反逆者
「ローガさん……この女は僕たちに素性を隠していた。裏切者のスパイですよ……!」
さてどうしよう。腰を上げたはいいものの、下手な事を言えば俺までスパイ扱いだ。だがあまり長引かせては傷に響くし、ククラが目を覚ましても厄介だ。早めにケリをつけたい。
俺はどうしたものかと言葉に詰まっていたが、そうしているとマヘンドラが先に動いてくれた。
「落ち着け、ナーバ……。そいつはまだ気を失ってるじゃないか、冷静にいこう」
彼はナーバをなだめるように手を動かしている。だがナーバには通じないようだ。
「何を言ってるんですか? この女はずっと我々を騙して、恐れ多くもヒト族になりすましていたんですよ?! 僕達はこの女の為に穢されたんだ! 隊の仲間が死んだのも、このゴキブリのせいですよね?!」
「ってめぇ……!」
俺は思わずナーバを睨んだ。俺達はククラとずっと一緒に戦って来たんだ。それなのに、その戦友のせいで仲間が死んだだとか、ゴキブリだとか言われるのは我慢ならなかったんだ。
「やめろローガ、お前まで感情的になるな」
マヘンドラは冷静に俺を止めてくれたが、既にナーバは俺まで敵視し始めたようだった。彼は俺に睨みをきかせる。
「ローガさん、あなたはこいつの肩を持つ気なんですか?」
「いや、俺は……」
そうだ。と言いたいところだがタイミングを間違えれば危険だ。俺は再び言葉に詰まった。
「ユバナ、お前は外の様子を見張ってろ。こいつらの事は俺に任せてくれ」
するとマヘンドラがユバナに指示を出した。この問題で考えるべき人間を一人減らそうという目論見だろう。
怯えるユバナは、これはまずいぞ……。という表情でこくりと頷いてから、外の様子を監視しに向かった。
「なあローガ、お前はガラタが獣人であることを知っていたのか?」
彼が窓の監視についたのを確認し、気を取り直してマヘンドラが問いかける。
「……ああ、知っていた。ガラタの素性についても本人から聞かされてる。だが裏切者ではない。俺が保証する」
「裏切者じゃないですって? 何を言ってるんですか! 経歴を詐称した時点で、こいつは反逆罪ですよ?!」
ナーバはさらに怒りを露わにし始めた。慎重に言葉を選んだつもりだったが、それでも彼の反感を買ったらしい。
「たしかに……。たしかにそうだが、彼女は敵に内通していたわけじゃない。スパイなんかじゃないんだ。素性を偽ったのも、自分の身を守る為だ。悪気があったわけじゃない」
「本当なんだなローガ? 俺も長年共に戦った仲間が裏切者だなんて思いたくはない。信じていいのか?」
「ああ、信じてくれ。俺が保証する」
「僕は信用できません!」
しかし、必死の説得もむなしくナーバは銃口を俺に向けてきた。
「あなただってスパイかも知れないじゃないですか! もしスパイだったら、僕らは喉元にナイフを突きつけられたようなものなんですよ?!」
「……頼む銃を下ろせ、かのパヴィトラの名に誓って約束する。俺も、ガラタもスパイなんかじゃない」
パヴィトラの神の名を持ち出すことは、俺達にとって最上級の宣誓だ。もしその宣誓に偽りがあれば、村八分にされても仕方のないものである。
「俺は信用するぜ、あんたもガラタも、とてもスパイとは思えねぇ」
「マヘンドラさん! 何を言ってるんですか?! そう簡単に信用しちゃダメですよ!」
「こいつらにスパイなんかできやしねぇさ、そういうタマじゃない」
「今の今までこの女が身分を偽っていたと気づかなかったじゃないですか、それなのに、どうしてそんなことが分かるんですか?!」
「それは……」
とうとうマヘンドラまで言葉に詰まってしまった。そのままナーバがさらにまくしたてる。
「ローガさん。知ってることを洗いざらい話してください。あなたがスパイじゃないというなら、それくらいできますよね?」
「……ああ、分かった……」
俺は一つ深呼吸をしてから、ナーバの問いに答えることにした。
「……ククラ。ククラって言うんだ」
「ククラ?」
「ああ、ククラだ。それが彼女の本名だ。ガラタというのは死んだ女兵士の名前を拝借したものなんだ。本名はククラという奴隷の獣人だ」
その時、床に横たわっていたククラの耳がピクりと動いた。本名を呼ばれて意識が戻ったのかもしれない。彼女は少し険しい表情をしてから、頭を押さえながらゆっくり体を起こし始めた。
「ちくしょう……何があった……? いまどういう状況だ?」
俺に銃口を向けていたナーバは、慌ててククラにその銃口を向け直す。それを見て、ククラの表情が一瞬にして殺気立った。
「……なんの真似だ」
「それはこちらの台詞ですよ……ククラさん」
ククラはその名を呼ばれてハッとする。すぐに手で自分の頭に触れ、ずっと隠していた獣人の耳が露わになっていることに気が付いた。
「はぁ……そういうことか。遅かれ早かれこうなるとは思っていたんだ」
ククラの殺気立った表情は引っ込み、ピンと立った耳が萎びたように垂れる。そしてかわりに諦めたように笑ってみせた。
「お前は黙っていろ! 裏切者め!」
ナーバはククラに銃口を向けたまま、今度は俺を睨めつけた。
「ローガさん! なぜ隠していたんですか?! スパイじゃなかったとしても、この女は穢れた獣人ですよ?! しかも奴隷だなんて! 一体何を考えているんですか?!」
「ああ、確かに身分を偽ってはいたが、でもククラは味方だ、共に戦った仲間なんだ!」
「ローガさんあなたは騙されています! こいつは薄汚れた獣人で、下等な奴隷です? 味方だとしても、仲間ではありません!」
「いや違う、獣人だろうと奴隷だろうと関係ない。ククラは俺の戦友だ」
「何を言ってるんですか? なぜ我々が武器を取り戦うのか忘れたんですか? この忌々しい獣人共のせいで僕たちは戦争をしているんですよ?! こいつら獣人が穢れを振り撒き、救済を遅らせ、敬虔な人民を貶めているんですよ?」
「違う。そんなのは戯言だ! 俺達はそんなものの為に戦ってるんじゃない。騙されているのはお前なんだ!」
「戯言? あなたはさっき神の御名の元に誓ったはずじゃないですか?! その神を侮辱するつもりですか?!」
ナーバは怒って銃口を俺に向け直した。既に彼の懐疑心と敵意は完全に俺にまで向いている。
「まて……いや違うんだ。そうじゃない……」
俺が言い訳考えていると、ククラが俺の言葉を遮った。
「もうよせ、いいんだローガ。ナーバの言う通りだよ。私は汚らわしい獣だ。嘘をつき、友を騙して今日までのうのうと生きて来たんだ。お前が私を本当の友人と思っていてくれても、いくら言ったって生まれが違うんだよ。私は下賤な獣人の奴隷だ」
ククラは俺を慰めるかのように、穏やかな表情だった。
「よく分かっているじゃないですか……。あなたがここで、どれだけ僕らに貢献しようと、穢れた獣人であることに変わりはないんですよ」
ククラはここで殺されることもいとわないつもりなのだろう。だが俺にはそれが納得いかなかった。だったら、俺までナーバに殺されたって構わない。俺はナーバにまだ食ってかかることにした。
「ああ……そうだな、ナーバ。てめぇの言う通りだ。俺もこの女に言ってやったんだよ、お前は穢れた最低のクソアマだってな」
「やはりそうですか、安心しましたよローガさん」
「だがな、俺やお前はどうだ? お前は今日何人人間を殺した?」
「それは……はっきりとは数えられませんが、覚えている限りでも四~五人は殺しましたよ」
「そうか、ならお前も、もうこっち側の人間だよ。てめぇは人殺しのクズだ。泥をすすって地べたを這いずり回る、人殺しの虫けらだ。てめぇも最低のクソ野郎なんだよ」
その言葉を聞いてナーバはカッと目を見開いた。よほど効いたらしい。その様子を見て慌ててククラが俺を止めにかかる。
「よせ! お前まで死ぬ気か? 下手な事言うな!」
だが俺はニヤニヤと笑って見せた。どうせここでナーバに殺されたって、大差はない。たまたまあいつが敵だったってだけの話だ。
「違うか? 俺達はもう骨の髄まで穢れ切ってるんだよ ここじゃ何者だろうと平等だ。クソがクソ同士殺し合ってるんだ。違いは二つだけ、敵か味方か、生きてるか死んでるか、それ以外になにもありゃしない」
すると、それを聞いていたマヘンドラも笑い出した。
「ハハハハ、ちげぇねえや。俺達はみんな地に落ちた畜生だよ。聖戦だとかなんだとか理由つけたってな、俺達がやってんのは人殺しだ!」
「違う! 僕は神と祖国の、その御心の為にここに来たんだ! これは神聖な正義の遂行だ! フタデサの獣人共を殺すことで、僕らは浄化されるんだ!」
「ほー、面白いな。俺もそうさ。みんなそう言われて来たんだぜ? まったくしくじったよ。神の名を騙る馬鹿どもに踊らされていたんだからな。気づいた時にはもう遅かったよ、俺達の身体は浄化されてなんかいない。すっかり穢れ切っちまったんだ」
「黙れ裏切者め!」
ナーバはとうとう激高し、銃床で俺を殴りつけた。顔面に木製の銃床が打ち付けられ、衝撃で思わず座り込む。そして鈍痛と共に鼻血が飛び出した。
「ばか! よせ!」
思わずククラが俺を庇う。彼女は殺すなら私をとでも言うように、俺とナーバの間に入った。そして俺はペッと血を吐き出し、ナーバを睨みながらにやけて見せた。
「二人ともまとめて殺してやる! この売国奴どもめ!」
「よせナーバ! いままここで撃ったら敵に見つかる! 同士撃ちなら戻ってからもできるだろ?!」
マヘンドラはそう言って彼を止めようとしたが、ナーバの怒りが収まる気配はない。
「マヘンドラさん! あなたも死にたいんですか?! 裏切者は早く駆除しなきゃいけないんですよ! ユバナ! お前も何か言ったらどうなんだよ!」
ナーバはそう言って、今度はユバナの方を見た。窓際で外の様子を監視していたユバナは、びくりとしてこちらを向く。
「……ぼ、僕は」
ユバナは怯えた様子だ。そんなこと聞かないで、とでも言いたいくらいなのだろう。涙目になりながらじっと俯いているばかりだ。
「君なら分かるだろ?! みんなどうかしてる! こいつらは国家に反逆する裏切者だ! そうだろ?!」
「えっと、それは……」
「ユバナ、君は味方だよな? 君なら僕の言うことが正しいって分かるよな?」
「違う……」
「違うって何がだ?」
「……お前のせいだ」
「えっ?」
「全部お前のせいだ!!」
涙を浮かべるユバナが急に怒鳴り始めた。そしてナーバを睨みつけ、手にする短機関銃の銃口を彼へと突きつけたのだ。
「……いったい何をして……」
ナーバは突然の出来事に唖然としている。ユバナはさらに続けた。
「お前が国の為だ、神の為だって言うからここに来たんだ! こんなことになるなら、戦争に来たりなんかしなかった! 全部お前が悪いんだ! 僕は英雄なんてどうでも良かった! 街で普通に暮らしていればそれでよかったんだ! なのに……なのにお前が言うからここに来たんだ! お前のせいで僕まで成り下がったんだ!」
彼の気迫はなかなかのものだった。普段気弱であまり喋らないユバナだけに、思わずその場にいた皆がぽかんとしてしまった。
そして彼は、プルプルと震えながら引き金に指を掛けている。下手を打てば本当にナーバを殺しかねない状況だ。
「よせ、ユバナ! 銃を下ろせ!」
マヘンドラも慌てて止めようとした。だが下手に手を出すのも危険だ。彼は声をかけるだけに留めておいた。
「ユバナ……どうして……」
ナーバのやつは、絶望したと言わんばかりに気が抜けて呆然としたままだ。まさかこんな事言われるなんて夢にも思っていなかったんだろう。おまけにこれで、彼の味方は誰一人いなくなってしまったのだ。
「お前も裏切り者だったなんて……」
ナーバは銃口を俺の頭から外し、ゆっくりとユバナの方へと身体を向けていく。
そしてその時だった。甲高い音が鳴り、とうとうユバナが引き金を引いたのだ。
短機関銃の一連射が放たれ、ナーバの脳天や胸を捉える。瞬く間に血しぶきが上がり、力を失ったナーバの身体は、すぐに背後のククラの上に崩れ落ちた。
「くそっ! マジでやりやがった!」
マヘンドラは大急ぎでユバナを羽交い絞めにし、武器を落として遠くに蹴飛ばす。俺とククラもすぐに撃たれたナーバの様子を確認した。
だがユバナの放った銃弾は正確に脳と心臓を捉え、ナーバ既に即死していた。俺はそのまま窓の外の様子も確認しにいく。銃声を聞いて敵が攻めてくるかもしれなかったからだ。
取り押さえられたユバナは顔をぐしゃぐしゃにして泣きじゃくり、うつ伏せに押さえつけられながら嘔吐していた。
すぐにこの部屋には、硝煙と、血と吐しゃ物の臭いが立ち込め始める。
なんの事はない、嗅ぎなれた匂いだ。
「ごめんなさい……ごめんなさい……殺す気じゃなかったのに……」
ユバナはそう独白した。今となっては真意が分からないが、ユバナはナーバが振り返り、自分を殺そうとしたと思ったのだろう。それで怖くなって反射的に引き金を引いたんだ。
ユバナは泣きじゃくるばかりで抵抗する様子はない。もはや抵抗の意思なしと判断したマヘンドラは、ユバナの拘束を解き背中をさすりながら彼を座らせた。
「これは運の悪い事故だ。お前は悪くない」
マヘンドラはそう諭した。ユバナはそれについて何も答えず、ただ泣きじゃくるばかりだ。マヘンドラがさらに続ける。
「悪いのは全部この戦争だ。咎められるべき人なんていないんだよ」
ユバナはまだ泣きじゃくるばかりで答えない。
そうだ、確かにユバナはナーバを撃ち殺した張本人だ。だが俺には彼を加害者として責め立てる事なんてとてもできない。それから俺に銃口を向けたナーバや、この状況を作りだしたククラについてもそうだ。俺だって何も言えた立場じゃないし、きっと彼らの事情を知っていたなら、蚊帳の外に居たとしても彼らを責める事はできないと思う。
「外の様子は大丈夫そうだ。あちこちで銃声が鳴っているし、俺達には勘づいていないらしい」
俺は外を確認した上で皆に報告した。とりあえず差し迫った危険はない。これでようやく、好きなだけ後悔するなり、いくらか身体を休めるなりできるようになったわけだ。もっとも、雰囲気は最悪なようだが。
俺はひとまずナーバの死体を脇に移動させてから、ククラの手当てをしてやることにした。結局ひと悶着あったおかげで、怪我をしてからいまだになんの手当てもできていなかったのだ。
出血は落ち着き始めていたが、まだ完全に止まったわけではない。傷も剥き出しのままなので、感染症にでもなりかねない危険な状態だ。
俺は「いてぇよ、もっと優しく巻いてくれ……」なんて悪態をつかれながら、そんな彼女の頭に包帯を巻いておいた。
あとはユバナの事だが、彼はマヘンドラが見てくれている。ああいうのは年長者に任せておいたほうが得策だろう。俺の仕事はひとまず片付いた。
しかしこうしていざ休めるとなると、急に荷物を背負わされたみたいに、いきなり疲れが身体を襲ってくるものだ。
全身の倦怠感に加えて、頭もくらくらして吐き気がしてきた。若干視界が歪んでいるような気さえする。おまけにさっきまで全く痛みを感じていなかったというのに、いまさら全身が痛くなってきた。
たぶん最初の砲撃を食らったときだろう。あの時はスイッチが入っていたから痛みを感じなかったが、体中が打ち身になっていたんだ。それにちょっとしたかすり傷や切り傷もあちこちにあるし、火炎瓶で火傷もしているらしい。こうして痛みを感じるまで、傷がついたことにすら気が付かなかったんだ。
他の三人も大概だろう。ククラとユバナは言わずもがな、マヘンドラだって相当身体に応えているはずだ。俺達はもう肉体的にも精神的にも、満身創痍と言わざるを得ない状態だった。
物資についてもそうだ。念の為確認しておいたが、全員手榴弾は使い切っていて、短機関銃の弾倉も各々予備が一つある程度だ。食料や水も今消費すれば全部無くなってしまう。この状態では持久戦も短期決戦も無理だ。
しかも運の悪いことに、ここに来てからのしばらくの間で周辺から聞こえる銃声は段々と遠ざかっているようだった。それも、俺達が元居た戦線の方に向けてだ。
「ちくしょう、味方が押されているな……」
俺はそう呟いた。それにククラが答える。
「私達は進み過ぎたんだ。周りは敵だらけなんだろうな」
「どうする? 今出たら袋叩きだぜ」
今度はマヘンドラも発言した。そのあと再び俺が発言する。
「だが味方が引いたんであれば、いずれここは砲撃の嵐だぞ? 長居はできない」
もし味方が撤退するなら、追撃を止める為砲撃で支援するのが一般的だ。事前の作戦概要で伝えられていたことではないが、俺達の事なんてお構いなしに砲撃をされるのは目に見えてる。
「そうだな……。味方が挽回するとも思えないし、砲撃が始まる前にここを離れないと……」
マヘンドラは頭を悩ませた、彼には年長者としての責任感もあったのだろう。だがすぐには動けず、長居はできないというジレンマを解決する方法は浮かんでこないようだった。
そうしてしばらく俺達が悩んでいると、ククラが重い口を開いた。
「なら、私が囮になるよ。もうあんたらに素性が割れちまったからな、敵の注意を引いてる間に、敵の前線を突破して味方陣地に戻るんだ」
彼女は実に穏やかにそう説明してくれた。だが俺はそんなに穏やかじゃいられない。こんな提案納得ができなかった。
「ふざけんなよ、お前だけ勝手に死なせたりしないからな。そいつはナシだ」
「俺も反対だ、あんたの事は俺も内緒にしておく、どうにか一緒に戻る方法を考えよう」
「無理だよ、あんたらが私の事を隠してくれていたって、この怪我じゃ手当てが必要だ。放っておいて感染症にでもかかったらそれこそ死んじまうからな。診療所で頭を見られたらそれで終わりだ。それに、もしバレたら二人まで罪に問われかねないだろ?」
「いや、確かにそうだが……」
俺には何も打つ手が思いつかず、それからしばらくは何も言葉が出なくなってしまった。
「ありがとう。こんな私を心配してくれて。でもな、どうしたって私はお荷物なんだ。こうして足を引っ張ったんだし、最後くらい役に立たせてくれ」
「いいやだめだ。戻れないんなら、せめてククラだけでも生き延びてくれ、俺達は俺達でどうにかする。お前は市民に紛れて北から街を出ろ。どこかで服を拝借しておけば、獣人の娘のお前を疑う奴は誰もいやしない」
「ふざけるな、私だけ逃げろと言うのか?」
「逃げたっていいじゃないか、お前んさんが無理に戦う理由はない」
「そんなのは侮辱だ! 私にだって誇りはある!」
答えのない議論を二人が続けているうち、黙っていた俺は全く脈絡が無いのだがふとあるものが目に入った。
室内を音もなく這う小さな黄色い虫。そうバッタだ。俺はこのバッタを見て、あることを思い出した。
「なあ、今年はやたらと雨が多くなかったか?」
「どうしたんだ急に、それがどうした?」
俺が関係ない事を言い出したもんだから、ククラが少し苛立って問いかけた。俺はバッタを持ち上げながら返事をする。
「もしかしたら……上手く戻れるかもしれないぞ」
すると、俺の発言を聞いたマヘンドラがハッとして立ち上がった。そして彼はそのまま、取り乱したように窓を開けて外の様子をしきりに見始める。
「おい何やってるんだ! 見つかるぞ!」
苛立ったククラは、マヘンドラを制止しようと後を追って窓際へと向かった。俺も同じように窓を開けて外の様子を確認しに向かう。
「バッタだ……バッタが来るぞ……」
マヘンドラが震えた声で呟いた。だがその報告を聞くまでもない。窓ガラスやサッシの上、建物の壁にも、あちらこちらに黄色いバッタが止まっているのだ。
バッタの大量発生、つまり蝗害である。ある種類のバッタは、時折大量発生することがあるのだ。しかし大量発生と言っても、生態系のバランスを崩すなんて程のものじゃない。辺り一面バッタが空を覆い、地上の生命を全て食い散らかして去っていくのだ。
こんなものに襲われたら、敵も味方も大混乱である。今日以降しばらくは戦争どころではなくなってしまうだろう。少なくとも、この場所へ味方が訪れる見込みは毛頭ない。どうにかして今すぐ味方陣地へ戻らなければならないのだ。
「どうだ? バッタがくれば視界が悪くなる、バッタの霧に紛れて進むんだ! それに敵も味方もまともに攻撃はできない! 今なら戻れるかもしれないぞ?!」
やるなら今だ。俺は皆に提案した。
「ふざけた案だが悪くない、私は乗るぜ」
「ちくしょうみんな急いで準備しろ! 移動するぞ!」
マヘンドラとククラも同意し俺達はすぐに準備に取り掛かかる。広げた荷物をまとめなおし、持てるだけの物資を持つと、俺達は意を決して建物の出口へと向かった。
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