第11話(1)(2)
「女刑事物語」(11) C.アイザック
小中学校が三学期を迎えた。始業式の翌日、母親は小学三年生の娘の帰りを待っていた。
午後三時を過ぎた頃になって、子供たちの甲高く賑やかな声が自宅とは離れた通学路から微かに響いてきた。朝、新しく用意したピンク色のミトンが両手に可愛らしかったと思い返して母親は笑みを浮かべた。すぐにも帰宅する気がした。まず暖かいココアを飲ませてあげようと考えた。
ひとしきり続いた子供たちの声が遠ざかり、辺りは静かになった。意外に思った。いつもなら勢いよく玄関に飛び込んで来るはずだった。耳を澄ませると誰かを呼ぶ男の子の声が遠くに聞こえた。母親はキッチンへむかい、マグカップにココアの準備を始めた。ココアといってもチョコレートでは無い。飲料の粉と牛乳をよく混ぜ合わせる。後は熱湯を注ぐだけだ。いったん椅子に掛けた後、インスタントコーヒーを作った。それを飲みながら二度ほど時計に目をやった。やがて二階のベランダに出た。洗濯物を触って乾き具合を確かめたが、目は路上に娘の姿を探していた。洗濯物をそのままに居間へ戻り、同じクラスの児童の家に電話した。予期していた母親ではなくその子供本人が電話に出た。
「玲奈ちゃん、萌愛(もあ)と一緒じゃなかった?」と母親が尋ねた。
「一緒に帰ったよ。」幼げな声が答えた。
「えっ、そうなの?」
「萌愛ちゃんと一緒に帰ったよ。」
「そう…、ありがと。」
母親は突然、胸騒ぎを感じて携帯電話を手にしたまま表に出た。住宅前の道路を見渡す。さらに二百メートル余り先の通学路の交差点まで進んだが娘を見いだすことができなかった。
不安に押し潰されそうになりながら担任の教師に連絡した。
「塾や習い事はなかったですか。」と彼は尋ねた。
「塾は行ってないし、習い事もありません。」母親の語尾が震えた。
教師は児童の所在をクラスの全家庭にメールで問い合わせると約束した。
「お兄ちゃんのところにはいないでしょうか。」と母親が問いかけた。
六年生の兄がサッカー部で練習していた。娘が学校に戻る可能性が全くないとは言えなかった。
「校内を探してみます。」教師が答えた。
だが女児は学校にいなかった。教師は副担任と他の教師に声を掛けて校門から自宅までの経路を調べた。さらに近くの公園二カ所を見て回った。しかし念入りに探しても女の子は見つからない。教師たちは玄関口に佇む母親の回りに虚しく集まった。
メールに返信があった。クラスの玲奈の保護者からだった。通学路を一緒に帰り家の近くで別れたらしいという内容だった。玲奈の家からは二百メートル余りの距離しかない。教師は女児が家の近くまで戻っていたことを重視した。
「自宅の近くから何処かに行ったのでしょうか。心当たりはありませんか。」
母親が首を振ると彼は緊張した声で言った。
「念のためですが、捜索願いを出した方が良いかもしれません。」
母親は蒼白な顔で茫然と立ちすくんだ。凍りついたように教師を見つめて動かない。
「私が連絡しましょう。」見かねて教師が言った。「暗くなるのが早いので、急いだ方が…。」
彼は小学校で防犯教室が実施された際、担当者として警察署と軽い繋がりがあった。そのとき交番の電話番号を尋ねると、所員が留守の場合があるのでと署の番号を伝えられていた。
午後四時、小学生の女児が行方不明との通報に港中央署の捜査員が駆けつけて事情を聞いた。その報告を受けて署で緊急の会合がもたれた。署長の板垣のもとに刑事課長、地域課長、生活安全課長をはじめ各係長ら十名ほどの警察官が集められた。
板垣が口を開いた。
「通報の信憑性はどう判断されるだろうか。」
生活安全課長が発言した。
「通報者は小学校の担任の教師で、母親の依頼で通学路と学校内、公園を探したが児童を発見できなかったとしています。両者とも児童の行動範囲や交友と日常の生活環境を相当程度把握していると考えられますので現時点で児童が行方不明であるのは間違いないと思われます。問題はその事件性という事になりますが、同小学校区では昨年、一昨年と不審者による児童に対する声かけ事案が報告されています。何らかの事件に巻き込まれた恐れが否定出来ません。」
地域課長が言った。
「児童がいったんは自宅近くに到ったらしいとの情報が気になります。そこから何処かへ一人で向かうのは考えにくいですね。事件性を疑うことができます。」
「刑事課長はどう考えますか。」
板垣の質問に北条が意見を述べた。
「事件性があるとすれば連れ去りが推測されます。誘拐事件と仮定した場合、わいせつ目的か営利目的か、または他の理由があるのかがまだ明らかでは無いので慎重な捜査が必要になると思われます。ただし、児童を車で連れ回している状況もあり得ますので、警察車両と制服警察官を機動的に配置し捜索を強化することで犯行がエスカレートする事を抑止できる側面も考えられます。」
板垣が一つ唸って両手を胸で組んだ。
地域課長が誰かに語りかけるように口を開いた。「ひょっこり帰ってきてくれないかな。たとえば散歩の犬が可愛くてついて行ったとか…。」
すぐに板垣が決断を下した。
「とにかく児童の発見に全力を尽くさねばならない。捜査一係と安全課の私服全員で校区内と周辺を捜索してくれ。地区の事情に詳しい交番所員の協力も必要だろう。それとは別に自動車警ら隊を管内に広く展開させ、白バイ隊も総動員で交差点に配置する。女児を乗せた車両は例外無く停止を求めて職質する。児童の写真画像を全署員が共有するように。児童が何事もなく帰宅すればそれに越したことはないが、今は迷いなく捜索に全力をあげる。以上だ。隣接署には一報しておく。」
凜と武田は小学校の近くの公園にいた。予想に反して人っ子一人として姿がない。辺りには早くも夕方の気配が立ちこめ、寒風が頬を叩いて吹き去る。トイレを確かめた後、凜が言った。
「交通事故などで病院に運ばれてはいないかしら。」
「どうかな。ランドセルを背負ってたはずだ。もしそうなら連絡がありそうなもんだ。住所、氏名があるだろう。」
「それは推測でしかないよ。救急病院を電話であたろう。」
武田が首を傾げた。
「健太、予断だぞ。」凜が厳しい目で睨んだ。都合の良い推測は予断
につながる。そして捜査を危うくするのは予断と先入主だ。それを先輩刑事から繰り返し教えられてきた。次は後輩に伝える責任があると凜は考えていた。
「分りました。」と武田が素直に口にした。
だが凜が携帯の画面に目を落とした隙に素早く肩をすくめた。凜は気づかない。
救急病院に電話した凜は女児が搬送されていないと知らされると同時に、すでに警察署から問い合わせがあったことを伝えられた。それが一係によるものなら凜の班にも伝達、通知があるはずだった。
「地域課の照会だな。」武田が言った。
事故は無いとしたら、誘拐の可能性が高まる。…本当に誘拐事件なのか。少女の外見が伝えられていた。白い運動帽、赤いランドセル、ベージュのジャンパー、茶色の膝丈のパンツ、黒いタイツ、そしてピンクの手袋。凜と武田は女児の姿を求めてひたすら夕暮れの迫る街を歩き回った。
女児の自宅には黒田ほか数人が詰めていた。固定電話と家族の携帯電話が鑑識のパソコン端末に繋がれていた。
「念のためです。」と黒田が説明した。「不審な電話があった場合、音声を記録し、発信地を割り出します。」
職場から急いで帰宅した父親がそれに頷いた。母親が兄を子供部屋に行かせてからポツリと言葉を漏らした。
「何処に行ったのかしら…。」
まるで我が子が少しだけ遠い公園で無心に遊んでいるかのような口振りだった。
だが夕闇が訪れていた。沈鬱な空気の中で部屋の暗さに気づいた父親が照明を点けると、窓の外はすでに夜の暗さだった。ふらりとソファーを立った母親は窓辺に近づき、いったんはカーテンに触れたものの、そのまま真っ暗な窓を見つめた。ガラス越しに寒風が吹きすさぶ音が聞こえる気がした。彼女は夫の側へ戻ると、崩れるようにカーペットに座り込んだ。
「あなた…。」
悲痛な表情で見上げた目から涙がポロポロと溢れた。夫は膝の辺りで妻の手を握りしめて、黒田に尋ねた。
「まだ…、見つからないのでしょうか。」
「その報告はまだありません。現在、八十人体勢で娘さんの行方を捜しています。」
黒田は静かに立って戸外へ出た。少し離れた路上にバンが停められていた。中に藤原班が待機している。目の前に無線システムの機器が置かれていた。
「どうだ。」黒田が聞いた。
「発見できません。」
「そうか…。」
「手掛かりが全く出て来ません。クラスメートと別れたとされる地点から自宅までの間で児童を目撃した者が見つかっていません。同じ経路で下校した児童が数人いるのですが学校を通じて問い合わせたところ誰も少女を見ておらず騒ぎ声や悲鳴を聞いた者もいないんです。忽然と姿を消した印象です。顔を見知った者の犯行でしょうか。」
「可能性はあるな。」
顔を知られている者の犯行であればそれは少女の命が限りなく危険に晒されている事を意味する。
その場で北条と連絡をとった黒田が申し立てた。
「営利目的の可能性はもうないと判断されます。」
常識的に考えて捜索願が出される時間帯まで待ってから金銭を要求するとは考えられない。
「そこで、捜査方針を一歩踏み込むべきかと考えます。」
「具体的にお願いします。」北条が落ち着いた声で聞いた。
「顔見知りの犯行が疑われる状況が出て来ました。それが近隣の住人だとすると児童が住居内に監禁されているかもしれない。聞き込みをかける形で付近一帯を当たってみたい。それから本庁鑑識課に警察犬の出動を要請してください。」
「分りました。すぐに実行しましょう。」
黒田は捜査員を呼び集めた。交番の制服警察官が紙を綴じた分厚い冊子を手にして参加している。もし監禁の事実があるとすれば単身生活者を疑う必要があった。交番所員は居住者の所帯構成の大まかな実情を知っていた。協力が不可欠だった。時刻はすでに午後五時を過ぎている。黒田が刑事達に言った。
「照明が消えていても本当に不在か見極める必要がある。異常を見逃さぬよう慎重に当たってくれ。」
だが虚しく時間は過ぎ、刑事達は手掛かりを得られなかった。
午後九時、黒田は捜査員の体勢をどうするか北条に相談して指示を仰いだ。明朝からの捜査に備えて三分の一を帰宅させ、残りを二班に分けて交替で警戒と監視に当てることになった。
両親の不安は極限に達していた。父親が突然立ち上がって「外を探してこよう。」と呟いた。
「何処か心当たりがありますか。」
黒田の問いかけに、無言のまま茫然と立ちつくした。
その時キッチンから物音が聞こえた。跳びあがった母親が走り、夫と黒田が後に続いた。小学六年生の兄が炊飯器の側に立っていた。
「お母さん、お腹が空いたよ…。」
ガックリと気落ちした様子の母親に黒田が言った。
「食事を摂ってください。我々も交替で食べる予定です。」
母親は力なく首を振ったが、夫が何か飲むように勧めた。
やがてキッチンに食器が触れ合う音がして子供の声が聞こえた。「萌愛は?…まだなの?」
午後十時、表の通りで短く笛が鳴った。気づいた両親が急いで暗い戸外へ出ると人声がする。見ると五十メートルほど離れた住宅のガレージから車が出るところのようだ。ヘッドライトの中に制服警察官が立ちはだかっていた。
「これからお出かけですか。…アルコールは飲んでないですよね。」
もう一人の警察官が尋ねた。さらに私服刑事らしい男が車内を覗き込んだ。
「トランクを見せてください。」と警察官が続けた。
両親が見つめる中、異常が無かった車は静かに視界から去った。警察の監視と警戒が続けられている。それを知っても両親の不安と焦燥が薄れることはなかった。ことに母親の精神は追いつめられ、限界に達していた。その口から嗚咽が漏れた。
彼女は夫に抱き支えられて悲痛な叫びをあげた。
「萌愛…!」
居合わせた捜査員は慰めの言葉を口にできなかった。ある捜査員は、連れ回しでは何ら危害を加えられなかった例もあると言いかけて危うく言葉を飲み込んだ。それは余りにも無責任な希望だった。…そして事件は最悪の経過をたどった。
早朝五時、捜査車両の中で仮眠を取っていた凜と武田は警察無線の声で跳ね起きた。
「港中央署管内の区民公園に子供が死んでいると入電!」
「区民公園!」武田が思わず叫んだ。
二人は小学校区内の交番所の駐車場にいた。公園は六キロほど離れている。凜が赤色灯を回した。道路に出て武田がアクセルを踏み込んだ。サイレンが唸る。百メートル余り走ったか、武田が運転しながらいきなりハンドルを拳で殴りつけた。空の一部がようやく白む夜明けの街を車はサイレンを鋭く響かせて疾走した。
公園の周りにはすでに数台のパトカーが到着していた。赤色灯が煌めき、警察官の姿があちこちに見られた。その一人が凜と武田に規制テープ越しに公園内の一隅を指し示した。園内の照明がまだ煌々と輝いている。凜は出入り口に立って足許の痕跡を注意深く見た。幾つもの靴跡らしきものがあった。
「踏みつけないように、シートを敷こう。」と武田に指示した。
十メートルほど進むと芝生の部分がある。そこに大人の膝上くらいの低い茂みが細長く続いて、公園と周りの歩道を擬木の柵と共に隔てている。その茂みに寄り添うように小さな白い体が芝生に横たわっていた。凜の口から溜息に似た短い叫びが漏れた。女児は全裸だった。死後硬直が起きているのを確認して凜は車に向かい、あらたにシートを手にして戻るとその体を覆った。
直後に黒田と藤原班が到着し、北条と宿直の鑑識員が続いた。さらに短時間のうちに捜査員が次々と集結した。しかし公園内に踏み込んだのは凜と武田、黒田、北条、鑑識員だけだった。あらためてシートを捲り遺体を確認して合掌した。女児の開いたままの眼は暗く沈みすべての光を失っていた。首に変色が認められた。黒田が手と腕を取り硬直の度合いを調べた。凜は心配そうに北条の蒼白な顔に視線を走らせた。空全体が白くなり、ようやく夜が明けようとしていた。
「発見者は?」と北条が黒田に尋ねた。
「藤原が話を訊いているところです。」
小さく肯いた北条が暗澹と呟いた。
「身元確認が必要ですね…。」
捜査員に背を向けた鑑識員が「急いでください。」と電話している。「本庁に遅れたら洒落にならないですよ。」
非番の者を含めて鑑識全員に出動が指示されていた。
港中央署で身元確認が行なわれた。北条と黒田が立ち会った。両親は白い布に覆われた遺体を前に凍りつき、それから悲痛な声で娘の名を叫んだ。両親にとって到底受け入れられない現実が目前にあった。
「残念です。」と北条が声を掛けた。「我々は犯人逮捕の決意を固めています。お嬢さんの無念を必ず晴らします。」
母親は娘の体を抱こうとして黒田に制止されて泣き崩れ、父親は全身を震わせて娘の顔を見つめていた。その瞼に涙が溢れた。だが北条は両親に伝えなければならないことがあった。
「亡くなられた原因を詳しく調べる必要があります。これは解剖を含みます。犯人逮捕が目的です。ご協力ください。」
司法解剖は親族の了承を必要としない。だが遺族の感情を思えば理解を求める言葉が必要だと北条は考えたのだった。
「そうすると…、どうすれば…。」
父親は北条を見つめて何も考えられない様子だった。かろうじてそう口にした。
「これから法医学研究室に運びます。検案後にこちらへ帰ってきますのであらためてご通知します。最短で三日ほど必要とお考えください。」
北条の説明に黒田が静かに言い足した。
「お棺に納めてお渡ししますので…。」
二人の警察官は自分たちの言葉が両親に残酷な現実を繰り返し突き付けているように感じられてやるせなかった。それでも黒田は腕時計を見た。再び親子を引き離す時間が迫っていた。
「では一旦お引き取りください。」
その黒田の言葉に両親は愕然として刑事を見つめた。黒田と北条は黙って頭を垂れるしかなかった。
港中央署に「児童誘拐殺人 死体遺棄事件」の捜査本部が設けられた。一係の刑事達が待ち受ける大会議場に本庁捜査一課の刑事百人余りが参集した。その先頭に姿を見せたのは伊達だった。港中央署から本庁に異動し、今は捜査一課の管理官となっていたのだ。
伊達はかつての部下たちに「よっ!」と声を掛けた。さらに凜に気づくと「お姉ちゃん、元気か。」と続けた。
伊達が本庁に異動して以来その捜査指揮を受けるのは所轄署にとって二度目だ。初めは五年ほど前の殺人事件だった。身内どうしのトラブルから二十歳の甥が叔母を包丁でメッタ刺しにして身を隠した。殺人事件の捜査は凜にとって二度目だったが現場は初めての経験だった。犯行場所の居間は血の海となっていてその匂いが堪らず吐き気に襲われたときに検視官が臨場し、黒田と藤原、鑑識員以外はいったん戸外に出された。そこへ伊達が庭の鑑識員たちを回り込むようにやって来た。凜の血の気を失った顔を見て脚を止めた。
「お姉ちゃん、元気か。」とそのときも言った。そして「蛭沢をぶん投げたそうだな。」とつけ加えた。
一瞬驚いた凜の顔に少し赤みがかかるのを待って伊達は短く笑った。
今、伊達が捜査員の正面に立った。
「まず、今回の卑劣な犯行の犠牲となった少女の冥福を祈って黙祷を捧げる。」
捜査員全員が起立した。
「黙祷。」伊達と同じ並びの主任警部が号令を掛けた。短い静寂が辺りを包んだ。
伊達が頭を上げて捜査員を見まわし、よく通る声で発言した。
「直ちに初動捜査にかかる。ガイシャの司法解剖は明日に予定されている。さらに遺留物の鑑識もまだ中半だ。だが検案や鑑識の結果を待つ必要はない。それは明らかになり次第内容を伝える。今為すべきは手がかりとなる情報の収集に全力を挙げることだ。聞き込みを徹底して目撃情報を探せ。とくに通学路周辺では犯行当日に限らずその前日でも、あるいは一週間、それ以前の情報でも把握に努める。女児に話しかけた人物を見なかったか、女児に接近する者を見かけなかったか、他何でも良い。また犯人は成人に限らない。少年の可能性に留意せよ。
通りに設置された防犯カメラを細かくチェックする。犯行当日の下校時間帯の影像については人物に限らず通過車両に注意を払え。特にタクシーや運送会社のトラックについても特定し、車載カメラの映像の提供を求めるのも良いだろう。
遺棄現場の遺留物は十数種類のゲソ痕だけだと聞いている。こちらも周辺住宅へ聞き込みをかける。ランドセルと帽子、着衣、靴等は見つかっていないが、これらには遺留指紋が見込まれ、重要な物証となりうる。発見に力を入れる。
諸君は三つの班に分かれ通学路と校区、公園、未発見の衣類の捜索に当たってくれ。それぞれ主任警部の指示に従え。
事件解決の成否はこの初動捜査にかかっている。全力を傾けてくれ。そして必ず犯人を挙げて少女と遺族の無念を晴らす。以上だ。」
凜と武田は公園、つまり遺棄に関する捜査班に加えられ、本庁の捜査員と共に別室に集められた。大きな白いボードに区民公園と周辺の地図が貼られた。この班長の主任警部、蒲生はいかにも強行犯担当の叩き上げらしかった。どんな表情のときも眉間の深い縦皺が消えなかった。年齢は五十なかばか。蒲生は所轄の刑事六人を睨め回して低いしゃがれ声で言った。
「最初に言っておくが一課には一課のやり方がある。お前たちは地域の事情を知っているだろうから、その意見を言うのは構わない。こちらも有り難く耳を傾ける。だが勝手な真似はするな。大勢の捜査員を動員する意味が失われるからな。分ったな。」
凜も武田も、所轄の刑事達は皆、直立不動にちかい姿勢で聞いていた。
だが蒲生は突然「女っ。」と声を高めた。凜を指しているのは明らかだった。
凜は反射的に蒲生に視線を走らせたが正面のボードを向いたまま無言だった。蒲生が近づいて「おい。」と声を掛けた。
「なに。」凜が間髪を入れずに応えた。
蒲生は一瞬たじろぐ気配をみせたが、すぐにドスを効かせた言い方をした。
「俺の話は聞こえただろうな。」
「はい。」凜の声は固い。
「くれぐれも指示を守れ。分ったな。」
実は蒲生の同期の刑事が組織犯罪対策課にいた。その刑事から、本庁の管理官に食ってかかった所轄の女刑事の話を聞かされていた。刑事はどちらかと言えば凜を非難した訳では無く、管理官が立ち往生してしまったこと、女刑事が美人だったなどたわいない話題としたのだが蒲生の受け取り方は違っていた。
…ナメられてたまるか。凜がその女刑事だと直感したのだ。強行犯一筋でやって来た初老の刑事の自負から生じた感情だった。
一方で凜は当然面白くなかった。何の脈絡もなく突然高圧的な態度を示されたのだ。その理由が分らない。凜は腹を立てていた。蒲生を信頼する気にはなれなかった。だがこの時抱いた主任警部への些細なこだわりが、やがて凜を自ら死地に追い込むことになるとは想像も出来なかった。
(つづく)
「女刑事物語(11-2)」 C.アイザック
通学路を下校する児童の目撃証言は得られた。新しい学期が始まったばかりでもあって、幾人かの保護者が交通安全の目的で交差点に立っていた。また小学生らの印象を周囲の住民や道路沿いの商店主らが記憶していた。少女は主要な道路を折れてすぐに同じクラスの友人と別れている。友人宅は交差点の角地にある自転車店の隣だった。そこから少女は一人で自宅へ向かったと思われた。車がようやく離合できるほどの、緩やかにカーブした狭い道を約百五十メートル余り進む。交差点からの見通しは徐々にきかなくなる。戸建ての住宅と低層のアパート、空地を利用した駐車場などが両側に続いていた。やがてT字路を曲がれば五十メートルほどで自宅だ。このわずか二百メートルの距離で少女は消えていた。目撃者も、手掛かりも無かった。
公園の捜査班も有力な手掛かりを得られなかった。蒲生の指示によって周囲の住宅すべてを戸別に訪ねた。公園の監視カメラは小さな管理施設の出入り口に向けられていた。その記録映像は参考にもならない。近くの住人から情報を聞き出すしかなかった。蒲生の目的は、遺棄現場での犯行の目撃者を探し出すこと、または遺棄の犯行時刻を推察するに足る情報を得ることだった。もし犯行が目撃されていれば通報があるのが普通だ。それがない以上目撃者は容易に見つからないと思えた。だが犯行時刻が分れば捜査手段がないわけではなかった。蒲生はNシステムを念頭に置いていた。
それは自動車ナンバー自動読取装置のことで、科学警察研究所によって三十年あまり前に実用化されたものだ。道路上に高く差し出された、あるいはレーンをまたぐ鉄骨製の構造物に複数のカメラを取り付け、通過車両をすべて自動で記録する。そのナンバーをほぼ正確に読み取り手配された車と照合する。これも自動で行なわれ、もし該当する車が通過すると直ちに警察無線に「N号ヒット」の一斉指令が伝えられる。またシステムは手配車両の探索以外に不審車両の洗い出しにも使われた。それが蒲生の狙いだった。
このシステムはごく限られた地点にしか設置されていない。国道、高速道路、県境、都庁、空港、などの重要道路が対象となっている。だが最近になって小型の装置を地方道の電柱に取り付け、裏道を使った逃走の防止を図る試みが行なわれるようになった。その対象になった地方道が公園から百メートル余りの地点を走っていたのだ。もし犯人がこの道路を使っていれば、そして装置の前を通過していれば車両を割り出し、犯人にたどり着くのは可能だ。犯行時刻が分れば絞り込みは容易になる。問題はその位置関係だった。誘拐現場から公園まで約六キロ。その経路はNシステムが設置された地方道に近づくが交わってはいない。だが生活道路一本を越せば公園だ。公園側から地方道に進入した車が犯人の車と遭遇した可能性がないとは言えない。車載カメラがそれを捉えているかもしれない。蒲生はわずかな希望と知りながらも、それを捨てる気はなかった。
だが、公園の周辺から有力な情報が得られない。公園は住宅街の真ん中にあった。それにもかかわらず聞き込みによる手掛かりが見つからないのだ。理由として考えられるのが周辺の住宅が一様に使用している厚いカーテンだ。公園は防犯のために終夜、照明が消されることはない。さらに周囲の電柱には街頭が輝いている。その為、何処の家も公園に面した窓に遮光性の高い厚手のカーテンを利用していた。そして真冬。ガラス窓は厳重に密閉されている。夜間、外の道路の様子に気づくのは容易ではなかった。
凜は粘った。せめて遺体が無い公園を見た人物が探せないか。その証言で遺棄の時刻を推察する手掛かりとしたかった。凜の期待を膨らませたのは現場のすぐ近くに住む受験生だった。十八歳の男子高校生の部屋は二階にあって公園を見下ろせるという。彼はいよいよ目前に迫ったセンター試験に向けて午前三時まで勉強した。そして眠気を覚まそうと深夜一度だけ窓を開けて寒気を部屋に入れたのだ。
「その時公園の様子を見た?」凜が尋ねた。
「見たというか、自然と眼に入るので…。」
「芝生の上に何かありましたか。」
「いや…。」
「何かあったかどうか気づかなかった…?」
「いや、もし何かあったら…。」高校生の唇が震えた。「見えたはずです。…何も、ありませんでした。」
「それは何時頃だったかしら。」
「二時を少しまわった頃です。」
「それから三時まで起きていた訳ね。何か気づいたことは無かったかしら。」
「ありません。」
「そう、ご免なさいね勉強の邪魔をして…。試験、がんばってね。」
高校生はすぐ目の前の公園に死体が遺棄されるという異常な状況に置かれたことになる。気の毒だと思いながらも彼がそれを実際に見ていないことに凜は安堵した。優しく声を掛けると高校生は顔を真っ赤にして肯いた。
翌日、全員を集めて捜査会議が行なわれた。伊達の求めに各班が状況を報告したがいずれも強調できるものは無かった。特に少女の失踪を捜査している刑事達は落胆しているようだった。少女が友人と別れた場所にある自転車店の防犯カメラがこれまでいつも録画されていなかったと判明したのだ。
担当の主任警部が説明した。
「肝心なカメラが動いていなかった。道はそこから狭くなって住宅街に入り、防犯カメラが設置された地点は無い。犯人につながる目撃情報も得られていないが、いずれにしろ犯行には車が使われたはずだ。付近一帯の道路に関係する監視カメラを徹底的に調べたい。犯行時刻が狭い範囲で想定できることから、これまでに約五十台の車両を特定し捜査を進めている。今後さらに車の特徴などから対照を掘り起こしたい。」
次いで蒲生が立った。
「今のところ有力な手掛かりは無い。まあ、そんな簡単なものじゃ無いだろうが…。遺体が発見されたのが午前五時。付近の新聞販売店三社をあたったが、配達時間の午前四時頃から以降、残念ながら現場に人影や車を見た者はいない。聞き込みでは午前二時頃は公園に異常が無かったという証言を住民の受験生から得ている。この証言を疑う具体的な理由は無い。とすると昨日午前二時過ぎから五時までの間に犯行があったと考えられる。遺体が車で運ばれたとすると、周囲の道路、これに面したコンビニなどの防犯カメラ、交差点の監視カメラから不審車両を見つけ出したい。さらに公園から約百メートル余りの地方道に小型のNシステムが設置されている。こちらは現在、犯行時間帯の通過車両を照会中である。後ほど失踪地点の捜査で浮かんだ車両とのナンバー情報を共有したい。」
着衣の捜査班からは発見に到っていないことが短く報告された。彼らは都内全域の清掃工場、処理業者をあたっていた。
伊達が腕時計を見やるのとほぼ同時にドアが開き、検視官と本庁の鑑識課員が現われた。検視官は伊達に一つ頭を下げると片手を軽く上げて捜査員の正面に立った。一課の刑事達はどこか気安い雰囲気でそれを迎えた。検視官は数年前まで一課の警部として犯罪捜査に働いていた。彼は刑事達にとってかつての上司だったのだ。鑑識員も当然顔見知りのようだった。この男はまだ巡査部長のころ事件現場で不用意に足を踏み入れた所轄の副署長を怒鳴りつけた経験の持ち主だったが、一課ではそれを好意的に受け止めていた。身内意識的な雰囲気がたちまち辺りに満ちた。それは一方で所轄の刑事達に密かな疎外感を与えた。
検視官は手提げから書類を取り出して刑事達を見まわした。
「これより検視報告と監察医の解剖結果を伝える。まず検視だが、臨場が昨日午前六時。遺体は着衣が無く、公園の芝生部分に仰臥。硬直の状態から死後十二時間以上が経過したとみられ、死亡後に遺棄されたのは間違いない。細かいことは解剖結果と合わせて報告させてもらう。身長は百二十センチ、体重二十三キロ。顔面と喉首に圧迫痕あり。鼻腔内に出血痕。鼻梁の軟骨と表皮に打撲痕あるいは極度に強い力が加わった痕があった。局部に裂傷があり、膣内と下腹部から体液が発見された。この他に体の損傷は無い。精液痕、血液痕、唾液痕、陰毛の遺留物はすべてDNA型鑑定にまわしてある。この結果はすぐに警察庁のデータベースと照合する。もし合致するようなことがあれば一発だ。
死因は頸部を圧迫され気道が塞がったことによる窒息死。胃には未消化の食品を含む内容物が残っていた。これから死亡時刻は午後三時から四時の間と推測される。誘拐直後に殺害されたことになる。」
室内は重苦しい空気に包まれたが、検視官は刑事達を見まわして容赦の無い口調で続けた。
「局部の裂傷は出血を伴っていない。血流が失われると三十分、四十分で血は凝固していく。つまり死後それ以上の時間が経った後にわいせつ行為があったことになる。これをどう読むか。犯人の手掛かりを得るきっかけになるかもしれん。」
そう言って検視官は腰を下ろした。腕を組み、刑事の気分に戻って推理を想い巡らしているようだった。
続いて鑑識官が報告した。「体表面から指紋が検出されませんでした。皮膚上に夜露の水分がありましたが、指紋が検出されなかった原因はこれでは無く、手袋が使用されたと思われます。それは顔面と頸部の圧迫痕の形状からも推測されます。縫製のつなぎの線が指先に当たる部分の二カ所に残されています。軍手やゴム手ではなく、薄手の革手袋と思われます。夜露と考えられる水分は遺体の下敷きとなった部分にもはっきりと存在していました。気象関係者によれば当日は比較的冷え込みが弱かったとはいえ、午後十時頃から露が降りていただろうということです。
公園の出入り口のグラウンドから多数のゲソ痕を採取しました。このうち痕跡が確かな数種類について靴の分類とサイズ、メーカーの特定を急いでいて、すでに四種類が明らかになっています。」
鑑識官は書類の薄い束を掲げて「ここにまとめてありますが…。」と言ってそのうちの一枚をボードの端に貼り付けた。
「この四種類です。すべて遺体の置かれた地点から最も近い入り口付近で採取しました。一つは発見、通報者のものです。残る三つのうち一つが特徴を持っています。ミドリ靴社製でサイズは二十六センチ、見た眼は運動靴だが実は安全靴で、建築現場で人気がある製品らしいです。
他の出入り口三カ所のゲソ痕については現在調べ中です。」
「ちょっと、良いかな。」蒲生が口をはさんだ。
「ゲソ痕は入り口のものと言ったが、犯人が公園には立ち入らずに、歩道から投げ入れた可能性はどうなんだろう…。」
「歩道から高低差はほとんど無く、柵と植え込みを越えて約二メートルの場所になります。体重が二十三キロですから体力のある男性であれば投げ込むのは可能です。しかし遺体には背中に枯れ芝の断片が多数付いていましたが傷はありませんでした。仰臥の姿勢も偶然にしては整いすぎている印象でした。
先ほどのミドリ靴社のゲソ痕ですが、入り口から遺体のあった芝生まで約十メートルの土の上を往復しております。これらはすべて報告書に記載してあります。また車両関係については写真班の方で適宜に報告させてもらいます。」
鑑識官が腰を下ろすと、伊達が刑事達を見まわして言った。「一度にあれもこれもと諸君には申し訳無いが、刑事部の捜査支援分析センターのお人に来てもらっている。話を聞いてくれ。」
その男は伊達の隣に座っていた。頭のほとんどが白髪の天然パーマだが顔の肌つやは良く、そのため年齢不詳の印象を与えた。ゆっくりと捜査員の前に進み出ると、特に前方の席の刑事達がそれとなく姿勢を正した。男の制服には、彼の階級が警視であることを示すラインがあったのだ。警視はペコリと頭を下げて口を開いた。
「センター次席の長宗我部です。どうぞよろしく。」それから意味ありげに捜査員を見やった。
「皆さんはきっと、犯罪プロファイリングなど、何の捜査の役にも立たないと考えているのでは無いでしょうか。それは半分以上当たっています。」
刑事達に小さな笑いが起きた。
「けれども十回のプロファイリングのうち九回が外れたが一回は犯人逮捕につながったとします。野球でいえば十打数一安打だな。それを点数で表わすと十点にすぎないなのでしょうか。私はそうは思わない。犯人を逮捕できたならそれは百点ではないでしょうか。一つの事件解決のためたとえ何百回でも打席に立つ皆さんなら私の言葉を理解してくれると思います。
さてそのプロファイリングは犯行現場の検証や遺留物などをもとに犯人像を割り出そうとしますが、本件の特徴は失踪の現場と思われるところに痕跡を残していないこと、そのうえで人の眼に付く場所に被害者を遺棄したことです。これらを考え合わせると犯人は一見、非常に大胆な性格の人物のようですが果してどうか。白昼の公道での誘拐。これは大胆ということでは無く、その方が犯行に都合が良いからだ。目撃者はいないか、児童が何処に防犯ベルを点けているかなど一目で見て取れる。公園の遺棄についても一つの見方ができる。犯行を顕示したい強い欲求があったのだろう。着衣などが発見されていないのも、犯人が保有している可能性を窺わせる。その心理学的な解釈は様々あるが連続した事件の可能性が低いので今は触れない。ここでは先ほど鑑識官が指摘したゲソ痕が重要な意味を持つと考えられることを指摘しておきたい。
たとえば盗犯の捜査員の話を聞くと、大胆不敵な犯行に見えていざ逮捕してみると緻密な計画性はなく、どうせバレないだろうという思慮のなさから犯行を繰り返していたケースがよくあるという。この犯人が同じようなタイプならゲソ痕が犯人のものである可能性がある。どうせバレないと高を括ったのでは無いか。」
長宗我部はここでいったん口を閉ざして正面の大きな白色ボードに近寄った。そこには通学路を中心にした地図が掲げられていた。周囲の防犯カメラの位置がすべて書き込まれている。少女の下校コースが赤い線で示され、友人と別れた地点にバツ印があった。それを短く見つめたあと刑事らを振り向いた。
「こうした犯罪の場合、プロファイリングではまずこれが秩序型なのであるか否かを問う。非秩序的な犯行とは例えば、行き当たりばったり目にした子供のあとを車でつけていきなり強引に連れ去る。だが今回の場合、児童はその経路のほとんどで指定された通学路を進んでいる。歩道には金属パイプの柵が設けられ、対面二車線のさほど広くない道路だが車の交通量は多い。加えて交差点には保護者が立っていた。このような道路で子供の足の速さに合わせるなど不自然な運転はできない。私の結論は秩序型犯行ということになる。
もしそうであれば、犯行には準備期間があったはずだ。犯人は児童を認識していた。いつかどこかで顔を見ていた。それが犯行に結びついた。遺体の状況から犯人の執拗な意志、執着が感じられる。児童は明確な目標となっていたはずだ。とすれば犯人は児童と、学校あるいは通学路、もしくは家庭環境で遭遇、接触の機会があったことになる。
犯人は小学校付近に居住しているか、生活圏であるのか。職場が付近にあるのか、それとも通学路が通勤経路なのか。あるいは営業ルートなのかもしれない。様々なケースが考えられるが、ここで一つ、先ほどのゲソ痕が建築作業の安全靴ということから、関係する事業所の有無だけでなく、通学路あたりで最近新築やリフォームの工事があったかどうか、これも頭の隅に入れて置いてもらいたい。
家庭環境における犯人との接触については家族から細やかに話を聞く必要があるが今のところそれはできていない。今夜が通夜で明日が告別式の予定だ。少し落ち着いてからが良いだろうと考えている。尤もプロファイリングでは被害者の特徴を分析することで加害者を割り出す手法を重視しているのでそう先延ばしはできないが。とりあえず刑事さんで子供部屋か学習机を見ることで児童の趣味などを確かめるのも意義があるでしょう。また見方を変えて少し踏み込んで言えば、遺棄に見られる強い自己顕示欲は犯人が告別式に現われる可能性を示唆している。撮影班を出動させ出会者の顔を記録して遺族や学校関係者、町内会の協力のもとでその身元を確かめることも一つの捜査手法だろう。
最後にもう一つ。強制わいせつ罪の逮捕者、前歴者の洗い直しが捜査に含まれるでしょうが、データベースのDNA型と一致した情報がないからといって、前歴者が無関係とは言い切れない。平成十五年以前についてはデータが登録されていない可能性があるからだ。
さて所轄署の不審者情報によると、この小学校区では昨年、一昨年といわゆる児童への声かけ事案が報告されている。まず一つは昨年六月午後三時十分頃一丁目の路上で女子児童が下校途中に男に声をかけられている。その内容は、可愛いね、いつも何時頃この道を通るの。さらに、ペンをあげる何色が好き、と執拗に声を掛けている。不審者の特徴は年齢三十歳くらい、身長百六十センチくらい、痩せ型、丸顔、黒髪短め、灰色上下の服。それから一昨年の事案は同じく一丁目の路上で女子児童が男につきまとわれている。家の前までつきまとわれ、何々さんか、と表札の名前を呟かれた。不審者の特徴は六十歳代、黒色ジャンパー。双方とも声を掛けられたのは今回事件に巻き込まれてしまった児童ではないが、無関係と決めつけるのでは無くそれはその時点でそうであったというとらえ方で良いだろう。
こうした不審者情報はすべて子供の申し立てによる聞き取り調査によるもので捜査員の側から言わせるとその情報は曖昧にすぎることなるが、プロファイリングの立場からすると、声掛けの内容や行動の共通点が得られれば前歴者の捜査に役立つかもしれない。
以上、甚だあやふやな報告となってしまったが、遺留物がゲソ痕だけではこれが限界といわざるを得ない。もし新たな物証や証言がでたらいつでも分析に応じるので声を掛けてください。」
「貴重な教唆を頂き有り難うございました。」と伊達が引き取った。長宗我部が席に着くのを待って伊達があらためて刑事達を見渡して口を開いた。
「聞き込みを続けてくれ。通学路も公園もテレビなどマスコミが増えるだろう。やりにくいだろうがそこはうまく捌いてくれ。車両については車載カメラの影像を提供してもらうのを忘れるな。これはと思うことがあればDNA型鑑定の協力をうながす。少々強引でも構わん。責任は俺が取る。」
伊達はそう言ってから北条の顔を素早く窺った。北条は警察庁の人間である。だが北条は全く表情を動かさなかった。
突然検視官が片手をあげた。「伊達管理官、残念ながらデータベースにDNA型が一致する登録が無いということだ。たった今連絡を貰った。」
「分りました。」伊達は何度か頷いた後、刑事達を見まわした。
「では捜査にかかってくれ。」
伊達の号令に刑事達はゾロゾロと会議室を出て行く。黒田が伊達の近くに歩み寄った。黒田は児童の通夜に北条と顔を出す予定を伝えるためだったが、その様子を目にした凜もなんとなく近づいた。やはり伊達が懐かしかった。凜はその性格が好きだったのだ。
伊達は側に来た凜の微笑をつかの間眺めて言った。
「お姉ちゃん、何か言いたそうだな。」
「もうそんな若くないわ。オバサンです。」
「そうでもないぞ。」
「伊達さん…。」凜は顔を赤らめたがどこか元気がない。
「言いたいことがあれば聞かせてくれ。」
はじめの質問に戻った伊達の言葉に黒田が興味を抱いた表情で凜を覗き込んだ。
「伊達さんに何か心配させちゃったのかしら。」
凜が冗談めかしたが伊達は誤魔化されなかった。
「蒲生を支えてやってくれ。取っつきは悪いが立派な警察官だ。」
凜は伊達を見つめた後、拳を口に当てて咳払いをした。そして突然しゃがれた低い声を出した。
「一課には一課のやり方がある、分ったか。」
少し離れていた武田がそっぽを向いて必死に笑いを怺えた。黒田は訳が分らない。
「まともに受ける必要はないぞ。大した意味はない。」
伊達はそう言って苦笑したが、すぐにおかしさが込み上げたのか笑い出した。凜はいよいよ顔を赤くした。
「私はただ、捜査の全体的な情報がなかなか伝わってこないのが不満なだけ。けれど警部の指示を守るのは当然の事だわ。」
蒲生の班はナンバー情報をもとに車とその所有者を探した。地方道のNシステムは午前二時から午前五時の間に約四百台のナンバーを記録していた。その車載カメラも相当数が予想される。一課の刑事達が膨大な数の捜査対象に取り組んだ。Nシステム以外では車両の特定が難しかった。町内会や商店の防犯カメラはそのほとんどで車のナンバーを捉えていなかった。レンズはおもに店舗前の歩道に向けられていて、車道が一部映っている場合でも車のナンバーは読み取りにくかった。尤も深夜二時を過ぎて撮影された車の数は少ない。このため範囲を拡大して二カ所のコンビニ店から防犯カメラの映像を提供してもらったが、こちらも駐車場の車はナンバーが分るものの店舗前の通過車両は車種がようやく判別できる程度のものだった。この他にはタクシーの車載カメラから十数台の情報を得た。所轄署の刑事達がこれらの捜査にあたった。
凜と武田はコンビニを担当した。犯行時間帯に駐車された車の持ち主を探して話を聞き、合わせてドライブレコーダーの影像の提供を求める。約百台が対象だった。駐車したのが犯人自身か、あるいは車載カメラがどこかで犯人の車両を捉えている可能性はあった。だが特定される車両はごく限られている。合理的な一面はあるが、実は藁をも掴むような捜査と言えた。凜と武田は粘り強く取り組んだ。車の持ち主が特定の時間にコンビニを利用した必然性を様々な言葉でさりげなく追及する。不自然な説明や矛盾を逃さない注意深さで話を引き出し車の移動経路を尋ねた。武田がそれを地図に書き込む。やがて公園の近くの道路に赤い線が何本も重なった。だがこの日ようやく十人から話を聞くことができただけで、手応えもなかった。凜は小さく溜息をついた。
一方通学路周辺の聞き込みに回っていた所轄署の藤原は、まさにその道路に面して賃貸マンションの新築工事が行なわれたことを知った。完成が昨年五月。敷地面積が広いため建物は大きい。藤原はさっそく持ち主を訪ねた。
マンションのオーナーは意外と若い四十代の男だった。
「親が土地を残してくれたのでマンションを建てることにしたんですが、ところがね、前の通学路の幅が狭いという理由で高さ制限をくって五階建てになっちゃったんですよ。設計事務所からそう言われて、それが法律なら従うべきだと思いましたよ。何の違反もないはずですよ。」オーナーは藤原が刑事だと意識したのかそう強調した。
藤原は施工の会社名を確かめた後さりげなく聞いた。
「建築現場には良く顔を出されましたか。」
「そうでもないですが、梅雨入りの前に工事を終える計画でしたので、四月頃からは割と様子を見に行きましたね。」
「あなた以外のご家族や友人も現場を訪れたのではないですか。」
藤原はこの工事関係者は勿論、周囲の人物もすべて捜査範囲に網羅したかったのだ。
その藤原の意図に気付くはずもないオーナーは「うーん。」と考えて「それは無いと思うけど…、そういえば妻が一度現場に行って監督と意見を交したらしいです。」と言った。
「ご協力有り難うございました。」と藤原が話を終えた。
この時になってオーナーは身を乗り出した。身近で起きた誘拐殺人事件が気になって仕方なかったのだ。藤原に尋ねた。
「誘拐事件の犯人は捕まりそうですか。私も妹も小学校の卒業生なんです。犯人が憎いです…。」と訴えた。
設計事務所と施工会社が分った。その建築会社を訪ねると工事期間は約一年、基礎、本体工事、配管、電気、内装、エクステリア、さらに交通誘導員を含めると約二百人の作業員が関わっていた。この報告を受けた伊達はランドセル、着衣の捜査に当たっていた刑事二十人をこの捜査に振り向けた。分析官はそれらを犯人が保有している可能性を指摘したが、犯行の証拠となる物を手許にいつまでも置いておくのは考えにくかった。人目に付かない山間部に放棄するのは容易だ。処理業者には情報の提供を求めてある。いずれにしろ発見の報を待つしかないと判断された。
藤原は型枠工と呼ばれる施工を受け持った工務店を担当した。所在地は調布市だった。行動を共にしたのは尼子という二十八歳の新人刑事だ。配属されてようやく一年が経とうとしている。
「この辺りはまだ畑があるんですね。」とハンドルを握っていて口にした。
目的の工務店も畑に隣接していた。小さな二階建ての社屋だ。すぐ隣が資材置き場で、板材をつなぎ合わせた型枠が大量に積み上げられている。
敷地の駐車場に乗り入れた刑事達の車を資材置き場の前に立った男が見つめていた。二人が車を降りると声を掛けた。
「誰だ?」
何処か横柄な語調だった。身なりも作業員には見えない。年齢は六十歳代と思えた。
「警察です。」近づいた藤原が口にすると、男は反射的に眼を反らしたが、すぐに藤原に視線を戻した。慌てた気配が感じられた。
「社長さんですか?」
藤原が問いかけると小刻みに二度頷いた。
「稲荷町一丁目のマンション工事についてお伺いしたいのですが。」
男はまた頷いて次の言葉を待っている。
「詳しくお話を聞かせてください。」
ようやく気付いて二人をオフィスに招き入れた。応接室へ通して名刺を差し出した。すぐに中年の女事務員がお茶を持って来たが、なぜか警戒心が露わな視線を刑事たちに投げた。
(つづく)
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