第9話

「女刑事物語(9-1)」     C.アイザック


 黒田の出勤は早い。刑事課に一番乗りだ。しかし北条が着任してからは二人でそれを競う形になった。北条も朝が早かったのだ。

 黒田はいわゆる生え抜きの叩き上げだ。地方公務員として警視庁に採用された。配属先は港中央署。交番を含む地域課に七年勤務した後、巡査部長で刑事課に移った。そこでの仕事ぶりは安定してスキが無いと評価された。自分でも刑事が性に合っていると思った。

 一方で昇進にはあまり関心が無かった。警部補になったのが三十六歳。四十歳で警部の昇任試験を受ける資格を得たが六年ほどをグズグズしていた。それを知った板垣が受験を強く勧めた。板垣は黒田に捜査指揮を全面的に委ねたいと望んでいた。つまり次の刑事課長にと考えていたのだ。

 黒田は係長として実質的に捜査を指揮していると自負していた。だが板垣はそんな黒田に勝手な解釈だと指摘した。

「今のままでは逮捕令状すら請求できないではないか。」

逮捕令状、さらには捜査に関する令状、許可状は巡査部長以上が求めることができる。だが実際に裁判所にそれを請求する者は公安委員会の指定を受けねばならず、その規則では警部以上と定められているのだ。逮捕令状の請求手続きを取れない捜査指揮者とはいったい何か。黒田は自分を顧みて昇任試験を受ける決意をし、そして見事に合格したのだ。尤もさらに四ヶ月の研修を受けねば昇任はできない。

とりあえず北条に合格を報告した。すると北条は眼を丸くして黒田を見つめた後、慌てた素振りで顔をそらせた。黒田はその態度を訝しんだが、推測できることがあった。北条のようないわゆるエリートは入庁後わずか一年ほどで一斉に警部に昇任すると聞かされていた。北条は現場の一刑事と自身との処遇の大きな違いに直面して狼狽してしまったのでは無いか。その考えが頭の隅に浮かんだのは一瞬のことで、黒田はそれ以上気に留めなかった。黒田が昇任に何年かかろうとそれは北条には関係のない事だった。黒田にとって北条は「すぐに帰るお客さん」だった。失礼な言動は慎むべきだが、かといってへりくだる必要も、とくに気を遣う必要も無いと考えていた。それは冷淡な気持ちからではなく、北条にはその立場としての本来の仕事と場所があるだろうと考えたからだ。

この日の朝も黒田と北条は同時刻に出勤した。黒田が挨拶すると北条がやっと聞き取れるほどの声で「お早うございます。」と応えた。そして僅かに笑みを浮かべた。北条は黒田の飾り気のない態度にかえって安心感を持って接しているようだった。

黒田が新聞を広げたところへ四係長の上杉が急ぎ足で近づいた。

「午前中、朝倉を貸して貰えないか。」

朝の挨拶抜きで突然の申し入れだった。

黒田が戸惑いの眼を向けた。

「それは構わんが、あいつが何と言うかな…。」そう答えて新聞に視線を戻した。

「実は…、」と上杉が言った。「お凜にはもう了解を貰っているんだ。」

「えっ、そうか?」

黒田は驚いて再び上杉を見た。この時北条も意外そうに上杉を見たのだが二人はそれに気づかなかった。


 凜と上杉は海上保安部に向かった。それは港中央署の管内にある五階建ての合同庁舎だった。第三管区海上保安本部に属し首都圏の南西沿岸と領海、そして接続水域、排他的経済水域を管轄している。庁舎の目の前が南北の埠頭の中間の港で、巡視船の停泊地に定められていた。

 二人はすぐに二階の応接室に通された。待つこともなく若々しい印象の男が現れた。だが髪に白いものが混じっている。五十を超していると思えた。二人が立ち上がって名刺を渡した。

「ああ、これはどうも。」

男はテキパキとした様子で名刺を受け取った。「どうぞお掛けください。」実務家らしいそつのなさを感じさせた。

…ちょっと良い男ね、と凜は思った。

男は刑事達と向かい合って腰を下ろすと受け取った名刺をテーブルに並べて置いた。

「毛利と申します。」そう言って胸のネームプレートを指で摘んで二人に向けた。名刺を出すつもりはないようだった。

「お電話によると、貨物船について何かお知りになりたいとか…。」

「そうなんです。」と上杉が船のリストを差し出した。「この中に密輸事件に関わりのある船がいるのではないかと考えています。何か教えていただければ有り難いのですが…。」

毛利は上杉が示した紙を見ようともしなかった。

「お電話を承った者がはっきりとお伝えできれば良かったのですが、その為に要らぬご足労をお掛けすることになってしまいました。誠に申し訳ございません。結論的に申し上げますとお応えするのは難しいと思います。」

その答えは予想し得ないものではなかった。凜は無言で毛利を見つめた。

「どんな些細な情報でもいいのですが…。」かろうじて上杉が食い下がった。

毛利が首を傾げた。「それはどうでしょうか。逆に伺いますが、警視庁さんの方で何か捜査して得られた情報を外に伝えますか?」

上杉は言葉に詰まった。捜査情報を外部に漏らす、それはあり得ない事だった。

その反応を確かめた上で毛利は言った。

「同じ事なんです。私共としては今回の申し入れにお応えするのは難しいとお伝えするしかありません。」話はそれで終わりだった。

「ま、お互いに不自由な面があるという事でしょう。」

毛利はそう話を切りあげた。刑事達が席を立つのを待っていた。

「あれえ~っ!」

突然、凜が調子外れな大声を上げた。

毛利が驚いて女刑事を見ると、彼女は身を乗り出してテーブルの上のリストを指差した。

「これ、私の知り合いの会社の船よ、きっと。」

つられて毛利がリストに目を落とした。

「たしかに、船籍が日本となっていますね。日本というのは珍しいです。」

凜はさらに顔を近づけて紙の上を指でなぞった。

「このbulkerというのは何?」

「ああ、バラ積み船のことです。」

「バラ積み船?」

「貨物船の種類です。さまざまな種類があります。」

「そうですか…。種類といえばこのエース輸送にはコンテナ船もあるそうです。」

「コンテナ船はあちらの南埠頭を使用しています。」

庁舎の窓から遙かに埠頭が見えた。

「クレーンがたくさん並んでいるのが見えますが、あれはガントリクレーンといいましてコンテナ船用の設備です。」

凜はまじまじと毛利を見つめた。

「随分お詳しいのですね。私、船のことは何も知らなくて…。」毛利は余裕たっぷりの笑顔を見せた。

一方の上杉は凜が「私」と言うたびに何故か居心地悪そうに体を小刻みに動かした。

 凜は毛利を見つめたままさりげなく言葉を継いだ。

「私達の署ではある暴力団員を内偵しています。」

突然の凜の言葉に上杉が慌てて掌を上げて制止しようとした。毛利はその上杉の姿を視界の端に捉えたままで素知らぬふうを装っている。凜はこれもまったく平気な顔で続けた。

「その結果、この暴力団員が大量の拳銃の密輸入を企てていると確信するに到りました。」

毛利が目を見張った。「拳銃?」と繰り返した。

「そうです、拳銃です。その密輸場所は北埠頭一号岸壁の可能性が高いと判断しています。」

上杉は諦めて手を膝に置いた。もはや凜を黙らせる事はできないと悟った。

凜の大きな瞳に強い光が射した。

「毛利さん。もしこれを摘発できなかったら大量の凶器が犯罪組織の手に渡ることになる。…そんなこと、させやしないよっ!」

凜は強烈な口調で終いの言葉を投げかけ、貨物船のリストを毛利の目前に押しやった。

「さあ教えて。密輸に関わるとしたらどの船?」

凜はすでに立ち上がりテーブルに両手を突いて身を乗り出している。

凜と毛利の視線が激しくぶつかった。毛利は眉間に皺を寄せてリストに目をやったがまたすぐに凜を見た。そのまま二人は動かない。互いに目の奥を凝視している。思いがけない展開に上杉が息を呑んだ。

 やがてもう一度リストに目を落とした毛利がふと一点を見つめて動きを止めた。…何か見つけた、凜は直感した。毛利は胸の前で両腕を組むとわずかに首を傾げた。その数秒後、大きく息をついた毛利は額に決意を表して刑事達を見た。

「この船長の氏名ですが、かつて密輸犯罪に関わった疑いがあるとしてマレーシアとインドネシアの当局からマークされていた人物と同じ名前です。」

凜がそれを読み上げた。

「ダニエル・ファレス・ガルシアですね?」

「そうです。メキシコ人です。バラ積み船の船長という事ですから同一人物の可能性があります。船名がアルタベスタ号、多分間違いないでしょう。

 この男の兄、フェルナンドが密輸グループのリーダーと目されています。ダニエル本人は兄に請われた場合に密輸に荷担するとみられています。しかしいずれにしろ常習性があると言えます。実はウチの第十一管がこの男の船を追跡したものの中国領海に逃亡されたという記録が残っています。

 それ以来プッツリと姿を消しました。東南アジアから南アメリカ付近に活動場所を移していたのでしょう。」

凜が遠慮がちに尋ねた。

「船名の後のGrain carrierとは何?」

「穀物運搬船です。荷は食用小麦とありますね。」

それから毛利は二人の顔を見まわして言った。

「北埠頭が密輸場所と推測された理由をお聞かせ願えますか。」

上杉がかいつまんで説明した。

「薄弱な根拠と思われるかも知れませんが、主犯の男が北埠頭にかなり執着しているのは事実です。」とつけ加えた。

「北埠頭の可能性がきわめて高いようですね。」毛利が頷いた。

だが一方で密輸にはコンテナが使用されるはずだという考えを捨てきれないでいる上杉は胸の内に抱く疑問を口にした。

「つまらぬ事をお聞きするようですが、たとえば深夜に荷を下ろすとしても人手と時間がそれなりに掛かるはずです。北埠頭でそれを行なうとすればかなり大胆な計画に思えます。…我ながら矛盾していて申し訳無いのですが。」

「いいえ。アルタベスタ号のような貨物船には小さな船上クレーンがあるのが普通です。船倉の荷崩れに対処するためですが、これを使えば数百キロ程度の荷ならたちどころに陸上に下ろすことができます。」

「なるほど。しかしクレーンがあるならば途中で他の小さな船に積み替えて人気のない場所に運ぶのではありませんか?」

「ところがそうもいきません。洋上での荷の積み替えはかなりの危険を伴います。そしてそれ以上に非常に目立つ行為なのです。定期船や漁船がこれを発見しますとすぐに通報が来ます。それに洋上を監視しているのは海上保安庁だけではありません。海上自衛隊、航空自衛隊も海上を注意深く探査しているのです。

 ついでに申し上げれば、もし上手く積み替えができたとしても、今度は陸揚げする場所が簡単には見つかりません。」

「えっ? 場所ならいくらでもあるのでは…。」

「そうとも限りません。たとえば北埠頭の場合ですと海面から護岸までの高さは満潮時でも三メートル以上、干潮ですと五メートルほどになります。小さな船だと陸上に届かない訳です。すると漁港が適当となるわけですがそこは漁連が管理しています。許可がなければ港内に入ることすら難しいでしょう。岩場や砂浜は結局船を放棄する事になってしまいます。残るのは遊漁船やモーターボートなどの係留施設、あるいは島への小型船の発着所ですが、詳しいことは申し上げられませんがこうした場所を使用するとまず間違いなく検挙する事ができます。」

「その砂浜とは…。」

上杉がさらに質問を繰り返そうとしたときに凜が一つ咳払いをした。口を一文字に結んで上杉を見つめている。話が先に進まないのだ。

 上杉は口許に手をやると自分も小さく咳払いをして姿勢を正した。

「毛利さんのお陰で目の前の霧が晴れた感じです。有り難うございます。」

一旦口を閉じた後、上杉は顔を赤らめて続けた。

「でも…正直に言って、船内や外国人乗組員の捜査については正直良く分りません。なにしろ貨物船の内部がどうなっているか知らない有様です。お恥ずかしい次第です。」

毛利が穏やかな笑みを浮かべた。刑事が貨物船の内部構造を知らないのはむしろ当然な事だった。

上杉はあらためて「お力を貸していただければ有り難いのですが、そのような事は可能でしょうか。」と心細げに訪ねた。

「私共としては事案が事案だけに協力申し上げる用意はございます。」毛利がきっぱりと言った。「力を合わせましょう。」

一旦は喜色を表わした上杉だったが次第に複雑な面持ちに変った。話の内容がもはや所轄の係長が判断を下せることではなくなっていると気づいたのだ。

だが凜は無頓着だった。

「では警視総監から協力の要請があれば良いのね。」

上杉が目を剥いた。

毛利は笑って小さく手を振った。

「いいえ、あまり上級職ですと捜査が空振りに終わった際、さすがに後処理が面倒です。署長さんと本庁の管理職さんの連名でこちらの保安部長宛に頂ければよろしいと思います。」

「分ったわ。」凜はまるで自分が警視庁の幹部でもあるかのように大きく頷いて請け合った。

毛利が言った。

「ちなみに申し上げますと、我々は見込み捜査の失敗を怖れてはいません。情報や容疑があればいつでも船舶の強制捜査を行なう姿勢を海運関係者に知って貰うことも意味があると考えているからです。」


 ハンドルを握った上杉が浮かぬ顔だ。

「どうしたの。」と凜が声を掛けた。「大変な成果があったじゃないの。大きく前進したわ。」

「たしかに望外の結果と言えるが…。どうも手順を間違えてしまった気がしてな。」

上杉の不安は的中していた。翌日二人とも本庁に呼び出されたのだ。

 小会議室で三人が待ち構えていた。組織犯罪対策課長、課長代理、管理官のトップスリーだ。上杉の同期という明智は管理官だった。

その明智はすでに充分不機嫌な様子だったが、凜を見ると戸惑って質問した。

「お前は四係なのか?」

「違います、一係です。」凜が答えた。

「すると、」と明智は上杉を見た。「他所の人間と海上保安部に行った訳か。」

「…この捜査員には協力をもらった。」上杉が小さな声で答えた。

「なるほど、他へ協力は申し込んだがこちらには報告すらしなかったという訳か。」

明智は上杉を睨みつけた。

「寝耳に水だぞっ!」突然テーブルを叩いた。かなりの剣幕だ。

「何故報告が無かった。内偵を始める時点で報告するのが当然だろう。相手は指定暴力団だ。所轄でどうにかなる物じゃない。上杉君、説明してくれ。」

「何らかの証拠を得てから報告しようと思った。それがズルズルと来てしまった。反省している。」

上杉は敬語を使わずにそう言い終えて大きな唇を結んだ。

明智は少しも納得しなかった。

「こちらがあずかり知らぬ件を外部に協力要請するなどあるはずが無い。そんなことはできんっ。」

この時「まあ待ち給え…。」と課長が口を開いた。

「明智君、上からの指示だ。我々としては進めるしかあるまい。」

明智は課長に素早く頭を下げた後、凜を振り向いて質した。

「捜査協力の要請は海上保安部の側から持ち出されたというのは間違いないか。」

「こちらが協力を求めました。」凜は短く答えた。

「だが海上保安部へ捜査の協力を要請して欲しいと向こうが言った訳だな。」

明智の念押しに凜は軽く頷いたが無言だった。

課長代理が口を挟んだ。「捜査本部はどうするかね。」とうながした。

「本部はこちらに設けます。」明智はそう答えてから上杉に言った。

「所轄では捜査の人員をどのように考えているのか。」

「署の四係全員と一係から十二名、合計二十五名の捜査員を動員する予定です。」と上杉が渋々敬語を使った。

すぐに明智が「こちらは五十名を考えています。」と課長代理に告げた。更に上杉に続けた。

「埠頭の面積と延長を考えるとこれを囲む体勢が必要だが…。」

「署の交通機動隊二十名と自ら隊十名の出動について署長の了解を得ております。パトカー十台と白バイ十台を予定しています。」

上杉は待っていたとばかりに勢いよく答えた。あらかじめ板垣から指示を貰っていたのだ。

「ふん。」と鼻で返事をした明智は不機嫌なまま上杉に言った。

「とにかく明日、ここで合同の会議を行なう。情報の共有と役割の分担を確認したい。時間は九時だ。分ったな。」

 本庁のエントランスは広々としていて署とは比べ物にならない。まるでホテルのように立派に見えた。多くの人が出入りしている。そこを抜けたところで凜が上杉に話しかけた。

「吊し上げられちゃったね。」

「うむ…。」上杉は渋面を作ったが、何処かホッとしているようでもあった。

「あまり気にしないで。」

凜は軽く口にしたが、一方で明智の怒りも理解できた。重要と思われる捜査の状況をまったく報告していなかったのだ。しかもそれは上杉の意地から出発している。非は上杉にあった。だがアンコウのような口を結んで叱責を受ける姿を思い返すと同情したくなるのだった。

「これからだから。四係の、所轄の力を見せてやろうじゃないの。」


 警視庁組織犯罪対策課の大会議室に百人ほどの捜査官が集合した。出入り口には「組織犯罪年末警戒特別本部」の縦長のボードが掲げられた。あえて曖昧な名称が使われている。

 正面に本庁の主立ったメンバーが並んでいた。課長、代理、そして明智以外に二人の管理官、さらに交通課理事官、交通機動隊長が席に着いている。その九十度左側の壁際にも細長い机と椅子が用意され港中央署の各部署の責任者が顔を揃えた。刑事課長の北条、大久保交通課長、地域課自動車警ら隊長、係長の上杉、さらに一係長の黒田といった面々だ。そして所轄の捜査員の中に凜も含まれていた。彼らが会場に着いたときには前方の席は全て本庁の刑事達で占められていたため、所轄の者達は自然と後方にかたまった。

 やがて明智が立ち上がった。捜査員をゆっくりと見渡してから口を開いた。

「指定暴力団極東連合が拳銃の密輸入を企てている。」

ざわめきが起きた。明智はやや声を強めて続けた。

「これを摘発する。証拠品の押収、関係する組員の逮捕を目的にこの捜査本部を設けた。

 まず二年ちかくに及ぶ内偵捜査によって拳銃密輸の手掛かりを得たとする所轄署捜査課より報告を受けたい。所轄課長、説明を願います。」

北条が要領を得ない顔で明智を見た。すると本庁の課長代理が慌てて北条に小さく手を上げて制した。

課長が明智に声を掛けた。

「これは、直接捜査にあたった四係長のほうから聞くのが良いのではないだろうか。」

明智は顔を赤らめて頷いた。北条の立場をうっかり忘れていたのだ。

「それでは四係長、説明したまえ。」

上杉は軽く咳払いすると、これまでの大まかな経緯について報告した。やがて海上保安庁から重要な情報を得た、としたところで明智が「もう良いだろう。」と話を遮った。

それから明智自身が刑事達に向かって喋り始めた。

「海上保安庁から情報の提供があったようだ。先方では所轄の推測どおり密輸犯罪が行なわれる疑いが強いと判断している。そのうえでこちらからの申し入れがあれば全面的に協力するとの意思が示された。我々は内部で検討の上、すでに合同捜査を申し入れている。密輸犯罪については海上保安庁が我々よりその実態に詳しいだろうという判断だ。もし我々が船の出港を妨げてあげく証拠品が発見されない事態にでもなったら、莫大な損害賠償を負う可能性もある。ここは海上保安庁の力を借りるのが合理的だ。船内の捜査は彼らに任せてこちらは陸上の組員の逮捕に全力を挙げる。」

明智は一度口をつぐむと天井のあたりに目をやった。何処か芝居がかった様子でまた口を開いた。

「この件について、所轄からこれまでまったく報告がなかったのは甚だ遺憾な事だ。」それから視線を捜査員に戻した。

「その為に何の準備もなく事態に対処する事になってしまった。これまで実行犯を挙げればそれで良いという考えは捨てろと指示してきたが、今回は逆に実行犯の逮捕が最優先になる。やむを得ないというしか無い。だから所轄の捜査の裏付けを独自に求めてはならない。組織の側にこちらの動きを知られてはならないという事だ。秘匿捜査だ。この事はしっかり頭に入れておいて貰いたい。

 それから役割の分担に付いて述べる。所轄の交機隊ならびに自ら隊だが、本庁交機隊の指揮下に入って貰う。意思の疎通を図り、その指示を十全に果して貰いたい。」

そう言って明智は本庁側の交通課理事官、交機隊長に一礼し「よろしくお願いします。」と言葉を添えた。

その後、明智は再び捜査員らを見渡してさりげなく続けた。

「次に捜査員の配置だが、所轄の諸君は埠頭に近い陸地側の空地、駐車場などの監視と警戒に当たると共に、交機隊と連携して、埠頭を抜ける不審車両の取り締まりをやって貰う。」

これを聞いて上杉が意外そうな表情で明智を見つめた。

明智は平然として言葉を継いだ。

「本庁組対課の諸君は北埠頭にあって犯人の逮捕に全力を尽くす。

 海上保安庁からは双方の行動計画についてある程度詰めたいと求められている。全ては明日、あちらと共に詳細な捜査計画を決めたい。とりあえず以上だ。問題の貨物船の入港は一週間後だ。気を引き締めてかかってくれ。」

捜査員からは「おおっ。」と威勢の良い声があがったが、その後方で所轄四係の刑事達は肩を落とし、力なく顔を見合わせた。長い期間の内偵捜査の苦労が空しく頭をよぎった。

「ちょっと待ってよ!」突然女の声がした。

「待ってください。」

明智は声の主を探したがその姿は見えない。だがすぐに捜査員を掻き分けて凜が現れた。マル暴の刑事達の肩ほどもない小柄な体格だ。あの女刑事だと気づいた。

「なぜ?」と凜はいきなり明智を問い詰めた。「署の捜査員は主犯の顔もその取り巻きの連中の顔も知ってるわ。それなのに何故?」

「捜査態勢については検討の上の結論だ。口出しは控えろ。」

明智は合理的な説明ができぬまま押し切るつもりだった。

凜は引き下がらなかった。

「良いのかいっ。」

「なにっ。」

「これはあくまでも見込み捜査だ。空振りもある。もしそうなったらどうする。」

黒田が胸のあたりに腕を組んで両目を閉じた。

凜の声が続いた。

「海上保安庁を引っ張り出しておいて勘違いでしたってんじゃ、あんたの出世はもうなくなるからねっ!」

上杉はアンコウの口をいつもとは逆に大きく開けたまま凜の横顔を見つめた。

                 (つづく)



    「女刑事物語 (9-2)」    C.アイザック

 明智はこの瞬間、周りの刑事達が明智の反応に注目している気配を感じた。どのような態度を示すか、何と答えるか興味を抱きながら様子を窺っている。居並ぶ上司の面々も無言だ。明智が同期の中では誰よりも順調に出世してきたことが知られていた。明智はそれがひたすら努力を続けた結果だと自負していた。誇りでもあった。しかしそれを率直に認めない雰囲気が他ならぬ本庁の人間の中にあることを嗅ぎ取った。明智の内に怒りに似た感情が俄に湧上がった。

 明智は凜を睨んだ視線を素早く刑事達に走らせて声を張り上げた。

「俺は出世したくて警察官になった訳じゃない。そこにこだわりは少しも無い。」

凜はそれを額面通りに受け取って顔を輝かせた。

「じゃあ俺たちに…違う、私たちに最後までやらせてよ。もし捜査の見込みが外れたら私たちが腹を切るっ。」

上杉が目を剥いた。

凜がたたみかけた。

「指揮は明智さんが執れば良い。でもヤツらにワッパを掛けるのはうちの四係だ。良いでしょっ!」

明智は凜を凝視しながら、この女刑事の言うとおりだと咄嗟に考えた。内偵に関わっていない本庁が前面に出た挙げ句、もし捜査に失敗したとなると大変な失態を晒すことになる。その責任は重大だ。だが所轄の熱意に負けて捜査の指揮を買って出たとしたらその意味合いは全く違ってくる。失敗に終わっても明智はむしろ男気を見せたと受け取られるかも知れない。

「よし分った。それほどまでに言うのならお前達に任せても良い。」

「えっ、ほんとに?」凜は満面に喜びを表わした。

明智は港中央署の管理者達を見やって「よろしいか。」と念を押した。

北条が立ち上がって「分りました。」と答えた。

明智は上司達を向いて頭を下げた。承諾を得る意味合いがあったのだろう。

明智はあらためて捜査員達を見渡して言った。

「先程伝えたとおり明日、海上保安庁から人が来られる。細かいことを言うようだが迎える我々の側に見苦しい格好の者がいないように。マル暴とはいえ、さすがは警視庁だという外見を保ちたい。そのあたりの気配りを欠かさぬようによろしく頼む。」


 翌日、大会議室の壁に北埠頭の大きな略図が掲げられていた。北埠頭は長方形の一つの島といってよかった。陸と並行して海に横たわっている。陸地との間に細い水路があった。その水路を越えて埠頭の北端からやや中央よりの所に橋が架かっていた。道路がそれを渡ってすぐに九十度折れ、埠頭の縁を南側へ延びている。高さ二メートルほどのフェンスが道路に沿って続き、岸壁側とを隔てていた。埠頭の南端近くでさらに海側へ曲がった後再びもう一つの橋を渡って陸地へと続いている。

 明智がそれを見ながら上杉に声を掛けた。

「何ですか。」とすぐに上杉が答えた。明智の判断で捜査の第一線に立てることになったのが嬉しかった。今は素直に敬語を使った。

「そのラーメン店の屋台とはどのあたりか。」

それを知っているのは実際に足を運んだ凜だけだった。

「朝倉。」と上杉が呼んだが、武田と何か話し込んでいて伝わらなかった。

「お凜っ。」

ピョンと頭を立てた。それから上杉のすぐ近くまで歩み寄った。

「何なの?」と尋ねた。

凜自身は「お凜」と呼ばれるのがあまり好きではなかった。だが気づくと皆がそう呼んでいる。まあ良いか、それが凜の気持ちだった。「凜」と呼ぶのは武田くらいか。「お凜」と呼ばれたときに彼女が「凜だ…。」と訂正して呟くのを武田は聞いたことがあったのだ。

「例のラーメン店の息子の屋台、場所を教えろ。」上杉が何処か親しげに言った。

凜が壁に近付いて指し示した箇所を見て明智は頷いた。

「たしかに、そこからなら埠頭の先端まで見通せるな。」

「だから犯行の際にはここへトラックを持ち込んで目隠しに使うんじゃないかしら。他からは海運会社の倉庫があって視界を妨げているから。」と凜は持論を述べた。

 その時ドアが開いて課長と課長代理が現れ、後に海上保安官の制服姿の三人が続いた。その先頭に毛利の顔があった。

「全員起立。」明智が号令した。

本庁の主立ったメンバーが居並ぶ机の全面にはそれぞれ役職名が記された紙が貼られていた。毛利らはそこへ一礼した後用意された席へ移動した。あらためて会場の捜査員達に頭を下げた。毛利は海上保安部次長だと名乗った。他の二人は警備救難課長と巡視艇「あさぎり」の艦長と明かされた。

課長代理が三人に腰を下ろすよう求め、同時に捜査員に着席をうながした。椅子の鳴る音が静まるのを待って口を開いた。

「警視庁の特別法犯における外為法違反の認知件数ならびに検挙件数については報告がまとめられておりますが、密輸入犯罪に関しての件数は昨年いずれもゼロとなっております。我々にとって馴染みの無い捜査となることは明らかです。しかし指定暴力団がこれに関わっている以上、どんな事があっても密輸入貨物の押収と関係する組員の逮捕は必ずやり遂げると決意しているところです。」

これはつまり毛利に向かって述べているものだった。

続けて「明智君。」と呼んで立たせると「この者が現場の責任者として警視庁側の捜査を指揮します。」と紹介した。

明智は海上保安庁の三人にそれぞれ黙礼した後発言した。

「この度の捜査を私共は暴力団組員の逮捕という通常のものと考えていますが、密輸入事件の摘発に付いて内容をお聞かせ頂ければうちの捜査員にとって貴重なものになると思います。よろしくお願いします。」

毛利が立ち上がった。明智の言葉で助言を求められていると感じたが、あまりにも漠然としている。それでも毛利は穏やかに口を開いた。

「私共の捜査は警視庁の皆さんの洗練されたものとは少し違うかも知れません。どちらかというと力ずくのぼくとつなものです。それでも何処かお役に立てるのなら嬉しいかぎりです。」

刑事達は「力ずく」の言葉に巡視船に搭載されている機関砲を想い浮かべて「あさぎり」艦長の顔を見た。

毛利は本題に入った。

「今回、港中央署の方より重要な示唆を受けました。私共の情報と照らした結果、重大な犯罪が行なわれる可能性が高いと判断しました。合わせて合同捜査の申し入れを受けまして、警視庁の皆さんと協力して密輸入犯罪を摘発する決意を固めたところです。

 船舶の捜査について簡単に説明しますと、問題のアルタベスタ号は二十二日午前に北埠頭に接岸予定です。夜間は洋上で待機、夜明けと共に東京湾に進入するのでしょう。午前九時頃には北埠頭に到ります。遅くとも十時には接岸。同時に税関職員が海運会社立ち会いの上で貨物の検査を行ないます。そのあと午後から荷揚げ作業に掛かると思われます。これはかなりの時間を要します。積み荷が家畜用の穀物飼料ならば二号岸壁につけてポンプで直接吸い上げてサイロに溜めますがアルタベスタ号の荷は食用小麦です。人間の口に入るものである以上その設備は共用しません。小麦はトン袋と呼ばれる大きな袋に詰められているはずです。船の貨物積載重量は千六百トン。単純計算で千六百袋の荷が船倉に詰め込まれていることになります。これを大型クレーンで陸揚げします。丸二日かかるでしょう。二十四日正午頃に荷揚げが終わると見込まれます。それから今度は出港に向けて燃料、水、さらには生鮮食料品、加工食品、日用品などが補給されます。この作業を終えるのが日没頃。出港は翌二十五日朝となるはずです。つまり犯行は二十四日深夜と見ています。」

毛利はここで一つ息を付くと「クリスマスイブですね…。」と言い添えた。

捜査員の誰かが「とんだサンタクロースだな。」と声を出すとあちこちで小さな笑いが起きた。

一人が手を挙げて毛利に質問した。

「二十四日以前に犯行がある可能性は無いのでしょうか。」

質疑を想定していなかった明智が慌てて手を上げたが、毛利はごく自然に答えた。

「その可能性は充分にあります。予断は厳禁です。しかしあえて言わせて貰えば貨物が船内に残されている場合は海運会社、あるいは荷役会社の夜間のパトロールの対象となることがあります。密輸を企む側からは余計な危険を冒すことになります。それを考慮すれば犯行は荷揚げ終了後と見ています。二十四日深夜の決行、これが我々の考えです。

 そこで我々の今後の行動のあらましをお伝えいたします。埠頭上に最終的に三十人の海上保安官を動員する予定です。使用する車両は小型車十台、小型バス一台です。海運会社の倉庫の一カ所を使用する許可を得ています。そこに指揮所を設置、二十二日から貨物船の監視を始めます。陸側一キロ以内に車両、小型バスを待機。海上には巡視艇一隻を配備、加えてヘリコプター一機を使用します。」

凜が「ヘリコプターも…。」と驚きの声を上げた。

毛利は続けた。

「犯人らは船上クレーンを使って密輸貨物を陸揚げすると予想されます。皆さんがマークしておられる暴力団員がバンや小型トラックを用意して現れるでしょう。犯人による代価の決済方法はこの時点では考える必要は無いかもしれません。我々としましては警視庁さんの方で貨物を押さえた後、直ちに船内の強制捜査に着手、船長以下密輸グループの人員を検挙します。この際、双方の車両が交錯する状況が考えられます。我々としては安全に十分な注意を払いつつ的確な行動を取るつもりです。

 以上、簡単に説明させて頂きましたが、我々について捜査上とくに気を遣って頂く必要はありません。皆様の行動を確認した上で我々は行動を起こしますので、何処かに海上保安庁も居ると意識して頂ければそれで充分です。勿論指揮系統相互の連絡は密に行なう予定ですのでよろしくお願いします。」毛利は話を終えた。

 代わって明智が立ち上がり、犯行の認知と同時に行なう予定の周辺道路での一斉検問について説明した。他に特に伝えなければならない事が思いあたらず「お聞きになりたいことは?」と毛利に尋ねた。

「結構です。」毛利が静かに応えた。

明智の側からも質問は無かった。明智はこの見込み捜査が失敗に終わった場合、責任者として自身の報告書一本で収束させる覚悟を決めていた。打ち合わせ会議は終わった。

 会議室を出た毛利を凜が追った。「毛利さん。」と声を掛けた。

「毛利さん、有り難う。」

捜査の具体的な方向をつかめたのは全て毛利のおかげだった。

毛利は足を止めて凜を振り向いた。

「朝倉さん、海と陸とで一網打尽と行きましょう。」

「うん、必ず。」

凜の決意を感じて毛利がにこやかな表情で敬礼すると、他の二人もそれに合わせるように凜に向かって敬礼した。びっくりした凜はピョンと直立不動の姿勢をとったが、すぐに右手で敬礼して応えた。同行していた本庁の課長と課長代理の二人が内心の驚きを隠してさりげなく笑顔を浮かべ、その場の雰囲気に合わせた。

 会議室にとって返した凜は明智に駆け寄った。

「こっちは?」と聞いた。

「なんだと。」明智は意味が分らなかった。

「ヘリ。ヘリは出動しないの?」

たしかにヘリがいた方が便利だと思えた。広い埠頭と周辺の全体を把握でき、行動が後手に回るのを防げる。

「出動させるつもりだ。」

明智の言葉に凜は顔を輝かせた。何も言わずに小さくガッツポーズをしている。その様子に明智は危うく笑ってしまうところだった。きっと海上保安庁に対抗意識を燃やしたのだろうと考えた。…子供みたいなヤツだ、と思った。


 さてその頃、鮎川 明はどうしていたのか。樋口は明の様子がおかしいと気づいていた。一週間ほども何か思い悩んでいる気配が感じられた。この時も最上階の十階にある会長室の広い窓から放心したように外を眺めていた。

「会長、お体の方は問題ありませんか。」

たまらずに質問した。「お元気が無いように感じますが。」

「うん…、いや、問題は無いね。」

明は樋口を見ずに答えた。

…やはり変だ、と樋口は思った。質問の意味に関心を示さない。いつもの明とは違った。

その時、樋口の携帯電話が鳴った。秘書課長からだった。グループ傘下の「第一建設」の社長が面会を求めているという。だがその予定は無かった。

「アポイントは受けておりませんが。」

「何でも火急の用件らしい。」

「分りました。連絡をとります。」

「いや、実はもう一階のフロアーにお見えになっている。」

樋口は驚いた。唐突な話だった。

「樋口君、お願いして良いかな。」

秘書課長は多忙だった。というのも、不動産取引を目的に「エース開発」を訪れる者はほとんどが明との面会を求めるからだ。実際に応じるかは別にして全て秘書課で対応するのが明の方針だった。門前払いの印象を与えたく無かった。いつ大規模な取引に進展するかすぐには判断できないのが不動産の世界だ。風采の上がらない老人が実は区画整理組合の代表者だった例もあった。一方で来訪者の中には「地面師」と呼ばれる不動産専門の詐欺師が紛れることもある。油断のならない業務を秘書課長が引き受けていた。

「はい、分りました。」樋口はそう答えて一階の受付のあるフロアーへ向かった。

 受付カウンター前の広いロビーには数組の応接用ソファーが置かれている。やや緊張した面持ちであたりに目をやっていた第一建設社長の水野が樋口に気付いて「やあ。」と声を掛けた。年齢は五十代半ば、親しげな笑みを浮かべている。「会長はいらっしゃるかな?」

樋口は水野に好感を持てずにいた。本人の機嫌次第で周囲への態度が大きく変るのを知っていた。

「会長はおられます。…水野様、お急ぎと伺いましたがどのようなご用件でしょうか。」

「それは会長に直接話す。」

「それでは何とお伝えすれば良いか…。」

樋口がためらいをみせると水野は急に語気を強めた。

「私が会いたいと会長に伝えれば良いんだ。君が余計な事を言う必要は無い。」

水野の言葉に続いて近くのソファーから大きな声が上がった。

「時々いるんだよ、勘違いする人間が。秘書をやってると自分が偉い立場のような気がしてしまうのだろう。困ったもんだ。」

傍若無人な口振りだった。目を向けると「第一ビル管理」の社長、酒井が悠然と腰掛けていた。水野と同じくらいの年齢か。第一ビル管理もグループ傘下の会社だ。

「分りました、暫くお待ちください。」

樋口は水野に答えて奥へ引き返した。エレベーターホールへ向かう廊下にガードマンが立っていて樋口に黙礼した。受付のすぐ後ろがセキュリティルームで、指令所兼詰め所になっていた。男達が声高になったのに気付いて出て来たのだろう。樋口はエレベーターの近くまで進んで明に電話した。

「そんな予定があったかな。」と明は言った。

「いえ。しかし水野様は急用だと仰有っています。」

「用件は聞いたかね。」

「直接お話になるとのことです。」

「…そうか。分った、会おう。」

樋口は急に胸騒ぎを感じた。

「よろしいのですか。」

「えっ?」

「失礼しました、何でもありません。ではすぐに…。」

水野が何か胸に一物持っていると樋口は感じた。そして明はいつもと違う。水野に乗じられるのではないか。漠然とした不安を抱いてロビーに戻った。

「水野様、どうぞ。」

樋口の言葉に立ち上がった水野が酒井に大きく頷いてみせた。酒井は首だけを捻って向けた顔に薄笑いを浮かべた。

樋口は歩きながら唇をいつか固く結んでいた。

…酒井のアポイントも受けていない。二人が示し合わせて来たとしか思えなかった。何が目的なのか。

会長室では明が先程と同じように窓の外を見ていた。

「水野様がお見えです。」

明が振り向いて応接用のソファーを指し示した。それは一階ロビーの物とは比べものにならない豪華さだ。水野が緊張した面持ちで腰を下ろして言った。

「会長、お元気そうで何よりです。」その声がかすかにうわずり顔も紅くなっている。明を前にして完全に気圧されていた。

明はゆっくりと頷いた後「どのようなご用件ですか。」と尋ねた。

水野が早口になった。

「実はとても耳寄りな情報がありまして。これは是非会長にお伝えしなければと思いまして…。」

樋口は内心嘲笑った。ここは不動産業である。耳寄り、取って置き、掘り出し物、ピカ一、そんな言葉は毎日掃いて捨てるほど床に転がっている。

水野は明の反応を窺いながらタバコの箱を取り出した。樋口がすぐに注意した。最上階は会長室もフロアーも全て禁煙なのだ。水野の顔がさらに赤くなった。

「新たな事業計画を持って来たということですか。」

明の問いに、水野は動揺を隠して答えた。

「そうです。新しい事業計画につながると思います。」

明が怪訝な面持ちになった。水野は鞄も持たず手ぶらだった。

「今はその事業計画を持っていない、という事ですか。」

「今は、…今はありません。」

「では、事業計画ができたときに話を聞かせてください。いま聞いても私には何かを判断できそうもない。計画書と関係する資料を準備してまた来てください。」

水野は迷った末にふらふらと立ち上がった。「それではまた…。」と力なく声をこもらせた。

「水野さん。」と明が呼び止めた。

「次は必ずアポを取ってください。あなたの貴重な時間を無駄にしたくありませんから。」

水野は振り向いて何か呟いた。会長室のドアを既に開けていた樋口がそれに構わずに「どうぞ。」と退出をうながした。

後に続こうとした樋口だったが、何かに気付いてソファーのあたりまで引き返した。危惧したとおりタバコとライターがテーブルの上に置き忘れられていた。すぐにそれを持って水野の後を追った。だがエレベーターは下降していく。

樋口は隣のエレベーターを待ちながら小気味良い気分だった。秘書に尊大な態度をとった水野が、会長の前では別人のように萎縮していたと思い返した。だがエレベーターに乗り込んだあたりから樋口は違和感を覚えていた。もし水野が何かを企んでいたとしたら、会長室での態度はあまりにお粗末に思えた。かといって世間話に来たのではないはずだ。疑問を抱いたままロビーへ急いだ。

ソファーの一つに近づくと会話が漏れ聞こえた。

「ダメだな。乗って来そうもない。」水野の声だった。

「そうか。…まあ良い。他にも手はある。」酒井が応じた。

「水野様。」

樋口が声を掛けると水野はギョッとして振り向いた。

「お煙草とライターをお忘れです。」

「あ、ああそうか。」

酒井は不自然な姿勢で顔を背けている。

樋口は突然気づいた。いや、気づいた気がした。何かを企んでいるのは酒井なのだ。水野は役者だ。しかも酒井が期待したよりかなり稚拙な…。

 会長室に戻った樋口は胸の内のざわめきを押し隠して何気ない調子で明に伝えた。

「ロビーでは酒井様と同席しておられました。」

明が意外そうに振り向いた。

「こちらで落ち合う予定だったのか、それとも一緒に来られたのかは分りませんが、先程もお姿がありました。」

明は少しだけ首を傾けたが沈黙を続けた。考えているのではなく関心がない様子だった。

たまらず樋口が口を開いた。

「お二人とも妙な雰囲気でした。まるで何か企んでいるような…。」

「いったいどうしたんだね。」明が怪訝な表情を浮かべた。

樋口の顔が一瞬で赤くなった。

「会長は変だと思われませんか。何のために来られたのでしょう。目的も意図も不明です。思わせぶりなことを言ってあわよくば会長を利用するつもりだったのではないでしょうか。」

「樋口君、いったい何を言い出すのかね。」

明が困惑して咎めた。

「お二人の会話を耳に挟みました。水野様が、会長は乗ってこない、というと酒井様は、他にも手はあると仰有いました。奇妙な会話です。手がある、とはどういう意味でしょうか。」

「樋口君…。」

「お叱りを覚悟で申し上げますが、お二人の会社を調べる必要が

あると思います。」

「私は君の不安がよく分らないのだが…。」

明は樋口が人を誹謗するのをこれまで一度も聞いたことがなかった。だから当惑しながらも、その言葉を無視する気にはなれなかった。少しの間を置いて「監査役に内密の調査を依頼しよう。君の心配を取り除く。」

そう口にして穏やかに微笑んだ。

樋口は安堵したものの、同時に自身の言動が不穏当なものだったと今更ながら気づいた。思わず明の横顔を見つめると、その唇が「心配を取り除く…」と繰り返したように見えた。直後に「そうか。」と明は声に出して秘書の顔を見た。

「樋口君。女の子はどんなところへ連れて行けば喜ぶのかな。君の意見を聞きたい。教えてくれ。」

問われた樋口はその唐突さに戸惑ったか何処か不機嫌そうに答えた。

「私には解りかねます。」

「えっ?」

あらためて明を見て言った。「それは本人にお聞きになればよろしいのではありませんか。それに何処へというよりブランドのバッグ類の方が喜ばれるのでは…。」

つかの間、口を開けていた明だったが、笑いを怺えて首を振った。

「すまない。私が言ったのは保育園の女の子のことなんだが…。」

樋口はまた真っ赤になった。

「申し訳ありません。ええと…未就学の年齢ですといわゆるテーマパークは適当ではないようです。アトラクションの大部分が利用できません。では何処かというと、オーソドックスなところでは動物園か水族館でしょうか。女の子なら、季節と移動距離を考えると水族館が良いかもしれません。」

「なるほど、館内なら寒さも心配ないね。」

「臨海の水族館が車で四十分ほどの距離にございます。」

「有り難う。」明は顔を輝かせて樋口の手をとり秘書をビックリさせた。


 凜の携帯電話が着信を報せた。何気なく手に取った画面に明の名が表示されていた。凜が激しい胸の鼓動に気付くまで短い時間が必要だった。

「はい。」と明るい声で応えた。自分の声がうわずったり震えていないのに満足した。

「明です。お元気ですか。」

凜はその声をどれほど懐かしく感じたことか。思わず眼を閉じた。そしてその声の先に明がいる。

「もうすぐクリスマスですね。美風ちゃんはもう予定がありますか。」

思いがけない問いに凜は慌てた。

「いいえ、無いと思います。母からは何も聞いていないし、私は今、予定が立てられません。可哀想ですからおそらく母が考えている筈です。」

「私にひとつプランがあります。」

「プラン?」

「水族館に行きませんか。美風ちゃんと、凜さんと私の三人で。勿論お母様が一緒というのも楽しいでしょうね。」

凜は何と答えて良いかすぐには分らなかった。

明が続けた。「美風ちゃんは何度か水族館に行ったことがあるのでしょうか。」

「いいえ。…子ネコのキャラクターで有名なテーマパークに母と三人で出かけたくらいです。水族館はまだ一度もありません。」

「きっと楽しんで貰えそうですね。水族館を見学して、それから食事をしましょう。そして美風ちゃんのクリスマスプレゼントを私に選ばせてください。」

「ああ、…あの子がどんなに喜ぶか。でもそんなことをして頂いて良いのでしょうか。」

「私はあなたにお会いしたいのです。そして同じように美風ちゃんと親しくなりたいと願っています。私の希望を叶えてくれませんか。」

凜は自分の心に暖かいものが溢れてくるのを知った。娘と共々大切に思われていると感じた。

「有り難うございます。なんだかとても…幸せな気持ちです。明さんと会えるときは必ず連絡します。私からきっと電話します。クリスマスが過ぎるのは確実だけど、きっと電話します。明さん…、それで良い?」

凜の声はかすれていた。

「凜さん、電話を待っています。」明の穏やかであかるい声が聞こえた。

                  (つづく)



     

   


  女刑事物語 (9-3)    C.アイザック

 貨物船アルタベスタ号が北埠頭一号岸壁に接近していた。既にスクリューは停止している。海面を音もなく滑るように近づく。ゆっくりした動きに見えてしかしどんどん迫ってくる。船にブレーキは無い。このままでは衝突するのではないかと危ぶまれた瞬間、船首右舷のアンカーが投下された。凄まじい音と共に黒く太い鉄のチェーンがまるで大蛇のように海中に突入していく。同時にスクリューが逆回転を始めたのか船尾の海面が白く泡立った。チェーンがロックされると海底のアンカーに引っ張られて船の前進が止まった。

船体はゆっくりと向きを変え、船腹を見せた。そのままチェーンが少しずつ伸ばされて岸壁に近づく。小型貨物船だがその全長は五十メ

ートルほどもあった。

 岸壁には荷役会社の作業員が待ち構えていた。この頃になって初めて船上に人影が見えた。船首と艫(とも)に立ってそれぞれ片手でなにか振り回している。それが中空を飛んで岸壁の上に落下して跳ねた。ゴム製の錘だった。紐がついていて太いロープに繋がれている。作業員がその紐を素早く手繰っていくと船べりの開口部からロープが引き出され海面に飛沫を上げて落下した。なおも紐を手繰って海水に濡れたロープを引き上げた。輪になっているロープの先端を手にして岸壁の縁に沿って船首の先へ十メートルほど引きずり、係船柱と呼ばれる突起に掛け回した。艫でも同じ作業が行なわれている。結局四本のロープが船と岸壁を繋いだ。

 大型のクレーン車が貨物船の側に停まり、アウトリガーを延ばして荷揚げの準備にかかると埠頭は俄に賑やかになった。数台の車から十人ほどが降り立った。海運会社、税関、検疫所などの社員や職員だ。クレーンが細長いタラップを吊って船に差し渡すと、それを通って職員らが船に乗り込んだ。

 一時間ほどで入港の許可と手続きが済んだと思われたが、それ以前に大きく開け放たれたゲートから次々と大型トラックが埠頭に進入していた。ゲート脇の管理施設の職員が埠頭側の路上に立ってトラックのナンバーと運転者の名前をチェックしている。トラックの車体には「エース輸送」の文字やステッカーが貼られていた。そして毛利が予想したとおり午後から荷揚げが始まった。タイヤ止めに置かれた角材とカラースプレーで示された所定の位置にトラックが停められるとクレーンが一度に四袋の小麦を荷台に積み下ろす。二往復するだけで八トンを超える。すぐにトラックは製粉工場へ向けて発車し、次の車が停止位置につける頃にはクレーンは既に荷を吊って待っている。効率よくスムーズに荷揚げが進んだ。

 午後四時半にこの日の作業が終わった。辺りは薄暗く、冷たい風が遮るものの無い岸壁の上を吹き渡っていた。クレーン車が格納庫に収まり、作業員が次々と車で去ると辺りは波の音が風に混じるだけの寂しい風景だ。一人残された職員が大半の照明を消し、ゲートを閉ざして職場を後にすると埠頭は人影も無くその大部分が夕闇に包まれた。やがて船に掛けられたままのタラップから三人の船員が下りてきた。彼らは背伸びをしたり近くを歩きまわるなどしていたが、一人が係船柱に腰掛けてタバコを吸い始めた。その様子がわずかな明りのなかでかろうじて見える。埠頭の端の街路灯がフェンス越しに立ち並ぶ倉庫を照らし、その光が建屋の隙間から埠頭に漏れ出ていた。仄かな明りの中、甲板にも数人の船員の姿が見えた。彼らは大都会の眩い光の谷間で夜景をのんびり見物しているようだった。

「動きはないか。」

「ありません。」

明智がマイクに向かって質すとすぐに無線による返答があった。

 北埠頭の捜査態勢はすでに整っていた。都合の良いことに埠頭には警視庁の小さな施設があったのだ。その「火災事件研究所」は存在をほとんど知られていないうえ、二号岸壁の飼料用サイロ群と清掃工場の陰になって人目にもつきにくい場所にあった。今回の捜査に打って付けだと明智が指揮所に決めた。これとは別に貨物船を目の前に見る倉庫が借りられていた。上杉はここにいた。その二階の回廊を利用して窓にビデオカメラなど複数の監視用の機器が設置されている。ここで得られた影像や画像は本庁と署の通信指令室に送られ、現場の捜査員もそれを共有している。地域警察デジタル無線システムがここでも活躍していた。明智の前にも通話装置とモニタ装置が置かれていて、GPSを利用した捜査員の位置情報まで明智は把握していた。またフォークリフトの格納庫の一棟は大きな両開きのドアが終日閉じられたままで、中には捜査員と警察車両が潜んでいた。捜査本部が港中央署に移され、交機隊と本庁の捜査員の半数が待機していた。

 海上保安庁も埠頭上の倉庫一棟を使用して貨物船と乗組員を監視していた。上杉らは知らなかったが毛利は税関の調査部門と連絡をとっていて、その監視艇からアルタベスタ号に小型船が接近していないこと、漂流物の投下が認められなかったことの情報を受けていた。つまりアルタベスタ号は警視庁、海上保安庁、税関の三者によって厳しくマークされていたのだ。

この夜は何事もなく過ぎた。翌朝八時に荷揚げ作業が再開されると、埠頭の倉庫や格納庫で夜を明かした捜査員は同じ場所で仮眠をとった。

 埠頭はまた夜を迎えた。岸壁を風が吹き渡り気温が下がり続けたが捜査員らには余裕があった。真冬の張り込みには慣れている上に格納庫と倉庫の建屋の中で車両に乗り込んでいるのだ。…楽なもんだ、誰かが口にした。

 午前零時だった。上杉の携帯電話に石田に張り付いた捜査員から連絡が入った。一人で組事務所を出て埠頭方面に向かっているという。上杉はすぐに無線で明智に伝えた。

「そうか、一人か…。」と明智が小声で応えた。すぐに犯行に及ぶ可能性は少ないと感じた。

 十分ほどして指揮所に連絡が入った。「南ゲートから乗用車が進入します。ナンバーは、極東連合の石田が使用している車です。」

指揮所に緊張が走る。明智をはじめ本庁の捜査員と所轄一係の刑事達十名以上が詰めていた。凜と武田の姿もあった。連絡は水路を挟んだ陸地側の駐車場からゲートを監視している捜査員からだった。

 南ゲートは時刻に関係無くいつも開け放たれていた。荷役会社と運送業者の便宜を図るためだった。ゲートを過ぎると広々としたヤードがあり、運転席から切り離された大型トレーラーの荷台が二十台あまり停められていた。乗用車も数台みられた。これは長距離輸送に出発したトラックのドライバーの車と思われた。

「倉庫から何か見えるか。」

明智が早口で尋ねた。

倉庫の二階の窓に張り付いた捜査員が答えた。「こちらからは角度がないので…。あっ、見えました。小型乗用車一台が進入しています。…停まりました。…運転席から人が降ります。」

「石田か?」

「顔は分りませんが、背格好は石田に見えます。…駐車している車に近づきます。」

短い沈黙の後に声が続いた。「小さな明りが見えます。車の中を確かめているようです。人がいないか…あるいは車上生活者がいないか確認している様に思えます。」

「良いセンだわ。」

思わず凜が声を上げると明智が睨んだ。凜は少し肩をすくめたが気にする様子は無かった。

「車に戻りました。…こちらに向かってきます。貨物船の誰かと接触するつもりかも知れません。」

緊迫した調子の声はそのあと意外な情報を伝えた。

「車は…貨物船を素通りしました。二号岸壁の方に向かっています。」

明智が首を傾けたときに凜が小さく叫んだ。

「石田はここに来るわ。明智さんっ。」

明智はすぐに指示した。「駐車場の車は移動させる。裏の実験用のヤードに移動だ。気づかれないように注意してくれ。急げ。」

ヤードは防火壁に囲まれていて道路からは見えない場所だ。数人が慌ただしく外へ走った。

明智が続けた。「出入り口と窓の施錠を確認しろ。ブラインドは全て下ろして建物内の照明を消せ。」それからマイクに向かった。「中継車、容疑者が接近している。ドア、窓を施錠して運転席から退去、一時的に電源を落としても良い。外に音や光が漏れないように気をつけろ。」

敷地の駐車場に捜査員の車とは別に通信の中継とバックアップの為に機器を満載した箱形のトラックが停められていたのだ。

 すぐに四方が静まりかえったなか、火災事件研究所の正面玄関にひとつだけぼんやりした明りが点っていた。建物とその前庭の駐車場、そして辺りは寒々として暗い。やがて一台の車が門に近づいて停車した。そのまま動きは無い。刑事達は防犯カメラの映像を見ていた。暫くして男が車を降りた。ゆっくりと格子状の門扉に歩み寄った。顔が映る。

「石田だわ。」凜がきっぱり指摘した。

石田は駐車場に一台だけ残された中継車を見つめていた。建物に人がいなければ駐車場に車は無いはずだった。だが中継車は見た目、ごく普通のトラックだ。不自然では無かった。捜査員が固唾を呑んで見守るなか、石田は車に戻るとその場を去った。

明智は携帯電話を使って倉庫の上杉に連絡した。

「石田をやり過ごした。そちらで確認できたら教えてくれ。現在無線の中継車の電源を落としている。このままで待つ。」

「了解した。」

沈黙が続いた。石田は何処へ行ったのか。あるいは清掃工場辺りを調べているのか。

「車が接近します。」上杉からだった。「貨物船の前で停まった。石田です。」

「石田が貨物船の前で停まった。」明智が繰り返した。

捜査員の一人が中継車に電話した。「すぐに稼働してくれ。無線を使う。至急だ。」

「タラップに男が出て来た。船を下りてくる。」

「撮影しているか。」明智が口を挟んだ。

「ビデオを撮っています。…あっ、石田が車に乗った。…石田の車が去っていきます。船員とはわずかに言葉を交しただけです。」

「船員はどうしている。」

「船に戻っていく。他に動きはない。」

明智らは沈黙の中にいた。石田の行動は何を意味しているのか。…様子を見に来ただけなのか。

ゲートを監視する捜査員から連絡が入った。

「石田の車が南ゲートから出て来ました。北側の橋へ向かいます。」

数十分後に石田が自宅マンションに帰宅したことが捜査員から報告された。

 翌日正午頃にアルタベスタ号の荷揚げが終了した。午後から貨物

船への物資の補給が始められ、のんびりした雰囲気のなか午後四時に全ての作業が終わった。これも毛利が予想したとおりだった。

 そしてすぐに日は落ち、大都会の華やかなクリスマスイブとは無縁な埠頭の夜は更けていった。だがもし間近で耳を澄ませたら貨物船からときおりクリスマスソングが流れているのに気づいたかもしれない。

 午後十一時、凜が指摘した場所にトラックがさりげなく停められた。トラックは箱形の三トン車だった。その背の高い車体にはクリーニング会社の名前とマークが描かれていた。

「同行の乗用車に運転手が乗りこみました。トラックを放置して去るようです。埠頭を出たところで職質をかけますか。」陸地の捜査員が聞いた。

「その必要は無い。」明智が応えた。

「やはり今夜決行するつもりね。私と武田は倉庫に行くわ。」

凜の言葉に明智が眉をひそめた。捜査の態勢はすでに決められたことだった。格納庫の捜査員が南から、倉庫の班が側面から、指揮所の刑事達は北から犯行現場に急行して取り囲む計画だった。だが真っ先に犯人らと接触するのは倉庫の上杉たちだ。そこに一人でも多くの捜査員が必要なのは明らかだ。当然充分な配備がされている。

「お前はここにいろ。」と明智は言った。

凜は無言で明智を見つめた。

「気持ちは分るが…、」と明智が続けた。「埠頭にトイレは無いぞ。張り込み中は使用禁止だ。倉庫にひとつあるがこの寒さだ、男達も用足しで忙しいだろう。ここにいろ。トイレで悩まずに済む。」

凜は真冬の張り込みの備えをしていた。水分を控えたうえで少々の尿は吸収してしまう品を身に着けていた。だが勿論、死んでもそれを口にする気は無かった。

凜の沈黙に明智は満足した。女刑事から一本とった気がして何処か愉快な気分になっていた。


深夜零時、上杉の傍らにいた若い刑事が不意に「メリークリスマス。」と小声で囁いた。「まだ言ってなかったですよね。」

上杉が苦笑したときに捜査員から連絡が入った。石田が駐車場で数台の車と合流したという。そこは組事務所とは離れた場所だ。名義上は企業舎弟が所有する駐車場だ。

「こちらを見られたかもしれません。これ以上接近するのは控えたいですが…。」

「分った。十分な距離をとってくれ。」

上杉は慎重だった。捜査車両を石田らに見られたかもしれないという。乗用車の運転席側に男二人が座っている、それはある種の人間にとって警察ではないかと疑うに足るものだ。無理は禁物だった。

「見失っても構わん。気づかれないよう充分注意してくれ。」

上杉は念を押してから事態を明智に報告し、さらに倉庫内の捜査員に声を掛けた。

「装備を確認しよう。防弾ベストを着用しているか。間もなくヤツらが来るぞ。メンが割れていない者はマスクを使え。」

男達の緊張感が高まった。

 一時間ほどして黒い車が深夜の埠頭に進入した。ヘッドライトを減光してゆっくりと岸壁を移動する。貨物船の側を通過して埠頭の北端に向かった。二号岸壁に近づくと飼料用サイロの周囲、火災事件研究所、清掃工場を取り巻く道路を静かに回った。やがて貨物船の近く、閉じられたゲートの辺りまで戻ると停車してライトを消した。黒い車の形がかろうじて見えるほどの明りしか届いていない。ドアを開けて一人の男が降り立った。ゲートの脇の管理人詰め所に歩み寄り、小さな明りを手に窓から中を窺った。すぐに車に戻り、エンジンを掛けたがそのまま動かない。ヘッドライトライトは暗く眠ったままだ。時間がゆっくり過ぎていった。

「こちら南ゲートです、車が進入します。乗用車と大型のバン。乗用車二台、バン二台。」

「来たなっ。」明智が叫んだ。

車列は真っ直ぐに貨物船の停泊場所に向かった。ゲート近くに停まっていた黒い車がヘッドライトを暗がりの中で点滅させ、岸壁の方へ動き始めた。やがて車は全てアルタベスタ号の側に停止した。男達が降りる。甲板に船員の姿が見えた。一人の男がそれへ手を振った。

「石田だ。」

倉庫の窓に張り付いた捜査員が喚いた。

すぐに別の船員がタラップに現れた。岸壁に降りてくる。石田と握手して何か話しているようだ。船上では小型クレーンのブームが立ち上がりつつあった。石田が笑いながら船員の肩を叩いた。すぐにクレーンが荷をつり上げた。岸壁の男達が見上げる中、ブームが旋回して荷を下ろそうとするがギリギリ届くかどうか。クレーンの動きが止まった。別の船員が綱状の物を手に降りてきた。それをぶら下がったままの荷に繋ぐ。二人がかりで陸側に引くかたちで荷が下りた。ワイヤーで編まれたネットが広げられると数多くの木箱が重なっているのが分った。石田が手にした小さな光がそのうえを左右に動き回っている。男達が全員、貨物の周りに集まった。

「出動用意、出動用意だ。」

上杉の声を受けて明智が全捜査員に指示を出した。格納庫の扉が暗

がりの中、音も無く左右に開いた。火災研究所の門が開けられ捜査車両が薄暗い路上に並んだ。

上杉が倉庫の捜査員に「エンジンを始動。」と指示した。

十台のエンジンが一斉にかすれ声を上げた。

「どうだ。」上杉が二階の回廊を見上げて声を掛けた。

「気づいてはいないようです。」

「よし、突入するぞ。扉を開けろ。」

倉庫の古びた扉が開くと寒風が唸りをあげて一気に流れ込んだ。上杉は振り向いて発進の準備ができていることを確かめた。急いで車に乗り込むと力強く声を上げた。

「行くぞっ、全車犯行現場に急行せよ。突入だっ。」

倉庫から岸壁までは約百メートル。刑事達の乗った車が次々と倉庫から飛び出した。先行する数台がヘッドライトをハイビームで照射すると、眩い光が遠い距離を高く瞬時に飛んで組員らの姿や顔を白く浮かび上がらせた。同時に赤色灯を煌めかせサイレンが唸り、捜査車両は猛スピードで岸壁に走った。組員の大半は光に目が眩んだのかその場に立ち尽くし、なかには逃げようとして車に駆け寄る者もいたが、南ゲートの方向からも多数の車がライトを輝かせて迫っていた。二号岸壁の方角にもライトと赤色灯が次々と現れた。船員二人が慌ててタラップを駆け上がった。

 倉庫から急襲した刑事達が素早く車を降り、組員を取り囲んで岸壁に散らばった。

「全員動くなっ。警察だ。」上杉が大声で叫んだ。

「おとなしくしろ。」刑事達が組員に迫った。

直後にやや離れた場所に次々と車が停まり海上保安官の一団が貨物船に走り寄った。彼らはまるで軍の特殊部隊のような黒い装備姿でタラップを駆け上がった。

「コーストガードだっ。」と先頭の保安官が大声を上げた。

その時突然、海上から船の警笛が耳に突き刺さるように鳴り響いた。三十メートル級巡視艇「あさぎり」が貨物船の間近に出現していた。数機のサーチライトが一斉に輝き、煌々とアルタベスタ号の甲板や船体を照らした。そしてスピーカーが大音量で落ち着いた声を流した。英語だった。

「ジャパン コーストガードだ。船内の者は全員、隊員の指示に従え。」次はスペイン語で繰り返した。

さらに洋上から聞こえた爆音が大きく響きわたり、海上保安庁のヘリコプターがまたたく間に貨物船の真上に達した。空中にホバリングして船上をライトで照らした。女の声が空から降った。

「こちらはJapan coastguardです。船上の者は隊員の指示に従ってください。」

 岸壁の上では刑事が木箱の中を調べていた。大声で上杉に言った。

「拳銃を確認しました。」

「よし、全員逮捕だ。」その上杉の声はヘリの爆音にかき消された。拳を振り上げて叫んだ。「全員逮捕。逮捕だっ。」

組員らは素早く身柄を確保されたものの数人が騒いでいた。「手を放せ、何をしやがる。」怒声がヘリの爆音に混じって聞こえた。

急いで車を降りた凜だったが、とりあえず自分の出番は無いと感じた。ヘリのローターが巻き起こす風が顔を叩くと、凜は上空を見上げた。何かに気づいたようにあちこちに目を向けた。エンジンの響きが重なって聞こえたのだ。次の瞬間、清掃工場の高い屋根を越えて警視庁のヘリが現れた。

「来たっ!」凜が叫んだ。

ヘリは埠頭の上空を飛び眩しい光で地上を照らした。その光の中に刑事と組員の姿が浮かぶ。組員達はすでに観念しているようだ。

大満足の凜の耳に明智の無線が飛び込んだ。

「朝倉刑事、ゲートを解放してくれ。レッカー車と運搬車をこちらに向かわせた。」

「分ったわ。」

ゲートは鍵が掛けられていなかった。武田が大声を上げて押し開けると、そこからパトカーが赤色灯を煌めかせて次々と橋を渡ってくるのが見えた。パトカーは埠頭の道路に等間隔で停車し、南ゲートは封鎖された。組員が置いたクリーニング会社のトラックにもパトカーが張り付いた。さらに埠頭を通過する道路の上下線で一斉検問が行なわれた。捜査と取り締まりに動員された警察官約百五十人という大捜査陣だった。

 凜は上杉に一声掛けたくて近づいたが、側に停められた中継車から明智が降りてくるのに気づいて口を結んだ。

「署へ連行してくれ。」と明智が上杉に指示した。

逮捕された組員は十人。多数の刑事達が彼らを車へ乗せた。凜の隣にいつの間にか明智が立っていた。すぐ前を石田の腕を掴んだ上杉が誇らしげに顔を上げて通りすぎる。その時、石田が凜に気づいて足を止めた。

「石田っ。」凜が思わず声を掛けた。

「なぜこんなことをする。もう暴力団はやめろ。」

一瞬の沈黙の後、石田が口を開いた。

「女刑事さんよ、あんたには関係無えよ。」

うそぶいた石田の眼にはしかし怒りや憎しみの色は無かった。

「行くぞ。」太い声で上杉がうながした。

去って行くのを見ながら凜が明智に言った。

「あいつならきっと更生できるのに。…学歴もあり、外国語能力もあるんだ。」

明智は黙っていた。暴力団を抜けるのは容易いことでは無い。だがそれを女刑事に伝えるのは気が進まなかった。


 明は会長室でテレビニュースを見ていた。暴力団による拳銃密輸入事件は何処の局もトップニュースで報じた。警視庁が押収した拳銃は二百五十丁、暴力団員十人を逮捕した。同時に海上保安庁によって密輸犯グループ四人と船長が検挙されたという。

樋口が驚きの声を上げた。

「港中央署といえば、朝倉様のところです。大変な事件が起きたのですね…。ご無事なのでしょうか。」

明は電話を手にした。凜は自分から連絡するといっていたが、それを待っている気にはなれなかった。それに事件が解決したのなら休みがとれるはずだと考えた。

                   (つづく)

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