第12話

「女刑事物語 (12) 」 C.アイザック

 朝、蒲生が所轄の刑事達に声を掛けた。

「手が空いた者は朝倉刑事を手伝え。勝警部の班ではいくつか動きがあったようだ。こちらも車の使用者に不審な者がいるのかいないのか、早くはっきりさせなければならん。その後のこともある。」

勝班とは誘拐現場と周囲の校区内の捜査にあたっている刑事達を指す。本庁の六十人と所轄の二十人、そして当初衣類の発見を目指した二十人が合流した主力部隊だ。

 凜と武田の近くに四人が集まった。タクシーの車載カメラから割り出した車を調べていた面々だ。既に全員の聴取を終えていた。凜は自分の抱えた捜査対象を三班で均等に分けようと告げた。

「お願いします。」武田がナンバー情報の記された数枚の紙をテーブルの上に広げると刑事達が立ったまま各々が手に取った。

 凜が何気なく会議室の出入り口を見ると藤原が横切っていくのが目に入った。大会議場の方から来たようだ。

「藤原さん。」

声を聞いた藤原が引き返して室内を覗いた。凜が微笑して小さく手で招くと、苦笑しながら歩み寄った。

「はい来ましたよ。」

「ご免なさい。そちらでは何か動きがあったと聞いたわ。」

「動き? ああ本庁がDNA型鑑定に五人を持っていった。防犯カメラの影像などから話を聞いていたのだが、運行の目的地などの裏がとれなかった者達だ。だが結局三人はDNA型が一致しなかった。しかし残りのうち一人が区民公園の近くに住んでいる。」

「えっ?」

「近いといっても公園の西側に約二キロの距離だが。」

「その人は建設業関係者?」

藤原が首を傾げた。「設計事務所の依頼で完成後の建築物の絵を描く仕事らしい。建設業と言えるかどうか。」

「作業靴があるかしら。ガサ入れはしないの?」

「DNA型を鑑定してるんだぜ。ガサ入れはまだ眼中にないだろう。」

「それも…そうね。」

「あと数時間で結果が出る筈だ。本庁が十人くらいで張り付いている。」

「他には?」

「係長が被害者の部屋から人形を一つ預かった。両親の話から、犯人が児童に与えたものと疑っている。」

凜が眼を光らせた。「それがあってもおかしくないと思っていたわ。大きな手掛かりかも…。」

「ところが、だ…。」藤原が凜の顔を見つめた。

「その人形を誰が何処で買ったか突き止めるのは不可能に近いらしい。」

凜は少しも納得しなかった。

「そうかしら。レジの記録があるだろうし、お店の防犯カメラが必ずレジを向いてるはずよ。」

「いや、販売の主流は通販らしい。」

「それこそ完璧だわ。購入者の情報が明白になっているわけよね。」

「そのとおりなんだが、どうも会社側がその提供を嫌がったようだ。」

凜は意外だった。「何故…?」

「個人情報だというのがその理由らしい。」

「でも、殺人犯の捜査だよ。協力しないなんて信じられないわ。」

「会社側ではかなり神経質になっているようだ。考えてみれば、自分の銀行口座などの個人情報が無断で明かされないことが通販の前提だ。そして会社は外に情報を明かさないことをユーザーに約束してその情報の登録を行なっている。慎重になるのはやむを得ないところだな…。」

「私達は銀行口座を知る必要はないわ。」凜は不満そうに口にしたが、その人形が通販でおよそ六万個を越えて販売された事を凜も藤原も理解していなかった。

 実は通販の情報の入手については黒田と伊達、そして北条の間で検討されていた。

黒田が玩具メーカーの姿勢を報告すると伊達は「会社の立場はそれとして、捜査の理解と協力を貰うということなら問題はないのではないか。」と意に介さなかった。

「私もそう思ったのですが、課長のお考えはどうですか。」黒田が北条に意見を求めた。

「もし…、現行の捜査が行き詰まってしまうようなことがあれば、そちらへ手を広げる必要が出て来ます。その際は全ての情報でなく、対象の商品を購入した都内の居住者に限って氏名と住所を明かして貰うなど制限付きの依頼ならば強引な捜査との批判は当たらないのでは。」

黒田は一つ頷いてから「応じて貰えない会社があったとして、令状は無理でしょうね。」と聞いた。

北条は首を振った。

「令状の請求は裁判官を困らせるだけです。そこは捜査員の人間力で会社側の協力を勝ち得るしかないと思います。」

「ははあ…。でも今は具体的な捜査は必要無いと。」

伊達が引き取った。

「今は藤原の言った不審者を特定するのが先決だ。車の捜査も大詰めを迎えつつある。こちらに全力を傾けよう。だが黒田は予備捜査の意味で玩具の小売店を少しあたってみてくれ。こちらもカードや携帯での支払いが多そうだ。現金を含めてレジの内容がどうか、従業員の客への印象や記憶など、感触を探ってくれ。」

こうしたやり取りがあった。

 

藤原が凜をはじめ所轄の刑事達を見まわした。

「それとは別だが…。」と少しもったいをつけた言い方をした。

「通学路に面したマンションの建築現場で不審な行動をした人物が目撃されていた。例の作業靴を履いていたらしい。今その男を追っている。」

「所轄で?」

「本庁とウチとでだ。…そっちはどうだ。」と逆に聞いた。

凜が肩をすくめると武田が代わりに口を開いた。

「手応えがまるで無いです。」

もう一人の刑事が、周りに人がいなくなったのを見計らって言った。

「本庁の捜査員がNシステムを調べているんですが、ナンバー情報のほとんどが午前四時半頃に集中しているのが実情らしい。全部出勤の車ですよ。市場、流通、運輸、鉄道関係など早朝に職場へ向かうものなので、事件とは関係無いだろうと彼ら自身がこぼしています。」

「その建築現場の男は何か分ったの?」凜が話を戻した。

「いや、だが目撃された時期と時間帯が分っている。すぐに何者か特定できるだろう。」

 藤原はそう考えていた。だが二日目に入っても男が何者か浮かんでこない。四十人の捜査員がマンション工事に関わった会社を調べているのだ。それらしい人物を捜し当てられないのが不思議とも言えた。このため伊達は目撃証言を補う情報が無いか確かめるよう藤原に指示した。

「タンの話が事実と違っていたのですかね。」尼子が言った。「また八王子まで行きますか。」

「世田谷の方へ行ってみよう。タンが見たというなら型枠工事の他の作業員も見ているかもしれない。」

「確かにそうですね。」

二人が建設現場に着くと、生コンの工事の最中だった。コンクリートを圧送するポンプ車のエンジンが唸り、並んで停まったミキサー車のドラムが忙しく回転していた。制服姿のガードマン三人が付近の道路を監視して交通の誘導にあたっている。活気に満ちた雰囲気が辺りを包んでいた。話を聞くにはタイミングが悪かったのだが、もうすぐ終わるというミキサー車の運転手の言葉で待つことにした。

 やがて柴田が怪訝そうな顔で刑事達の前に来た。

「お忙しいところを申し訳ありません。あれからタンさんと会いましてね…。」

藤原がそう切り出すと眼を丸くして驚いた。

「何処にいたんですか、元気でしたか。」

「都内です。元気そうに見えました。次の実習先を探しているようです。」

柴田はホッとしたのか少し表情を緩めた。

藤原が本題に入った。

「実は…タンさんに聞いたのですが、稲荷町のマンションの現場で作業中に不審な人物を見たというのです。」

「不審な?」

「工事用のシートの隙間から外を通る小学生を窺っていたらしいのです。二十代前半で身長が百六十くらい、赤と白の線が入った運動靴のような作業靴を履いていたそうです。心当たりはありませんか。」

「…いつ頃の話?」

「昨年の一月。二十日頃ということですが日付ははっきりしません。」

柴田は腕を組んで首を傾けた。

「どうかな…。」

「作業着の上着がグレーでズボンが黒、ヘルメットが白だったそうです。」

「う…ん。」低く唸った。

「分んないね、誰のことか。…あの現場はたくさん会社が入っていたし、会社によっては何時も同じ顔ぶれってことじゃ無いからね。ま、念のため他の者に聞いてみる?」

「お願いします。」

柴田はしかし、歩きだしてすぐに立ち止まった。刑事達を振り向いて言った。

「その話、考えてみりゃ変だな。」

「えっ?」

「稲荷町の工事で一月といえば、たしか五階を施工していた。シートの間から下を覗いてもよく見えないのじゃないかな。」

「ははあ…。」藤原が曖昧に頷いた。

「五階の高さの足場から見下ろしても歩行者の顔はよく分らないと思うね。シートの隙間から見える範囲は狭いからね。」と柴田が繰り返した。

「なるほど、もしかするとタンの勘違いか…。」藤原は気が抜けそうになった。

「しかしですよ、」尼子が口を挟んだ。「タンは二日続けてその男を見たと言っていました。同じ行動をしていたと言うのですから、勘違いとは思えないです。」

「とにかく、他の連中を呼んでくるから聞いてみたら。」

柴田が気さくな調子で建物に消えた。藤原は眉間を寄せていた。不審な男は実際には存在しないのか。

 すぐに柴田が数人を従えて現われた。「休憩所で話しますか。」

目前の駐車場らしい空き地にプレハブの現場事務所と休憩所が並んでいる。その狭い休憩所にはスチールの事務机と細長い机、パイプ椅子が十脚ほど置かれていた。

「お疲れのところを申し訳ありません…。」藤原が口を開き、タンが目撃した不審な男のことを説明した。「皆さんで何か気付いたことがあれば教えてください。」

作業員達は無言だった。視線を上げようとしない。相手が刑事と知って緊張しているようだった。

そんな男達の顔を見まわして柴田が言った。

「その頃は五階をやってたからな、外を見ていた者がいたとしたら景色でも眺めていたんだろうよ。ま、深く考えずに、覚えていることがあったら刑事さんに話してくれ。…気楽な話しで良いんだ。俺はそう思うけどな。」

沈黙が続いた。誰も口を開かない。

藤原が諦めかけたとき、一人が椅子の上で体を小さく動かして言った。「それ…、去年の一月の、二十日頃かな…。」

藤原が男を見つめた。尼子は鳥肌が立つ思いだった。タンは一月の二十日と言った…。

男は柴田と変らない年齢に見えた。無精髭は白髪が目立った。その顎の辺りを爪で擦った。柴田を見て同意を求めるような口振りで語りかけた。

「セパが足らずにカスヤに持ってこさせたのが二十日頃だった。俺がタンに二階まで何度か取りに行かせたんだ。だからタンが妙な男を見かけたのはそのときじゃないかな。」

「ああそうか。なるほど、それなら話が合う。」柴田が大きく頷いた。

「…どういう事です?」

藤原の問いに柴田が答えた。

「あそこの二階に、ウチの資材の一部を置かせて貰っていたんです。そこへ材料を取りに降りて、タンはその男を見かけたんでしょう。それなら男の行動が納得できるね。なにしろ小学校の通学路に面していたから、歩道側に鋼製のフェンスを建てていてその高さが二千五百だった。何を見ていたか知らんが、通行人を見るには二階の足場がちょうど良かっただろうな。」

「つまりタンさん以外はそこへ降りなかったわけですか。」

藤原が問いかけると全員が黙って肯いた。藤原は無精髭の男に尋ねた。

「今、誰かが何かを持って来たと聞こえましたが、タンさんが見たのはその人かも知れませんね。カスヤさん…かな。」

「ああ…、そうかもな。」無精髭の男が言った。「カスヤは建材店でね、あのとき材料を現場に届けて貰ったんだが、タンは従業員の大友を見たのかもな。」

「オオトモ?」藤原が繰り返した。

「いや、待てよ。大友は前に辞めたんじゃなかったかな。」と柴田が男に言った。

「少し待ってください。カスヤという建材店がマンション工事の現場に材料を届け、そこの従業員に大友という人がいた?」

藤原が念を押すと柴田は一度肯いたがすぐ自信無げに呟いた。

「たしか大友は、辞めてたと思うんだが…。」

藤原が手帳を持ち出した。「カスヤの住所を教えてください。」

柴田が言った。「あそこは廃業しちゃったよ。」

「えっ?」

「ちょっと待ちな。」柴田が手帳を出して住所を読み上げると、尼子が思わず藤原の顔を見た。それは遺棄の現場となった区民公園の辺りなのだ。

「もう無いかもしれないけどね…。カスヤ建材、カタカナのカスヤね。」柴田は念のためと言って電話番号を伝えた。

藤原が口にした。「調布の会社とは随分離れてますね。」

「粕谷さんは社長の大学の同窓でね、昔から仲が良かったと聞いてるよ。その関係で取引していたのさ。」

そのあと柴田は声を落として続けた。「だけど十年になるかな、息子が家業を継がないとはっきり言ってね、すっかり気落ちしてしまったところに今度は本人が脳梗塞をやってさ。それでも細々とやってはいたんだけど、廃業するしかなかったのかな…。」

「カスヤさんの名前は分りませんか。」

「それは分からないけど自宅の電話番号があるよ。」と手帳の番号を藤原に伝えた。

二人の刑事は礼を述べてそこを辞した。藤原は慎重な構えだったが尼子は当初興奮を隠せないようだった。

「施工会社を調べてもこの男が浮かんで来なかった筈ですね。建設資材を運んで来た人物だったんですね。…いや、まだ分らないことですけど。タンが建材会社の従業員と面識がなかったと考えるのが前提になるわけですが、それは不自然かな…。」とだんだん冷静になってしまった。

藤原が粕谷氏に電話を入れたが相手は出ない。暫くコールして不在と判断した。次ぎにカスヤ建材の番号にかけた。こちらの電話は使われていなかった。

「カスヤ建材の住所に行ってみよう。」藤原が言った。


 そこは区民公園から一キロメートルほどの場所だった。古ぼけたブロック塀に囲まれている。道路に面した隅に小ぶりの看板が立てられていた。「カスヤ建材店」の色褪せた文字が読めた。五メートル幅くらいの出入り口は柵状のフェンスで閉じられ、その端は金属の支柱にチェーンで幾重にも巻かれていた。フェンスの間から敷地を覗くとすぐ右手に屋根だけ付いた車庫があり、左側は低いブロック塀が奥に続き隣接する小さなビルと白く細い柵で仕切られている。先のほうに資材庫がポッカリ口を開けていた。中は空に見えた。その隣、突き当たりに事務所らしい平屋の建物があり、壁に「Z金具あります」と書かれたプレートが見えた。あたりに人の気配は無く、冬の冷たい風が吹き抜ける。

カスヤ建材店は確かに廃業していた。藤原は左隣のビルに足を向けた。建材店の従業員のことなどを聞きたかったのだがふと立ち止まった。そこの敷地もフェンスが閉じられ「立ち入り禁止」の文字があるのに気づいた。「管理 ネクステージ不動産」の看板がある。藤原は建物を見上げた。三階建ての事務所用ビルだ。

この時、藤原の電話が鳴った。署の刑事課からだった。グエン・ジュウ・ナンと名乗る人物から入電しているという。すぐに携帯につないで貰った。

「藤原です。」

「あの時の刑事さんですね。」と物静かなナンの声が聞こえた。「タンが想い出したことがあるというのです。工事用のシートの隙間から外を見ていた男のことです。作業服の胸に『大』の文字があったそうです。いまタンに代ります。」

相手が代る気配を待って藤原が勢いよく尋ねた。

「タンさん、男のネームを想い出したのですね。」

「漢字で『大女』と書いてあった。」タンの声が答えた。

「大女?」

すぐにベトナム語らしい言葉が聞こえた。ナンが何か言ったのだ。続いて二人の間で短いやり取りが繰り返された。

「もしもし…。」藤原が呼びかけた。

ナンが応えた。「大女という名前は聞いたことがないので、大のつく漢字をいくつか見せました。例えば大山、大木、大村などですが、これという記憶に結びつかないようです。」

「大友という文字をタンさんに見せてもらえませんか。」

短い間があってナンの声が聞こえた。

「大の字以外はよくわからないと言っています。」

「分かりました。ありがとうございます。」

藤原が二人に謝意を伝えて通話を終えると、待っていたように尼子が口を開いた。

「大友ですね。漢字が似てます。タンが大女と読んだのは大友のことでは無いでしょうか。するとやはりカスヤ建材店の人間だったことになるのでは…。」

「可能性は高い。」

藤原は黒田に連絡を入れたが出先を移動中だという。参考人が浮かんだと告げると課長に伝えるよう指示された。その話の内容を聞いた北条はすぐさま伊達につないだ。

「応援が要るか。」と伊達が聞いた。

「まだ何とも言えません。とりあえず正確な氏名と居所を明らかにします。それから本人に話を聞いてみようと思います。」

「よし、分かった。」

伊達の力強い声が聞こえた。同時に捜査本部の騒がしい雰囲気が伝わってくる。

「何かあったのですか。」藤原が質問した。

「こちらでも例の作業靴の男が一人浮かんでいる。荷揚げと呼ばれる内装工事用の資材を運ぶ会社の従業員だ。だがそっちの方が臭うな…。気を引き締めてかかってくれ。」

伊達はそう答えたが藤原が感じ取った騒がしさは別のところに原因があった。被害児童が全裸で発見されていたとテレビの特番が伝えてしまったのだ。

警視庁は児童が身に着けていたベージュのジャンパーと赤いランドセル、ピンクの手袋を探しているとだけ発表していた。テレビ局が何処で情報を得たか不明だが、すぐに他の局も一斉にこれに倣った。捜査員らは舌打ちしたい気分だった。全裸報道に意味があるとは思えなかった。

伊達と北条が急遽話し合った。既に状況が明らかになってしまった以上、着衣を細やかに公表して情報を求めることが考えられた。それはテレビ局の報道を追認することになるが、二人は遺族を訪ねて事情を説明し意見を求めることにした。犯人が衣類を所持していた場合、公表が犯人に何らかの行動を促すかも知れないと考えたのだ。新たな手掛かりを得る機会となる可能性があった。


 二度目の電話で相手が出た。「粕谷でございます。」年配の婦人らしい上品な声が聞こえた。

「カスヤ建材店を経営されていた粕谷さんのお宅でしょうか。」

藤原の問いに夫人が答えた。

「左様でございます。けれどもう会社は廃業いたしておりますの…。」

「存じております。私は港中央署の藤原と申しますが、以前そちらに勤めていた大友さんについて詳しく知りたいのですがご協力願えませんでしょうか。」

「ええ、ええ。大友は良く知っております。あの方がどうされたのでしょう。」

「失礼ですが経営者の奥様でしょうか。」

「左様でございます。」

「ご主人はご在宅でしょうか。」

「…主人は港中央病院に入院しておりますの。」

かつて建材店を営んでいた粕谷は一週間前に二度目の脳梗塞を発症し入院していた。

藤原と尼子は夫人を大井町の自宅に尋ねた。夫が入院し、子らは別居していて婦人は一人暮らしだった。刑事達を客間に通し、辞退したにもかかわらずお茶と大量の煎餅を用意した。

「ご主人の容態はいかがですか。」藤原が尋ねると見舞いの言葉と受け取って婦人はゆっくり頭を下げた。

「有り難うございます。おかげさまで症状は軽くて済みました。救急車で病院に運んで頂きましたので…。ですが言葉の方がやはりまだ明瞭でありませんで、申し訳ありません。」

「それはご心配ですね。」

「でも先生から一ヶ月ほどで退院できると言って頂いて、安心はしておりますの。」

藤原が何度か頷いて本題に入った。

「私共は電話でお伝えしたように大友さんの住所など教えて頂きたいのですが。」

用意してありますと席を立った夫人はやがて薄い書類を手にして戻った。顔写真付きの履歴書だった。彼女は刑事達の用向きが気がかりな様子で、「大友は本当に真面目な良い子ですよ。」と口にして履歴書を差し出した。

それによると氏名は「大友良平」、住所が千束のアパート新栄荘、年齢二十五歳であることが分かった。履歴書の日付が五年前の九月。

「大友さんはいつまで勤めていたのでしょうか。」

「一昨年の十二月です。主人が十月に脳梗塞をやって、息子は金融機関に勤めていて茨城の支店にいるものですから、会社は休業状態になるところだったのですけど大友が一人で頑張ったんですよ。主人は廃業を決めていたのですが、在庫があるうちは顧客に迷惑かけたくないと言ってね…。あんなに真面目で優しい人はそういませんよ。」

「十二月の何日まで働いたのでしょうか。」

「十二月の二十日です。主人が倒れてからちょうど二ヶ月でした。」

「今の勤め先はご存知ですか。」

「はい、宅配便の会社におりますの。」夫人は大手の運送会社を口にした。「お客様のお荷物を責任を持ってお届けするお仕事であの子ならきっと立派にやり遂げますわ。もし何かあったらいつでもおいで、そう言ってありますの。ええ、今度は私がきっと力になるってね。こんな年寄りですけど…。」

尼子が履歴書につけられた大友の顔写真を携帯で撮影した。思いがけず大きなシャッター音が聞こえて粕谷夫人の顔がこわばった。

尼子が藤原に小声で囁いた。「一月二十日とは、一ヶ月のタイムラグがありますね…。」

藤原が夫人に尋ねた。

「大友さんが辞められた後は営業されなかった?」

「そうです。後は主人がぼつぼつと事務所の後片付けをしておりました。」

藤原が身を乗り出した。

「昨年の一月にカスヤ建材店さんが稲荷町の建設現場に資材を届けているんですが、大友さんに一時的な手伝いをもらったんですかね。」

「さあ…、そのようなことは聞いておりません。昨年の一月には在庫もほとんど無かった筈です。」

「分かりました。後ほどご主人にお話を聞くかも知れません。…勿論容態が回復されてからのことですが。」

このとき夫人が意を決したように刑事達に訴えた。

「大友に、何か間違いがあったのでしょうか。あの子は真面目で正直な子です。本当なんです。」


 千束のアパート「新栄荘」は古びた二階建てだ。上下合わせて四所帯で、一階の二号室に「大友」の文字があった。まるで昭和にタイムスリップしたかのような雰囲気だ。

既に時計は午後四時を回って辺りは薄暗い。何処も留守かと思われたとき一号室の台所あたりの窓に明りが点った。

「今日は。」と藤原が外から声をかけた。

ややあって「誰?」と婦人の声が応えた。

「お隣の大友さんは何時頃お帰りですか。」

藤原の問いにはすぐに答えずドアを細く開けて刑事達を見た。怪しい者ではなさそうだと感じたのか玄関の灯りを点けてドアを開いた。五十代の太った婦人だ。

「まだ帰っちゃ来ないよ。だいたい八時前だね。」

礼を述べて藤原がその場を退いたが、婦人は尼子を捕まえて話し続けた。

「十二月は夜十時、十一時はしょっちゅうさ。ほら、お歳暮があるだろ。とにかく忙しくてたまんないと言ってたよ…。真面目な人だからね。それにほら、何といっても若いしね。」

藤原は建物の脇を抜けて裏に回った。狭い庭に白い支柱が置かれ物干し竿が掛かっている。縁を降りればすぐに低いブロック塀を超えて隣地に出ることができる。そこを抜ければ道路だ。戻った藤原が尼子に言った。

「その気があれば逃走は容易だ。応援を呼ぼう。」

尼子が無言で肯いた。

              (つづく)





    「女刑事物語(12-2)」  C、アイザック

 午後十時になっても大友は帰らなかった。刑事達はアパートの表と裏で張り込んでいる。車の中は冷え込んだ。

「まさか逃げたのでは…。」そう口にして尼子は寒さに背筋をブルブルと震わせた。

藤原が無言でいると、「粕谷夫人が何か伝えたのかも知れませんね。」と小さな声で続けた。

藤原は後悔していた。午後五時頃に運送会社に大友の在籍を確認した。品田営業所に所属していることが分かった。営業所に直接向かうべきか迷った。だが行き違いになる可能性がある。本人を電話に呼び出すのも控えた。身柄を押さえられる環境で話を聞きたかった。

…慎重に過ぎたかも知れない。もし逃亡されたとしたら自分の落ち度である事は否めない。苦しい思いが頭を掠めた。

 終電の時間を過ぎて藤原が張り込みを解くことを伊達に報告した。事件発生以来、伊達は捜査本部に泊まり込んでいる。「明朝、勤務先で待ちます。」と伝えると、二つ返事で了承した。一班をそのまま残すから心配するなと藤原に伝えた。

このやり取りを聞いていた尼子が「遅くまで呑んで最終に乗りそびれたのかも知れません…。」と気休めを口にした。


 凜は午後十時に帰宅した。香織に「ただ今。」と小さな声をかけて娘の寝室に向かった。仄暗い室内にエアコンと加湿器の微かな音が響く。美風は片手を頭の上に出して眠っていた。顔を近づけると穏やかな寝息が聞こえる。そっと手を握って自分の手の冷たさに驚き、慌てて娘の手を布団の中に押し込んだ。

 …この子はきっと美人になるわ。美風を見つめて凜は何時もと同じ感想を抱いた。幼い体に愛らしい命が宿っている。だがその輝くような光が突然奪われた現実がある。凍える公園の芝生に横たわる白い小さな体が凜の脳裏に甦った。凜は固く唇を結んで娘の寝顔に見入った。

「凜…。」香織が部屋を覗き込んで小声で呼んだ。そのまま立ち去る。凜はゆっくり立ち上がった。

キッチンに戻った香織は憂い顔で溜息をついた。凜が向かい合って腰を下ろすのを待って口を開いた。

「凜…。もう良い頃じゃないかい?」

「えっ?」

「もう…警察を辞めても良い頃じゃないかね。」

「…どうしたの。」

香織が凜の眼を見つめた。

「美風はもう四日お前の顔を見ていないんだよ。こんな可哀想なことがあるかね。」

凜は無言でうつむいた。

「お前はこれまで立派に勤めを果たしてきた、私はそう思うよ。お父さんだってきっと満足しているよ。だから…もう警察は辞めておくれ。お前は母親なんだよ。頼むよ、凜。」

凜が悲しげな眼で香織を見た。

「ご免なさいお母さん。…美風をお願いします。」そう言って静かに頭を垂れた。

香織は娘から眼を逸らせて、また溜息をついた。


 大寒が近づいている。寒い朝だった。藤原と尼子は宅配運送会社の営業所で大友の出勤を待った。だがこの日、大友は公休日だった。

タイミングの悪さに戸惑いながら、それを伝えた所長に藤原が尋ねた。「公休日は前から決められていたのですか。」

「そうですよ。」答えて訝しげに刑事達を見た。やむを得ず藤原は身分証を出した。刑事が訪ねて来たことを大友の耳に入れたくない意識があったのだ。

所長は驚いて質問した。「交通事故の捜査ですか。」

「そうではありません。…大友さんは休みを利用してどこかに出かけられたのでしょうか。」

「どうですかね…。」所長は配達物の仕分け作業中の若い社員を側に呼んだ。

「大友はどこかに行くようなことを言っていた?」

「全然。」と若者は答えた。「昨日一緒に呑んだんです。で、うちに泊まって今朝別れました。そんな話は無かったし、だいいち連休じゃないですから。」

刑事達はすぐにそこを辞した。千束のアパートに向かう。張り込みに残った一班も早朝に引き上げていた。信号待ちで尼子がハンドルを小刻みに指で叩いた。

「焦らなくても良いよ…。」と藤原が口にしたが、まるで自分に言い聞かせるようだった。

 新栄荘に着くと二号室の前に置かれた洗濯機が動いている。尼子が建物の角に走った。いつでも裏手に回れるようにだ。

藤原がドアを叩いた。「今日は。」と声をかけた。

「はあい…。」というような返事が聞こえた。すぐにドアが開いて若い男の姿が見えた。

「大友さんですか。」とかろうじて藤原が問いかけた。

「はい、そうですが…。」

藤原は呆然として若者を見つめた。痩せてはいるが背丈が百七十センチを越えている。

「カスヤ建材店にいた大友良平さん?」と繰り返した。

「そうだけど…。」

素早く近づいた尼子の足が止まった。…違う。衝撃を受けた。藤原の前に立つ若者は尼子より長身に見えた。タンは不審な人物の身長が百六十センチくらいだと言った…。

藤原が気を取り直して口を開いた。

「港中央署ですが、少し話を聞かせて貰っても良いですか。」

大友は不安そうな表情を見せたが、黙って肯いた。

「カスヤ建材店を辞めたのはいつですか。」と藤原が質問した。

「もう一年も前ですよ。」

「正確なところは…?」

「一昨年の十二月です。」

「そのときあなたの他に従業員はいましたか。」

「いや、いませんでした。」

「大友さんは四年くらい勤めていますね。その間あなた以外に従業員はいなかったのですか。」

「従業員はもう一人いました。それと事務員さんと。でも社長が廃業を決めて、二人とも退職しました。」

「突然に廃業が決まったのですか。」

「半年ほど前に相談という形で…。でもその後社長が倒れたので、すぐに辞めるわけにもいかなくなって、結局年末までいました。」

「実は…。」と藤原が声をあらためた。「大友さんが退職した一月後の一月二十日、カスヤ建材店が稲荷町の建築現場に資材を届けているのですが、何か知ってますか。」

「知りません、在庫は無かったはずですよ。残っていたのはセパくらいだった。地ガネで処理すると社長が言っていました。」

「そのセパを届けたということなんですが、誰が運んだか知りませんか。」

「いや…。」大友が首を傾げた。

「もう一人いた従業員の名前はなんといいます?」

「田原さんです。」

「年齢は? 幾つくらいでしたか。」

「三十二歳だったと思う。」

「身長は?」

「百七十センチくらい。…でもそれは粕谷社長に聞けば誰が届けたか分かるんじゃないですか。」

藤原は大きく頷いてみせた後「カスヤ建材店には作業服が、制服がありましたか。」と聞いた。

「ありました。」

「上着だけですか。」

「いえ、上下服です。薄いグレーの…。」

「それは従業員のネーム入りですか。」

「はい。左胸のところに社名と名前が…。」

「大友さんはその制服をどうされました? 退職時に持ち帰られたのですか。」

「いや、会社に残しました。もう着ることもないと思いましたから…。」

それ以上聞くことは無かった。「有り難うございました。大変参考になりました。」藤原は軽く頭を下げて礼を言った。

大友は物問いたげに、しかし無言で刑事達を見送った。

 歩きながら尼子が囁いた。「違いましたね、大友じゃなかった。と、なると…。」

「港中央病院に行こう。」と藤原が言った。


 病院の面会時間にはまだ三時間ほどあったが、ナースステーションで身分証を示して特別に面会の許可を求めた。しばらく待たされて、白衣の医師が姿を見せた。

「短時間の面会は可能ですが、親族の方の了承が必要だと思います。それが確認出来れば構いません。」と医師が言った。

「少し待っていて貰えますか。」藤原は急いで粕谷夫人に電話を入れた。

すぐに夫人が出た。藤原が粕谷氏と病室で面会し尋ねたいことがあると伝えた。「今、病院にいるんです。」とつけ加えた。

「でも、夫は言葉が…。」夫人は電話口でためらった。

「簡単なことを知りたいのです。あなたの許可が必要と医師に言われています。お願いします。」

「…分かりました。ですが、今から私が病院に向かいます。着くまでは待ってください。」

夫人は妥協を許さない雰囲気を感じさせて電話を切った。

「粕谷夫人がここに来るそうです。面会に立ち会うとのことです。」

藤原が医師に伝えると彼は看護師に面会の許可を指示した。

 藤原はとりあえず黒田に状況を報告した。病院で待機すると告げると黒田が「容態を確かめて、慎重にやってくれ。」と口にした。


 伊達は鑑識から届けられた書類に目を通していた。それは防犯カメラやドライブレコーダーに車影が残されてはいるがナンバー情報が不明なデータから車種と年式、色を割り出したリストだ。伊達の求めでこの作業に取り組んだ鑑識員たちはそれをパズルと呼んだ。例えばドライブレコーダーを搭載した車が信号を待っている。その位置と時刻、進行方向は明らかだ。前面を車が通過する。この影像にナンバー情報が残されていなくても車種と色が分かる。そこからその車が通った道路にある防犯カメラや他の車載カメラとの関係をチェックする。この作業を組み合わせて通学路付近を通過したナンバーが不明な車を浮かび上がらせ、把握しようというものだ。結局五十車種五十五台がリストアップされていた。その数は商用トラックを除いても品川ナンバーで登録されたものだけで六万七千五百台にのぼった。膨大な数だ。

 伊達は決断していた。軽自動車の捜査を優先する。刑事の勘だ。少女が消えた狭い道を何度も歩いていた。その場所での誘拐は小さな車の使用者でなければ発想できないと思えた。迷いは無かった。捜査対象を軽自動車に限定するとその数は一万五百台。隣接する地域の世田谷ナンバーを含めても一万四千台あまり。車体の色を条件とすれば短時間で三千台くらいまで絞り込める。この捜査に蒲生警部の班を当てようと伊達は考えていた。蒲生班は手掛かりを得られないまま捜査を終えようとしていた。


 病室の粕谷は弱っているように見えた。顔の表情を保つのに苦労している。夫人がはらはらした様子で枕許に佇んだ。藤原が知りたいことはただ一つ、セパを運んだのは誰か。粕谷の目はしっかりと刑事を見つめている。症状は軽くて済んだというのは確かだろう。だが前回の発作による後遺症に影響されているのか言葉が明瞭でない。

「セパを運んだ人の名前を教えてください。」

藤原の問いに粕谷が答えようとするが口の動きが伴わない。母音があやふやに連続するだけだ。「う、う…。」としか聞こえない。

筆談を求めたがそれもできないと分かった。藤原は質問を変えた。

「ゆっくりで良いですよ。その人の名字は、最初はなんですか。ア行ですか。私の言うことが合っていたら少しだけ頷いてください。」藤原は必死だった。「最初の一文字はア行ですか。」

粕谷の顔が刑事を見たまま動かない。

「ではカ行ですか。」

やはり動かない。

「サ行ですか。」

粕谷がゆっくり頷いた。

「サ行ですね。それはサで始まるのですか。」

粕谷はまた静止した。

「ではシですか。…違うのですね。スですか。」

粕谷が頷いた。

「スですね、分かりました。では二文字目はア行ですか。…カ行?…サ行?」粕谷が頷く。

「サ行。それはサですか。…シ?…ス?」また粕谷が頷いた。

「スですね。そうするとススと続くわけですか。」

粕谷が手を持ち上げた。その指が激しく震えている。藤原は驚いた。容態が急変したのか。

「あなた…。」夫人が悲鳴に似た声をあげた。

だが藤原は震える指を見て気づいた。

「濁点ですね。スズ…。スズキ?」

粕谷が頷いた。

「もう止めてください。お止めになって!」夫人が訴えた。

「奥さん、これは大事なことなんです。」藤原が応じた。

「私にとって大事なのは主人でございます。」

「あと少しだけ、お願いします。」藤原は返事を待たずに粕谷に目を戻した。

「スズキの下の名前はなんです?」

夫人は両手を握り合わせてつかの間藤原を見つめると、急ぎ足で病室を出て行った。

「スズキ、その先は?」藤原の問いに、粕谷は懸命に手先を振ろうとしている。呻き声が口から漏れた。

「もしや、下の名前はご存知ない。」

粕谷が小さく頷くと、尼子が藤原の後ろで永い息を吐いた。

「鈴木さんは、何処の人ですか。」藤原があらためて尋ねた。

夫人が看護師と病室に戻ってきた。

「何処の鈴木さんにセパの運搬を頼んだのですか。」

粕谷は答えようとしているが、言葉が聞き取れない。ついに溜息をつくと目を閉じてしまった。

夫人が刑事たちに訴えた。

「もう止めてください。今日はお止めください。私が聞いておきますから…。」

「誠にすみません。しかしご主人は質問に答える意志を持っておられます。」藤原は食い下がった。鈴木、だけでは話にならない。

看護師が口を挟んだ。「面会は短時間とドクターに言われています。」かなり遠慮がちな口調だったが非難の目を藤原に向けていた。

 藤原は迷ったがひとまず引き下がるしかないと感じた。夫人と看護師の申し出を無視して病室に残るわけにはいかない。

尼子が夫人に名刺を渡して言った。

「ご主人が何か話されたら連絡をください。」

藤原は夫人に向かって深く頭を下げた。「無理なお願いをして申し訳ありませんでした。ご協力に感謝します。」と告げた。彼女に拒絶されてしまっては今後の聴取が困難になるかもしれないと考えられた。人の良い粕谷夫人はつい笑顔を見せそうになって慌てて難しい表情を作った。

 病院の駐車場に向う刑事たちの足取りは重かった。尼子が口を開いた。

「粕谷氏は名も詳しく知らない人物にセパを運ばせたのでしょうか。」

「名字しか知らなくても何処の人間か粕谷は知っているはずだが、とにかく容態が快復しなければ言葉も聞き取れない。それにセパとは一体どんな物かな。トラックで運んだとすると鈴木は運送会社の人間かも知れん。」

尼子は素早く藤原の横顔を窺ったが、さりげなく「セパというのは…。」と説明した。藤原が既に調べているだろうと思い込んでいたのだ。

「セパレーターが正式な呼び名で、建築用の金物です。ネットで調べたところコンクリート用の型枠を固定するもので、長さが主に十五センチから五十センチ、百本で五キロほどの重さです。」

「百本で五キロ? それならトラックどころかバイクでも運べるな…。」

「運ぶのを頼みやすいですよね。…でも鈴木とはどんな人物ですかね。タンの言う不審な男と同一人物だとすると粕谷さんとはかなり歳が離れているようですし、しかも粕谷さんは名前もよく知らなかった。接点が分かりにくいですね。」

藤原は考えながら言った。「それはやはり、カスヤ建材の会社がらみじゃないかな…。取引関係とか。」

「すると、取引があった建設会社の従業員ですか。そう考えると名字しか知らなくても不自然では無いですね。その人物に資材の配達を頼んだ…。少し唐突な気がしますが。」

「廃業を決め、資材はセパという物しか残っていないところに事情を知らずに建設会社の従業員が尋ねてきた…。資材を求めてきたとすると妙だな。まず電話をするのが普通だろう。」

「たしかにそうです。」

「まてよ…。」藤原が尼子を振り向いた。「あの奥さんは大友が辞めたあと夫が一人で事務所の後片付けをしていたと言った。脳梗塞で倒れて間がないのに?」

「経理上の書類の片付けだったのでは…。」

「それだけではなかったはず。事務用の備品が相当あったはずだ。机や椅子、キャビネット、OA機器。それの整理は粕谷一人では難しい。誰かが手伝っていたのではないだろうか。」

「事務用の機器の整理…。」尼子が呟いて要領を得ないように首を傾げた。

「つまり処分と言うことだ。」と藤原が説明した。

「OA機器から事務机、ロッカーのような物まで処分したはずだ。」

「あっ。」と尼子が声をあげた。

「処分業者、というかリサイクル業者ですね。そこの人間が粕谷氏の依頼で整理と片付けに来ていた…。」

二人の足がピタリと止まった。

「それが鈴木だ。」藤原の声に力がこもった。「その業者の伝票か領収書が残っているはずだ。病室に戻ろう。奥さんでもそれは分かるはずだ。」

二人は引き返した。尼子が自分に言い聞かせながら歩いている。

「粕谷さんとリサイクル業の男が備品の整理をしていた。そこに同窓の型枠会社の社長からセパの注文が来た。あるいはセパが残っているのを見て粕谷さんの方から社長に必要ならやるぞと連絡したのかも知れない。結局稲荷町の建設現場に運ぶことになった。居合わせたリサイクル業者の男に手間賃を払って頼んだ。だが現場管理者のてまえ、カスヤ建材の社名入りの作業着を着ていくように指示した。これが大友の作業着だった。…藤原さん、このセンですね。」

「そんなところだと思う。」

早急に鈴木の身許を特定する…。藤原が口を引き結んだところへ黒田から連絡が入った。捜査会議が開かれるという。藤原が状況を伝えた。

「例の不審な男の名が鈴木という人物らしいことが分りました。リサイクル業の関係者と考えられます。特定を急ごうと思いますが。」

「構わんぞ。」黒田が即答した。「こっちは良い。捜査を続けてくれ。」

 一呼吸後、黒田の頭を何かが掠めた。…リサイクル業? どこかで記憶に残っている。それは被害者の母親が口にしていた。…随分昔のワープロをリサイクルで引き取ってもらった、そう言った。突然それを想い出していた。黒田は藤原が報告した不審者をさほど重要視していなかった。目撃された日時と犯行まで一年の間隔がある。直接関係があるのか、疑問だった。だが今、黒田の中でそれは繋がった。報告の不審者と被害者の自宅を訪ねたリサイクル業の男が同一人物だとしたら…。母親は娘と業者が面識をもつことは無かったと述べたが、彼女の気づかぬところでたとえば帰宅した児童と玄関ちかくの路上で出会っていたのかも知れない。結果的にそれが犯行につながったとすれば納得できるものがある。藤原の追っている男がホンボシかも知れない。黒田が藤原に伝えた。「いつでも応援をおくる。」


 凜と武田は全ての聴取を終えた。結局一人すらDNA型鑑定に持ち込むほどのこともなかった。だが凜は気落ちしていなかった。むしろようやく自身の考える捜査ができると思えた。武田に声をかけた。

「健太、周辺の空き家を調べてみたいが、手伝ってくれるかい。」

「良いと思うよ。蒲生警部の指示は果たした。空いた時間を使うんだからな。」

「じゃあ、公園周辺の不動産屋をあたってみよう。」

 やがて二人は数件の空き家の情報を得た。入居物件の問い合わせと混同されてちぐはぐなやり取りもあったが、必要な地図を手にしていた。都心にかかわらず意外に空き家が存在している。公園に近い一軒家の前で車をとめた。

 塀が武田の肩までの高さだ。雨戸が締め切られ当然のことながら人の気配が無い。建物は古く、壁の一部に亀裂が走っている。狭い庭を覗き込んだ武田が「これは…。」と小さな声を上げた。

「どうかしたの?」小柄な凜には中が見えない。背伸びをしながら尋ねた。「何かあるのか。」

それには答えず「入口に回ってみよう。」と武田が促した。

閉ざされた細い鉄柵の門はあちこち錆びていた。おまけに中から大きな色あせた冷蔵庫がもたれかかって少し変形していた。冷蔵庫はテレビ台のようなものに不安定に乗っていて、周りを雑草が取り巻いている。側に古タイヤが数本あって、よく見るとそれは倒れた箪笥の上に積まれているのだ。

「ひどいなこれは…。」凜が思わず口にした。

空き家の敷地内は粗大ごみの不法投棄によって足の踏み場もない有り様だった。だがそれは同時に空き家への侵入が容易でないことを示していた。追っている事件との関係はないだろう。

「この辺りは地価も高いはずだが、なぜ売ってしまわないのかな。これじゃあ近所も迷惑だよね。」と凜が言った。

「売れない事情があるのだろうな…。」

「えっ、どんな事情?」

「例えば…、」と武田が一瞬考えこんだ。「相続なんかで揉めて、問題が解決できないとか…。」

「ははあ…。」凜が曖昧な表情で武田を見た。年下の相棒が自分より世の中を知っている、そう思うことが時々あった。

「次の場所に行ってみよう。」気を取り直してそう言うと地図を広げた。「売りに出された事務所ビルと廃業した建設資材の会社か…。空き家には違いないだろうけど…。」

 凜の携帯電話が鳴った。「朝倉。」とだけ応えた後、すぐに「了解した。」と短く口にした。

「健太、これから捜査会議だ。」と伝えた。その表情が曇っている。口をへの字に結んでいた。

                   (つづ

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