赤の状態

 敵の塹壕線までは百メートルほどある。その道は激しい凹凸が続き、そこらじゅう水溜まりだらけで、有刺鉄線がぐちゃぐちゃに吹き飛んでいる。

 そしてこの起伏の先には、小銃を向ける敵の兵士達と、機関銃を据え付けたトーチカが見え隠れしていた。

 俺は味方の中でかなり先陣を切った方だったので、背後からはそこらじゅう仲間の雄たけびが聞こえて来ている。そして前方からは、機銃の掃射と、小銃の一斉射撃の銃声が絶え間なく鳴り響いていた。


 そうして俺が走り出してすぐ、今度は足元やすぐ脇を銃弾がかすめるヒュンヒュン言う音や、バシバシッと言った音がこだまし始めた。

 だがこの程度で怯むわけにはいかない。俺はわき目も振らずに進撃を続けた。


 すると今度は、背後から仲間たちの悲鳴が聞こえ始めた。それだけじゃない。前を向いていながらも、銃弾が肉を引きちぎる音や、骨を砕く音が聞こえてきた。

 それに、そういう悲鳴が全部聞き覚えのあるやつの声に聞こえてくる。ククラやカプタナ、新兵達が撃たれたじゃないかと、音が聞こえる度に疑ってしまった。

 でも今まであいつらはしぶとく生き残って来た。だから、きっとあいつらは死なない。そう自分に言い聞かせて前だけを向いて進んで行った。


 そうして更に前進していると、今度は近くでどでかい土煙が上がり、強烈な爆音と大地の震動が全身に響き渡った。

 敵の迫撃砲だ。視界の一番端っこで、味方の兵士が軽々と吹き飛ばされているのが見える。俺と同じように先頭を走っていた仲間だ。普段なら九十度横にある視界の端なんてよく見えやしない。でもこういう時に限って、はじけ飛んだ身体から飛び出す内臓の一つ一つすらはっきりと見えやがるんだ。それも一瞬のうちにだ。


 今度は反対側からも土煙が上がった。そして立て続けに俺の前方でも土煙が上がる。目の前が土砂の壁で覆われ、直後全身に大量の土砂が降りかかった。

 俺はその重みと地響きにバランスを崩して、一度は地面に手をついてしまったものの、幸い直ぐに建て直せた。俺は更に走り続ける。


 だがその直後、俺の身体にものすごい衝撃が加わった。鉄砲水を真横から食らったみたいな感じだ。たぶん今度こそ砲撃をもろに食らったのだろう。

 でも不思議なことに全く音がしない。小さいとかじゃなく、本当に何も聞こえないんだ。

 俺は無音の中で大量の土砂に押され、一メートルほどはじき飛ばされた。体じゅうに土砂が降りかかり、俺は思わず咳き込む。いやたぶん咳き込んだ。だって咳をする自分の声すら聞こえないのだから確証が持てない。

 だがしばらくして、無音の中から土砂の崩れる音が聞こえ始め、今度は段々と遠くからカプタナの声が聞こえてくる。


「……だ……じょ……か! おい! ローガ!」


  ああ、どうやら鼓膜は破れてないらしい。これがカマルの言っていたやつなんだな。「本当に砲弾に当たった時は、何も音がしない」古参兵達の通説みたいなものだ。俺は死にかけたってのに、豆知識を知ったみたいにうんうんと感心してしまった。


「おいローガ! 大丈夫なのか?!」


 カプタナは地面に倒れた俺に大慌てで駆け寄ってきてくれる。


「ああ、良かった。生きてたんだなカプタナ」

「何言ってる! 死にかけてたのはお前だろ?! ほら! 立てるか!」

「ああ、大丈夫だ」


 俺はカプタナの手を取って立ち上がる。見ると後方からはプラカシュにククラ、カマル、マヘンドラ、それから新兵のナーバとユバナも、みんな揃って駆けて来ていた。良かった。みんな死んでなかったんだ。

 一応俺の身体も問題ないらしい。少し肩を回してみたが、どこも痛まない。


「お前砲撃を直に食らってたぞ?! 大丈夫なのか!」


 ククラが声を掛けてくれた。


「ああ、大丈夫。無傷だ」


 気を取り直し、俺はまた全速力で走り出した。味方に後れをとるわけにはいかないからだ。だってもう、既に俺の前方を走っている奴がいるんだ。恐怖や闘争心より何より、それが悔しかった。


 そして残りの中間地帯を皆で走り抜け、俺達分隊は誰一人欠けることなく敵の塹壕線のすぐそばまで差し迫る事ができた。

 俺達は一旦手前の砲弾穴に伏せ、敵の塹壕の様子をうかがう。


「敵は少ない! いけるぞ! 突撃だ!」


 すぐにカプタナが号令をかけた。どうやら今が攻め時らしい。俺は何の躊躇もなく立ち上がり、敵の目前まで迫って短機関銃の一連射を浴びせにかかった。

 しかしおかしい。なぜか引き金を引いても、パスパスッと豆鉄砲みたいにしか銃声が鳴らない。代わりに撃鉄が前後するカチンカチンという音と、銃弾が肉に食い込む鈍い音が、これでもかとはっきりと聞こえていた。


 これはまあいつもの事だ。初めて経験した時は銃が動作不良を起こしたのかと思ったが、どうやら動作不良を起こしているのは俺の脳みその方らしい。なぜか知らんがわざわざ銃声の音だけそぎ落とすんだ。

 時にはまるっきり銃を撃ったことに気付かない事さえある。


 ともかく、俺の射撃は確かに敵兵の身体を貫いた。血しぶきと肉片が塹壕の後ろの壁まで飛び散り、一度に三人を殺すことができた。

 それを皮切りに、俺達は塹壕の中へ一挙になだれ込む。意表を突かれた左右の敵兵は慌てて銃口をこちらに向けたが、俺達の方が一歩早かった。


 俺は照門を覗き込み、照星が繋ぐ直線状の先に敵兵の姿を捉えた。

 こうして狙っていると、まるで筒を覗いているみたいの周りのものが見えなくなる。これは比喩なんかじゃない。本当に俺の目には、銃を向けようとする敵兵の黒い瞳しか見えなくなっていたんだ。

 そして俺は、撃とうと思うより先に引き金を引いた。またパスパスッと気の抜けた銃声が聞こえる。直後に敵の瞳が視界から外れ、肌や血みたいなものが目まぐるしく視界を通り過ぎていった。

 まあ、よく見えないがたぶん死んだんだろう。


 次に俺は、急いで振り返って仲間の様子を確認することにした。しかし、視界の異状もまだ続いている。点みたいにしか見えない視界を百八十度後ろに向けると、もうどこを向いているのか分からなくなってしまった。それに辛うじて見える人影も、一人ずつでしか確認できない。仕方ないので俺は大声で仲間を呼ぶことにした。


「みんな無事か! 生きてるのか! おい! 大丈夫か! おいみんな!」


 俺は何度も何度も怒鳴って皆を呼んだ。だが自分の声がうるさすぎて返事が聞こえない。でもそうしているうちに視界が元に戻り、俺は仲間たちの姿を目視できるようになった。どうやら皆無事らしい。

 これも不思議なものだ。段々と視界が広がるんじゃなく、気が付いた時にはもう既に元に戻っているんだ。


「ローガ! 聞こえてるのか?! 俺は大丈夫だ!」


 カマルが怒鳴っている。お互い目の前にいるってのに、俺が何度も何度もしつこく聞くもんだから、カマルも何度も大声で答えてくれていたらしい。それに全く気付けていなかったんだ。


「ローガ! トーチカだ! 火炎瓶を使え!」


 カプタナがそう指示を出した。さらにユバナから火炎瓶を投げ渡される。どうやらすぐ近くに敵のトーチカがあり、そこからの機銃掃射が味方の進撃を阻んでいるようだ。これを破壊しろと言うことらしい。


 俺はすぐにライターを取り出し、火炎瓶に火をつけようと試みた。しかしこれがなかなか上手くいかない。手は震えているし、火打石を回そうとすると、どうしても握りつぶしそうな勢いで力が掛かってしまう。

 俺は焦らないよう集中して何度も火をつけようと試みたが、結局何度やっても駄目だった。仕方がないので、俺は仲間の助けを借りることにした。


「誰か! 火を貸せ! 早く!」


 喫煙者に感謝する日が来るとは思いもよらなかったが、プラカシュは難なく自分のライターに着火し火炎瓶に火を移していた。彼の筋肉に、日頃のルーティンとして火をつける動作が染みついていたおかげだろう。


「ほら、ローガ急げ!!」


 カプタナはライターを差し出し、俺の持つ火炎瓶の布地にも火をつけ始める。瞬く間に火が布地全体に燃え広がり、俺はすぐにそれをトーチカへ投げ込んだ。合わせてプラカシュも近くの掩壕へ火炎瓶を投げ込む。

 そしてパリィッンッ! と景気のいい音が鳴り、直後一気に火の手が上がった。狭い密室のトーチカは、瞬く間に高温の炎に包まれ、すぐに火だるまになった機関銃手が飛び出しくる。

 俺はそいつに向けて短機関銃の一連射を浴びせた。今度の銃声はよく聞こえている。耳栓が欲しいくらいの小気味よい破裂音が数度連なり、真っ黒な肉体は立ち昇る炎の底に沈んでいった。

 プラカシュの方も、掩壕の入り口に仁王立ちして中の敵兵を掃討している。


「こっちは片付いたぞ!」


 プラカシュが報告した。俺も同じく報告をする。


「こっちもだ! 全員片付けた!」


 次にククラも報告をした。


「他に敵影はない! 奇襲は成功だ!」


 やったぞ。新型兵器のおかげか知らないが、俺達は大した抵抗もなく敵の第一塹壕線を奪取することができた。既に他の突撃隊の面々もこの塹壕戦になだれ込んできている。

 だが本番はこれからだ。奪取したとっても、長い前線のごく一部に過ぎない。俺達はこの橋頭保を維持しつつ、第二塹壕戦へ進み、後ろの街まで到達しなければいけないのだ。


「休んでる暇はないぞ! 急がないと敵が防衛線を再構築してしまう! この場所の維持は他部隊に任せて、俺達は更に進撃するぞ!」


 カプタナがそう指示を出した。俺は待ってましたとばかりに奮い立つ。さっさと本陣まで攻め込んでやろうぜ。


「表に出るのは危険だ! すぐそこに連絡塹壕がある! そこを通って行こう!」


 カマルがそう言って指をさした。確かにそこには後方へと続く連絡塹壕がある。これを使えば機銃の射撃に晒されることなく、ある程度安全に進めるだろう。


「よし決まりだ! 行くぞ!」


 こうして俺達は休む間もなく進撃を再開した。

 皆で一列になって、連絡塹壕を進みはじめる。先頭は言い出しっぺのカマルだ。二番手に俺がつき、その後ろにカプタナ、プラカシュ……と続いている。


 カマルは早歩きでそれなりの速度を出していたのだが、この連絡塹壕を進むにはやけに時間が掛かる気がした。

 塹壕線は爆発の被害を抑える為、コの字を連ねたジグザクのような形で作られている。その為数メートル先までしか見通せず、ゴールがどこなのかは上へ這い上がらなければ分からない。おかげで距離感が分からなくなって脳が混乱するんだ。

 俺達は同じような曲がり道を何度も繰り返し繰り返し歩き続け、まるで永遠に続く回廊に取り残されたような気分になった。


 そして、退屈な繰り返しは油断を生む。敵がさっさと後退して先程から会敵していなかったし、敵味方ともこの場所に砲弾を落としていなかったのが災いしたんだろう。俺は完全に脅威への反応が鈍っていた。


 ある時、次の曲がり角に敵兵が隠れていて、銃剣の奇襲が先頭のカマルを襲ったんだ。

 本来なら、それに気が付いた時にはもう既に手をくれになっていただろう。でもその時は、気が付いた。と思った瞬間から一気に時間の流れが遅くなったんだ。

 俺の目には、目と耳をこれでもかと開けて襲い掛かる敵兵がはっきりと見えていた。勢いに任せて突き出された銃剣は、ゆっくりとカマルに近づいている。その刃はもはや、刀身に俺の顔を写しながらあと数センチで突き刺さるというところまで迫っていた。

 カマルの方も、奇襲に気が付きゆっくりと目を見開きながら恐怖の表情へと変わり始めている。


 このままでは彼は殺される。俺には手遅れになる前にこの状況を把握する時間が与えられていた。でもなぜかは知らないが、俺の身体にはこの状況を打開する力が与えられていないらしい。

 なぜなら、俺が急いで敵に銃口を向けようとしたのに、まるで土の中に埋まってるみたいに少しずつしか動かなかったからだ。


 まずいぞ、この速度じゃ向こうの刺突の方が早い。脳みそはこれだけ焦っているのに、どうして俺の身体はまるっきり動かないんだ。

 そうして結局、俺は敵に先手を取られる姿をただ長々と見せつけられることになった。


 ゆっくりと銃剣の先がカマルの胸元に近づいていき、軍服を段々と切っ先が押し込んで行く。そしてぷすりと服が切れ、ずぶずぶとカマルの胸に刃がめり込んで行った。さらに銃剣はそのまま根元まで突き刺さり、背中から服を押し上げながら、突撃の勢いのままカマルの身体を壁に叩きつけた。

 俺が敵に短機関銃の連射を浴びせることができたのはその後だ。敵兵の側面に銃弾が食い込み、着弾の衝撃に合わせてその身体がくねくねと踊る。そして敵の力が抜けたところでタックルをかまして引きはがし、カマルの身体には突き刺さった銃剣だけが残った。


「カマル!! 死ぬな!!」


 俺は大慌てで銃剣を引き抜いた。画鋲で止めた紙みたいに、抑えをなくしたカマルの身体は地面に倒れ込んだ。


「くっ……そ……」


 カマルは血反吐を吐きながら荒く呼吸し、擦れた声でそう漏らす。


「死ぬな! 今助けてやるからな!」


 俺は急いで軍服を剥がして傷口を確かめた。服を剥がすとだくだくと血が溢れだし、カマルが痛みに呻くのがよく分かる。


「ローガ! 傷はどうだ! お前達は援護しろ!」


 カプタナも指示を出しつつ、カマルに近づいてきた。


「血の出かたがおかしい! 心臓を貫かれてるんだ!」

「……くそ……野郎、ふざけやがって……」


 俺はカマルの悪態を聞きながら、自分の包帯を取り出した。だがカマルは明らかに致命傷だ。こんなものでどうにかなるわけがない。そんなことはよく分かってる。でも考えるより前に、とにかく行動しようと体が動いていた。


「無駄だ! こいつはもう助からない!」


 だがカプタナが冷静に俺の行動を止めた。でも俺にはそんなの納得がいかない。


「じゃあどうすんだよ! このまま放っとけって言うのか!」

「そうするしかない! カマルはおいて先に行くべきだ!」

「ふざけんなよ! 俺は死なせねぇぞ!」


 俺はどうにかして助ける事しか頭に無かった。だが、カマル自身でさえ、それを止めに来やがった。


「……さっさと行っちまえよ……てめぇの仕事はここで油を売る事じゃねぇだろ」


 彼の物言いには、いささか怒りが込められているように聞こえた。言葉にはできないが、俺は彼が何に怒りを覚えているのかよく分かる。

 そしてカプタナが立ち上がりながら、その言葉に返事をしてやった。


「悪いな、カマル。お前の分も敵を殺してやるからな」

「……ああ、頼むぜ……クソ野郎」

「ほら、行くぞ。ローガ」

「……クソッ、俺はを恨むぜ」


 選択肢はない。仕方なく俺も立ち上がり、銃を手に取った。


「どうすんだ! 早くしないと爆破されちまうぞ!」


 周囲を警戒していたプラカシュが怒鳴る。いつだか自分が撤退した時のように、爆破して連絡塹壕を潰される危険があるんだ。あまり長居はできなかった。


「達者でな、カマル」


 カマルは不敵に笑うだけで返事をしない。俺は短機関銃を構えて覚悟を決めた。


「よし! 行くぞ!!」


 俺達は各々カマルに別れを告げつつ、先を急ぐことにした。

 俺が先頭になって連絡塹壕をさらに進み、その後すぐ敵の第二塹壕戦まで到達することに成功する。

 第二塹壕へと接続するT字路には守りの兵が何人かいた。俺達はそいつらをさっさとハチの巣にし、第二塹壕に突入して左右に展開する。

 するとそこは、丁度据え置き機関銃の銃座があるところになっていて、敵兵がこちらに気付かずに延々と機銃をぶちまけているところだった。


 俺はそいつの横っ腹に短機関銃をお見舞いした。装填手もおまけに射殺してやる。おかげで機関銃の射撃は止まり、硝煙と冷却水の蒸気が立ち上るだけになった。

 これで地表にはいくらか余裕ができたらしい。好機とみて第二塹壕へと友軍がすぐになだれ込んでくる。

 これで第二塹壕も確保だ。今回は随分楽だった気がする。


 て言っても、たぶん敵の抵抗が少なかったからじゃない。確かに苦戦することは無かったし、短時間での制圧に成功していたけど、それ以上の身軽さがあった。

 たぶん俺の脳みそが容量超過で、ぼーっとしていたんだろう。俺の頭は戦闘に集中するだけで容量いっぱいっぱいだってのに、カマルの事でとうとう手に負えなくなったんだ。


 俺はここで結構敵を殺したみたいだが、誰か別人が戦ってるのをただ眺めているような感じだった。俺は全くの無意識、無自覚で、自動で動く機械みたいになって戦闘をしていたらしい。

 こういうことは新兵の頃に比べて少なくなっていた気がするんだが、どうやらまだ完全に克服できたわけじゃなかったみたいだ。


 でももう大丈夫だ。今はもう意識がはっきりしている。次に殺す奴の事は、ちゃんと覚えていられるはずだ。

 この調子でこのまま街まで攻め込んでやろうじゃないか。


 そうして俺達はすぐに次の目標へと動き出した。

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