寝坊

高遠 彬

寝坊

 今日、僕は大寝坊をした。この寝坊が今後の僕の人生に与える影響は計り知れない。絶対に出席しなければならない授業を欠席してしまったのだ。


 このままでは卒業が危ぶまれる。


 普段から多くの授業を欠席し、両親が望んだような優等生ではなかったが、それでも分別はわきまえていた。出席が主な成績になる講義については、授業日数を数え、最低出席率から休んでも良い出席日数を逆算していたし、テストでその成績が決まってしまう教科については、授業をとことん休み、テスト五日前からテストに関する知識を鬼のように詰め込んだ。


 そんな海面スレスレの状態を保って飛翔していた私も、ついにはその目測を誤り、片足を水中にザボンと落としてしまった。ちょっとした心の余裕から右足を支える筋肉が弛緩しかんしてしまったのだ。今はもうびしょびしょになってしまった身体で目覚め、天井を見つめたまま一種の放心状態に陥っている。全く、なんたる情けなさか。


 寝坊と言っても、ただの寝坊ではない。起きなければいけない朝八時にはしっかり目を覚ましていたのに、血迷ったのか悪魔のような囁きを伴う想像を絶する睡魔に襲われ、ついにまた夢の世界へと引き摺り込まれてしまった。


 読者諸君は目覚まし時計のスヌーズ機能をご存知だろうか。目覚まし時計を止めた後、数分後にまたアラームが鳴り出すというあの忌々しいシステムのことだ。今まで何人の者を素晴らしき夢の国から味気のない現実に引き戻してきたことだろう。


 最早その力を侮る者はこの世にいない。


 その証拠として、その忌々しいスヌーズ機能からなんとか逃れようと、目覚まし時計を止めるたびにその心臓であるアルカリ単三電池を抜き取る者もいるではないか。ある輩は鳴り止まない目覚まし時計を窓の外へ放り投げるというが、これは友人から聞いた話なので真偽は定かでない。しかし、やはり、人類がスヌーズ機能に対して畏怖の念を持っていることは確かであろう。


 だが、時としてこのスヌーズ機能が、その本来の役割を果たし地獄の入り口の淵からあの世へ落っこちそうになっている愚か者を救済することがある。当然のことながら、私にもその神の手が降りてきた。時刻は八時三十分。時計を見た時「まだあと十分は寝れるかな」という無根拠な言葉が空虚な私の頭に響いた。勘の鋭い読者諸君なら分かるだろうが、愚かなことにも私は天空から降りてきた神の手を全身を使って振り解いたのだ。みるみるうちに私は遠い夢の中へ、灼熱の地獄へ、そして人生のどん底へと全速力で落ちていった。


 皮肉なことに、その時私が肌で感じていたのは、遥か下から微かに噴き上げてくる温もりであってまさに夢見心地であった。その温もりが、落下する私を待ち構えている灼熱地獄から来ているということは言うまでもない。

この瞬間とき、私を止められるものは誰もいない。

最早、こんな私に呆れたのかいつもはうるさくて忌々しいスヌーズ機能でさえも鳴りを潜めていた。


 私の前に神の手が降りてくる事はもう無かった。

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寝坊 高遠 彬 @Takoyakipan

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