第6話
「女刑事物語」 (6-1)
凜は出勤を急いでいたが、朝から不機嫌な様子だった。昨日なんとも浅ましい夢を見てしまったのだ。自己嫌悪を感じていた。
警察署の正面入り口は、左右に開く大きな自動ドアとその隣の小さな手動のドアである。どちらもアクリルの強化プラスチック製で、紫外線対策の色が付けられている。ドアに続く壁面にも数メートルだけ強化プラスチックが使われていて、ミラーウオールのような瀟洒な雰囲気を感じさせた。小さなドアは開け放たれていて、署員が続々と建物に入っていく。
凜はその列から一人離れて壁面に足を向けた。そこには冬の朝日を浴びた凜の顔がくっきりと映し出されていた。
「ああ、やっぱり…。」
いかにも不機嫌そうな表情がそこにあった。
「これじゃダメだわ。ちっとも可愛くないし、それにいくらか老けて見えちゃう…。」
そういうことには無頓着だったくせに、なぜか急に外見を気にし始めたようだ。 凜ッ、いつもと違うぞッ!
凜はアゴを左右に動かして角度を変えながら、鏡を見るように壁面に映った顔を確かめている。それから唇の端を上げたり下げたりした。そんな凜のしぐさは内部の人間からは丸見えなのだが、気付いていないのか気にしていないのか、自分の顔の点検作業に熱中している。
建物の中では凜の正面あたりで三人の女が立ち話をしていた。交通課のみどりと同僚、それに三十歳ほどの庶務課の女性職員だった。
彼女達はすぐに凜に気づいた。みどりが慌てて頭を下げたが、外からは見えていないのだと分った。
「お凜さん、何をしているのかしら。」
みどりが呟くと、職員が 「きっと笑顔の練習よ。」 と推測した。
たしかに凜はさかんに口角を上げている。みどりの同僚がクスクスと笑った。
凜はやっと納得がいったらしい。ドアを通り抜けた。
「お早うございます。」 女たちが声をかけた。
「お早う。」 凜は練習したばかりの笑顔を作った。同僚が笑いを怺えている。
「お凜さん、笑顔が素敵ですよ。」 職員が呼びかけた。
「ありがと。」 今度は自然な笑顔を見せて凜が立ち去った。
みどりが言った。 「お凜さん、なんだか可愛い…。」
「でも…。」 と同僚が抱いていたらしい疑問を口にした。
「なぜ皆あの人のこと “お凜さん” て呼ぶのかしら。なんだかヤクザの女親分みたいじゃない?」
すると職員が意味ありげな目つきで 「なぜお凜さんと呼ばれるようになったか、知ってる?」 と聞いた。
みどりたちは顔を見合わせた後、職員にこもごも首を振った。彼女は手招きして小さなソファーに三人で腰を下ろした。
「あのね、もう七、八年前のことだけど、うちの署にすっごいセクハラオヤジがいたのよ。」
「セクハラ?」
「そう、警察官のくせに。信じられないでしょう? 刑事だったの。怖い顔をしてて、ものすごく威張っていたわ。署の女たち全員が嫌っていたのよ。そのうえセクハラでしょう。もう、今思い出しても吐き気がするわ。」
「署長はなぜ放っといたのかしら。」
「当時の署長も課長もなんだか遠慮していたみたい。その男の定年が近かったからじゃないかしら。それに私たちがセクハラでどんなにイヤな思いをさせられるか、男たちには今イチ分ってなかったのよ。…だからソイツはますますつけあがって、相手が女とみるともう怒鳴ってばかり。そのうえ胸が大きくなったとか尻がどうとか言って。庶務の女の子が給湯室で泣いていたこともあったのよ。」
「ひどいわ。」 みどりは憤然とした。
「それからどうなったの?」 と同僚。
職員が二人の顔をゆっくりと見まわしてから言った。 「そのセクハラオヤジを、お凜さんがコッテンパンにやっつけちゃったの。」
「えっ?」
「コッテン…?」
「そう、コッテンパンに。」 彼女は眼を輝かせていた。
男の名は蛭沢といった。猪首で小太り、眼には粘り着くような光があった。刑事課の最古参だった。このため刑事たちは蛭沢に一目も二目置いていた。課長ですら遠慮がちに接していた。蛭沢の定年が一年後に迫っていたからだ。
蛭沢はクセのある性格の持ち主だった。相手が自分より弱いとみると、にわかに傲慢で高圧的な態度をとった。若い刑事の些細な失敗を繰り返し責めた。厳しく接していると思われたが、実は快感を覚えていたのだ。
相手が女となるとその態度は更に輪をかけたものになった。辺り構わず怒鳴りつけるのはざらだった。お茶を淹れた女性警察官を叱りつける。
「お前は自分の淹れた茶が熱いかぬるいかも分らんのか、バカ者ッ。」そして周りの男たちを見渡しながら 「これだから女はダメなんだ。」 と同意を求めるかのような顔をした。
蛭沢は女たちから怖れられ嫌われていた。やがて彼自身もそれに気付いた。この頃からセクハラを疑わせる言葉を口にするようになったのだが、それがエスカレートしてきた印象があった。
蛭沢が何枚かの領収書を手にして庶務課をのぞいた。若い女性職員に粘り着くような視線を向けて言った。
「おい、仕事をしているか?」
「…はい。」
「じゃあ立ってみろ。」
「えっ?」
「立ってみろ。」
何のことかわからずにその職員は椅子から立った。
「やっぱりな。仕事が足らんから尻が大きくなっているぞ。色気付いたと思っていたが仕事が足らんのだ。」
あまりのことに彼女は怒りを感じた。
「なぜそんなことを仰有るんですか。」 と必死に抗議すると蛭沢は 「オッ、文句があるなら辞めてしまえ。庶務の代わりなどいくらでもいる。」 そう言い放った。彼女はその場から逃げ去った。給湯室に駆け込んで泣き出してしまった。同僚二人が後を追って慰めようとしたが何を言っていいかわからず、ただ背中をさするばかりだった。
このことを知らされた庶務課長はすぐに刑事課長を訪ね、明らかなセクハラだと指摘した上で 「善処してほしい。」 と伝えた。
しかし刑事課長はこの時点では状況の深刻さを理解していなかった。蛭沢に言った。
「普通に使われている言葉でも、いったんセクハラと受け取られるとそれを否定するのが難しくなってしまう。女子職員と接する際の言葉使いには充分に注意してくれ。」
「分ってます、分ってますって。」 蛭沢は軽く頷いて見せたがその実分ってなどいなかった。
翌々日、再び庶務課長が刑事課に姿をみせた。刑事課長は眉を寄せて小会議室へ導いた。
「何かありましたか。」
「いえ、…蛭沢刑事の処分はどのように決まりそうですか。」
「処分?」 刑事課長は意外そうな顔をした。「とくに処分を検討してはいませんよ。ま、口頭で厳重に注意をしておきましたから。」
今度は庶務課長が驚きの表情をみせた。白髪の目立つ頭を傾けて相手を見つめた。
「その事は…、つまり署長はご存知なのですか。」 と尋ねた。
二人の視線が絡み合った。 ややあって刑事課長が口を開いた。
「今日にでも署長に報告しましょう。」
仕方なくという気配だったが、庶務課長はホッとしたように頷いた。
その数日後のことだった。凜は朝から不機嫌そうだ。結婚について悩ん
でいたのだ。
凜は結婚を申し込まれ、それを承諾した。相手は近所の町工場の二代
目の若い経営者だった。子供の頃からの顔なじみで好感を持っていた。
しかし結婚を申し込まれたときはただ戸惑いしかなかった。だが彼はその
とき、凜が望むなら結婚後も警察官を続けても構わないと言ったのだ。凜
の心は激しく揺れ動いた。警察官を続けても良い…、そんなことを口にし
てくれる男がはたして他にいるだろうか。
結婚に憧れていた。そして刑事の仕事にも強い愛着を感じていた。その
両方を手にすることが出来ると思えた。凜は申し込みを受けたのだ。
結婚の具体的なスケジュールが進行した。結納も済んだ。しかしこの頃
から凜はなぜかイライラするようになった。凜は結局、愛情以外の理由で
結婚を決めたのだ。だが若い凜はそれをはっきりとは気づけなかった。
子供の頃から顔を知っている近所のお兄ちゃんだった。祭りのときに人
波に押されて転んだ凜をいつのまにか側にいて抱き起こしてくれた。摺り
剥いた膝の砂を払って 「大丈夫かい?」 と聞いた。「大丈夫に決まって
るだろう。」 そう凜が叫ぶと優しく頷いた。彼が好きだった。だが愛してい
た訳ではなかった。この心の不思議さを、後々凜は考えることがあった。
きっと愛することが出来ると思っていた。だがそれがはたして出来たのかと
自分に問うのだった。
だがその当時、凜は “好きなお兄ちゃん”との結婚が具体化するに従
いイライラしていた。そしてなぜ自分が苛立っているのか分らずに不機嫌
になっていたのだ。
一方、蛭沢はかねてから凜に目を付けていた。小娘のくせに生意気だと
憎んでいた。凜は蛭沢を怖れるそぶりがまったく無かったのだ。そんな小
娘にいつか赤っ恥を搔かせてやろうと考えていた。
蛭沢は凜の表情にいち早く気付いた。しめたとばかりに近づいて声をか
けた。
「どうした姉ちゃん、随分機嫌が悪いようじゃないか。」 更に続けた。
「さては何だな…、ゆうべ彼氏にヤッて貰えなかったんだろう。」
周りの男たちがギョッとする内容だった。
「うるさいね…。」
凜が小さな声で言った。不機嫌のあまり咄嗟に大きな声が出なかっただけなのだが、蛭沢は凜が弱々しく反発したと受け取った。
この時その場に居合わせた課長は椅子から腰を浮かせていた。これはさすがに看過できないと考えた。 「蛭沢 君」 と声をかけたが、それは耳に入っていない。蛭沢は舌なめずりするように凜に迫った。
「どれ、何なら俺が代わりに…。」 そう言って凜の胸に手を伸ばした。
蛭沢もさすがに胸を触ろうとは思っていなかった。凜が身をよじって悲鳴の一つでもあげれば高笑いしてやろうと企んでいた。それで今朝の余興は終わる…。
だが凜の反応は素早かった。伸ばしてきた腕を掴むと同時に空いている右手で蛭沢の喉元のシャツを瞬時に力一杯握り締めた。その動きは正確で殴りつけるほどの速さだった。そのままグイグイと押し込んだ。蛭沢は不意を突かれて二歩、三歩と後退した。アゴが上がっていた。頭にカーッと血が上(のぼ)った。皆が見ている。このままではメンツが立たない。必死に力を絞った。なんとか押し止めたと思えたそのとき蛭沢は凜の姿を見失った。両足が床を離れた。あっと叫ぶ間もなく床に叩き付けられた。蛭沢は受け身が取れなかった。それほどの技のスピードだった。
「ぐう~。」 と呻いた。呼吸が出来なかった。
凜は蛭沢の腕を固く掴んだままである。尻を床に滑らせてその腕の付け根あたりを素早く両足で挟み付けた。手首はすでに極まっている。柔道の関節技だ。
蛭沢が凄まじい叫び声をあげた。両足をバタバタと激しく動かして激痛に喚いた。凜のスカートがめくれて黒いストッキングが太股の上まで剥き出しになっていたが、気にも留めずに男の腕を絞め付けた。蛭沢は悲鳴を上げていた。顔をクシャクシャに歪め、固く閉じた目蓋から涙が流れ出した。
この事態に周りの男たちは声を失っていた。数々の修羅場を経験してきた刑事たちにとっても、あまりにも思いがけない一瞬の出来事だった。
「…朝倉君、止めたまえ。」 課長がかろうじて声を上げた。
凜が手を放して立ち上がった。
「ちくしょう~。」
蛭沢は絞り出すように喚いたが、虚勢にすぎなかった。片手で腕を抱え込んだまま、床に上体を起こすことすら出来ずに小さく呻き続けた。凜は仁王立ちでそんな蛭沢を見下ろしていた。立ち上がってくるのを待っているのである。
この年、刑事課に配属されたばかりの武田は目を見張った。それまで一歳しか違わない先輩の女刑事を半信半疑で見ていた。だが今目前にいるのは紛れもなく強行犯担当の刑事だった。凜の小さな体に闘志が漲っているのが見て取れた。彼女がその気になれば蛭沢を絞め落としてしまうだろうとさえ感じた。
凜は蛭沢が立って来ないのだと知って顔を上げた。視線を天井のあたりに泳がせた。その顔が突然に深い悲しみの表情に覆われた。凜はこの瞬間に辞職を決意したのだ。
署長は不在だった。凜は 「退職願い」 を机に置いた。誰もいない椅子に向かって頭を下げた。その足で屋上に向かった。一人になりたかった。朝早いこともあって思ったとおり屋上に人影は無かった。青空だった。雲がわずかに散っている。季節は五月。凜の心とはうらはらに爽やかな光があたりを包んでいた。
凜は大きなため息をついた。 「ああ、やってしまったわ。」 そう呟いたつもりだが声は出なかった。…軽くても停職は免れないだろうと考えていた。停職の処分を受けてなお職にとどまる警察官はいない。停職はつまり免職を意味していた。それ故の退職願いだった。
青空に白い小さな雲が浮かんでいる。雲は人の横顔に似ていた。凜はそれをぼんやりと眺めた。やがて小声でささやいた。
「お父さん、ご免なさい…。」
軽く閉じたまぶたの隙間から、涙が一筋頬を流れ落ちた。
署長は頭を抱えていた。当時は板垣ではなく前任の署長だった。刑事課長から詳しい報告を受けたのだ。
「あのバカめ…。」 と声に出して罵った。蛭沢のことである。
蛭沢のセクハラ行為について課長と話合ったのはつい先日のことだった。
「署内には何らかの処分が必要とする意見もありますが…。」 と課長は述べた。署長はすぐにその意見が庶務課長のものだろうと察しを付けたうえで 「その必要は無いだろう。」 と言った。
長年の苦労に報いるためにも、キズひとつ無い晴れやかな気持ちで定年を迎えさせてやりたい。それに本人も定年を意識しているはずだ。女性の職員たちから花束などを手渡されて気持ちよく職場を去りたいと思うだろう。
ならばセクハラ行為は自然と消えることになる。処分は必要無い。
「ま、君から口頭で今一度厳しく釘を刺して置いてくれ。」 という事で済ませた。しかしその結果、最悪とも言える事態が起きてしまったことになる。蛭沢が署内の女たちに嫌われていることを薄々気付いていたにもかかわらず、署長はその背景を洞察出来ずに判断を誤ってしまったのだ。
「甘かった…。」 その遅すぎる後悔に意味はなかった。
セクハラについてはここ最近、世間の目は格段に厳しくなった。一昔前のような 「解釈の相違」 という言い訳はまったく通用しなくなっている。蛭沢の言動は許されるものでは無かった。また、凜の行為は暴力犯罪に他ならなかった。どのような言い訳も通らないと思えた。本来なら二人ともその責を負い、厳しい処分がなされるべきだった。だがこの時、署長は二人の処分に踏み切るかどうか迷っていた。保身がその理由だった。
二名の処分について本庁に報告し判断を仰ぐには、その原因となる事由について詳細に伝えなければならない。それを都合よく繕っても、必ず本庁の監査が入ると想像出来た。その結果蛭沢のセクハラ行為を放置した事が明るみに出たならば、管理者としての資質が問われることになる。二人の処分どころか署長自身が進退伺いを出す羽目になりかねなかった。
署長は腕組みをして頭をひねった。凜の退職を認めれば、ことの本質は明るみに出ないで済む。そして内部的には一応のけじめがつくことになる。
だが…と考えを巡らせた。署内の女たちが事の成り行きに注目していることは容易に想像出来た。もし蛭沢に何ら処分がなされずに凜が退職するということになれば、彼女達の怒りは頂点に達するだろう。そうするとこの事は必ず外部にリークされる。そして新聞、テレビ、はては週刊誌の格好のターゲットになってしまう。署長は首を竦めた。
結論は、蛭沢については口頭による厳重注意、つまり記録は残らない。それに対応して凜には訓告という軽い処分を下すことになった。いかにも姑息な処理と言えたが、その結果、凜は辞職のピンチを免れたのである。訓告の内容も暴力行為を表現することが避けられていた。
刑事課捜査係員 朝倉 凜 巡査部長。 右の者、今般、職場内の和を乱す言動が見られたのは甚だ遺憾である。厳しく反省の上、今後とも職務に精励すべし。 ここに訓告するもの也。
だいたいそのような内容だった。凜は黙って処分を受け入れた。警察を辞めたくない、それが凜の本心であったことは言うまでも無い。
意外にも哀れなのは蛭沢だった。女たちの態度が一変したのだ。彼女たちは凜に下された処分の内容よりも、一方で蛭沢に何ら処分が無かった事を憤慨していた。もはや蛭沢の機嫌をうかがう者はいなかった。蛭沢が厚かましくも 「おい、茶を淹れてくれんか…。」 などと口にしても、誰一人見向きもしなかった。彼女たちはあからさまに、そして徹底して蛭沢を無視した。
男たちの態度も微妙に変化していた。それまで蛭沢に一目置いてきたが、考えてみれば古いというだけで何か大きな功績があった訳では無かった。その割には不遜な態度に終始していると気付いた者もいた。
刑事たちがこの出来事を話題にする。 「あれはいただけないね。」 と一人が言った。 「もし相手が凶悪犯ならどうする。少しだらしないじゃないか?」
それは多くの男たちの感想だった。蛭沢は次第に居たたまれなくなったのか、ほどなくして早期退職を願い出て受理された。
この頃から女たちが、年配の者は 「お凜ちゃん」、年の若い者は 「お凜さん」 と呼ぶようになった。彼女たちにとってそれは単なる愛称ではなかった。セクハラと不器用にも文字通り闘った凜への共感と、ある種の敬意をこめたものだったのだ。
(つづく)
「女刑事物語」(6-2)
凜の携帯電話が鳴った。明からの着信だ。凜は目を閉じた。明の声が聴けると思った。そして当然、明の声が聞こえた。
「今夕、食事を付き合って貰えますか。」
「はい、分りました。」 その直後、なぜもっとムードのある返答が出来なかったのかと悔やんだ。ともあれ明と初めてデートするのだ。体がフワフワと雲の上にいるようだった。
凜は早々と帰宅して準備にかかった。まだ外は明るい。何を着ていくか迷った。しかし鮎川家のユリのクローゼットの中身と比べると、洋服ダンスの中に選択肢はさほどなかった。ドレスなど一着もない。服を買うときに注目するのは動きやすいか、頑丈かという二点だけだった。凜は今更ながら自分が女らしいお洒落とは無縁な生活をしていると気づいた。
結局、娘の入園式のために購入したスーツに決めた。有り体に言えばそれしか適当と思える服が他に無かった。
母の香織が近くに来た。
「凜、どっか行くのかい?」
「あのねお母さん、男の人に食事に誘われたの。だから、ちょっと行ってくるね。」
香織にしてみれば突然な話だった。
「いったい誰なんだい?」
「お母さんの知らない人よ。」 そして母を安心させようとしたのか 「すごいお金持ちみたいよ。」 とつけ加えた。
それが逆に香織を不安にした。
「凜、まさかあんた…。」
「まさか、何。」 凜はムッとしたようだった。
「…その人は、真面目な人なんだろうね。」
「そうよ。お母さんが心配することは無いのよ。」 そして不意に気づいた。 「美風は?」 美風の姿が見えないのだ。
「美風は寝てるよ。」
「えっ? こんな時間に?」
「保育園でクリスマス会の準備があって、それで疲れちゃったみたい。帰って来てすぐ寝ちゃったわ。」
「そう…。」 凜は鏡を見て服の着こなしをチェックしていた。
街はクリスマス一色に染められている。あちこちでサンタやツリーをかたどったイルミネーションが夕闇に美しく光を散りばめていた。
約束した店の前で明が待っていた。凜は上目遣いで明の顔を見た。背がスラリと高い。趣味の良い長いコートを着ていた。豊かな髪にウエーブがかかり、それでも襟元や耳の周りはスッキリとしていた。顔は小さい。秀でた額と男らしい鼻筋が目に飛び込んでくる。わずかに弧を描いた眉。そしてやや大きな眼。吸い込まれるみたい…と凜は思った。二重の瞼には男にしては長い睫毛が見える。それから引き締まった口許。唇はもう少し厚くても良いかなと思えるが、上唇は薄くても下唇が肉感的なのでそれでいいのだと納得した。頬骨から顎にかけてのラインは青年のように引き締まっている。
明のハンサムな顔を見ていて、凜は自分の口許がニヤリとひん曲がるのに気付いた。慌てた。そんなの下品だと必死にもとの表情に戻した。
明が笑顔を見せた。こちらはいかにも渋い魅力があった。
「凜さん。また会えましたね。」 と、初めての頃と比べると少し砕けた口調になっていた。
店はカジュアルな感じだった。「地中海料理」 の看板があった。店内はレンガを連想させるタイルと白い漆喰が使われていて地中海地方の民家を想わせた。遠慮がちにクリスマスソングが流れている。凜のスーツ姿は雰囲気にまったくなじまなかったが、明は気にする様子を微塵も見せなかった。
「ここのパエリアが実に美味しいのです。」 と明が言った。さらに 「ワインのお好みがありますか?」 と尋ねた。
凜は慌てて手を振った。 「私、アルコールはあまり…。」
「そうですか。」 明は少し残念そうだったが 「凜さんは地中海を旅行されたことがありますか?」 と問いかけた。
凜はまた同じように手を振って 「海外旅行はハワイに一度行ったきりです。」 と答えた。そのハワイ旅行も実は離婚した前夫との新婚旅行だったのだがその事は口にしなかった。
「ハワイもたしかにいいですね。」 明があかるい笑顔を見せて言った。
凜はハワイ旅行の話を避けたくて慌てて質問した。
「明さんは地中海に行ったことがあるんですか。」
「学生の頃二度ヨーロッパに行きました。地中海には強い印象を受けましたね。そして地元の人たちとも触れ合いました。言葉はうまく伝わりませんでしたけどそれなりのお付き合いが出来たという感じでした。…懐かしいな。漁師さんとも仲良くなりましてね。そういえばタコを茹でるのを手伝ったことがあります。」
「タコ?」
「そうです。あっ、でもこれはドーバーの方だったかな。どっちだったかな…。」 苦笑を浮かべた。 「とにかく漁師が浜でタコを茹でているんです。物を運ぶのを手伝ってやりました。すると漁師は外国の留学生だと思ったんでしょうね、タコの煮汁を紙コップに注いでくれました。その熱いタコの煮汁がうまかった。美味い、と言うと、タコよりこっちが美味いねと言ってウインクしてました。」
「ヨーロッパ人って、タコを食べないと聞いたことがあるんですけど。」
「ああ、あれはイギリス人が大袈裟に言ってるだけじゃないかな。フランス人もイタリア人も、スペイン人もタコは普通に食べていたと思いますよ。」
明のお勧めのパエリアがテーブルに運ばれた。サフランをふんだんに使ったことが見て取れた。米粒が黄金色に輝き、エビ、小さく刻まれたタコ、そしてムール貝などの海の幸が載っていた。
サフランの華やかな香り。凜がスプーンを口に運ぶのを、明は白ワインを含みながらにこやかに見まもっていた。
「ああ、美味しい。」 凜が呟いた。
まるでアルデンテのパスタのような歯触りと食感だった。米でありながら日本のご飯とまったく違う。そして濃厚な旨味。
「ありふれていながら、完成された料理と言えますよね。これが家庭料理なのですから、素晴らしい文化だと思います。」
明の言葉に凜は大いに納得したように頷いた。もっとも今の凜は明が何か言いさえすれば全て納得したに違いなかった。
「ムール貝の旨味がこの料理を引き立てています。」 と明が続けた。「二枚貝の中で最も味が良いと私は思っています。けれどもムール貝に匹敵するほど美味いのがヒオウギ貝です。小さくてピンクや朱色、淡い紫などの色をした美しい貝です。だがこちらは口にすることがほとんど出来ません。日本の各地で採れますが出荷するほどの数量が無いからです。」
凜は明がいろいろなことを知っていると驚いた。ウットリした様子で彼の顔を見ていた。
明は凜を前にして饒舌になっていた。軽い興奮が彼を捉えていた。
「そうだ。」 と明が思い出したように言った。「ユリが凜さんと私の写真を撮ってくれましたよね。それをあなたに送らせてもらって良いですか。」
「ええ、喜んで。」
凜はハンドバッグの中の携帯電話を探った。その画像をすぐにでも見たいと考えたのだ。するとそれは手に触れたと同時に激しく振動した。
「えっ?」 画面を見ると母、香織からだった。 「お母さんだわ。」 凜はそう言って体を横向きにした。
「どうしたの?」 小声で聴いた。
「美風がっ、」 香織が叫んだ。 「美風が急に苦しみだして。吐いたの。救急車を呼んだわ。あっ、また…。」
「お母さん!」
「美風、しっかりしてっ。」 香織の声が伝わった。
「お母さん、お母さん!」
「…中央病院の救急外来へ運んでもらうわ。アンタもすぐ来て。」
凜は立ち上がっていた。体を小刻みに震わせていた。そして、
「私なんて、母親失格だわっ。」 そう小さく叫んだ。
「すぐ病院に行かれた方が良い。車を呼んでもらいましょう。」 と明が言った。
「外へ出てタクシーを探すわ。」
「でも…。」
「車も呼んでもらって、どちらか早いほうで行くつもり。」
明が店のスタッフに声をかけた。
「至急車を呼んでくれ。それからこの方のコートを…。」
ガラス戸の向こうは真っ暗に見えた。凜が急いでコートの袖に腕を通した。「ああ、私はいったい何をしているの。何を…。」
凜の呟きが明の耳に届いた。
外へ出るといつの間にか雨だった。冷たい小雨がすぐに二人の髪を濡らした。そこへ一台のタクシーが近づいて、すぐ目の前で停まった。客が降りるようだった。車内の照明が付けられ料金を支払っているらしい姿が濡れた窓越しに見えた。
凜はまだドアの開いていない車のすぐ側まで近づいた。明がその横に回り込んで手をとった。
「凜さん…。」 明は彼女が電話をうけてから一度も顔を合わせようとしないことが気になっていた。 「凜さん、また会ってください。」
だが凜は無言だった。
「凜さん?」
凜が振り向いた。悲しげな眼が大きく見開かれている。その髪も、顔も、瞳さえも雨に濡れているようだった。そして凜は首を振ったのだ。
「もう、私…。」
「えっ?」
タクシーのドアが開いて客が降りた。すぐに小走りで雨の中を去って行く。
「凜さん、また会ってくれますよね。」
「ご免なさい、もう…。」 かすかに囁いた。
「凜さん…。」
タクシーの運転手が 「お乗りになります?」 と大きな声をかけた。凜が乗り込むとすぐに車は動いた。明は思わず車道に踏み出した。そして雨に濡れながら、赤いテールランプが小さくなるのを茫然と見送った。
タクシーの窓にクリスマスのイルミネーションが映っては過ぎていく。凜は一刻も早く病院に着くことを願った。激しい焦燥に駆られていた。そして同時に自分を責めた。
「あんな時間に寝てるなんて、なぜおかしいと思わなかったの。美風の様子を見に行こうともしなかったわ。明さんに食事に誘われて有頂天になっていたのよ。なんてバカなの! …美風が重い病気だったらどうしよう。もし腸閉塞なんかだったら? ああっ、美風が死んでしまう。美風!」
凜は突然強烈な恐怖に襲われていた。
病院に着くと、受付のカウンターの前に長椅子が並べられていて、そこに香織が入り口を向いて立っていた。
「お母さん、美風は?」
「大丈夫だよ。」 香織が落ち着いた声で答えた。「美風は大丈夫、だいじょうぶだよ、凜。」 そしてすぐ近くの処置室と書かれたドアを指した。
「今お尻から薬を入れてもらってるとこ。」
「お尻から?」
「そう、飲ませてもすぐに吐いてしまうからって…」
「いったい何の病気なの?」
「嘔吐下痢症だろうって。」
「嘔吐…?」
「きっと保育園でもらって来ちゃったのよ。ウイルス性みたい。」
香織が処置室のドアを開けた。白い布が張られた衝立を回ると美風がベッドに横たわっていた。看護師が薄い毛布を被せるところだった。
「美風。」
凜の呼び掛けに美風はぼんやりと眼を開けた。
「ママ…。」 静かにうれしそうな笑顔を見せた。
看護師が言った。
「もう大丈夫ですよ、お薬を入れましたから。このまま二十分ほど休ませてください。容体に変化が無かったら、もう連れてお帰りになっても結構ですよ。保育園の方は四日間お休みさせてください。」
「分りました。有り難うございます。」 凜が頭を下げた。
看護師はさらに 「あちらに椅子がありますから。」 と部屋の隅を指した。
二人は美風の側に椅子を並べた。
「ご免なさい、お母さん。すっかり迷惑を掛けちゃったわ。」
「良いのよ。それよりコートを脱ぎなさい。濡れているわ。このうえあんたが風邪でも引いたら大変よ。」
そう言った香織が腹痛を訴えたのは帰宅して美風を床に休ませてすぐの事だった。トイレに駆け込んだ。ひどい下痢だという。美風の病気がうつったに違いなかった。
「お母さん、また病院へ行こう。」
「いいんだよ。嘔吐下痢なんぞに負けてたまるもんか。」
「お母さん?」 凜はあきれたが言い出したら聞かないのだ。そして考えてみれば美風一人を残せないし、再び連れ出すのもどうかと思われた。
「布団を敷いておくれ。それから痛み止めの薬を取って。」
床に入ってすぐにまたトイレへ行った。出て来たときには肩で息をしていた。
「お母さん大丈夫? 痛み止めって、いつも飲んでるこの薬?」
「そうだよ。抗生剤の働きもあるんだって。これを飲めばたいがいは治っちゃうンだよ。」
しばらく母の様子を見ていた。嘔吐する気配はみられなかった。
「凜、お前もおやすみ…。」 香織が眼を閉じたまま小さな声で言った。「体がもたないよ。」
「うん、分った。」
凜は美風の部屋に入った。だいたいいつもはここで香織と二人で寝るのだ。だが今は一人で床にいる。美風の手を探った。片手を額に当てた。熱は無い。安らかな寝息が聞こえて凜を安心させた。布団の下に二枚合せの毛布を使っていた。寒くは無いはずだった。
「美風…。」
小さく呟いて娘の寝顔に見入った。…親の欲目というけど、この子はきっと美人になるわ、と凜は思った。
それから自分の寝室には行かずに居間の香織の隣に客用の床を敷いた。だいぶ冷えてきている。暖房を入れるか迷った。香織はのどが渇くと言ってあまり歓迎しないのだ。明け方に運転が始まるようにタイマーをセットして、香織の布団にもう一枚毛布を掛けた。
凜はすぐに寝入った。どのくらい時間が経ったか分らなかったが、香織がトイレに行く気配を感じて目が覚めた。戻って来たときに 「大丈夫?」と寝ぼけた声をかけた。
「大丈夫に決まってるだろ。」 香織が静かに答えた。
凜は微笑んだ。子供の頃に散々聞かされた母の決まり文句だった。
「お母さん…。」 声に出したつもりで凜はまた眠りに落ちていった。
だが凜の目覚めは爽快というわけにはいかなかった。むしろまったく逆だった。腹痛を感じ続けていた。腹痛と眠気がせめぎ合い、そして腹痛がいよいよ強くなって眼を開けた。隣に香織の姿は無かった。起き上がると急に視界が歪んで見えた。凜は慌ててトイレに向かった。ドアを激しく叩いた。
「お母さん。」
「えっ、凜かい?」
「は、早く。」
凜は大きな声が出せなかった。
「すぐに出るからね。」
香織は察したようだった。水洗の水音がしてドアが開いた。凜が入れ替わった。下痢だった。しかも痛みが去らない。…これは私にもうつったな、と凜は思った。…というより、すでにうつっていたという訳か。すると美風には症状が出ていたはずだ。ごめんね美風。お母さんも私も気づいてあげられなかったのね。美風があわれだった。凜は一人涙ぐんだ。
便意はない。しかし腹痛は消えない。…もう少し時間が経ってからまた下痢があるという事かしら。凜はよろめくように床に戻った。苦しさと悲しみを連れていた。
「薬を飲むかい?」 香織が心配そうに凜の顔を見つめた。
「もう少ししてから…。」 と答えた。目まいは嘔吐の前兆かもしれないと考えたのだ。重苦しい気分でいつの間にか眠った。
「ママ。」
突然、美風の声が聞こえた。凜の枕許に美風が座っていた。
「ママ、病気なの?」
美風は香織にも眼を向けた。自分が起きてくる時間に香織が寝ていることは無かった。
「おばあちゃんも病気なの?」
声の調子からして美風はすっかり元気になっているようだった。
香織が明るい声を出した。「おばあちゃんは平気だよ。」 そうは言っても大儀そうに体を起こした。カーテンを開けながら言った。
「パンを焼いてあげるよ。目玉焼きもね。」
そのとき凜が慌てた様子で起き上がった。ものも言わずにトイレに直行した。美風が後を追った。ドア越しに声をかけた。
「ママ、平気なの?」
「大丈夫よ。あっちに行ってなさい。」
「…ママ、ちゃんと手を洗った?手洗いしないと病気になっちゃうんだよ。わかった?」
美風が説教している。
「あんたに言われたくは無いわ…。」
中から凜の弱々しい声がした。
(つづく)
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