もう背伸びはしない
南雲 皋
お湯を沸かすだけでいい
「あああああああ疲れたぁぁぁぁぁぁぁ」
ヒールの高いパンプスを脱ぎ捨て、じんじんと痛むつま先を労わるようにストッキングを脱ぐ。
違和感のあるフローリングの床の踏み心地が通常に戻る前に、私はリビングのソファに飛び込んだ。
フリルの付いたブラウスやタイトめのスカートに皺が寄ろうがどうでもいい。
今、私は、とても疲れているんだから。
かろうじて手に引っかかっていた小ぶりのカバンからスマホを取り出す。
指で触れて立ち上がった画面には恋人である
この写真を撮った頃は幸せだった。
亨からのメッセージを惰性で開き、適当に嬉しそうなキャラクターのスタンプを選んで送る。
今日は楽しかった、なんて、本当に私のこと何も分かってない。
亨との付き合いは大学一年から続いている。
同じ学部で、取った授業がそこそこ被っていた私たちはいつの間にか仲良くなって、どちらからともなく想いを告げて付き合い始めた。
家からの仕送りとバイトでなんとか生活していた私たちは、お金はなくても幸せだった。
カップ麺を二人で半分ずつ食べたこともある。
暖房代を節約するために二人で毛布を被ってくっ付いて、三分経って湯気の立つ赤いきつねをありがたがって食べたっけ。
おあげが上手く半分に切れなくて、大きい方を私が貰った。
あの頃が、懐かしい。
亨のアイコンになっている海の写真は、お互い就職先が決まったお祝いに行った旅行先で撮ったものだ。
まるで作り物みたいに透き通った海に二人で潜った。
「一人前になったら、プロポーズするね」
言わなくてもいいことを言う亨に、怒りながらも嬉しかった。
でも、いつの頃からか私たちの道が一本ではなくなってしまった。
亨の思う一人前と、私の思う一人前が違うと気付いた頃には、もうそんなことを言い出せるような雰囲気ではなくなってしまっていて。
順調に出世街道に乗っているらしい亨は、今日もフレンチのフルコースをご馳走してくれた。
ドレスコードがあるのではないかというくらいに豪華なレストラン。
私が何かする前に察知して動いてくれる店員さんたち。
次々と出てくる大きな皿の上の小さなフレンチ。
味なんて、分からなかった。
亨の話に、それっぽく相槌を返して、家の前まで送ってくれた車から降りる前に触れるだけの口付けを交わして。
大人っぽい余裕のある微笑みを浮かべる亨は、漫画のヒーローなら百点満点だろう。
でもそんなの、私はいらない。
ほんの小さな幸せを共有して、無邪気に笑う亨が好きなのに。
◆
「結婚してほしい」
夜景の綺麗なレストランの、窓際の席。
控えめに上品に奏でられるグランドピアノのクラシックをBGMにされたプロポーズ。
こんなにロマンチックなプロポーズ、きっとないんだろう。
だからこれが嬉しくない私は、人でなしだ。
「考えさせて」
それだけ告げて、席を立つ。
涙が化粧を溶かす前に、私は家に逃げ帰った。
断るでもなく、別れてほしいでもなく、考えさせてと答えてしまった自分に嫌気がさす。
玄関を閉めた瞬間に涙が溢れて、扉にもたれるようにして声を上げて泣いた。
「
扉の向こうから亨の声がして、私は固まった。
車の音にも、足音にも気付かなかった。
漏れる嗚咽を隠すように口を両手で塞ぎ、息をひそめる。
「ごめん、おれ、何か間違えたかな。大人になれたと思ってたけど、紗凪が何をしたら喜んでくれるのか分かんないし、なんで結婚してくれないのかも……分かんなくて……」
亨の声が、震えている。
私はゆっくり立ち上がり、玄関の扉を開いた。
そこには大人の余裕なんてこれっぽっちもない、涙に濡れた亨が立っていた。
「ばか」
私は亨の手を引き、家の中に連れ込んだ。
電気も点けずに泣いていたことに今更気付き、まるで今二人で帰ってきたみたいにリビングまで向かった。
亨を入れる予定なんてなかったから、家の中は散らかっている。
私は開き直って亨を見上げた。
「私、片付け苦手なの」
「……知ってるけど」
「堅苦しいコース料理も苦手」
「……それは、知らなかった……ごめん、じゃあ、おれ、頑張ってたけど、紗凪は嬉しくなかったんだね」
「うっ……ア、アンタがそんなに頑張ってたの知ってたら嬉しかったわよ! でも、なんか、当たり前みたいにするから!」
ぐすぐすと鼻を啜り、未だ涙を垂れ流しながら亨が私を抱きしめる。
息が苦しくなるくらいに抱きしめられたのは久しぶりだった。
「おれ、かっこいい社会人のおとこになりたくて……かっこいい先輩に相談に乗ってもらって……頑張ってたけど……自分のことも紗凪のことも騙してるみたいで苦しかった……」
「私がいつアンタにかっこよくなってほしいって言ったのよ……余計なお世話だっつーの」
「うん……ごめんんん」
「ああもう! 泣くな!」
ティッシュを箱ごと押し付け、私は顔を洗いに洗面所に行った。
化粧はぐずぐずで、この顔で亨の前にいたのかと思うと溜息が出た。
でも、亨の視界は涙で歪んでよく見えなかったかもしれない。
そういうことにしておこう。
私は考えることをやめ、化粧を落とした。
リビングに戻ると、床に膝を抱えて座る亨が目に入って吹き出してしまう。
涙は止まったようだが、鼻の頭を赤くする亨が無性に可愛い。
体格がいいくせに、変なところで小動物のような振る舞いをするのだ。
そんな姿を見るのさえ、久しぶりだった。
「お腹空いたからカップ麺食べるけど、亨も食べる?」
レストランでの食事は少し物足りなくて、号泣したおかげでお腹が空いている。
私が尋ねると、亨は小さな声で「うん」と言って立ち上がった。
台所に向かう私の後ろをとぼとぼ付いてくる。
「赤いきつねと緑のたぬき、どっちがいい?」
「たぬき」
「じゃあ私きつね」
二杯分の水をポットに入れて、スイッチを入れる。
「覚えてる? きつね半分こしたの」
「うん」
「あの頃、幸せだったよ」
「うん」
「別に、そのままでいいから」
「うん……」
「そのままの亨なら、結婚してもいい、よ」
「さなぁぁぁぁ」
「また泣くーー!!」
お湯が沸き、剥がした蓋の隙間から注ぎ入れる。
ローテーブルの前に二人並んで座り、毛布を被った。
「おれ、たぬきの方が好きでさ、でも紗凪がきつねの方が好きなの知ってたから、家に常備してたのはきつねだった」
「……その頃くらいの頑張りでじゅうぶんだわ」
「うん」
「……私も、誤解しててごめん、ちゃんと話せばよかった」
三分経ち、蓋を剥がす。
赤と緑が、重なって転がった。
湯気に息を吹きかけながら、二人で麺を啜る。
おあげから滲み出る甘さが、優しかった。
「亨、好きだよ」
「お、おれも、紗凪が好きだ」
出汁の味のキスは、今までのどのキスよりも温かかった。
もう背伸びはしない 南雲 皋 @nagumo-satsuki
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