第7話
「女刑事物語」(7-1) C.アイザック
午後になって明から電話があった。
「美風ちゃんは大丈夫だったのでしょうか。」
凜はその声を眼を閉じて聞いた。苦しかった。電話とはいえ明と言葉を交すのが苦しくて堪らなかった。もう明とは二度と会わない、そう決めていたからだ。
…母に頼り、娘に忍耐を強いて、それで仕事が出来ている。二人の犠牲の上で自分の望むことが出来ている。自由な時間が生まれたら、それは母と娘のためにあるはずだった。夜間の病院に向かうあいだ、まるで鞭で打たれるように感じた焦燥と後悔、娘を失ってしまうかもしれないという恐怖の記憶が凜の中に深く刻まれていた。
「美風は重い病気ではありませんでした。もう元気にしています。」
固い声で応えた。
「そうですか、それは良かったですね…。」
それきり二人は黙り込んだ。無言のまま重苦しい時間を分かち合っている。明も凜の様子が大きく変わったと感じていたのだ。
「凜さん…。」
明が言いかけたのを凜が遮った。
「ご免なさい。今、病院にいるの。だから…。」
「そうですか。また電話させてもらいます…。」 明の声は小さかった。
凜は病院にいた。下痢は治まったものの、どのみち診断書が必要になると考えたのだ。すでに三時過ぎだった。診察を待つ間、とうに通話の終わった携帯電話を膝の上で手にしたまま側のテレビ画面に眼を向けていた。ニュースを伝えていた。アナウンサーが何か言っている。だが彼が何を喋っているのか凜の耳には入って来ない。その口がパクパク動く画面をただぼんやり見つめていた。
翌日、美風はこの時とばかりに凜から離れようとしなかった。午前中の幼児向け番組で、画面のキャラクターの動きに合わせて踊ってみせてもすぐにまた凜の隣に座るのだ。小さなソファーの上でその度に美風の体を抱いて、凜は幸せな気分に浸っていた。
「凜、暖房を入れなきゃ。」 と香織が言った。
「でもお母さんの喉が…。」
「いいんだよ。今日は寒くなるって予報だよ。美風がかわいそうだからね。」
それから準備していたらしい言葉を続けた。 「加湿器を買おうかね。前から思ってたんだけど。インフルエンザの予防にも湿度を保つのが大事だって聞いたからね。そう高いもんでもないし。」
「私は賛成よ。」
凜は複雑な気持ちだった。加湿器のことは自分が言い出すべきではなかったのか。娘は家庭に無関心だと母が思い込んでいると疑った。そんな口振りだった。そして美風には寂しい思いをさせていたとあらためて感じた。
「よ~し、お昼は美味しい焼きそばを作ってあげるからね。」 朝食にはホットケーキを作ったのだ。もっと母親らしいことをしたかった。
香織が 「焼きそばならモヤシを買って来なくちゃね。」と口をはさんだ。美風はモヤシが少しばかり入った焼きそばが大好きなのだ。
「それならついでに夕飯のおかずも買って来てよ。」
「いいよ。美風、晩ご飯は何が食べたいかい?」
「焼きそばッ。」とすぐに答えた。香織は笑いだした。
凜が言った。「美風、焼きそばはお昼ご飯よ。晩ご飯は何がいいかしら。」
「えっと…。」 美風はしかつめらしい顔をしたが頭の中は焼きそばが占領している様だった。
「カレーがいいんじゃないの?」 凜が言うと 「うん。」 とこれも間髪をいれずに答えた。
「それならおばあちゃんが美味しいカレーを作ろうかね。」
「お母さん、まだ無理はしないで。レトルトのカレーで良いわ。今日の処はね。」
「うん…そうだね。」 香織は納得したようだった。そして思いがけないことを口にした。
「凜の小さい頃に “具が大きい” というカレーのCMが流行ったのを覚えているかい。」
焼きそばを大喜びで食べたあと、しばらくして美風は眠そうな様子を見
せた。
「お昼寝しようか。園ではいつもそうしてるんでしょう?」
美風が頭を振った。寝ている間に母親が仕事に行くのではないかと疑っているようだった。美風は眠気と闘いながら凜にしがみついていた。
「絵本を読んであげるわね。」
凜は美風を安心させてやりたかった。そしてゆっくり休ませたかった。美風はまだ病後なのだ。
娘の部屋から一冊の絵本を手にして戻ると、美風はソファーで目を半分閉じていた。このまま眠るかもしれないと思われたが、凜の気配を感じて目を開いた。
「ゾウさんとお魚さん。」 と絵本を読み始めた。
「大きなゾウさんがいました。ズシン、ズシン。ゾウさんが歩くと地面が揺れました。…ズシン、ズシン。」
美風の様子を窺うと、眼が一点を見つめている。すぐにでも寝てしまいそうだった。
「ゾウさんは喉が渇きました。水を飲みたいな。小さな池を見つけました。」
そのとき突然、凜の携帯電話が鳴った。同時にテーブルの上で振動している。凜はある予感に撃たれてそれを一瞬見つめた。
やはり明からの電話だった。
「あらためて食事をご一緒してください。勿論全て凜さんのお好みに合わせますよ。」
明はことさらに快活に喋っているように感じられた。
「ご免なさい。今、忙しくて…。当分忙しいです。書類が溜まっていてしばらくは忙しいものですから…すみません。」
その言葉に感情は少しも籠められていなかった。
「そうですか…。ではまたいずれ…。」 明の気落ちした声で通話は終わった。
凜は自分が情けなかった。…ああ、私って最低だ、と思った。
…もう会わないと言えばよかったのに、あの人に嘘をついたわ。書類が溜まってるのはたしかだけど食事に行けないほどじゃない。最低な女ね。でも、これでよかったのよ。明さんは私の気持ちがはっきり分ったはず。もう電話はこないかもしれない。もっともまた電話が来ても私の答えは同じだけど。
凜は絵本を読むのを忘れていた。
…これでよかったのよ。子持ちのおばさんなんて、もともとあの人には似合わないわ。もっと若くて美人で未婚のモデルさんみたいな人がお似合いよ。あの人もすぐにそれに気づくはず。…さようなら明さん。…さようなら。
凜は自分の中から何か大きな大切なものが失われた事に突然気がついた。ポッカリと胸のあたりに大きな穴が開いている。そして自分が限りなく空虚な存在だと感じていた。
「ママ…。」 と美風の声がした。「ママお腹がいたいの?」
「えっ?」
美風が凜の顔を見つめている。
自分の頬に涙が流れていることに気が付いて凜は慌てた。
「大丈夫よ、だいじょうぶ。」
「ママ、悲しいの?」
「ううん、目にゴミが入ったみたい。」
「えっ、ゴミ?」 美風が驚いて大きな声をあげた。
「小さなゴミよ。今、涙で流れていったわ。」
美風は心細い表情を浮かべて凜の顔を眺めた。
凜は勤務を数日休んだ。
「もうすっかり良いのか?」 歩きながら武田が尋ねた。
「うん、迷惑掛けちゃったね。」
「迷惑って事は無いが、なんだか元気がないみたいだな。」
「う…ん、そうかな。」
武田は凜が本調子じゃないと感じた。
「腹は空いてないか。もう昼だが。」
「うん、そうだね…。」 やはり凜の反応はぼんやりしたものだった。
二人のすぐ先にラーメン店の看板とのれんが見えた。「味楽」と書かれている。
「ラーメンでも食べようか。暖まるぞ、きっと。」
武田の誘いに凜は無言で頷いた。
店の入り口に立つと突然中から激しい怒声が聞こえた。
「ふざけるんじゃねえぞっ、クソ不味いラーメンを食わせやがって。」
凜と武田は顔を見合わせた。店内に入るといかにもヤクザらしい風体の男が中年の女を睨みつけていた。男の年は三十代半ばか。女は店の人間だと思われた。
「聞いてんのかコラッ。てめえのガキはどこにいるんだ。なめた真似をしやがって。」
店内には他に三人のサラリーマンらしい客がいたが、みな凍りついたような緊張感の中にいた。
武田が男に声をかけた。
「どうしたんだ。大きな声を出して。」
「てめえは何だ?スッコンでろ。」 男は武田を振り向いて凄んだ。
「港中央署の者だ。何を大声上げているんだ。穏やかじゃないぞ。」
武田が身分を明かしたが男はさほど動じない様子だった。
「港中央署?てめえに用なんか無いんだよ。さっさと帰れ。」
武田を睨みつけた。
「帰る訳にはいかないな。あんたはこの人を脅迫している。署に来てもらおうか、話を聴きたい。」
「ふざけんな。俺はただラーメンが不味いと言っただけだ。てめえにとやかく言われるこたあ無えよ。」
「そうかな?」
武田は上着の内側から警察無線の細いワイヤコードを曳きだした。
「こちら捜査係の武田です。男を任意同行の上事情を聞く予定。派出所の協力を要請します。」
「了解。現在地に向かわせます。」 と応答があった。
警察無線は長足の進歩を遂げている。機器はスリムでありながら高性能だ。そして通信はデジタル化され暗号化されている。傍受は不可能になっていた。端末間の通信も容易だ。そしてGPS機能が付与されているのが大きな変化だった。署の通信情報を一元的に管理する指令所のディスプレーに警察官の位置を映し出すことが出来た。このシステムはとくに交通機動隊の出動と検問の実施等に威力を発揮した。
「ちょっと待てよ。おかしいんじゃねえか?なぜ俺が引っ張られなきゃならねえんだ。」 男は慌てていた。
「だからその話は署で聞かせてもらうと言ってるんだ。」
男は焦りの表情を表わして怒声を上げ、叫んだ。
「てめえこの野郎、俺を誰だと思ってンだ。このガキが、なめてんじゃねえぞっ。」
それまで無言だった凜が店の女に近づいて声をかけた。
「経営者ですか。」
女は頷いたが、恐怖のせいか体が震えている。凜はその様子を見て落ち着いた声で続けた。
「味楽さん、何も心配はいらないよ。こいつらの勝手にはさせないからね。」
それから鋭い眼を男に向けた。
「みかじめ料か? それが目的なんだろう。」
「何をくだらねえことを。」男が吐き捨てた。
「調べたら分ることだよ。」
「だから俺の知ったことじゃねえんだよ。バカか?」
凜が男に一歩近づいた。
「逮捕してもいいんだよ。」 と強い口調で言った。
「逮捕?」
「そうだ。脅迫ならびに営業妨害の現行犯で逮捕しようか。それともおとなしく事情聴取に応じるか、どっちでもいいんだよ。どうなんだいっ。」
男は目を丸くして凜を見ていた。美しい顔立ちに気付いて、そして自分の耳を疑った。
開けられたままの戸口から、のれんを分けて制服警官が姿を現した。
「武田刑事はおられますか。」
「私だ。」
警察官は武田を向いて素早く敬礼して 「派出所から参りました。任意同行に立ち会います。」と言った。
のれんの間からパトカーの一部が見えた。
男の顔に、俄に追いつめられた表情が浮かんだ。腕を掴もうとした警察官に怒鳴った。
「触るなっ。汚え手で触るんじゃねえ。」
五十がらみの警察官は落ち着いた声で応えた。
「手はちゃんと洗ってるからね。べつに汚くはないですよ。」
「知るか。」
「あなたもそう感情的にならずに冷静にいきましょうよ。あなたはきっと言いたいことがあるんでしょう。署でそれを説明すればすぐに帰れるかもしれませんよ。協力してください。」
男は黙り込んだ。
取調室で武田がテーブルを挟んで男と向き合っていた。だが男は何も喋らない。武田は焦れていた。
「こちらは事情を聞きたいだけなんだ。あっさり答えてくれ。その方が早く帰れるぞ。」 そして質問を繰り返した。「名前は?」
「お前は年、いくつだ?」 これが取調室で男が初めて口にした言葉だった。やはり一筋縄でいきそうもない、と武田は感じた。
取調室の一角にマジックミラーがあって外部から中が見えた。凜が四係の若い刑事と男の様子を見ていた。
「あいつ、誰だい?」
「極東連合の石田だ…。」 若い刑事は驚きを隠さなかった。 「いったいどうしたんですか。」
「ラーメン店の経営者を脅していたから引っ張った。みかじめ料を要求していた疑いがある。」
「引っ張った…?」 しばらく黙った後 「この事を係長は知っているんでしょうか。」 と凜に尋ねた。
「そういう訳じゃないけど。」
「…係長に伝えます。」 そう言って彼はそそくさとその場を去った。
凜が取調室に入ると石田がすぐに声をかけてきた。石田は目の前の刑事より凜の立場が上のようだと敏感に察知したらしい。
「なあ姉ちゃん。たしかに俺は大声を出したよ。それにこんな稼業だ。口も荒かったところがあったろうよ。だけどよ、一円も金の話はしてねえ。それはあんただって分ってるだろう。」
「そうだね…。でも、金をよこせとはさすがに言わないはず。怒鳴って騒いでその結果営業を妨害して金を払うように仕向ける。それがあんた達の手口じゃないの。」
凜にとって暴力団の人間といえども罪を犯さない限りは専門外だ。その凜の正直な気持ちが言葉に表れていた。刑事と思えぬ幼い響きがあった。
石田はそこにつけ込もうとした。
「姉ちゃん、俺は石田ってんだ。極東連合の石田といえばちっとは知られた男だ。誓って言うが、ゆすりたかりの真似事など一度もやったことは無え。本当だぜ。」
凜は石田を凝視した。あながち大きな嘘をついているようには見えなかった。だがラーメン店の中年の婦人が恐怖に震える姿を思い浮かべた。石田をこのまま帰す訳にはいかない、そう考えていた。
この時、取調室のドアがノックされた。先程の四係の若い刑事の声がした。
「朝倉刑事、ちょっと…。」
凜が外に出ると、彼はドアが完全に閉じられているのを確認して小声で囁いた。
「係長があなたを呼んでいます。」
「上杉さんが?」
四係長の上杉は大柄な男だった。顎が角張っていて、口はまるでアンコウのように横に大きく、その厚い唇はたいてい固く結ばれていた。目つきはギョロリと鋭く、大声で話した。いかにもマル暴らしかった。
「お凜ッ。」 顔を見るなり言った。 「石田は釈放しろ。分ったな。」
「えっ? でも…。」
「すぐに釈放だ。聞こえなかったのか。」
「……。」 凜は黙って上杉を見つめた。
「あいつは四係がマークしている。この事は署長も承知だ。わかったな、すぐに釈放するんだ。」
「……。」
「どうした、サッサとしろ。」
「…そうはいかないね。」
「なにっ。」
「あいつはラーメン店の経営者に脅迫行為をはたらいていた。だから俺が取り調べる。場合によっては逮捕してやる。」
「バカなことを言うなっ。」 上杉が怒声を上げた。「一係は一係の仕事をやってろ。余計な事をするなっ。」
「上杉さんが言いたい事はそれだけかい? 俺は行くよ。」
上杉は顔を真っ赤にして叫んだ。
「お凜ッ、俺の言うことを聞け。わからんのか、このバカ女ッ。」
凜はさっさと四係を後にしていく。
「お凜ッ、バカ女めッ。」
上杉は手近にあった机を拳で激しく叩いた。それから憤然とした様子でだいぶ離れた一係長黒田のデスクまで歩いた。
黒田は新聞に目を向けていた。前に立った上杉を一瞥したものの、また新聞に視線を移した。一係と四係は同じフロアーに同居している。衝立やキャビネットなどで仕切られてはいたが大声を出せば聞こえた。 「一係が余計な事をするなっ。」 という上杉の大声は黒田の耳に届いていた。しかも部下をバカ呼ばわりされてはおもしろいはずがなかった。
上杉は黒田から凜にそれなりの指示を出してもらおうと考えていたのだが、たやすく応じてくれる雰囲気ではないと感じた。
「課長は?」 と質問に変えた。
「不在だ。」 黒田の答えはにべもなかった。
取り付く島もないとみた上杉はそのまま署長室に向かった。
板垣はデスクから窓の方を見やっていたが、血相を変えた上杉の様子に気づいて 「おお、どうかしたか。」 と尋ねた。
「署長…。朝倉は四係の申し入れを無視するつもりです。何とかしてください。」 上杉は鼻から息を吹き出した。
板垣は凜と武田が極東連合の石田を任意同行した事をすでに知っていた。
「分った。私が朝倉を説得しよう。」
大きく頷いてそう答えたが、上杉は不満だった。…なにを呑気なことを、命令すればそれで済む話だ。その苛立ちが思わぬ言葉となって口から出た。
「朝倉は…署長の親戚筋ですか。」
板垣が驚いて上杉を見た。その瞬間上杉は 「しまった。」と後悔した。意味の無い事を口にしたのだ。
「いえ、お二人を見ていると互いに遠慮が無いように感じたので…。」 急いで言い訳をした。
板垣は 「う~ん…。」と短く唸った。それからはっきりした口調で言った。
「朝倉は私の親戚ではない。どうも要らぬ気苦労をかけていたようだね。申し訳ない。」
上杉が慌てて手を振った。
「だが…。」 と板垣は続けた。「私は朝倉を子供の頃からよく知っている。いや、生まれたときからと言っていいだろう。」 そして上杉をソファーにうながした。向かい合って腰を下ろしてから板垣があらためて口を開いた。
「朝倉の父親は警察官だった。」
上杉は頷いた。凜の父親が殉職警官であることを知らない者はこの当時港中央署に一人もいないと言ってよかった。
「私の親友だった。」 板垣の目が上杉の顔を離れて遠くをさまよった。
「同期でね。歳も同じ、最初の配属先もいっしょだった。ウマが合うというやつだろうね、すぐに兄弟以上に仲良くなった。同じ捜査課で結構ながくやっていた。」 当時を懐かしむ様子を見せて話を続けた。
「結婚は私が早かったが子供が出来たのはあいつの方が先だった。それが凜だ。やがて進む道が違ってきて、任地も別になった。朝倉は北署に異動した。私は管理職を目指し、あいつは現場に立つ道を選んだ。それでも月に一度は会った。酒の飲めない男だったが喜んで付き合ってくれた。」
その後に短い沈黙があった。
「あいつが殉職したと知らされたとき、とても信じられなかった。凜が小学校に上がる目前だった。…チンピラだ。拳銃を所持したチンピラを説得しようとして撃たれた。弾は肝臓を貫通していた。検視官の話によると、朝倉は撃たれた後十分以上生きていただろうという。…そのときあいつは何を思ったか。香織さんの事、そして凜の事であっただろう。現場に血に染まった手帳があり、何かを書きかけた痕跡があったらしい。きっと家族に言葉を残そうとしたのだろう。どんなに無念だったことか。そう思うと俺は犯人が憎かった。憎くて堪らなかった。」
板垣は肘掛けを拳で小さく数回叩いた。
「香織さんと…つまり朝倉の奥さんだ、そして凜の力になろうとしたが一公務員の私に出来ることはしれていた。命日と正月に必ず家を訪ねた。凜の運動会は一度も欠かさず出た。せいぜいそれ位のことだ。香織さんは実家で父親と暮らしていたのだが、再婚しなかった。美しい人だから話は沢山あったと思うが、やはり朝倉のことがショックだったのだろう。実家の父親が亡くなった後も女手ひとつで凜を育てた。」
板垣は気を取り直すように 「…まあ、そんなところだ。だが私と朝倉の間柄は勿論署員には関係の無い事だ。今後も要らぬ気遣いはしないでくれ。」と話を終えた。
すると上杉が 「犯人は、そのチンピラはどうなったんですか。」と聞いた。
板垣は感情を抑えるようにゆっくりと口を開いた。
「男はセーターが拳銃の引き金に引っ掛かった事による暴発事故だと主張した。朝倉が銃身を掴んで引っ張ったと言うんだ。だがセーターが着古されてすこし伸びていたのはたしかだが手首よりわずかに長い丈だった。どうやったら引き金に引っ掛かるんだ。ところが男はいつまでも最初の主張を押し通す態度だった。その為裁判官の心証を悪くした。拳銃を持っていたにもかかわらず意外にも初犯だったが、反省が見られないと、殺人罪で十五年の刑だった。結局関東刑務所に十五年つとめた。仮出所はなかった。刑務所を出たのは十年程前だ。」
「十年前…ですか。今頃どこにいるんですかねえ。」
なにげなく上杉が口にすると、板垣が 「すぐ近くに住んでいる。」と答えた。
「北署の管内だ。最近になって小さな運送会社を始めている。」
「北署?」
上杉は軽い驚きを見せた。
「殺人という重大な罪を犯しながら、その場所の近くで暮らしているとはどういう神経なんですかね。横着な野郎ですよ。お凜は…朝倉はその事を知っているんでしょうね。」
「知らない…と思う。」
「えっ?」 上杉は意外そうな顔をした。
「朝倉が出所後の犯人について調べた様子が見当たらない。」
「何故ですかね。」 上杉がすこし首を傾げた。
すると板垣は 「君ならどうする。」 と突然に問いかけた。
「自分の大切な家族を殺した人間が近くにいると知ったら、どうするだろうか。」
上杉は思いがけない質問に困惑した。大切な家族…。妻や子供たちの顔が浮かんだ。苦しげな表情で板垣を見た。
すると板垣がその問いに自分で答えた。
「私だったら、対決してやるという気になったかもしれない。思い切り罵倒して、そして土下座させてもいい。刑期を終え、罪を償ったとはいえ、遺族の気持ちはそう簡単に割り切れるものでは無いだろう。
さらに言えば、土下座や罵倒で無念が晴れる訳でも無い。ならば圧力を掛けてやろうと思うかもしれない。職場や住居に頻繁に顔を出す。刑事が毎日のように姿をみせれば職場には居られなくなる。住所も移ることになるだろう。」
そこまで言ってため息のようなものを吐くと、 「朝倉は激しい気性の持ち主だ。」 と指摘した。
「そしてその事を本人もよく知っている。もし出所後の犯人の居所などを知ってしまえば、自分が警察官としての公正で公平な行動を見失うのではないかと怖れている。だから出所後の動向についてあえて調べなかった、私はそう受け止めている。つまりあいつはそれだけ警察官という職業に強い誇りを持っているという事だ。」
上杉は署長の見方は的を外していないだろうと思った。
「今回の石田の件にしても、朝倉の言い分には一理も二理もある。」 板垣は上杉を見つめた。
「組織暴力団の一員がラーメン店の経営者に脅迫的な行為におよんでいる。この事を見て見ぬふりをするなどあり得ない。また、警察の捜査の都合で一般市民に犠牲を強いるなどあってはならぬ事だ。」
上杉は大きく厚い唇を引き結んだ。いっそうアンコウに似てきた。
「だが、君たちの苦労も分っているつもりだ。その努力を無にしたくないのは私も同じだ。だから朝倉を説得して石田をスムーズに釈放させる。任せて貰えないか。」
上杉は黙って頭を下げるしか無かった。
(つづく)
「女刑事物語」(7-2) C.アイザック
「えっ、 誓約書?」 凜が調子外れな声を上げた。
「そうだ、それを石田に書かせろ。」 板垣が事も無げに言った。
凜は意外な指示に戸惑っていた。板垣はその様子を見まもりながら言葉を継いだ。
「朝倉、はっきり言って石田を立件するのは難しいだろう。お前はラーメン店の経営者を安心させたくて粘るつもりでいるようだが。ならば石田に、みかじめ料は一切要求しないと一文を書かせて、それを見せれば味楽さんは一応安心するんじゃないか? そのうえで石田を釈放してやれ。それは上杉が望んで居ることだ。」
「でも、ヤクザが誓約書なんか書くかしら。」
「そこは話のもっていきようだ。朝倉、重要な事を言うぞ。まずその誓約書はただ一度だけ味楽さんに見せる。その後は署内でお前が所持管理する。一定期間をおいてそれは処分される。第三者の目に触れることは無い。それを石田によく分るように伝えろ。あいつも一刻も早く署から出たいはずだ。そして石田が誓約書を書くのに応じたらこだわりを捨てて放してやれ。わかったな。」
凜は黙って頷いた。署長室を出ようとしたところへ板垣が声をかけた。
「朝倉、警察はチームワークで成り立っている。もしそれが軽視され失われたりすればコソ泥一人捕まえるのも難しくなってしまう。お前は分っているはずだ。」
凜はドアの前で立ち止まっていた。それからピョンと一挙動で体の正面を板垣に向けた。同時に直立不動の姿勢をとっている。
「了解した。」 という合図だ。子供の頃に板垣を相手にした警察官ごっこのなごりの仕草だった。板垣は満足そうに頷いて微笑を浮かべた。
その翌日、刑事課のフロアーに設けられた上杉の事務室のドアを叩く者がいた。事務室といっても、壁を背にコの字形に背丈ほどのプレハブの壁が取り囲んでいる造りだ。ガラスの窓とドアが付けられていた。天井は無い。それでも広さはあった。デスクとキャビネット、応接用のソファーとテーブルが置かれていた。
そのドアから凜が顔をのぞかせた。
「上杉さん、ちょっといいかい?」 そう言いながらデスクに近づいた。
「何だ。」 上杉は不機嫌そうに顔をそむけた。
「石田を何の容疑でマークしてたの?」
「お前には関係無い。」
凜は上杉の冷然とした態度には無頓着だった。デスクに身を乗り出して言った。
「もしかして、密輸?」
「なにっ。」 上杉は驚愕して凜を振り向いた。椅子から腰を浮かせたまま凍りついたように動きを止めた。
「お前…、いったいどこでそれを?」
二人の顔は触れ合うほど近くなっていた。
凜は上杉を見つめたまま 「俺の話をきくかい?」 と尋ねた。
たっぷり間があって上杉が頷くと、凜は勝手にソファーに座った。どこかアンコウに似た男が苦虫を噛み潰しながらその前に腰を下ろした。
「石田を釈放した後、あいつの供述の裏を取りに味楽を訪ねた。店主から話を聞いたんだ。」 凜は自分の勘が当たったと目を輝かせていた。
「石田の言うとおり “みかじめ料” の話は無かった。そうではなくて店主の息子の事だった。味楽のご主人は五年前に亡くなって、その後、今の店主である奥さんが店を経営し息子を育てた。去年高校を卒業して店を手伝っていた。」
「お凜、手短に話せ。」
上杉の言葉に凜が頷いた。
「息子は店を手伝いながら調理の勉強をした。そして自分なりの味のラーメンを店で出したいと母親に申し出たが、彼女は反対した。味楽の味は亡くなったご主人が作った味だった。それを守ってきたんだ。だけど息子は納得出来ない。自分のラーメンを作ってその評価を知りたいと思った。」
「お凜、要点を話せ。」
「俺は要点を話してるけど。」 凜の口がへの字に結ばれた。
上杉が慌てて片掌を上げ 「続けてくれ。」 と頼んだ。
「…バンの中古車を手に入れて屋台の経営を始めた。自分の味を知ってもらおうとの気持ちからだ。夕方まで母親の店を手伝い、夜に屋台を出した。その屋台に石田がやって来た。」
上杉は “そこから話してくれてもよかった” と言いたかったが、この男にしては珍しく黙っていた。
「そして石田はラーメンが不味いと突然怒り狂ったという。“ここは俺のシマだ、二度と屋台は出すな。” そう脅したらしい。だがこの時もみかじめ料を要求する言葉は聞かれなかった。…とすると石田の目的は何か。息子が屋台を出した場所へ行ってみた。そこは港のすぐ側だ。公道に面しているが港湾局の管理する土地の一角だ。そこでは海運会社の倉庫が途切れていた。そして立ち木の間から海の方角を見ると、中央港北埠頭の一号岸壁がはるか彼方まで見渡せた。」
「お凜ッ。」 上杉は思わず立ち上がっていた。
見上げたままで凜が続けた。
「屋台を出した場所は一号岸壁と同じ直線上にあった。夜間そこに屋台を出されたら困る事情が石田にはあったということじゃないかしら。」
上杉は 「う~む…。」 とうなってソファーとドアの間の狭い場所をうろうろ歩き回った。
「さあ、石田のことを聞かせて。」
上杉が顔を上げると、凜はいかにもそれを聞く権利があると言いたげな澄ました表情を見せていた。
「うむ…、まあ良いだろう。だがこれは今の時点ではたとえ相手が署内の人間であっても他言は無用だ。良いな。」
上杉は念を押してから、まず極東連合という暴力団について説明した。組員は二十名余り。そのほぼ全員が組長として自分の組織をもっている。その中の一つが管内に組事務所を設けていた。昔のように看板や代紋は掲げられなくなったが、その三階建ての組事務所は厚いシャッターや窓の目張りなどで異様なムードを漂わせている。石田はこの組に属していた。
極東連合に匹敵する勢力を持っているのが大江戸一家だ。ここの下部組織も管内にあった。二つの暴力団は互いに反目していた。
二年ほど前だった。暴力団は対立を深めた。そしてついに神奈川県下で死者一名を出す抗争事件に発展したのだ。この時板垣の対応は迅速で徹底していた。管内の双方の組事務所を機動隊で封鎖したのだ。「先に抗争を仕掛けるのは許さない。」 それが記者会見で表明された板垣の決意だった。このため機動隊は組事務所を背に外部に向けて隊列を組んだ。一見すると機動隊が組事務所を守っているように見えた。この間、四係の刑事達、すでに暴力団関係者に面が割れている者達が先頭に立って働いた。情報の収集と説得に回ったのだ。これが効を奏した。管内では一件の抗争事件も無いままに、やがて極東連合と大江戸一家の手打ちを迎えたのである。
この一連の過程で上杉は重要と思われる情報を手にしていた。大江戸一家の傘下の暴力団員から得た情報である。それは石田が極東連合の所持する拳銃の大半を調達しているというものだった。ガセネタの可能性もあったが石田の身辺を調べて意外な事が分った。石田は極東連合の総長から盃を受けていたのだ。
「盃を受けるってどういうこと?」 と凜が尋ねた。
「親子の契りをもつという事だ。親分子分の誓いだな。石田はこれによって他の組長に匹敵する待遇を受けるということになる。」
石田が拳銃を調達しているという情報は俄に信憑性を持つと思われた。そして拳銃の入手となると密輸入以外の手段は無いはずだった。この時から石田の内偵捜査が始められたのだ。
「それで? 何か分ったの。」
「石田がやっと動きをみせたのが今年の夏だった。マレーシアとロサンゼルスへ行った。観光旅行だったとは思えない。拳銃密輸の準備だったと考えられる。」
「えっ、石田は英語とかしゃべれるの?」
「インテリヤクザというんだろうな、石田は外国語大学を出ている。」
「へえ~そうなんだ…。」
「なんだ、お前は英語がダメなのか。」
「そういう上杉さんはどうなの。」
「まあ、ひととおりはな…。」
「え~っ!」
凜はショックを受けていた。グローバルというワードが不意に浮かんだ。自分だけが取り残された気がした。英語を勉強しなかったことを思いがけず後悔した。気づかぬうちに悲しげな表情になる。
そんな凜の様子を眺めたうえで上杉は笑った。
「嘘だよ。」
「えっ?」
「俺に英語など分るもんか。」
「上杉さんっ!」
凜はテーブルを平手で力一杯叩いた。顔が赤くなっていた。上杉を睨みながら、叩いた掌が痛かったのだろう片方の手で擦った。唇がモゴモゴと動いた。…痛い、と言ったらしかった。
上杉は凜と顔を合わせていることをいつの間にか楽しく感じていた。男勝りでがさつな女と思い込んでいたがちょっと違う。…こいつは純な女だ。相手に真っ直ぐ向かってくる性格だ。上杉はいつか凜が気に入っていた。
そうとも知らず凜は上杉に冷たい流し目をくれながら 「それから。」 と先をうながした。
「石田は最近になって身内の組員だけでなく他府県の暴力団組員複数とも会合している。拳銃を売り捌く相手だろう。」
この時凜の口が小さく開くのを上杉は見逃さなかった。
「何だ。」
「つまり拳銃密輸で商売しようというの? 組織のために拳銃を入手するのが目的じゃないの。」
「両方だろうな。相当数を売れば自分たちの拳銃はタダだ。そのうえで多額の利益を目論んでいるはずだ。」
「そんなに儲かるの?」 凜は興味深く尋ねた。
「暴力団の人間にとって拳銃は喉から手がでるほど欲しいものだ。それを持っていれば他所の組織は勿論自分の組でも存在感を示すことが出来る。
現地では二、三万円の安い銃だと分っていても五十万と言われれば五十万を、百万と言われてもそれを用意するかもしれない。」
凜は黙り込んだ。少し顔を伏せて上杉の胸のあたりを見つめている。その姿勢とはうらはらに強い光が目に宿っていた。
凜は刑事になってまもなく銃撃事件を経験していた。だが凜は立て膝を付いた射撃姿勢のまま、一度も引金を絞れなかったのだ。犯人が凜に銃口を向けた次の瞬間撃鉄が落ちる音をはっきりと聞いた。だが弾丸は発射されなかった。すぐ側の地面に伏したベテランの刑事が「不発だっ。」と鋭く警告を叫んだ。そのとき、死の罠が凜に暗黒の口を開けていた。凜が命を拾ったのは運が良いだけの事だった。決して忘れてはならない体験だった。それは上杉にとっても関係のある事件のはずだったがこの時凜の脳裏に浮かんだ事を知る由も無かった。
上杉は凜が父親のことを考えているのではないかと推測した。同情を覚えたが 「決行が近いと言える。」と本題に戻した。
「だがそれがいつで何処なのか分らない。」
凜が何か言いかけるのへ手をあげて制した。
「このため四六時中、石田に張り付く必要がある。言うほど簡単ではないが必ず必要だと考えていた。しかしこれまでの話から場所は特定出来るかもしれないという気にもなった。だがはたしてお前の勘が当たっているかだ。」
凜が上杉を見つめて言った。
「石田は息子を脅しただけで無く母親の店にまで現れた。疑う余地は無いね。その前提で言えば、石田は実際に屋台が出ていないか確かめに来るだろうし、決行の直前にはその場所に大きなトラックなどを持って来て目隠しに使うはずだ。つまり石田の動きが答えを出してくれる。こちらは気付かれないように一号岸壁を監視していれば良い。」
「意外に楽天的だな。」
「えっ?」
「仮にそこを密輸現場とすると、大きな疑問が残る。」
上杉は腕を組んで凜に問いかけた。 「お前ならどんな方法を使う?」
凜は質問がすぐに理解できずに黙っていた。
「バッグ類に忍ばせるか、それとも材木をくりぬいて隠すか? 拳銃だからな。そんな覚醒剤のようなわけにはいくまい。しかも大量なはずだ。」
「ああ、そういうことね。…やはりコンテナを使うんじゃないかしら。奥の方に拳銃を置いて手前と上に輸入品を重ねて、もし扉を開けられても簡単に見つからないようにすればいいわけだから。」
「そう考えるのが普通だ。だがコンテナを運ぶ貨物船は北埠頭には来ない。全て南埠頭へまわる。」
「あっ、…。」
「だから我々も南埠頭を中心に情報を探ってきた。陸揚げされたコンテナを運ぶとなると海運会社、荷役会社、運送会社のいずれかと繋がりがなければならない。空になったコンテナは返却する必要があるからだ。石田あるいは極東連合と関係のある会社はどこか。いくら調べてもその線が浮かんでこないのだ。」
「息のかかった運送会社がきっとあるはずよ。」
「この場合は海運会社と取引のあるところに限られるんだ。税関の検査もある。関係のない運送会社のトラックは港に入れないらしい。尤も見知らぬ運送会社が荷を引き取りに来ることがごくたまにあるそうだ。税関と海運会社との手続きが済めば何処の運送会社であっても構わないわけだが、その際は荷役会社が港の一角にコンテナを仮置きし、運送会社がトラックを着ける。そこで荷をトラックに積み替えることになる。もし石田達がこれをやってくれるとこんなありがたい事はないが。かなり目立つ、というより一目瞭然だからな。ま、奴らもそれくらいは考えるだろう。あとは荷役会社に頼むしかないが、これも取引がなかった場合、今度は荷役会社のヤードに荷を取りに行かねばならない。俺たちはそのあたりを重点的に監視している。これからもそのつもりでいた。だが北埠頭の可能性も決して低いとは言えない。…悩ましいところだ。」
凜は考え込んだ。石田は北埠頭を使うつもりだ。だが推測でしかない。その目的が拳銃の密輸入とは別の可能性もある。その手段にしても夜陰に紛れて直接船から降ろすものと単純に考えていたが、密輸品が大量の拳銃となると話が違ってくる。今の時点で南埠頭を無視するのは無謀だ。
「その荷役会社は何社あるの?」
「南埠頭には五社だ。」
「それを全部監視するつもり?」
上杉はすぐには口を開かなかったが 「やるしか無いな。」 と自分に言い聞かせるように声を強めた。
凜は驚いた。四係の刑事は上杉を含めて十三人しかいない。六班で荷役会社を見張り、埠頭を警戒し石田に張り付く、到底無理な事だった。
「署長に相談すれば良いわ。どのみち本庁の力が必要になるのじゃ無いかしら。」
上杉がジロリと凜を睨んだ。 「今、本庁に丸投げ出来んぞ。何かしっかりした証拠を掴みたい。それからだ。」
「それには人数が足らないわ。無理よ。」
上杉は大きく息をついた。「本庁の組織犯罪対策係長は明智という男だ。俺と同期だ。相手は随分出世したがな。お凜、みなまで言わすな。俺にも意地というものがある。」
凜は黙って上杉の顔を見つめた。口が真一文字に結ばれていた。直面する容疑は拳銃密輸入。その重大性は一刑事の意地と比べるべくも無かった。
「それに、無理とは言えないぞ。必ず石田が動くはずだ。石田の動向さえ把握しておけばよいことになる。…いざとなったら所轄だけでもやれる。」
「それを逆手に取られたら?」
「大丈夫だ。三班が交替で張っている。一人も面はわれていないから気づかれる可能性はない。」
凜は上杉に賛成出来なかった。理論的なようで客観性に欠けている。重要と思われる部分が仮定に立脚した危うさを感じた。
「上杉さん、北埠頭一号岸壁に入港予定の貨物船を調べて。それから署長にも報告を。…一係が応援に回れるはずよ。」 凜は本庁という言葉を飲み込んだ。
「うむ…、そうだな…。」 上杉の声には迷いが感じられた。
(つづく)
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