるばかりだった。

「息子は、大丈夫でしょうか。」母親が震える声で問いかけた。

それは板垣にも解らないことだった。

「手術が済むのを待ちましょう。状況が分りませんが御子息は体力があります。きっと乗り越えます。」と励ました。

 尼子が急ぎ足で現れた。母親に目礼して板垣と凜に告げた。「犯人の居所が分りました。」

聞いた凜がくるりと踵を返した。

「待て。」と板垣が呼び止めた。

「確保は黒田や本庁に任せてお前は後方の支援に回れ。」

よほど意外な命令だったのか凜は呆然と板垣を見つめた。

板垣が構わず続けた。「相手との間に必ず遮蔽物をとれ。このような時はかえって離れている者ほど危険だ。」

凜は返答しない。

板垣が重ねて言葉をかけた。

「朝倉。バックアップも重要な任務だ。」

凜はピョンと小さく跳ぶような仕草で直立の姿勢をとった。しかし無言のままだ。互いの眼を覗き込んだ。やがて自らの視線を引き剥がすように凜が首を回して出口に向かった。

 車に乗り込むとすぐ尼子が口を開いた。

「二子玉川駅からそう遠くないあたりのようです。佐々木は三年前に離婚したのですが、その別れた妻名義の借家がその後も解約されずに今に至っています。詐欺グループのアジトとして使われていたと二係が推測していますが、そこに手配の車があるのが確認されました。」

「誰か姿を見たのかしら。」

凜の疑問に尼子は「分りません。」と応じた。

 北条から無線による指示が伝えられた。

「捜査車両並びに緊急車両に告ぐ。赤色灯、サイレンの使用を禁ずる。犯人のアジトから直接見えない位置に集結し、逃走と二次犯罪の発生の防止に対処する。これは世田谷署の申し入れを受けたものである。アジトに隣接する家屋の住民の速やかな避難と同敷地への捜査員の配置について世田谷署が電話等で極秘裏に働きかけているところだ。態勢が整うまで理由なく動くな。

 本署は世田谷署と合同で本庁捜査一課特殊犯捜査係の出動を要請した。犯人が潜伏していると思われるアジトは数件の住宅と隣接し、数十メートル背後を多摩川の支流が遮っている。このため逃走の経路を失っての立てこもり、あるいは隣地に侵入し住民を人質に取るなどの危険な行動が想定される。それを防ぐ意味で今はこちらの動きを察知されることなく住民の避難が整うのを待ち、本庁SITが到着後はその指示を受けて行動する。」

SITは捜査一課に属し、銃器等を所持しての立てこもりや人質事件などの特殊犯罪を受け持つチームだ。SITが出動すれば所轄の刑事たちは補助的な役割を果たすしか無いと思われた。


 警察官たちは三か所に分散して待機していたが、このうち一か所に港中央署の刑事が「警視庁」の文字が入った上着を着けて集まった。彼らは緊張の中にありながら微かに苛立ちの雰囲気を漂わせている。同僚を銃撃した犯人を目前にして非常線を張る以上のことが出来ない。あたりには世田谷署の制服警察官がひしめいて、物々しい雰囲気だ。

黒田が周りに刑事たちを集めて状況を伝えた。

「佐々木とおぼしき人物を窓越しに見たという証言が得られている。手配車両が確認されているのだ。多分本人だろう。近隣の住民の避難は一部を除いて終えたが、アジトの後ろの住人が体の不自由な両親を抱えていて、こちらは避難に時間がかかるそうだ。」

藤原が口を挟んだ。

「武田はどうなんですか。」

「まだ…情報がない。」黒田が声を落とした。

 尼子が気づくと、凜が路上をフラフラと歩いている。そこは川沿いの道路で、歩道の端をコンクリートブロックの護岸が続いている。川は弧を描いて犯人の潜む住宅の辺りに伸びているはずだった。護岸にあまり近づくと犯人に姿を見られるのではないかと感じた尼子が凜の側へ歩みを進めながらアジトの方を見やった。道路がカーブしている。犯人の眼にとまる心配はなさそうだったが、ここは慎重であるべきだと考えた。批判的な気持ちを抱いて振り向くと凜の姿が忽然と消えていた。尼子は訳が分からずに戸惑ったが、すぐに護岸に駆け寄った。胸ほどの高さの上端から覗き込むと凜が河原を歩いているのが見えた。いつの間にか護岸を降りたのだ。だが階段らしきものはどこにもない。呼びかけようとした尼子の背後で緊迫した音声が聞こえた。

「SITが到着する。銃撃犯が潜伏するとみられる居宅を直ちに包囲、封鎖する予定。署員は指示を待って的確な行動をとれ。」

尼子は焦った。

 支流とはいえ川幅は百メートルを超えている。だが水量が極端に少ない。河原には大小の石や砂が堆積し、中ほどに幅五十メートルほどの浅い流れがある。対岸は石ころのなかを少し進むとあちこちに萱か葦の類が群生し、その先は枯草色の土手を登っていく。

 凜が川の中央、流れに向かうのを見て尼子は迷った。凜の行動を無視して待機場所に残ることも考えられた。だが、あくまで班として動くべきだと決心した。

護岸に上ってみて飛び降りるのを躊躇した。結構高い。しかも河原に石が累積しているのが気になった。着地で足を痛めそうだ。凜がどうやって降りたのかとまた疑問が湧いた。結局両手でぶら下がった。あとは飛び降りるしかない。危惧した通り高さの違う石を踏んで体が大きくよろけた。しかしどうやら足首を挫かずに済んだ。

凜が流れを突き進んでいく。靴のまま水の中を歩いているらしい。「えッ。」と尼子が声に出した。「いったい何なの、あの人?」

せいぜい膝下までの深さとはいえ、二月だ。冷たい風が川面に紋を描いて吹いている。

尼子はせわしなく靴と靴下を脱いだ。靴下をポケットに押し込み靴をぶら下げて冬の流れに足を踏み入れた。なぜこんなことをしなければならないのか理由が分らずに尼子は凜に腹立ちを覚えていた。一言説明があるべきではないのか。

 数歩進んで、尼子は視界の隅に何かが降るような感覚があった。思わず目を向けるとはるか上流で男が護岸を飛び降りたのが見えた。かなりの距離がある。尼子は反射的に腰を低くして構えた。銃撃犯だと直感した。SITの包囲が間に合わなかったのだ。心臓が激しく胸を打つ。佐々木とおぼしき男の遠い人影は迷いなく流れに向かって走り、水の中に足を踏み入れた。尼子は直線的に佐々木を追おうとしたが、水を渡って河川敷を走る方が早い。対岸に視線を戻すと凜の姿はもうどこにもなかった。

                 (つづく)




    「女刑事物語(15-2)」 C.アイザック

 男は流れの中をよろめきながら走った。一度振り向いて誰も追ってこないのを確かめて歪んだ笑みを浮かべた。肩に掛けた鞄に現金が詰まっていた。さらに金融機関のカードが多数ある。他人名義の銀行口座をいくつも持っていた。逃亡生活を助ける協力者をすぐに集める自信もあった。

…逃亡者と思えない豪華な生き様を見せてやる。男はそう心中にうそぶいた。対岸の土手を越えれば向こうは狭い道路が縦横に走り住宅が密集している。そこを過ぎれば駅が近い。男は不敵な笑みを浮かべた。

 このとき下流側から河川敷を走る人影が男の目に入った。その姿が萱の茂みに見え隠れしながら向かってくる。まだかなりの距離があったが男は腹立たしそうに舌打ちした。上着の内側から銀色に光る拳銃を取り出して握りしめた。

男が水を渡り終えて勢いよく河原に駆け上がると、前方の枯れた萱の茂みから突然人の姿が躍り出た。同時に目の前で閃光が走り、轟音が響いた。凜が茂みから跳び出し、男の足下に威嚇射撃したのだ。凄まじい跳弾の唸りが男の鼓膜を撃ち、頭を痺れさせた。

「動いたら撃つッ。」凜が叫んだ。

男は思考力を失ったかのように凜が両手で構えたサクラの銃口を茫然と見つめた。

 銃声を聞いて尼子の心臓が冷たい手で掴まれたように慄いた。何が起きたのか判断できぬままに必死で走った。素足の靴に砂が入り込んでいたがその感触を完全に忘れていた。まばらに生えた萱を跳ぶように突き抜けるとその先で凜と犯人が対峙しているのが目に飛び込んだ。二人とも彫像のように動かない。凜がサクラを構えている。尼子は凜の指がゆっくり撃鉄を引き起こすのを見た。それは狙いを逸らさないための動作だ。

 尼子は思わず足を止めた。男が手にしている銀色に輝く凶器が目を奪った。恐怖心が不吉な予感のように沸き上がる。尼子は拳銃を携行していなかった。凜はそれを知っていてあえて一人で行動したのだ。尼子は自分が無力な存在に思えて立ち尽くした。

 男を追って警察官が続々と護岸を飛び降りた。河原を走り、浅い流れの中を渡って来る。SITの隊員は防弾ベストを着けて黒っぽい鋼製のヘルメットを被っていた。その先頭に一人、警視庁のジャンパーを羽織った男がいる。意外なことに所轄の加藤刑事だった。何かを感じて犯人の潜伏地を遠く過ぎた川べりに張り込んでいたらしい。その読みは凜と同じく当たっていた。犯人は捜査員の到着以前に隣地に侵入し、塀や生垣を次々と越えて川の護岸近くに潜み対岸の様子を窺っていたのだ。

「動くな。」 

SITの隊員たちが口々に叫んだ。

「待て。逃げられんぞ。」

その声は川面を吹き過ぎる冬の風に散らされるのか犯人に届いていないかのようだった。凜と男は凝然と固まっている。加藤は不思議だった。凜が拳銃で犯人を足止めしているのは分る、だが尼子は何をしているのかと訝った。加藤には男が手にしている拳銃が見えていないのだ。

 河原に駆けあがった加藤がはじめて男の手に白銀に輝く拳銃を目の当たりにした。咄嗟に大声で叫んだ。

「佐々木ッ、拳銃を捨てろ。」

この声に男はやっと我に返ったのか、握った凶器に初めて気づいたかのように慌てて拳銃を振り捨てた。それを見届けた凜が肘をたたんでサクラを耳元に引き寄せた。銃口は真上を向いている。これが合図であったかのようにSITの隊員が一斉に男に跳びかかった。

「確保ッ。」の声が河川敷に響く。

凜が空を仰いだ。

「健太…。」とその唇が動くと、くるりと向きを変えて土手を駆け上がった。背に「警視庁」の文字の上着が川風にはためく。土手の上の狭い道路に赤色灯を煌めかせたパトカーが集まり始めていた。


 病院に着いた凜は教えられた恢復室に急いだ。手術は終わっていたのだ。凜が病室の前に立つと同時に大きなドアが内側から開けられ、一人の看護師が慌ただしく出てきた。入れ違いに中を覗き込むと狭いベッドの周りに白衣の医師と看護師が立ち、壁際に板垣と武田の母親の姿があった。

 凜はベッドのすぐ側、高い位置にある医療機器のモニターを見て衝撃を受けた。画面に赤い0の文字が点滅し、耳障りな細い金属音が尾を引いて鳴っている。武田は心肺停止に陥っていたのだ。凜は夢中で枕もとに走った。呼吸器を付けたまま武田が目を閉じて横たわっている。その蒼褪めた顔に覆いかぶさるように両肩を掴んで、凜が叫んだ。

「健太ッ、凜だ。ホシは挙げたぞ、健太ッ。」

母親の嗚咽が聞こえた。

 このとき奇跡が起きた。モニター画面に突然に心電図の波形が現れ、血圧、脈拍数、酸素濃度、呼吸数が次々に表示された。看護師が画面を凝視して呻き声をあげた。

医師が急いで母親に告げた。「呼びかけてください。」

短く単純なメロディーともいえぬ音が何処かで鳴った。警報に聞こえた。

「輸液を再開してください。」医師が慌てて看護師に指示した。

母親が息子の名を連呼すると、それに応えるように新しい数字がモニター画面に表示される。

「血圧、九十まで回復しました。」看護師が母親を励ますように力強く口にした。

 凜は絶句して立ち尽くした。武田が死に瀕していることへの恐怖と蘇生の期待に体がガタガタ震えた。いつの間にか板垣が側にいて凜を支えた。母親に聞こえるように大きな声で言った。

「大丈夫だ。武田は乗り越えた。頑健な体と気力で乗り越えた。そうでしょう、先生。」

「ショックを乗り越えました。」医師が大きく頷いて答えた。

板垣が凜に囁いた。

「武田は大丈夫だ。さあ、ここにいると先生方の邪魔になる。外に行こう。」

 恢復室のエリアのドアを過ぎたフロアーに家族用のソファーと小さなテーブルが数列置かれている。凜と板垣がそこへ並んで腰を下ろした。板垣は銃撃犯の確保とそれに至る大まかな経緯を知らされていた。

「ご苦労だった。」と口にして凜の足もとに目をやった。

裸足で病院のスリッパを履いている。パンツの裾がすっかり濡れているのが分った。

「川の流れに入ったのか。」

「うん。」

「署か自宅に戻って着替えたほうが良い。」

「平気。それよりもう少しここにいて健太の容態を確かめたいわ。もう大丈夫なことは分かるけど…ね?」

凜は首に掛けたバッグから小さなタオルを取り出して足を拭いた。それから脱いだ上着で両足をスッポリ包みソファーに乗せた。場違いな行為と自覚したのか気恥ずかしそうな笑みを板垣に向けた。

 板垣が小さく溜息を洩らした。言い出したら聞かないのだ。

「よし、温かいコーヒーを奢ってやろう。」

すぐ近くに自販機があった。商品窓に並んだ飲料へ目を走らせて続けた。

「百円のヤツで良いだろう?」

凜が苦笑した。「ほんとにケチなんだから。」

板垣が目を剥いた。

「奢ると言ってる。ケチとはなんだ…。」

ソファーの上で両脚が温まったのか凜がのんびりとした声をかけた。

「おいちゃん…。」

「うん?」

「小学生になったころ、おいちゃんに五百円玉のお年玉をもらったわ…。」

板垣は口ごもった。当時ですらあまりに少ないかと感じたのを思い出していた。

「あの五百円玉、きらきらピカピカしてとても奇麗だったわ。袋のまま大事に持ち歩いていたけど、気が付いたら袋だけになっていた。いつの間にか袋の底が擦り切れていたのよ。…おいちゃんにとっても悪い気がして、この事はお母さんにも言えなかったわ。」

「そうか、そんな事があったのか。」

板垣が立ち上がった。再び自販機を見ながら言った。

「よし、あの百五十円のコーヒーを奢ってやる。キャップ付きのヤツだ。もうケチとは呼べないだろう。」

凜が鼻で嗤った。

 板垣が戻ると信じられないことに凜は眠りに落ちていた。張り詰めた緊張が解けたせいか、板垣と二人だけという安堵もあるのか無心に瞳を閉じている。隣に腰を下ろしてその顔を見つめる板垣を感慨がおそった。殉職した親友を思い浮かべない訳にいかなかった。

警察大学校を修了した板垣と、社会人生活を経て警察官になった凜の父親は偶然同じ所轄署に配属された。キャリアが異なるのは明白だったが、そこで板垣は親友を得たのだ。若い正義感はともすれば寛容を失う。だが年齢的に同期の男は違った。人間を見る目が温かいのだ。強力な公権力の行使と温厚ともいえる人間性が矛盾なく調和していた。板垣は理想と思い描く警察官の姿をその男に見た。親交を深め、やがて親友といえる関係にまで心を許しあった。だがその親友の優しさが結局その命を奪うことになってしまったのではないかと板垣は考える。それを思うと二十五年の時が過ぎた今でも無念でやるせない気持ちになるのだった。

そして今は娘の凜が刑事だ。凜が犯罪捜査に目覚ましい活躍を見せる一方で、板垣は危うさを感じてもいた。男であっても危険な職務だ。いつ何があってもおかしくない。板垣は凜を案じながら忸怩とするところがあった。凜が警察官になったことに、自分がどこかで一役買ってしまっていると感じていたのだ。

板垣が凜の肩を優しく抱いた。

「凜…。」

小声で呼びかけると、凜が眼を閉じたまま悲しげに眉を寄せた。夢を見たのか唇が微かに動いて何かを囁いた。

「明さん…。」

板垣にはそう聞こえた。


 明は十数人の社員と会議室にいた。目の前に宅地を造成したひな壇型の模型が置かれている。その開発は冒険的な企画といえた。造成地が神奈川県清山村。企画担当者は「都内はじめ横浜、川崎市の通勤圏でありながら豊かな自然に恵まれている」ところに着目した。特筆すべきは地価の安さで、それにより格安の一戸建て住宅を提供できる、というのがコンセプトだ。

「工事は九割方終わっています。」一人が明に説明した。「道路舗装と公園建設を残すのみです。」

明は頷いて模型をじっくり眺めた。南東に向かう斜面のひな壇に約百戸の宅地が区画されていた。造成地の最も高い場所はあえて地山がそのまま残されている。その面積はさほど広くないが、もともとあった雑木の大半を伐採して桜の苗木を植えたという。将来的にはどの住宅からでも背後の丘の上の桜を見ることが出来る。豊かな自然をうたう宅地開発に相応しいと明は満足した。

 頂部の地山を越すと僅かに降りたところに白いコンクリートブロックの擁壁が造られている。縮尺を考えると実物は五十メートルほどの長さか。そのすぐ前に幅の狭い空き地が左右に延びていて、その一方が下りながら造成地の端に回り込んでいる。そこには土砂を受ける大きな桝が建設されていた。

「これは?」と明がブロックの擁壁を指した。当初の計画には無かったものだ。

宅地造成を担当したグループ会社の社長が慌てた様子で説明を始めた。

「当初の計画には無かったのですが設計の杉山がどうしてもと主張したものですから…。私としても造成地の強化につながると判断して施工に踏み切りました。」

社長がハンカチを取り出して額の辺りを拭って、急いで継ぎ足した。

「ご承知のように擁壁の前の窪地を越すと崖地が迫ってまして、そこは土砂災害警戒区域に指定されています。しかしながら大学の研究所の教授から崖崩れがあっても造成地側に大きな影響はないだろうとの教唆もありまして、当初の計画に擁壁を含まなかったのですが…。」

社長が口ごもって側の若い社員に目を向けた。若者はぼんやりただ立っていたが、説明を促されていると気づいて明に顔を向けた。彼が杉山らしい。

「宅地を造成する以上しっかりしたものを造らないと、住宅が建ち始めてからではやり直しができません。大学の先生の話より実際の強度を取りました。」

自信満々で述べて鼻の穴を膨らませた。

「擁壁の規模はどのようなものかね。」明が尋ねると、さらに元気よく答えた。

「コンクリートブロックの高さが基礎を入れて三メートルです。勾配を十パーセント取り、地面に九十センチほど埋めて実際の高さが二メートル、総延長が五十メートルです。人が立ち寄ることは少ないと思いますが擁壁の外側一か所に石段を設けました。」

「なかなか立派なものだな。」

「はい。二千万円掛かりました。」

胸を張った一方で、社長が弱々しい声で発言した。

「一区画当たりの経費を八パーセント押し上げてしまいましたが、現地を見学に来られる向きには安全性を分かりやすくアピールできると思います。」

「営業は動いていますか。」

明が別の男に声をかけた。エース開発の営業部長だ。六十近い年齢で顔艶が良い。明の父の代から勤めている営業のベテランだ。愛想のよい明るい表情で答えた。

「まだ本格的というわけでは無いのですが、土地の取得段階からネットに情報を上げています。その関係で問い合わせが百件ほどありました。現地を見たいという要望もあります。

 この造成団地は確かに立地が悪くありません。近くを国道が走り、それに県道が二本接続しています。名門ゴルフコースがあり、天然温泉が車で十分の距離に…。」

「環境が良いのは分りますが、営業の難しいところがあるのでは。」

明が挟んだ言葉に「そこなんですよ…。」とすぐに相槌を打った。しかし快活な響きは変わらず続けた。

「やはりネックは交通の利便性がイマイチというところですか。電車での通勤にはバスで駅に出て乗り換えることになります。バスの所要時間が小田急線の駅まで三十分。だが通勤できないわけでは無い。一戸建てが都内の三分の一、またはそれよりかなり安価な金額で手に入るんです。少々のことは納得できるでしょう。それに昨今の働き方改革で状況が変わってくるのではないですか。週に三日だけ出社すれば良いとか、週一とか、そういう会社が現れています。まったく出社せずに自宅で働く仕事もあります。そんな条件に合う人にとってこの物件はローンの圧迫の少ない、自然の中の豊かな住環境を提供できます。

 営業ではこのような人をターゲットに、インターネットによる公告と情報の発信を中心に展開する方針です。」

営業部長は自分の意見に絶対の自信があるようだった。

 明が無言でいると、彼は楽しいことを打ち明けるかのように笑みを浮かべて言葉を継ぎ足した。

「会長の許しが頂ければ造成地のてっぺんに5Gの基地局を造るのも面白いと考えています。」

「分りました。広告の手法を含めて部長のお考えで進めてください。」

明が辟易したのか話を締め括った。

明は基本的に社内でまとめられた開発の企画や建設計画に口を挟まない。社員に任せていた。その一方で会議の内容は詳細に記録することを求めた。計画に狂いが生じたときに会議録を振り返り、何が欠けていたのかを探す。そしてそれを補える人材を経営陣に加えることによって問題を克服し、会社の体質を強化する。意思決定は流動的でかまわない、それがオーナーである明の経営方針だった。

会議を短時間で終えて会長室に戻った明は、携帯のメールをチェックした。着信の履歴はほとんどが樋口からの業務的な連絡だった。明は樋口のアドバイスに従って毎日凜にメールを送っていたが、一週間を過ぎても返信は無い。さすがに明は苛立った。同時に自分が臆病な人間になってしまっていると感じた。

明は意を決して港中央署の板垣に電話した。凜との結婚について協力が貰えないかと考えたのだが、さすがに唐突で不自然な依頼に思えた。だが電話はすでに板垣を呼び出している。明が後悔したその時に板垣の声が聞こえた。

明が名乗ると板垣が「鮎川 明さんですね。」と何故かフルネームを口にした。

「そうです。実は署長さんにご相談がありまして…。」

もう腹を括るしかなかった。

「なんでしょうか。」板垣の声は明るい。

「個人的なことで心苦しいのですが、お会いできますか。」

「よろしいですよ。今日でも署におみえになりますか。私はいつでも結構です。」

板垣はどこまでも快活に答えた。

 明が樋口を呼んで外出を伝えると、樋口は車を用意する旨を口にしてそそくさと去った。実は樋口は明に対する自分のアドバイスを悔やんでいた。恋人へメールを続ける効果をまことしやかに口にしたが、実際は友人の体験談の受け売りにすぎなかった。明の表情がいつまでも晴れないのを目にする度にいっそ提案を取り消して謝罪しようと考えるほどだった。


 板垣と向かい合って、やはり場違いな相談だと明は気後れした。ありきたりの挨拶の後、言葉が続かない。板垣は寛容ともとれる表情で待っている。明の沈黙に困惑しているようでもなく、何か危惧を抱くようでもない。その穏やかな顔を眺めて明は不意に自分に都合の良い空想を抱いた。もしかすると既に凜が署長に結婚の相談を持ち掛けたのではないかと考えた。つまり板垣は明の用向きに察しがついているように受け取れた。少し気が軽くなるのを感じてようやく口を開いた。

「このような事をご相談申し上げて良いか迷ったのですが…。」探るような口ぶりになっているのを恥じて明は意を決した。

「実は、こちらの朝倉 凜さんに結婚を申し込みました。」単刀直入に告げた。顔が熱くなるのが分った。

板垣が目を丸くした。

「えっ。それで、彼女は何と…。」

「承諾を頂きました。」

明の返答に板垣は大きく頷いた。

「そうですか。いや、喜ばしいことですね。」板垣の顔が輝いたように見えた。

「このご縁は署長さんのお蔭と感謝しています。」

明が如才なく口にすると板垣は笑顔を浮かべて手を前で振った。

「私など何のお役にも立っていませんよ。しかし良かった。朝倉にとって有難いお話でしょう。実は朝倉とは家族を含めて旧知の間柄でして、身内のようなものです。…私としても嬉しい限りです。」

板垣は明るく応えて僅かに身を乗り出した。「それで、ご相談というのはどのような…。」

明は気を引き締めた。ここからが経緯の説明が微妙なところだ。

「凜さんは結婚を承諾してくれたんですが、一週間ほど前に態度が急に変わってしまいました。どうやら私に随分と腹を立てているらしいのです。」

「腹を…、それは何故でしょう。」

「よく分らないのです。何を怒っているのか問い詰めて結局言い争いになってしまいました。私としてはお母様に正式にご挨拶に伺おうとしていたのですが、進めない状態になってしまいました。何しろ電話に出てくれないものですから、凜さんと直接お話が出来なくなっています。お恥ずかしいですが…。」

思いがけない話の展開に板垣が戸惑いを見せた。

「結婚の話は消えたということですか。」

「いいえ違います。まったく違います。私の気は変わりませんし、彼女もその様な事は一言も口にしていません。」

板垣の目に一瞬鋭い光が浮かんだ。

「朝倉が鮎川さんの電話に出ない…。いったいどんな理由でしょう。鮎川さん、察しの付く事はありませんか。」

「私の言葉には配慮が足りないと言うんですが、それがどういう事かよく分からないのです。本当の理由は別で、もしかすると…。」

「もしかすると?」

「結婚を機に仕事を辞めて欲しいと伝えましたところ、かなり悩む様子が見受けられました。私が意見を一方的に押し付けていると感じて納得出来なかったのでしょう。それが怒りの原因かもしれません。」

「朝倉は警察を辞めたくないと言ったのですか。」

「いいえ、考えさせて欲しいと…。」

明は自身の言葉にどこか不正確な所があるような気がしたが、構うものかと思った。何とか膠着した状態を解消して、少なくとも以前のように連絡を取り合う関係に戻りたかった。

「なるほど。」板垣が訳知り顔に頷いた。

「鮎川さん。一つ私にお任せ下さい。彼女と話してみましょう。あいつの性格も考えもよく分かっていますから、悪いようにはなりませんよ。安心してください。」

「有難うございます。」感謝を口にしながら明は落ち着かなかった。自分はいったい板垣氏に何を任せるのだろうと自問した。

「ただし…、」と板垣が言った。

「私がいきなり朝倉を諭してもうまくいかないかもしれません。本人の知らないところで鮎川さんと私が打ち合わせたように受け取られると逆効果です。何しろ一本気な性格なので…。」

板垣が再び身を乗り出した。

「そこで鮎川さんには今一度朝倉と連絡を取ってみられることをお勧めします。」

明は何も口にしなかったが板垣が言い添えた。

「留守番電話や伝言という方法でもいいし、何なら署の刑事課に電話を入れていただいて彼女を呼び出すという手もあります。それでも朝倉が返信しないとか、訳の分からない態度をとるならばその時に私が厳しく…いや諄々と話しましょう。きっとうまくいくでしょう。後は私に任せてください。」

板垣は自信ありげに見えた。

 同じ頃エース開発のオフィスでは樋口が思い悩む様子でデスクの一角を見つめていた。やがて電話を手にした。

「もしもし、港中央署ですか。刑事課の朝倉様をお願いします。」

                  (つづく)




    「女刑事物語(15-3)」 C.アイザック

 一係の壁際に置かれた白いボードに凜が文字を書いている。

「不死身の武田は順調に恢復しています。数日うちに重湯を口にできるとのこと。」

藤原が寄ってきた。

「まずは一安心、だな。」

「もう大丈夫だよ。」

「俺が様子を見に行った時はヤツの話しぶりがしっかりしていて、まさか飲まず食わずの状態と気づかなかった。食事にまで気が向くとは、兄貴代わりのお凜の気遣いが分るよ。」

「藤原さん、兄貴代わりって何だよ。」凜が苦笑した。

「足の包帯が目立ったが、ひどいのか。」

「ボルトが三本入ってるんだって。だけど全然心配ないらしい。」

「とにかく良かった。」

藤原が温かい笑みを浮かべた。

 凜は尼子と共に器物損壊事件の捜査に戻った。防犯カメラに映った男、中野和昭の住所を訪ねた。…ラフォーレ田山303号。三階建ての小さなアパートだった。

尼子は建物の名前から立派なマンションを想像したらしく「ラフォーレとはどういう意味なんですかね。」と意外そうに呟いた。

エレベーターは無かった。階段近くにまとめられた郵便受けを見ると303号に「中野」の文字があった。三階に上がって二人は少し驚いた。ドアが並ぶ通路に屋根が無かった。二階までは上の階の通路が屋根代わりになっているが三階の通路の頭上には空が広がっていた。ドアに庇が無く、そのせいか表札らしきものは無い。

「珍しい造りですね。雨の日は大変だな…。」尼子がまた呟いた。

凜がチャイムを押した。室内で鳴る音が小さく聞こえる。応答はない。留守と判断した。

「勤めに出てるんですかね。念のため隣近所に訊いてみますか。」

尼子の言葉に凜が頭を振った。

「観察処分中だからな、慎重にやろう。保護観察所に行って調べよう。」

尼子がためらいを見せた。

「たしか霞が関ですよね。電話じゃダメですかね。」

「観察官に会って詳しく訊きたい。」


 霞が関の官庁群を尼子が珍しそうに見回した。

「本庁に来たことがあるだろう。」凜が呆れ顔だ。警視庁は霞が関二丁目にある。

「本庁の辺りとは少し景色が違います。」

尼子は断言してさらに付け加えた。「俺、山陰の田舎の出身なんです。こんなに官公庁のビルが立ち並んでいて、東京にいるんだな…と実感させられます。」

「…たしかに壮観ね。」

 その合庁の一室で保護観察官を待っていると、ほどなく分厚いファイルを小脇にした中年の男がやってきた。小太りで丸顔。黒縁の眼鏡をかけている。よほど急いだのか息を切らせていた。

「どうもご苦労様です。」と刑事たちに挨拶して席に着いたが、大きく息を継ぐ。

「失礼しました。実はこれまで法務事務を長くやっていまして、すっかりメタボです。困ったものです。」

苦笑を見せた後すぐに真顔になって問いかけた。

「中野君がどうかしたのでしょうか。」

凜が答えた。「まだ何とも…。確認したいことがありましたので。」

「そうですか。お知りになりたいのはどんなことです。」

「生活状況などです。」

「本人にお会いになりましたか。」

「まだです。」

保護観察官はテーブルにファイルを広げて言った。

「ご承知の通り執行猶予期間があと一年近く残っていますが、これまで観察した生活態度は非常に良いと言えます。」

ファイルから書類を抜き出して並べた。

「面接を続けておりますし、このように生活状況の申告も真面目に行っています。」

「就職しているのですか。」

「働いています。悪い仲間ときっぱり別れたそうです。」凜の質問に明快に答えながら書類の上を指で探した。

「ここですね。トヨダ製作所株式会社。大田区の町工場で金属製の建設資材を製造している会社です。」

「現住所のラフォーレ田山には一人住まいですか。」

「いいえ。祖母、お祖母さんと同居しています。」

「お祖母さん?」

保護観察官は凜を見つめて一人頷いた。

「中野君は事情あって幼少時から本籍地の神奈川県清山村で祖母に育てられました。母親は離婚して中野君を引き取ったのですが、彼が小学五年生の時に病死しています。五歳で別れた父親とはその後一度も会っていないそうです。保護観察処分では原則として未成年の対象者の単身生活を認めていません。このため彼の祖母に相談したところ東京での同居を引き受けてくださいました。

 保護観察対象者の遵守事項がありまして、その一つに健全な生活態度の保持があるんですがお祖母さんの同居は安心材料ではありました。」

「お仕事の方は真面目に勤めてるのかしら。」

「問題となるような事は聞いておりません。詳しくお知りになりたいでしょうから保護司の先生をご紹介しますので、お会いになられたらどうでしょう。」

 刑事たちは教えられた保護司の自宅を訪ねた。保護司は少年院を退院した未成年者や執行猶予と合わせて保護観察付きの言渡しを受けた者の更生を助ける活動を地域で行っている。保護観察官と共に生活状況の調査や面接を行うが、保護観察官の数が不足しているため、保護司が観察の対象者と深い関りを持つ傾向にある。法務大臣の委嘱による国家公務員と位置づけられるが俸給は無い。つまりボランティアだ。彼らの経歴は地方議会の議員や公務員経験者、宗教家など様々だが、過ちを犯した人間が立ち直る手助けをする意欲と情熱は共通しているのかもしれない。

 中野和昭を担当する保護司は六十四歳、元公立中学の校長だった。

「細川と申します。」

事前に連絡があったとはいえ刑事達を目前にして不安な表情を隠せなかった。

「中野君が事件に関わったのでしょうか。」

保護観察官と同じような質問をしたが、担当者として気懸りなのは当然か。

「確認したいことがあって伺いました。お話を聞かせてください。」凜も同じように答えた。中野が器物損壊事件の犯人である証拠はどこにもない。

「中野さんは工場に勤めていると聞きましたが。」

「そうです。私が就職の援助をさせてもらいました。工場の経営者が私のかつての教え子なんです。これまでも協力してもらっていまして、何も問題ありません。」

「お仕事を終えて帰ってくるのは何時頃でしょうか。」

「七時頃でしょう。でも残業があるかもしれませんね。」

「忙しいのですね。」

「はい。豊田君、頑張ってますよ。…明日は土曜日ですよね。土日は休みですので、明日にでもラフォーレ田山に行ってみられたらどうですか。私もご一緒しますが。」

「いいえ、それは結構です。」凜が小さく手を振った。

細川の白髪が垂れた広い額までがうっすらと赤く上気した。

「私もお話の内容を知っていた方が良いと思うんですが。」

「そうとは限りません。もし細川さんに関わるようなことになれば私からお伝えします。」

「…中野君は真面目な人間ですから。」細川はもの言いたげに刑事たちの顔を見やった。

「アパートにはお祖母さんがいるのではないですか。実は午前中に訪ねた折は誰もいないようでしたが。」

同居していれば中野が深夜に外出した時の様子を知っていると思えた。

「お祖母さんは…静江さんといいますが、半年前の台風で神奈川の家が被害を受けまして、ちょくちょく様子を見に帰っています。かなり酷い様子なんですが、聞くところによると建物が急傾斜地にあって建て替えが許可されないらしいのです。そこで修繕の相談を地元の建築大工と続けていて、…それなりの費用が掛かるわけですから、このところこちらは留守しています。」

 保護司と別れて尼子が言った。

「いっそトヨダという工場へ行きますか。」

「でもな…。社長さんは事情を知っているだろうけど、他に従業員もいるだろうからな。いきなり乗り込むのも、ね…。」

自信の無さそうな凜の言葉に尼子が思うままを口にした。

「この際、中野が保護観察処分にあることにあまりこだわらない方が良いのじゃないですか。」

凜が無言でいると尼子が思い直したように言った。

「たしかにまだ二十一歳ですからね…。それに事件に関わった嫌疑が濃厚というわけじゃないし。明日、立派な名前のアパートに行くことにしますか。」

「明日の朝だね…。」

このとき凜の携帯電話が着信を報せた。見ると明からのメールだ。まだ寒さが続きそうです風邪などに気を付けて、という短い内容だ。凜の眉が曇った。このところ明から決まって午後三時ころにメールが送られてくる。どれも時候の挨拶めいたものばかりで返信を求めるわけでもない。明の真意が訝られた。凜は尼子に気づかれぬように小さく溜息をついた。


翌朝、刑事たちは中野のアパートを訪ねた。何度かチャイムを鳴らすと中からくぐもった声がした。ドアを開けたのは灰色スウェットの上下を着た若い男だった。

「中野和昭君だね。」尼子が声をかけた。

「はあ…。」寝起きのようだ。

「悪いね、お休みのところを。港中央署なんだけどさ。聞きたいことがあってね、少し入らせてもらって良いかな。」

「あ…。」中野が目を丸くした。

「ん? 何か都合が悪い?」

一歩踏み入れていた尼子が動きを止めて尋ねた。

「いえ…。」中野が小声で応えた。

 キッチンのテーブルにビールの缶が数本並んでいた。食べ終えた皿も数枚ある。急いで片付けようとするのへ「ここでいいよ。」と尼子が沓脱に立ち止まった。

「早速だけど、先週の土曜の夜、どこかへ出かけた?」

尼子が質問したとたん奥の部屋で物音がした。格子のガラス戸が半分開けられていて人の気配がする。

「だれかいるの?」凜が訊いた。

「あ、友達です。」

中野の言葉と同時に小太りの若い男が姿をみせた。

「和昭、俺帰るわ。」

厚手のシャツが皺だらけで、裾がパンツから半分はみ出ている。短いコートを丸めて脇に抱えていた。

「すいません、俺、帰るんで…。」刑事たちと一度も目を合わせずに呟いた。

狭い沓脱に二人いると通れない。尼子がどうすべきか迷っていると凜が突然男に問いかけた。

「昨日はここに泊まったのかしら。」

男は黙っている。視線をあらぬ方へ投げて、表情を変えない。質問を無視するふてぶてしさを感じさせた。

「名前を教えてくれないかしら。」

凜の質問に男が苛立たしそうに口を開いた。

「答える必要、ある? なんも関係ねえし。」

「教えてくれても良いじゃない。」

凜の頑とした気配に男はしぶしぶ答えた。

「小金井。」

「下の名前は。」

「…正雄。」

「小金井正雄さんね。住所も教えてくれないかしら。」

男は一瞬険悪な表情を浮かべた。逸らし続けた目をはじめて刑事に向けて吐き出すように言った。

「そんなことまで言う必要はないよ。そうだろ?」

男の抗議に取り合わず凜が追求した。

「さっき後ろのポケットに財布が見えたけど、免許証か何かはいってるんじゃない? それを見せてよ。」

尼子は思いがけない凜の強引とも取れる言葉に黙って成りゆきを見守った。

「関係ないと言ってるよ。いったい何の権利があって…。」

「ごめんなさいね、警察の仕事です。協力してください。」

小金井と名乗った男は追い詰められたような顔で凜を窺ったが、凜が妥協する気配はない。落ち着いた表情で男を見つめていた。

 やがて男が不機嫌に顔をしかめて分厚い長財布を取り出した。刑事たちに背を向けて中を探ってから、免許証をつまんで振り向いた。普通免許だ。氏名は口にしたとおり小金井正雄。年齢が二十三歳。中野より二つ上だ。

「これ、写しても良いよね。」凜が携帯で免許証を撮影した。

「住所にマンション名とか無いけど、自宅?」

小金井が無言で肯いた。

「それからね…財布、ずいぶん分厚いけどお金以外に何が入っているの? 良かったら見せてくれないかな。」

凜の言葉に小金井が呆然としたものの、狼狽した様子はなかった。

「危ないものとか入れてないよね。」

凜がたたみ掛けた。

小金井は顔を赤くして口を尖らせた。

「変なものとか入ってねえよ。ほら。」

財布の中身を掴んで差し出した。「ほら、レシートなんかさ。」

萎んだ財布が床に落ちた。小金井は構わず手にした中身を広げた。大量のレシート、割引券、ポイントカードが目についた。現金が千円札一枚だけだ。小金井はいよいよ顔を赤らめた。

「これは何?」

凜がフィルムに包まれた物を指した。

「これはゲームのカード。」

小金井がレシートの中から取り出したトランプ札のようなものは薄いビニール袋の中で四周がキラキラと光っている。中央には奇怪な姿の生物らしきものが描かれていた。

「なかなか手に入らないんだ。プレミアムの中でも特別さ。」

自慢そうに説明する小金井の顔に初めて若者らしい表情が見えた。

「財布はもう空?」凜はしつこい。

小金井が黙って財布を広げて見せた。ファスナーが付いた箇所に小銭が少し入っていただけだった。

凜がドアを開けて通路に身を躱した。

「協力してくれて有難う。」

小金井が尼子の横をすり抜けて外へ出る。その背中に凜がまた声をかけた。

「ありがとね。」

小金井は答えず不機嫌な横顔をことさらに見せつけながら無言で去った。

 「悪かったね。話の邪魔をして。」凜が室内のどちらへともなく言った。

その言葉で尼子が中野に改めて向き合った。

「さっきの質問だけど、先週の土曜日、夜中に何処かへ出かけたんじゃないの。」

問われた中野はうつむき加減になって何も答えない。しかし凜は中野が何か安堵したらしいようすを感じ取った。刑事の来訪に驚いた筈だ。それから事態が変わったとすれば小金井が出て行ったことしかない。

尼子が言い添えた。

「コンビニに立ち寄ったのが分ってる。店の防犯カメラに写っているからね。夜中の一時過ぎだ。あの時、何処へ行ったのか話してくれ。」

中野は黙りこくった。すっかり首を垂れている。

「なぜ話してくれないのかな…。」

尼子が顔を覗き込んだ。「話せない訳でもあるのか?」

 当初、尼子は中野が事件に関与しているかはなはだ疑問に思った。たまたま防犯カメラに写っていたと考えられる。しかもそのカメラの位置は現場から百メートル以上離れている。決め手にはならない。凜が何故こだわっているのか納得出来なかった。だが今、尼子の意識が変わろうとしていた。中野が答えられない理由は何か。

「何処へ行ったか教えてくれ。簡単な質問だと思うけど。」

中野が尼子を見上げた。顔が紅潮している。しかしやはり口を開かない。すぐに目を伏せた。尼子は辛抱強く待った。中野の沈黙が続く。

「あのとき君はこのアパートとは反対の方角からコンビニの駐車場にやって来ている。そうだね? それまで何処にいたのかな。用もなく夜中にウロウロしていたわけじゃないだろ。」

中野の唇が震えたように見えた。

「中野君、これは黙っていて済むようなことじゃないよ。」

尼子の言葉に中野が顔を上げた。そして口にしたのは刑事たちにとって拍子抜けするものだった。

「あの夜は小金井さんの家に行きました。」

「小金井って、さっきの友人のことか。」

「そうです。」

尼子が追及した。「友人の家はどの方角だ。あのコンビニから五十メートルあたりに交差点があるが、そこからどっちだ。」

「右に折れます。」

「そこから?」

「まっすぐ進んで…。」

それは中野が防犯カメラに映っていたルートだ。

「また右に曲がります。」

「えっ?」

「百メートルくらいで小金井さんの家に着きます。」

「…それは何処の交差点から曲がる?」

「何処って…、左の角にベーカリーショップがあります。」

尼子がほんの少し首を傾けた。パン屋の位置が分らなかった。

「それは何時ころ?」

「七時は過ぎていたと思う。」

「友人の小金井君は自宅にいると言ったが両親と住んでるのかな。」

「そうです。」

中野の言葉に尼子の目が光った。

「いくら友達とはいえ、真夜中まで居るかな。親御さんたちがいるのに、それはちょっと変じゃないか。」

「あの人は二階に一人でいます。玄関口は別々で、親の人たちと会うことはないです。」

二世代住宅と思われた。何らかの事情で両親だけが階下に移ったか本人が二階へ上がったか。独立した住環境にあれば深夜まで友を引き留めても不都合はない。

 だが尼子は友人宅で過ごしたという中野の説明に納得できなかった。コンビニの防犯カメラに残された中野と同じ格好をした人物が深夜十二時過ぎと一時前に現場近くの防犯カメラに姿を捉えられている。それは尼子の中で重要な意味を持ちはじめていた。

「小金井君の家を出たのは何時だった?」

「一時前だったと思う。」

「君はそれから何処かへ行ったんじゃないか?」

「いいや。」中野が消え入るような声で答えた。

「何処へも行かずにまっすぐ帰った?」

「はい。」

「コンビニに寄っただけで?」

「はい…。」中野は再び首を垂れた。

「おかしいな…。」

尼子が懐から手帳を取り出し、挿んであった写真を中野の目の前に突き出した。

「これは君だよね。」

中野は茫然とそれを見つめた。動揺しているようでもあり、写真に重要な意味を感じていないようでもあった。

「君だろう。それは認めるな?」

中野が小さく肯いた。

 尼子はひと先ず満足したが、深夜一時頃、現場近くに中野がいたことが明らかになっただけにすぎない。そしてこの防犯カメラと小金井宅の位置関係が尼子には分らない。友人の家以外に何処にも行っていないという中野の言葉に嘘があるとしてもそれを追求する手立てがなかった。さらに尼子自身が地域課の警察官に指摘したとおり犯行時間も分かっていない。

「くどいようだが、本当にまっすぐ帰ったのか?」

中野が肯き、尼子が両腕を組んだ。…厄介だな。尼子の正直な気持ちだった。

「それなら最初からスムーズに話してくれたらよかった。後でまた何か聞きに来るかもしれないが、その時は頼むよ…。」尼子が渋々話を切り上げた。凜は言葉を挟まなかった。

 車に戻ってすぐに尼子が言った。「もう一度防犯カメラを調べましょう。あいつの行動が言葉どおりだったかどうか。絶対何か隠してますよ。」

凜が静かに口にした。

「そんな印象だけど、話の矛盾を探しても証拠に結びつかないような気がする。」

「それじゃ署に引っ張りますか。言い逃れ出来ないと思い知らせてやりますよ。」

「追及するのはあの区役所の方が効果的かも。被害者の筈なのにいったい何を隠そうとしているのか。」

「…そうですね。看護師さんの被害を知っているわけですから、犯人隠匿で任意出頭を迫ればすぐウタいそうな。」

「それから車の鑑識情報を確認しておこう。かなり酷いキズというから、工具のようなものを使ったのかもしれない。」

尼子が目を丸くした。「中野のガサ入れですか。」

「準備はしておこう。」

中野を任意で引っ張ればそれで捜査が進むのではないかと考えていた尼子は、自分の甘さを思い知らされた気がした。

「先輩…。」尼子が唐突に別のことを問いかけた。

「小金井にこだわってましたが、あれはどういうことか教えてください。」

「気になってね…。保護観察官と保護司が口をそろえて中野が真面目だと言っていた。その中野が観察処分残り一年となって突然、深夜に車を傷つける行為を犯した…としよう。勿論あり得ないことじゃないが、ではその理由は何だろう。車の所有者とトラブルが生じたとしてもまず保護司に相談するのが自然じゃないだろうか。かといって中野が事件と無関係とも言えない。防犯カメラの映像を無視することはできないからだ。

 そこで保護観察官の言葉を思い出したのさ。あの人は中野が悪い仲間と縁を切ったという意味のことを言っていた。事情はよく分らないけど、中野のお祖母さんが留守をするタイミングで友人が現れたとすれば、あまり感心出来ない友達かなと思ったんだ。」

凜が尼子を凝視した。

「小金井は土曜日の夜について訊かれるのを耳にして慌てて出て行こうとした。だから咄嗟に人定質問をやろうと決めたのさ。そして中野だけど、小金井がいなくなったときホッとした様子に見えた。自分の犯行を小金井に知られていて、私たちの質問に小金井が何かを口にする恐れがなくなってホッとしたのか、それとも…質問の夜に何かをやった当事者を知っていて、その者があの場からいなくなったからかもしれない。」

尼子は驚きを隠さなかった。

「では、事件に二人が関与していて、ひょっとすると実行犯は小金井じゃないか…そういうことですか。」

凜が困ったように小さく笑った。

「実際はまだ何も分かっちゃいないけどね。」

尼子は初めて気づいたようにその美しい微笑を見つめた。


 それは、およそひと月前のことだった。中野は工場からの帰途にいた。午後七時はもう真っ暗だ。自転車でいつもの道を急いでいた。街灯がぼんやりと照らす場所に差しかかると、左側の駐車場から車が突然道路に出てきた。避けるのは不可能だった。真横から当たって中野は自転車もろとも倒れこんだ。すぐには体の痛みを感じなかった。急いで上体を起こすといきなり目の高さで車のライトが光を放った。エンジン音が聞こえた。

 中野は激しい恐怖に慌てて地面を這った。逃げねば轢かれてしまう! そのとき車のドアが開いた。

「大丈夫か?」薄暗い中に男が身を伸ばした。

中野が何も答えられずにいると男は車のフロントに進み出た。うずくまる中野を一瞥して、ライトに照らされた自転車を起こすとあちこち点検するかのように視線を走らせた。それから驚くべき言葉を吐いた。

「たいしたことが無くて良かった。」

「なんだって?」

「自転車はどうもなってない。」

中野は激しい怒りを感じて声を荒げた。

「こっちはどうなんだ。」

「転んだだけだろう?」

「ふざけるなッ。」

思わず掴みかかった中野の鼻孔にアルコールの匂いが流れ込んだ。

                     (つづく)



     「女刑事物語(15-4)」 Ⅽ.アイザック

 男は駐車場の隣にある自宅で缶ビールを飲んだ。次は焼酎だ。いつものコースだが一杯呑んで焼酎が切れたのに気づいた。買い置きがある筈だが見つからない。

「おーい。」声を出してから妻が不在なのを思い出した。小学生の子供の母親グループの飲み会に出かけていた。舌打ちして財布を確かめると一万円札が入っている。コンビニに行こうとフラフラ表に出た。一月半ばだ、強い寒気に包まれて首をすくめた。こんな時は車を使えば便利だ。たいして飲んじゃいないとエンジンをかけた。

駐車場を出ようとして不意に小さな明かりが目の前に飛び込み、金属的な音が聞こえた。ハッとしてブレーキを踏み、それから暗さに気づいてライトを点けた。倒れた自転車のハンドルが光を反射した。車を降りると人が路上に起き上るのが目に入った。

「大丈夫か?」と声をかけた。事故が起きたのは確かだ。だが、しまったという意識は無かった。むしろ迷惑な事態になったと受け止めていた。この自転車の男は何故車の直前に飛び込んできたのか?

「酒を飲んでる。そうだろ? 匂いがするぞ。」

その自転車の男が叫んだ。若い声だ。車を降りた男が眉を顰めた。面倒な事になりそうな気配がした。ポケットをまさぐって紙幣を引っぱり出して相手に渡した。

「これで自転車の修理をしろよ。」そう言って車に乗り込み、バックして駐車場へ戻すと何事も無かったように住宅の中に消えた。

中野は閉ざされた玄関のガラス戸の明かりを呆然と眺めた。手にした一万円札に目を落とし、少し躊躇ってから上着に収めた。膝と腕、手のひらに痛みがあったがたいしたことはなかった。自転車を調べると男が言ったとおりどこも壊れていないようだ。中野は釈然としないまま自転車に跨った。唇を強く結んで明かりの漏れるガラス戸にもう一度目を向けた。薄暗い表札に「渋谷」の文字が読めた。ペダルを踏んでその場を離れた。ついに謝罪の言葉が無かったのが中野の気持ちを重くした。

翌日になって体のあちこちが痛んだ。数か所に黝い鬱血が見られる。心配になって膝や肘を動かしたが特に問題は無いようだった。

事故に遭った場所は毎日の通勤路だ。翌朝、中野は渋谷宅からむしろ目を逸らして通り過ぎた。一歩間違えばたいへんなことになる出来事だった。にもかかわらずどこか尊大だった渋谷の態度に、怒りの感情は当然だが、同時に気後れを感じていた。自分が執行猶予の身であることが思い起された。

 次の日、帰宅する中野が事故のあった場所にさしかかると、駐車場から渋谷がコンビニの袋を提げて現れた。中野が思わず自転車を止めた。渋谷も動きを止めて暗がりにいる中野を窺ったが、すぐに落ち着き払った声を上げた。

「何か用?」

中野が事故の当事者と気づかないようだ。その何もなかったような態度に中野は腹が立った。

「人を撥ねておいて一言の詫びもないのか。」

渋谷はしばらく黙って中野を見つめた。言葉にそぐわない童顔だと感じた。

「君か…。だが変な言いがかりは止めてくれ。君が転んだのは俺が撥ねた訳じゃない。自転車にはちょっと当たったかもしれないが、それには金を払っただろ?」臆面もなく開き直った。

「言いがかり? あんたが事故を起こして俺にぶつけた。しかも酒を飲んでた。飲酒運転じゃないか。」

「だからそんな一方的な言い方はダメだよ。分らんかな…。」

「あんたがそんなことを言うなら警察に行く。警察に調べてもらう。」

渋谷は薄笑いを浮かべた。

「今更そんな事をしても受け付けてくれるもんか。何日も経っている。」

中野が唇を震わせた。

「バックレるつもりかよ。」

渋谷が中野を見据えて声に怒気を含ませた。

「バックレるとはなんだ。難クセを付けて金でも取ろうというのか。」

その言葉に中野が息を呑むのには気づかず続けた。「それは恐喝というんだ。警察に捕まるのは君の方だぞ。」

中野は相手を睨みつけたものの、無言でペダルを踏み、逃げるようにその場を離れた。青木の言葉に委縮してしまったのだ。それでも悔しさに暗い路上で涙を滲ませた。

 中野が友人の小金井とバッタリ会ったのは二週間ほど経ってからだ。トヨダに就職してからは、いつか出会うだろうと思っていた。小金井の家の近くを毎日通勤するからだ。

「和昭。なんだよ、久しぶりじゃねえか。」

嬉しそうな素振りの小金井に、中野も自然と笑顔になった。実は小金井との交友を保護観察官が好ましくないと指摘して、中野もそれに従っていた。保護観察官は中野が犯した恐喝事件には小金井が関わったと推測していた。弁護人が中野の犯意は明確でなく年長の知人の使嗾によるものだったとして情状を酌む余地を主張した記録が残されていたからだ。

「小金井君とは暫く付き合わないようにしたらどうだろう。彼は大学を半年でやめてから四年ちかくも職に就いていない。親と同居で生活に困ることはないらしく、君とは境遇が違う。少し距離をとってみようか。」

中野は承知したのだが、久しぶりに小金井と顔を合わせるとやはり温かい気分になった。東京へ来て初めて出来た友だった。

「連絡も無いしよ。携帯変えたのか。」

「保護観察官がそうしろと言うからよ…。」

小金井が大袈裟に顔を顰めた。

「あいつらなんかシカトウすれば良いんだ。…それで、どうしてるんだい?」

「うん。いま小さな工場で働いてる。」

小金井が視線を逸らせた。ふん、と気のない返事をした。

中野は小金井が取り残された気分を抱いたのではないかと想像した。話題を変えようと、車に当てられた出来事を話した。

「そんとき酒を飲んでたくせによ、次の日になったら、今更そんな事を言ってもどこも相手にしないぞってよ。」

愚痴っぽく語って友人の気を引こうとしたのだが、小金井の反応は中野の予想を超えたものだった。

「その野郎、上等じゃねえか。」

怒りを表して言った。「ざけてんじゃねえつったろ。どこの野郎だ?」

「玄関に渋谷と書いてあった…。」

小金井は考え込む素振りを見せて、「幾つぐらいのヤツよ。」と尋ねた。

「四十くらいかな。」中野が答えると「なんだ、とっつあんかよ。」と意外そうに口にしたが、やがて自信満々で告げた。

「俺に任せろ。慰謝料を取ってやるからよ。四十のとっつあんにナメられて黙ってられるか。」

中野は困惑した。「でもよ…。」

「心配するな。お前は表に出さない。今度は俺が表に出るからよ。」

小金井が目をぎらつかせた。「渋谷は確か区の職員だったはず。人を撥ねてバックレたとなれば懲戒免職もんだぜ。ま百萬くらいはそく出すだろうよ。」

中野が目を伏せた。余計な事を小金井の耳に入れてしまったと後悔したが、渋谷の傲慢な態度が心に引っ掛かっているのも事実だった。渋谷が脅されたらいい気味だと思う一方で、慰謝料の話には関わりあいたくなかった。もし小金井が慰謝料をせしめても一銭も受け取らなければ良いのだと考えて自分を納得させた。

「俺がバシッと決めてやるからよ。」

大きく頷いてみせた小金井だったがその後一週間ほど音沙汰がなかった。

 土曜日の夕、中野は電話を受けて小金井の家に出向いた。ビールでも飲もうと呼び出されたのだ。もしかすると渋谷から慰謝料を取ったのかもしれないと考えると中野は不安だったが、それは杞憂にすぎなかった。

 小金井は二世代住宅の二階に一人で住んでいた。

「久しぶりにゲームやろうぜ。」中野の顔を見るなり言った。

「カードをもってきてないよ。」

「なんだよ、使えねえな…。まあいいや。」

二人でテレビゲームを始めた。壁際の大型テレビに戦場の荒野が映し出された。はるか前方に敵の車両が見える。画面は二分割されていて、プレイヤーが選んだ兵士が現れた。兵士には名前が表示されている。「カズ」と「マサ」だ。

 中野が操作する「カズ」が機関銃を撃ちながら敵に突進した。

「おっ、早えな。」小金井が負けじと前進するが追いつけない。画面では敵の撃つ弾丸が雨霰と飛んでくる。

小金井が小さく笑うと同時に中野が叫んだ。

「危ねっ。誰だ味方を撃つのは。」

小金井が肩を揺らして笑い出した。

中野の声は悲鳴に近い。「だから危ないって。ヤバッ。死んじゃう。ホラッ…。」

「なんだよ、死んじゃったのかヨ。ダサッ。」小金井が快哉を上げた。

「よーし。」

今度は「カズ」が「マサ」を追撃した。

小金井が叫ぶ。「やめろよ。味方を撃ってんじゃねーよ。何考えてんだよォ。」

画面の「マサ」が転倒した。「あーあ…。」

「えっ、死んじゃったの? マジで。」

中野が嬉しそうに目を丸くした。

小金井が睨みつけた。

「喜んでんじゃねえよ。そういうゲームじゃねえし…。これから味方を撃つのはナシな。」

「分った。」

「早く敵を倒してロケットランチャーをゲットしないとな。」

 二人がゲームに興じているとドアの外から小金井の母親の声が聞こえた。

「マーちゃん。夕ご飯におでんをしたんだけど、降りてくる?」

小金井が眉間を寄せるとドアに向かって怒声を投げた。

「サッサと持って来いよ。」

「分ったわ…。」

「二人分だからな。」念を押した。

「お友達が来てるのね?」

「うるせえな。ババアが余計な事くっちゃべってるんじゃねえよ。」

小金井が苛立たしく叫んだ。中野は浮かぬ顔をしたが黙ってテレビの画面に目をやった。

 やがて二人は小さな鍋のおでんを食いながら缶ビールを呑んだ。カードゲームの実況動画を見ながら飲んでいたが、いつの間にか中野が寝てしまった。アルコールはあまり強い方ではなかった。

 どのくらい時間が経ったのか小金井に揺り起こされた。自転車を貸せと言っている。目を閉じたままポケットをまさぐって鍵を渡した。缶ビールが切れたのだろうと思った。だが小金井は気になる言葉を残して出かけた。

「とっつあんがケツまくりやがってよ。ナメられっぱなしじゃイイセン行くぜ。」

外の冷たい空気が居間に流れ込んだ。

 中野はムクリと体を起こした。目が覚めていた。上着を羽織って外に下りた。小金井の姿は無い。中野は漠然とした不安を抱いて道路を進んだ。すぐに狭い十字路に出る。左折するとコンビニのある方角だ。薄暗い行く手に目を凝らしたが人影は見えない。中野は反対方向に歩いた。しばらく行くと渋谷の自宅がある。遠目で窺ったが路上に人気は無く自転車も目に入らない。中野はホッとして引き返した。

 あるいは行き違いになったかと心配したが小金井は帰宅していなかった。中野に理由もなく再び不安が沸き上った。十字路に戻って左右に目を配ったが依然自転車の明かりが見えない。もう一度渋谷の家へ向かった。今度は建物の正面に立って玄関口と駐車場の奥にまで目を凝らした。冬の深夜。あたりは森閑と静まり返っている。

 中野はあることに気付いた。駐車場の車に何かが張り付いている。近寄って息を呑んだ。車に夥しいキズがついている。それが遠い街路灯の明かりでも確かめることが出来た。中野は驚愕のあまり茫然とその場に佇んだ。もしかすると…。不吉な想像が浮かんだ。小金井の仕業ではないのか? 慌ててその場から離れた。

 何かに追われるように夜道を急いでいると背後から名前を呼ぶ声が聞こえた。小金井だ。振り向くと自転車の小さな明かりが見えた。

「何やってんだよ、ビール買ってきたぞ。」

中野は力なく応えた。

「俺、もう帰るわ。悪いな…。」

「バカ言ってんじゃねえよ。いまおもしれえ話を聞かせてやるからよ。」

小金井の言葉をよそに中野が頑なに繰り返した。

「悪い…。眠くてしょうがねえ。」おもしれえ話を絶対に訊きたくなかった。

「そうかよ。」小金井が路上に唾を吐いた。不機嫌な様子で自転車に跨る中野を見ていたが、急に目を光らせて告げた。

「あの野郎にバッチリ脅しをくれたからよ。心配するな。俺に任しとけ。わかったな。」

中野は曖昧な呻き声を残して逃げるようにその場を後にした。


 凜と尼子はとりあえず小金井宅を特定した。そこから中野が歩いていた道路に向かう。交差点に立って辺りを見るとベーカリーショップが見つかった。さらに渋谷宅の方向に数十メートル進んだ場所に中野の姿を捉えた防犯カメラがあった。その位置関係から判断すると「小金井を訪ねた後、コンビニに寄っただけで帰宅した」とする中野の説明を納得するのは難しいと思えた。

「やっぱり嘘ですね。」と尼子が言った。

「小金井宅から渋谷宅の駐車場に向かったのは間違いなさそうです。そしてカメラには一人で写っていましたから中野が単独の実行犯ということでしょうか。でなきゃあ嘘をつく必要は無い。」

凜が提案した。

「もう少しカメラの中身を詳しく見よう。」

防犯カメラは駐車場の出入り口にあったが「グリーン・パーク」の看板があるだけで管理施設が見当たらない。カメラの設置者を探さなければならなかった。

交番に問い合わせると防犯カメラのデータが地域課捜査係に保存されていることが分った。署に戻ったのは午後。凜と尼子はデータを受け取り刑事課で再生した。途中で購入した弁当を食いながらカメラの映像を調べた。

「画像が粗いですね。カメラが古いのでしょうね。」尼子が不満を口にした。

画像が分りにくい理由が他にもあった。コマ抜きで撮影されていたのだ。被写体の動きが不自然で、ピントも甘い。人の姿が突然現れて次の瞬間には消えてしまう。二人の刑事は辛抱強く画面に見入った。

 少し離れた席で電話を取った藤原が凜を目で探して声をかけた。

「おーい。お凜、電話だぞ。」

「はい。」受話器を耳に当てると意外な人物からの電話だった。

「朝倉様。樋口です。お話がありますが、今よろしいでしょうか。」

「どうぞ。」と答えた凜は樋口の用件に全く見当がつかなかった。

樋口は明が凜との結婚話が進展せず悩んでいることをかなり遠慮がちに伝えた。また自身が軽率なアドバイスをしたために却って問題の解決が遠退いているのではないかと謝罪を口にした。

凜は驚いた。自分のあやふやな態度が原因で無関係な樋口を巻き込んでいることになる。急いで告げた。

「私から明さんに連絡を取ります。あなたにご迷惑をかけて申し訳なく思います。ごめんなさい。」

凜の言葉で樋口は胸を撫で下ろしたが、凜の心は騒いだ。明に対する態度を後悔しながらまだ割り切れない思いを引き摺っていた。

 何処か浮かぬ表情で席に戻った凜に、待っていた尼子が画面を指して声をかけた。

「これ、あの男じゃないですか?」

自転車で横切っていく。尼子が再生を繰り返した。

「ほら、小金井じゃないですかね。腹が出てるのが分ります。背格好が似てます。」

「たしかに似てるわ。」凜は時刻に目をやった。0:10と表示されている。

「十分後に引き返して来ています。このカメラの場所から被害者宅まで自転車なら二、三分でしょう。仮定の話ですが犯行に及ぶ時間は充分にあります。」

凜が無言でいると尼子が続けた。

「これから十分ほどして後を追うように中野が映っていますが、その意味というか行動がよく分りません。しかも徒歩です。…さっき気づいたんですが、カメラと被害現場の距離を実際に歩いてみて中野に犯行が時間的に可能かどうか調べてみたいです。」

凜が頷いた。

「良いアイデアだわ。…あとは鑑識ね。画像も少しどうにかして貰わないとね。」

「科研に依頼してもらいましょう。それから先輩が指摘された、車を傷つけた道具についての鑑識情報も調べたいです。ほかに現場に痕跡が残されていなかったか確認します。」

凜が微笑を尼子に向けて言った。

「そうね。着実に進めましょう。」

それから凜が表情をあらためて告げた。

「今後の捜査の大まかな方向を決めたいわ。…あとで意見を聞かせて。

 まず科研の映像で二名が中野、小金井と認められるか似ていると判断された時点でとりあえずこの二人を捜査対象に絞る。聴取して深夜の行動に合理的な説明がなかったら任意同行を視野に入れる。今のところ証拠が一つもないので、釈明を二転三転されて振り回されることになりそうだが地道に裏を取っていくしかない。現場もしっかり調べる。結局私たちの捜査努力がものをいうわ。

任意同行したら状況によって拘留と、家宅捜索の許可を請求する。鑑識情報と合致する器具が見つかれば器物損壊の証拠として差し押さえる。二名を同時に引っ張ることもありうるので応援を依頼しておく。

 取り調べで自供が得られれば、これまで不自然な態度の被害者を追及して自供内容の信用性を裏付けるものを掴む。尤も自供がない場合でも被害者渋谷の聴取はあらためて行う。渋谷が事件の発端を知っていると思われるからだ。以上がおおまかな方針だ。とにかくしっかり足で稼いで、捜査が立ち往生してしまわないように。」

「了解しました。」と尼子が答えた。

「ただ、画像については中野がすでに自分だと認めていますが…。」

遠慮がちに指摘すると凜が首を振った。

「たしかにそうだけど、ひっくり返されてしまえばそれまでだわ。最後は証拠があるかないかに尽きる。」

 鑑識係によると防犯カメラの映像の解析に約一時間かかるという。それまで待つしかない。車に残されたキズ跡を調べたいと伝えると鑑識員が写真を大量に運んで来て広い机に並べた。車体の色が濃紺と赤。どちらにも線状のキズが白く写っている。ほかにゲソ痕の写真があった。

「ゲソ痕があったの?」凜が眼を見張った。

鑑識員が口を開いた。

「駐車場の地面に一つだけ認められました。種類とサイズから被害者の履物と思われたのですが、底のパターンの減り具合からそうではない可能性もあります。この履物はつま先と甲の通気孔以外が覆われたサンダルタイプでベルトを踵側に回すと靴になるヤツです。」

そう言って靴底の模様が見える写真を指差した。

「ここにメーカー名とサイズ、そして少し判りにくいですが小さくmade ㏌ Mexicoとあります。被害者が持っているものと全く同じです。」

鑑識員が顔を上げた。

「今の季節この履物でそれなりの距離を歩くのは寒さがこたえると思いますし、メキシコ製も珍しい。駐車場の隣に住む被害者のものだろうというのが自然です。しかし気になることが…。

被害に遭った二台の車の間隔を計ると一メートル八十センチでした。そしてゲソ痕はこの間隔の中にありました。赤い車側の後部ドアに近く、つま先がその車体に向けられています。そして被害の状況ですが、赤い車が左側つまり助手席側、黒っぽい車が運転席側を傷つけられています。

つまり犯人は二台の車に挟まれた地面を移動しながら左右のボディに傷をつけたのではないかと思われます。ゲソ痕が加害者のものと仮定すると残されていた位置が腑に落ちます。」

尼子が不満を口にした。

「被害者の履物であるかどうか、もう少しハッキリしないのかな。」

鑑識員は僅かに首を捻った。

「正直に言って難しいところです。被害者に履物を提出してもらい調べましたが、ゲソ痕の方が僅かに底の減りが大きい印象ですね。これが逆なら判りやすかったんですが。」

「逆とは?」

「被害者の履物の方が底の摩耗が大きければすぐにゲソ痕が被害者のものではないと断定できます。」

鑑識員は刑事たちの顔を交互に見て言った。「もし容疑者が現れて、同じような履物を持っていたら、それが犯行現場のゲソ痕と同じかどうかハッキリと白黒つけることは出来ます。」

「心強い言葉だわ。」凜が口を開いた。「それからキズなんだけど、道具というか使われたものが分るかしら。」

鑑識員がまた写真を選んで刑事たちの前に並べた。白く写ったキズのあちこちに矢印でイ、ロ、ハと文字が振られている。

「結論的に言えばマイナスのドライバーのような工具が使われた可能性が高いと思えます。イが最大幅で十ミリ、ロが最小幅一・二ミリ、ハがその中間になります。これが工具の幅と厚みを示しているのでしょう。ハは角度の違いですね。またこのキズ跡が二台の車に共通していることから使用されたのは同じ一つの工具と考えられます。」

「分ったわ。」凜が相槌を打った直後に、鑑識係の白い壁に掛けられた小さなスピーカーが鳴った。

「緊急通報、百十番入電。管内神明二丁目で刃物による傷害事件発生。犯人は現場から逃走。使用した刃物を所持していると思われる。」

刑事が顔を見合わせた。神明二丁目は器物損壊事件と同じ町内だ。鑑識員が急いで写真をまとめて言った。

「これは鑑識で保管してありますから必要な時はいつでも声を掛けてください。これから神明の方へ臨場します。」

 刑事課でも慌ただしい動きになった。黒田が捜査員を集めて告げた。

「刃物による強行事件だ。地域課によると被害者の氏名はシブヤイチロウ。自宅玄関先で襲われ、傷を負って救急車で運ばれたが命に別状はないようだ。通報は被害者の妻。しかし彼女は犯人を見ていない。だから犯人の人相、着衣の特徴は不明。事件の経緯なども分かっていない。地域課が付近に緊急配備を敷き警戒に当たっている状況だ。一係も至急現場に向かう。」

黒田は捜査員を見渡して言った。

「朝倉班、現場付近で目撃者を探せ。土曜日の午後だ。誰かが犯人を見た可能性が高い。加藤さん、被害者が搬送された病院に向かってください。被害者は当然犯人と面識があるだろうと考えられる。面会を待って事情を聴取してください。」

「黒田さん。」凜が声を上げた。「神明二丁目のシブヤイチロウ、現在捜査中の器物損壊事件の被害当事者と氏名が同じです。」

黒田が目を剥いた。

「今回の事件と関係している可能性があるということか…。その事件で誰か浮かんでいるのか。」

「まだはっきりとは言えませんが、疑う理由のある人物を特定しています。」

「よし、朝倉班は直接そちらを当たってくれ。」

「警部殿。」今度は加藤が口を開いた。

「自分は一人ですか。」

加藤の相棒、武田は入院している。

「藤原と組んでくれ。俺は現場に行く。」

刑事たちが一斉に動き出した。

                  (つづく)


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