第一章 二度目の結婚式
ルーティエ・フロレラーラにとって間違いなく人生で最悪、かつ、今後の暗い人生を
オルガ帝国では黒い色が
無言で手元に視線を落とす。ルーティエの右手には、
「……まるで死んだ花みたい」
無意識のうちにもれた声は、ルーティエの口中で消えていく。
両親が用意してくれた真っ白なウェディングドレスや、兄と弟が
これはただの形式的な結婚式。義務として行われるだけの、幸せなどとは
ルーティエがいる場所は
「今この
年の
(オルガ帝国の皇帝、サーディス。フロレラーラ王国の平穏を
ぎりっと、奥歯を
はいと答えることも、
いや、初めから今回の結婚自体が単なる形だけのものでしかない。オルガ帝国がフロレラーラ王国を支配するための口実であり、王国の反逆を防ぐための
そもそも、ルーティエは夫となる人物のことを何も知らない。ちらりと視線だけ動かして横を見れば、ルーティエよりもほんのわずかに高い身長に、
黒いマントを背に流し、飾り気のない黒い上着とズボン、ブーツを身に着けている。長く伸びた
模様も飾りもない白い仮面が、顔の上半分を
(自分の夫の顔も見たことがないなんて、ね)
ルーティエは心の中で
むしろ顔が見えなくてよかったのかもしれない。この男もまた憎むべき相手、敵でしかない帝国の人間の一人なのだから、顔が見えない方が過ごしやすい。万が一にも、相手に情など
(こんな無意味で趣味の悪い結婚式、早く終わってしまえばいい)
にこりとも
「ルーティエ・フロレラーラ、いや、ルーティエ・エリシャ・ノア・オルガ。今日からそなたはオルガ帝国の皇族の一員だ。その立場をわきまえた行動をしろ」
「立場をわきまえた行動というのは、人質であることを常に忘れるな、という忠告でしょうか?」
「花を愛する国の王族だからと心配していたが、どうやらその頭の中までお
「そして、私がオルガ帝国や皇帝であるあなたに害をなす行動をすれば、王国に残してきた家族や
サーディスの口の
ルーティエの手は無意識のうちにブーケを
(たとえ
だが、もし失敗した場合、属領として支配されている王国の民の立場はより一層悪いものになる。殺すのならば、確実に
放たれる威圧感に負けないよう、また奥歯を強く噛み締めて
たとえ政略結婚で帝国の一員となろうとも、自分の心は愛するフロレラーラ王国の一員のままだ。絶対に心だけは
無言で睨み合うこと数秒、ふっとサーディスが
いくらルーティエが歯向かおうとも、サーディスは
事実、サーディスは自らに長く仕えた側近でさえも、表情一つ変えずに処刑したことが何度もあるらしい。彼の
「さて、せっかくの機会だ。フロレラーラ王国の王族のみが使えるという能力で、このバラの花を
白バラが一本、ルーティエの足元に向かって投げつけられる。固い
今ここで、ルーティエが全身
「どうした? 『花を咲かせる』という王族の歌は、王国では式典の折々に
嘲笑するようなサーディスの言葉に、周囲の人間からも失笑がこぼれる。ルーティエだけでなく家族を、これまでの王族すべてを
「ああ、それとも、この私の命令に従うことはできない、ということか?」
強い能力は周囲の人間だけでなく、自分自身をも容易に傷つける。必ず悪いことに利用される。だから、
どうなろうと構わない。もう自分には幸福な未来なんて絶対に来ないのだから、ここで何もかも
「失礼ながら、皇帝陛下。我が妻は連日の
声はルーティエの
「どうか陛下の
淡々とした声は、頭に血が上っていたルーティエの気勢を
わずかなりとも冷静さを取り
──自分の
サーディスはどこかつまらなそうにふんと鼻を鳴らす。そこには怒りも何もなく、すでにルーティエから興味が失われていることを感じた。
「私の四番目、最後の
「はい、わかっております。彼女がこの国や陛下に害があると判断すれば、自分が適切に対処します」
仮面を着けた横顔からも、
「ですが、相手はこの帝国では後ろ
皇帝に反抗的ではないが、従順でもない。自らの意思を感じさせる言葉だった。
「何事にも
「彼女の
深く
掴まれた腕を
全身が重苦しくて一歩を
「現在のあなたがどれほどの能力を持っているのか、正確なところは俺にはわかりません。ですが、あなたは『女神返り』と呼ばれるほど王族の中でも強い能力の持ち主。いえ、女性の場合は『
ルーティエは目を見開いた。どうしてと、
家族以外では、レイノールしか知らないことだった。慎重に秘密にし続けてきたことを、
「フロレラーラ王国を守護する女神フローティアは、特に女性に強い加護を与えることが多いという話も耳にしています。だとすれば、『花姫』であるあなたの能力は非常に強いものだと予想できます」
「これは助言であり、忠告です。この国で
言うべきことだけを告げて去ろうとした相手を、とっさに引き留めようとした。しかし、意思に反して言葉が出てこない。そんなルーティエを一見し、相手は真っ
反射的に身を
「あなたにとってはすべてが気に入らないことでしょう。ただ、花に罪はない」
言われて、ようやくルーティエは気付いた。ずっと強く
「ここで少し待っていてください。
マントを
「花に罪はない……そんな当たり前のことに、私は全然気が付かなかった」
「私は花の王国と呼ばれる場所で、ずっと花と共に育ってきたのに」
言われるまで、握りしめていたブーケのことなど頭から完全に抜け落ちてしまっていた。気にする
たとえ敵国でも、花を愛する心を忘れるようなことはしたくない。
わずかに廊下に残った甘い花の
弱みは見せたくなかった。ここにいるのはルーティエにとって敵だけなのだから、弱い部分は絶対に見せたくない。
この先ルーティエが進む道は、バラのトゲよりも
御年十六歳、ルーティエよりも一歳若いオルガ帝国の第四皇子、ユリウス・エリシャ・ノア・オルガという青年と少年の
父である国王から何度も何度も謝罪されながら「政略
オルガ帝国の皇帝には四人の息子がいる。ユリウスは末の皇子で、聞いた話によると彼だけが皇后の子どもではなく、側室の子どもらしい。それならば今回ルーティエの結婚相手として選ばれたのも
支配下に置いた国との政略結婚なのだから、息子の中で最も皇位が低く、なおかつ価値がないとサーディスが考えているユリウスという人物が選ばれたのだと想像できる。
広い室内には何不自由なく調度品が
ルーティエはベッドの
これから行われること、初夜の
(
これはルーティエの王族としての義務だ。自分勝手な行動はできない。もしルーティエが
ぎゅっと両目を閉じた瞬間、耳に届いたのは寝室の扉が開けられる音だった。それはルーティエにとって、
「で、私は新婚初夜のご夫婦の寝室で、何をすればよろしいのでしょうか?」
意を決して目を開けたルーティエの耳に飛び込んできたのは、想像とは
「ああ、わかりました。お二人の気分が盛り上がるように歌を歌えばよろしいんですか、そうですか」
「フロレラーラ王国の王族の方々は、花を
息をする間もなく、次々に放たれる言葉の数々に、ルーティエは目を
「いや、君にそんなことは求めていない、アーリアナ。俺が一人で寝室に入ると彼女が
次に聞こえてきたのは覚えのある声だった。それはルーティエが予想していた人物、ユリウスの声だったが、
別の意味で驚くルーティエの視線の先で、使用人の服装、
「まあ、
「アーリアナの歌はまったくもって、これっぽっちも必要ないが、特別じゃなかった場合は君の歌に代金を
「もちろん冗談ではなく本気であり、当然のことでございます。歌は侍女としての仕事に
口調は
「ユリウス様の大切な初夜でございますから、
侍女は女性にしては高い身長に、
茶器が
「もういい、ありがとう。君は下がってくれて構わない」
「そういうわけには参りません。私はまだ何もしておりません」
あくまでも無表情を
「いや、何もしなくていい。むしろ何もしないでくれ、
君がいると落ち着いて話ができないと、ユリウスはどこかげんなりとした様子で言った。サーディス同様
(いえ、温かみというよりも、にじみ出る苦労人の気配というか……。それにしても、
侍女を観察してしまっていたルーティエの傍に、茶器をテーブルに置いた彼女が足早に近付いてくる。思わず身構えたルーティエの顔をまじまじと見つめた後、侍女はユリウスを振り返る。
「見たところルーティエ様は具合が悪そうです。ここはやはり私の素晴らしい歌を披露して、元気付けるべきだと思います」
「むしろ君がこのままいる方が、間違いなく彼女の具合がより一層悪くなりそうだ」
「大丈夫でございます、心配はいりません。私の歌声を聴けば、
「いやいや、それは眠るんじゃなくて気絶するってことだろう。ああ、仕方がない」
何を言っても出て行きそうにない
「お呼びですか、ユリウス皇子」
ほどなくして開いたままの寝室の
「
ユリウスが扉の外に声をかけると、「失礼します」という一言の後、一人の男が寝室へと足を
ユリウスよりも頭一つ分ほど背が高く、服の上からでも
クレストと呼ばれた兵士は
優秀な姉に対して敬意を
寝室を含めて、部屋の中は一気に
「騒がしくして申し訳ありません、ルーティエ王女。彼女、アーリアナは俺が幼い頃から仕えてくれている侍女なのですが、人の話を聞かずにぺらぺらと際限なく
ようやく静かになった寝室に、
予想もしない不意打ちを
「それから、アーリアナの弟であるクレストは、俺の護衛を
再びルーティエの口からは「はあ」という曖昧な声がもれる。毒気を
「もしよければ、ハーブティーを飲みませんか? 温かい物を飲んで落ち着けば、少しは気分もよくなるんじゃないかと思いますが」
ここ数日は色々なことが
わずかに迷った後、ルーティエは小さく首を縦に動かした。そんなものは必要ないときっぱり断ろうと思ったのだが、
ユリウスは無言で頷き、テーブルの上に置かれた茶器を使ってお茶を
茶葉を温めておいたティーポットに入れる手付き、
茶葉を蒸らし終えた後、カップにお茶を注ぎ、仕上げにはちみつを
どうぞと目の前に差し出された白地に花の模様が
「──おいしい」
温かな液体をゆっくりと
口中に広がる優しいカモミールの風味と、甘すぎないはちみつの味、後味は
「お口に合ったようでよかったです。自分がブレンドしたものですが、ハーブティーが苦手な方も多いですから」
手元のカップの中、
「あなたがご自分で茶葉をブレンドしたんですか?」
「はい。アーリアナにはいつも
「先ほどの侍女は茶葉の
「いえ、先に述べた通り、アーリアナは一応
ごにょごにょと続く言葉の歯切れが悪くなる。
ユリウスは
「申し訳ございません、不要な話をしました。
アーリアナという侍女と接したのはほんの数分だが、それでも彼女が好き勝手に作ればかなり個性的なハーブティーになるだろうことは容易に想像できる。ぜひとも飲むことは
「弟もハーブティーが好きで、よく自分でブレンドしていました」
再び視線を戻した薄茶色の液面に、弟の姿が
「イネース・フロレラーラ王子ですか。王国内で接したのはほんの少しだけでしたが、あなたのことをとても
イネースは最後の最後までルーティエとユリウスの政略
だが、イネースは決して納得しなかった。ルーティエがユリウスと共にオルガ帝国に旅立つ際、激しく暴れて父や兄に押さえ込まれつつ、
──僕は絶対に認めない! こんな結婚も、オルガ帝国の支配も、絶対に僕は許さない! 姉様や
普段は
「幼い頃から真っ
そうですかと、単調な
ユリウスという皇子の人となりを、ルーティエはまだまったく掴めずにいる。皇帝を含め、
正直なところ、ルーティエはユリウスの存在を今回の結婚に至るまでまったく知らなかった。皇帝の
答えはわからない。聞くつもりもなかった。相手のことなど知らなくても、政略結婚で結ばれた形だけの
もう一口ハーブティーを飲んだルーティエは、口の中に広がる味にもしかしてと
「この香ばしい風味……タンポポ、ですか?」
「お察しの通り、タンポポの葉と根を
バラのような
ふと、ルーティエの
思い出した景色に、不意に
(そういえば、あの場所で誰かとよく
共に遊びにいくことが多かったレイノールか、どこに行くにも
(……レイ。彼は今、何をしているのかしら)
オルガ帝国の兵士の目を
ユリウスと結婚したことを彼は知っているのだろうか。知っているとしたら、どう思っているのだろう。もう結婚することは
ルーティエが実の兄のように慕っていた人だ。教会での別れ
「もう
耳に入ってきた声に、自らの思考に深く
形式的には彼は今日家族になった相手だが、ルーティエにとっての家族はフロレラーラ王国にいる両親と兄弟だけ。穏やかになっていた心がまた波立っていく。
形ばかりの夫婦になったとはいえ、目の前にいる人物は敵に
(──そうだ、目の前にいる男は敵。自分の、フロレラーラ王国に暮らす全員の敵)
ここでようやく、ルーティエは正常な思考を取り
いつの間にか空になっていたカップはテーブルの上に戻す。口の中に残った優しい味は、意図的に無視した。
「いえ、もう結構です。それにしても、ユリウス様はこのような初夜の場でも、その仮面を外してはくださらないのですか?」
夫婦としての営みなど、もちろんしたいとは思っていない。知識としてはあるが、知らない相手、むしろ
(でも、それがここにいる私のやるべきことだから)
再び
「お
よくよく観察してみると、黒いマントを外してはいるが、ユリウスの服装は寝るようなものではなく通常のままだった。
「申し訳ありません。本来ならば仮面を外して素顔を見せるべきなのですが、幼い時分からずっと身に着けており、人と
ゆっくりと、
彼のルーティエに対する態度は、
「それから、しばらく、いえ、今後ずっと、俺は
え? という疑問の声は音にはならなかった。目をぱちくりと
「今後絶対に、俺はあなたには
背中を向けているので表情はわからない。いや、たとえ向き合っていたとしても、仮面ゆえにユリウスの表情を見て取ることはできなかっただろう。
扉が閉まる静かな音が
新婚の初夜、やるべきことを
ルーティエにとって彼が知らない相手なのと同じように、ユリウスにとってもルーティエは数度顔を合わせただけの
自分が今回の政略結婚の
(……いや、違う! そんなことはない!)
ルーティエは首を横に振った。
フロレラーラ王国ではどこにいても感じていた、甘くて
(私は……一人だ。ひとりぼっち、誰も傍にいない)
この国の中に味方はいない。愛した花の姿さえ、その香りさえも感じられない暗く冷たい国の中で、ルーティエはたった一人で歩いて行かなければならない。
冷えた
(誰もいない、家族も、レイも、
(私は王女だから、フロレラーラ王国の王族だから。だから、弱音なんて
泣くのは今日だけにするから。次に朝日が空に
(あそこに、フロレラーラ王国に帰りたい! みんながいる場所に、家族のいる場所に戻りたい! あの幸せだった日々に……!)
夜の
支えてくれる相手も、
がんがんと頭に響く
鈍痛は、思い切り泣き過ぎたことだけが原因ではない。扉を外から
「おはようございます、起きていらっしゃいますか、ルーティエ様。失礼ながら時刻は間もなくお昼を
扉を叩く音と大きな声とが合わさって、ルーティエの頭をずきずきと突き
「ルーティエ様、このままですと私は昼食を食べる時間がなくなってしまいます。非常事態です、一大事です。私は一食でもご飯を
頭は痛いし、瞳はごろごろするし、瞼は
少しの間無視していれば、
ベッドの
「あ、ちなみに扉を開けていただけなかった場合は、あと三十秒ほど経過したらぶち破らせていただきますのでご
(い、いやいや、まさか、そんな、ねえ)
扉をぶち破るなんて乱暴な
しかし、とルーティエは数字を数える声が聞こえてくる扉へと視線を向ける。
(……昨日のあの調子ならば、当たり前のように扉を
いや、でも、いくらなんでもそこまで非常識な侍女ではないだろう。一応皇子付きの侍女だったのだから。
「さあ、残すところあと十秒です。これはもうぶち破ること決定でしょうか、楽しみです。では、九、八、七、六」
残り三秒を切ったところで、ルーティエは
「おはようございます、ルーティエ様。とはいえもう時刻はお昼前でございますから、おはようございますという朝の
視線が合うと、にこりとも笑わない無表情が言葉を
「ええと、おはよう、アーリアナ……さん」
立場的に侍女にさん付けなどもちろん必要ない。けれど、どうにも調子を
「アーリアナで結構でございます。お
ルーティエの頬が知らず引きつる。
鏡を見ていないので自分ではわからないが、もちろんルーティエだって大泣きした翌朝の顔が綺麗とはほど遠い状態であることはわかる。しかし、
「化粧も着替えも自分でするから結構よ。顔を洗うためのお湯を持ってきてくれる?」
「はい、ただいまお持ちいたします。朝食、いえ、昼食と言うべき時間ではございますが、とりあえず朝食と言います。朝食はいかがいたしますか?」
「……軽いものを少しだけもらえるかしら」
「かしこまりました。では、パンとスープをご用意いたします」
あっさりとした返答を残し、アーリアナはすたすたと
非常に個性的な侍女だと思った。フロレラーラ王国の王宮で働いてくれている侍女たちはルーティエに親愛の情を抱いていてくれていたが、それでも
本来ならば侍女を数名、加えて護衛の
「
というサーディスの一言によって、ルーティエは本当の意味でたった一人でこの国に来ることになってしまった。
いつもだったら朝は侍女が来る前に自分で起きて庭の花の手入れをし、大好きな甘いパンケーキの朝食を食べた後に兄と弟に会って。苦手な勉強の時間はたびたび抜け出して、代わりに庭師と花について語り合い、新しい花の交配を考えて。そんな代わり
たとえレイノールと
ルーティエは頭を大きく振る。泣くのは昨晩だけにすると
フロレラーラ王国から持ってきた水色の簡素なドレスに着替え、アーリアナが用意したお湯で念入りに顔を洗う。腫れぼったい瞼を
パンと刻んだ野菜のスープは
予想した通り室内にはすでにユリウスの姿はない。食事をするルーティエと、
あそこにはいつだって
弱々しく
「ねえ、アーリアナ、この花なんだけど……」
花瓶に生けられているのは、昨日の結婚式でルーティエが持っていたブーケの花だった。強く
結婚式後、ブーケはユリウスが持って行った。その花がここにあるということは、彼が飾ったということだろうか。
「もしかしてお気に召しませんか? それでしたらすぐに片付けますが」
淡々とそう言い、言葉通りすぐにでも花瓶を片付けてしまいそうなアーリアナに、ルーティエは慌てて口を開く。
「いえ、いいわ。そのまま飾っておいて」
かしこまりましたと答えるアーリアナの声が、不思議とほんの少しだけ明るい調子だった気がして、ルーティエは花瓶から彼女の顔へと視線を移す。しかし、そこには最初に見たとき同様感情のない
気のせいだったのだろうと、再び花瓶の花に視線を戻す。結婚式のときは作り物めいた冷ややかな花に思えたのだが、不思議と花瓶の中で咲く姿は生き生きしているように感じられる。
花に罪はない。オルガ帝国の人間の言葉に
バラと百合の花弁へと静かに手を
頭の痛みも
遅い朝食と花の姿で多少なりとも動く気力が湧き出てきたルーティエは、疑問に思っていたことをアーリアナへとぶつける。
「あの人……ユリウス様は何をしているの?」
「ユリウス様でしたら公務をされている時間かと思います。毎朝五時に起き、
いや、皇子の生活に怠惰と笑いは必要ないでしょう、という言葉は心の中だけに
ユリウスが不在でほっとしたのも事実だが、同時にひどく
このまま周囲に流され続けていたら、
現状のまま何もせずに待ち続けていれば、いずれレイノールが助けに来てくれるかもしれない。フロレラーラ王国やアレシュ王国と同盟を結んでいる国々が、救いの手を差し伸べてくれるかもしれない。
(かもしれない、かもしれない、か)
ルーティエは手にしていたスプーンをテーブルの上に置き、ため息を一つ
「パンとスープのおかわりはいかがですか? ご希望があればクッキーやケーキといった食後のデザートも用意することができます。ちなみに私のお
ルーティエに薦めているというよりも、自分で食べたいからルーティエの命令という形で料理長に作らせようとしている。ような気がする。ものすごく短い付き合いのはずなのに、
「ありがとう。でも、食事もデザートももういいわ。お腹がいっぱいだから」
目に見えての大きな変化はなかったものの、「そうでございますか」と答える声には残念そうな
このアーリアナという侍女だって、ルーティエにとっては敵でしかないのだから。
(……そうだ。忘れちゃいけない。ここにいるのは、みんな私の敵なんだから)
敵、敵、敵。周囲にいるのは全員敵、
「それでは食器を片付けます。ルーティエ様の今日のご予定はお決まりでしたでしょうか? ご要望がございましたら、できるだけ
「……フロレラーラ王国にいる家族に手紙を書きたいの。
もはや個性的を一気に通り
ただ、ユリウスは人の話を聞かずに
ルーティエはこめかみを押さえつつ、アーリアナに背を向けた。
「はい、かしこまりました。ですが、一つだけご忠告を。手紙の内容はすべて
ひやりとした響きを
「あなた様がなさったことの責任は、すべて夫となったユリウス様が負うこととなります。それを常に念頭に置き、くれぐれもユリウス様の足を引っ張るような
黒い瞳に冷たい光を宿し、
「……そんなこと、わかっているわ」
かすれた声が喉の奥から
ユリウスは彼女が信頼できる人物だと言った。けれど、そんなことは不可能だった。信頼なんてできない、できるはずがない──この国の誰一人として。
あれほど泣いたはずなのに、瞳の奥には熱い
しかし、意志とは反対に、心は暗いところをさ迷い続けている。自分がこんなに弱い人間だとは思わなかった。強くいられたのは、支えてくれる家族がいて、信頼できる人が
ぎゅっと固く閉じた両目に映るのは、温かな花に囲まれた国の姿、
窓の外には
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