第二章 元王女は前途多難
「俺と
「結婚……
「ここにいるのは俺とルーだけなんだから、俺と君以外に誰がするんだ?」
「うん、そっか。やっぱりルーは気付いていなかったんだ。テオフィルとイネースの二人は、ずっと前から気付いていたのに」
国中のどこにいても甘い花の香りを感じ、一歩外を歩けば一年中
「自分でも結構わかりやすかったと思うんだけどなあ。フロレラーラ王国に来たときはルーに他の誰よりも先に会いに行っていたし、本当は
そっか、気付かれてなかったのか、とレイノールはほろ苦い
「うーん、これは完全に失敗したな。
独り言のようにもれるレイノールの
(……結婚? 私とレイが結婚するの?)
久々にレイノールと会えて
「ごめん、正直ルーがそんなに
「ええと、ごめんなさい、待って、ちょっと混乱しちゃって。その、レイは私と結婚したいの? どうして?」
「どうしてって、そんなのルーのことが好きだからに決まっているだろう」
「好き……レイが私を? 妹として、とかじゃなくて?」
ルーティエの口からは疑問しか出てこない。それほどまでに混乱が大きかった。
「確かに俺も、最初の頃はルーのことを妹のように思っていた。病弱だった俺が、フロレラーラ王国に
レイノールは両手を
時間の流れを痛感する。ルーティエもレイノールも、幼い子どもの時代はすでに終わってしまったのだ、と。
「いつからかはわからない。気付いたらルーのことを好きになっていた。ルーは俺のことをテオフィルと同じように見ていたと思う。でも、俺は結構前から妹としてじゃなく、ちゃんと一人の女性としてルーのことを見ていたんだ」
金色の
暖かな日差しが青空から降り注ぎ、風に乗った花弁がふわりと
(今はまだ想像もできないけれど、いずれ私も誰かと結婚するとは思う。でも、レイノールと結婚することは、これまで一度も考えたことがなかったわ)
ずっと兄のように
「こういうことを言うと打算的だってルーは気を悪くするかもしれないが、俺とルーが結婚することはフロレラーラ王国にとっても利益があることだと思う。二国の結びつきをより一層強くすることができれば、有事の際アレシュ王国がフロレラーラ王国を守りやすくなる」
レイノールとの結婚は、ルーティエ個人だけの問題ではない。アレシュ王国とフロレラーラ王国、今後の二国の未来にも大きく
「フロレラーラ王国はとても豊かな国だ。気候は一年を通して温暖、雨季はあっても雪は
フロレラーラ王国の最大の収入源は農産物の輸出と観光業で、国の財政は常に安定しており、自然に愛された心優しい国民性も相まって穏やかな治世が数百年以上続けられている。
「この国が花の王国、花の
フロレラーラ王国が輸出している農産物の八割を
「フロレラーラ王国はすごく恵まれている。だから、長年戦争とは
「豊かで恵まれているからこそ、フロレラーラ王国を武力で支配しようとする国がいずれ出てくるかもしれない。そのことはお父様、いえ、歴代の王族ならば、誰もが多少なりとも
だからこそ、フロレラーラ王国は周辺の五つの国と同盟を結んでいる。その同盟にはフロレラーラ王国に対する
見返りとして、フロレラーラ王国は同盟国に対して、各種作物をできうる限りの安値で、かつ優先的に輸出することが決められていた。軍事力の弱い国を外敵から守り、
「これだけは断言しておくが、もちろん俺とルーが結婚しなくても、アレシュ王国はこれまでと変わらずフロレラーラ王国を守っていく。アレシュ王国にとってフロレラーラ王国は親交の深い大切な国だ。だから、ルーの気持ちを無視して、国のために無理に俺と結婚して欲しいわけじゃない」
フロレラーラ王国の港から船で半日ほどの位置にあるアレシュ王国は、同盟を結んだ国の中でも最も親交の深い国で、長年親密な関係が築かれてきた。両国の王が年に数回は必ず国を行き来し、大きな式典や
「ルーも知っての通り、貿易を
軍事力の面に
「実はここ最近、同盟国の中でも各国の意向が
「そうなの? 私は幼い
「まあ、同盟関係が不安定だなんて知られたら問題が出てくるから、表向きは
「同盟が解消されるかもしれない、ってこと?」
「もちろんすぐに同盟がなくなるなんてことはない。同盟国内でもより強固な関係を
「グラテルマ共和国? 私は国から出たことがないから実際に目にしたことはないけれど、鉄工所や
「ああ、いや、すまない。今の俺の言葉は忘れてくれ。確かなことはまだ何もわかっていないんだ。裏付けのない
「レイがそう言うのならば、わかったわ」
内心では気になったものの素直に頷く。
「それに、まだ
海とは反対側、遠目にそびえ立つ高い山々を見つめるレイノールと同じように、ルーティエもまた山脈へと視線を移す。青空に向かって高らかに連なる山々は、フロレラーラ王国と
「色々言ったが、俺は心の底からルーのことを愛している。だから、俺はルーのことを幸せにしたいんだ。君にいつも満開の花のように笑っていて欲しい」
繋がったレイノールの手に力が込められる。
「もちろんルーの『
何事にも誠実なレイノールらしい言葉は、ルーティエの混乱した心にわずかだが喜びを生み出す。
(レイと
視線を山脈からレイノールに
「……ごめんなさい、レイ。すぐには答えられないわ。レイの私に対する気持ちには、正直言ってすごく
両親と兄、弟に相談した結果、ルーティエとレイノールの結婚は周囲の反対も一切なく、むしろ高官や貴族を
二人の結婚を
〇 〇 〇
手元に何度目かわからない視線を送ったルーティエは、これまた何度目かわからないため息を
じわじわと頭を
ルーティエが生活しているマリヤン
「今朝フロレラーラ王国から届いた手紙は、あまり喜ばしくない内容のものでしたか?」
「……っ!」
バルコニーに続くガラス窓を開け放ち、外を向く形で
声の主、常のごとく黒い衣服と白い仮面に身を包んだユリウスは、表情は見えないもののどこか申し訳なさそうな様子で頭を下げる。
「すみません、驚かせるつもりはなかったのですが。ノックをしてから入るべきでした」
ここはルーティエだけの部屋ではなく、彼の部屋でもある。むしろ部屋の
「……お気になさらないでください。むしろこちらこそ手紙を読むことに気を取られ、声をかけられるまでまったく気付かず申し訳ございません」
「ご家族からの手紙を読んでおられたのでしょう。それならば、集中して当然だと思います。ご両親からの手紙ですか?」
「いいえ、兄のテオフィルからです」
短く答えたルーティエは手紙を急いで折りたたみ、隠すように両手で包み込む。
内容に
「お
ユリウスは机の引き出しから数枚書類を取り出し、軽く
(すぐに出ていってくれてよかった。このまま
オルガ帝国に来て
同じ部屋に住んでいる新婚
再び一人になった居室で、ルーティエは折りたたんだままの手紙に視線を落とす。何度も読んだので、内容はすでに覚えてしまっている。
『お前がオルガ帝国に
二人だけでなく、私もイネースも気持ちは同じだ。いや、王宮中の人間が同じ
こちらのことは何も心配せず、お前は新しい生活に
母上の具合があまり良くない。ベッドで横になっている日が多く、
正直、心配なのは母上よりもイネースの方だな。
お前がオルガ帝国に行ってから、どうにも様子がおかしい。何も言わずにふらっと姿を消すことが増え、難しい顔で一人考え込んでいることが多くなった。まあ、知っての通り、お前を見送る最後の最後まであの調子で
本来であれば私が四年間留学していたように、今年十二歳になるイネースもアレシュ王国へ留学する予定になっていたのはお前も知っているな。そこで心身共に成長して欲しかったのだが、今のこの状況だ、イネースが国外に出るのは難しい。留学先がアレシュ王国となればなおのこと。イネースは留学をとても楽しみにしていただけに、白紙になってかなり気落ちしているようだ。
お前のことや留学の件、
本当は他にも書きたいことが色々あるのだが、父上の手伝いで
最後に一つ、お前には余計な心配だとは思うが、決して安易な行動は取らないで欲しい。幼い
お前は特に
テオフィルからの手紙には、フロレラーラ王国を一方的に支配したオルガ帝国を非難するような言葉は一つとして書かれていなかった。王国が今後どうするか、同盟を結んでいる国々がどう動くのか、そんなことも
多少なりとも今後の動向についての情報があるんじゃないかと思っていたのだが、実際は家族に関する当たり
(国のために、そして私のために、お兄様は
テオフィルは次期国王となるとても
(それにしても、お母様のことももちろんだけど、それ以上にイネースのことが気になるわ)
王国を旅立つ際、
手紙から上げた視線を、バルコニーに続く窓の外へと移す。フロレラーラ王国の自室からは、一面に咲き
王国にいた頃は落ち込んだときには庭を
自然ともれたため息に、扉を
「失礼いたします。ルーティエ様、本日もまた朝からずっと部屋に閉じこもっておられる予定でございましょうか。お世話をする私としては正直とても楽です、手間がかかりません。ですが、このままではルーティエ様の頭にじめじめと
入って来たのはアーリアナだった。室内に入ると同時に、彼女の口からは
「ご心配どうもありがとう。でも、人間の頭に苔やキノコが成育したという事例は聞いたことがないわ」
ユリウスではなかったことにほっとした反面、返事をする前に当然のごとく
「まあ、前例がないからといって安心はしない方がよろしいかと思います。世の中何が起こるかわからないんです。事実、私は今朝から
あっさりとした様子で、まるで朝ご飯の内容を語るように言葉を
(う、うーん、アーリアナというこの
前言撤回、
「あ、ちなみに説明いたしますと、すべて私の
口を
「そういうわけでございまして、ここから得られる教訓は、自らが何か失敗をせずとも、不運というのは
言うべき言葉が見付からず無言を返すが、アーリアナは気にした様子もなかった。常に自分の調子を
ルーティエが視線を窓の外に戻すと、
「よろしければ外に出てみますか。私がご
「……外に出てもいいの? 私は
知らず声に混じったルーティエの
「はい。ただし、外と言ってもせいぜい庭程度にはなりますが、その辺はお許しくださいませ。
「いえ、結構よ。心の底から
これ以上
ルーティエが
「散歩をする気分じゃないの。悪いけど、夕方まで一人にして」
これ以上話しかけないで欲しいと言外に含めると、アーリアナは
これから先、後二月もすれば毎日雪が降るようになり、身も
その寒い季節が来る前に、同盟国はフロレラーラ王国のために動いてくれるのだろうか。オルガ帝国の
(ずっとくよくよしているなんて、いつもの私らしくない。お兄様やイネース、それにレイが今の私を見たらきっとすごく驚くわね)
オルガ帝国に来てからというもの、感傷に
(本当はもっと前向きに、本来の私らしく積極的に生活していきたいけど……)
考え込むよりもまずは行動、他人に
他人が
「でも、私がここに来た意味も、このオルガ帝国で何ができるのか、何をすべきなのかも、まだ何もわからない。そもそも、本当にやるべきことがあるのかさえも……」
口から無意識のうちにもれた弱々しい
大丈夫、きっと何かあるはずだ。
顔を上げる。前を
「……あれ? もしかして、この方向って」
ここでようやく、ルーティエはあることに気が付いた。バルコニーから見るこの方角の先には、愛すべきフロレラーラ王国がある。高い山々に
ひょっとすると、だからこの居室がルーティエたちの部屋になったのだろうか。人の出入りが激しい場所から離れ、
だが、実際はルーティエが静かに、落ち着いて過ごすことができるように、口さがない貴族などの宮殿の人間にできるだけ会わないように、という
(いえ、いくらなんでもそれは前向きに考え過ぎね)
ルーティエはふっと苦笑をこぼす。
一週間が
ルーティエはバルコニーの柵を強く握りしめながら、遠い故郷の姿をずっと
「というわけでユリウス様、明日にでもルーティエ様を街までお連れしてください」
ルーティエが半分近く残してしまった夕食後、ユリウスが室内に置いていた書物を取りに
書物を手にすぐ外に出ようとしていたユリウスは、侍女の言葉に足を止める。仮面に
「君はいつも
「それが私の仕様でございますから。それに、突飛ではありますが、おかしなことを口にしたつもりはありません。ユリウス様だって、ここ数日のルーティエ様をご覧になり、このままで良いとは思っておりませんよね?」
無言の主人に、アーリアナは
「ルーティエ様には気分
「……オルガ帝国にとっては困った事態になる」
「では、そういうことにしておきます。いずれにせよ、ルーティエ様には一度外に出て、
「アーリアナの想像は
「何を弱気なことを言っているんですか。そこをうまく説得するのがユリウス様の
強く言い切ったアーリアナに、椅子に座っているルーティエは小首を
数十秒ほど口を
「あなたは宮殿の外に、オルガ帝国の街並みや生活に興味がありますか?」
投げかけられた質問に、ぱちりと目を
(私がここに来た意味を、そして、私のやるべきことを見つけられるかも)
「そうですか、わかりました」
それ以上言葉を続けることなく、ユリウスは部屋から足早に出て行く。あっさりと立ち去ってしまった相手に
翌日、ユリウスは三日後に宮殿の外、ザザバラードの街に出る許可をもらったと言った。もちろん一人ではなく、護衛という名の
「ほら、やはりユリウス様のお言葉でしたら、陛下は耳を貸してくださったでしょう」
無表情ながらも得意げな口調でアーリアナは言った。
ルーティエは初めて目にする宮殿の外の、街の姿を思い
〇 〇 〇
ザザバラードの街に出かける当日、ルーティエは簡素な服装で大宮殿の中央広間にいた。
質素な服装は
庭を手入れしていたときの気分を思い出し、ルーティエはかすかに
ちらっと横を見て、
「ユリウス様はその格好で外に出られるんですか?」
ルーティエから話しかけられると思っていなかったのか、驚いたような間を置いた後、ユリウスは口を開く。
「見苦しい格好でしたら申し訳ございません。ザザバラードは治安の良い場所で、
ユリウスはいつもの黒い服に、マントの代わりの黒いローブを羽織っただけで、特にこれといった変装をしていない。彼の場合は仮面を除けば
「黒いローブを
「オルガ
確かにと、ルーティエは同意していた。素直なルーティエの反応に、ユリウスがどこか
(主従
ルーティエは
家族にしろレイノールにしろ、フロレラーラ王国でルーティエの
特にユリウスは仮面を着けているせいで、表情を見て取ることができない。長年一緒にいれば、いつか笑った顔を見る日が来るのだろうか。今のところまったく想像できなかったが。
(この人は、いつもにこにこ笑っていたレイとは
厳密に言えば、仮面を着けているので顔色をうかがうことはできないのだが。ルーティエは白い仮面を
「とりあえず早く出発しましょう。日が暮れる前には
「わかりました。でも、護衛は本当に必要ないんでしょうか? 彼、ええと、クレストに付いて来てもらった方が安全じゃありませんか?」
「問題ありません。先ほど話した通り、治安の良い街ですから。もし何かあった場合は、責任を持って俺があなたを守ります」
だから安心して街を見て回ってくださいと、当たり前のように続けられた言葉に、ルーティエは一瞬反応が
広間から正面出入り口に向かって歩き出すユリウスの半歩後ろを付いて行く。足を前に進めながら、ルーティエは
(オルガ帝国の人間は全員、フロレラーラ王国にとって敵なんだから……)
夫になった相手でも、決して油断してはいけない人物だ。心を許すなんてありえないと、自分自身に言い聞かせる。前を歩くユリウスの姿から、視線を
「大宮殿から街までは正門を出てすぐの
「
「オルガ帝国は領土内に山が多く、山中にある街や村も少なくありません。マリヤン大宮殿も元は山があった場所を
フロレラーラ王国とは似ても似つかないオルガ帝国。そんな国で、どんな風に国民は暮らしているのか。いや、どんな国民が暮らしているのか。ルーティエは純粋に知りたいと思い始めていた。
出入り口まであと一歩というところで、第三者の声が広間に
「誰かと思えばユリウスか。お前は相変わらず
ざらついた低い
広間の奥にある階段から下りてくる相手を見たユリウスは、さりげなくルーティエの一歩前に移動する。そして、相手に対して
「おはようございます、アルムート兄上。この時間帯に兄上が宮殿内を歩いておられるのは
金や銀といった
「
要するに、昨日は
正直、できるだけ
アルムートに関しては、フロレラーラ王国で耳にした
「そうですか。この時間帯は兵舎の方で訓練が行われています。時間があるならば、そちらに顔を出してみてはいかがでしょうか? 兄上は昔から
「黙れ、ユリウス。貴様に指図されるいわれはない。そもそもこの俺が兵舎などという
ユリウスと同じ黒い髪に、
ユリウスは平静を崩さず、自らの兄へと声をかける。
「差し出がましい口をきいて、申し訳ありません。それでは、出かけるところでしたので、我々は失礼させていただきます」
ユリウスはアルムートの冷ややかな態度を気にした様子もなく、大人びた口調でそう告げると背後のルーティエを
「何だ、後ろにいるのはどこかのみすぼらしい使用人かと思えば、貴様の妻か。聞いた話によると、自室にほとんどずっと閉じこもっているらしいな。まったく、貴様に負けず
鼻を鳴らして
確かにこの国に来てからのルーティエは、自分でもわかるほど
(ああ、もう、思い切り反論してやりたい! でも、ここでそれをしたら第一皇子に逆らったってことで私の、いえ、ユリウス様の立場もより悪くなるだけだわ。フロレラーラ王国のためにも
ルーティエは嘲笑の声を無視する。さっさとこの場を去るのが一番だと考えていると、思いがけない冷ややかな声がすぐ傍から放たれた。
「失礼ながら、兄上。未熟で不出来な自分のことならば、何を言われても事実ですから構いません。ですが、我が妻を悪く言うことはやめていただけませんか?」
「彼女は慣れない土地に
いつも
「いえ、むしろ兄上は孤独の
ひやりと冷たい音色は、誰かに似ていると思った。一体誰に似ているんだろうかと考えていたルーティエの耳に、
「貴様、この俺を
「まさか、そんなつもりはありません。ですが、他人を
「俺に対して生意気な口をきくな、ユリウス! たかが側室の子どもの分際で、立場をわきまえろ! 本来ならば貴様など大宮殿にいるべき人間ではない!」
父上のお情けで育ててもらい、この宮殿に身を置いているくせにと、アルムートの
「一体何の騒ぎだ、
夜の
視線をそちらに向ければ、マリヤン大宮殿の正面出入り口から入ってくる一人の男の姿があった。
外から入って来たところを見ると、どこかに出かけていたのだろう。護衛の兵士を二人だけ連れた身軽な様子で、サーディスは広間へと足を進めてくる。
「おかえりなさいませ、陛下。そのご様子ですと、朝早くにどこかの視察に行ってこられたのでしょうか?」
「ああ、ヴェーラ領に行ってきた。早い時間の方が、無駄に騒がしくなくていい」
「ヴェーラ領……
「初期の段階ですぐに医師と薬を手配したから問題ない。すでに
「それはよかったです。ですが、陛下が自ら視察する必要はなかったのでは? 命令してくだされば、自分が出向きましたが」
「私は流行病で死ぬほど弱くはない。それに、そなたの仕事は今あるもので
口を
「ご心配していただかなくても、お申し付けくだされば時間はいくらでも作ります。
「どうせ
二人の会話を聞いていて、ルーティエはようやく先ほどの疑問に答えを出すことができた。ひやりとしたあのユリウスの声は、サーディスの声に似ていた。やはり親子だということだろう。
「それで、そなたはどこかに出かけるところだったのか?」
「はい。陛下にお許しをいただきましたので、街まで出かけてこようと思っております」
「そうか。ならば、早く出かけるんだな。こんな場所でぐずぐずしていると、高官どもに仕事を押しつけられるぞ」
すっと、ユリウスに向けられていたサーディスの視線が、ルーティエへと移る。こうしてサーディスと向かい合うのは、ユリウスと
サーディスに対する
「その目と頭が
もはや話すべきことは何もないとばかりに、サーディスはルーティエに背を向けて
「父上、ユリウスとあの小娘のことですが」
と話しかけるものの、
「私は忙しい。そなたに構っている
とサーディスは一番目の
「自分自身で、この国を見極める……」
遠ざかっていく後ろ姿を見つめながら、ルーティエは小さく
どんな意図があって、サーディスがそんなことを言ったのかは理解できない。それでも、不思議なことにルーティエの胸の中にすとんと落ちて、しっかりと根付く。
「さあ、行きましょう。早く行かないと、街を見て回れる時間が少なくなります」
ユリウスとの会話が
(サーディスがフロレラーラ王国を
ルーティエはユリウスに続いて歩みを進めながら、答えの出ない、
ザザバラードの街を一目見たルーティエは、その様子に驚いてしまった。
「すべてを見て回る時間はありませんので、どこか行きたいところなどありましたら教えてもらえますか?」
ルーティエの想像よりもずっと明るく、
ルーティエは街並みを
「あの、今日は何か特別な行事が行われている、わけではないんですよね?」
「今日は市も立っていませんし、
「そう、ですか……。では、これがいつも通りの光景、ザザバラードの日常の街並み、ということなんですね」
ほうと大きく息を
オルガ帝国は、もっと暗くて、明るい
しかし、そんなルーティエの考えは、実際に街に出て、そこに行き
大声を上げて
フロレラーラ王国に比べると
「この辺りの店を
「どうぞ。何か必要なものや欲しいものがありましたら、
「ありがとうございます。でも、欲しいものは今のところありません。食料品や衣服などの生活
まだそれほど寒いわけではないが、コートやローブを羽織った人々の姿も多い。そのため、黒いローブを羽織ったユリウスの姿を気に留める人もおらず、
「見たところ、
「
「そうですか。収入が低い人々でも、お
「民の衣食住を
「……サーディス陛下が」
衣服は寒さ対策のためか、厚手の布や毛皮で作られたものが数多く
「貿易が盛んなフロレラーラ王国と
食料品や衣服だけでなく、他の生活に必要な品物にも、それに見合った適正な価格が付けられている。それは一にも二にも、国が正しく管理している
これはどんな食べ物なのか。この布の値段は高くはないのか。これは何に使う道具なのか。あちこちの店を覗き、質問を繰り返すルーティエに対して、ユリウスは意外にも
「現在のオルガ帝国では鉄鉱石が豊富に産出しており、鉄鉱石そのものや加工した品々を輸出しています。十年ほど前に始まったことですが、国を挙げて
迷うことなく答える様子からも、彼がいかに様々な知識を身に付けているかがよくわかる。見せかけの、形だけの皇子ではない。
「でも、この辺りの国はオルガ帝国とは貿易を行わないのでは?」
「貿易相手はここから
オルガ
ふと足を止めた店の
「とても
色鮮やかな糸で形作られた刺繍は、見れば見るほど美しいものだった。すごいと
「寒い土地柄のせいでしょう、昔からオルガ帝国では防寒着や
「かなり
「いえ、オルガ帝国は
ルーティエはオルガ帝国のことを何も知らなかった。噂で耳にしたことを
(私はこれまで何も知らずに生活してきたのね。こうやって知ろうとすれば、たとえ王国にいても知ることができる事実がたくさんあったのに……)
自らの無知を心の中で
「どうぞ、差し上げます」
「え? いえ、ですが、いただく理由がありません」
「オルガ帝国の技術を、
迷ったものの、ルーティエは肩掛けを受け取ることにした。丁寧に施された花の刺繍は本物の花ではないが、本物の花と同じようにルーティエの心を温かくしてくれる。
小さく笑みをこぼすルーティエは、不意に強い視線を感じて肩掛けから顔を上げた。ローブによって隠されているが、仮面
「ユリウス様はこの国のことを本当に大切に
「はい。この国とこの国に住む民が、俺にとってのすべてですから」
いつもの
国を愛する姿は、年相応の人間らしさがある。笑顔とは到底言えないものの感情のにじんだ様子に、ユリウスに対する
その後も日が暮れる直前まで、ルーティエはザザバラードの街を歩き回った。初めて見るもの、初めて知ることがたくさんあり、いつの間にかただ
もちろん、いくらオルガ帝国のことを知ったとしても、フロレラーラ王国を
だが、知れば知るほど、疑問は大きくなっていた。百の
「……こんなに豊かで穏やかな国ならば、どうしてフロレラーラ王国を侵略したの?」
ぽつりともれたルーティエの声は、ユリウスの耳に届くことはなく、夕食の買い物で
「国王、という役目はとても重要で、意味のあるものよ。でも、とても
「大変だけど、でも、妻にしかできない幸せな役目でしょう?」
国王が国を治める者ならば、王妃は何をするの? 幼い
困難を二人で乗り
ザザバラードの街に足を運んでから三日、バルコニーに出ていたルーティエは深呼吸を二度
テーブルの上に置かれた呼び
「失礼いたします、何かご用でしょうか? 昼食はつい先ほど完食されたばかりですが、もう空腹になったということでしょうか、なるほど。ルーティエ様は意外と
一方的に言葉をぶつけてくるアーリアナにもすっかり慣れてしまい、最初のときのように
「お
「私に答えられることでしたら。あ、ちなみに私の体重は天地がひっくり返ったとしても絶対に教えませんよ。ルーティエ様のご命令でも不可能でございます」
「あなたの体重をわざわざ聞くはずがないでしょう!」
思わず大きな声を出してしまう。いつの間にか、ルーティエもまたユリウス同様アーリアナに調子を
ルーティエは短く息を
「聞きたいのは別のこと。あなたはユリウス様が幼い頃から仕えているって聞いたけれど、出身もこの国なのよね?」
「はい、そうです。ユリウス様が
聞いてもいないことをぺらぺらと
「私が教えて欲しいのはこの国、オルガ帝国のことと──ユリウス・エリシャ・ノア・オルガ、私の夫となった人のことよ」
ルーティエが迷いなくそう言い放つと、アーリアナは常の無表情を崩し、きょとんとした表情を
それから数時間後、ルーティエは扉の前に
「おかえりなさいませ」
にっこりと笑みを浮かべ、ドレスの
顔に浮かべた笑みは崩さないように気を付けながら、ドレスの裾を
「おかえりなさいませ、ユリウス様」
もう一度同じ言葉を、今度は名を呼んで繰り返せば、固まっていた人物、相も変わらず全身を黒い服で包んだユリウスがはっとしたように身じろぎをする。そして、少しの間を置いて、
「……ただいま、戻りました」
「お食事はいかがいたしますか? アーリアナを呼んで用意してもらいますか?」
先手の
笑みを浮かべつつも、
「食事よりも、あの、今日はまだ起きていらっしゃったんですか?」
「この時間は元々
時刻は夜の十時
真っ直ぐに視線を向けて返事を待つこと数秒、困惑と驚きが
「そう、ですか。いえ、そうではなくて、あの」
予期していなかった事態に困った様子を見せるユリウスに、自分よりも一つ
「突然ですが、ユリウス様にいくつかお願い事があります。聞いていただけますか?」
四歩ほどの
「何でしょうか。俺に叶えられる
「まず一つ、この部屋のバルコニーですが、私の好きなように使わせていただいても構いませんか?」
まさかそんなことを言われるとは思っていなかったのだろう。白い仮面の向こう側で目が丸くなるのを、見えなくても感じられる気がした。
「バルコニー、ですか? それはもちろんあなたの好きに使っていただいて構いませんが、何をするつもりですか?」
「花を育てたいと思っています、
「花を育てる、ですか。止めるつもりはありませんが、オルガ
育たないでしょう。あるいは、育ったとしても花が
「寒さに強い花もありますし、それにもし枯れてしまったとしてもそれはそれで仕方がないと
枯れてしまう可能性があるのならば、枯れないようにできるだけ手を
それでも枯れて、花が咲かなかったとしても、ルーティエは「最初からやらなければ良かった」とは絶対に思わない。
数秒の
「そうですか、わかりました。ルーティエ王女のお好きなようにしてください。もし必要な物があれば、アーリアナに言っていただければ準備させますので」
「ありがとうございます。ですが、そのお気持ちだけで結構です。必要な物は自分でお願いして用意してもらいます。使うのは私なのですから、その本人が自らお願いするのが道理ですもの」
強がりや
もしこの仮面がなければ、目の前にいる人物が何を考え、
(そう、理解することはきっとできない。でも、知ることはできるはずだから)
このオルガ帝国という国のことも、そして──目の前に
ルーティエは
「もう一つ、私のことをルーティエ『王女』と呼ぶのはおやめください。私はもう王女ではございません。正しく呼ぶならば、ルーティエ元王女、ですね。ですが、王女だろうと元王女だろうと、夫が妻を呼ぶのには
早口で続ける。口を
「それと、私に
いかがでしょうかと目の前にいる相手を
「わかりまし、いえ、わかった。そのようにします、いや、する」
「はい、そうしてください。では、アーリアナを呼びますね。さすがに昼食から大分時間が
ぎこちない口調で話すユリウスから視線を外して、ルーティエはテーブルに近付くとその上に置かれている呼び
帝国に来て数日は、精神的な落ち込みからあまり食欲が
「まだ夕食を
これは
「朝、昼、夜、すべてご
「嫌なわけではない。ただ、夜は接見などの予定が入って
「朝はあなたに時間を合わせます。昼と夜はあなたの予定を優先させますので、ご一緒できそうな場合はアーリアナに伝えてください」
ユリウスという人が、自分と会わないようにするためだけにわざと
「昔から人一倍努力をなさる方で、朝から晩まで勉学に
とのことだ。確かに、ユリウスは同年代の男性に比べると線が細い気がする。
「あくまでも、時間が合えばご一緒します、ということですから、無理に合わせるようなことはしていただかなくて構いません。あなたはあなたの予定を優先して動いてください」
「いえ、だが、あなたを俺の予定に無理に合わさせるわけには」
「朝早くから庭の手入れをすることも多かったので、早起きは得意です。昼はこれから色々
相手の言葉を
ユリウスは
数秒の沈黙の後、ユリウスの口からわずかな
「では、こちらも一つ
少しだけ考え、ルーティエは首を縦に動かした。
「ええ、わかったわ。それじゃあ、アーリアナを呼んで夕食にしましょう」
黒いマントを外すユリウスを横目に、ルーティエは呼び鈴を小さく鳴らす。ちりんちりんと鳴る
こうしてルーティエは部屋に閉じこもって
とらわれ花姫の幸せな誤算 仮面に隠された恋の名は 青田かずみ/角川ビーンズ文庫 @beans
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