第11話(3)(4)

  「女刑事物語(11-3)」  C.アイザック

 藤原は事務員が退出するのを待ってさりげなく切り出した。

「あのマンション工事はご苦労もあったのでしょうね。」

「設計図書を受け取ったのが一昨年の五月。もう、一年ほど前の工事だ。」

「完成したのが昨年五月と聞きましたが。」

「うちの施工は去年の二月に終わっている。話というのは何です?」工務店の社長は落ち着かない様子だ。

「工事に関わった従業員の皆さん全員に確認したいことがあります。ご協力、お願いできますか。」

「協力…。それは勿論だが。」

「ではまず従業員の名簿を見せてください。」

社長はごくゆっくりと立ち上がると、応接室のドアを開けて声をあげた。

「従業員名簿を持って来てくれ。それと、おととしの稲荷町のマンションの出面(でづら)帳だ。」

先ほどの事務員がそれを持って来てテーブルの上に置いた。尼子の背筋に戦慄に似たものが走った。

…この中に犯人がいるかも知れない。そしてこの社長は何かを知っているのでは無いか?

想像のシーンが頭を掠める。工事現場は防音防塵のシートで覆われている。そこから男が顔を出す。タバコを買うつもりか、自販機のコーヒーを買うのか。その時、下校する小学生の一団が目前を通りすぎる。男は一人の女児を目にする。その後ろ姿を執拗に見つめる…。

尼子は軽く頭を振った。

藤原が綴じられたファイルを手にして尋ねた。

「この出面帳とは何ですか。」

「現場に出るのは従業員だけではない。…刑事さんは一人親方というのを知ってますか。」

「いや…。」

「簡単に言うと、自分の仕事がないときにこちらの現場を加勢してくれる、大工ですよ。稲荷町のマンションでは二人の大工に応援を頼んだ。誰がいつどの期間現場に出たかを記録したのが出面帳だ。」

「なるほど。」藤原が出面帳の薄いファイルを尼子に手渡した。二人の人物の住所氏名、電話番号、緊急時の連絡先、血液型などが記され出勤した日にちのマス目に印がつけられていた。

藤原が従業員名簿に目を落として質問した。

「ここに名前がある方は全員稲荷町の建設現場に行かれた訳ですか。」事務員を除いてわずか六人だった。そのうち二人が外国人だ。

社長が黙って頷いた。

「皆さんは今日はどちらに…。」

「世田谷の現場に行ってるよ。小さな賃貸マンションの工事だ。」

「場所を教えて貰えませんか。」

社長はまたドアから声を掛けて地図を持ってこさせた。テーブルの上で一点を指した。

「ここの工事はいつ頃から?」と藤原が聞く。

「昨年の十一月だ。」

藤原が身を乗り出した。

「今月九日、工事は行なわれましたか。」

「ああ。」

「日中を通してですよね。」

「そうだ。」

「九日は従業員の方が全員この現場にいた訳ですね。」

藤原が念を押すと社長はもじもじと体を動かして言った。

「ここに皆行ってるが、名簿の全員というわけじゃ無い。」

「と言いますと?」

「半年前に二人辞めたからな…。」

「ほう、辞めたのはどの人です?」

社長は名簿に顎をしゃくって吐き出すように言った。

「ベトナム人二人だ。」

「このベトナム人は、」と尼子が横から口を挟んだ。「いわゆる技能実習生ですか。」

「そういうことだ。建設業は人手不足でね…。」

「半年前つまり昨年七月に辞めた訳ですね。その後の勤め先などは分りませんか。」

藤原の質問に社長が鼻息を荒くして答えた。

「分らんね。…はっきり言おう、二人とも行方不明だ。」

「えっ。」

「だがこちらに落ち度があるわけじゃ無い。給料だって監理団体のいう平均額を出している。アパートも借りてやった。…勿論家賃は払ってもらったが。」

藤原が腑に落ちない顔をして尋ねた。

「行方不明とは…、何かトラブルに巻き込まれた?」

尼子が小声で告げた。「違うんです。そういう意味ではないと思います。」

社長は軽い驚きの眼を藤原に向けたが、どこか安堵の表情を見せた。刑事の来訪を技能実習生と関連づけて受け止めていたらしかった。今はうっすらと笑みすら浮かべて言った。

「全くこちらに疚しいところはない。誠心誠意させてもらったが、受け止め方の問題だな。彼らには日本に在住する同国人と横の繋がりがあってね、何処は給料が良いとかあそこはダメだとかの情報があるらしい。突然いなくなってしまった。なにしろ年間で数千人の外国人労働者が行方不明になるというからな。こちらも迷惑な話でね、実習機構からは痛くもない腹を探られる始末さ。」

藤原は失踪したという二人の外国人実習生の名前を読んだ。グエン・バン・ナン、チャン・バー・タンと書かれていた。

尼子が問い糾した。

「何処へ行ったか全く分らないのですか。」

社長は若い刑事の顔を見て言った。

「向こうが勝手に居なくなったのだからな。相手が名乗り出ない限りこちらが探し出すのは無理だね。帰国したかも知れんし、なんなら入国管理局を調べたら良い。」

藤原が口を開いた。

「稲荷町のマンション工事で働いた一人親方の大工さんはそれから関わりはないのですか。」

「いや、二人とも世田谷の建築現場に十二月から入ってもらっているよ。」

「その人たちはこの九日の当日、仕事に出ていたでしょうか。」

社長は眉を寄せて立ち上がるとまた事務員に出面帳を求めた。現場ごとに作成される物らしかった。

「九日には作業に出ているな、二人とも。」社長が紙面を指して言った。

「分りました。ところで現場の従業員の責任者を教えて貰えませんか。」

「柴田という男だ。うちの工事部長だ。」

「有り難うございます。お忙しいところをお邪魔しました。」藤原はそう礼を述べてからさりげなくつけ加えた。「社長さんは九日はどちらに?」

「ここにずっと居たよ。」

社長は怪訝な表情で答えたが、何かに気づいた。

「そうか、稲荷町といえば、誘拐事件の…。」言葉を失った。やがて顔を真っ赤にして声を荒げた。

「俺の会社にそんな変な人間はいないぞ。どういう事だ。」

「申し訳無いです。我々の仕事でして。」

藤原の言葉に耳を貸さずにドア越しに事務員を呼びつけた。

「俺は九日、ずっとここに居たよな。」事務員は何度も頷いた。

「さあ、用が済んだら帰ってくれ。協力はした筈だ。」刑事達を睨んだ。


 「あんなに腹を立てますかね。」尼子が車を運転しながらあきれ顔で言った。「これからどうします?」

「世田谷の建築現場に行こう。」

 工事部長の柴田は六十代半ばに見えた。社長より年上だろうと思えた。作業着の上からでも逞しい体格が窺えたが、人の良さそうな穏やかな雰囲気の男だった。藤原の問いに答えて言った。

「九日といえば三日前ですね。確かに全員揃ってたよ。助っ人二人とで六人しか居ないから休憩も無しで、四時までに建て込みを終わらせちゃったからね。」

「早退や中途で抜けた人は無かった…。」

「そう。」

尼子が口を挟んだ。

「去年の夏からベトナム人の行方が分らないそうですが、本人たちから何か聞いていませんでしたか。」

柴田は黙ってゆっくりと首を振ったが、その様子に物言いたげな気配を感じて尼子がさりげなく水を向けた。

「せっかく日本に来たのに、どうしたんでしょうかね。もしかしたら行方をくらます計画だったのかな。」

柴田は尼子を見つめて口をもぞもぞと動かした。

「計画…は、無いだろうな。」そして小さな声で言った。「あいつらは、可哀想だった…。」

「可哀想? どういう事です。」

「月に一度しか休みがなかったよ。」

「そんなに忙しいのですか。」

「…いや、休みがないのはあいつらだけさ。」

「え? そういうのは違反じゃないですか。」

「その辺は俺には分らんが…。」柴田は刑事達の顔を交互に見ながら言いにくそうに話した。

「うちの社長は昔のタイプでね。飯を食わせてるんだから自分には絶対に従え、というやりかたさ。そのあたりは俺が口を出す事でもないしね。ま、二人について詳しく知りたかったら直接社長に聞いてみなよ。」

藤原が言った。

「分りました。最後に一つ、その二人は運転免許証を持っていましたか。」

「いや、無かった。だから会社の車を使わせたことはなかったよ。」

 建築現場を後にした車中で尼子が口を開いた。

「これで全員の犯行当日の所在がわかりましたね。二人のベトナム人以外は…。」

「うむ…。ベトナム人はちょっと厄介だな。」

「しかし先輩、彼らの犯行と考えるのは無理があるんではないでしょうか。運転免許がない、車の調達も容易じゃ無いでしょう。」

「だからといって捜査から外す理由にはならない。」

「どうします? いま署に向かってますが。」

「入国管理局へ行ってみよう。うちの管轄にある。」

「たしか湾岸の埠頭の辺りですよね。了解しました。」

 入管で調べた結果グエン・バン・ナンが昨年十一月に帰国したことが判明したものの、チャン・バー・タンは依然行方不明のままだった。

午後五時を回っていた。ビルの間に見える西空がすでに沈んだ太陽の残照を僅かに留めている。

「今日は早めに帰って体を休めよう。」と藤原が言うと、尼子がホッとしたらしい声をあげた。

「ゆっくり風呂に入れますね。」事件発生から三日が経っていたが、彼らが自宅に戻ったのは一日だ。初動捜査はある意味で時間との闘いだった。


 この日、凜はようやく二十五人目の聴取を終えた。トラックの運送業者とタクシーを除いて全員がコンビニ近くの住人だった。深夜にコンビニを利用したにもかかわらず、意外にもそのほとんどが家族

と同居する若者だ。犯行とは無関係に思えたが、凜は疑いを完全に消し去るために周辺の空き家や管理が不十分な駐車場の有無を確かめたかった。遺体損壊の現場となりそうな場所があるかないか、自分の目で探したかったのだがその時間が無かった。何故なら、さらに七十人を越える車の持ち主を調べなければならない。それが主任警部の指示だった。優先しなければならない。凜は苛立ちを覚えていた。

「手応えがないな…。」と武田が呟いた。

「うん…。」凜は武田が手にした地図を覗き込んだ。道路に書き込まれた二十五本の赤い線を見つめた。だがそれは公園に面した四周の道路には一本も記されていなかった。深夜、公園の側は車の通りが極端に少ないと凜は考えた。

「公園の道路は車が通っていないね。」

「そうだろうな。」武田が平然と言った。

「えっ。」

「コンビニと公園の位置を見ると、公園は利用しやすい生活道と接していない。わざわざ公園の側を通るのはそこにガレージがある住民くらいだろう。タクシーも近づかない。トイレはコンビニを使えば良いし、ついでに熱いコーヒーも飲める。」

「なるほど、犯人は土地勘があるだけで無く、深夜の交通の事情も知っていて公園を遺棄の場所に選んだのかも知れないな。」

武田が頷いた。

「健太。」凜が語調をあらためた。「私のスジ読みを言う。意見を聞かせて。」

スジ読みとは現場の刑事が独自に行なう犯人像と犯行の推理だ。プロファイリングとの違いは、ここでは心理的な要素を考慮しないことだ。

「犯人は建設業の関係者だ。稲荷町の小学校近辺で被害児童と何度か遭遇、犯意を抱いた。九日、仕事を休んだかした犯人は児童の下校を待ち受ける。児童が友達と別れたその先に車を止めていた。路上か、あるいは偶然空いていた駐車場の一角だ。歩いてきた少女を車に連れ込む。プロファイリングの分析官が指摘したように何らかの準備があったのかも知れない。例えば前もって女の子が喜ぶ品物をさりげなく与えるなどして警戒心を解いておく。そうすれば車に誘導するのは容易だ。

 しかし車に乗った児童が不安を感じて騒いだのかも知れない。慌てた犯人が子供の口と喉を押さえつけた。殺意があったか分らないが児童は命を失った。犯人はその事に気付いたはずだ。だがそのまま車を動かした。午後の三時を回って車が多い時間帯だ。子供の体を助手席の床に押し込み上着などを掛ける。それでもトラックなどと併走すると助手席の床が丸見えだ。これを嫌って幹線道路は勿論主要な地方道も避けて道幅の狭い生活道を選んで進む。そうなると移動距離に比べてかなり時間が必要になるだろうが、同時に道路管理者の監視カメラをすり抜ける結果となったのでは無いか。それが私達、そして校区の捜査班が苦戦している理由よ。犯人の目的地は…。」

凜は口を閉ざし、苦悶の表情を一瞬表わした。

「…目的地は、わいせつ行為をするための場所、例えば自宅、あるいは人目に付かない駐車スペース、空き家…。」そこまで言って凜は黙り込んだ。

武田は思わず眼を反らした。凜が激しく感情を乱しているのを感じたからだ。コンビを組んで以来、凜が怒りを爆発させるのを幾度か目にしてきた。それを彼女らしい個性と受け止めてきたが、今の凜は違う。怒りより被害者への同情が先立っている。そして深い悲しみ。凜には被害児童とさほど年齢の違わない娘がいる。当然それを知っている武田は凜の心の動きを痛ましく受け止めた。

「その場所は…、公園の近くだ。」

凜が決然と口にした。

「だが犯人の自宅では無いだろう。自宅近くに遺体を遺棄するのは躊躇するはず。犯人が遺体を傷つけた現場は公園の近く、使われていない建設業の倉庫か資材置き場、駐車場か事業所そのもの。それは犯人の行動圏と深い関わりがあった。

遺体の処理だが、深夜に隣県や奥多摩の山間部に運ぶには土地勘がなかった。そこで普段の様子を知っている公園に遺棄した。遺体を傷つけた現場に放置しなかったのはそこが犯人自身との関係が容易に悟られる場所だったからだ。…どう思う?」

「先輩の推理は無理も飛躍もない。実に妥当で納得のいくスジ読みだと俺は思う。だが問題は、今俺たちは組織の小さな歯車だ。蒲生警部の指示に反する捜査活動はできない。」

「私が蒲生警部に話してみるわ。私のスジ読みが合っていたとしたら、時間が経つほど現場の痕跡が失われてしまう。」

「蒲生さんが素直に話を聞くかな…。それより管理官どのと顔見知りらしいからあの人に言ってみたらどうだろう。」

武田は伊達が本庁に異動するのと入れ替わるように刑事課に配属されたので直接の面識はなかった。

「うん…。」凜は生返事をした。伊達を煩わせたく無かった。

 蒲生班の捜査員たちが署に戻ったのは午後九時頃だった。互いに周りの顔色を窺ったが、どの顔も疲れだけが目立った。

「どうだ…。」と蒲生が呼びかけた。「DNA型鑑定まで持って行けそうなヤツはいないか。」

四十人を越える刑事から声が上がらない。

「どうした。事件発生から三日経って、まだ一人の目星もつかないのか。」

蒲生はいったん言葉を途切らせると顔を赤らめて続けた。

「明日朝の合同会議に一課長が出席される。少し勢いをつける意味で誰かを任意で引っ張るとかDNA型鑑定に持ち込むというような報告があれば良いのだが…。」

要するに捜査の展望を課長に伝えたかったのだが、かといってそれは己の立場を良くするのが目的では無かった。失望を恐れたのだ。

 蒲生のみならず警視庁の刑事達にとって捜査一課長は特別な存在だ。警視庁生え抜きのたたき上げの警察官がその地位に就けた。階級は警視正。だが地方公務員は警視より上にはなれない。このため捜査一課長に昇任した警察官は同時に地方公務員としての身分を失う。そして新たに国家公務員に準じる身分を獲得するのだ。この組織的な矛盾を越えて捜査一課長の地位がある。その存在は現場で働く警察官にとって象徴的な意味があり、誇りでもあった。

蒲生の気持ちが刑事達にはよく分った。だが捜査で手応えがないものは致し方なかった。

「警部。」突然凜が声をあげた。

「コンビニの防犯カメラをもとに自動車の持ち主に聴取を行なっていますが今のところ手掛かりがありません。犯人が道路の監視カメラを避けて移動したことがうかがえます。コンビニに立ち寄ることも無かったと思います。また犯人は公園を含む周辺の道路や住宅事情に詳しい可能性があり、遺体を損壊する行為におよんだ場所も公園の近くあるいはその延長線上にあると考えられます。実際にそのような場所があるかどうか、公園を中心に一定の範囲を調べてみたいのですが…。」

蒲生は凜を見つめて黙って聞いていたが「車の持ち主は全部当たったのか。」と口を入れた。

「いいえ…。」

「良いか、お前の聞き込みをもとに犯行時刻を午前二時から五時の間と限定した。そして犯行には必ず車が使われた筈だ。この時間帯に監視カメラで明らかになった車を調べるのは当然で、重要な捜査だ。もっと集中して捜査に取り組め。」

凜の顔に赤い色が射した。

「車の捜査も大事だけど、遺体損壊の現場を探すのも大事だと思います。こちらは時間が経つと証拠や痕跡が失われる恐れがありますが、車はすでにナンバー情報が影像に記録されています。時間的な経過に影響されないわ。」

「妙な理屈だな。事実として明らかになっている物の捜査を差し置いて推測にすぎない捜査を優先しようというのか。犯行は車中だろう。」蒲生は凜を睨んだ。「余計な事は考えず、車の捜査を続行しろ。」

凜の口がへの字に結ばれたが蒲生は無視して顔を背けた。


 捜査一課長の榎本は中背で肩幅の広い体格をしている。しばし無言で刑事達を見渡した。有力な手掛かりが得られていない状況を伊達から伝えられていた。

「いつも言っていることだが、無駄な捜査はひとつも無い。それがすぐに結果に結びつかなくても、必ず犯人逮捕につながると信じよう。」

榎本は刑事達にそう呼びかけて何度も頷いてみせた。

「事件は全国的な注目を集めている。マスコミも連日報道を繰り返している。だが我々のやることは何時もと変らない。沈着に、地道に取り組もう。同時に初動で捜査対象を網羅できたか見直す柔軟な姿勢も必要だ。焦りは禁物。諸君、頑張ろう。必ず犯人を挙げるぞ。」

会議は実質、一課長の激励を受けるだけで終わった。敢えて合同の捜査会議を開くほどの新事実や証拠が発見されたわけでも無く、捜査が新展開を見せたわけでも無かったからだ。

…必ず犯人を挙げる、それは口に出すまでもなく刑事全員の決意だった。だが彼らの多くは、防犯カメラの捜査がやがて成果を上げるに違いないとの考えに傾いていた。誘拐の犯行時刻がごく狭い範囲に限られている。その時間帯の通学路周辺の防犯カメラ、あるいは車載カメラに犯人の車が映っている可能性が極めて高い。そして車の持ち主に聴取すべき内容もその道路を走行した理由、目的地など簡単明瞭だ。特に目的地についてはすぐに裏がとれる。説明に矛盾があればDNA型鑑定を求める。それが遺留のDNA型と一致すれば決定的だ。

 当初五十台だった対象車は、誘拐された地点から半径五百メートルに及ぶ道路まで範囲を拡大した結果三百台あまりに増え、さらに車載カメラによる影像の提供が日に百台ずつ追加されていた。これらは決して少ない数では無かったが、いずれ犯人にたどり着く…、刑事達の多くはそう期待していた。

 だが伊達は楽観的になれなかった。カメラの設置場所によっては車のナンバーが読み取れない影像がかなりあった。車がその地点を過ぎてナンバーをはっきり写している別のカメラを通過すれば問題は無いのだが、もし途中で道を折れるなど進路を変えた場合、そのままマークから外れてしまう可能性があった。伊達はナンバーが不明な影像から車種と色を判別するよう鑑識に依頼した。さすがというべきか鑑識課写真班は影像の僅かな特徴を探して次々と車種、色を突き止めた。伊達はそのリストを前に腕を組む。最悪の場合、この断片的な手掛かりから所有者を探すことになるかもしれなかった。

 一方で防犯カメラ以外のアプローチ、つまり通学路のマンション新築工事の関係者を調べている班からも今のところ手応えのある報告は無い。伊達は黒田を呼んだ。

「被害者宅を訪ねて親御さんから話を聞いてくれないか。犯人が家庭環境で児童と接触した可能性を分析官が指摘しておられた。」

「分りました。」実は黒田もそう考えていたのだ。告別式が済んだばかりだがいつまでも聴取を伸ばしておくわけにもいかない。


 線香の煙の向こうから遺影の少女が黒田を見つめていた。口許には楽しげな微笑が浮かんでいる。遺棄現場の悲惨な状況が脳裏に甦った黒田は両手を合わせて眼を閉じた。

「実は、伺いたいことがあります。」と両親に切り出した。

「最近、こちらでリフォームの工事など行なわれなかったでしょうか。」

夫婦は同時に首を振った。

「水道や電気の修繕はどうでしょう。」

「いいえ、ありません。」母親が答えた。

「そうですか…。」黒田は少し考え込んだ。「では営業マンはどうですか。営業に訪ねてくることも多いのでは。」

「リフォームの営業でしょうか。」

「…いいえ、それに限らずに。」

「それでしたら結構来られますよ。でも大半はインタホンでお断りしますけど。」

「実際に会われたのはどのような…。」

「牛乳販売の人と、塾の営業の方、生命保険、そうそう家電リサイクルの方に随分昔のワープロを引き取ってもらったこともあります。」

「そのようなときお嬢さんが一緒だったことがありましたか。」

「えっ?」

「お嬢さんと顔見知りになったと思われる人物はいませんか。」

両親は顔を見合わせた。黒田の質問の意味を理解したのだ。母親は真剣な表情で考え込んだ。必死に記憶を手繰っていくその顔を夫と刑事が見つめた。

やがて母親はきっぱりとした口調で答えた。「いいえ、そのようなことはありません。」

「そうですか…。」黒田は軽く頷いた。「お嬢さんの部屋を見せて貰えますか。」と頼んだ。

子供部屋のカーテンが開けられ、主を失った学習机を冬の光が静かに照らしていた。机の上段にミッキーマウスなど大小不揃いな縫いぐるみが並んでいる。黒田の目が一つの人形に止まった。高さ二十センチあまりのプラスチック製だ。縫いぐるみ、デスクマットさらには壁のカレンダーはすべてデイズニーのキャラクター商品で、その人形だけが異なる存在感を漂わせている。それがテレビ番組のアニメのヒロインを三次元化したものだと黒田にも分った。少女が変身して悪の化身と闘うシリーズもので、子供たちの間で人気が高く、もう何年も続く長寿番組となっている。黒田の娘も小学生の頃は夢中だった。

「このアニメ、人気があるようですね。」

そして毎年主人公が交替し、変身のグッズも変る。つまり新しいキャラクター商品がそのつど売り出されるのだ。

黒田の言葉に母親が人形をぼんやりと眺めて口を開いた。

「これはあの子が貰ってきたのです…。」

「ほう、誰からでしょうか。」

「さあ…。はっきり教えてくれませんでした。お友達だと向こうのお母様にご挨拶しなきゃならないし、確かめねばと思いつつそのままになってしまいました。」

「それはいつ頃ですか。」

「去年の十一月の末です。」

黒田は人形を見つめた。それは膝丈のドレスをまとい、頭上に伸ばした片手は金色のバトンを掲げている。大きく強調された青い瞳が黒田に向けられていた。

                  (つづく)




    「女刑事物語(11-4)」 C.アイザック

 捜査一課長の榎本が会議場を去ると、尼子が藤原に話しかけた。

「例のベトナム人、居所が分るかも知れません。」

「そうか。でもどうやって?」

「ネットでベトナム人労働者の駆け込み寺というのを見つけました。主宰者というか代表者に連絡したらチャン・バー・タンと名乗る人物がそこにいるそうです。尤も本人かどうか分りませんが、型枠工事の作業実習を行なっていたと聞いているそうです。」

「うむ…。」藤原が頷いた。入管での調査を想い浮かべた。同姓同名の人物が二十数人もいたのだ。

「場所は八王子ですが。」

「電話というわけにもいかない。行ってみよう。」

 それは小さな木造アパートだった。二階の通路に古ぼけた金属製の手摺りがあり、ドアが三つ並んでいるのが見えた。二階に上る階段の奥のドアに「外国人労働者なんでも相談」の小さな看板があり、中年の痩せた男が刑事達を迎えた。実はそこへ向かう道中で尼子が男について藤原に説明した。

「ネットによると駆け込み寺の主宰者の名はグエン・ジュウ・ナン。両親が七十年代後半にいわゆるボート・ピープルとして来日し難民認定を受けています。その時ナン氏は五歳。そのまま日本に定住し日本人女性と結婚。二十年勤めた自動車メーカーの工場を退社して今の活動をしています。」

尼子は一息ついて、ハンドルを握ったままあらたまった声を出した。

「先輩、こんな事をお願いして良いのか分りませんが、先方でベトナム人労働者と面会したとしても入管への通報は少し考慮して貰えませんか。それを条件にナン氏と会う約束を取り付けました。現在チャン・バー・タンの受け入れ先について実習機構に相談しているそうです。実現すれば不法滞在は当たりません。」

「通報は事情次第だが、実習機構って何だ。」

「新しい法律で設けられた国の機関です。」

「随分詳しいな…。」

「実は私の田舎で伯父が小さな建設会社をやっていまして、帰省すると技能実習生のことが話題になることがあります。」

藤原が少し驚いた様子で言った。

「たしか島根の方だったよな。そんな田舎でも外国人労働者がいるのか。」

尼子が苦笑しながら答えた。

「むしろ田舎だからこそですよ。人手不足が深刻で、建設業組合と商工会議所が必死に外国人労働者を呼び込もうとしています。」


 「駆け込み寺」だというアパートに滞在しているベトナム人が刑事達の探している人物に相違ないと思われた。男が型枠工の技能実習を受けていた会社名で判明した。その事を明かしたグエン・ジュウ・ナンは刑事達に言った。

「もし彼を通報するつもりならその必要はありません。現在新しい技能実習の受け入れ先を探しています。つまり入管への出頭を条件に実習機構に相談しているところなんです。」

藤原が首を傾げて言った。

「入管に出頭すれば強制送還になるのでは。」

「そうはなりません。彼から聞き取りして分ったんですが、受け入れ先の会社で不法労働を強いられていました。同業他社の作業にかり出されていたのです。その際の賃金はほぼ全てピンハネです。これは実習実施者に責めのあるケースです。私はこの事を実習機構、監理団体に強く申し入れています。たしかに彼にも落ち度があります。失踪は軽はずみな行動でした。だが彼は被害者なのです。」

「受け入れ先は見つかりそうですか。」尼子が尋ねた。

「私は希望を持っています。」

「実は…。」と藤原が口を挟んだ。「我々は不法滞在を問題にしているわけではありません。タンさんに確かめたいことがあって来ました。会わせて貰えますか。」

ナンに案内された二階の一室にタンはいた。漆黒の短い髪は少し縮れて、濃い無精髭が口の周りに伸びていた。タンは緊張した表情を浮かべ、追い詰められたような眼で刑事達が示した身分証を見た。

「簡単な質問に答えてください。今月九日、あなたは何処にいましたか。」藤原が尋ねた。

タンは傍のナンを見やった。

「九日ならタンさんはここにいましたよ。」ナンが代わりに答えた。

「…あなたと二人で?」

「はい、佐藤さんと一緒に。」

「佐藤?」

「私の活動の支援者で、法律事務所の人です。」

「弁護士さんですか。」

「いえ、法律事務所で書類の仕事をしている方です。ある人の在留許可を申請するために手助けを貰いました。そのときタンさんは在留許可の条件を知りたくて同席していました。」

「なるほど、分りました。」藤原が頷く側で尼子が小さく息をついた。八王子まで来て二百分の一の可能性を否定したに過ぎなかった。無力感を抱きそうになりながら榎本捜査一課長の言葉を想い浮かべていた。…捜査に無駄はひとつも無い。

「二年前の稲荷町のマンション工事を覚えてますか。」

藤原がタンに問いかけた。「去年の二月で型枠工事は終わったそうですが。」

タンが頷く。

「そのとき何か変ったことはありませんでしたか。例えば誰かが小学生に声を掛けるとか…。」口にしてさすがに曖昧な質問だと藤原は思った。タンが首を振る。

ナンが口を挟んだ。「ほら、テレビでやってる、女の子の誘拐殺人事件が起きたのがその工事現場の辺りだよ。」タンに説明した。

それを聞いたタンは視線を宙に投げた。何かを思い出そうとしている。眼を藤原に向けた。

「いた。変な人がいた。」

「えっ?」

「何処が変だった?」尼子が尋ねた。

「シートの間からながく外を見ていた。気がついたらいなかった。何か見えるかと行ってみたら安全ガードマンがいて、子供が何人か歩いていた。シートの紐が放れていたので結んだ。次の日も来て同じことをしていた。またいなくなったので行ってみたらシートの紐が放れていた。変だ。何故結んだ紐をはなす?」

藤原が言った。

「つまりその男はシートの隙間から外を通る子供を見ていたと言うわけだな。二日間続けて。」

タンは頷いた。「もしかしたら子供を見張っていた…。とても変だ。」

「いつのことです?」

「…去年の一月。たしか二十日頃。」

「時間は? 何時頃でしたか。」

「三時頃。」

「日付を覚えていた理由はなんですか。」

タンは沈黙し、悲しげな眼を藤原に向けた。

「その男は何処の会社の人でした?」

「分らない。二回会っただけ。」

「顔を覚えていますか。」

タンは首を傾げて再び悲しそうに藤原を見た。藤原は小さく頷いてみせた。一年近く経っている。わずかに二度垣間見た顔を覚えているのは無理な話だ。

「特徴はどうです?」

「トクチョ…。」

「背の高さはどのくらい?」

「背は低い。」

タンは掌と指を水平に伸ばして鼻の前に当てた。

「タンさんの身長は何センチです?」

「…千七百です。」不安そうに繰り返した。「一メートルと七百…。」

「私と並んでください。」と尼子が頼んだ。

二人の身長は同じくらいだった。尼子は百七十センチだ。

「すると男の身長は百六十以下ということか。…年齢は? 年は幾つに見えましたか。」

「私より若い。二十五くらい。」

「メガネとかホクロとか痣とかはどうです?」

ナンがベトナム語で何か言った。タンは少し考えて「それは無い。」と頬を触った。

「その男の作業着の色は?」

タンは記憶をたどりながら自信なげに言った。

「グレーの上着と黒のパンツ…。」

「上下で色が違ったのですか。」

タンが黙って肯いた。

藤原が続けた。

「作業着に文字かマークがありましたか。胸や腕の辺りに…。」

「どうだか覚えていない。」

「帽子は?」

「帽子はダメ。ヘルメット。」タンが顔の前で手を振った。

「ヘルメットに文字やマークはありませんでしたか。」

「…分らない。あったかも知れない、覚えてない。」

「ヘルメットの色は?」尼子が口を挟んだ。

「ヘルメットの色は…白。横に…何か…。」

「会社名じゃないですか? 漢字か、カタカナか…。」

「分らない。覚えていない…。」

「よく想い出してください。」尼子が粘った。

タンは苦しそうな表情を見せたが、突然眼を輝かせて言った。

「靴を覚えている。想い出した、赤と白の大きい線だった。」

刑事は顔を見合わせた。鑑識の報告書にミドリ靴社製の安全靴三種類の写真があった。その一つが赤と白の太い線がデザインされたものだった。

藤原がタンに名刺を渡して言った。

「その男について何か思い出したらすぐに電話をください。」

刑事達の用事が済んだと感じたタンは安堵の表情を浮かべた。無精髭の口が笑うと眼に人懐っこい光が見えた。早く技能実習の受け入れ先が見つかればよいが、と尼子は願った。


 藤原と尼子はマンションの建設会社に向かった。二日前に初めて訪ねたときに応対した同じ社員が現われた。

「建設工事に関わった会社をあらためてお聞かせください。」

藤原の言葉に社員は一瞬戸惑った。

「捜査一課の刑事さんが昨日、同じことを聞いて行かれましたが。」と念を押した。

「実は、昨年の一月、どのような会社が作業していたか知りたいのです。お願いします。」

藤原の依頼に社員は一旦席を外した。やがて厚いファイルを数冊抱えて戻った。

「一月は本体工事のコンクリート打設を終わらせる予定でしたから多くの会社が入っていますね。」

社員は「日報」と書かれたファイルを開いて言った。

「日報」には日付ごとに複数の作業内容とその作業にあたった会社名と人数が記されている。社員は次ぎに「協力会社」のファイルから会社名を探してそこの下請け登録の欄の社名を指した。

「日報にある作業は実質この下請け会社、当社から見れば孫請けですが、この会社が行なったことになります。当然、協力会社の作業管理者も現場に出ていますし、あるいはその会社の実働社員もでているかも知れません。そこの辺りは協力会社で確認されればよいと思います。…ただ、このファイルの突き合わせが面倒です。」

藤原が「日報」を覗き込んで言った。

「この日報、一月の分をコピーして貰えませんか。」

複数の作業が同時進行している。日に数社が関わっていた。それを一ヶ月分メモるのはいかにも大変に思えたのだ。

社員は短く考えた後了承した。断る理由が無かった。

「下請け登録の社名をメモして良いですか。」

尼子がすかさず許可を取り付けた。


 黒田は透明な袋に入れられた、妖魔と闘う少女の人形をあらためて見つめた。これは犯人と関係があるはずだと考えていた。大手玩具メーカーが発売した物で、価格は千五百円。子供が友達に与えるには高額過ぎる。だが鑑識の結果人形からは被害児童の指紋のみが数個判明したにすぎなかった。それは危惧した通りだった。人形が身に着けている短いドレスのような物には細やかな襞と皺が立体的に作られていて、指紋の採取が難しいと予想していたのだ。あとは流通の経路を調べて手掛かりを探し出すしか無かった。

 黒田は台東区にある玩具メーカーを訪ねた。同行した加藤がその会社のビルを見上げて「凄いな…。」と口にした。黒田も同じ印象だった。玩具と模型のメーカーと聞いて、下町によくある小さな工場に付随した社屋を想像していた。

 受付の置かれた一階の広々としたフロアーはギャラリーを兼ねていて、夥しい数の模型やフィギュアが陳列されている。受付の女性社員の一人が刑事をエレベーターへ案内した。そのまま一緒に乗り込んだ。

「お忙しいのに、済みませんな…。」加藤が恐縮して彼の娘ほどの社員に頭を下げた。

 額が広く禿げ上がった五十代の社員が刑事達を待ち受けていて、レンガ色のカーペットの通路を先導した。黒田は応接室で腰を下ろすと真っ先にビニール袋に包まれた人形を取り出した。

それに目を移した社員が「フィギュアの流通経路をお知りになりたい…ということでよろしいですか。」と念を押した。あらかじめ刑事の来訪の目的を受付から伝えられていた。

黒田が肯くと人形を受け取って確認した。準備していたらしいパソコンを手許に引き寄せ、キーボードを素早く叩いてから口を開いた。

「こちらは当社のラヴリーシリーズの新しいモデルで、プチコーデドール・ヴァイオレットと呼ぶ商品です。昨年四月三日発売が開始されています。

 流通経路は当社公式の通販サイト、それ以外は玩具卸問屋を経て販売しております。卸問屋はそれぞれの販売ルートを持っておりまして、その卸問屋六社と取引しております。」

社員は刑事とパソコンの画面を交互に見て「問屋の社名を読み上げますか。それとも時間を頂ければコピーもできますが…。」と尋ねた。

黒田は言った。

「実は我々が知りたいのはこの人形が何処で売られた物かということです。この現物が、です。」

社員は目を丸くして黒田を見た。

「それは…、個別の販売店を特定するのは、多分不可能でしょう。」

「でも後ろのスカートの裾に記号と番号がありますが…。」

「このフィギュアは中国の工場で作られていまして、記号はその工場を、数字は製造年を示しています。それ以上の意味は無いのです。」

黒田は落胆したが、少なくとも区内の玩具店を回って感触をたしかめようと考えた。玩具店は卸問屋で判明するはずだった。

加藤が口を開いた。

「どのくらいの数が製造されたんですか。」

「プチコーデドール・ヴァイオレットは十万体です。」

「ほう…、大変な数ですね。」

社員は刑事達を見ながら言った。

「販売店のことですが、私ぐらいの年ではついて行くのがやっとと言うほど販売の形が変化しています。玩具店を訪れて商品を購入されるのはもはや少数です。通販が主流になって久しいという状況です。ですから販売店さんも独自の通販のサイトを設けておられます。つまり店舗でも販売するが通販にも対応しています。トイザラスさん、ビックカメラさんがそうですし、それ以外のもっと規模の小さなところも同じです。

 さらにネット上にしか店舗を持たない楽々市場とか、アマゾンさんなども当社の様々な商品を扱っておられます。これらのサイトは当社と直接的な関係はありません。つまりその顧客情報を知る立場では無いのです。

 結局このフィギュアが何処で販売された物か、それを知るのは不可能というしかありません。」

「たしか…、こちらには公式サイトがあって、直接顧客に販売もしているというお話でしたが、それは購入者の氏名などが記録に残るわけですね。」と黒田が指摘した。

「そうです。私共ではカード会員になっていただくと通販のサイトや予約販売をご利用になれるシステムです。」

「つまりお宅の通販でこの人形を購入した者の氏名が明らかになるわけですね。それを教えて貰えませんか。」

黒田の依頼に社員は困惑をみせた。

「そうとうな数になるはずですが。」と即答を避けた。

「会員の数はどのくらいです?」加藤が口を挟んだ。

「二十万人です。」

予想外の答えだったのか、加藤は唸った。

「とりあえず都内の購入者だけで良いのですが。」

黒田の言葉に社員は言いにくそうに答えた。

「それにつきましては、私の一存でお応えするのは難しいと思います。なにしろ個人情報ですので、会員様と当社で決めた以外の目的で使用できないというのが基本的な考えです。」

「協力頂けないのですか。」加藤がやや不機嫌な声を出した。

社員は落ち着かない口調で言った。

「刑事さんの捜査の趣旨は分りませんが、…このフィギュアが当社の公式の通販サイトで販売されたという確証は無い訳ですよね。そうなりますと私共は理由も無く顧客の個人情報を晒すわけで、それは出来ない事です。申し訳ありませんが協力は致しかねます。」

黒田は無言で小さく頷いた。社員の強い抵抗は予想外だったが、ひとまず納得するしか無かった。この会社に限らず全ての通販サイトの顧客情報を調べる、それが果して現実的なことなのか。いずれにせよその目的で令状を請求するのは困難と思えた。つまり通販サイトを持つ他の会社からも情報が得られないことが予想された。

やや気まずい沈黙の後、社員が口を開いた。

「例えばですが、名前と住所が特定された人が当社の会員様だとして、その方がこの商品を購入したか知りたいということでしたら、多分、協力できると思います。」

刑事達は玩具卸問屋のリストを手にして会社を後にした。

「このまま引き下がるんですか。」と加藤が言った。

「う…ん。」低く唸ったが黒田は何も言わない。

加藤がさらに続けた。

「あのイギリスの強姦殺人事件、教えてくれたのは警部じゃないですか。」

加藤は五十二歳、黒田より六つ年上だ。だが出世する気はまったく無いらしく今でも巡査部長だ。黒田が警部の試験に合格したと知ったときから「警部」と呼ぶ。黒田は面映ゆさを覚えないでは無かったが、加藤の身になれば六歳年下の上司を何と呼べば良いか、階級名が自然だろうと思えた。黒田は厳密に言えばまだ警部では無いのだが、それを注意する気になれなかった。

 イギリスの事件とは、黒田が科学捜査の資料で目にして加藤に語ったものだ。その記録によると約三十年前、イギリスの田舎町で強姦殺人事件が起きた。このとき捜査当局は付近の住民数千人のDNA型鑑定を行ない、ついに犯人を特定し逮捕したのだ。この同じ年、日本でも初めてDNA型鑑定を捜査の手段と位置づけ、その結果、女店員が被害者となった殺人事件の犯人を特定、事件を解決している。

「我々もイギリスの捜査当局に倣ってたとえ何千人でもDNA型鑑

定へ持っていきたいですね。」と加藤が言った。

「加藤さん、俺だってその気持ちはありますよ。だが考えてみれば犯罪に使用する物を通販で買うかな…。」

「分りませんよ。公園に遺体を遺棄するようなヤツですよ。どんな行動をとったか分ったもんじゃない。」

「それにこの人形が犯人から児童に与えられたものか確証が無い。令状はまず無理だろう。」

「令状なんか要りませんよ。」と加藤が言い放った。「協力を強く求めれば良いんです。どうしても拒むなら犯人隠匿だと迫る。先ほどの社員にしても人形が誘拐殺人の犯人につながる物だと知ったなら個人情報だなどと言わなかったかも知れませんよ。」

「加藤さんの気持ちは分ります。」とだけ黒田が応じた。

黒田は複雑な心境だった。加藤が望む捜査は違法と指摘されても仕方のないものだろう。だが犯人の手掛かりを求めて強烈に突き進もうとする加藤の意欲は黒田の胸中にも共通するものだった。

 …もし企業の持つ個人情報を網羅的な範囲で強引に入手してそれがおおやけになれば社会的な批判を浴びることになるだろう、と黒田は想像した。捜査指揮者の伊達管理官が責任を免れることはできないだろうし、警察庁の人間である北条課長も窮地に追い込まれることになる。そしてその対価とも言える犯人の個人情報が得られる可能性は曖昧な幸運の域を出ない。今の時点では軽率な捜査をすべきではない。黒田はそう考えながらも、自身が警部に昇進する過程になかったら、玩具メーカーの社員に強引に食い下がったのではないかという感覚があった。ホシを挙げる以外に斟酌する事など無い、それが刑事だ。…出世などするもんじゃ無いな。黒田は胸中で呟いた。

 卸問屋のリストにあらためて目を落とすと、その一社が近くにあるのが分り、急遽そこを訪ねることにした。倉庫に小さなオフィスが連なっていた。七十代と思われる社長が自ら刑事達をソファーに案内した。「ご用件は? 何かありましたか。」

砕けた口調を意外に感じながら黒田が人形を取り出した。

「この人形の流通経路を教えて貰いたいのです。」

「はあ、はあ。」社長は人形を見やって何度か頷いた。「確かに取り扱いましたよ。」

「こちらでは小売店に卸しているわけですか。」

「そう、そう。」

加藤が口を挟んだ。「通販はやってないのですか。」

「いやもう今は通販の時代ですよ。私ンとこでもほとんどが通販だね。」

この答えに加藤がやや身を乗り出して言った。

「その通販のお客さん、名簿を教えて貰えませんか。」

「ああ、良いよ。」軽く答えて立ち上がった。

刑事達は思わず顔を見合わせた。

ソファーからオフィスが見渡せた。社長は若い女子社員に依頼し、彼女の操作でプリンターが動きだした。やがて数枚の書類を手に二人の前に戻った。

「どうぞ、どうぞ。」とテーブルの上に差し出した。

見ると会社名らしきものが並んでいる。

「これは会社の名前ですね。通販の顧客名簿とはこれですか。」

「そう、そう。私のとこは事業所が取引先だから。」

「事業所と通販で取引されている…。」黒田が怪訝な表情を見せた。

「事業所向けの通販サイトですよ。息子の意見で作ったんだが便利なもんさ。以前は何十種類もカタログを送って、ファクスで遣り取りしてさ。まだるこしいときは商品を勝手に送りつけたりしてね。すると先様もその中で不要なものは返品してくるわけです。通販にしてからそんな無駄なことがなくなった。おまけに新しい取引先が増えましたよ。」

加藤が聞いた。「個人はいないんですか。」

「個人名はその下の方にありますよ。」社長が書類を指した。

そこには人名が並んでいた。だが書類を捲ってもたかだか百人ほどだ。

「これだけですか。」と加藤が尋ねた。

「そう。そこにあるのが露天商組合の代表者名です。つまりテキヤの元締めさ。」

「えっ、テキヤ?」

思いがけない言葉に驚く刑事達に社長が和やかに語った。

「昔はその事でよく刑事さんが訪ねて来ましたよ。」

「社長さんのところはそういう関係にも品を卸しているのですか。」

「そうそう。私ンとこは縁日の景品だとかイベントの会社が主な取引先だから。」

「ははあ…。そうですか。」

黒田は虚を突かれた気がした。…つまり店舗での販売、通販、それ以外に縁日やイベントでの景品や配布もあるのだ。メーカーの社員の言葉が甦った。個々の流通経路を突き止めるのは不可能…。黒田は無意識に両腕を組んで、テーブルの上の人形を見つめた。

                     (つづく)

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