第14話
「女刑事物語(14)」 Ⅽ.アイザック
凜は警察病院を受診した。板垣の命令だった。診察を待つあいだ何気なく眺めていたテレビが臨時ニュースを伝えた。マイクを持ったリポーターが見慣れた署の玄関口に立っている。凜は画面を注目した。
「少女誘拐事件の犯人とおぼしき男の身柄が拘束されました。これから捜査本部の置かれた港中央署で会見が行われようとしています。」
すぐに会議室の内部が映し出された。伊達管理官、榎本捜査一課長、板垣署長、北条課長が並んで席に着いていた。報道関係者のフラッシュがまばゆく光る。
伊達が口を開いた。
「本日午後、小学生誘拐殺人事件の容疑者を傷害並びに公務執行妨害の現行犯で逮捕、誘拐殺人についても調べを進めている。すでに本人は遺棄の一部を自供、今後容疑が固まり次第一連の犯行容疑で逮捕する方針です。
容疑者は世田谷区に居住する鈴木竜二、二十七歳。自称リサイクル業自営。本年一月九日、品田区稲荷町一丁目において小学三年生の女児を誘拐、その後遺体を公園に遺棄した疑いが持たれている。」
凜は画面の警察官たちを見つめた。容疑者の身柄を押さえたにもかかわらず誰も安堵したようすがない。…数時間後にDNA型鑑定の結果が出る。それが勝負というわけね。
「朝倉様、診察室にお入りください。」看護師の声がした。精密検査の結果が分ったようだ。
診断は軽い脳挫傷。凜とさほど歳の変わらない若い医師がそれを伝えた。
「直撃損傷で脳がダメージを受けています。しかし小範囲で済んでいます。頭皮に外傷がありますが、骨折、脳内出血はありません。腹部の打撲症については痛みが出るようだと検査が必要になるかもしれません。今のところ皮下のうっ血がありますがそう心配することはないでしょう。脳挫傷の治療は二週間ほどの入院でいいと思います。」
それから医師は凜をまじまじと見つめて言った。
「幸運でした。スパナレンチが大きいものだったら、…大変でした。」
「どんな治療を受けるんでしょうか。」
「安静による保存的治療が中心ですが、あまり軽く考えてもいけませんよ。しっかり治さないと後で運動障害や視力の障害、失語などの後遺症が出ることがあります。」
「良く分りました。入院についてですが…。」と凜が唐突に切り出した。「自宅近くの病院に入院したいのですけど。小さな子がいるものですから。」
警察病院は二十以上の診療科目を網羅し、医療設備も整った大病院だったが凜の自宅から遠かったのだ。
そこは一部が三階建ての小さな病院だった。自宅から僅か二百メートルの距離だ。凜をあらためて診察した初老の院長が警察病院から送られたCT画像を見て頷いてみせた。駆けつけた香織が心配そうに見つめるなか、院長はごく簡単に「では二週間の入院ということで…。」と告げて凜の頭へ目をやった。ネット状の包帯が被さっていた。警察病院の処置だった。
「治療には何も心配いらないですよ。」院長は患者を安心させようと温かみのある声で二人に伝えた。
事務職員が入院に関する様々な書類を示して説明する間、香織は凜と目を合わせようとしなかった。
「ごめんね、お母さん。」
凜が声を掛けても返事がない。
「それでは必要なものを持ってきます。」香織はそう事務員に告げて席を立った。
「私も一緒に…。」凜が口を開くと香織が突き放すように言った。
「お前は来なくていい。」
その口調に凜は内心では驚いたが黙って母を見つめた。
待合室に一人ポツンと残されていると中年の太った看護師が病室の準備ができたと報せた。案内されたのは二階の個室だった。ベッドと枕もとの机、縦長の衣類棚は標準的だが、他にソファーセットが置かれている。凜は眼を丸くして看護師に尋ねた。
「ここは母が申し込んだのですか。」
看護師は満面に笑みを浮かべて言った。
「院長先生のご指示です。紹介状をいただいた先生と懇意にされているのかもしれません。」それから片目をつむって「よくあることなんですよ。」と付け加えた。つまり個室料金はかからないという意味だった。
「そうですか…。」凜は恐縮したが、病院の入院患者の数が少ないのを後で知った。個室の提供は病院にとって負担ではなかったのだろうと推察されたが、有難いことに変わりなかった。
板垣が病室に姿を見せたのはあたりが暗くなろうとしたころだった。ソファーに腰を下ろした凜に声をかけた。
「怪我はどうだ。」
「平気。」凜は簡潔に答えた。
板垣は心からほっとしたようだったが、すぐに説教が始まった。
「まったく、なぜおまえはそんなに無鉄砲なんだ。もっと慎重さというか、冷静な判断を心掛けろ。…俺は香織さんに合わせる顔が無いじゃないか。はっきり言えばだ…。」
「あっ!」と凜が小さく叫んだ。苦し気に眉をひそめて首をうなだれた。
板垣は驚いた。「どうした! 大丈夫か。」
「おいちゃんの声が頭に響いて、痛い…。」
「えっ。」
板垣は慌てて凜を覗き込んだ。「痛むのか…。」
だがすぐに疑わしそうな目になった。凜の様子を気遣いながらも「本当か?」と口にした。
「ひどい…。」凜がか細く呟いた。
「あ、悪い。そういう意味じゃないんだ。」板垣はさらに慌てた。
「ベッドに横になったほうが良い。」
凜はそばに置かれた病院のパジャマに目をやることもなく、ため息をついてぼんやりしている。
板垣が怪訝そうに「どうしたんだ。早くしたほうが…。」と声をかけた。
凜が恨めしそうに板垣を見た。
「おいちゃんがいたら着替えられないわ。」
「おおっ、これは済まなかった。済まん、済まん。」
板垣が急ぎ足で病室を出るのを見送って凜が悪戯っぽい表情を浮かべた。両手で口を押えて笑いをこらえている。
病室を出た板垣は荷物を抱えた香織と出くわした。
「香織さん…。」思わず声をあげて、深く頭を下げた。
「申し訳ない。このとおりだ。」
「…なにも板垣さんが頭をお下げになることはありませんよ。全部あの子のしたことでしょうから。」
香織の声は冷ややかだ。そしてどこか棘のある言葉が凜の耳に届いた。
「あの子が小さかった、警察官ごっこの時から覚悟はしてましたよ。」その遊び相手は板垣だったのだ。
母が言い過ぎだと凜は感じた。板垣が可哀そうになってドアから顔をのぞかせた。
「おいちゃん、来てくれて有難う。」
「お、おう。大事にな…。」板垣はいたわりを込めて口にした。
その板垣が去った後も香織の冷ややかな雰囲気は変わらない。洗面道具を少し乱暴な手つきで大きな手提げ袋から取り出した。
「美風は?」凜が問いかけた。
微妙な間を置いて香織が答えた。
「もう遅いから…。すごく寒いし。」それからまた、たっぷり間をあけて「明日、連れてくるよ。」と小声で告げた。
それには何も触れずに凜が「お母さん、ごめんね。心配をかけて。」とあらためて口にした。
香織はこの日初めて娘の顔を見たかもしれない。何も語らないがその眼が悲しそうに潤んでいるのが分った。凜は不意に胸が痛むのを覚えた。
「私は大丈夫だから。絶対、大丈夫だからね。」力を込めて言った。
長かった凜の一日が終わろうとしていた。出された夕食の味噌汁だけを口にしてベッドに入ると、張り詰めていたものが切れたのかすぐに眠りに落ちた。明かりもテレビもつけたままだった。やがてテレビ画面に「警視庁が鈴木容疑者を少女誘拐殺人、遺棄の疑いで逮捕」の文字が流れた。
看護師が病室を覗き込んだ。凜のベッドに近寄って「時間ですから、消しますよ…。」と囁いた。凜はピクリとも動かない。
明かりが消えた部屋に、やがて凜の小さな声が聞こえた。
「美風…。」
夢を見たようだった。
捜査から解放されて熟睡したせいか目覚めは爽快だった。凜は大きく伸びをして、病室の二階の窓からあたりの景色を眺めた。すぐ隣に小さな寺があって視界が開けている。緑の葉を茂らせた樹木の手前に落葉木が細い枝先をあらわにして北風に慄えていた。外の寒さを感じて凜は思わず自分の肩を抱いた。だが室内はエアコンが利いている。窓辺とソファーを何度か往復した。何もすることがなかった。体温や血圧をチェックして、傷のガーゼ交換が済むといよいよ暇を持て余した。
看護師の詰め所と待合室に「面会は午後二時から午後七時まで」と書かれていたのを目にしていた。美風が来るのは何時頃になるだろうとぼんやり考えた。延長保育を申し込んではいない。早ければ午後二時には帰宅する。ちょうど面会時間と合うタイミングだ。凜はそわそわと病室を歩き回り、まだ時間がたっぷりあることに気づいてソファーに腰を下ろした。
何気なくテレビを点けて画面に見入った時だった、突然キリキリと頭が痛んだ。外傷ではなく頭の内側に経験したことのない痛みを感じた。
…治療に専念しなければ後遺症もありうる。
警察病院の若い医師の言葉を思い返して凜はベッドに横たわった。神妙な表情で毛布を首元までかぶった。
ドアがノックされ、返事も待たずに武田が顔をのぞかせた。
「入っていいですか。」
「もう、ほぼ入ってるし。」凜が指摘した。
武田の後ろから女性の若やいだ声がした。「失礼します…。」
交通課のみどりだった。
「あら、いらっしゃい。」凜は驚いた。
武田は病室がソファーのついた個室であることを知って目を丸くした。
「ここは署で手配したのかな…。」
「違うよ。」
「だろうな…。」
それからやっと口早に説明した。
「彼女が見舞いに行きたいというので一緒に来たんだ。」
「そう、有難う。」
凜はみどりに軽く頭を下げてそれ以上語らなかったが武田の話は凜にとって何の説明にもなっていなかった。交通課のみどりがなぜ凜の受傷を知ったのか。それよりも二人の仲がいつの間にか相当に進展したらしいことを思いがけない形で見せられた気がした。凜はそのあたりのいきさつを知りたくてウズウズしたが、さすがにみどりの面前でそれを口にするのははばかれた。その他にも武田に聞きたいことがあったが刑事以外に聞かせる内容ではなかった。結果、奇妙な沈黙が部屋に生まれた。
何かを察したのか、みどりは持参した花のアレンジメントをテーブルに置くと「お飲み物を持ってきます。」と誰へともなく告げた。
「俺はコーヒーが良い。」と武田。
「お凜さんは?」みどりが尋ねた。
「私もコーヒー。あったら無糖ね…。」
「分りました。ホットでいいですね。」
みどりが去るのを待って凜が口を開いた。
「捜査はどうなってる?」
「あの男と遺留のDNA型が一致した。決定的な証拠を前に男も観念しただろう。…取り調べと裏付けを蒲生さんがやっている。」
「蒲生さんが? 逮捕はウチなのにね。」
武田がニヤリとした。
「犯人の鈴木は不審者の線から藤原さんが追っていたわけだから、今回本庁に出番はなかったな。」
凜がつられて表情を緩めたがすぐ真顔になった。
「私のことは…、何か聞いてない?」
「何かとは。」
「私は査問の対象になると思うわ。」
「あの頭突きのことか? 問題にならないだろう。」
「だけど、公判の過程ではどうかしら。弁護士が知ったら…。」
武田が首を振った。
「考えすぎさ。犯人の挑発に乗ってしまったのは確かだがヤツはすでに確保されていた。逮捕後の私的な行動に過ぎない。捜査には関係ないしどう転んでも裁判には全く響かない。」
「ああ…。」と凜が吐息をついた。「私の悪いところだわ。かあっとなるとつい…。健太のように冷静でいられたらいいのに。」
うなだれた凜だったが、次の瞬間に調子はずれな声を上げた。
「健太。みどりちゃんとどうなってるの。」
「えっ。」
武田は顔を赤らめて言った。
「実は親に会わせようと思ってさ。」
凜が表情を輝かせた。
「健太! そうか、決心したのね。」
「もう少し先の事と考えていたんだけど、去年就職した弟が秋になって家を出たら、おふくろの関心が一気に俺に向いたようで結婚の話ばかりさ。誰かいるはずだから連れてきなさいと攻められて参ったよ。」
「歳を考えれば当然だな。」凜が納得顔で頷いた後、上目遣いで武田を見た。
「でも気づかなかったな。みどりちゃんとの仲がそんなになっていたなんて。いつの間にって感じ…。」
武田が面映ゆそうに目を逸らせたときにみどりが戻った。缶コーヒーを抱えたみどりの明るく輝く顔を凜は微笑ましい気持ちで眺めた。
武田たちが去ってほどなく、待ちわびた美風が姿を見せた。
「美風!」思わず呼びかけたが娘は香織の上着の裾を握りしめて動かない。病室に入ったばかりの所から心細そうにベッドに体を起こした凜を見つめている。凜は胸を突かれた。美風にはほぼ一週間、顔を見せていなかったのだ。
「美風、こっちへいらっしゃい。」凜は意識して優しい笑顔を作った。
美風の目に喜びと不安が交錯している。ハッと気づいて頭に被さっているネット状の包帯をむしり取った。額の髪を指で整えた。
「美風。」
ベッドに腰かけてすぐ側を手で叩くと美風が駆け寄った。よじ登ろうとするのを抱き上げた。
「ママ…。」美風が息を吐きながら声を上げた。
香織が楽しそうに二人の様子を眺めていたが「おやおや、美風はお靴のままかね…。」と口にした。
「凜、ソファーにおいで。そこは窮屈だよ。」
ベッドには転落を防止するサイドガードが付けられていて、それが途切れた狭いスペースに凜と美風が座っていたのだ。
母子がソファーに移り、小さなテーブルを挟んで三人だけの家族が顔を揃えた。穏やかな空気が彼女たちを温かく包んだ。
「ママ、ケガをしたの?」美風が凜を仰ぎ見て尋ねた。
「うん、ちょっとだけ。」
凜はそう答えて美風の柔らかい頬を指先で軽く突いて言った。
「ちょっとだけ。このくらい。」
「ふふふ…。」美風が笑った。
このとき思いがけず北条が見舞いに訪れた。果物籠を手にしていた。凜が互いを紹介して挨拶が交わされた後、香織に「美風をお願い。」と頼んだ。
香織が心得た様子で「看護婦さんにご挨拶に行こう。」と美風の手を引いた。
北条が恐縮して香織に何度も頭を下げたが美風は不機嫌そうだ。上目遣いで北条を見上げニコリともせずに側を通り過ぎた。
北条はあらためて凜に向かうと「怪我のほうは大丈夫ですか。」と問いかけた。
「たいしたことじゃなかったんだけど署長が…。仕方なく入院したのよ。」
凜が軽い調子で答えると、北条が突然頭を下げた。
「この度は申し訳ありませんでした。」
「えっ?」凜は目を丸くした。
北条が言った。
「武田刑事と話しました。そこから、あなたの受傷事故に我々管理側も責任の一端があると考えさせられました。我々は肩に力が入り過ぎて捜査の進捗ばかり求めたきらいがあります。もっと捜査員の指摘や意見、報告を吸い上げる、風通しの良い態勢を心掛けるべきでした。」
凜は慌てた。
「とんでもない、責任は全部私にあるわ。確かに蒲生さんとは意見が合わなかったけど、それは北条課長と伊達管理官には関係なかったわ。」
「とりもなおさず我々に配慮が不足していたわけです。勉強になりました。」
凜がため息をついた。
「私がもっとしつこく意見をアピールすればよかったのよ。」
「…そうですね。いつものあなたらしくなかった。」
「えっ。」
「すみません、つい…。」北条が口もとを歪めた。
「もうっ。」
凜がつられて微笑んだが、すぐに真顔になって言った。
「私の捜査は監察の対象になるかもしれないわ。」
許可なく敷地と建物内に立ち入ったこと、単身で行動したことを指していた。凜は犯罪が現に進行している疑いがあると判断したわけで抗弁に自信がないわけではなかったが、妥当かどうか見方が分かれるところだ。
「責任は管理者側にある、それが私と伊達管理官の共通の認識です。あまり心配しないでください。」
北条の言葉はそれなりに有難いものであったが、凜は北条と伊達に捜査の内容を報告していないし許可を求めてもいなかった。北条の責任論は結局宙に浮いてしまうだろうと思えた。
凜は穏やかな声で言った。
「心配しないで、自分のけじめは自分でつけるわ。」。
それからためらいがちに続けた。「犯人に暴行を加えちゃったし…。」
北条は少し首を傾けた。凜の頭突きを知らないようだった。
「あの情況では何があってもおかしくないでしょう。あなたは非常に危険な暴行を受け傷害を負いながら犯人逮捕に尽力した、これが明らかな事実です。」
凜は口をつぐんだ。細やかに説明すれば北条に何らかの対処を強いることになる。それは申し訳ないと思った。…必要になれば自分で責任を取る。凜の心は一貫していた。
翌日、凜は信じられない歓喜と驚きに直面した。明が現れたのだ。咄嗟に口もきけない凜に代わって、居合わせた美風が「アキラっ」と嬉しそうに叫んだ。その行儀の悪さをたしなめなければと頭の片隅で思いながら凜はただ茫然と口を開けていた。すぐに樋口がバラの花束を抱えて続いた。
「どうして?」凜がようやく声に出した。
「板垣さんに教えてもらいました。怪我のほうは幸いに軽いと聞きましたが…。」
凜は信じられない思いで明を見つめた。警察は公表する必要のない情報は明かさない。捜査員の受傷は伝えてもその氏名などは伏せるのが普通だ。それを署長が告げたという。
…もしかすると、明は板垣の操縦法を会得したのかもしれない、と凜は考えた。それはどこか愉快な想像だった。
実際は明が板垣に娘のユリの件で謝意を伝えたとき、凜の人柄に「私は惚れこみました。」と加えたのが板垣の気に入ったようだ。「今後も交流を続けましょう。」と明が意外に感じるほど親しみをみせるようになっていた。
美風と並んでソファーにいた香織が立った。明が頭を下げたのへ曖昧に応えて無言で病室を出ていく。明は表情を変えなかったが凜は眉を曇らせた。母がなぜか明に警戒心を抱いて打ち解けようとしない。私の気持ちを考えてくれないのかしら、と凜は不満だった。
樋口が持参した花器にバラを活けて洗面所から戻った。数種の品種と色が咲き競うさまは一気に華麗な雰囲気で室内を満たした。
短い時間で明がいとまを告げた。凜は不満だった。もっと話がしたかった。
「忙しいのね…。」
「今日はこれで失礼しますがまた伺います。お大事にしてください。」
明はエレベーターの前で振り向いた。
「ここで…。玄関のあたりは寒いですから。」そして美風に声をかけた。「美風ちゃん、またね。」
美風は凜のカーディガンの裾を握りしめたまま明を見上げて頷いた。
明が一階に降りると玄関の外に香織が立っているのが見えた。何か用件があって明を待っているのではないかと考えられた。香織は思いつめた表情を浮かべている。自動ドアが開くと冷たい風が体を叩いた。
「車でお待ちします。」樋口が小声で告げ、香織と目礼を交わして去った。
「鮎川さん…。」香織が呼びかけた。北風に吹き乱された髪をそのままで明に近づいた。
「鮎川さんはあの子のことをどう思っているんですか?」
詰問に聞こえた。明は戸惑った。
「私の気持ちをお尋ねですか…。」
言葉を遮って香織が言った。
「あの子と、凜と結婚する気があるんですか。正直に、はっきり言ってください。」語尾が震えた。
香織の必死な面持ちに明は姿勢を正した。誤解を与えたり不信を招いてはならない、そう咄嗟に考えた。
「私は真剣です。」明が力を込めて言った。「凜さんが許せば結婚する決心をしています。」
「ああ…。」
香織が泣き出しそうな顔をした。
「…お願いします。あの子と一緒になってやってください。そして一刻も早く警察を辞めさせてください。でないとあの子はきっと…。鮎川さん、お願いします。」それは哀願といってもよかった。
明は突然の香織の言動にどこか違和感を抱いていた。彼女は娘の結婚より退職の方を強く望んでいるのではないか。警察を退職させる、そのために結婚の話を持ち出しているような印象を受けた。この疑問を隠して明はきっぱりと口にした。
「私は凜さんと結婚するつもりです。」
「お願いします。」と香織が頭を下げた。
明はいつの間にか香織に対して以前よりずっと良い立場になっているように感じて少し嬉しかったが、同時に自身の迂遠さに気づかざるを得なかった。
…まだ凜に向かって一度も結婚について語っていないのだ。恋愛感情を告げたことはあった。結婚についても仄めかした。だが、まだ申し込んではいない。
明は父を失い、妻と娘と別れてから一人で生きてきた。経済的にも成功した。誰からも束縛されず、行動を妨げる存在を許さなかった。自身の望みを口にするのにもためらいはなかった。
私がはっきりしなければ、と明は思った。凜との距離が縮まらないのが刑事という不規則な時間に縛られる彼女の職業のせいだと考えていたが原因は自身にあったのかもしれない。そう省みた。
…結婚を申し込む。そう決心すると明は気分が高揚するのを感じた。凜はきっとあの美しい笑顔を見せて承諾してくれるに違いない。
この時、明の携帯電話が鳴った。グループ内数社の監査役を務めている人物からだ。第一建設と第一ビル管理の経理実態などを調べるよう明が依頼していた。
(つづく)
「女刑事物語 (14-2)」 Ⅽ.アイザック
明は監査役の報告を聞いた。グループ内の第一建設には財務部門があるが、保有する株式の売買に疑惑があるという。同一銘柄の株式を安く売却して高く買い戻す動きが繰り返されていた。その管理と運用は経理を離れて社長の水野に任されているが、この不自然な株取引で損失が生じ、会社の営業利益の大半を食いつぶしていた。
監査役が体を乗り出した。「もしかするとこの取引は見せかけのもので、差損が裏金となっているか誰かの個人的な利益になっているのかもしれません。」
その個人というのが社長の水野を指していると思えた。
「それだけではありません。グループ内の数社と互いに融通手形を交わしています。受け取った手形は現金化する反面、振り出した手形は期日を伸ばした新たなものと差し替えています。相手の経理課員に何らかの利益を与えて抱き込んでいるのでしょう。」
明が小さく唸った。
「会長、早急に手を打つ必要があると思われます。背任の疑いがありますし、融通手形を立て続けに振り出しているのは見逃せません。」
明が短い沈黙の後「第一ビル管理の方はどうですか。」と尋ねた。
「こちらも同じように手形を操作しています。」
第一ビル管理はエース開発が所有するビルと分譲済みのマンション管理を行っている。本来、手形を振り出す必要も資金繰りの必要もなかった。
「分った。水野と酒井にはけじめをつけさせる。だからこの件は今しばらく伏せておきたい。協力してください。」
監査役が腑に落ちない顔をした。明が言い添えた。
「ご迷惑をお掛けしますが、あの二人を社長にしたのは私です。私の気の済むようにしたい。」
やがて午後二時になろうかという時分に明が凜の病室を訪れた。樋口の姿はない。明は一人だった。凜はそのことを意外に感じたが喜んで明を迎えた。病院のパジャマの上に淡いブルーのカーディガンを着てソファーに向かい合った。凜はパジャマを気恥ずかしく思いながら「何度も来てくれなくても良いのに…。」と明るい笑顔をみせた。
明が意を決した面持ちで口を開いた。
「凜さん、私はあなたが好きです。もうあなたはお分かりだと思いますが…。」
明としてはかなり照れ臭い言葉を口にしたのだったが、凜は笑顔に不思議そうな表情を交えて明を見まもっている。明は気づいた。それはこれまでにいつしか互いに認めてきたことに他ならなかった。明は己を叱咤する思いで告げた。
「結婚してください。私はあなたを妻にしたい。」年甲斐もなく口の中が乾いていた。
凜は大きな眼を見開くと明を見つめて叫んだ。
「私と結婚したいと言ったの? ほんとに?」
「そうです。私はあなたを…あなたと共に暮らしたい。」
凜の顔が興奮で真っ赤になった。
「ああ…突然だわ。ほんとに、私で良いの?」
明が席を立って凜に近づいた。見上げる凜の手を取るとその美しいい顔を見つめて言った。
「承知してもらえますよね。」
凜が静かに立ち上がった。
「はい。」と囁いた。
明が間近に顔を寄せた。唇に視線が向けられているのに気づいて凜は思わず目を閉じた。明が唇を重ねる。凜は小さく口を開けてそれを受けた。
…なんて素敵なの。心でつぶやいた凜の体から力が抜けてしまった。
二人がソファーに腰を落とした後もキスは続いた。やがて凜が顔をそむけて苦しそうに吐息を漏らした。
明が熱っぽい口調で言った。
「私たちの結婚を皆に知らせて祝ってもらいましょう。式は四月ころでどうですか。けれど婚姻届けはすぐにでも、できれば凜さんの退院と同時に済ませたい。早くしないとあなたの気が変わっては大変だ。」
「私はそんなことしないわ。」
凜は明らしくない冗談に付き合って小さく笑った。
「警察のほうもなるべく早めに退職してください。」
この言葉に一瞬驚きの眼を向けてすぐに顔を伏せた。「警察を…辞め
ないといけないの?」
「あなたは働く必要がありません。お母さんのことも私に任せてください。」
「必要がない…?」
凜が立ち上がった。窓へ一、二歩進んで振り向いた。口が動いたが言葉が出ない。ようやく絞り出すように声を上げた。
「あの、あまり突然で…。私、よくわからないわ。」
「どうしました?」明が驚いて尋ねた。「あなたの気に障るようなことを言いましたか。」
「いいえ違うんです。私はとても嬉しくて、これまでにないほど幸せな気持ちです。でも…。」
明が訝った。
「もしかして、警察を退職する決心がつかないということですか。」
そうかもしれない、と凜は思った。だが弱々しく否定した。
「そうじゃない…と思います。そうじゃなくて、何か…いろいろ考えなくては。突然だから…。」
凜は自分が何を喋っているか良く分らなかった。それほど胸の内が波立っていたのだ。
明との結婚、それは考えるまでもなく凜が心の底から望んでいたことだった。明と同じ場所でともに時間を過ごす。いつもその顔を眺め声を耳にする。なんと幸せなことだろう。…だが明の一言が胸に刺さった。凜の退職に触れたとき「働く必要がない。」と口にしたのだ。
…明さんは私が生活費を稼ぐために警察官になったと思っているのかしら、凜はそう疑った。懸命に務めてきた警察官の生活、仕事、ひいてはこれまでの凜の人生までがあっさりと否定されたように感じていた。自分は理解されていない。もしそうなら結婚はまた失敗に終わるかもしれない。
…考えすぎ、ともう一人の凜が指摘したが頑固な凜が「私、よく考えてみたいのです。」と口に出して繰り返した。
凜の瞳に悲しげな光が宿っているのに気づいた明は、そのことを意外に感じながらも今日はもう何も言うまいと決めた。彼女が迷っているのなら板垣署長の力を借りよう。きっとうまくいく、と考えた。
一人になって凜の心は同じような場所を行ったり来たりした。明が好きなのだ。その明が求めるならば退職もやむを得ないだろうと思えた。だが警察官の仕事は覚悟と決意をもって続けてきた。結婚するから辞める、それがすぐには納得できない。嬉々として警察を退職する自分の姿をまったく想像できなかった。一方で明を失いたくはない。溜息をついた。
凜は電話を手にした。束の間迷ったあと明を呼び出した。
「私は今、死んでもかまわないほど幸せです。ほんとよ。」…いったい何を口走っているのかと自問した。だが言葉は止まらない。「でも、警察を辞めることについては少し結論を待ってもらえないかしら。退院してからある人に相談したいの。それまで…、我儘だけど。」
「あなたは思うようにされたら良い。私に異論はありません。」
明が穏やかに答えた。
「明さん…。」その優しい響きに凜は思わず涙ぐんだ。
実を言うと相談相手がいるわけではなかった。板垣に話しても「結婚、そうか良かった。すぐ退職しろ。」と言われるのが目に見えていた。さらに万歳三唱までされかねなかった。漠然と北条の存在を頭に浮かべていたが、この相談は彼にとって困惑を生むだけだと推察された。結局、凜は退職を受け入れる時間的な余裕が欲しかったのだ。
警察官として懸命に務めてきた。それは凜自身が口にする社会正義のためというより、幼くして父親を失ったことに対する寂しさと身近に見続けた母の悲しみが育てた心の奥底の怒りが原動力だった。犯罪が憎かった。もっと正直に言えば犯罪者が憎かった。そして犯罪の被害者の家族が陥る境遇、その後の人生に影を落として消えない不条理に憤りを覚えた。それが刑事を目指した理由だ。その強い思いが過去に結婚後も仕事を続けさせた。というよりそれが叶わなければそもそも結婚しなかっただろう。しかし当時と心境は違う。凜は恋をしたのだ。
凜がふと考えこんだ。それはいつのまにか結婚を前提としていた。母はともかく、美風にどう説明したら良いのかと思ったのだ。「新しいお父さん」…のフレーズが浮かぶ。再婚に触れるテレビドラマなどでよく耳にするではないか。だがその言葉は同時に「前のお父さん、本当のお父さん」の存在を示すことになる。凜は美風の父親について娘には何も語らずに来た。図らずもそのツケが回ってこようとしている。凜はまた溜息をついた。
離婚の直接的な原因は夫が経営していた町工場の倒産によるものだった。美風を出産し休職していた凜に夫がそのことを突然に告げた。大口の受注を失い、苦しく長い経営努力も空しくやがて資金繰りが出来なくなったのだ。さらに夫は離婚を切り出した。
「形の上だけだ。お前まで債権者に責められては美風を安心して育てられないだろう。」と夫は言った。
凜は釈然としないながらもその言葉に押し切られ離婚届けに判を押した。
その後、夫は金策に奔走したがやがて住居と工場が差し押さえられ、自己破産に追い込まれてしまった。残念な結果だったがそれなりの決着をみたと思われたころ、凜もよく知る夫の旧友が実家を訪ねた。夫に多額の金を貸したが連絡が取れないと訴えた。差し出された借用書を見ると日付は夫が自己破産を申し立てた時期と重なっていた。いきさつを尋ねるとその友人は夫の工場が差し押さえられたことも自己破産についても何ら知らされていなかった。借用書を持つ凜の手が震えた。詐欺が疑われた。凜は香織に懇願してこの借金を済ませた。祖父が残した貯蓄をほとんど全て使ってしまった。この前後に夫は凜の前から完全に姿を消した。
凜は辛抱強く夫の連絡を待った。友人への借金は解決したと伝えたかった。だが空しく月日だけが過ぎた。
凜は復職した。生活安全課にわずか二か月いて刑事課に戻った。当時の署長はセクハラ事件の処理で凜だけ訓告処分にしたことがあって負い目を感じていたのか異動はすぐに実現した。家庭では香織が喜んで美風の世話を引き受けてくれた。
離婚から二年が過ぎて前夫の本籍が愛知県内の中核市に移された。
さらに年上の女の入籍と男子の出生届けが同時になされていた。それを知った瞬間、凜は娘と共に捨てられてしまったのだと感じた。怒るべきだったかもしれない。悲しむべきだったろう。だが寂しさはあったがそれ以上に夫の行為に呆れてしまったのが正直なところだった。凜は思い知った。夫を愛していたわけではなかった。小さいころから顔なじみで親しみを抱いていた。しかし愛していたわけではなかったのだ。夫に対する怒りも憎しみも恨みもなかった。責める気にもなれなかった。…きっとあの人をひどく傷つけたに違いない、悪かったのは私。それが凜の寂しい結論だった。
幸いに、と凜は気軽に考えることにした。美風は明が大好きな様子だ。きっとうまく伝えられるだろう。「美風にパパが出来たのよ!」という言葉が良い。娘が喜ぶ姿を単純に想像した。
退院の日を迎えた。凜は香織を待っていた。待合室のカレンダーは二月に替わっている。窓から見える冬空が鉛色に見えて、今にも雪が舞い始めるのではないかと思われた。凜は明があれ以来姿を見せないのが不満だった。だが退職に迷う凜の気持ちを気遣ってくれているのだと気持ちをなだめた。
明との結婚を考える度、凜は希望と不安、喜びと漠然とした怖れの相反する感情を胸騒ぎのように抱いた。恋する男と結婚する。彼は誠実な人柄だ。しかも富裕な成功者だ。
…私の身に起ころうとしていることは現実なの?
凜はいつか抗い難い雰囲気を持った人物が現れて「これはすべて錯覚で事実ではない。」と宣告されるような気がした。しかしすぐにそれを打ち消した。結婚を申し込まれて承諾した。事実以外の何物でもないと自分に言い聞かせた。
「エース開発が経営危機にあるということですか。」不意にテレビの声が凜の耳に届いた。
「このグループ会社の第一ビル管理というところが不渡りを出しまして、それに続いて第一建設という会社が不渡りを出してしまいました。」アナウンサーがパネルの前で説明した。「グループで次々と手形が決済できなくなるのではないかと心配されています。」
「つまりエース開発が倒産するかもしれないということですか。」司会者の言葉に凜は愕然とテレビを見つめた。
ワイドショー番組だ。「経済アナリスト」の札を前にした男が発言した。
「エース開発は中堅の不動産開発会社で、その急成長が業界の注目を集めてきました。経営者がまだ三十代と若く、大胆な投資と多角化が評価されていますが、一方で独断的なワンマン経営に陥っているとの指摘もありました。今回図らずも資金繰りの問題が表面化したのであれば、総資産一千億円とも伝えられるエース開発が一転、砂上の楼閣として崩れ去る恐れもあります。今回このニュースを取り上げたのは、不動産ファンドへの投資についてその選択に注意を…。」
凜はフラフラと立ち上がった。エース開発、不動産業。明の会社だと思った。
…明さんの会社が倒産する?
それは事実なのか。あるいは同じ名前の他の会社かもしれない。そうであって欲しい、という気持ちだった。
凜はすぐに明に電話した。たしかめたかった。だが明は出ない。事務的な女の声が聞こえた。「お掛けになった電話は…お出になりません。」凜は不安に包まれた。
少し待って再び電話を掛けた。やはり明は出ない。凜は胸騒ぎを覚えた。大事な、大切な人を失いかけているような気がした。
居ても立ってもいられなかった。退院の荷物をそのままに病院を飛び出すと、強風がまるで殴りつけるかのように凜を襲った。戸外の寒気が頬を叩き鼻孔を突き刺した。防寒着は母が持参する予定だった。凜は季節外れといえる薄着姿で真冬の街にさまよい出た。あてがあるわけでは無かった。ただ明の住まいが凜の実家からそう遠くないことが頭に浮かんだ。いつしか明の邸宅へ病院からの道筋の見当をつけて向かっていた。
冷たい風がふと止むと、暗い空から何か降ってくる。凜の口から小さな声が漏れた。
…ああ、雪だわ。
雪は音もなく凜の視界を舞い、どんどん激しさを増した。すぐにあたりが白い斑模様に包まれたように見えはじめる。この突然の強い雪は何か悲劇的な事柄を暗示しているのだろうか。工場の倒産をきっかけに姿を消した前の夫のように、明もいなくなってしまうかもしれない。その不安が凜の心の片隅に居座っていた。
小さな交差点で左右を見た。一方から男が雪にコートの襟を立てて歩いてくる。もしかして明ではないかと思った。背格好が似ている。凜は足を止めた。鼓動が激しくなる。なんという偶然か。明が俯き加減にやって来る。こころなしか悄然とした足取りに見えた。
「明さん。」
凜が呼びかけると明は驚きの表情を浮かべて近づいた。そして凜の軽装を知って素早く自身のコートを脱いで着せかけながら言った。
「いったいどうしたんです?」
凜は胸がいっぱいで口が利けなかった。雪が次々と舞い落ち、恋人たちのシルエットを覆った。そこに少しロマンティックな雰囲気がないでもなかったが、凜に情景を楽しむ余裕はさらになかった。
「テレビを…、テレビを見たわ。」ようやく声を絞り出した。
「テレビ?」
「明さんの会社が…エース開発が倒産するかもしれないって言ってた。」
「テレビで…。そうですか、うちの会社も有名になったもんだ。」
それが自嘲に聞こえた。
「第一建設というところが不渡りを出したのはホントなの?」
凜の問いに明は小さく頷いたが無言だった。
「心配しないで。」凜が必死な面持ちで言った。
「たとえあなたがどんなことになっても私がいることを忘れないで。」
明が何か言いかけたが凜は被せるように言葉を続けた。
「前の夫と別れたのも工場が倒産したのがきっかけだった。夫は私が工場の経営には無関係だから離婚したほうが良い、と言ったわ。形の上だけだ、とも。私は美風を守りたい一心で従ったけど、それは公正な態度じゃなかったわ。私は夫と一緒に債権者に頭を下げるべきだった。夫が私と美風の前から姿を消したとき、捨てられたと思った。でもそうじゃなかった。先に夫の手を離したのは私だったんだわ。
明さんはこれから債権者や多くの人に責められるわ。でも耐えて。私のために耐えて。すべてを失っても、お金がなくても私たちは幸せになれるわ。きっとなれる。私はあなたの手を決して離さないわ。だから明さん、私からいなくならないで。」
「凜!」
明がいきなり凜を抱きしめた。息ができない。訴えるように明を仰ぐとその唇を明が激しく吸った。
凜は体の力が抜けてしまいそうだった。顔をそむけて吐息を吐くと「なんて素敵なの…。」と囁いた。明を見上げた瞳がまるで夢を見ているような不思議な光を宿していた。
「凜、一緒に来て欲しい。君に知ってもらいたいことがある。」
明はそう言うと凜の手を取ってどんどん歩きはじめた。明が会社の倒産を告白するのだと凜は思った。けれどいったいどこへ連れていくつもりなのか。
「どこへ行くの?」
凜の問いに明が「私の家だ。」と答えた。
凜は驚いた。そこにはきっと大勢の債権者が目を怒らせて集まっているはずだ。
「待って…。」凜は喘いだ。「今でなければいけないの? もっと適当な時がある筈よ。」
「凜、君は誤解している。」
明は歩みを止めない。
「お願い、明さん。私はあなたが傷つくとこを見たくないの。」
凜の懇願をよそに明は力強く歩き続けた。
やがて背の高い鉄柵の門が見えた。凜の予想に反してあたりに人影は無く落ち着いた雰囲気に包まれている。明の鍵に反応して門が観音開きにゆっくり動いた。凜はなおもあたりを気にしている。ウメが小走りに現れた。
「お帰りなさいませ。樋口様がおみえです。」
それから凜に「ようこそお越しくださいました。」と笑顔をみせた。ウメの態度は平穏そのもので不安を感じさせる点は少しもなかった。ウメが建物に入りながら「大変な雪でございました。」と口にした。
「すぐに温かいお飲み物を用意いたします。」
ウメは凜が明のコートを身に着けているのに気づいてそう告げた。
エントランスホールに樋口の姿があった。凜に会釈した後、明に近づいて小さな声で言った。
「お電話がつながりませんでしたが…。」
「ジムに忘れてしまった。その後の状況は?」
「第一建設の水野様は会社を退出されました。金策かあるいは帰宅されたのかもしれません。債権者への説明と問い合わせの対応に経理部長が当たっています。」
「水野の裏金が底をついたか…。酒井のほうはどうだ。」
「酒井様とは一切連絡が取れません。どうやら逃げたようです。」
酒井は五十半ばを過ぎて独身だった。
「逃げたか…。」明が驚きをみせた。
「その程度の男でした。」樋口が極めつけるように言った。
凜がおぼつかない足取りで明のそばに寄り添った。明の腕を両手で掴んで樋口を見つめた。その眼に不安と緊張が満ちている。樋口は怪訝な表情を浮かべたが、遠慮がちに目を伏せて明の次の言葉を待った。しかし明は何も語らない。凜も無言だ。
樋口が口を開いた。
「社長のお二方の処置はさておき、荒療治でしたのでエース開発自体にも傷がつきました。これからどうなさいますか。」
明の腕を掴んだ凜の手に力が加わった。
明が言った。
「五億を用意する。それで二社の債務を解決しよう。」
樋口が意外そうに尋ねた。
「第一建設の振り出した未決済の手形は全部で額面が一億円。そのうち融通手形が一千万円。第一ビル管理は二千万円ほどですが。」
明が小さく頷いた
「手形を決済した残りはすべて第一建設が信託銀行に運用管理を任せる。その内容は社内で完全にオープンにする。つまり信用を担保する資金ということだ。この債務処理を債権者の方々に説明する場を設け、合わせて記者会見をするなどしてエース開発の経営に何の危惧もないことを広く知ってもらおう。」
「信用の回復が第一としますと早いほうが良いですね。まず会見を優先されてはいかがでしょうか。早速明日にでも行えるよう準備いたしますが…。」
「良いだろう、よろしく頼む。」明が満足そうに樋口に頷いた。
二人の会話に耳をそばだてていた凜が明を見上げた。
「いったい、どういうこと?」
明が微笑を浮かべて余裕たっぷりに答えた。
「何も心配はいらない。エース開発が経営危機というのはテレビ番組の勝手な憶測だ。事実じゃない。」
凜は呆然とした。凜の心を悩ました不安と恐怖、そして焦燥も苦痛もすべて間違った思い込みによるものだと知らされたのだ。
「…なぜ、教えてくれなかったの?」
やっとそう口にした凜の眼に怒りの色が見えた。
「誤解していると言ったつもりだが…。」明は戸惑った。
「そうね、あなたは私が誤解したのを知っていた。なのにたったの一秒も私に説明してくれなかった。」
「そのためにここに来てもらった。だから今、君は正しく知ることが出来たと思うのだが。」
「そういうこと? 私をさんざん引き摺りまわして最後に絆創膏を貼ってくれるわけね。私はきっとあなたに感謝しなくちゃいけないんでしょうね。」
「凜、いったいどうしたんだ。」
「…俺は、帰るッ。」凜が憤然と玄関に向かった。
明が慌てて凜の手を取った。
「待て。少し変だぞ。」
「触らないでッ。」激しい口調で明の手を払った。
樋口が突然の成り行きに目を丸くしたが、賢明に沈黙を守った。
凜の怒りはますます燃え上がっていた。テレビの情報を信じ、すっかり取り乱してしまった姿を思い返すと我ながら恥ずかしかった。そしてそれをただ見物していたかのような明の態度が許せなかった。
玄関から飛び出した凜の後を明が一二歩追うと、凜は立ち止まって振り向いた。眼に非難と拒絶が満ちていた。明を残して門まで進むと鉄柵を睨んで叫んだ。
「アキラッ、ここを開けてちょうだいッ。」
これを聞いた樋口は思わず噴き出しそうになって慌てて口を両手で押さえた。
(つづく)
「女刑事物語(14-3)」 C、アイザック
凜の姿が通りに消えると明は我に返ったように口を開いた。
「いったい、どうしたというんだ。彼女はいったい?」と言って樋口を見た。
それを知りたいのは樋口の方だったが意見を求められていると受け止めて感じたままを答えた。
「あの方の行動は心を正直に表しているようです。あの方に駆け引きはありません。」
「ということは、つまり?」
「あの方は怒っているということです。それもかなり激しく…。」
明が唸った。
「そうか、やっぱり…。」
樋口はこの会話の愚かしさに気づいて、明が笑いだすのではないかと思ったが明は真剣な面持ちだ。眉間を曇らせている。
「まずい、まずいぞ…。」
突然樋口に告げた。「彼女の自宅を知っている。行って話し合わなければならない。」
樋口は唖然とした。
「本気でおっしゃるのですか。」
「そうか…、いまの今はまずいか…。」
樋口がたしなめる様に言った。
「明日の会見はどうされます。」
「それはやる。必ずやる。…そうだ、一区切りしたら彼女が仕事を終えた帰りを捉まえよう。とにかく話し合わなければ。」
明が熱っぽく口にした。樋口が困惑して目を伏せるのも気づかぬようだった。
数日後、凜は帰宅途中だった。陽が僅かだが永くなっているのが感じられた。時間が早いせいもあるがこれまでより明るさが残っている。
歩道に沿って細長い緑地公園が設けられていた。公園と呼ぶのが憚られるほど狭い土地だ。遠慮がちに植え込みがあった。僅かばかりでも緑は気持ちを和ませる。立木も少々。なかに梅が数本混じっていて蕾がいっぱいに膨らんでいた。春が近い。そう感じながらも凜の心は晴れやかなものではなかった。明のことを思うと気持ちが沈んだ。夕べの見知らぬ街角に迷い込んだような心細く辛い気分になった。明を激しく非難したことを凜は後悔していたのだ。
歩道に沿って車が何台か駐車していた。そのなかの黒い車のドアが開いて一人の男が降り立った。凜はそれが明だと気づいてアッと声を上げそうになった。明は歩道に佇んで凜が近づくのを待っている。
凜が低い柵をまたいで公園側に身を移すと、明が追うようにそれに倣った。凜は突然追い詰められたように感じたが、口をへの字に結んで突き進んだ。
待ち受ける明が声をかけた。
「凜さん。少し話がしたい。」
凜の足が止まった。
明が続けた。
「私の気配りが足らずにあなたに無用な心配をかけてしまいました。…済まなかった。」
凜が目を伏せた。わずかに頬を染めて口を開いた。
「私、あなたに裏切られた気がしたわ。」控えめな抗議だった。和解がすぐそこにあった。
だが明は実のところ、凜の怒りの原因をよく理解してはいなかった。凜は説明をしてくれなかったと不満を口にしたが、ではあのとき言葉だけで納得してくれただろうか。それが明の率直な疑問だった。
「お互い感情的になるのはやめましょう。少しも建設的でない。」
凜が明を見つめた。どこか食い違っている気がした。
「私たちの結婚について話しましょう。あなたのお母様にご挨拶するつもりです。すぐにでも時間を作ってください。落ち着ける場所で具体的な話を進めよう。」
凜がか細い声で言った。
「…そのことは少し待ってとお願いしました。」
明が凜の瞳を覗き込んだ。
「あなたは私の申し込みを受けてくれたはずです。」
「でもそのあと電話で…。」
「それは退職について、ということでした。違いますか。」
凜は逃げ場を失って不覚にも涙ぐんだ。
「少し考えさせてとお願いしました…。」と繰り返した。
「凜さん、私はいつも迷ったときにこう考えます。一番大切なものは何か。今は私があなたを好きだということを大切にしたい。そしてあなたも私が好きなのです。それを思えば取るべき道ははっきりしています。待つことはありません。待つ必要はないのです。」
凜は肩から下げたハンドバックの端をしわが寄るほど握りしめた。
「あなたが私を好きになってくれて有難いけど、私があなたを好きかどうか少し考えてみたいわ。」
明の顔に朱が走った。
「なぜそんなことを言うのかわからない。まるで自分の気持ちを偽っているように聞こえる。」
「そうかしら。」
「正直に言って欲しい。」
凜は内心大慌てだった。心とは裏腹な言葉だと本人がよく知っている。視線を地面に落としたまま、何と答えればよいのか迷った。唇が動かない。だが明には凜の沈黙が頑な雰囲気にみえた。
「私は間違っていないはずだ。」
凜は口を開けない。せっぱ詰まった気分で明の横を通り過ぎようとした。
明が追い打ちをかけた。
「君は私が好きなんだ。私のキスにうっとりしていたじゃないか。」
瞬時に凜の顔が真っ赤になった。眼を丸くして叫んだ。
「信じられないわッ。」
「私は事実を言っている。」
「なんて人なの。そこをどいてッ。」
「自分に正直になれば良い。」
「じゃあ正直に言うわ。あなたの顔を一秒も見たくないわッ。」
凜が明の脇をすり抜けた。
「待て、凜。」明が凜の後ろ姿に両手を広げて叫んだ。
「こんなことが何になるんだ。凜!」
しかし明は凜が決して振り向かないだろうと思った。凜は憤然とした足取りで遠ざかる。明が両手を力なく下げて声を絞り出した。
「ああ…、ダメだ。」
この様子を車中から目にした樋口が同じ言葉をつぶやいた。
「ダメね。」
ハンドルを握る樋口がミラー越しに明を見た。明は携帯電話を操作し続けている。
「どうかされましたか。」樋口が尋ねた。
「彼女に掛けている。だがさっきから出ない。」
樋口が黙っていると明がほとばしるように喋った。
「君が言ったように彼女は怒っている。でもそんなに怒るようなことじゃないんだ。どういうわけか感情的に、意固地になっている。私はそれがおかしいと伝えただけなんだ。」
「差し出がましいのですが…。」樋口が遠慮がちに尋ねた。「どのようないきさつなのか差し支えなければ教えてください。」
「実は、私が彼女に結婚を申し込んで、あの人は承諾した。」
「えっ、そうですか。」樋口は明の言葉に驚愕した。それは樋口の予想した「いきさつ」を超えるものだった。
「ところが例の不渡り騒動をテレビで知って随分と心配してくれたらしいのだが、私がそのことを説明しなかったのが悪いと、君が知っているように激しく怒りだした。今もそうだ。私には彼女の気持ちがよく分からないよ。」
「なぜ説明なさらなかったのですか。」
「説明はした。君とのやり取りを聞かせたじゃないか。わかりやすい説明になったはずだ。」
明は少し苛立ちを見せてそう言うと、また携帯電話に戻った。
「出るまで掛け続ける。」と口にした。
すかさず樋口がミラー越しに声をかけた。
「お止めになった方が良いかもしれません。」
「えっ?」
「あまり繰り返されますと着信拒否をされてしまう恐れがあります。」
「着信拒否!」明が衝撃を受けた。
「あの方と直接お話をする手段が失われかねません。」
明は茫然としてミラーに映る樋口の眼を追った。
「だが…。ではどうすれば。」
「私が詳しいわけではありませんが、以前友人から聞いたところではメールが良いようです。相手にすれば直接話すのではないので心理的な負担が少なく、こちらからは関係を保って冷静になるのを待てます。」
「なるほど。だがメールとなると文章として残るわけだから内容に慎重になる必要が出てくる。」
明の言葉に樋口は笑いをこらえるのに苦心した。敏腕な企業経営者とは違う一面を明がさらけ出していた。恋愛や男女のかかわりに極端に疎いではないか。樋口は自分のことを棚に上げて口元を歪めた。
「メールでは込み入ったことや返事を求めるような内容は避けることが必要です。あくまで冷却期間ということですので…。例えば単純な挨拶、天候、それから相手の健康を気遣うくらいで、簡潔で短いものがよろしいようです。重要なことは、返信が無くても毎日同じ時間にメールすることがポイントです。メールが続くうちに結局わだかまりを解くことになったという体験談を友人から聞きました。」
「なるほど…。」
今の凜の言動が本心ではないと確信する明だが、強引な行動は良い結果を生まないと推測した。明は樋口のアドバイスに従うことにした。
港中央署刑事課一係は二つの班を変更した。凜と尼子、加藤と武田が新たなコンビを組むことになった。藤原を警部補昇任試験の勉強に専念させようという黒田の思惑だった。伝えられた凜が不満の声を上げるとすかさず黒田が言った。
「尼子にデカの基本を教えてやってくれ。加藤と尼子は年が離れすぎている。それともお前が加藤と組むか?」
凜は口をへの字に結んだ。凜は新人の時三十歳年の離れた老練の刑事と組んだ。良い経験になったのだがそのことを口にしなかった。どのみち従うしかないのだ。
凜と武田が自販機の前に置かれた赤いベンチに腰を下ろしている。
「ゴールデンコンビは解散か。力が抜けちゃったよ。」
凜は正直だ。そう言って溜息をついた。
「同じ一係なんだから…、元気を出してください。」
武田があらたまった口調で言った。
「健太はいつでも冷静だ。」
「冷静というか、凡人なんですよ結局。俺は体力勝負と分っているのであまり思い悩むことがない。」
「体力があるのは確かだけど、凡人じゃあないよ。…私の感じだが、加藤さんと組ませたのには何か目的か意図があるような気がする。」
「黒田さんの意図?」
「うん。加藤さんはほら、昇任とかに全く興味がないみたいじゃない。班長も今回が初めてじゃないかしら。今確か五十六歳だよ。このまま巡査部長で定年を迎えそうだわ。」
「だから?」
「健太に昇任の意欲を持たせようという気持ちじゃないかしら。つまり加藤さんは反面教師の役。」
「まさか。それじゃ加藤さんが気の毒だ。」
「そうね。私の考えは全然違うかも。」凜があっさり自説をひっこめた。
「あ~あ、健太と二人で犯人をパクリ続けるつもりでいたのに、気が抜けちゃった。なんだか変に覚めちゃった気分。健太、四十歳までに警部補を目指せ。そして四十代で警部だ。もう偉くなるしかないよ。」
「そういう凜はどうするんだ。」
「私は…、」不意に明の顔が浮かんだ。
「私も考えなくちゃ。でも試験苦手だからな…。」
どこか遠くを見ながら答えた。
凜と尼子の新コンビは地域課捜査係から引き継いだ器物損壊事件を調べることになった。土曜日の深夜、小型乗用車二台がキズつけられた事件だ。
車は同じ駐車場を利用していて同日、同時間帯の犯行だった。被害者は駐車場の所有者で隣接した戸建ての住人である四十歳男性と、駐車場の一台分を借りている三十歳の女性看護師だ。写真によると車のボンネット、フェンダー、ドア部分に多数の曲線状のキズが見える。交番の警察官が事情を聴取したが住人は犯行に全く気づかなかったという。深夜から明け方の犯行だった。駐車場は車二台分のスペースしかない狭い空き地で防犯カメラが無く、なぜキズをつけられたか、両人とも思い当たるものが全く無いと述べている。加害者については今のところ何も分かっていないのが現状だ。
「イタズラ…じゃないでしょうか。車の所有者が全く別々ですから犯行に特別な意図があったかどうか…。」
尼子が遠慮がちに意見を述べた。
「もっと報告書を読んで。」凜が指摘した。
「それはここの部分のことでしょう。」
尼子が指した箇所にはここ五年間をみても近隣の地区で同様の被害が報告されていないことが記されていた。
「だからといってこれが単なるイタズラじゃないとは言えませんよね。」尼子が自説にこだわった。
凜が眉をひそめた。
「今は何とも言えないわ。報告書が回ってきたということは何らかの理由があると思う。」
「被害届を受理したからこちらへよこしたのじゃないですかね。何か特別な理由と思えるものはどこにも書いてないですよ。」
「裏が取れなくて記載されていないのかもしれない。担当した警察官に話を聞こう。」
刑事課だけではなく地域課による捜査活動を重視しようというのは警視庁の方針だ。事件の広域化に迅速に対応するために情報の素早い収集と伝達が必要との考えだ。だが現場の地域課は市民による事件発生の報に瞬時に対応しなければならない。たとえただの夫婦喧嘩だったとしても通報があれば現場に駆けつける。それが仕事だ。その用意を怠らぬ一方で警らをおこなう。不審者を認知すれば職務質問をし場合によって所持品を調べる。いずれにしろ二十四時間体制で市民の身近においてその安全を守り犯罪に目を光らせる、それが地域課の警察官だ。彼らにとって捜査能力の強化が求められているのは分るとしても、人員が増加されるわけでは無い。そのためこのような事件の場合は付近一帯で同様の事件が頻発しない限り実質的に捜査の対象になりにくい。事実を証明する意味で被害届を受理し、あとは現場地区の警らを重視することくらいが現実的な対応だといえる。被害が複数回に及んだり加害者に心当たりがあるなど捜査を強く求める事情があれば刑事課に引き継ぐことになるがこのケースは違う。にもかかわらず引き継ぎを依頼してきたのには何か理由があると凜は考えたのだ。
凜と尼子は地域課の警察官から話を聞いた。制服姿の男は凜と同年配か。緊張していたが喋り方はかなり丁寧だった。一通り説明を受けてから凜が口を開いた。
「捜査対象にするからには、何か気になることがあるのかしら。」
「そこなんですが…。」警察官が答えた。
「単なるイタズラにしては執拗な印象でした。そこで若い看護婦さんへのストーカー行為をまず考えたんですが、そうすると隣に駐車されていたとはいえ無関係な車をキズつけるのは不自然です。彼女もストーカーの心あたりがないと言っています。そこで、駐車場の使用者で持ち主でもある男が隣に住んでいるんですが、この住人が原因となるトラブルを抱えているのではないかと考えました。しかし本人は否定しました。損壊の状態は怨恨か激しい敵意をうかがわせたのですが結局犯行の動機や背後が全く浮かんできませんでした。
ところが看護婦さんの話によると、この住人が三年前にも同じ被害を受けたと語ったらしいのです。今回も前と同じイタズラだろうと怒っていたというのですが、調べてみてもそのような届けはありません。本人に尋ねると、子供のイタズラだと思い届け出まではしなかったと…。」
凜は黙って耳を傾けていたが尼子が口を挟んだ。
「気になったというのはどんなことなんですか。」
警察官は若い刑事に視線を走らせて言った。
「子供のイタズラというのがちょっと…。そんなレベルのキズじゃないのに駐車場を借りている看護婦さんに単なるイタズラだとあえて発言したような印象を受けました。」
「あなたの印象は分りました。」
尼子が釘を刺すように口にすると警察官が急いで言い足した。
「写真ではよく伝わらないかも知れませんが、車に付けられたキズは酷いものです。目にしたときは息を呑みました。実に不穏な…。」
尼子が遮った。
「事実は見つからなかったのですか。犯行の動機か目的を示す事実は。」
凜が静かに短く尼子に告げた。
「話を聴こう。」
「事実というのではないのですが…。」警察官は凜に向き直って言葉を続けた。
「被害者が…駐車場の持ち主が事件に心あたりがあるにもかかわらずそれを伏せているというか隠しているのではないかと疑いを持ちました。捜査としてはあたりの防犯カメラを調べました。すると不審な人物が映っていました。」
胸ポケットから大型の手帳を出してそこに挟まれた写真を凜に手渡した。野球帽とマスク、顔がよく分からない。
「どこが不審なの?」
「この男…。」凜の顔を覗き込んだ。
「犯行があったと思われる時間帯に二度カメラの前を往復しているのです。深夜にです。」
「しかし…。」と尼子がすかさず指摘した。「実際には犯行時刻が分っていないのでしょう? 夜間にカメラの前を通過した人は写真の男以外に沢山いたんじゃないですか。」
「確かにそのとおりですが、この男は現場へ向う路を二往復していますからね。」
「それは何時ころなの。」凜が尋ねた。
「深夜十二時半と午前一時です。」
凜が辛抱強く続けた。
「その時刻にそれぞれ往復する様子が映っていたということかしら。行きと返りの間隔も分かっているわけよね。」
警察官は急に気づいたように慌てて手提げ鞄を探った。四枚の小さな写真を取り出して並べた。はじめに示したものに比べ男の顔は指の爪くらいのサイズだが左下に日付と時間が表示されていた。凜がそれを時刻の順に並べて見つめた。0:30の次が0:35。五分後に引き返してきたことになる。1:00のときは1:10にカメラの前に戻ってきたことが分る。
尼子は関心がなさそうだ。最初に見せられた写真の方を摘まみ上げて「これじゃ大きくても顔が分らない。」と口にした。
「顔はハッキリしませんが親しい人や家族なら誰か分るかもしれません。」
「被害者はなんと言ってるのかな。」尼子が訊いた。
「被害者には見せていません。本人がトラブルなどの心あたりを否定している以上第三者の肖像をむやみに見せるわけには…。」
尼子がぞんざいな口調で遮った。
「そういう時はその他数人の写真に混ぜて見せるんだよ。」
「はあ…。」尼子より五歳以上も年上のはずだ。
「…こちらではこれ以上踏み込めないと思っています。」と弱々しい声で言った。
「分ったわ。」凜が口を開いた。
「私たちで調べてみます。」
「よろしくお願いします。」警察官はホッとした様子で頭を下げた。それから急に凜に向かって姿勢を正した。
「朝倉刑事どの。誘拐殺人事件の解決、おめでとうございます。」
凜は突然の言葉にびっくりした。二週間以上も経っている。
「有難う。…交番の皆さんが駆けつけてくれたから犯人の身柄を押さえることが出来たのよ。」
警察官は敬礼してその場を去った。
刑事たちに短い沈黙が訪れた。凜が尼子に声をかけた。
「事件は解決出来たけど萌愛ちゃんは帰ってこない。ご両親を思うと喜ぶ気になれないわね。」
尼子はただ黙っている。
「藤原さんと容疑者を特定する寸前だったそうね。」
凜の言葉に不満げに口を開いた。
「けれどその為に犯人逮捕の現場にいなかった。皮肉な話です。こっちは正攻法でホシを追っていたのに…。」
「正攻法?」
「アッ、違うんです。」尼子が慌てて叫んだ。
「深い意味じゃなくて、なんだか肩透かしを食った気分がしたんです。調布や八王子へ足を伸ばしました。苦労したんです。」
「そうか。」
凜が尼子を見つめた。「だが捜査本部に楽をしたデカは一人もいないぞ。」
「そのとおりであります。」尼子は真っ赤になっていた。
凜と尼子は事件の捜査を始めた。とりあえず二人の被害者から話を聴いた。地域課の警察官が口にしたように駐車場の所有者の供述は違和感を覚えさせるものだった。区の職員だという。
「以前も同じ被害にあわれたそうですね。」
凜の問いに一瞬動揺と緊張をみせて肯いた。
「被害届を出さなかったのですね…。」
「子供のイタズラだと思ったので。」
「そうですか。イタズラのような感じだったのですか。」
「はい。」
「修理はされたんですか。」
「はい。」
「それは大変でしたね…。」
凜が同情するように声を落としたが、さりげなく尋ねた。
「保険会社はどこですか。」
「えっ。」
「被害の程度を知りたいのです。資料を問い合わせます。」
男が慌てて言った。
「保険は使っていません。」
「自動車保険に入ってなかったのですか。」
「いや、入っています。」
凜が男を見つめた。
「保険に入っているのにそれを使わなかった。…なぜです?」
男の唇が震えた。
「忙しかったんです。ちょうど議会が始まったころでした。忙しくて保険の手続きのような私事にかまけておれなかったんです。」
「そうですか…。」
凜が大きく頷いてみせた。「車の修理はどこでされたのですか。」
続けた質問に男が息を呑む気配があった。
「えっ、それは…。」
「修理を頼んだ業者さんを教えてください。」
男は震える手を額のあたりへ当てた。
「今、思い出したんですが、たしか修理はしなかったような気がします。すみません、勘違いでした…。」
「そうですか。何か分ればお伝えしますが、気づいたことがあったら連絡をください。」
凜があっさりそう言って名刺を手渡した。男は何か危険な品物を受け取ったかのように茫然と己の指先に視線を落とした。
尼子が凜の後を歩きながら言った。
「あの男は絶対何か隠していますね。もしかすると犯人に心当たりというか犯人を知っているような気がします。」
「そうね、単なるイタズラ事件じゃなさそうね。」
凜の返事に尼子が側に追いついて言った。
「これが加藤さんだったら大変ですよきっと。いいか警察は忙しいんだ、誰の仕業かさっさと言えッ、という感じですかね。」
凜が小さく笑った。
「今は本当のところを話してくれそうもないわね。だけど被害者がもう一人いる。あくまでしらを切るなら追及しなければならないわ。でもその前に防犯カメラの男の足取りを追う。犯人の手がかりを得たい。あの区役所の男に喋らせるためにもね。」
「防犯カメラの人物が犯人と思いますか。」
「分らない。無関係かもしれない。それを調べるのがデカの仕事さ。」
二人は道路沿いの防犯カメラを調べた。一台のカメラが男を捉えていた。男は途中から自転車を使っていた。帽子とマスク、そのおかげで見逃さずに済んだ。だが逆に顔がよく見えない。
刑事たちはそのカメラの位置に立って自転車の進行方向を眺めた。少し先に交差点がある。そこまで歩いてあたりに次の防犯カメラを探す。凜は左折して五十メートルほどのコンビニを目にした。寒い深夜の自転車…。
「あそこに行ってみよう。」と尼子に声をかけた。
凜の予感は的中した。コンビニに立ち寄った男の姿を店の防犯カメラが余さず捉えていた。駐車場に自転車を止めて店内に入る。時刻は1:14。ホット飲料のコーナーで品を選びレジの前に立つ。この時マスクを外した。店員と一言交わして代金を支払う。レジのカメラは男の顔をはっきりと写していた。かなり若くみえる。
「よく店に来る人ですか。」
凜の問いに店員が肯いた。コンビニが生活圏にあると考えられた。
写真を持ち帰って警視庁のデータと照合すると男の身元が判明した。前歴があったのだ。中野和昭、二十一歳、本籍地神奈川県清山村。二年前に恐喝で品川南署に挙げられ、懲役六か月、執行猶予三年、保護観察処分が付いた判決を受けている。
「とりあえず記録された住所に行ってみますか。この男の犯行だとすると執行猶予は消えますね。」尼子が言った。
署を出て五分もしないタイミングで凜の電話が着信を報せた。署長の板垣だ。突然大声で告げた。
「武田が撃たれたッ。」
凜は愕然として声が出せなかった。…健太が? 健太は今日非番のはずだ。撃たれた? なぜ、誰に。凜の頭に疑問が激しく渦巻いた。
「凜、港中央病院だ。」
「了解した。」やっとそう応えた。
(つづく)
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