第13話
「女刑事物語(13)」 Ⅽ・アイザック
「健太、会議には一人で出てくれないか。」
その言葉に武田は無言で凜の顔を窺った。
「私は自分のスジ読みを確かめたい。」
「…なら、会議でそう言えば良いのじゃないか?」
「駄目よ、結局は蒲生警部の指示に従うことになるわ。私の意見はただの推測に過ぎないと言われたのを覚えてる?」
「わかったよ。」と軽い調子で武田が言った。「そういうことなら俺も付き合うよ。」
「駄目。私のせいで健太もにらまれちゃうわ。」
「かもな。だが会議に遅れても頭を下げれば済むことだが、単身の捜査は規則に違反する。」
凜は言葉に詰まった。短い沈黙の後で力なく口を開いた。
「分ったわ、署に戻ろう…。」
しかし武田は言葉とは裏腹に迷いの中にあった。凜の気持ちがよく分るからだ。スジ読みを確かめる、それは時として捜査の原動力だ。このままでは気が済まないだろうと感じた武田が思いきって口にした。
「とりあえず、俺が会議に出る。凜は気になる場所を調べてから、なるべく早く合流してくれれば良い。…言い訳も考えておいたほうが良いぞ。」
凜の顔が輝いた。けれども一個下の後輩に見透かされていると感じて、恥ずかしいのか嬉しいのか、よくわからない表情を浮かべて念を押した。「良いのか?」
「たいして時間がかかるものでもないだろう。」
…少々遅れて凜は署に戻るはずだ、このとき武田はそう考えていた。
港中央署の会議室に六十人ほどの捜査員が集められた。蒲生班の四十人と所轄署の刑事たちだ。机にはホチキスで綴じられた紙が配られている。
伊達が口を開いた。「新たに取り組んでもらう捜査について説明する。諸君の手許にあるのは事件発生の時間帯に通学路および周辺道路を通過したナンバー不明の車を、その特徴から車種、色などを割り出したリストだ。この持ち主を突き止め、事件との関係を調べてもらいたい。」
あちこちで紙をめくる音が起きた。伊達の説明が続く。
「五十車種、五十五台だ。その登録台数は品川ナンバーだけで六万七千五百台。もちろん品川ナンバーとは限らないのが当然だが、とりあえず品川ナンバーを中心に取り掛かる。
さらにその捜査だが、軽自動車を優先する。そうすると対象は約一万五百台。これに事件発生現場に隣接する世田谷ナンバーの登録を含めた計一万四千台を調べる。かなりの数だが車体の色を条件とすれば数分の一にまで絞り込めるはずだ。
念のためあえて付け加えるが、消去法的な発想を持つな。捜査対象の中に必ず犯人がいると思え。粘り強く取り組んでもらいたい。ここにある車はナンバー情報が映像に残されていない。白を切られたらそれまでだ。だからこそ車の持ち主、使用者が犯行のあった日時にどこにいたかその所在を徹底的に追及する必要がある。少しでも矛盾を感じたらDNA型鑑定を強力に求める。…被害者の無念を思えば、石に噛り付いてでもホシを挙げる。
勝班の捜査も大詰めを迎えようとしている。これまで五十人を超えるDNA型鑑定をおこなったが遺留と一致した者はない。この後犯人に行き当たるか予断できない。
勝班で手の空いた者は漸次こちらに合流してもらう予定だ。」
道幅が狭い交差点の角地が中古車販売店だった。さほど広くない敷地の大部分が中古車の展示用スペースに使われている。そこに隣接して三階建ての事務所ビルがあり、一階には縦に長い大きな窓が並んでいるのが見て取れた。ビルの正面に回って通りから見ると意外に間口は狭い。閉ざされた門扉に「管理ネクステージ不動産」のプレートが掲げられ、玄関口に「立ち入り禁止」の看板が立てられていた。門の高さは凜の顔くらいまである。施錠されていて微動もしない。
さらにまたその隣に廃業して一年経つという建設資材会社があった。古びたブロック塀の一角に「カスヤ建材店」の小ぶりな看板が立っている。幅五メートルほどの出入り口は柵状の門が閉じ、その端は金属の支柱にチェーンでグルグルと巻かれ大きな南京錠が下がっていた。
凜は門の間から中を覗き込んだ。大型トラックが楽に入れる広い敷地だ。その突き当りに平屋の事務所があった。建材店の建物はそのまま残されているようだ。右手に屋根だけの車庫の一部が見える。左側は隣のビルと背の高い細く白い柵のフェンスで仕切られ、少し奥に高い屋根の資材倉庫がポッカリ口を開けている。空虚な雰囲気が漂っていた。
そのうち凜は門扉の端に目をやっていた。支柱に巻き付けられたチェーンと南京錠を食い入るように見つめている。やがて静かにチェーンを持ち上げた。支柱の先端は円盤のように広がり、結んだものが抜けてしまわない形をしていた。凜はチェーンを引っ張る。それはだらしなく伸びて支柱からすっぽりと外れた。南京錠は無意味なところにぶら下がっていたのだ。凜は力を込めて鉄柵を押した。人が通れるように開けると、ハンドバックの肩紐に首を通して襷にかけた。躊躇なく建材店の敷地に踏み込んだ。
足元はアスファルトで舗装されている。凜は素早くあたりを見回した。人影は無い。地面の隅に砂ぼこりが積もり、ところどころ雑草が生えている。枯草にわずかに緑が交じっていた。車庫を向いて脚を屈めタイヤ痕とゲソ痕を探した。良く分らない。事務所に向かった。壁に「ゼット金具あります」と色あせた文字の看板があった。近づいて窓とドアに触れる。鍵がかかっていた。側面に回るとそこにも窓と小さなドアがあった。やはり鍵がかけられている。凜は窓から中を覗いた。何も残されていない。むき出しの床と壁だけが目に入った。事務所の裏側は隣地の塀が境界いっぱいに迫っている。人が入り込む余地はなかった。
凜は倉庫に足を運んだ。隣の事務所ビルの敷地と細い柵のフェンスで仕切られている。それは凜の背丈ほどの高さで、倉庫の入口にある鉄骨の柱に突き当たるまで続いていた。空洞のような倉庫の中は屋根の明り取りからぼんやりとした光が降っている。一見して中には何も無い。倉庫はかなり古く、壁の一部が割れて光が見えた。コンクリート製のスレートの壁材は長い年月に黒く変色している。
凜の足が止まった。隣の敷地の建物を見ている。事務所ビル側は建材店との境界に膝くらいまでの低いブロック塀を設けている。狭い庭があり、白く輝くタンクが設置されていた。屋上へ水を上げる設備と思われた。水圧に耐えるためか、正方形の枠を規則的に並べた形をしていた。地面はコンクリートで覆われ草一本生えていない。タンクのそばに庇のついた小さな出入口があり、二枚の引き戸が目についた。上半分が磨(す)りガラスで下はアルミ板のようだ。ガラスの面に「立入」「禁止」の紙が一枚ずつ貼ってある。凜は首を傾けた。張り紙の位置に違和感を覚えたのだ。高さは揃っているが「禁止」の紙だけが内側に寄ってガラス戸の枠に密着している。不自然に思えた。しかし些細なことだった。凜はフェンスの柵を見上げただけで、その場を離れた。
凜が強引に私有地に入ったのには理由があった。それはあのチェーンと南京錠だ。土地の所有者や管理者が無意味なことをするとは考えにくい。何者かがピッキングで鍵を開け、さらに侵入の痕跡を隠したと考えられた。盗犯か、あるいは他の犯罪が行われたか現に行われている可能性があると推察できた。凜に迷いはなかったのだ。だが隣の事務所ビルは関係がない。
…関係ない? 凜は突然振り向いた。フェンスの終点、倉庫に向かった。入ってすぐの壁の割れ目を調べた。破損した壁材が立てかけられている。それを取り除くと急に目の前が明るくなった。壁に大きな穴があいていたのだ。鉄製の桟が二本、上下並行して露になったが一メートルくらいの間隔がある。楽に潜り抜けた。足を下すとそこはもう隣の敷地だった。
タンクのそばの引き戸の前に立った。当然だが鍵が掛かっている。間近で見るとガラスに貼られているのは紙ではなく薄いプラスチック板のようだ。「立入」「禁止」の文字も整っていて看板などの専門の業者によるものと思えた。凜は「禁止」の文字がある薄い板をあらためて見つめた。戸の上下を分ける幅の広い枠と縦の枠が作る隅に角が密着するように貼られている。透明なセロテープが文字板の上端をその幅いっぱいにガラス面に接着しているが下端のセロテープは短くてルーズな感じだ。指で触れると短いテープがすぐに剥がれ、文字の記された薄い板は窓か蓋を開けるように上へ持ち上がった。その下に現れた磨りガラスに拳二つほどの大きさの穴が開いていた。凜の体に緊張が走った。
それは侵入盗の痕跡に見える。だがビルは全体が売りに出されていて空き家だ。盗むほどのものがあっただろうか。…盗犯と断定はできない。凜の考えは別のところに向いた。携帯電話を取り出した。
会議では伊達の説明が続いていた。
「所轄の諸君は世田谷ナンバーの車をあたってくれ。車種で分担するか所有者の住所で分けるかアイデアを出し合い、適当と考えられる方法をとれ。」
会議室に並べられた机は二人用のスペースがある。武田の隣は空席だ。北条と黒田から時々視線が送られる。席に着いている武田は身を縮める思いだった。
武田の携帯が着信を報せた。凜からだ。慌ててイヤホンを差し込んだ。
「健太、凜だ。」
「ああ。」やっと聞こえそうな小さな声で応えた。
「カスヤ建材店は分るな。その倉庫から隣の事務所ビルの庭に入ったところのガラス戸が破られている。立入禁止の文字が書かれたプラスチック版で隠されているが不法な侵入の形跡であることは明らかだ。これから中を調べる。通話を保て。状況を報せる。」
武田はかろうじて「了解と」囁いたが聞こえたかどうか。
なぜ武田に電話をつないだままにしたのか、凜は後で考えてもその理由が説明できなかった。ムシの知らせと言うべきか。
ガラスの割れから手を差し入れた。手首まで入れると簡単に錠へ届いた。静かに引き戸を開けて建物の中へ入った。すぐに通路だった。左側がビルの玄関口で通路は二メートルほどの幅で右奥にのびている。目の前に褐色の合板の壁が同じように奥へ続き、等間隔でドアが三か所ついていた。凜はイヤホンを耳から外して携帯電話を上着のポケットに収め、一つ息をついてドアを開けた。鍵は掛かっていない。まず床と同じ高さの大きな窓ガラスが目に入った。レースのカーテンが二重に閉じられているものの暗くはない。隣の中古車店の車がかろうじてその形だけ見える。部屋の中には何も無いが、窓の近くに白いパイプ製の柵が設けられていた。事務用の備品や椅子がガラス窓に当たるのを防ぐ目的だろう。右の方に隣室との壁がある。同じ褐色の合板で、全体的に簡便な造りであることをうかがわせた。
部屋を出て隣室のドアに向かった。通路の突き当りは階段になっている。その少し上がったあたりはやけに暗い。ドアノブに手を掛けた。こちらも鍵が掛かっていない。
一歩踏み込んだ凜が何かの気配を感じた。次の瞬間、突然頭に強い打撃を受けた。足もとの床が視界にせり上がる。倒れこんで顔面をぶつけた。声を上げる間もなく腹部を力まかせに蹴られた。息が詰まった。体をくの字に折って激痛に耐えた。頭は痺れて痛みを感じない。攻撃に容赦は無く殺意すら感じさせた。「しっかりしろ!」凜は声にならない叱咤を自分に浴びせた。だが体が動かない。
目の前に短いスパナが音を立てて落下した。朦朧とした視野の中を靴が動いている。赤と白の太いラインが見えた。左手首を掴まれ、体が引きずられていく。手首が何かに締め付けられた。ようやく床から顔をあげる。ハンドバックを奪い取った男が胡坐をかいて中を調べている。やがて中身を床にぶちまけた。そこから警察の身分証を手に取って眺めた。
「お前、警察か? 運が悪いよな…。」
凜はのどの奥にせり上がっていた胃液を吐きだした。強い酸の痛みに咳き込んだが、相手から目を離さない。若い男だった。
武田は思わず立ち上がった。黒田のテーブルに駆け寄った。周囲の視線が集まる。武田は右手の携帯電話を掲げて切迫した声を上げた。
「朝倉刑事が事件に巻き込まれたようです。」
「事件?」黒田が怪訝そうに繰り返した。
武田が慌ててイヤホンの接続を引き抜いた。若い男の声が流れた。
「どうした、痛いか。頭から血、出てるし…。」
並んで席にいた北条と黒田が顔を見合わせた。
「電話の先に朝倉刑事がいます。」武田が叫んだ。
黒田が顔色を変えた。電話に向かって怒鳴った。
「おいっ! 何をしているっ。」
平静な調子で男の声が続いた。「どうせもうすぐ死ぬけど?」
「こちらの言うことは聞こえていないのか。」黒田の疑問に武田が答えた。「イヤホンモードになっていると思われます。」
北条が立ち上がって伊達に告げた。
「署の刑事が事件に巻き込まれたようです。」
この様子を注目していた伊達は武田に質問した。「場所が分るか。」
「場所は分っています。」武田が答えた。
「黒田。」と伊達は決然とした口調で言った。「所轄捜査員を率いて現場へ向かえ。」
「現場は…。」武田が署の刑事たちに声を張り上げた。「大居町一丁目、区民公園の南一キロの中古自動車販売店隣のKMビル。現在は売りに出されていて無人です。」
十人以上が慌ただしく立ち上がった。
思いがけない出来事に本庁の刑事たちは驚いた。「何をやっているんだあいつは…。」と蒲生が吐き捨てた。
急いで立ち上がった黒田に北条が声をかけた。「携帯電話は置いて行ってください。状況は警察無線で伝えます。」
伊達が両手を上げて本庁の捜査員に呼びかけた。「一課の諸君はしばらくそのままでいてくれ。…ただならぬ事態のようだ。」
凜はようやく口を開いた。「いったい誰だ。何をしている。」
男は答えずに凜の財布の中を調べている。凜は自分の左手に目をやった。手首が窓際のパイプに縛り付けられている。右手で触るとプラスチック製の細い帯できつく締め付けられていた。凜の様子に男が嘲るように言った。
「無理、無理~。それ五百キロの力でも切れないから。」
財布から抜き出した千円札に目を戻して喋り続けた。「やっぱ警察官って貧乏なんだ。哀れなもんだな。」
凜は上着の中の携帯電話を意識にのぼらせた。武田が通話を切っていなければこの異常な事態が伝わっているはずだ。男が何者か、目的は何か、事情がまったく分からないが、とりあえず時間を稼ぐ必要があった。抑揚のない口調で尋ねた。
「こんなことをする理由か目的を教えてくれないか。」
男は険悪な表情を凜に向けたが一言も喋らない。その目に残忍な光が浮かぶのが分った。上着から何か取り出した。幅の広い板状のものを握っている。それが大きなカッターナイフだと気づくのに時間がかかった。文具で見かけるものとは桁違いの大きさだった。
「馬鹿な真似はやめなさい。」
威厳を込めて諭しながら凜は肌を冷たいものが這いのぼるのを感じた。しかし何かが恐怖心を超えて凜を支えていた。警察官のプライドだったかも知れない。自分の態勢を冷静に振り返った。頭と腹のダメージは今や深刻ではない。左手は金属のパイプに縛り付けられているが、片手と両足が使える。致命傷を防げれば失血だけでは短時間に死ぬことはない。腰の後ろから手錠を取り出せれば武器になる。ねばれ、きっと健太が駆けつける。チャンスはある。油断なく男との距離を測った。
凜の気迫を感じたのか、男は凶悪な決意をにじませながらも動きを止めた。その顔は蒼白で産毛が逆立っている。目は感情を失い爬虫類のそれを思わせた。これが殺人者の顔なのか。凜の体の奥底から闘志が沸き起こった。…来るならこい! 凜は床に片膝立ちで男を見上げた。
二人はにらみ合った。緊張感に耐えられず、男は自らが手にしたカッターナイフに一度目を落とした。凶器を確認して自信をよみがえらせようとした。女が恐怖に震えて無防備にうずくまる気がしていた。そうならないのが意外で苛立たしかった。
凜は男の靴に気づいた。運動靴のようなデザインで赤と白の太いラインが目に入った。凜の背筋に戦慄が走った。死体遺棄現場のゲソ痕を調べた鑑識の資料で見たものと同じだ。誘拐殺人事件との関連が瞬時に浮かんだ。自分のスジ読みと合致している。するとここが遺体の損壊現場か。そしてこの男が…。室内に走らせた視線が壁際の乳白色のビニール袋を捉えた。ランドセルの一部がはみ出している。色は赤。凍り付くように男を凝視した凜が、声を振り絞った。
「お前が…、お前が萌愛ちゃんを殺したのか!」
北条が大きな声を上げた。「伊達管理官、この男が萌愛ちゃん殺しの本ボシかもしれません。」
本庁の捜査員が北条の手から携帯電話を奪うように受け取ると最前列に置かれた通信機器のスピーカーにセットした。男の声が流れた。
「それがどうした。」
「まだ九歳だった!」
「だから? うるさいんだよ。」
一課の捜査員からどよめきが起きた。ほとんどの者が立ち上がっていた。
「全員出動、現場へ急行してくれ!」伊達が叫んだ。
北条が無線にしがみついた。
「黒田さん、朝倉刑事の相手は少女誘拐殺人の本ボシだ。それが強く疑われる。」
「了解した。」黒田は即答したがすぐに叫んだ。「どうした、進まないじゃないか。」
「渋滞です。」と誰かが答えた。「青信号がさっきから見えていますが車が動けません。」
本庁の人間は知らないが、豪華客船が入港したときに時折起こる交通渋滞だ。大型バスの車列が原因だが、湾岸道路とそれに並行した道路が影響を受ける。
「警部、車を捨てましょう。」
それが加藤の声だと北条には分った。
黒田が大声を上げた。
「運転者を除いて全員車を捨てる。目的地まであと約二キロだ。車を降りて走れ。走るぞ。」
十数人の捜査員がバラバラと歩道を走った。行き会う人々は驚いて道を譲り、何事かと彼らを見送った。
黒田の無線がつながったままだ。激しい息づかいが聞こえる。そして黒田が喚いた。
「クソ~、今行くぞ。待ってろよ、お凜っ!」
北条が机で両の拳を握りしめた。「黒田さん、急げっ。」
凜は自分へ必死に言い聞かせた。ここは冷静にならなければならない。説得を試みた。
「少女に悪かったという気が少しでもあるなら罪を償え。自分のしたことを詫びるんだ。自分で警察に出頭する意思があるなら私がそれを証言してやる。」
男は叫んだ。「うるさい、うるさいぞっ。」
「素直になれ、お前も後悔しているはずだ。」
「後悔?」
男は凜を見つめて繰り返した。やがてその顔に不気味な笑いが浮かんだ
「後悔だって? お前には分らないのか。あの子は天使だったんだ、天使。…体を持ち上げたとき分った。びっくりするほど軽かった。天使だったからさ。」
「そんな話は空しいだけだ。自分のしたことを真面目に見つめたらどうだ。」
「お前のようなババアがうるせえんだよ。」
男がカッターナイフの刃を滑り出させた。チチチ…という金属音が響いた。
凜が怯むことなく訴えた。「あの子に花を捧げ、お線香を焚いてあげようという気持ちが心の奥にある筈だ。そうだろう?」
男は凜の言葉に何の関心も示さずナイフの刃を繰り返し音を立てて滑らせながら独り言のように言った。
「あの子が俺に教えてくれた。何をしたいのか、何をするべきかを。そして天使のように少し笑って俺のやることをじっと見ていてくれた。あの子は俺のものだったんだ。」
凜は絶句して男を睨みつけた。体中から怒りの炎が噴き出すのを感じた。
男は薄笑いを浮かべて続けた。
「あの子はいい子だった。俺は一目でそれが分っていた。」
「お前を…。」凜が喉の奥から声を絞り出した。「お前を必ずパクッてやる。」
「ああ?」
「俺がお前を地獄にぶち込んでやる!」凜が叫んだ。
男は狂ったように喚いた。
「黙れ、黙れ、黙れ。いっぺん死ね!」
現場に真っ先に到着したのは武田だった。学生時はアメフト部に所属し、三十歳をこえた今も脚力には自信を持っていた。激しく息を切らせて駆けつけるとビルの門扉の前に四人の制服警察官の姿があった。急行した近くの交番所員だ。
「一係だっ。」武田が声をかけると素早く敬礼で応えた。
「こちらから入れる。」建材店の門をすり抜けた。警察官が後に続く。倉庫の壁から隣の敷地に入った。「立入」「禁止」の文字があるガラス戸を開けた。武田のイヤホンには警察無線を通して凜とつないだままの携帯電話の音声が途切れがちに流れている。
「お前を必ずパクッてやる。」
その凜の声が聞こえると武田は口の中で「バカッ。」と小さく叱って目の前のドアを押し開けた。中には誰もいない。
「黙れ、黙れ、黙れ。いっぺん死ね!」
間に合うのか? 武田は焦燥と恐怖に襲われた。次のドアに走りながら叫んだ。
「凜っ、どこだ!」
ドアを開けた。窓際に男の姿が見えた。武田が突入した。
男は突然現れた武田に驚愕の表情を浮かべたが、すぐにカッターナイフを頭の上に振り上げた。すかさず凜が体を低く投げ出すと、その右足が床の上に孤を描いて疾(はし)った。肉と肉、骨と骨がぶつかる鈍い音が聞こえた。柔道の技「カニ挟み」だ。武田に切りつけようとした男は両足首を挟まれて一歩も動けず、激しく前方に倒れこんだ。カッターナイフの柄が床に当たって跳ねた。武田が男を押さえつけると後に続いた交番所員が次々と男の背に覆いかぶさった。男が何か喚きながら右手でカッターナイフを探る仕草を見せた。その腕をとった一人が「おとなしくしろっ。」と怒鳴った。間を置かず所轄の捜査員たちが室内になだれ込んだ。この時になってようやくパトカーのサイレンが聞こえた。
武田は男から離れてカッターナイフを拾いあげ、凜の手首を縛り付けている結束帯を切り離した。手首から先が蒼く変色していた。凜が感覚を取り戻そうと手をさすった。
「こんな情況で挑発するヤツがあるか。」武田が小声で言った。
言い終えてまるで子供を叱っているようだと気づいて武田自身が慌てた。だがいつものように凜から反発する言葉が返ってこない。意外に感じて思わず様子を窺うと凜の目が潤んでいる。唇をわずかに震わせて武田に訴えた。
「俺は、…悔しかったんだ。」
黒田が飛び込んできた。男はまだ床に押さえつけられている。上着のポケットから結束帯の袋が取り出された。凶器は無い。「署に連行する。」と黒田が力強い声で指示した。それから凜に「ケガはどうか。」と尋ねた。凜の頭から右のこめかみを通って首筋に流れた血の跡が乾いてこびり付いていた。
「平気。」と凜がきっぱり答えた。
このとき捜査員に引き起こされた男が憎悪にギラギラと光る眼を凜に向けた。「おい。」と口を開いた。
「俺が本を書いてやる。獄中のベストセラーだ。」
「黙ってろ。」と捜査員がたしなめた。
「女のお前にも読ませてやる。」男が続けた。「あの天使がおとなしくなった後、俺が何をしたか。」
凜がいきなり男に向かって突進した。直後に激しい衝撃音が壁に響き渡った。凜の頭突きがさく裂したのだ。ガックリと首を垂れた男の鼻孔から水道の蛇口をひねったように二筋の血が流れ落ちて上着とズボンに降りかかった。凜の両手が男の左右の耳のあたりで頭髪を掴んだ。黒田は慌てた。凜と男の顔の間に腕を差し入れた。
「ま、待て。」押し殺した声を出した。この場の音声はモニターされている。凜の名を口に出すのをかろうじて避けた。
だが柔道で鍛えた凜の握力はすさまじく、黒田の力でもその拳をほどくことが出来ない。握りしめた男の髪をすべて引き毟(むし)るのではないかとすら思えた。
「…待て。」と繰り返した。
その声に凜がゆるゆると黒田を振り向いた。だがその眼に黒田の姿が映っていたかどうか。見開いた凜の眼に涙がとめどなくあふれ続けていた。
黒田は胸を突かれた。黒田も娘の父親だ。凜の怒りと悲しみが良く分った。
「もう良い…。」と凜をなだめた。「もう良い…。」静かに繰り返した。
凜の指から力が抜けた。
武田が遠慮がちに凜を支えた。凜は体を武田に預け、両手で顔を覆って声もなく泣き続けた。
(つづく)
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