第10話

   「女刑事物語」(10-1) C.アイザック

 十二月二十七日、暮れも押し迫ったこの日、空は穏やかに晴れて日差しが明るい。凜は落ち着かない様子だ。午前九時に明が迎えに来ることになっていた。明は凜の自宅を知らない。だが住所の番地さえ分れば問題ないという。凜は時計を見ながら美風の身だしなみをあらためてチェックした。毛糸で編んだカーデガンから小さな花びらを刺繍した白いブラウスがのぞく。毛織りの短い上着と同じ素材で色違いのスカート。暖かそうなタイツを穿いていた。すべてパステルカラーの柔らかな色調で統一されていて、凜は満足しながらも香織がいつの間にこんな用意をしていたのかと少し驚いた。

一方の凜の格好は頑丈そうなキュロットパンツに長袖のセーターとジャンパーだ。しかもダーク調の地味な色合いで、飾り気の無い服装だったが、それはそれで凜の美しい顔を目立たせてもいた。

香織はどこか冷めた目で凜を見ていた。男と出かけるというのだ。いつぞやの食事に誘われた人物だと告げられた。だが美風が一緒と聞いて香織の気持ちは穏やかで無かった。見知らぬ他人が突然家族の中に割って入った気がした。凜の浮き浮きした様子がなにかしら気にくわなかった。

「男の方とお付き合いするのは良いことだけどね…。」と香織が言った。「いきなり美風を連れてくのは乱暴じゃないかい。」

「お母さん、どういう意味か分らないんだけど…。」

「もう少し、互いに相手の人となりが分ってからで遅くないと言うのさ。」

「たしかにそれもそうね。でも私は何も心配していないわ。大丈夫よ、お母さん。」

香織は不満げに口を閉じた。

凜が玄関を向いた。車の音がしたように思った。

「美風、お靴を履いて。」

凜の携帯が鳴った。明からだった。

「今、出ます。」電話に応えてから気づいた。美風がスニーカーを履こうとしていた。それは鮮やかな彩色と、紐の部分に細かなラメが散りばめられた可愛らしいデザインだったが、さすがにこの季節には寒そうな印象がした。

「お母さん、美風の靴は?」

香織が急いで茶色の短いブーツを出した。くるぶしまでスッポリ入るデザインだ。

「美風、これを履いて。」

凜の言葉に美風は首を振った。

「どうしたの?」

美風が小さな声で答えた。

「足が痛いの。」

「えっ?」凜はブーツを見て気がついた。それは昨年の十月に買った物だ。一年以上を経て美風には小さくなっていたのだろう。

「お母さん、他に靴は?」

香織は慌てていた。靴を探しながらしかしそのブーツ以降に買ったのはスニーカーしか無いことに思い至った。香織の手が空しく止まった。

「美風、スニーカーで良いわ。それを履いて。」

凜の言葉に香織は打ちのめされたように俯いた。これまで美風はブーツを履いて保育園に通っていたが、痛みを我慢していたのだと知った。

 凜と美風が外へ出ると黒塗りの高級車から明が降り立つところだった。自身で運転してきたのだ。

「明さん…。」凜が思わず呼びかけた。

一瞬、二人は見つめ合った。

「凜さん、しばらくでした。」明が笑顔を見せた。

凜は頷いた。長い間会わずにいたように感じた。

香織が遠慮がちに姿を見せたのに気づいて明が頭を下げた。凜の母親だと察した。

「初めまして、鮎川と申します。」

香織は小さな声で挨拶を返した。すっかり自信を失っているようだった。

 その一方、美風は興味津々といった様子で明を見上げていた。

「美風、ご挨拶しなさい。明さんよ。」

美風は母親に半分隠れると「アキラ?」と繰り返してあらためて明を仰ぎ見た。それから可笑しそうに含み笑った。

「ご免なさい、同じ名前のお友達が保育園にいるの。」

凜が申し訳なさそうに釈明した。

「そうですか。」明が腰を屈めて「美風ちゃん、明です。よろしくね。」と声を掛けると、美風はまた笑った。

たまりかねた凜が厳しい口調で言った。

「お行儀を良くしないと、明さんに嫌われるわよ。」

その言葉は凜が予想できなかった衝撃を美風に与えた。美風は明から慌てて視線を逸らすと凜にしがみついた。何かを訴えるように必死に母親を見上げた。今にも泣き出しそうだった。

「美風ちゃん、おじさんは美風ちゃんを嫌いになったりしないよ。」

明が声を掛けると、美風は一瞬だけ振り向いてまたすぐに凜の服に顔を埋めた。涙が滲んだのか小さな手の甲で拭った。

明が車の後部ドアを開けた。凜はことさらに優しい声で美風をうながして自分も急いで乗り込んだ。実は凜がひとつ気にしていたことがあった。それは母の実家の様子だ。両隣の住宅は二階建ての比較的新しいものだったが、実家は木造平屋建ての築三十年を越す古びた姿だ。香織の父が建て直しを計画した頃、一人娘の香織が結婚して家を出ることになった。夫婦二人なら平屋で充分という事になったのだ。凜はその小さな古びた家を明のてまえ恥ずかしく感じた。そんな事を意識したのは全く初めてのことだったので凜は戸惑い、自分にも虚栄心があったのだと意外に思った。

美風は機嫌を直していた。車の座席は保育園のマイクロバスとは違ってゆったりと大きく、感触は柔らかだった。シートの先にやっと美風のスニーカーが突き出ていた。脇に置いたリュックから黄色のクマの小さな縫いぐるみを取り出して自慢げに凜に見せた後、頬ずりするように顔の近くで持って笑顔になった。

「美風ちゃん。」と明が声を掛けた。

美風は運転席の真後ろに座っていた。互いに相手は見えない。

「美風ちゃんはお魚が好きかな?」

明はこれから訪れる水族館を念頭に置いて問いかけたのだがそれは結局曖昧な質問と言えた。

美風は「うん。」と答えてすぐに「マグロが好き。」と付け加えた。

「マグロ…?」

「お祖母ちゃんのマグロが大好き。」

美風は運転席の背中に向かって楽しそうに話した。

「とても美味しいの。」

「お祖母ちゃんは…、」明は差し障りの無い受け答えをした。「料理が上手なんだね。」

凜は美風がサバの味噌煮を話しているのだと気づいた。慌てて娘の手を意味も無く握った。

美風が朗らかに答えた。

「お祖母ちゃんはとっても上手よ。それからね…、美風はマグロの骨を取るのが得意よ。」

「ああ…美風、お願いよ…。」

凜が弱々しく声を上げた。その顔はマグロの赤身のような色になっていた。

 やがて美風は水族館の巨大なドーナツ型の水槽を群泳するマグロを目の当たりにして度肝を抜かれたのだが、その少し前に別の水槽の大きなエイを見つけて足を止めた。高さ三メートルほどの水槽は底に砂が敷かれていて、エイが白い腹を見せて休んでいた。笑ったような三日月形の口が見えた。つまり水槽の透明な壁にもたれた格好だ。それが美風の顔のすぐ前だった。

 美風が見詰めていると、まるでそれを感じたかのようにエイが身じろぎして砂の上に横たわった。白い腹は隠れ、茶色と黒と灰色の斑模様がはっきり現われた。やがて体側のヒレを滑らかに波立たせると、わずかに砂を巻き上げてふわりと水中に浮かんだ。そして素早く泳ぎ去った。美風が小魚の群れ泳ぐ水槽に顔を精一杯近づけてあちこちと行方を捜していると、エイはすぐにまったく同じ場所に戻って来て体の一部を砂の上に置いて白い腹を向けた。三日月の形の口が見えた。

美風が「おお…。」と低い声を上げた。

驚くことにエイはその声に応えるように砂の上に体を移すと再びヒレを波のようにはためかせて泳ぎだし、またたく間に見えなくなった。だがそれから間を置かずに美風の目の前に先ほどと同じように姿を現したのだ。

「おお…。」と美風がまた低い声を上げた。

凜は可笑しそうに隣の明に小声で話しかけた。

「なんだか、とっても気に入ったみたい。」

「そのようですね。」明が楽しそうに答えた。

凜は幸せだった。明と同じ時間と場所にいるのが楽しかった。そして自分の気持ちに明が応えてくれているのが嬉しかった。…もしかしたら私は明さんを愛しているし、明さんも私を愛してくれるかもしれない。そんな夢のような事が実現するかもしれないと凜は考えた。恋は誰にでも快楽と明るい希望を予感させる。凜はそれを胸一杯に吸い込んだ。


 当然のことながら現場の警察官に御用納めは無い。刑事も同じだ。凜と武田は署内で書類にかかっていた。それは情報収集についてのものが中心だ。聞き込みの日時場所、対象者、得られた情報の有無と種類、情報提供者と特段の面接を行なったかどうかなどを記録しなければならない。加えて本庁を経由する警察庁の通知や指示の認知と対応についての書類作りに手を焼いた。「取り調べに依存する捜査をあらためるために」どのような捜査活動をとったか報告が求められていた。頭を抱えたくなったのは凜だけではなかった。現場の刑事達にとって被疑者と対決する取り調べは何よりも重要な行為だった。そこで裏付けられた事実は検事調べの前提となる。ところが警察庁の通達はその取り調べに頼るな、というのだ。要は科学的で客観的な捜査を心がけるという事だが、そんなのは分ってると凜は言いたかった。あえて現場の刑事達の意気を挫く表現での指示が必要なのか、凜は疑問を感じた。だが求められている以上は書類を作らなければならない。

「冤罪報道があったせいよ、きっと…。」凜は憮然として呟いた。

 時計を見ると正午を過ぎていた。武田は呑気な顔でスポーツ紙に眼を通している。班長の凜に比べれば書類の負担は軽い。

「健太、昼食はどうする?」凜が尋ねた。

「弁当を持って来た。」

「えっ?」

いつ何があるか分らない、それが刑事の仕事だ。弁当持参はあまり聞かない。武田にしてもそれは珍しい事だった。

「いったい、どうしたんだ。」

「弟が弁当を頼んだくせに急に要らないと言い出してさ。お袋が俺に持って行けと言うから…。」武田がきまり悪そうに答えた。

武田の十歳下の弟が今年就職していた。

「無駄にならなくて良かったね。俺は…、私は、蕎麦でも食べてくるよ。」

凜はそう言って席を立つと大きく伸びをした。書類より聞き込みの方が仕事の実感がある、とあらためて思った。捜査本部を置くほどの重大事件が無いときでも刑事達はいくつかの事件を抱えている。意図的と思える器物損壊事件や悪質な威力業務妨害、脅迫まがいの言動やストーカー行為、単純な傷害事件など挙げればきりが無い。ときには過去の未解決事件の担当になったりする。それは区切りの年に重要捜査事件に指定される際の準備的な作業の意味合いがあった。遠い時間に埋もれた証言を求めて歩きその感触を確かめる。いずれにせよ外を回るのが刑事の仕事だと凜は感じていた。

 署の出口で三係の刑事と行き会わせた。刑事の顔に無精ひげが目立った。

「忙しそうね。」

凜が声を掛けると男は苦笑交じりに言った。

「忙しいというか、進展がなくて暇で困っているというか…。」

盗犯の捜査は現行犯逮捕が基本だ。進展が無いと言うことは張り込みが長期にわたっているものと思われた。

「家に帰れているの?」

刑事は無言で小さく肯いた。だが張り込みは一ヶ月になろうとしているのだ。さすがに疲れが溜っているように見えた。

凜が言った。

「一係で応援しようか。」

「おいおい、その時ホシが挙げられちゃったらどうするよ。」

刑事は凜の冗談にすぐさま答えて無精ひげの顔に笑みを浮かべた。

 署が面している大通りの交差点を入った辺りに蕎麦屋とラーメン店があった。ラーメンを喰うという刑事と別れて凜は蕎麦屋の暖簾をくぐった。店内は一見、不思議な活気に満ちていた。客の数より従業員の方が多い。皆がせわしなく働いている。大晦日を明日に控えてその準備が始まっていると思われた。店にとって一年で最も多忙な時期と言っても良さそうだ。

 凜は四人がけのテーブルに北条がぽつんと着いているのを見て歩み寄った。

「ここ、座っても良いですか。」

声を掛けると、メニューに目を落としていた北条が凜を振り向いて静かに頷いた。凜に他意は無かった。一人で食べるのがもの寂しく感じられたのだ。北条が掻き揚げソバを注文し、凜もそれに倣った。

「今年も終わりね…。」

凜の言葉に北条がまた頷いた。

「来年はやっぱり警察庁に帰るの?」

遠慮の無い質問と言い回しだったが北条は平静に答えた。

「そうなると思います。」

「所轄署に来るなんてビックリよ。どう、私達は何かお役に立てたかしら。」

あくまでも凜はざっくばらんだ。一方の北条も短い間に凜の性格を把握していた。どこか乱暴なところのある口調に動じなかった。

「幾つものことを教えて頂きました。有り難うございます。」

北条が丁寧に答えて頭を少し下げたので凜は目を丸くした。たしかに年齢は凜が四つ上だが階級は北条が四つ上だ。

北条は微笑を浮かべて言った。

「朝倉さんと出会えたのが嬉しいです。」

「えっ?」凜はまごついた。…これは突然の告白かしら。一瞬凜は人が呆れるようなことを勝手に考えた。

北条が続けた。「あなたはまるで教科書から出て来たような人です。」「教科書…?」

「そうです。強靱な精神力を持ち、信念に基づいて行動する。あなたはまさにそのような警察官です。」

北条は「警察官」と口にするときに辺りを気にして声を低めたが、言い終えると真面目な顔で凜を見つめた。

「えっ、ほんとに?」

思いがけない言葉に凜が呆然したところへ掻き揚げソバが運ばれた。

「ほんとに褒めてくれてるの?」

北条は微笑で応えてソバの器に手を伸ばした。

凜はさすがに素直に受け取れなかった。警察庁のエリートの言葉は唐突過ぎた。

「でもあなたは署の人間と交わろうとしていないわ。そんなあなたの言葉は何処まで本気なのかしら。」

凜の問いに北条は無言のまま手の動作で食事をうながした。

凜の鼻を暖かいソバ出汁(だし)の匂いがくすぐった。二人は暫く黙ってソバをすすった。凜はふと、私は明日また年越しソバを食べるのかしらと思った。

 食事が済んだところで北条が言った。

「コーヒーでも飲みませんか。」

「飲んでも良いけど…。」

近くに喫茶店は無い。駅の辺りまで行けばスタバなどがあるが、二キロほどの距離がある。

「と言っても自販機のコーヒーですけど…。少しお話がしたいのですが迷惑でしょうか。」

「あ、自販機のね。…良いですよ。」

凜はスタバのコーヒーを急いで頭の中から追い払った。

 凜と北条は署内の休憩室で向かい合った。二人の前にコーヒーの入った紙コップが置かれている。

「たしかに私は署員の皆さんと意識的に距離を保っています。」

北条が口を開いた。

「それは皆さんの邪魔にならないためです。そして言葉は悪いかもしれませんが皆さんの自然な通常の姿を拝見させて頂くためです。」

「つまり観察みたいなこと?」

凜の直截的な言葉を北条は打ち消さずに続けた。

「たとえば刑事の勘、に興味がありました。理論性のない経験則に何の意味があるのか、本当にその勘とやらを現場で重視しているのか、否定的な意味で知りたかったのです。」

紙コップに延ばしかけた凜の手が止まった。大きな瞳が正面から北条を見据えた。

北条は真剣な面持ちで急いで話を継いだ。

「でも結局、それは大切なものだと知りました。決して無意味なものでは無かったのです。」

「そうよ。」凜は勢い込んで言った。

「取り調べの最中にピンと来るときがあるのよ。嘘を言ってるってね。供述の文脈だけではそれは分らない。その時の相手の声、目の動き、表情、態度で判断するのよ。それはあなた達に言わせれば単なる主観という事になるわ。でも私達には重要なことよ。それ以外でもピンと来ることがあるわ。捜査の方針に従っていながら、ふと何かが違う、何か気づいていないものがあると感じる。何か重要なことを見逃しているってね。それが刑事の勘よ。無駄なものじゃないわ。」

北条が大きく肯いて言った。

「私はそれを人間力(りょく)と呼びたいですね。」

「人間力?」

「そうです、捜査員の人間力です。勘というといかにも非科学的な響きですが、必ずしもそうではないと言いたいのです。それは経験に裏付けられた洞察力です。あるいは冷静な観察力です。私はそれを教えて貰いました。」

凜は紙コップを引き寄せて焦げ茶色の液体を覗き込むと独り言の様に言った。

「あなたの言葉は私には心地よいけど、それは北条さんの個人的な意見でしょ。警察庁はそんなこと考えてはいないのよ。なにしろ取調べに依存するなと指示するくらいだからね。現場の刑事は面食らっているわ。」

凜はそこでやっと顔を上げると北条を見た。

北条が静かに肯いてみせた。

「たしかに、取り調べと供述に過度に依存する事の無いよう通達が出されています。それは的確な捜査指揮と管理を徹底するという方針の現れです。」

北条はそこでコーヒーを手にした。

「暖かいですよ。」と凜をうながした。

二人は静かにコーヒーを口に含んだ。凜は次の言葉を待った。

北条は息をつくと言葉を選ぶようにゆっくりと話した。

「私は警察庁を代表するものでは決してありませんが、敢えて申し上げるならば警察庁は皆さんの捜査を批判しているわけではないと思います。むしろこれまで培われてきた捜査員の人間力の有用性を認めています。これは私だけの考えではありません。」

北条は凜を見つめた。

「けれども時代は変ります。社会情勢は大きく変化しました。ならばそれに合わせて捜査活動を見直してみるのも決して不自然な事では無いでしょう。事実、検挙率の低下が続いています。重大犯罪に関してはなんとか検挙率六十パーセントを維持していますが刑法犯全体では三十パーセントまで低下しました。これは警察庁の責任に他ならないと我々は受け止めています。取り組むべきことは幾つもあるでしょうが、現場については捜査の合理性を求めていく必要があります。」

「捜査の合理性とは具体的にどんなの? 結局従来の捜査活動に疑問が投げかけられているように感じるわ。」

北条は両掌を開いて凜に向かって小さく振った。

「誤解無く聞いて欲しいのですが、すべては現場で的確な捜査指揮が行なわれるための手段を提供し方策を具体化するのが目的です。その事で捜査の合理性を担保したいのです。」

「あなたはつまり…、」凜が首を少し傾けて言った。

「警察庁の科学警察研究所のことを言っているのね。」

「そのとおりです。最新の科学捜査に基づいた情報分析支援システムを捜査指揮官に提供する事が重要と考えています。」

凜は明らかに安堵した様子を見せた。現場の刑事達が厳しい目で見

られているのでは無いと安心したのだ。

「科学的な捜査の重要性は皆理解してるわ。DNA型鑑定とかね。」

「DNA型鑑定は最も重視されています。ご承知でしょうが四兆七千億人に一人という精度で個人を識別します。私達は被疑者DNA型記録と遺留DNA型記録をデータベースに登録することを最重要視しています。さらに科学警察研究所はこれ以外に三次元顔画像識別システムやプロファイリングのデータを有しています。これらは必ず捜査活動を支援できると思いますよ。」

北条は区切りをつけるようにコーヒーを口にすると親しげな微笑を浮かべた。それまでの話題とは一変した若々しい青年の顔になっていた。

「ほんとはあなたともっと普段の話がしたかった。」と北条は言った。「警察官らしいあなたの姿やふるまいを目にするのが私は嬉しい。いや、あなただけでなく全国の熱意ある警察官によって警察も警察庁も成り立っている訳です。」

北条はいかにもエリートらしく締めくくってみせたが、さすがに取って付けたようで面映ゆく感じたのか顔を赤くした。

凜は思わず笑顔になった。年下の北条をまるで弟のように感じたのだ。

「話は変わるけど、東大って凄いわ。やっぱり相当勉強したの?」

凜が突然に尋ねた。からかうつもりは無く、興味を抱いただけであることが表情から伝わったが、北条はやはり苦笑した。答えずにいた。

「子供の頃から勉強が好きだったのかしら。」凜はしつこい。

北条が諦めた様子で口を開いた。

「勉強は嫌いではなかったと思いますが、まったく勉強をしない時期もありました。」

「えっ、そうなの。」

「中学の頃、その為にいつも父に叱られていました。私は反発して意地でも机に向かおうとしなかった。」

「それじゃ成績は?」

「勉強しなくても学年で五番か六番でした。」

「…やっぱり。ほらね、何もしなくても頭の良い人は良いのよ。」

凜は納得したような癪に障っているような顔だ。

「二年生のときでした。理科の光合成に興味を持ちました。植物が水と空気中の二酸化炭素でデンプンを作るというあれです。何気なくデンプンの分子を調べてたしかに酸素と水素と炭素だけで成り立っているのを知りました。次に光と葉緑素がどのように分子を分け、配列を変えるのかを調べました。そんな私を見て、父は真面目に勉強していると思ったのでしょうね。今でも覚えていますが、私の両肩に手を置いて、偉いぞ、頑張りなさいと優しく暖かい声をかけてきました。それは初めて見る父の態度でしたが、私は意地の悪い心で聞き流した。やっていることは勉強に見えて、試験とは無関係なものだからです。もし成績が下がったら、その時は父の顔を見てみたいとさえ思いました。」

「…どうなったの?」

「案の定、次の試験で成績が少し下がりました。同級生の中には高校受験に向けて努力する者が増えていたからです。ところがそれを知った父が私によく頑張ったね、偉いぞ…と言ったのです。耳を疑いました。成績順が落ちたことを私はあらためて口にしました。勘違いしていると思ったのです。でも父は軽く頷いただけでした。

 私は気づきました。父が口やかましく私を叱咤したのは学校の成績順を気にしたのでは無く、勉強の尊さを教えようとしていたのでしょう。」

「きっとそうだったんだわ…。」

「それから私は勉強に打ち込みましたね。高校生になったとき、将来は何になりたいかと父が聞きました。父は進路を聞いたのでしょうが私は素朴に、なりたかった警察官を答えました。すると父はそれなら東大へ進んで警察庁を目指しなさい、と言ったのです。それが私の進路になりました。

 昨年、その父が他界しました。その頃私には警視庁捜査二課長に出向の内示が出ていましたが、それを所轄署に替えて貰いました。その為に先輩達には大変な迷惑を掛けてしまったのですが、私は現場の一警察官の気持ちになりたかった。父との約束を果たすためです。警察官になるという言葉は、父がどう理解したかは別にして、私にとって父への約束でした。私は約束を実行し同時に父への感謝を噛みしめたかったのです。」

凜が突然立ち上がった。

「似た感じだわ。私もいつか父に警察官になることを約束していた。そしてそれを果たした。これからも約束を守っていくわ。」

二人は互いに顔を見合った。

「北条さん頑張ろう、私達の求めるものは一緒だよね、同じだよねっ。」

凜の言葉に北条は大きく肯いて答えた。

「私達が求めているものはきっと同じです。」

                 (つづく)



    「女刑事物語 (10-2)」  c.アイザック

 凜は晴れやかな気持ちで書類に向かっていた。北条との会話が新鮮な意欲を与えてくれたのだ。…初心に戻るのは大事なことだ、と凜は思った。そして北条との距離が少し縮まったたようで嬉しかった。いつか凜は楽しげな微笑を浮かべていた。

「どうかしたのか?」

気づいた武田が尋ねた。

「いや、別に…。」

凜は武田の疑わしげな視線から顔をそらして窓の外を見た。すでに夜の暗さだ。時計は六時を回っていた。

…そろそろ切りあげるか。凜がそう考えたときだった。四係の若い刑事が現われた。黒田のデスクに急ぎ足で近寄ると熱心な様子で何かを伝えている。頷きながら耳を傾けていた黒田が凜を見て手招きした。

「住居不法侵入を疑わせる百十番通報があった。武田と現場に行ってもらう。」

凜は無言で大きく頷いた。

「詳しい話はこの捜査員が説明する。急いでくれ。」

「健太、行くぞ。」凜の言葉に武田が勢いよく立ち上がった。

二人の後に続いた四係の刑事が歩きながら手早く説明した。

「一人の企業舎弟を張り込んでいます。その事務所に男が乗り込みました。金銭トラブルです。騒ぎになって近所の住民が百十番通報しました。…我々はその企業舎弟を今日中に逮捕する予定ですが、騒ぎに乗じて高飛びするおそれがあります。事務所に乗り込んだ男に引き取ってもらうか、最悪、男を連行するかしてその場を納める必要があります。朝倉刑事に頼めと係長の指示です。」

「上杉さんは?」

「課長と共に裁判所です。逮捕令状の請求です。」

暴力団の資金源の一翼を担う企業舎弟の手口はだいたい詐欺行為だと凜は聞かされていた。令状は間に合うのかと危惧した。その凜の心を察知したのか刑事は言った。

「係長は横領と窃盗の容疑で逮捕状を請求する予定です。」

「なるほど。それなら話は早いわ。」

「地域課のパトカーが現場に向かっています。よろしくお願いします。」


 暗い道路にパトカーの赤色灯が煌めいていた。二階建ての小さな一軒家が事務所だった。アルミの引き戸が開いていてその光の中に警察官を交えて男が立っているのが見えた。回りは住宅街だ。十数人の住民らしい人影が路上で事態に注目している。

「金を払ってくれなければ帰る訳にはいかんぞ。」

筋骨の逞しい男が怒気を含んだ太い声を上げた。年齢は五十くらいか。四人の警察官が取り囲んでいる。

「だから明日払うと言ってるんだ。」

事務所の奥から落ち着き払った声がした。

「いい加減にしろ。あんまりふざけてるとタダじゃ済まさんぞ。」

男が腹立たしげに声を尖らせた。

「そんな言い方はやめなさいよ。」一人の警察官がたしなめた。

「うるさいっ。」男は事務所の中へ進もうとして警察官ともみ合った。

「ダメですよ。」

「静かにしなさい。」

警察官が口々に男を制止しようとして緊迫した空気になった。凜と武田が足早に近づく。

「今晩は。」凜が男に大きな声を掛けた。「港中央署です。お話をさせてもらって良いですか。」

凜は私服だ。男は凜が何者か一瞬戸惑ったようだが、刑事だと思い至って目を丸くした。

「…あんた、刑事さんか知らんが、俺は工事代金を受け取りに来た。何度も約束を破られてるからな。手ぶらでは帰れない。」

そう言って男は事務所の中に目をやると、警察官の肩越しに鋭い声を投げた。

「今いくらかでも金はあるんだろう? それを持ってこい。」

恰幅の良い男が奥から近づいてきた。四十歳代に思えた。スーツ姿でネクタイを締めていた。暴力団関係者には見えなかった。

警察官に向かって言った。

「明日支払うと伝えているんですが…。困りましたね。」

「調子の良いことを言うなっ。」男が叫んだ。再び警察官ともみ合いになるかと思えた。

「大声を出さないでっ。」凜が厳しい口調で言った。

男は凜を振り向くと腹立たしそうに捲し立てた。

「これは工事代金の支払いの問題だ。あんたら警察にはなんの関係もない事だ。引っ込んでくれ。」

凜がすぐに応じた。

「私達は通報があったからここに来ました。関係はあります。…どうです、今日は出直してみては。」

「冗談じゃない。」男が吐き捨てた。

このとき少し離れた路上から大きな声が聞こえた。

「冗談じゃないのはこっちだ。こんな時分にギャーギャー騒ぎやがって。迷惑なんだよ。」

声の方を見ると白い上下のジャージを着た男が立っていた。ジャージには黒や赤を使った大きく派手なロゴマークが目立った。肩に同じブランドらしいジャンパーを引っかけている。堅気には見えなかった。

「近くにお住まいですか。」

凜がその男に声を掛けると、路上に集まっていた数人が一斉に男へ視線を向けるのが感じられた。

やはりこの辺りの住人ではないと察した凜が尋ねた。

「どちらかのお知り合いですか。」

男は質問を無視して黙ったまま急ぐでもなく街灯の薄暗い道路を去って行く。企業舎弟という人物が呼び寄せたと凜は疑った。もしそうだとしたら他に何人かの暴力団員があたりにいるはずだった。彼らに面が割れている四係の刑事達は迂闊に姿を現せない。凜は助力を求められた理由をそう理解した。

凜は工事代金を受け取りに来たという男に言った。

「とにかく、このままでは付近の皆さんに迷惑を掛けてしまう。出直さないのなら署で事情を聞くことになりますが良いですか。」

「あんたの指図は受けないよ。」男はそう答えてスーツの男に怒鳴った。「お前は詐欺師かっ。はじめから騙すつもりだったんだろう。」

スーツの男は嘲笑を浮かべて「やれやれ…。」とうそぶいた。

この態度に男の怒りが一気に燃え上がった。

「この野郎っ。」

掴み掛かろうとして行く手を遮る警察官の胸辺りを押した。

「ダメだよ、ダメ。」

「落ち着きなさい。」

警察官が男の体を押さえつけた。

男は玄関口の明りでもそれと分るくらい顔を赤くして怒声を上げた。

「邪魔だっ、どけっ。」警察官の一人の肩を掴んで激しく揺すった。

直後に凜が飛びつくようにして叫んだ。「足許を見ろっ。」

男は一瞬虚を突かれたように静止した。凜を見た。

「お前は今、他人の住居の敷地内に立ち入っている。」

凜が鋭く告げた。「住居不法侵入の疑いがある。これから署で事情を聞く。」

「そんなバカな。」男は両手を左右から掴まれたままで叫んだ。

凜が続けた。

「拒めば公務執行妨害となる。その場合は逮捕する。」

「た、逮捕?…。」男は呻いた。

凜が警察官に指示した。「署へ、頼みます。」

「これじゃあ俺が犯罪者扱いだ。…おかしいじゃないか。」

訴える男の背中に武田が穏やかな声を掛けた。

「少し頭を冷やして欲しい、という事ですよ。」

凜は企業舎弟だというスーツの男に問いかけた。

「被害届を出しますか。」

「べつに…。」面倒臭そうに短く答えた。

「後ほどお話を伺うかもしれません。」

男は黙ったままで凜を見ている。その目が据わっている。感情の動きを感じさせない冷酷な視線だ。凜の目に鋭い光が宿った。

「お話を伺うかもしれません。」

繰り返したが男は平然と沈黙を続けた。

「その節はよろしく。」

凜が念を押すとようやく肯いた。その顔が微かに嘲笑うような表情を見せた。


 署に戻ると先ほどの刑事が出迎えて、小さな声で礼を言った。

凜も小声で「暴力団員らしき姿があったわ。」と伝えた。

「面が割れていると、やりにくいわね。」

凜が付け加えると、刑事はためらいをみせてから言った。

「今張り込んでるのは面が割れていない連中です。組員に顔を見せたくないものですから、朝倉刑事にお願いしました。」

「そうだったの…。」凜は足を止めていた。

「あの企業舎弟という男、一筋縄ではいかない感じね…。」

「悪質です。」刑事は吐き出すように言った。

「小さな商店主や零細な企業主をターゲットに詐欺行為で金銭的な被害を与えています。このために倒産に追い込まれた経営者が自殺しました。上杉係長が逮捕を決めた理由です。被害の拡大を止めなければならない。」

凜が男の態度を思い返して指摘した。「アイツは逃げるつもりよ。」

「逃がさない。係長の連絡があり次第、令状の現物無しでもパクるつもりでいます。」

「上杉さん、怒ってるのね…。」

凜の言葉に四係の刑事は真顔で肯いた。

 凜が取調室に入ると男は机を前に温和しく腰掛けていた。両腕を胸で組んで深刻な表情を浮かべている。考え込んではいるものの、それは警察署に連れてこられた事態を思い悩んでいるのとは明らかに違ってみえた。何処か肝の据わった男だと凜は感じた。

 武田は机の端でパソコンをいじっていた。事情聴取の準備だろうが至極のんびりした雰囲気だ。…呑気なヤツだと思った。だがそれは事情を把握しているからに他ならない。凜は苦笑した。

「まず名前を教えてください。」

正面に腰を下ろした凜が尋ねた。

男は黙っている。凜が同じ質問を繰り返すと、不機嫌そうな小さな声で言った。

「名無しの権兵衛だ。」

この答えに凜は表情を変えない。何も言わずに男を見ているが、男は凜の視線に気づかないのか考え事を続けた。

 室内は静寂に包まれていた。誰も一言も発しない。凜は自分の短い爪を見ていた。交通課のみどりが、鮮やかなマニキュアを施していたのをぼんやり想い浮かべた。その時みどりは署の階段の踊り場で偶然を装って武田を待ち受けていたのだ。凜は小さく溜息をついた。武田はパソコンの前で首をゆっくりと左右に傾けている。

 奇妙な静けさに気づいた男が顔を上げ、組んでいた腕をほどいた。

すかさず凜が問いかけた。

「自分の名前を想い出した?」

「ふざけるな。」

「ふざけてるのはどっち。」

男は一瞬言葉に詰った。人差し指を立てると凜を指しながら言った。

「良いか、あの男は俺を騙して工事代金を踏み倒そうとしている。しかも詐欺事件にならないように上手いこと仕組んでる。そういう狡賢いヤツなんだ。そうとうなワルだぞ。」

「そうね…。悪いヤツだわ。」

「えっ?」

男は凜の言葉を意外に感じて驚いた。凜が続けた。

「あの男は真面目に働く人から金を騙し取るダニのようなヤツだわ。」

男はますます驚いた様子で言った。

「…それが分ってたなら何故俺を? それに何故アイツを捕まえないんだ。」

「このまま放ってはおかないわ。」

「…そうか、やはり俺以外にも被害者がいたってことか。」

男は腑に落ちると同時に怒りを新たにしているようだった。

「あの男は暴力団の資金源の役割をもっているのよ。」

凜が打ち明けると男は首を振った。

「それはどうかな。俺は組関係に知り合いがいないわけじゃない。アイツが何処かの組の人間なら耳にしたはずだ。」

「企業舎弟と呼ぶらしいわ。組織との繋がりは一切表に出さずに会社員や自営業者を装い、合法に見せかけて金を騙し取る。その金はそのまま上部の組に流れるのよ。いわば陰の組員というわけ。」

「…アイツがその企業舎弟だったというわけか。」

 ドアがノックされた。四係の刑事だった。凜と短く言葉を交した。

凜は椅子に座り直すと男に告げた。

「アイツが、あの企業舎弟がたった今逮捕されたわ。」

「えっ。」男は目を丸くして驚いた。

「ごめんなさい…。」凜が頭を下げた。

「あの場所にいられたら困るところだったの。だからここに来てもらったわ。」

「でも、不法侵入だと…。」

「住居不法侵入は成立しません。済みません。」

男は呆然としたが、やがて太く大きな息を吐いた。

「今更あやまらなくても良いさ。犯人みたいに連れてこられて腹が立たないと言ったら嘘になるが、ま、良いだろう。俺も踏ん切りがついた。あんなヤツにこだわるのは時間の無駄だ。資金繰りもなんとかなりそうだしな。」

「気の毒だけど、あなたの損害は償われないと思うわ。」

「良いんだ。俺がバカだったのさ。…では帰っても良いかな。」

男が腰を浮かせた。

「少し待ってください。あなたが受けた被害を詳しく話して貰えませんか。」

「えっ? しかしヤツはもう捕まったんだろう。」

怪訝な表情の男に凜が言った。

「けれどあなたの件とは別です。」

「もう良いよ。俺の損害は賠償されないとあんたが言ったじゃないか。」

「被害届を出してもあなたに金銭的な利益は無いでしょう。でもアイツに法の裁きを受けさせることはできます。被害届があれば、アイツが刑務所にいようが拘置所にいようが、必ずパクってやるわ。蒔いたタネは刈らせるのよ。」

男は凜の顔を見つめた。

「分ったよ。あんたの気の済むようにやってくれ。」

凜が顔を赤らめて「あなたの意思が最優先です。」とつけ加えた。

男は二度ほど頷いてから口を開いた。

「俺は近藤 勇という。」

少し間をおいて「ツッコミは無しか。」と言った。

武田が鼻で笑った。凜は微笑で応えた。

「近藤建設という小さな会社を経営している。あの男は東洋建設の社長だという名刺を持って訪ねて来た。鉄筋会社の紹介だった。工場建屋の基礎工事を依頼された。元請けは日本で十本の指に入るだろうという大手だ。あの男の会社が何故そんなところの下請けに入れたか今思えば何かカラクリがあったのだろうな。」

その基礎工事は地盤改良の必要があった。四十本の縦穴にコンクリートミルクを注入する設計だった。この部分を近藤建設は外注しなければならない。近藤が前渡し金を請求すると男は地盤改良工事費の半額を現金で支払った。

「すっかり信用してしまった。」と近藤は言った。だが男が工事費を支払ったのはこれが最後だった。基礎工事の終了後も代金が支払われないことに業を煮やした近藤がついに元請けの大手建設会社に乗り込むと、工事代金はすでに東洋建設に支払い済みであることが伝えられた。男と電話連絡はつくが少し待ってくれの一点張だ。近藤の不安が膨らんだ。男の事務所は不在が続き、従業員の姿も見ることが無かった。騙されたと思わざるを得なかった。男は自分の事務所について、本業は建設作業員の派遣業なのでこれで充分、と説明していたが、まったくの嘘だった。

「自分のバカさ加減に腹が立ったよ。まんまと乗せられてしまった。…痛かったぞ。地盤改良工の半額、鉄筋工、型枠工、生コン、全部持ち出しだからな。従業員の給料もある。」

「お気の毒だわ。」

「まあ、俺がもう少し注意深ければ大手建設会社の名に惑わされずに済んだかもしれない。自分の責任だ。今はそう思うよ。それにさっき言ったように、なんとかなる。これから年度末だ。公共工事を抱えた会社は工期を控えて何処も目の色が変る。話の持って行きようで仕事はいくらでも見つかる。こんな事でへこたれてたまるか。」

「近藤さん、頑張ってください。」

凜が思わずそう言うと近藤は「おうともよ。」と力強い声で胸を張った。

 被害届の作成が終わって、自宅まで送るという凜の申し出に近藤は手を振って拒んだ。もうパトカーは十分だ、と言った。その言葉に凜が顔を曇らせると、近藤は親しみを込めて言った。

「気にするな。…この事以外で何か困った事があったらいつでも連絡してくれ。俺にできることは何でも協力するよ。」

凜が軽く頷いた。

 署の玄関で別れたが、近藤はすぐに署内に引き返した。凜と武田がフロアーを去って行く。その後ろ姿を見ながら、通りかかった女性警察官に聞いた。

「あの女刑事は、名前は?」

警察官は凜の後ろ姿に目をやり「お凜さん?」と反射的に口にした。

すかさず近藤が叫んだ。

「お凜ッ、必ず電話しろよ。近藤だ、近藤建設だ。お凜ッ。」

凜が立ち止まった。わずかに眉を寄せて「凜だ。」と呟いた。それでも近藤を振り返って片手を上げると軽く振ってみせた。


 新年を迎えた。二日、凜は家族で初詣に出かけた。林の中を思わせる広い参道を三人で並んで進んだ。拝殿はまだ遙かに遠い。冷たい空気のなか、楽しげに歩いた。美風は弾むような足取りだ。その足許を見やって香織が複雑な表情を浮かべた。美風はスウェードの短いブーツを履いていた。明がプレゼントしたものだったが香織は素直に喜べなかった。すぐにでも娘と孫が自分のもとを去ってしまうと暗示しているように思えた。それは昨年末、水族館に出かけると聞かされたときに漠然と感じた怖れに連なっていた。

 実はこの日、明が年始の挨拶に訪れると凜に伝えられた香織は慌てて口にした。

「初詣の予定じゃないか。」

明を避ける意図を感じた凜は意外そうに母を見詰めた。香織は俯いている。

「分ったわ、初詣に行きましょう。」凜は静かに答えたのだった。

来訪を断った形になったことを明がどう受け止めたか気がかりだったが、凜は参道を歩きながら終始あかるい気持ちでいた。特別な新年だと感じた。去年とは違う。それは明の存在に他ならなかった。

美風が凜の手を握った。振り向くと美風は片方の手で樹木の幹を指した。小さなプレートが掛けられていて、寄進先が記されている。

「何て書いてあるのかしら。」

凜がわざと秘密めかして耳もとで囁くと美風は擽ったそうに笑った。


 数日後、凜は明と二人だけで会った。夕食に誘われていたのだ。凜としては仕切り直しの気分だった。女らしく優雅な態度を貫く決心をしていた。…前回のようにはしない、気合い充分だった。だがその意気込みが裏目に出るのだが…。

 凜は娘の保育園の入園式のときに新調したフォーマルなスーツを着ていた。他に適当な衣類が無かった。以前、地中海料理の店に出かけたのと同じ服装だったが、そこは目を瞑るしかなかった。次の給料で美しいデザインの服を手に入れたいと遅まきながら考えた。

 レストラン「ラ・メール」のドアを入ると支配人が出迎えた。その控えめでにこやかな表情に凜が話しかけた。

「覚えていて貰えたのですね。その折はお気遣い頂いて有り難うございました。」

「いいえ、たいした事ではございません。」そう言いながらも満足そうに頷いてテーブルへ導いた。

 凜に気付いて明が立ち上がった。凜は桜の花のような色のスーツを着ている。店内の女性客は皆、シックな色調のドレスを身に着けていた。キラキラと光るラメやビーズの刺繍を散りばめていて、冬の季節に合わせながらも新年の華やかさを感じさせた。それと比べて凜のファッションは何処かチグハグに思えたが、その明るく柔らかな色彩は、ときに厳しい印象を与える凜の表情を穏やかなものに見せていた。明は微笑み、掌を伸ばしてテーブルに着くようにうながした。凜が支配人の動作と椅子の位置を確かめるために僅かに首を回して伏し目になると、明は盗むように凜の美しい顔を見つめた。そしてその行為に微かな罪悪感を覚えた。

「私は特別な新年を迎えることができたような気がします。」

明が話しかけた。少し躊躇して続けた。

「あなたとこうしてお会いできるのがその理由です。」

明が年齢と不似合いなほど顔を赤らめた。

凜の顔にも赤みが射した。凜が感じていた気分をそのまま明が口にしたのだ。胸の鼓動が激しく鳴った。

「先日はご免なさい。初詣を予定していたものですから…。」

「お気遣いは無用です。全く気にする事はありません。さあ、食事を楽しみましょう。」

テーブルに赤、白のワインが運ばれた。

凜がオードブルの皿を見て小さな声で言った。

「これが今日のご挨拶なのね。」

明は凜の言葉の意味が分らないようだった。

皿にはスプーンの形を模した小さな器が置かれ、キャビアがたっぷりと盛られていた。凜はキャビアを食べたことがなかった。興味深そうに緑がかった魚卵を見つめた。

「キャビアにはシャンパンが良いですね。」

明が店のスタッフに合図を送りかけると凜は慌てた様子で口を挟んだ。

「私は要らないわ。」

明が戸惑いの目で凜を見た。

「でも、どうぞ明さんは召し上がってください。」

凜はしまった、と後悔していた。楽しむ筈の場に水を差すような行為ではないか。今日は優雅な雰囲気を失ってはいけない、とあらためて自分に言い聞かせた。…控えめな態度で女らしさをアピールしなきゃ。

明が気を取り直すように言った。

「白ワインも合いますね。」

凜は慎ましやかな微笑を浮かべて応える。明の意見に賛意を示したように見えた。

その言葉にソムリエがテーブルに近づき、鈍く銀色に輝くクーラーから氷の鳴る音と共に白ワインのボトルを取り出した。水気を拭ってラベルを明に示し、次いで凜にも見せながらその銘柄を口にしたが、凜が聞いた事も無い名前だった。そもそも凜はワインや酒類に関心がない。銘柄もほとんど知らなかった。五十が近いと思える小太りのソムリエは明のグラスにほんの僅か白ワインを注ぐと、明は彼を見上げて頷いた。その合図でソムリエはあらためてワインを注ぎ足し、凜のグラスにもワインを注いだ。

 明がグラスを差し上げた。凜もそれに倣った。

「明けましておめでとう。」と明が言った。

「おめでとうございます。」と凜。

二人は互いの笑顔を見つめた。明が満足そうにグラスを口に運ぶと、凜も同じ動きをした。二人同時にグラスを傾けた。だが凜は液体が唇に触れた瞬間にピタリと動きを止めた。グラスを傾けた姿勢のまま一滴も口にしていなかった。

 凜は完全に幸福な気分だった。明が好意を抱いてくれていることを疑う余地はない。自分は今、代え難いものを手に入れつつあると思えた。あまりの嬉しさに、キャビアの味がどんなものかよく分らなかった。しかし、優雅に明との時間を過ごせていると満足した。…きっと私はエレガントに振る舞っているわ。

 明は凜のワインが減っていないことに気づいて言った。

「赤ワインはいかがです? このパテに合いますよ。」

まるで待っていたように凜の前に新しいグラスが置かれた。その形に凜はおかしみを感じた。脚を取ったらまるで金魚鉢だと思った。ソムリエがコルク栓を手慣れた手つきで抜いて明の前に置いた。明が一瞬それへ目をやってから頷く。凜は儀式に立ち会っているような気がした。ソムリエは明に続いて凜のグラスにワインを注いだ。赤い飲み物が凜の目前で妖しく光った。     (つづく)            



   「女刑事物語(10-3)」 C.アイザック

 明は赤ワインが注がれたグラスのプレートを指で押さえたままテーブルの上で円を描くように回した。凜がその動作を生真面目な表情で真似る。明はグラスを口許へ近づけてワインの香りを嗅ぐと、凜を見て微笑んだ。同じようにグラスの口に鼻を寄せて凜が楽しげに笑みを返した。

「良い匂いですね。」と明が言った。

「凜さんはどのような香りを感じられましたか?」

凜は密かに焦った。グラスを近づけたときには息を止めていたのだ。動揺を隠して再びグラスを口許へ持ってくると、今度は鼻から大きく空気を吸い込んだ。一瞬ワインに咽せるような感覚を覚えたが、凜は明の問いかけにどう答えれば良いか分らなかった。なんの匂いかと尋ねられたら、ワインの匂いと答えるしかない。

明は凜の困惑を察して告げた。

「ワインはその品種や産地の土壌、気候などによって様々な香りを持つと言われています。その香りは一つの銘柄、同じボトルの中にいくつか混じり合って存在しているようです。」

明がそこでソムリエを振り向くと小太りの男は大きく頷き、嬉しそうな顔で凜に説明した。

「鮎川様の仰有るとおりでございまして、ワイン全般で申し上げればその香りは実に多いものです。分りやすいのが果実の香り。これは原料がブドウですので当たり前とも言えますが、加えてスミレやバラ、蜂蜜を思わせる花の香り、バニラ、ナッツ、スパイスの香りなどがあります。他にも木の皮の匂い、なめし革の匂い、煙の匂いもあります。これらは決められたものでも約束されたものでもありません。ワインに接した方が独自に感じ、見つけ出すものなのです。それがワインの楽しみ方の一つと言えます。そしてその際、感じた香りを是非言葉で表現してみることをお勧めします。その事で感受性が豊かに広がることを実感頂けると思います。」

目立たない色合いのベストにチェーンのネックレスを下げた男の饒舌に凜は困り果てた。確信もなく相づちを打つのが不実のようで、ただ微笑をもって応えた。ワインを一滴も飲んだことがない凜には理解しにくい話だった。…なめし皮の匂いの飲み物が美味しいのかしら、と疑問に思った。

「それでは、ワインを楽しみましょう。」

明がグラスを目の高さに持ち上げた。

凜はその動作に倣う。明はワインを照明にかざして束の間見つめると、目を閉じてその香りを確かめた。口に含んでゆっくりと味わい満足そうに頷くのを凜は上目遣いで見ていた。

「どうですか?」と明が尋ねた。

実はワインを全く口にしていない凜に感想はなかった。笑みを顔に貼り付けたままで黙っていると明が言った。

「私はこのワインを飲むとフランスを旅した風景を想い出します。なだらかな丘にブドウ畑が連なっていました。地上には緑の畑が遙かに続き、空は青く、明るい太陽の光が満ちていました。このワインの香りと味がその記憶を呼び覚ましてくれるのです。」

「美しい景色だったのね。」

「なだらかな丘陵が広がる景色は見事でした。」それから不意に「凜さん。」と名を口にした。

ワインを飲むかたちだけ見せていた凜はドキリとした。

「日本では風薫る、などと言いますよね。それは風の匂い、空気の匂い、雰囲気を表現しているのだと思います。私は密かに、ワインにはこの風の薫りも潜んでいると感じていますが…。」

何処か同意を求めるかのような響きに、凜の困惑はさらに深まった。明が熱心に語るものが理解できない。追いつめられた気分でグラスに鼻を近づけた。…風の薫り? 空気の香り? …分らない!

「私はこのワインに風の薫りを感じるとすぐにあの美しい丘陵の景色が浮かびます。ブルゴーニュの青い空が目に浮かぶのです。」

明は楽しげに告げた後、ワインの香りを探る凜に「いかがですか? 私の独りよがりでしょうか。」と悪戯っぽく尋ねた。

凜は言葉を口にできずに黙っている。

明は凜のグラスの中を見ながら言った。

「少し口に含まれたら良いと思います。そうすればいっそう香りを深く味わうことができます。」

凜の顔に一瞬、悲壮な色が走ったが明は気づかない。「どうぞ。」と勧めた。

明を失望させたくない、凜はその一心だった。唇をグラスに当てると注意深く傾けて僅かに口に含んだ。水でもコーヒーでもない液体が舌の上に湛えられると凜は強い衝撃を受けた。酸味と渋み、そしてアルコールの痺れるような感覚が口腔に溢れた。やがて凜はまるで毒をあおる古代の女王のように目を閉じてワインを飲み下した。鼻腔にその香りが充満する。凜の鼓動が早くなった。こめかみに血管が脈打つ。明の笑顔を目にして、感想を述べなければと凜は気づいた。

「なんだか、…強くて明快な味だわ。」

突然に凜は説明できる気がした。「…しっかりした味があって、軽快な感じ。明るくて、きっと美味しいワインよ。」

「同感です。」明が嬉しそうに叫んだ。

凜は安堵した。上手に場の雰囲気を繋いだと思った。精一杯、上品な柔らかい微笑を明に向ける。

妙な自信を抱いた凜がさらに言葉を並べた。

「なんだかブドウ畑の青空が目に浮かぶような気がしてきたわ。明さんの言うとおりね。」

凜は明の歓心を求めてそう口にしたのだが、突然、忘れていた遠い過去の風景が脳裏に浮かんだ。父の田舎の空だ。

 凜は笑みを消して不思議そうにワイングラスを見つめた。おずおず手を伸ばした。ためらいがちに口へ運んでゆっくりと傾けた。赤い液体が再び凜の喉を流れ下った。

「ああ…。」と凜が小さな声を漏らした。「空気のきれいな田舎の空が目に浮かぶよう…。晴れた空だわ。」

凜は再びグラスの赤いワインを見つめると、軽く目を閉じて残りをすべて飲んでしまった。テーブルに戻されたグラスにソムリエがすかさずワインを注ぐ。明は何処か心配そうな表情を交えて凜の顔を見守っている。

 凜は草原の道を想い浮かべていた。一度だけ行ったことのある墓地へ向かう野の道だった。空は青く晴れて、冷たい風がときおり弱まると陽の光が暖かく感じられた。母が白い布で包まれた四角い箱を持ち、祖父二人が口数少なく後に続く。凜は祖母に手を引かれて枯れ草に縁取られた土の上を歩いた。その墓は今は無い。祖父が急死し、祖母の求めで同居を決めた伯父が香織に墓の移転を相談した。伯父は北海道に住んでいたのだ。父の骨は分骨されて香織の実家の墓地に納められている。

 その風景の遠い記憶は父の死を実感できなかった幼い凜の中に残されていた。伯父が手にした父の位牌が無邪気な興味を誘った。空は明るく青く、静けさに満ちた時間が凜の前を通りすぎた。

「ワインを飲むと枯れ草の匂いがするみたい。それと土の匂い。なぜか懐かしい、良い匂いだわ…。」

凜はただ追憶を口にしたのかもしれない。小さく溜息をついた。潤んだ瞳は明より遠い場所をみている。

「土の匂いは多くのソムリエが語っています。」

その明の声は凜の耳に入っていないようだった。

「静かすぎる青空は、少し悲しいわ…。」どこか間延びした声で凜が呟いた。

 二人の前に料理が運ばれた。牛フィレのローストにフォアグラを添えたものと説明された。二種類のソースが皿の上に美しい模様を描き、緑の可憐なセルフィーユが飾られていた。いったん皿に目を落とした明が顔を上げると、意外にも凜は料理に関心を向けていない。明の瞳を探してか細い声で言った。

「私…、眠いわ。変だわ…。」

訝しく見つめる明の前で、凜が目を閉じた。上体が静かに前に傾き、そのままテーブルに突っ伏した。食器が音を立てた。

「凜さんっ。」

明が驚いて声をあげると、凜はゆっくり体を起こした。両手でテーブルの端を掴んで何事もなかったように微笑んだ。だがその目は閉じられたままだ。頬と髪がソースに濡れて光っている。凜の体が今度は横に傾いた。テーブルもクロスも掴むことなくそのまま倒れた。凜の様子に気づいて足早に近寄ってきたウエイターが床に座り込むようにして小柄な体を受け止めた。椅子が跳んで音を立てた。

「凜さんっ。」明がすぐ側に膝をついて呼び掛けた。反応はない。

支配人が音もなく駆け寄って小さな声で言った。

「救急車を呼びましょうか。」

「頼む。」明は答えて、テーブル上のワイングラスを睨んだ。

ソムリエが蒼白な顔でテーブルに近づいた。

ウエイターが明に囁いた。

「鮎川様、お連れ様をお願いします。御髪を拭いて差し上げたいのです。」

「分った。頼む。」

ウエイターに代って凜の体に手を差し入れたところへ支配人が再びやって来た。

「よろしければ、あちらに…。」と遠慮がちに言った。

明は凜を抱えて立ち上がった。そして、その体重の軽さに驚いた。襲いかかる強盗犯を路上に投げつけた姿を信じられない気持ちで想い返した。支配人の後に続くと観葉植物の大きな鉢で店内の視線を遮ったスペースに椅子が並べられていた。明が凜をそこへ横たえてすぐに、先ほどのウエイターが大量のタオルなどを持ってやって来た。彼はおしぼりを手にして膝をついたが、凜の顔を間近にして躊躇した。明を見上げた。明がおしぼりを受け取って凜の髪を拭う。凜が目を開ける気配はなかった。

 明は突然の事態に大きな不安を感じていた。何か重大な出来事が凜の身に起きている。心筋梗塞と脳梗塞を考えた。だが凜は若い。明は注意深く凜の様子を窺った。呼吸は穏やかで規則正しい。表情に苦しげなところはなく、心地好く眠っているようにさえ見える。くも膜下出血の場合はバットで頭を殴られたような激痛に襲われると聞いた記憶があった。そのような兆候も気配もなかった。切迫した展開は想像できなかった。

ウエイターが独り言のように呟いた。

「おやすみになっているみたいです。」

ソムリエが姿を見せて言った。

「ワインには全く異常ありません。品質は完全に保たれています。素晴らしい香りと味わいです。さすがラ・ロマネと言うべきでしょう。」

明はそんな話は聞いていなかった。支配人に言った。

「済まないが救急車はキャンセルして車を呼んでくれ。私のかかりつけの医師に診てもらう。」


 鮎川邸の門が開け放たれていた。灯りが庭先を煌々と照らし、防寒着を羽織ったウメの姿が見えた。明が車から凜を抱えて降り立つと真冬の風が辺りを吹き渡った。凜の体はスッポリと明の分厚いコートに包まれていた。

「朝倉様。」ウメが驚きの声をあげた。

「一体どうされたのでしょう。」

「先生は?」明が質した。

「すぐお見えになります。」

中年の家政婦が運転手から凜のハンドバッグとコートを慌ただしく受け取った。彼女は正体を失った凜を垣間見て怯えたように顔を背けた。

凜が二階のユリのベッドに運ばれて間もなく医師が到着した。すぐに聴診し、血液中の酸素濃度と脈拍数を調べた。次いで血圧を計ってから明に伝えた。

「特に異常はないですね。ワインに酔ったのでは。」

「ごく僅かな量でしたが…。」

「アルコールに特別弱い体質かな。体内の酵素の関係で、あり得ない事ではないですね。」

「アレルギーではないのですか。」

「身体に反応が出ていないからね。尤も数時間後に反応が出ることもあるから、その時は明日、専門医に診てもらえば良い。」

 明はホッとしていた。ウメと二人で車まで医師を送った。医師は去り際に話しかけた。

「明君、随分久しぶりのような気がするが…。」

明の父の代から診てもらっているかかりつけだ。

「今夜は有り難うございました。感謝します。…私はジョギングを始めてから風邪を引かなくなりました。先生もお元気そうです。」

「元気に年をとってるよ。」小さく笑って車に乗り込んだ。

 医師が去るとウメが口を開いた。

「ご病気ではないと知って安心いたしました。…朝倉様は泊めて差し上げればよろしいのでは。」

「いえ、あの人を自宅へ送り届けなければなりません。ウメさん、車を運転してください。」

明の言葉に頷いたウメだったが、思わず不安を口にした。

「運転は二年ぶりです。」

「大丈夫ですか。」

「勿論です。そろそろと行きますので。」

「頼みます。」

明は僅かに一度顔を合わせただけの凜の母親を想い浮かべた。この事態を理解して貰えるかどうか。それは明の思慮の外にあった。ありのままを説明するしかない。

 玄関のインタホンにはカメラがついていた。明が釦を押すと香織の軽やかな返事が聞こえた。明は車にとって返して凜を抱き上げた。再び玄関に近づくと今度は香織の声が訝しげに尋ねた。

「どちら様ですか。」

「鮎川です。凜さんをお連れしました。」

暗闇から寒風が吹き付けてくる。玄関を開けた香織が凜を見て短く叫んだ。明は構わず家の中に進んだ。戸外は厳しく冷え込んでいた。

「奥へ運びましょう。」

明の言葉に香織が立ちはだかった。「凜っ。」とその体を奪うようにかき抱いた。だが、さすがに香織の体力では無理だった。その場に凜もろ共へたり込んだ。

「大丈夫ですか。」明が靴を脱ぎ捨てて身を寄せた。

差しのばした明の手を払い除けて香織が厳しい声で咎めた。

「一体どういうことだい。」

「ワインに酔っただけです。」明が慌てて説明した。

「いい加減なことを言うと承知しないよっ。」

香織は明を睨みつけた。「この子はお酒なんか飲まない。さあ、出てっておくれ。」

激しい拒絶を感じて明は床に片膝を付いたままで絶句した。…彼女は誤解している。

 その時、凜の頭がゆっくりと動いた。目を開けて香織の顔を見上げた。

「お母さん?」夢から覚めた子供の声に似た響きだった。

「凜っ。」香織が抱きしめると凜は小さな笑みを浮かべた。体を起こそうとして明に気づいた。突然、凜は覚醒した。

「明さん。…ああ、やっぱり。迷惑を掛けちゃったのね。ご免なさい。」

寒気が流れ込む玄関にウメが凜のものを持って現われた。

「まあ、朝倉様。ウメです。お久しゅうございます。」

突然のウメの登場に凜は自分のしでかした事の騒ぎを想像した。

「ウメさん。迷惑をお掛けして済みません。」

「いいえ、なんでもございません。お気に為されないでください。」ウメは続いて明に言った。

「旦那様、おいとま致しますか?」ウメは明と香織のやり取りを耳にしていたようだった。

明は凜の目覚めに安堵した。

「これで失礼します。」どちらへともなく伝えた。

香織が頑なに目を背けたが、凜は切実な声で明に告げた。

「明日、電話します。今日はご免なさい。」申し訳無い気持ちで一杯だった。


 武田は凜の行動を奇異に感じた。

「ちょっと待ってて。」小声で言った後、高級で知られるレストランのドアに消えた。すぐ出て来たが何の説明もない。暫く待って焦れた武田に言った。

「これから喫茶店に行く。私から離れて。外にいても良いし、中でコーヒーを飲んでも…。長い時間じゃない。」

「分った。なんだか知らんが、コーヒーを飲んでるよ。」

「ありがと。」

 その店は落ち着いた雰囲気のカフェだった。店内は広い。凜は二人掛けの席に着いた。離れた場所に座った武田は密かに好奇心を抱いて成り行きを見守っていた。やがて長身の男が現われた。見覚えがあった。凜と向かい合って腰掛ける。以前、凜がひったくり犯と間違えた人物だと気づいた。

 凜が武田に手で合図した。呼ばれたと感じて近寄ると、凜が男に紹介した。

「私の相棒です。」

男は立ち上がって軽く会釈した。

「鮎川と申します。」

「武田です。」

凜が武田に言った。「ではまた後で…、ご免なさい。」

武田は席に戻りながら考えた。署長が凜に一般人の警護を命じた件の対象者の名が鮎川だったはずだ。何かが繋がった気がした。だが実際には、凜と鮎川氏が会っている事の意味が全く分らなかった。

「…それに、俺に向かって、ご免なさいと言ったぞ。どういう風の吹回しだ?」武田は首を傾けた。

 凜は明にも詫びた。

「昨日はご免なさい。」

「いいえ、私の方こそ申し訳無い。ワインを勧める前に凜さんの気持ちを伺うべきでした。」

「皆さんに迷惑を掛けてしまったわ。」

「でも、大事がなくて良かった。…私の独断ですが、医師に診てもらいました。急病ではないといわれました。」

凜の顔が真っ赤になった。

「お店にはご挨拶してきました。明さんに恥をかかせてしまったわ。」

目を伏せる凜を見まもる明は、両腕に凜の体重と体の感触がはっきりと甦るのを感じた。

「全く気にすることはありませんよ。ワインに酔った、それだけのことです。」

凜が溜息をついた。悲しげな表情を浮かべて言った。

「明さんとは二度食事の機会を頂いて、その二度とも…変な結果にしてしまいました。望んでいない結果に。私はもしかすると不幸の星を背負っているのかしら。」

凜は終りの言葉に冗談を忍ばせて、小さく、寂しく笑った。

「ではその星を調べてみましょう。」明が悪戯っぽく言った。

「あと何度か食事をすれば、きっとごく普通の結論が出ると思いますよ。」

明の暖かい笑顔に凜は見とれた。顔が再び赤らむのが自分で分るような気がした。慌てて口を開いた。

「それから、…母の事ですけど。きっと酷いことを言ったのではないですか。でも悪気は無いんです。」

明は香織の激しい拒絶を思い出した。その明の憂い顔に、凜は不安が的中したのを知って眉を曇らせた。

「母は言葉が乱暴なところがあって、…お願いです、誤解しないでください。ただ私を心配しただけです。」

「私は理解していますよ。」

「私を心配で感情的になってしまったのだと思うわ。母が何を言ったか知りませんが、あまり気にしないで。母親ってそんなものでしょう?」

それを口にして凜はハッと気づいた。明は母を幼いときに亡くしている。

「私って、明さんを傷つけていないかしら。あなたのお母様に触れるつもりは全くなかったわ。」

明は曖昧に頷いた。凜の心は騒いだ。明にとってデリケートな部分に踏み込んでいないか。すぐには言葉が出なかった。

明が静かに尋ねた。

「母のことをお聞きになったのですね。」

「はい、明さんが幼い頃に亡くなられたと聞きました。それなのに私、無神経でした。お詫びします。」

「ご自分を責める必要はありません。」明が声を落として言った。「実は、私の母は生きているんです。」

凜には意外な言葉だった。明を小学生の頃から世話してきたウメでさえ知らされていない事だと思えた。これは喜ばしい事の筈だが、明の表情は暗い。凜はどう言葉を挟めば良いか分らず、口を閉じていた。

 明は短い沈黙の後に語り始めた。

「それを知ったのは中学生になってからでした。なにしろ生前の父は母が死んだとだけ繰り返していたので、それを信じていました。小学生になってすぐ、父の留守に家中のアルバムを探して母の写真を見つけようとしました。級友の母親の姿に動かされたのでしょう。せめて顔を知りたいと思ったのです。けれど母らしい写真がなかった。不思議な気がしましたがとくに理由を考えることはありませんでした。高学年になって墓碑銘を調べました。母の名はサチコと聞かされていましたがそんな名は無かった。中学生になって戸籍を調べました。そして母が離婚して家を出たのを知ったのです。その時、私はまだ一歳になっていなかった。」

凜は衝撃を受けた。明と美風が重なって見えた。苦みを伴う過去の自分の行為を突然突き付けられたように感じて凜は茫然と息を呑んだ。

「母は生きていたわけです。いったい両親の間に何があったのか、父に尋ねるのは無駄だと思いました。父の友人で私にいつも優しく接してくれた人に問いかけてみましたが、答えはありませんでした。どんな事情で離婚したのか…。」

「お母様と会ってみようと思わなかったの?」凜がかすれ声で聞いた。

明は少し間を置いて答えた。

「戸籍から母の住所は分っていました。…長い間迷いました。そして父の死後、母と会うべきだと決心しました。もう十年以上も前のことです。調査会社に依頼しました。母の事を調べてもらったのです。

母は再婚し二人の子がいました。当時母は五十五歳、子供たちは独立し、定年を向かえた公務員の夫と二人暮らしでした。母が平穏で幸せな人生を過ごしてきたのだと安心することができました。でもその一方で…。」

明は遠くを見て続けた。

「なぜ私に会おうとしなかったのか疑問でした。ひと目会いたいと思うのが普通では無いでしょうか。私が物心ついてからの記憶を総動員しても思い当たる事はなかった。母に会いたい気持ちの中に、それを確かめたい部分も正直ありました。

 会うつもりだと伝えると、調査会社はさらに調べてくれました。それによると母はフラダンスを趣味にしていて、毎週金曜日に練習に通っていました。練習会場と、時間、さらには母の車のナンバーを報せてもらった。けれども私は肝心なことを伝えてなかったのです。その婦人が母親で、私が顔を知らない事を。調査会社は私が知人の身辺を調べていると考えていました。まあ、それが普通なんでしょうが…。金曜日に練習会場の駐車場で待ちました。迂闊にも母を見れば自然にそれと分るだろうと錯覚していました。

 やがてそれらしい衣装を着けた大勢の人が駐車場に出て来ました。

私は今思うとかなり緊張して、ナンバーを知らされた車の近くに佇んでいたのですが、三人の同じ年格好の婦人が車に近づいてきました。その時、気づいたんです。誰が母なのか、その三人の中に母がいるのか、私には何も解らないと。必死に目を凝らしても何かが私の心に響くことは無かった。母を見つけることができない。こんなはずじゃ無かったと絶望しました。婦人たちは目的の車の側に立っている私の行動を訝しみ、警戒心を露わにしていました。その場を去るしかありませんでした。

 凜さん、私は何かを失った訳では無かった。元々失っていたものをあらためて知らされただけなのです。」

凜が悲痛な声をあげた。

「明さん、もうやめて。」

「私には母などいなかった。物心ついたときから、それは知っていたはずだったのです。」

「私が…いけなかったわ。明さんにそんな話を強いることになるとは気がつかなかったの。」

「凜さん、お伝えしていなかったと思いますが、私は今年、四十になります。子供っぽい感傷に浸る年齢ではありません。」

明は凜を見つめた。

「私を知って欲しい、そう考えて敢えて話しました。察してくれますよね。」

頷きながらも凜はどこか追いつめられた気がした。凜自身は離婚した夫、美風の父親について何一つ口にしていない。それは世間ではよくある話だが明に幻滅されるのを密かに怖れていた。尤も冷静に考えれば、明も前妻について何も語っていない。だからといって凜にはその事に少しの不満も無かった。…無理に喋る必要の無いことだってあるわ、と凜は考えた。

「明さん…。私は今の明さんが大切だわ。そして今の明さんはとても素敵だと思うわ。」凜の頬が赤らんだ。

明が笑顔を見せた。

「その言葉をそっくり使わせてください。凜さん、あなたは素敵です。とても…。」

凜は顔を輝かせて言った。

「私の不幸の星に打ち勝つチャンスをください。電話を差し上げて良いかしら。」

明は凜に両手を広げて小さく叫んだ。

「勿論です。」

だが凜の希望は間もなく起こった凶悪事件によって、北風に舞う粉雪のように吹き飛んでしまった。 (つづく)

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