第6話(終)
藍色をした分厚い遮光カーテンによって外の世界と隔たれた暗い部屋。座り込んだ状態の私は、久しぶりの自室の懐かしさに軽く眩暈を覚え、深く息を吐き、そして息を吸いました。その空気はどことなく埃っぽく、けれどその埃っぽさもまた懐かしくよいものなのでした。しかし、何よりも懐かしくよいものは——。
「どうだった?」
——成瀬さんの、私の右手を握る左手の感触でした。もし優しさという形ないものに触れることができたとしたら、きっとそれはこのような感触でしょう。柔らかく温かくすべすべとしているその手を、私はきゅっと、少し強めに握りました。
「どうしたの?」
成瀬さんは驚いた声で、けれど優しく尋ねてきます。私は成瀬さんの瞳をそっと覗き込むように見つめます。疑問を浮かべていたその瞳は、しばらくすると逸らされてしまいました。
「どうしたのさ? 私の説得はうまくいったの?」
少し口を尖らせるようにした成瀬さんはそう文句を言いました。それが愛おしくて堪らなくなった私は、成瀬さんに抱き付いて、力一杯に抱き締めました。
「ちょっ……と、どうしたのさ本当!?」
成瀬さんは苦しそうにもがきましたが、なおも締め付けるかのように抱き付く私に観念したのか、しばらくすると大人しくなり、さらにしばらくすると私の背を撫でてくれました。それに私はまた愛おしくなり、もう私は、あと何をすればこの気持ちを伝えられるのかがわからなくなってしまいました。成瀬さんの呼吸と心拍を感じます。やっぱり成瀬さんは、私たちは、生きているのです。
成瀬さんの胸に顔をうずめたまま、私は成瀬さんへ言います。
「……お久しぶりです、成瀬さん」
すると成瀬さんは私の頭を撫でながら尋ねてきます。
「久しぶり、私にとっては一瞬だったが。……どうだった? その様子だと、なんとかはなったみたいだが」
「えぇ、なんとかなりました、何もかも。あの世界の成瀬さんの誤解も。三つの世界の不意な切り替わりすらも」
私がそう答えると成瀬さんはそっと私を引き離し、私の顔をまっすぐに見て、また質問をしてきます。
「どういうことだ? それを口にしても大丈夫になったのか?」
真面目な顔の成瀬さんが面白くて、私は少し意地悪な言い方をしてみせます。
「それだけではありませんよ? この世界はいまや私たちの思いのまま……という言い方は少し語弊がありますが。私たちはもう、世界に縛られてはいないのです」
まったくわからないという風に首を傾げる成瀬さん。無理もありません。私はくすりと笑って、言います。
「読んでもらえばわかります。私の……いえ、『私たちの備忘録』を」
「備忘録って……『あなたと紡ぐ物語』のこと?」
成瀬さんの口から出てきたとても懐かしいその名前に、私は首を横に振ります。
「すみません。もはやそれは、私とあなただけのものではなくなったのです。……取り出してみせましょうか」
「取り出すって……どこにあるんだ?」
不敵に笑った私を訝しむ成瀬さん。そろそろ意地悪をするのもやめましょうか、と思った私は、目の前の何もない空間を掴むようにしてみせました。そう、まるで……指揮者が演奏を終わらせるときのように。
終
私たちの備忘録 柊かすみ @okyrst
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