第8話

「女刑事物語 (8-1)」  C.アイザック

 翌日、午後になって上杉が一係のあたりをうろうろした。凜は書類を片付けていた。刑事と書類はそぐわない取り合わせのようだがそこは公務員である、うんざりするほどの書類を書かなければならなかった。

上杉は黒田の視線を気にしながら凜に声をかけた。

「ちょっと来てくれ。」

凜が上杉を見ると、一度頷いてどんどん歩いて行く。仕方なくその後を追った。結局上杉の事務室にたどり着いた。

「何か分った?」

凜が弾む声で尋ねた。

「うむ…、これなんだが…。」

上杉は引き出しからA四ほどの大きさの紙二枚を取り出した。それは北埠頭一号岸壁に入港する予定の船のリストだった。

「入港予定日、船名、船籍、総トン数、貨物積載トン数、貨物の種類名称、出港地、乗組員数、船長の氏名、所有会社名、使用海運会社名。」

必要なものは全て記載されていると考えられた。

「凄い、上杉さん。何処でこれを?」

「税関だ。」 と上杉は素っ気なく言った。「つまり貨物船の入港が予定された時点で海運会社が税関に報告することになっているらしい。この資料は税関の支所で手に入れた。だが…。」 上杉は浮かぬ顔で続けた。「結局のところ何も分らん。見当も付かんのだ。」

…たしかにそうだ、と凜は思った。船名を眺めていて何かが分るはずも無かった。上杉に手間をかけさせてしまった…。申し訳ない気がした。

ふと凜の目が 「エース輸送」の文字にとまった。貨物船の所有会社名だ。…これって樋口さんが口にした会社かしら。そうだとしたら明さんの会社の船? 「第三エース丸」とあった。突然凜の胸が鳴った。同時に明の顔を想い浮かべていた。理由も無く喜びを感じていた。明につながるものを発見した事が嬉しくてたまらなかった。いつか頬が赤く上気していた。

上杉はリストに視線を落としたままで言った。

「向こう一ヶ月に入港予定の船は今のところ十五隻。想像したより随分少ない気がするが、つまりはコンテナ船が主流という事なのだろう。」 上杉はチラリと凜を見た。またすぐに視線を戻し、指でリストをなぞりながら 「出港地で見るとフィリピンが一、オーストラリア三、アメリカ六、中国が五隻だ。」

そう説明して椅子を立った。そのまま机の側をゆっくり歩いた。

「俺は…、石田がマレーシアに立ち寄ったことが気になっている。あそこは中国系の国民が多いことで知られている。石田はあるいは中国系の犯罪

組織と接触を持ったのかもしれない。そうすると中国からの船も無視出来ない。中国船五隻とアメリカ船六隻、合計で十一隻だ。」

上杉は凜を見つめた。 「数が多すぎる。南埠頭を放り投げれば別だが。」

二人は黙って顔を見合わせた。

 凜が口を開いた。 「海上保安庁はどうかしら。」

「海上保安庁?」

「そう、あの人達は船が専門でしょう。入港予定の貨物船について何か情報を持っているかも知れないわ。」

「う…む。」 上杉は乗り気の無い声を出した。

「上杉さん、可能性はゼロじゃないわ。」

「う…ん、まあそうだな。」

凜は声を励ました。 「元気出して。海上保安庁がダメでも上杉さんも言うとおり石田の動きから何らかの判断が出来るはずよ。…密輸品の押収と主犯の逮捕、四係はそれをやって見せるわ。そうでしょう?」

上杉に初めて微笑が浮かんだ。

「お前の言うとおりだ。チャカの押収と石田の逮捕は必ずやってみせる。」

大きく厚い唇を結んだ。

「そうこなくっちゃ。きっと一係が応援に動くわ。」

「よし、とりあえず海上保安庁だな。」

「うんっ。」

凜と上杉はいつの間にか互いに親しみを覚えるほどの間柄になっていたが、周りの見方は違った。

「お凜と上杉さんがかなり激しくやり合ったらしいな。」

一係の刑事が署内を小声で話しながら歩いていた。

「お凜が啖呵を切ったらしい。あんたの言いたいのはそれだけかって。これに上杉係長が凄い剣幕でバカ女め、と応じたというんだ。」

「原因は何だ。」

「解らんのだ。四係の若いのに聞いたが、だんまりを決め込んでいる。」「同じ刑事課でいがみ合うというのは困るな…。」

「今や二人は犬猿の仲らしい。」

突然、刑事達は足を止めた。自動販売機の前に刑事課長の北条が立っていることに気づいたのだ。慌てて黙礼するとそそくさとその場を去った。

 北条という人物は理解し難い変わり者だと受け止められていた。実際に変わっていた。北条は東大卒だ。国家公務員の上級試験に合格して警察庁に入庁したエリートだった。そのエリートが何故所轄署にいるのか誰もが理解に苦しんだ。本来なら本庁に出向しているはずだと思われた。それが普通だった。所轄署への出向は本人の強い希望によると伝えられていたが誰もが違和感を消せずにいた。そして北条の態度がさらに周りを困惑させた。本人が望んだはずにもかかわらず署内の誰とも打ち解けようとしないのだ。刑事達の話しに積極的に加わろうとしなかった。逆に誰かが話しかけても何か他のことを考えているのかすぐにはそれと気付かないことも度々あった。まるで自分がこの場とは無関係な人間であると考えているような印象を与えていた。

「要するに変わり者なのさ。」 結局、大勢の意見がそこへ落ち着いた。「一年もすればまた警察庁へ異動だろう。あたらず、触らずさ。」

 その北条は紙コップ入りのホットコーヒーを買ったところだった。取り出した紙コップが予想より熱かったのですぐ目の前のテーブルに置いた。粗末な長椅子に腰を下ろした。課長職とはいえまだ二十八歳の若さだった。しばらくぼんやりと紙コップを見ていたが、ふと 「犬と猿か…」と洩らした。それから少し首を傾けると 「強いて言えば、竜宮城の乙姫とアンコウという感じだけど…。」 とまた小さく呟いた。

 退出間際の凜を捉まえて、上杉はホッとした表情を浮かべた。凜の姿を探していたのだ。

「明日、朝イチで海上保安庁を訪ねる。」 早口で言ったあと 「お前にも来て欲しいんだ。」と頼んだ。

「えっ?」

凜が戸惑いを見せると、上杉は髪の短い頭を搔いた。

「俺はほら…、マル暴が随分永い。暴力団ばかり相手にしてきた。だから普通の人間が相手だと話すのが苦手でな。交渉ごとも…自信がない。」

「俺だってそういうの得意って訳じゃ無いけど…。」

「いいんだ。女が混じるだけで場の雰囲気も変る。それにお前は美人だし…。」

「分った、行くよっ。」 凜の顔が少し赤くなっていた。美人と言われたのが嬉しかったのだ。

ところが上杉は 「そうか。」 と満足したものの凜の顔を不思議そうに見た。本人が言うようにやはりマル暴が永すぎたようだった。


 ここ数日、凜の帰宅時間が早かったせいか、一緒に夕飯を食べようと母と娘が待ち構えていた。

「お帰り。」 キッチンから香織の明るい声がした。

「あら、待っててくれたの?」

「どうする。お風呂にするかい。」

「ううん、ご飯にしましょう。」 美風が腹を空かせていると思った、

その美風が 「お帰り。」 と香織を真似て大人びた物言いをした。

「ただいま、美風。」 と応じてから 「お帰りなさい、でしょう。」 小声でたしなめた。

 キッチンには甘い味噌の匂いが漂っていた。香織の得意な料理の一つ鯖(サバ)の味噌煮だとすぐに分った。

「ああ良い匂い…。」 凜が軽く目を閉じて鼻先を上向かせた。

「京都の白味噌を手に入れたからね。」 と香織が自慢げに顔を輝かせた。

 香織が料理を皿に移すのを待ちかねて美風がいつの間にか鍋の側に近づいていた。

「美風、いま持ってくからテーブルにいなさい。」

香織が苦笑交じりに言うと 「うんっ。」と元気よく返事したものの、結局香織が手にした大ぶりの皿と並んでテーブルに着いた。凜が隣から両手で掴んだ椅子によじ登り 「ああ良い匂い…。」と今度は母親の言葉を真似て軽く目を閉じた。

 珍しく家族の揃った夕食が始まった。

…考えてみれば、美風が食事する様子をあまり見たことが無い、凜はそう思った。切なさの交じった愛しい気持ちを抱いて何度も娘を見た。美風は時々その視線に気付いて可愛らしい笑顔を母親に向けた。

 香織は料理が上手だった。白味噌の甘さには何の雑味も無くすがすがしい香りがあった。昆布によるダシでサバを煮て、白味噌を同じダシとみりんで溶いたものを注いで一気に仕上げるのである。サバの身は信じがたいほど柔らかく、白味噌の甘さをまとって口の中で溶けていくようだった。

「お母さん、とっても美味しいわ。」

「脂がのってるからね。この時期、魚が美味しいよ。」

それから香織はすまし汁を少し口にした後で凜に言った。

「あと十日もすればクリスマスだね。…どうだね、美風をどこか連れてってやれば?」

「今は、予定は立てられないわ。」

凜が小さな声で答えると、香織は短い沈黙のあとで 「可哀想じゃないか。」 と責めた。

何も言わなかったが凜にしてみれば香織はルール違反だった。美風にかかわる予定については前もって二人で話し、納得したうえで初めて美風の前で口にする、そう決めていたはずだった。

 美風が顔を上げた。凜は咄嗟にすましの椀の中から小さな白く丸い麩を箸で摘まみ上げた。それには赤と青の細い線で模様が描かれていた。

「ほら美風、手鞠だよ。可愛いね…。」

美風はチラリと丸い麩を見た。味噌煮の皿をテーブルの上で抱えたまま 「うふふふ。」 と楽しそうに笑った。

「美風、美味しいかい。」 香織が声をかけた。

「うん。」

「そうだろう。このお魚はね、マグロの仲間なんだよ。」

「マグロ?」 と美風が繰り返した。

「そうだよ。マグロと一緒だから美味しいはずだよね。」

「お母さん、サバだわ。」 凜が控えめに指摘した。

「いいんだよ。マグロの方が景気が良いじゃないか。」

凜は自分がクリスマスの予定を何も考えていないと知って香織が腹を立てているのだと感じた。

果して香織がことさらに明るい声で美風に話しかけた。

「美風、クリスマスはお祖母ちゃんとデパートへ行こうか。綺麗なお洋服を買ってあげるよ。」

「うん。」

凜は黙っていた。先月ダウンのハーフコートを買ったばかりだと考えた。

香織が続けた。

「フードの付いた暖かい上着なんか良さそうだね。きっと美風に似合う可愛いのがあるよ。」

突然、凜が口を挟んだ。

「ダメよお母さん。美風が上がる小学校ではフード付きの上着は着用禁止なのよ。」

「えっ? なぜそんな…。」

「子供たちがふざけあったときに、フード付きだと首を怪我する危険が高いんだって。」

「そんなバカな。それじゃあマフラーも巻けないって事になるよ。」

「そうよ、マフラーも原則使用禁止よ。」

「えっ? 凜、それは本当なのかい?」

あまりに意外だったのか香織が心細そうに聞いた。

「保育園のお母さん達がそう言ってたわ。小学生の上の子がいるお母さんの言うことだから確かよ。」

「それじゃあ…、それじゃあ子供が風邪を引いても良いってのかい?誰がそんなことを決めたんだい。」 香織は怒りをにじませた。

「マフラーの場合は…」 と凜が説明した。「とくに風が強いとか、子供が風邪気味だとかの理由があればオーケーみたい。でも学校に着いたらすぐにたたんで教室の棚に下校までしまっておくんだって。」

「ふん…、変な学校だよ。」 そう決めつけたあとも気が済まなかったのか「早く食べ終わってお風呂に入りな。熱いお湯を足さないとそれこそ風邪を引いても知らないよ。」 まるで叱るように凜に言った。


 香織が言ったように風呂の湯は冷めかけていた。凜は慌てて湯口のコックを回した。

「クリスマスか…。」

バスタブの中の湯がだんだん熱くなるのを感じながら、凜は街中で見かけるイルミネーションの色や形、細やかで美しい輝きを想い浮かべていた。するとそれはすぐに明の笑顔に変った。あの地中海料理の店の前で凜を待っていたときの笑顔だ。凜は脳裏に浮かんだその笑顔に呟いた。

「あなたはもう、電話をかけてくることはないのかしら…。」

しかしそれは凜自身が望んだはずだった。両手で掬った湯の表面が照明に揺れて光るのを眺めた。それから顔を何度も洗った。

 洗面所の鏡の前でドライヤーを使い手早く髪を乾かした。用意したパジャマを着て寝室に入ったとたん、凜は噴出しそうになった。ベッドの布団が一カ所だけ丸く膨らんでいた。美風に違いなかった。

 凜がベッドの端にわざと乱暴に腰を下ろすと、布団の中から 「くっ、くっ…。」という笑い声が聞こえた。

「あれえ~。」

凜が大袈裟に驚くと、美風は自ら布団を跳ね上げて 「ばあ~っ。」と姿を現した。顔が真っ赤になっていた。

「ああびっくりした。びっくりしたわ美風。」

凜が抱きしめると体を母親に預けて短く笑った。そして息を整えながら 「ママ…。」と呼んだ。

「なあに?」

だが美風は何も言わない。小さな声でまた 「ママ…。」と呼び掛けた。

今度は凜も無言のまま娘の体を優しくさすった。

 暫くして母親を仰ぐと 「ママ、サンタさんはお家に来てくれるかしら。」と尋ねた。不意を突かれて凜は慌てた。

「そうね…、美風が良い子でいたらね。」

「良い子って?」

「お祖母ちゃんや先生の言うことをよく聞いてお友達と仲良くすることよ。」

「そうしたらサンタさんは来る?」

「ええ、きっと。」

すると美風が 「ママは本物のサンタさんと会ったの?」と問いかけて凜を再び慌てさせた。

「えっ?…。」

「あのね、商店街のサンタさんは本物じゃないってリノちゃんが言ってた。アルバイトなんだって。ママは本物のサンタさんと会ったの?」

「いいえ、サンタさんに会った事は無いわ…。」

凜の答えに美風は口をつぐんで不安そうに身じろいだ。母親を見つめていた。

「美風、サンタさんはきっと来てくれるけど、お家の人が一人でも起きているとサンタさんは帰っちゃうのよ。だからママはサンタさんと会ったことはないけど、朝起きると必ずプレゼントが置いてあったわ。」

美風は顔を輝かせた。

「サンタさんに会えなくてもいいわ。プレゼントが貰えるのよ…。」

凜は娘の現金な様子に笑いを怺えながら聞いた。

「美風の欲しいのは何かしら。サンタさんに教えた方が良いわ。」

「クマさんのお人形よ。とっても可愛いの。リュックに入れて一緒に保育園に行くのよ。フワフワしてるのが嬉しいわ。」

凜は驚いた。クマの縫いぐるみ、それはかつて凜が望んで父親からプレゼントされたものと同じものなのか。

「ねえ美風、そのクマのお人形さんはお祖母ちゃんと話して決めたの?」

美風は困惑していた。

「お祖母ちゃんに言わなきゃだめなの?」

凜は思い過ごしに気付いて急いで笑顔を見せた。

「ああ、そんなことはないわ。良いのよ。」

「ミツバチと仲良しのクマさんなの。とっても可愛いのよ。」

凜が尋ねた。 「そのクマさんはどんな色をしているの?」

美風はきょとんとしていた。

「黒いクマさんなの?」

「違うわ。黒くなんかない。」

「じゃあ茶色?」

「ママ知らないの? 蜂蜜の好きなクマさんよ。」

凜は気付いた。アニメのキャラクターのことなのだ。

「分ったわ美風。サンタさんがきっとプレゼントしてくれるわ。」

美風は安心して笑みを浮かべながら言った。 「ママ、クリスマスって、好きよ。」 眼を輝かせていた。

凜は美風を落ち着かせる必要があると感じた。

「そろそろおやすみしようか。」

「ママと一緒におやすみする。」 美風は宣言した。

並んで横になった。美風の小さな体をすぐそばに感じて凜は幸せだった。その体を軽く抱いた。

「ママ、サンタさんは本当にお空を飛んでくるの?」

天井を見上げたまま美風がそう問いかけた。

「クリスマスの夜にトナカイさん達と空を飛んでいる絵をよく見るわ。」

「美風も見たことがある。黄色いお星さまもあったわ。いいな…、俺もトナカイさんとお空を飛んでみたい。でもサンタさんしか橇に乗れないのだと思う。」

凜は突然気付いて少なからず衝撃を受けた。「美風、今何と言ったの?」 上体を起こして娘の顔を見つめた。「今、“俺”と言ったよね。」

美風はポカンと口を開けていた。

凜は自分の慌てぶりを打ち消そうと口調をあらためて、優しく話しかけた。

「美風、女の子が “俺”なんて言ったらおかしいわ。“俺”なんて言葉はもう使わないで。美風のような可愛い子には少しも似合わない言葉よ。わかった?」

わかった? と問われて美風は 「うん。」と答えたが何の事か分っていないだろうと思われた。“俺”というのもおそらく無意識のうちに出たものだろう。板垣の言葉が思い出された。 「お前は自分を指して俺などと言うがそれは絶対に改めろ…。」

…板垣のおいちゃんの言うとおりだ、と凜は思った。きっと美風の前で知らずに口にしていたに違いない。凜は決心した。“俺”はやめる。これからは上品にいかなくちゃ。美風のためにも…。そう自分に言い聞かせたが、我ながら自信が持てなかった。

 香織がそっと顔をのぞかせた。

「もう寝たかい?」

美風は眼を開けてはいたがぼんやりと一点を見つめている。

「今寝るわ。」

凜が小さく答えるとまるでその言葉を待っていたように眼を閉じた。凜は驚くと同時におかしかった。

「たった今寝ちゃったわ。」

香織が凜の表情につられて笑みを浮かべながら近づいた。

「きっと楽しい夢をみるんだよ。」

「お母さん、今夜はこの子と一緒に寝るわ。」

凜が小さな声で言うと香織は少し不安そうな顔をした。

「ベッドから落ちゃしないかい?」

「後で移るからお母さんはここで寝てよ。」

「それなら安心だね。」

二人で暫く美風の寝顔を見ていた。

「お前の小さい頃にそっくりだよ。」 と香織がささやいた。

「…お母さん、コーヒーでも飲まない?」 凜が誘ってキッチンへ移動した。

インスタントコーヒーの準備にかかると 「薄くしておくれ。」 と香織が頼んだ。

そのカップを香織の前に置きながら凜が遠慮がちに言った。

「お母さん、美風がクマの縫いぐるみが欲しいんだって。」

「えっ?」

「クリスマスプレゼントよ。リュックに入る小さいのがいいんだって。」

香織が頷いた。 「買っておくよ。」

「黄色に近い明るい色のクマさんよ。蜂蜜が好きなんだって。」

凜が念を押した。

「心配要らないよ。」 と香織が言った。「私が知らなくても店員さんの方で百も承知だよ。」

凜は笑いながら 「お願いします。」と頭を下げた。

 やがて凜がコーヒーカップに視線を落として静かに口を開いた。

「そういえば小さなクマの縫いぐるみをお父さんに貰ったわ。焦げ茶色のクマ。」 ふと遠くを見た。

「プラスチックの小さな目と、首に赤いリボンがあったわ。凄く気に入ってランドセルに付けようと思った…。ねえお母さん、」 と顔を上げた。「あのクマどうしちゃったのかしら。小学校に持って行った記憶が無いわ。」

香織は当時を思い出したのか寂しげな色を浮かべた。

「そうだよ。お前はクマがいないと騒いでね…。きっと何処かに忘れてきちゃったんだよ。お父さんの葬式のあと、田舎のお家とお墓に行っただろ。それとも警察官住宅を出るときか。どっちも探して貰ったんだけど見つからなかった。でもこっちで無くなるはずないんだ。お祖父ちゃんはそういうとこはしっかり見る人だったからね。…残念な事をしたよ。お前にとってお父さんの思い出の品だったのにね。」


 凜は娘の体が驚くほど暖かいことに今更ながら気付いた。小さな体に尊い生命力が輝いていると感じられるのが嬉しくて、美風の柔らかく赤く上気した頬にそっとキスをした。凜は幸せだった。全て母に任せっきりでいることに目をつむって、今はその甘い果実だけを味わっていた。ウットリと娘の寝顔を見つめた。

 それから大きな照明を消して仰臥した。仄暗い天井を見ながら意味もな

く吐息を漏らした。美風の暖かい体温が伝わってくる。満足で静かな時間が過ぎていくが眠くはならない。コーヒーのせいだろうと僅かに後悔した。そしていつの間にか父親に貰ったクマの縫いぐるみを想い浮かべていた。

 それは父の片方の掌に載って凜の前に差し出された。古ぼけたコートの袖が冷たい外気をまとっていた。だがその腕を伸ばした父の顔も表情も記憶になかった。「お父さん…。」 と胸の内で呟いた。

 凜にとって父の思い出は寂しいものだった。はっきりとした父の姿を記憶に刻むには幼すぎた。その上父親は凜が目覚める前に出勤し、眠った後に帰宅した。たまに昼間、泥のように眠っている父を見かけた。「起こしちゃ可哀想だよ。」 と母が注意した。その枕許に座って無精ひげの伸びた顔を見た記憶がポツンとあった。やがて父が永久に帰って来ないのだと知ったとき、父の記憶が僅かしか無いことが悲しかった。いつか凜は警察官を志していたが、板垣の影響だけでなく、そこに父親の姿を探し求めたのかもしれなかった。

 凜はその希望を実現した。警察学校を修了して交番勤務になった。十九歳だった。飛び跳ねそうなほど張り切っていた。勤務は一昼夜二十四時間だ。そして勤務明け、その翌日が休日となる。これが判で押したように繰り返される。盆も正月も無関係だ。結局三日間のうち一日だけ勤務する訳だが、勤務した二十四時間を三日間で割ると八時間になる。決して楽なものでは無かった。さらに交替の引き継ぎと書類に三時間ほど取られる。凜は先輩達が二十七時間勤務だと割り切っているように感じた。凜もそれに倣ったがとくに不満は無かった。交番勤務は地域住民の日常と接している。警察官にとって最前線だと自分を鼓舞した。充実感があった。一方で勤務形態に慣れるまでは小さな失敗もあった。勤務明けに疲労のあまり熟睡して深夜に目覚めた。狂った睡眠のサイクルが翌日まで影響した。勤務の前夜にかかわらず眠れないのだ。朝が来ると二十七時間勤務が待っている。焦れば焦るほど眠れなかった。

 余裕が出来てくると休日を惜しんで署の柔道場に通った。男達に混じって体を鍛えた。凜はインターハイで準優勝の経験があった。小柄な男を探して乱取りを頼み込む。こっぴどく投げられた。それでも組み付いていくとまた畳に叩きつけられた。高校柔道とは違った。相手は男である。歯が立たなかった。

「大丈夫か?」 と心配そうに声を掛けられると悔しさで頭に血が上った。

「大丈夫に決まってるだろ。」 と叫んだ。

そのうちに簡単には投げられなくなった。勝てないが負けてもいないとひそかに自慢したが負け惜しみのようで釈然としないのは否めなかった

 やがて父の事件を調べた。勤務明けの仮眠後に関係資料に目を通し、公判記録を何度も読んだ。事件の全容を知ると同時に父が哀れでならなかった。犯人に激しい怒りと灼けるような憎しみを感じた。そんな日は夜中に目覚めることがあった。そして背中にびっしりと汗を搔いているのに気づくのだった。

 念願の刑事になったときは嬉しくてたまらなかった。一瞬父と一緒に仕事が出来るかのように錯覚したほどだった。だが刑事の仕事は決して楽しいものでは無かった。交番勤務と違ってハナから犯罪者が相手だ。

容疑者の逮捕に至ったとき安堵と喜びがあった。だがそれに続く取り調べと供述で明らかになる身勝手な犯行の動機、そして被害者にとって苛烈で陰惨な犯行の経緯を知ると凜の喜びは霧のように消え失せてしまった。残酷で愚かな醜い現実に向き合わなければならない。心が沈んだ。そんなときに凜は銃撃事件を経験したのだ。

 松永という五十なかばのベテラン刑事とコンビを組んだ。刑事課の最古参は蛭沢という男だったが松永は一係ではそれに次ぐ古株だった。頭が銀髪で実年齢より老けて見えた。生真面目な性格で何処か平凡で心安い

雰囲気を持っていたが地道な捜査に努力を惜しまなかった。凜は松永のそんな姿を知って尊敬の念を抱いた。そして半年が過ぎた頃、管内で強盗事件が発生した。

 人気の無い住宅街とはいえ午前中の大胆な犯行だった。被害者は中年の信用金庫の職員。彼は奪われたバッグを取り戻そうと男を二十メートルほど追ったところで逆に刃物で刺されて重傷を負った。直後に通行人が被害者を発見、救急車を呼んでいる。被害額は約百万円。これは全国的に報道され強盗致傷、殺人未遂事件として注目を集めた。

現場の捜査が行なわれたが、複数の血痕が認められるものの凶器を含む遺留物は発見されず、靴跡の採取も困難と思えた。病院で緊急の手術を受けた被害者に面会出来たのは事件発生後六時間を過ぎてからだった。聴取の時間はごく限られたものだったが、被害者の証言から犯人の着衣の特徴が明らかになった。紺のキャップに白いマスク、白色のジャージのような上着の下に黒いハイネックの薄物だったことが伝えられた。奪われたバッグは黒色。すぐにイラスト入りのビラが作られた。また犯人が逃走した方向は曲折があるものの私鉄駅に至ると考えられた。電車を利用して移動したと推測できた。このため刑事達は駅構内と周辺の夥しい数の防犯カメラを調べることになった。勿論犯人が電車を利用しなかった可能性はあった。こちらは二班の刑事が担当した。駅を無視して逃走方向に直線的に、かつ扇形にその足取りを追った。これも防犯カメラが頼りだった。また交番と地域課の警察官が総出でビラを配って目撃情報を求めた。素早い対応だった。こうした状況にあって凜と松永は街頭の防犯カメラをチェックしている最中にその男と遭遇した。             (つづく)



        「女刑事物語(8-2)」       C.アイザック

すぐ駅ビルに突き当たる人通りの多い場所だ。車道側にバス停がいくつも並んでいた。男は紺のキャップを目深に被りグレーのシャツを着て縦長のバッグを片手に抱えていた。周囲に落ち尽き無く目をやって歩いていたが、急に立ちどまって前方を注視した。そして回れ右をしてもと来た方へ戻り始めた。その行動はたまたま居合わせた二人の刑事に違和感を覚えさせた。男が目を凝らしたあたりを見るとそこには制服警官数人がビラを配っている姿があった。刑事達は咄嗟に男の後に続こうとしたが折悪しくバスから大勢の乗客が降りてきていた。男との間に人垣が出来てしまった。思うように進めずに苛立った凜がつい男に声を掛けた。

「待ってください。…ちょっと待って。」

男は一瞬体をこわばらせたが立ち止まることなくさらに足を速めた。刑事達が人波をかき分けている間に男は走って横断歩道を渡っていく。すでにその信号は赤だった。

車の流れに遮られた処で 「済みません。」 と凜が松永に詫びた。男の姿は行き交う人の陰に消えていた。

「何だったんだろうな。」 と松永は首を傾げた。

 念のため男が去ったと思われる方向を探索した。交差点二つを過ぎてもその姿は見当たらなかった。

「戻ろうか。」 と松永が言った。「初動捜査に影響が出る。」

凜は諦めなかった。男が逃亡したのは明らかだった。紺色の帽子も気になった。

「犯罪に関わっている可能性が高いわ。もしかすると強盗事件と関係があるかも知れない。もう少し探したいけど。」

松永は黙って頷いた。

 凜は直線的に駅から遠ざかるルートを進んだ。紺色のキャップと特徴的な縦長のバッグが目印だ。だが何のあてもなく都会の中で一人の男を探し出すのはほとんど不可能と思えた。しかし足は止めなかった。

 やがて高等学校の正門と校舎が見えた。駅からかなり遠くまで来ている。通行人の数が減っていた。フェンスに囲まれたグラウンドを過ぎると、学校の真裏あたりは低層の住宅が並んでいた。道路が細く入り組んでいる。人通りはほとんど無く、進入禁止と一方通行の道路標識が目立った。まるで辺りだけ都会から取り残された印象だった。

「もう、良いだろう。」 と松永が言った。

「うん。」 凜も今度は素直に従った。

駅方向へ引き返しながら住宅街の細い道に再び目をやると、民家の塀の陰から探し求める男がひょっこり現れた。凜は息を呑んだ。さりげなくその方へ歩みを進めた。接近するまで声は掛けないつもりだ。凜の行動に気付いた松永が戻って道路をのぞき込んだ。

それを見たのか男は突然足を止めてくるりと向きを変えた。

「警察です。待ってください。」

凜がすかさず声をあげると、男はいきなり走りだした。

「待ちなさい。」 叫んだ凜と松永が追う。

男は住宅街の奥へ走っていく。すぐに白い塀が前方に現れた。その突き当たりを素早く左に曲がった。

「待て。」 と松永が大声で叫んだ。

後を追って角をまわると思いがけずその先は袋小路だった。行き詰まりのブロック塀は左端がガレージなのかシャッターが下りていた。左右には数軒の民家が並び道路は塀に囲まれている。男はシャッターに手をかけたが施錠されているようだった。

「どうした。何故逃げるんだ?」 松永が落ち着いた声を掛けた。

男は振り向くと慌てた様子でバッグに手を突っ込んだ。松永を凝視したまませわしなく中を探っている。刑事達に緊張が走った。刃物を忍ばせているのか。だが取り出されたのは拳銃だった。二人が驚愕する間もなくいきなり発砲した。松永が地面に突っ伏した。凜は反射的に両膝を折って身を低くした。一瞬頭が空白になった。松永は撃たれたのか? 今回の捜査では刑事全員が拳銃を携行している。凜はそれを必死で探った。男が背を向けてブロック塀をよじ登ろうとしていた。

凜は拳銃を取り出した。「松永さんっ。」 と呼びかけて立て膝の射撃姿勢をとった。

その松永は両肘を突いて伏射の構えをとっていた。「動くな、撃つぞ。」 と男に警告した。

男は跳びあがって塀の上端に両肘を掛けた。拳銃とバッグを手にしたままで塀を上ろうとしている。塀の内側にヒバが密植されていたが侵入は容易と思えた。

「撃つぞ、止まれっ。」 再び叫んだ松永が、直後に発砲した。

銃弾は男の右足、膝の上を撃ち抜いた。ストンと路上に下りた男が片足で跳ねる動きを見せてくるりと振り向いたときには銃口が凜に向けられていた。カチリと撃鉄が落ちる音が聞こえた。

「不発だっ。」 松永が鋭く叫んだ。

すぐにもう一度男の手元で撃鉄が鳴った。男の拳銃は刑事達の所持するものと同じ回転式だ。引金を引くと弾倉が回転して撃鉄は次の薬室を叩く。スライド式の銃と違って不発弾を取り除く必要が無いのだ。凜は飛来する見えない弾丸に顔面が打ち砕かれるような恐怖を感じた。引金に掛けた指の先が白く変色した。そのとき男は銃を足許に落として太股を両手で掴んだ。引金から放した凜の指が痙攣した。男は塀に背をもたせたまま、慎重に近づく刑事達に向かって 「撃ちやがったな…。」とどちらへともなく言った。

松永が 「殺人未遂だ。逮捕する。」 と鋭く告知した。

手錠が手首を噛んで、男は痛みに短く呻いた。

 署に戻った凜と松永を見て二人が消耗している雰囲気を感じた刑事課長の伊達は 「とりあえず一息入れろ。」 と言った。「松永さんは拳銃使用の状況を今一度整理しておいてくれ。本庁への報告書を作る。とにかく、コーヒーでも飲め。」

二人は自販機の前に飲料会社が置いた赤い長椅子にぐったりと座り込んだ。夕闇が迫っていた。松永がため息をつく。

「松永さん。」 凜が小声で話しかけた。「発砲は適切な判断だったと私は思います。」

松永は黙って頷いた。

凜は床に視線を落とした。銃口を向けられた光景が鮮明によみがえった。男は二度引金をひいた。結果としてそれを呆然と見ていたことになる。弾が入っていたら凜は多分死んでいただろう。男の拳銃には弾がただ一発だけ装塡されていた。普通では考えにくい事だった。それは幸運と呼べるものだったかも知れない。…ではあの時即座に男に発砲すべきだったのか。凜は口を引き結んだ。もう一度同じ状況をむかえてそれが出来るだろうかと自問した。だが出来なければ死ぬことになるかも知れないのだ。一瞬の判断が生死を分けるのか。いつの間にか凜は背に汗を搔いていた。

 やがて松永が 「撃てなかったな…。」と口を開いた。「お姉ちゃんも、俺も…。」そう呟いた。

松永は男の足にむけて発砲している。凜がその言葉を意外に感じて振り向くと、松永は床を見つめて何か考え込んでいるようだった。

そのとき伊達が二人の前にやって来た。凜が慌てて立ち上がった。

「朝倉、四係がお前を待っている。例の男を追跡したきっかけと経緯を説明してやってくれ。」

「四係?」 凜にはその予感があった。

「あの男は暴力団の準構成員で覚醒剤の密売人だそうだ。」 

そう説明した後で腰を下ろしている松永に目をやると 「大した手柄を立ててくれたもんだ。」と揶揄するように言った。

松永はカチンと来たのか 「それほどでもないですよ。」と斬って返して相手を苦笑させた。

 

凜と松永は再び強盗犯の捜査に復帰した。防犯カメラの所在地ごとに番号をふり、洩れなく管理者を探して影像の提出を求めてまわった。大量のヂィスクとメモリが集められた。捜査本部には十数台のパソコンが並べられ、鑑識係と刑事達が目を皿のようにしてその画面を見つめた。そしてその努力の結果、捜査は劇的な経過をたどったのだ。

 駅構内の改札口の影像を調べていた捜査員が突然大きな声を上げた。

「こいつじゃないか?」

同じ画面を見ていた鑑識員が 「特徴は合ってますね」と頷いた。

側の男達が集まった。紺色のキャップにマスク、白いジャージの上着、黒っぽいハイネックのアンダーシャツ。

「こいつだ。」と誰かが言った。

伊達が足早に近づいて静止画面を凝視した。

「確かに特徴は合ってるな。これは何処だ。」

「私鉄駅の西口です。改札口から出口へ向かう所です。」

刑事達は画面にある時刻の表示を確認した。

「犯行の二時間前ですな…。」 一人が呟いた。

「すぐにこれをプリントアウトしてくれ。」 伊達が鑑識員に指示した。それから刑事達を見やった。「写真をもって誰か病院へ行ってくれ。確認をとりたい。」

伊達はパソコンに目を戻すと 「動かしてみてくれ。」と言った。

画像が動き始めてすぐ松永が叫んだ。

「乗車券を使ったぞ。」

集まった刑事達がどよめいた。改札のデータを調べれば男がどの駅から乗ったか明らかになると思えた。

「一班は駅に急行して改札を調べろ。」

伊達が次々と指示を出した。

「他の者は出入り口の影像をチェックしろ。駅の外のものはひとまず置いて構内のやつを調べてくれ。…犯行後だぞ。犯行後にこの男が再び現れたはずだ。時間表示を確認しながらやってくれ。帽子やマスクを取っている可能性もある。注意しろ。」

それから捜査員に聞いた。

「このカメラは駅ビルのものか。」

「鉄道警察隊所管のカメラです。」

伊達が大きく頷いた。警察所管のカメラは解析度が高いのだ。

側にいた鑑識員に質問した。

「犯行後に男が帽子などを取って外見の特徴を失った場合でも、今の画像を利用して男の顔を特定出来ないか?」

鑑識員は僅かに首を傾げたが「本庁のAIを使って画像解析すれば可能かも知れません。」と答えた。

「つまり人工知能のことだな。」そう念を押したうえで更に聞いた。「それはこちらからデータを送らなければダメという事か。」

「そうです。AIにアクセス出来る端末は承認を得たものに限られています。」

「今捜査員が見ている影像はすぐに送れるか。出入り口あたりの駅構内全てのビデオ影像だが。」

「探索を中断して貰えれば短時間で送信できます。」

「そうか…。」

「実行しますか。」

「まあ待て。」 伊達は苦笑した。「もう少し待ってくれ。」

それから男達に声を掛けた。

「今気づいたんだが、犯人は黒色のバッグを持っているはずだ。被害者が奪われたのは黒色のバッグだと証言している。」 それから小声で「金だけ抜き取ったかもしれんが…。」とつけ加えた。

 暫くして病院に向かった刑事から連絡があった。確認が取れたという。「たぶんそうだと思う、という言い方でした。根拠を聞くと帽子と着ている服がそっくりだと証言しました。言葉は控えめでしたが自信があるような印象を受けました。」とやや興奮気味に伝えた。

伊達が鑑識員を勢いよく振り向いて言った。

「すぐにかかってくれ。」

「それではまず基になるデータを確認します。」

鑑識員は改札口の男の画像を映し出している画面の前に座って素早くキーボードを触った。コマ送りの静止画数十枚が現れた。男の顔が見えるものを選択していく。

「有望です。両眼が映っています。あとは角度ですが…。」

そう言いながら十数枚の画像をコピーして 「本庁へ送信します。」と告げた。そしてすぐにその操作を終えて伊達を見上げた。

「これで探索するビデオのデータを送れますが…。」

伊達は平手を音立てて打ち合わせた。

「皆、聞いてくれ。今調べて貰っているビデオ映像を本庁の鑑識へ送る。調査を一時中断してくれ。人工知能のお手並み拝見と行こう。」

署の鑑識係は係長を含めて六人。係長は本庁鑑識課への連絡と依頼に多忙だったが他は全員捜査本部に集まっていた。その全員がパソコンに取り付いた。

 伊達が胸の前で腕を組んだところに駅の改札を調べた刑事から報せがあった。男の乗車駅が判明したのだ。すぐ隣の「魚州駅」だった。南署の管内だ。伊達が拳を握った。

「そのまま魚州駅に向かってくれ。」と指示した。「南署には俺が仁義を切っておく。男の改札通過を確認してくれ。鉄道警察隊に顔を出すのを忘れるな。」と言い添えた。

伊達が自分のデスクに向かおうとパソコンから離れるのに気付いて鑑識員の一人が慌てて声を上げた。

「制限をかけますか。」

「制限とは?」

「駅構内の防犯カメラの録画はノンストップです。時間的な区切りを何処かで設けた方が効率的に思えます。」

「…そうか、では一時間にしてくれ。犯行直後から一時間だ。それでヒットしなかったら一時間ずつ延ばしていこう。」

「分りました。一時間ごとのファイルにして、とりあえず五時間分のデータを送信します。」 パソコンのキーを叩く音が一斉に響いた。

 刑事達は一息入れていた。松永が大きく伸びをして凜に顔を向けた。

「缶コーヒーでも飲むか。」

凜は笑顔でそれに応えたが、笑顔には訳があった。松永が何か思い悩んでいると感じていた。そしてそれはあの銃撃事件と関わっている。凜の行動かあるいは自身の行動にこだわりと疑問を抱いているようだった。結局

その原因が自分にあると凜は考えた。彼に何か責任があるとは思えないのだ。元気を出して欲しいと精一杯笑顔を見せた。

松永は缶コーヒーを口にした後で「魚州か…。」と呟いた。「こちらとも何かの関係があって土地勘のある人間かも知れんな。」

凜は頷いた。そして疑問を口にした。

「犯人は被害者が信用金庫の職員だと何故知ったのかしら。」

「信用金庫から出てくるのをたまたま見かけたんだろうな。ネクタイにバッグ。集金か積み金を受け取りに行くのだと察して後を付けたんだろう。」

「計画的だったのね…。」凜は納得したが被害者が気の毒でならなかった。

被害者には何の落ち度も無いのだ。

 捜査本部では雑談が交されていた。話題は人工知能の顔認識の信頼性だった。

「以前テレビで見たが、」と捜査員の一人が言った。「人間の認知能力の方が上らしい。」

「そういえば俺もそんな番組を見たぞ。目の前を通過する大勢のなかから、人間が数十人の顔を判別出来たのに対して装置は僅か一人だった。コンピューターといえど過信は出来ないという事か。」

「しかし…。」 別の捜査員が言った。「人工知能も日増しに進歩しているのは確かだろうな。」

鑑識員が 「送信が終わりました。」と告げた。

「どうする。」 捜査員達は顔を見合わせた。

「では、我々の知能も働かせるとするか。」 その言葉に誰かが笑った。

鑑識員を含めた二人一組でパソコンに向かった。小さな画面を長時間見続ける忍耐と緊張を強いる作業が再開された。

 凜と松永は駅の外のカメラ映像を見ていた。構内のデータは松永が若手に任せたのだ。ビデオを見て通勤時間帯でないのに人通りが多いと驚いた。日傘があちこちで広がっている。

「少しわかりにくいな…。」 松永が呟いた。画質が粗かった。

凜はバッグに注目していたが、それらしい姿は見当たらない。だが簡単に諦めるわけにはいかないのだ。いつの間にか伊達が戻っていて 「何か分ったか。」と呼びかけたが、どこからも声は上がらなかった。

 鑑識員の一人の携帯電話が着信を知らせたようだった。それを取り出してせわしなく頷く。

伊達に向かって「本庁からデータが送られてきました。」と報告した。目が輝いていた。捜査員達と違い人工知能を信頼しているようだった。

「ここで見られるか。」 伊達が問う。

「はい。」 キーを叩く音が弾んで聞こえた。

男達が集まる。すぐに四分割の画面が現れた。構内入り口と券売機のあたり、そして改札口二カ所の影像だった。数人が映し出されている中に四分割の全てで一人だけ顔と上半身が白線で囲われている。

「これが一番分りやすそうですね。」 係員がそう言ってカーソルを合わせた。

画面一杯に映し出された男の姿に居合わせた刑事達は軽い衝撃を受けた。紺のキャップもマスクも,白い上着すら身に付けていない。だが黒っぽいハイネックの薄いシャツは手がかりと思えた。黒色のバッグを持っている。

「服は捨てたのか。」誰かが言った。

画面の時刻は犯行の約二十分後を示していた。

伊達が「くそ~ッ。」と唸った。そしてすぐに「黒田ッ。」と叫んだ。

「若いのを連れてゴミ置き場を調べてくれ。付近に交番があったはずだ。彼らが場所を把握している。協力を貰え。地域課には俺が伝える。」

黒田はこの時四十を超したばかり。ベテランの風格を見せていた。勢いよく立ち上がったそのとき、捜査本部に置かれた内線電話が鳴った。指令所からの連絡を示す赤色灯が機器の上で点滅していた。一人が急いでボタンを押した。そのままスピーカーモードになっていた。

「マンションのゴミ置き場に血の付いたナイフと衣服があるとの百十番通報です。」若い女の声が響いた。「場所は品田二丁目一の一。マンション名はスカイコーポ品田。通報者は同マンション管理事務所職員で氏名はヤマダヒデオと名乗っています。」

黒田は立ち上がったままで伊達の指示を待っている。伊達はこの時自分の電話に出ていた。黒田に待てと掌を上げていた。魚州駅に向かった捜査員からの連絡だった。服装の特徴が同じ男が駅入り口から構内に入り改札口を通過した事が確認された。魚州駅の出入り口は一カ所だった。

「時間的な矛盾は無いか。」と念を押して伊達が続けた。

「そのままそこで待機してくれ。男の面が割れたぞ。黒田達をやる。構内と出入り口周辺の防犯カメラをあたってくれ。よろしく頼む。」

それから鑑識係員に指示した。「この顔をプリントしてくれ。捜査員の人数分がいる。それとは別だが至急、前歴者の顔写真と照合してくれ。」

すぐにプリンターが動きだした。伊達は黒田を見た。

「五班十人で魚州駅に行け。男が魚州駅で下車したか確認したい。そのうえで駅後の進行方向を知りたい。データを入手してくれ。駅周辺から先の防犯カメラについては南署の協力を貰う。」 そして語調を強めた。

「気を抜くなよ。構内監視の体制を崩すな。高飛びの可能性が無いとはいえない。絶対逃がすな。」

それから「松永さん。」とその姿を探した。「お姉ちゃんを連れてゴミ置き場に行って貰いたい。鑑識さんも同行してくれ。」と指示した。


 凜と松永は通報のあったマンションのゴミ置き場に向かった。助手席の凜は興奮気味だった。松永に話しかけた声が弾んでいた。

「急展開って感じね。」

ハンドルを握った松永が相づちを打った。 「高飛びされてなきゃパクれるぞ。」

「えっ、ほんとに?」

「捜査の方向が間違っちゃいないようだ。こういうときは次々と手掛かりが見つかるもんだ。」

信号待ちで停車すると凜の顔を見て続けた。

「それにしても防犯カメラ抜きの捜査は考えられない時代になったな…。俺の若い頃はひたすら聞き込みに歩きまわったもんだが、今じゃ防犯カメラという強い味方がある。」

「ゴミ置き場にも防犯カメラがあるかもしれないわね。」

「そうだな。」

「強盗事件と関係あるかしら。」

「なんとも言えんな。」

 目的地に着くとすぐにパトカーが目に入った。同時にゴミ収集車とその側に警察官を交えた三人の男が立っているのが見えた。一人が警察官にしきりに何か訴えている。

「山田さんですか。」 凜が近づいて声を掛けるとその男が振り向いた。

「港中央署です。通報有り難うございました。」

山田はホッとした様子で小さく頭を下げた。それから凜と松永に熱心に話しかけた。

「ゴミ収集が来てるンですよ。済ましてしまいたいんですが…。」

刑事達がすぐに答えないでいると 「今持っていって貰わないと次は来週になってしまうんですよ。」と説明した。

このとき鑑識の車から降りた係員が言葉を聞きとがめて 「触って貰っては困ります。」と注意した。ゴミ置き場にはすでに警察官によって黄色い規制テープが張られていた。

「こちらも困ってしまいますよ。」

山田は鑑識員に語気を強めた。 「毎日違う種類のゴミがここに集められますからね。このままというわけにはいかないし,もしそうなったら管理事務所の責任になっちゃうからね…。」

松永が聞いた。「今日のゴミは何ですか。」

「ペットボトルですよ。」

大きなビニール袋が山と積まれていた。

「ペットボトルは出しちゃっても構わないと思うけどね。こっちは警察に協力してるンですから、どうにかしてくださいよ…。」

「こちらで処理させて貰います。安心してください。」 松永が申し出た。

「それは助かります。」 山田は安堵の笑顔を見せると、鑑識員が作業にかかるのへ目を向けた。

そこへ「お話を聞かせてください。」 と松永が穏やかに声を掛けた。 

 山田は二人の刑事を管理事務所へ導いた。凜が想像した以上に広く、整頓された印象だった。

「お茶を淹れますよ。コーヒーの方が良いんじゃないですか? インスタントだけど…。」

「ありがたいですね…。」 松永がそつなく答えた。

山田は話し好きのようだった。刑事を前にしながら顔色が明るい。日頃は事務所で一人きりなのかも知れないと凜は思った。

「強盗事件と関係ありそうですか。」

松永は頷いて見せた。「その可能性は大きいと思います。」

「という事は、」 コーヒーの手を止めて、「このマンションの前を犯人が通ったということですよね。怖い話ですよね…。」と刑事達を見やった。

「こちらの住人のかたが捨てたという可能性もあります。」

その言葉に山田は愕然として女刑事の顔を見つめた。

「ええっ、それは…。」 目を見開いている。「それは無いと思いますよ。いや,それは無いですよ。ほら、事務所の前を通らないとマンションの出入りは出来ませんから。私が気がつくはずです…。」

そう言ったものの自信が無くなったのかパソコンが置かれた机に座り直した。防犯カメラの映像を確かめるものと思われた。

「見せて貰って良いですか。」

凜が近づくと山田は頷いた。

 やがて山田が安堵の声を洩らした。

「やっぱりそんな人は映っていないですね。」

「道路の防犯カメラは無いの?」

「それが無いンだよね。エントランスには二カ所あるんだけど外の通行人は映らない。」

「ゴミ置き場にもなかったようですけど…。」

「そうなんですよ…。」 と立ち上がってコーヒーのつづきにかかった。

「以前はあったんですけどね。ほら、他所からゴミを持って来られちゃ困っちゃうからね。だから牽制の意味もあって大きな,ちょっと旧式だったけど防犯カメラを付けていたんですよ。そうしたら…。」 コーヒーカップを二人の前に置いた。「それにカラスがとまるようになっちゃって。奥様方が怖がってしまってね。結局取り外したんですよ。道路側を見るカメラが必要じゃないかって私はアドバイスしたんですけどね…。」

 事件当日は生ゴミの収集日で、犯行時刻の午前十時にはすでに収集が終わっていた。空になった置き場に通りすがりに上着を投げ捨てたと考えられた。午後遅くと翌朝にマンション住人によってペットボトルが持ち込まれたが、すでにあったはずの衣類については関心が払われなかったらしい。

 山田が上着に気付いたのは午後三時。通報の直前だった。      

                              (つづく)



        「女刑事物語 (8-3)」   C,アイザック

山田が上着に気付いたのは午後三時。通報の直前だった。

「このマンションはマナーがしっかりしててね。勿論私も注意した事が以前はありましたけどね、ゴミ出しの違反はほとんどないのでびっくりしちゃってね。持ち上げてみると血らしいのが付いてたけど、魚の血かなと思ったぐらいで…。そしてポケットに何か入ってると分って、端っこを持って振ったらナイフが落ちてきたんです。もうびっくりしちゃって。で、強盗事件と関係があるのじゃないかという考えがすぐ頭に浮かんでね。百十番したんですよ。」

メモを取っていた松永がまた頭を下げた。

ドアがノックされて鑑識員が顔をのぞかせた。作業が一区切り付いたようだった。

外へ出るとペットボトルの入ったビニール袋が全て持ち出され路上の端に並べられていた。鑑識員の一人がボードに留められた書類を松永に示

した。そこには鑑識の対象として回収された物品が記されていた。

「おっ、帽子もあったんだな。」 松永がやや大きな声を上げた。

「ペットボトルの入ったビニール袋の下敷きになっていました。それを考えると袋は後から置かれたものといって良いでしょう。袋の中は念のため全て見てあります。」

実質的な押収物は上着一点、キャップ(帽子)一点、果物ナイフ一点、ナイフの鞘一点だった。

松永が 「山田さん、確認をお願いします。」と書類を見せて言った。「今の時点では遺失物扱いとなりますので…。」

「えっ?」 山田は意外な顔をした。

松永が申し訳なさそうに説明した。

「我々は山田さんの通報に感謝しているところですが、これはいったん署の方で預かった上で差し押さえの手続きを取ることになります。協力をお願いします。」

山田は要領を得ない表情を浮かべたが 「刑事さんも大変なんですね…。」と言ってサインに応じた。気の良い男だった。

松永はあらためて山田に頭を下げると、支援の警察官に軽く手を上げた。敬礼で応えた警察官が乗り込んでパトカーは去った。そして最後に残されたのが大量のペットボトル入りビニール袋だった。

「少しは積めるか?」 松永が遠慮がちに鑑識員に聞いた。

「少しくらいなら…。」

「悪いな。残りはこちらで何とかする。」


 車の窓を全開にした凜が奇妙な表情を浮かべていた。後部座席側に大量のビニール袋が詰め込まれていた。

「お姉ちゃん、どうした。」 松永が車を走らせながら何処かおかしそうに問いかけた。

「なんだか…、臭いっ!」と凜が遠慮なく答えた。

「確かにそうだな。中身はペットボトルだけなんだが。」

松永は笑った。「長年刑事をやってるが、こんなのは初めてだ。」

「松永さん、優しいのね。…山田さんを気遣っての事でしょう。」

「まあね。そのままにはしておけないだろうからね。」 そして思い出したように 「お姉ちゃんは香水のようなのを持ってるかい?」と尋ねた。

「香水?」 凜が振り向いた。

「車を掃除した後で香水を掛けて貰えたら良いと思ってさ。」

「コロンのスプレーがあるからそれを使うわ。」

「そんなのがあるんだ。」

「脇の下の…。」 言いかけた凜が慌てて口をつぐんだ。すぐに 「犯人の指紋が採取出来るかしら。」と質問した。顔が赤くなっていた。

「いけると思うぞ。とくに果物ナイフと鞘からはばっちり採れるはずだ。必ず決め手になる。帽子と衣類からは髪の毛が見つかるかもしれん。こちらも人物を特定できる。」

「魚州駅の方はどうなってるかしら。」

「男は魚州で下車しただろうな。時間的なことを考えると駅を梯子したとは思えない。魚州が地元だろう。向こうに出張ったうちの何人かはカメラのデータを持ってくるだろうが残りは終電まで駅を張り込むはずだ。こっちではカメラを調べるのに四班くらいは徹夜だな。」

「俺たちも?」

「俺たちは多分家に帰って寝ることになると思うぞ。その代わり明け方から魚州駅で張り込みだ。」

「逃げるおそれが?」

「ああ。前歴のあるやつは必ず逃亡を考えるからな。」

「前歴があるかはまだ分っていないけど…。」

「逃亡を念頭に置いた方が良いという事だ。」

それから松永は短い沈黙の後で 「南署の協力次第だが、明日、あさってが捜査のヤマだな。」と続けた。

そして、そのとおりになった。


 凜は明け方四時に家を出た。ハンドバッグの肩紐に首を通して斜めに掛けていた。

「気をつけるんだよ。」 香織が切り火をして送り出した。

凜は何も語らないが香織は捜査の内容に察しが付いた。強盗事件はテレビでも伝えられている。刃物で人を刺して逃走した犯人を追っているに違いなかった。娘が心配でたまらなかった。街頭の仄暗い灯りだけの道を娘の小さな体が遠ざかり闇に消えるのを見送ると胸が締め付けられた。警察官になりたいと言いだしたときに何故もっと強く反対しなかったのかと自分を責めた。それはこれまでに何度も繰り返した後悔だった。

 そのとき前方の暗がりで赤色灯がきらめいた。香織が目を凝らすと、凜がその車に乗り込むのが見えた。署の刑事が迎えに来てくれたのだろう。

「まったくあの娘は…。」 香織は突然腹を立てた。

「それなら迎えが着くまで待ってればよかったんだ。いったい何を考えてるんだい?」 腹が立ってしようがなかった。

 九月の末である。涼しさを過ぎて肌寒い朝だった。車内の暖かさが嬉しく感じられた。

「すまん。遅くなってしまった。…署まで歩くつもりだったのか?」

松永が問いかけた。

「十分で着くわ。」と凜が即座に答えた。そしてさらに続けた。

「二度手間でしょう。迎えなんか要らないわ。これって俺が女だから? 全然嬉しくないんだけど。」

松永が小さく笑って言った。

「まあそう怒るな。伊達さんの指示なんだ。」

凜は口を結んでニコリともしなかった。

 捜査本部には一係の刑事の半数近くが集まっていた。大きな白いボードに拡大した顔写真が二枚貼られている。その前に立った伊達が口を開いた。

「この男が犯行後魚州駅に下車した事が確認された。男は同駅から出て南方向に進んでいる。本日、南署の協力を得たうえで防犯カメラの影像を中心に男の足取りを追う。これが第一点。

 次にマンションのゴミ置き場から発見された着衣、ナイフなどだが、掌紋と指紋が検出され、前歴者のものと一致した。」

刑事達から 「おおっ。」と声が上がった。

「血液型が被害者のものと一致したがDNAのほうはまだ少し時間がかかるという事だ。このためナイフと着衣の血痕が被害者のものと確定出来ていないが、状況から推して強盗事件の物証だと判断したい。指紋が一致した前歴者が同事件の犯人である疑いが濃厚になった。

 男の名は斉藤道夫、三十二歳。十年前に神奈川県秦沢市において傷害で逮捕され、その後窃盗の余罪が判明。懲役三年の実刑を受けている。刑期を半年残して仮釈放になっているが、ボードに書かれた住所はそのときの観察官の届けによるものだ。これは多分今となっては当てにならんだろう。そして顔写真だが、十年前のものであるせいか、魚州駅の男と同一人物とは俄に断定し難いというのが正直なところだ。似てはいると思うが。

本籍地は岐阜県。巣本市の出身だ。重要参考人として、この斉藤道夫の身柄確保に動く。これが第二点め。

 それから斉藤であると思われる魚州駅の男の逃亡を阻止するために同駅と JR線大位駅の双方を張り込み、監視体制を敷く。以上三点が捜査の目的と内容だ。」

伊達は声を張り上げて続けた。

「捜査にあたっては防刃ベスト、警棒を装備。全員拳銃を携行する。前科も傷害罪だ。油断するな。とりあえず両駅の監視についてはすぐに出発してくれ。」

多くの刑事が騒がしく椅子を鳴らして立ち上がった。凜と松永は大位駅の担当だった。 

伊達は机から離れた凜といったん目が合った。

「頼んだぞ。」と何気なく声を掛けた。

凜が立ち止まってゆっくりと伊達の顔を振り向いた。頷くでもなくそのまま大きな瞳で見つめている。笑顔は無い。

…どうしたんだ? 伊達は不思議な気分に襲われた。

凜は無言のまま視線を逸らすと何事も無かったように背を向けた。その様子に何処か怒りの雰囲気を感じた伊達が側にいた松永を見やった。松永が苦笑しながら軽く頷いてみせた。

そのとき伊達はようやく凜の態度の意味に気づいて思わず小さく笑ったのだった。


 重要参考人斉藤道夫の捜索は難航した。所在が把握出来なかった。保護観察官によって届け出られた住所は伊達が危惧したとおりもはや意味が無かった。それでも住民票の異動届から転出先を探った。都内を移り住んでいたが、現住所であるはずのところには記載されたアパート自体が見当たらず、さほど広くない駐車場になっていた。住民登録はそのまま放置されていたのだ。

駐車場の隣の住人によるとアパートが取り壊されたのは五年ほど前。斉藤の顔写真をみせるとまったく記憶に無いと首を振った。

 本籍地の岐阜県 巣本市にある戸籍の附票からもその後の住所を探すことが出来なかった。運転免許証は岐阜県公安委員会から交付された記録があったが服役中に失効。全国の公安委員会に照会したが氏名生年月日の合致した新たな交付記録は無かった。

 また、住民登録の実態が無くても住民票の交付は受けられる。それによって何処かで職に就いて収入を得ているとすれば、たとえ非正規雇用であっても所得税、住民税が源泉徴収されるはずだった。刑事達は税務署と区役所、さらには社会保険事務所を訪ねてまわったが、まだその事実を確認するに到っていない。

 斉藤は何処で何をしているのか。

「斉藤の出身地に出向く必要があります。」と捜査員が伊達に申し出た。「直接、親類知人に行方を聞きたいですね。」

「少し待て。それはとりあえず岐阜県警に依頼しよう。」

だが伊達はその捜査員と同じように焦りを感じていた。斉藤の生活者としての姿が浮かんでこない。逃亡をためらう理由が無いと思えたのだ。どのタイミングで指名手配に踏み切るか、伊達は結論を迫られていた。

 一方、黒田を中心とした班は南署の協力を得て防犯カメラを調べた。容疑者の行動の時系列が明らかである事から捜査はスムーズに運んだ。そしてその足取りがプッツリと途絶えたあたりにヤサ(住居)があると推測された。

南署の刑事が地図を広げた。

「この辺りという事になりますね。」 鉛筆を手に地図に大きな円を描いた。

「どんな地域ですか。」 と黒田が聞いた。

「普通ですよ。アパートやマンションがあり,小さな会社もあるし小学校もある。表通りから少し入れば住宅地が広がっています。その辺りになるとコンビニやスーパーの防犯カメラくらいかな。とりあえず行ってみますか。」

「駐車場がありますかね。」

「当てがあります。」

 刑事が言った当てとはスーパーの駐車場だった。店舗は小さいが駐車場は広い。たまに交通課や地域課がパトカーを駐めさせて貰っているという。

「長時間でも構わないそうです。」 店から出てきて言った。

港中央署の刑事は八人。手分けして聞き込みにあたることにした。

黒田と行動を共にしているのは藤原だ。三十を越したばかりの若手だった。歩き出して間もなく前方の理髪店を指した。

「まずあそこに行こうと思います。」 それから「たいがいの男は散髪をするでしょうから。」と付け加えた。

黒田は笑った。「それはそうだ。」

入り口に「スピードカットの店」と書かれていた。赤白青の理髪店特有の円筒形の看板が回っていた。中に入ると客が一人散髪中だった。

「いらっしゃいませ。」とハサミを手にした若い店員が挨拶した。

奥から年配の男が出て来た。藤原が身分証と容疑者の顔写真を見せた。

「この人をご存知ありませんか。」

「うちに来る客だね。」とすぐに答えたが,その後急に不安そうな表情を浮かべた。

藤原がさりげない態度を見せて 「お聞きしたいことが有りましてね。それで探しています。」と説明した。さらに「住所は知りませんか?」と尋ねた。

「いや、分んないね。でもこの辺りで以前からの人は皆知ってるからね。マンションじゃないのかな。」

「いつ頃からこちらへ?」

「ここ一年ほどですよ。だいたい月に一度くらいかな。」

 外へ出た黒田はすぐに伊達に応援を求めた。それから他の班と次々に連絡をとった。

「この辺りで間違いなさそうだ。男が利用した散髪店から情報を得た。姿を見せるようになったのはこの一年ほどだ。近くのアパート、マンションに居住していると思われる。隣接する戸建ての住人から目撃情報を探りたい。マンション等の場合は在宅が確認出来るところに聞き込みをかけてくれ。マンションが特定できたら直ちに南署の応援を求める。

 くれぐれも少人数でマンションのドアを叩いてまわって男の逃亡を促すような事は避けたい。目撃情報が得られたらとりあえず我々だけでも結集して事に当たる。たった今課長に増員を要請したところだ。」

だが、黒田は一足遅かったのだ。


 六人の刑事が大位駅構内の監視と警戒にあたっていた。人の流れが多い中央口に四人、凜と松永は東口を担当した。午後一時、すでに張り込み開始から八時間以上が経っていた。

 その男は黒いキャップを目深にかぶっていて顔がよく見えなかったが、男の靴が凜の注意を引いた。白っぽい皮革製のウオーキングシューズが

左右とも側面に線状のキズが目立った。不思議なキズだと思った。…もし短く刈り込まれた植え込みに踏み入ればこうなるかも知れない。足許のよく見えない暗い時間に住宅の庭を踏み歩く姿を想像した。

 男はリュックを背負い、さらに大きめのバッグを肩に掛けている。券売機の前に立ち止まって線路の模式図が示されたパネルを見上げた。上りと下りの駅名が並んでいる。左上の隅へ、そして反対側の端まで視線を動かした。大きな荷物を持って駅に来ていながら行く先が決まってはいないのか。

「あいつ、変だ。」と凜がささやいた。男の顔を確かめたかった。

だが凜の小さな声はそれまで立っていた場所からたまたま少し離れた松永に届かなかった。

 凜が男に近寄った。その背中に「今日は。」と声を掛けた。

男は僅かに首を動かしたが振り返ることなく背後の様子を窺っている。

「話をさせて貰って良いですか。」

男は呼びかけを無視するつもりか振り向く気配を見せない。

「警察です。」

次の瞬間男は身を翻して駆けだそうとした。予期していた凜が咄嗟に左手で男の左腕を掴んだ。男の腕は手から滑って逃げたが凜はその袖を力いっぱい握りしめていた。同時に後ろからリュックの一部を掴んだ。そのとき死角になっている男の体の陰から突然物体が飛び出して凜を襲った。反射的に顎を引きながら固く目を閉じるのと、男が振り回したショルダーバッグの底が凜の顔面を直撃するのがほとんど同時だった。目の奥に青白い火花が散った。視界が暗く見えた。男は遮二無二振りほどいて逃げようとしている。凜は咄嗟に右足を差し込んで男の足に掛けた。股を跳ね上げる。大内刈りと呼ばれる柔道の技の変形といえた。だが背後から掛けたその技は効果が薄い。しかし凜の踵の近くが男の右足の膝上に掛かっている,それが頼りだった。二人はもみ合ったまま男が倒れまいと一歩左足だけで跳ねた。凜は焦った。技が効かない。自分の足の跳ね上げが足らないのだ。男の足の力と凜のスカートの裾がそれを邪魔していた。凜はパンツスタイルがあまり好きでなかった。意外にも女らしい格好にひそかに憧れていたのだ。だがこの時ばかりはそんな自分を怒鳴りつけてやりたかった。

 男がバランスを保とうとまた一歩跳ねる動きを察知した瞬間、凜は腰を回転させて鋭く足を引きつけた。男が大きくよろめいた。

「あっ。」と叫んでそのまま凜もろとも激しく床に倒れ込んだ。

凜の体は一度男の背に強く当たってから床に投げ出された。握りしめたままの男の袖が引き裂かれる音が聞こえた。

…逃げられてしまう! 凜は松永の存在を忘れていた。慌ててリュックにしがみついた。交番勤務の時代に署の柔道場に通って男達と稽古を積んだ。男の力を骨身に沁みて知っていた。男に勝つには関節技か絞め技しかない、それが凜の結論めいたものだった。だが今は関節を取りに行くタイミングをすでに失っている。絞め技はリュックが邪魔で容易には決まらないと悟った。脇に装備した警棒が頭をよぎった。

 そのとき男が上体を起こした。凜を引きずって立ち上がろうとしている。

…クソッ! 「この…!」 凜は下品な叫びを上げそうになった。

直後に松永が男に跳び付いた。肩と襟の辺りを掴んで床に突き伏せた。そのまま押さえつける。男が獣めいたわめき声を上げた。

「手錠っ。」 と松永が叫んだ。

すぐに左手に手錠を掛けた。右手を二人がかりで取って後ろで手錠を嵌めた。激しい息のまま凜が男の肩に手を掛けてその顔を覗き込んだ。探し求める顔だった。

「斉藤だなっ?」 松永が呼びかけると顔を背けた。

凜が力強く男に告げた。

「お前には強盗致傷ならびに殺人未遂の容疑がある。さらに逃亡の意志が明らかだ。以上の理由で緊急逮捕する。わかった?」

凜は言い終わるとその勢いとはうらはらに床に崩れそうになった。片手を突いて自分の体を支えた。

「大丈夫か?」 と松永が声をかけた。

「なにが?」

凜が大きな瞳を上げた。

松永は眩しげに凜を見て 「鼻血が出てるぞ。」と教えた。

「平気だよ。」 答えた後で手の甲で拭った。

辺りに人が集まり始めていた。鉄道警察官が五、六人駆けつけてくるのが見えた。

 男は斉藤道夫だった。当初は犯行を否認。偽りの姓名を名乗った。無職だという。所持していたバッグから百万円ちかい現金と大型の登山ナイフが見つかったが、金は競艇で儲けたものでナイフは護身用だと言った。追及されて都合が悪くなると黙秘する態度を続けた。しかし結局全てを自供した。黒田の一喝によるものだ。

 斉藤が指紋の採取に応じようとしなかったときだった。

「お前の態度は犯行を認めているのと同じ事なんだぞ。」 黒田が机を平手で叩いて鋭く迫った。

「お前がやった、そうだな。」

斉藤は悄然とうな垂れて「すみません…。」と呟くように口を動かした。

もはや否認する事に意味が無いと突然理解したようだった。

                                (つづく)




          「女刑事物語(8-4)」     C.アイザック

 犯人の逮捕で事件は解決した。翌日の夕方になって捜査本部で慰労会がもたれた。本部は解散となるのだ。

 冒頭に伊達が口を開いた。

「皆、ご苦労だった。皆の努力のお陰で事件の解決を見た。それぞれが粘り強い捜査を続けた。そして容疑者を確保した松永班の行動は的確でベテランの真価を発揮してくれた。」

それから凜を探して目を合わせ、「朝倉刑事、立派な活躍だった。見事だったぞ。」と言った。

「では乾杯。」と誰かが催促してあちこちから明るい笑い声が上がった。

 オレンジジュースを手にした凜の左目の辺りが青く腫れ上がっていた。上瞼から目尻にかけて肌色のテープを貼っていたがとてもごまかせる状態ではなかった。触ってみると跳上がりそうなほど痛かった。

「えっ、ジュースか?」 凜に若手の刑事が話しかけた。藤原だった。

「酒でも飲んだら?」

凜が首を傾げて答えた。

「お酒は一度も飲んだことがないわ。」

「これまで一度も? もう酒を飲んでも良い年齢なんじゃないか?」

藤原は凜に軽く睨まれると笑いながら「俺が持って来てやるよ。」と言った。

そして実際にコップを持って来て凜に手渡し、同時にジュースを取り上げてしまった。凜は手の中のコップを見つめた。透明な液体が入っている。

「少しくらいなら良いだろう。」と藤原が促した。

すると凜はそれを一息で飲んでしまった。

驚く藤原に 「お酒って美味しいのかそうじゃないのか分らない味ね。」と言った。

藤原は愉快そうに笑った。

「また持ってきてやるよ。なにしろ朝倉は今回のスターだからな。」

再びコップを手にして戻ると凜の姿は無かった。辺りを見まわすと伊達や黒田らのそばにいる。

 凜が伊達を見つめていた。怪訝そうに顔を向けた伊達にゆっくりと笑顔を見せると、何処か間延びした声で言った。

「課長、見事な捜査指揮だったわ。」

新米刑事が口にする事ではなかったが、伊達は「褒めて貰えて嬉しいよ。」と冗談めかして応えた。

だが凜の様子がおかしい。その体が揺れている。

「とっても見事な…。」

小さな声で繰り返すと突然、すぐ横にいた黒田に寄りかかった。黒田が咄嗟に支えたが凜の体はさらに傾いていく。

「危ない。」 慌てて黒田が抱き止めた。

「大丈夫か?」と伊達が心配そうに声をかけた。

凜は小さな声で 「とっても見事な…」とまた繰り返した。

そして黒田の胸の辺りに顔を保たせると両目を閉じた。唇には満足げな笑みが浮かんでいる。

伊達と黒田が顔を見合わせた。

「酔っ払っているということか?」

「そうですね。眠ってしまったようです。」

黒田が近くの壁際のソファーに運んで横たえた。

藤原が急いで近づいて言った。

「自分が日本酒を勧めました。」

「無理強いじゃないだろうな。」と伊達が質した。

「勿論です。それも飲んだのは一杯だけです。」

「びっくりしたな…。」 黒田が小さな声を出した。

「すみません。」と藤原が黒田に詫びた。

「一度も酒を飲んだことがないとは言ってましたが、まさかこんなに弱いとは思いませんでした。」

「まあ、大事はないだろう。」と黒田がなだめた。

この様子に気付いた松永が歩み寄った。

「何事ですか。」と伊達に尋ねた。

黒田が答えた。「酒に酔ったようです。」

「何だ、そうか…。」

松永は安堵の表情を浮かべた。

その時、「まったくだらしがねえな…。」と野太い声が近づいた。蛭沢だった。松永の横からソファーの凜を冷たく見下ろして続けた。

「ホシをあげたと言うが松永がいたから出来たことだ。女に刑事(デカ)がつとまるはずが無い。ま、そのうちネを上げるだろ。」

松永が背を向けたままで眉間に皺を寄せた。

蛭沢はコートに腕を通しながら 「お先に失礼するよ。」とあたりに告げた。

若い刑事数人が頭を下げて見送った。

 凜から目を離さずにいた黒田が、ふと気づいたように言った。

「よく見ると朝倉は美人だな…。」

すぐに藤原が 「よく見るとって、何ですか。ちょっと見かけないレベルですよ。」と抗議した。

「俺もそう思うよ。」 松永が控えめな声を出した。

藤原は松永に頷いてみせた後、不思議そうにつけ加えた。

「なぜ警察官になったんですかね。」

「そうだな…。」と黒田が言った。「こんな美人ならわざわざ苦労しなくても良いような気がするが。」

伊達が口を開いた。

「父親も刑事だった、と書類にある。」

「えっ、親子で刑事ですか。」 藤原が驚いた。

「父親はもう引退したということですか。」と黒田が聞いた。

「殉職された。」

「えっ?」

「…朝倉がまだ小学校に上がる前だったらしい。」

周りが静まりかえった。

「ご存知でしたか。」 黒田の問いに松永が無言で小さく頷いた。

ソファーに横たわる凜を刑事達が見つめた。閉じた左目のあたりが青く腫れている。

「刑事になったということは、なにか心に期すものがあるのだろう。」と伊達が言った。「このお姉ちゃん、簡単にはネを上げないぞ…。」

松永が頷いた。黒田が上体を屈めて凜に敬礼した。それは少しおどけた仕草だったが、暖かい空気があたりを包んだ。


 凜の顔の腫れは消えたが目のあたりに青痣が残っていた。

「よおっ!」

署内ですれ違った男が凜を呼び止めた。四係の刑事だった。痣のあたりを見て言った。

「大活躍だったらしいな。」

満更でもない笑みを浮かべた凜だったが、すぐに 「あの男はどうなった?」と聞いた。凜と松永に発砲した男のことだ。

「まだ留置場だ。殺人未遂、銃刀法違反、覚醒剤の所持と使用で起訴されるだろうな。もうすぐ拘置所にいくことになる。」

「射創は?」

「たいしたことは無い。警察病院で処置をしている。」

「良かった。」 ホッとした様子の凜だったが、首を傾げながら続けた。

「不思議だったんだよね。だから教えて欲しいんだけど…。」

「なにを?」 刑事はためらいをみせた。

すかさず凜が言った。「ねえ、缶コーヒーを飲まない。奢るわよ。」

刑事は顔を緩めて 「良いのか。贈賄ってことは無いよな。」とからかった。

 自販機の前の赤い長椅子に座って凜が口を開いた。

「あの男の拳銃には何故一発しか弾が入っていなかったのかしら。」

「なんだ、そんな事か。」

「だって暴力団員だったんでしょう。一発だけって…?」

四係の刑事は缶コーヒーを一口飲んだ。

「あいつは組員じゃない。準構成員という事になるが、これも解釈次第だ。ある組員に利用されていたと言うのが正確なところだろう。

 男は一度も定職に就いたことが無い。そして十年ほど前に交通事故で両親を亡くした。気の毒な話しだが幸か不幸か、保険から賠償金と慰謝料が出た。僅かだが遺産もあった。結局無職のまま長い間ブラブラとしているうちに、同じように遊んで暮らしているような連中と付き合いが出来た。その中に極東連合の組員がいた。ヤクザになるのも悪くないと甘い事を考えたらしく、その組員と親しくなった。」

 組員は覚醒剤を扱っていた。近づいてきた男を売人に仕立てようと企んだ。口ではウマいことを言った。売り子を数人持てば稼ぎは大きい。そうなったら組長に話して組員にして貰う。売り上げが大きければすぐに大幹部だ。いい女を連れて肩で風を切って歩けるってもんだ。

 男は組員からシャブ(覚醒剤)を仕入れて売ることになった。パケと呼ばれる小袋に入れていくつか実際に売った。いっぱしのヤクザ気取りだった。

しかしすぐに思い知った。犯罪に手を染めてしまったのだ。ブラブラとして定職に就いていなかった後ろめたさとは訳が違った。強い緊張と不安を感じた。だが後戻りは出来ない。男はやがて自らがシャブを使用するようになってしまった。

組員はすぐにそれを悟った。あるいは始めからそれも目論見の一つだったのかも知れない。シャブの値を倍にする、と突然男に告げた。今、手に入らないんだ…などと適当な理由をつけた。男はすでにシャブチュウだ。組員の言うがままだった。

「なんだか可哀想になってきたわ、自業自得だけど…。」と凜が言った。

「弱みを見せれば喰われる。ヤクザの世界では当たり前の事だ。」

 だが男はハラに据えかねていた。といって組員といさかいを起こしてシャブが手に入らなくなることは絶対に避けたい。しかし、もし他所から手に入るのならそれで良いと思った。あいつに義理は無い。

 対立する組の人間に近づいた。わざと大金を見せて、シャブが手に入らないかと尋ねた。その組員は紙幣の厚みから目を離さずに言った。俺の兄弟に言えばいくらでも手に入る。だがその前にチャカ(拳銃)を一丁買ってくれ。そうすればすぐに兄弟に話を通してやる。

 その組員の兄貴分がシャブを仕切っていた。勝手な真似は出来ない。だが自分もシャブ以外で一稼ぎしてやろうと考えたのだ。チャカはフィリピン製の年代物の粗悪品だった。それを四十万円で売りつけた。男はシャブを手に入れる新たな方途が得られると考えて取引に応じた。

 その拳銃は証拠品として松永がポケットに入れるのを凜は見ていた。銃把は本来の物が失われたのか木質の明らかに手製の物で、銃全体とのバランスが悪かった。それがグリップから離れて落ちないようにテープと布が巻かれていた。凜は四十万円という金額に驚いた。

 その印象は男も同じだった。不格好な銃の形が思いの外だった。その様子に組員が、三十八口径だぞ、凄い威力だ、と押し付けがましく囁いた。

 男は四十万円を支払った。それは結局シャブを手に入れる為だった。だが紙袋の中で銃を確かめた男は弾丸が入っていないことに気がついた。実物の銃を見るのは初めてだったが大金を払っている。さすがに気づいた。何故カラなんだ、と詰問した。組員は狡猾な表情で、弾は別だと言った。二十万出せば十発売ってやる、と恩着せがましく言った。

 二十万で十発か、男が咎めるように言うと組員は、十人以上殺す訳でも無えだろうと突然凄みをきかせた。シャブの入手がかかっている。男は納得してみせたが、さすがに言いなりは業腹だった。

「試射をするからその弾を今よこせと要求した。もし銃が不良品なら金を返して貰う、と言ったらしい。」

「たしかにあの銃じゃネ。四十万払ってまた二十万となったらそれくらい言いたくなるわね。」

組員にしても追加の二十万が欲しかった。胃薬の箱を渡した。二発の弾丸が入っていた。試射は二発で充分だろうと言った。一週間後にまた会うことを決めて別れた。

 男は奥多摩に足を運んで銃を試した。的にした木の幹を銃弾が削った痕を指でなぞって満足した。さらに撃ってみたかったが、来週までは貴重な一発を残しておくことにした。だが男にとって肝心の組員は直後に恐喝の容疑で警察に追われてフケて(逃げて)しまった。結局男は弾もシャブもその組員からは手に入れる事が出来なかったのだ。

「なるほど、それで一発の弾丸だけが残っていたと言う訳ね。」

「あの男は捕まって良かったという事だ。シャブチュウに拳銃、こんな物騒な取り合わせは無いだろうな。それにヤツの自宅を捜索して驚いた。天井裏にマッチの燃えさしがいっぱいあった。」

「どういう事?」

「シャブが切れたときに幻覚を見るんだ。天井裏から誰かが自分を監視していると感じる。やがてその誰かに命を狙われているとさえ思い込む。で、テーブルに乗って天井板をめくって調べる。首を突っ込んでみるが真っ暗で何も見えない。照明を用意すれば良さそうなものだがそのときそんな理論的な行動はとれない。マッチがあったんだろうな、それを摺って灯りにして天井裏を見まわした。マッチは短い時間で消えてしまう。またマッチに火をつける。それを繰り返した。やっと誰もいないと納得するが、またすぐ天井裏に人がいると疑う。何度も同じ事をやる。

 ヤツはもしパクられてなかったら最後は銃で人を殺すか、自宅に火をつけて近隣の住民を巻き込んでしまうか、その瀬戸際にいたということだ。」

凜の顔に暗い影が差した。

「シャブを売りつけた組員はパクれないの?」

「シャブチュウの話に証拠能力はないからな。それにパケは売人が作る。ヤツの指紋しか無かった。」

「残念ね…。」

「内偵捜査はやる。」 四係の刑事は立ち上がった。

「これでヤツがシャブをやめられれば良いんだがな…。」 そう言うと缶コーヒーの礼なのか片手を少し上げてその場を去った。


 凜は刑事の話から明確に気づいた事があった。男が凜に銃口を向けたときのことをはっきりと思い出していた。男は銃に弾が無い事を知っていた。引金をひいたのは確かだが撃つ意志も殺意も無かった。銃口が凜に向いたのは偶然だった。そのとき男の目はまったく違う方角へ向けられていた。凜は瞬間的にそれを感知したのだった。男を撃たなかったのは判断力を失った為では無かった。銃口を目の当たりにして激しい恐怖を感じた。顔面が打ち砕かれるかのような恐怖だった。それでも凜はその恐怖に耐えた。引金をひくこと無く結果として男の命を奪う危険を避けられた。

 だが銃撃される客観的な状況はあった。銃口を向けられ引金をひかれたのは事実なのだ。弾が無かったというのは結果論にすぎない。あのときの行動は正しかったのか。すぐには明確な答えが出ないとしても、と凜は考えた。今は自分の決断に納得しても良いのではないか。だが次は?…その時もきっと正しい判断をしてみせる。凜は自分にそう言い聞かせた。

 実は松永もこの事件を何度かふり返った。だが松永の場合は思い起こすたびに居たたまれない気分に襲われるのだった。

男が振り向きざまに女刑事に銃を向けたのだ。即座に発砲すべきだった。そのつもりだった。男はすでに一発の弾丸を発射している。明確な殺意はさておき、殺害に到っても構わないと考えている。そしてまた刑事に銃を向けた。撃つ! だが一瞬、松永はためらった。手足を狙う余裕は無い。体の真ん中を撃つ。それは射殺を意味していた。松永は一瞬ためらったのだ。

 次の瞬間に男の銃の撃鉄が鳴ったが発砲しない。弾丸が無いのか?それがさらに躊躇を重ねさせた。それでも 「不発だっ。」と凜に警告した。不発弾が紛れた可能性が無い訳ではなかった。男の銃は回転式だ。その場合でも連続して撃てる。その為の警告だった。

しかし女刑事は発砲しない。男がさらに引金を絞ったのか撃鉄が落ちる音が聞こえた。松永は全身に鳥肌が立った。俺は撃つのか、撃たないのか。その時男が銃を足許に捨てたのだ。

松永は凜が男の目の動きを見て迷いながらも発砲を思いとどまった事を知らない。そのため自分のあやふやな行動が女刑事を死の危険にさらしたと考えていた。警告を叫ぶだけでその判断と行動を彼女に委ねてしまった。まだなんの経験も積んでいない娘のような新米刑事に。そして彼女は凍り付いてしまったのだ。もし男の銃が自分に向けられたなら迷い無く発砲したはずだ。…あの娘を掩護出来なかった。その後悔と自責の念が生真面目な松永の心に重く伸し掛った。

凜は松永が日を追って元気をなくしているように感じた。心配になって問いかけた。

「どうしたの、体調が悪いの?」

松永は力なく 「なんだか気力が無くなったみたいだ…。」とだけ応えた。

その後松永の病欠が届けられた。伊達が 「自律神経失調症」だと凜に伝えた。短い入院の後自宅療養になった。そしてそのまま退職してしまったのだ。

「えっ、 退職?」 凜の驚きは大きかった。

それは他の一係の刑事達にとっても突然で思いがけないものだった。

「あと四、五年で定年なのに。」 藤原が凜を見て言った。「松永さん、よほど体調が悪いのかな。」

 すると蛭沢がニヤニヤしながら藤原に近づいて言った。

「老後の金のめどが立ったのさ。あいつの女房は看護婦だ。共働きだ。貯金は相当なものだろう。なにしろ子がいないからな。恩給も付くし女房の厚生年金だってある。もう働く必要が無くなったのだろう。羨ましい話だな。

 あいつは刑事としてはパッとしなかったが、そういう計算はしっかりしてたって事だ。」

それから周囲を見まわして同意を誘うかのように笑った。

 凜が口を一文字に結んで蛭沢を見つめた。大きな瞳に鋭い光が宿っている。怒りの空気を全身から滲ませていた。気圧されたのか蛭沢が黙り込んだ。凜はすぐにその場を去った。一言も喋らなかった。

その時になって 「なんだあいつは。」と蛭沢が言った。怒りで顔が赤くなっていた。

 凜は京急沿線の松永の自宅を訪ねた。署からさほど遠くない。果物店に早くも柿が姿を見せていたのでそれを見舞いの品にと手にしていた。

 平屋建ての小さな門柱につけられたインタホンを押した。玄関が見えていたが、松永は建物の脇の細長い庭から姿を現した。

「おお、お姉ちゃん、良く来たな。」

思いがけず明るく元気な様子に凜はホッとした。

「庭の手入れ?」

「ははは、庭と言えるようなものじゃないさ。」

家の中に招き入れると 「女房がいないから…。」と自ら茶を淹れた。

「元気そうで安心したわ。…突然だったからビックリしてしまって。」

凜がもの問いたげに口を開くと松永はいつものように微笑を湛えて小さく頷いた。

「もう体調の方は大丈夫なの?」

「おお、すこぶる快調だぞ。」 明快な響きだった。

凜は思わず噴出してしまった。体調の不良を理由に退職した人間の言葉とは思えなかった。顔を見合わせて二人で笑った。凜は心から安心したのだ。

お茶を手にしても顔から笑みが去らなかった。だが一息ついて、やはり疑問が再び頭をもたげた。

「退職の理由はもしかして俺に関係あること?」 思い切って聞いた。

「そうとは、言えんな…。」

松永の答えにかすかな逡巡を感じて、やはりそうかと思った。

「何故言ってくれなかったの? 新米とのコンビが負担だったんでしょ?」

「いやそんな事は無い。そうじゃない。俺は自分の刑事としての気力がいつの間にか無くなっているのに気付いたんだ。…あの拳銃男の事件のとき、俺はお姉ちゃんを掩護しなければならなかった。たとえ男を射殺する事になったとしても。だがそれが出来なかった。今でもお姉ちゃんには申し訳なかったと思っている。」

凜が思わず叫んだ。

「違うわ、松永さん違う。俺はあの時男の目が俺じゃ無くよそを向いているのに気付いたの。迷ったわ。でも、撃たなかった。だから松永さんが自分を責める必要は何処にも無かったのよ。ああ、何故その事を言ってくれなかったの?」

松永が凜を見つめた。

「有り難うお姉ちゃん。俺は今、心の重石が消えて無くなった気分だ。」

松永は晴々とした表情になった。

「けれど言ったとおり、お姉ちゃんの事が退職の理由じゃ無いよ。俺自身の気力と覚悟の問題なんだ。」

「気力と覚悟…。」

「そう、何と説明すれば良いか、つまり俺と女房の夫婦の問題なんだ。」

凜は松永の話が突然意外な方向に向かったと感じて目を丸くした。

「まだ若いお姉ちゃんにこんな話をするのも申し訳無いんだが、俺の退職をお姉ちゃんが気に掛ける必要はまったく無いという事を分って貰いたいんだ。」

凜は黙って松永を見つめている。

その様子に松永が笑った。「と言っても、別にそんなにあらたまるような事でも無いんだが…。」と腰を上げた。

「頂いたばかりの柿だが、皮を剥いてくるよ。いいかな。」

「俺がやるよ。」 凜が慌てて立ち上がった。

押し止めようとする松永と短い押し問答の末、二人でキッチンに並んだ。

柿の皮を剥く凜の姿を見まもっていた松永が 「お姉ちゃんみたいな娘が欲しかったな…。」と穏やかに言った。

「えっ?」 思わず声が出たが、松永に子がいないのを知っていた。そのまま口をつぐんだ。

やがて松永がさりげなく話し始めた。

「女房とは同い年でね。小学校の同級生なんだ。」

「えっ?」 凜の目が輝いた。「幼なじみ?」

「そうなるな。」

「という事は初恋の相手だったのね。」 凜の声が弾んだ。

「そういう事になる。少なくとも俺の方はな。」

「きっと奥様もよ。」

「そうかも知れんな。」

凜が睨んだ。

「決まってるわ。松永さん、知ってるくせに。」

松永は笑った。「お姉ちゃんには勝てないな…。」

「やっぱり。」 凜の口許にも微笑が浮かんだ。

 松永は結婚して三十年になる。だが子供に恵まれなかった。十年以上続けた不妊治療は徒労に終わった。いつしか二人の会話から子供の話題が消えた。不妊の原因は妻にあったが、だからといって松永は離婚する気は無かった。妻を愛していたのだ。松永は刑事の仕事に没頭した。妻も同じように看護師の仕事に打ち込んだ。彼女の仕事は夜勤や早番遅番があった。同じ屋根の下にいながら刑事と看護師は月に何度かまったく顔を合わせない日があった。夫婦仲が悪い訳では無かったが会話の少ない生活だった。それが当たり前のように、気付けば十年以上続いて来たのだ。いつしか松永の胸に疑問が渦巻くようになっていた。

…妻は、そして自分は幸福なのか。妻はきっと何かに耐えてきた。俺は夫としてこれでいいのか、と悩んだ。幼い頃二人で手を取り合って学校に通った記憶が今でも松永の心から消えずにいた。自分に出来ることがあるはずだ。妻と共に何かを喜び日々を楽しむ暮らしを実現したかった。

 松永は刑事を続ける気力を手放そうとしていた。はからずもそれに気付いたのが凜とコンビを組んだ時期だったのだ。

「女房には随分と寂しい思いをさせてきたような気がする。俺は刑事をやってこられて大満足だったが、気がつけば自分の事だけだ。女房を思いやってきたとは言えない。女房は子供が出来ないのは自分のせいだと考えている。決して女房が悪いわけでは無いのに、俺はそんな彼女を充分いたわってやることが出来なかった。だから今からでも何か幸せな楽しい想いをさせてやりたくなったんだ。

 三十五年以上働いてきた。これからは女房のため、自分のために時間を使いたい。それを無意識のうちに考えていたんだろうな。思い立ったときにはもう決心していた。女房も今月一杯で病院を辞める。出身地の千葉に戻って畑でもやりながら二人でゆっくりするよ。つまりお姉ちゃん、そう言うことだ。」

「幼なじみの景色が帰ってくるという事かしら。なんて素敵なの。」

「お姉ちゃん、上手いこと言うね。」

松永が感心したように首を振ったが、凜の瞳は潤んでいた。伊達は松永が自律神経失調症だと言った。…刑事を辞めるのはきっと今口にしたような簡単な決断では無かったのだ。凜は松永の望みが果たされるのを願った。

 ところがその松永は逆に心配そうに凜を見つめていた。

「俺の方はいいんだが、お姉ちゃんが気がかりだ。刑事の仕事はだいたい碌でもないヤツらが相手だ。きっとショックを受けたろうし、気持ちも沈んだと思う。…だから心配なんだ。」

「大丈夫だよ。」 凜はきっぱりと口にした。

「父がやろうとしたことを、俺はやる。たとえどんな事があってもね。だって、警察官がへこたれちゃったら社会正義なんて絵に描いた…魚?」

松永は笑いを怺えて言った。

「そのとおりだ。警察官は強い心が無ければ務まらない。単なる行政機関じゃ無い。こんなことを言うときっと叱られるんだろうが。」

「つまり司法警察官としての気概を持てという事ね、分ったわ。」

法律的には司法警察員という。強力な執行権と強制力を持たされている。警察官、海上保安官、麻薬Gメンがこれにあたる。

別れ際に松永が繰り返した。

「お姉ちゃん、体にはくれぐれも注意しておくれ。受傷事故のないように。強い心とクレバーな行動だ。自分の命はひとつしか無いことを忘れないでくれ。…お姉ちゃん、俺は陰ながらずうっと応援させて貰うよ。頑張ってくれ。」

「松永さんの言葉は大切にする。お元気でね。奥様と幸せな毎日をおくって。きっと実現するわ。」

二人は固く手を握りあった。凜が刑事になって間の無い七年前のことだった。

                                (つづく)


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