【五章】山羊と狼と番犬

湿地林

正義は武器に似たものである


武器は金を出しさへすれば、敵にも味方にも買はれるであらう


正義も理窟をつけさへすれば、敵にも味方にも買はれるものである






【芥川龍之介 】






810年チャイトラの月20日(サ・ラクパ)



「おい、ローガ。起きろ」


 ローガは気だるい気分のなか、自分を呼ぶ声を聞いた。

 重い瞼をどうにか持ち上げてみると、そこには白い髪を揺らし、尖った耳を生やすラジャータの姿がある。


「やっと起きたか」


 彼女はチルチルとミチルの手綱を引きながら、ローガが目を覚ましたことを確認すると仕事に戻って行った。


「ローガ様大丈夫ですか?」


 もう一つ声がした。今度はいくらか聞きなれた声だった。茶色い髪に猫の耳を生やし、ローガの顔を覗き込むルーウェンの声だ。


「あ、ああ……大丈夫だよ」


 ローガは力の入らない口をどうにか開けて答えた。


「ごはん用意してきますね!」


 彼が起きたことを確認すると、ルーウェンはニコニコと食事の用意をしに向かった。


 一行は、先日の村でラジャータを迎えてからさらに北上を続け、シャンバラを目指すべく旅を続けているところだ。

 彼らは今、河原の一角に野営を張って朝を迎えていた。

 川幅は百メートル程あり、朝の霧に包まれて辛うじて見える向こう岸には、鬱蒼とした湿地林が広がっている。

 これまで歩んできた延々と続く平原は終わりを告げ、ここから先はジャングルと湿地が広がる大地だ。

 そして、そのジャングルを越えて丘陵地帯を越えた更にその先には、当面の目標となる雄大なパヴィトラの白い連峰がそびえている。


 ラジャータはこの手の野営に慣れたもので、先ほどローガが目を覚ました頃には片付けを済ませ、飼い付けの為に放っていたチルチルとミチルも連れ戻していた。

 ルーウェンも既に主人のために朝食の用意を済ませており、塩漬け肉を挟んだチャパティを持ってローガの元に戻ってきている。


「ローガ様どうぞ」

「ああ、ありがとう」


 ローガはそれを受け取り、寝起きのだるさをそのままに食事にありついた。

 その頃にはラジャータもチルチルとミチルを馬車に繋ぎ終え、食事を摂りに二人の元へ戻ってくる。

 ルーウェンはそれを見てラジャータにも干し肉入りチャパティを手渡した。


「二人とも悪いな……全部任せちまって」


 ローガは食事を食べながら二人に謝罪した。


「いいんですよ! 私はローガ様のお世話をする為にいるんですから!」

「私は叩き起こしてもよかったんだがな、お前が随分苦しそうにしているからそのまま寝かせてやることにしたんだ」

「そりゃ気遣いなのか、意地悪なのかどっちなんだ……?」

「気遣いだ。お前、寝るときいつももうなされているからな。毎度寝覚めが悪そうだ」

「ああ……バレてたか……。確かにそうだ、いつも寝覚めが悪い……」

「ローガ様……私も心配なんですよ! せっかくお薬たくさん貰ったんですから、何か使えるものとかないんですか?」

「いや、あるのかもしれないが、俺は詳しくないから分からないよ」

「そうですか……もしかしたらお医者さんに会った方がいいかもしれないんじゃないでしょうか?」

「ローガ、お前は何かの病なのか? それとも単に悪夢でも見ているだけか?」

「どうだろうな……。自分じゃよく分からない」

「なら、何か原因はあったりしないのか? 原因が分かれば対処の仕方もわかるだろう?」

「原因か……」


 ローガは難しい顔をして考え始めた。


「直接の原因は夢のせいだ……毎日毎日、戦場に出ていた頃の夢を見てる。今日はある戦友の夢を見てた。それから、よく見ることが多いのは柳色の霧の夢だ。他の夢は単に俺の過去の記憶なんだが、それだけは何なのかよく分からない。俺の記憶にはない出来事なんだ。でも、まるで本当に体験したみたいに現実的だし、かと言って非現実的な感覚もある。まるで、そこにいる自分が自分じゃないみたいに感じるんだ。その感じが……なんて言えばいいのか……。なんていうかすごく気持ち悪いんだよ。……まあ、とにかく、俺が夜うなされるのは悪夢のせいだ」


「なるほどな、ならなぜ悪夢を見るのか、その原因は分からないのか?」

「悪夢を見る原因だって? 夢を見るのに理由があるのか?」

「そう言わず、ちょっと考えてみてくれ」


 ローガはまた難しい顔で考え始めた。そしてしばらくして、何となくだが答えが思いついた。


「……たぶん、俺にとっての戦争がまだ終わっていなんだ。身体はここにあるけど、俺の魂はきっとまだあの塹壕の中にあるのかもしれない。それで、たぶんいまだに砲弾の雨に晒されながら、銃を握って敵を殺してる……そんな気がする」

「なるほどな。なら、どうすればお前へこの場所に帰ってこれる?」


 ローガは更に考え込んだ。


「えーっと……。いや、分からない……。敵を全員殺せばいいのか? 戦いに勝てばいいのか? それとも、あの場所で死ねばいいのか? 俺はどうすりゃいい?」


 ローガの質問を受けて、今度はラジャータも考え込んだ。


「……さあな、私にも分からん。まあとにかく忘れることだ」

「なんだよ、あんたは二百年の時を経た知恵者じゃなかったのか?」

「そう買い被るな。人間の心が分かるなら、お前達とつるむことなんかせずに、今頃宮殿で酒瓶を揺らしているさ」

「確かにそりゃそうだな。人の心を読むなんて一番苦手そうな奴だもんな。まあありがとよ、とりあえず頭を使ったおかげで目は覚めた。もう出発しようか」



 そうして一行は馬車に乗り込み、北側の湿地林に続く街道へと馬車を走らせ始めた。

 中州を経由して向こう岸へたどり着くと、そこはもう既に湿地林の中である。

 森の中は湿気の為に蒸し暑い空気を漂わせ、そこかしこで鳥のさえずりが聞こえていた。

 また木の密集した場所だけでなく、長い下草の生えた沼沢地や細い河川の入り組んだ場所もあり、多様な環境で豊富な生態系が育まれているようだ。


 そうして森のなか馬車を進めていると、しばらくして一行はシカの群れに出くわした。

 シカ達は馬車の前を横切り、警戒もせずのろのろと文字通りに道草を食い始めてしまう。お蔭で馬車は暫く立ち往生する羽目になってしまった。


「見てください! シカさんですよ!」


 ルーウェンはその様子をみて、馬車から身を乗り出しながらはしゃぎだす。


「白い斑点がたくさんあるな、あれはチタールという種類だ」


 ラジャータは野生動物の知識にも長けており、そうして解説をしてみせた。

 それ以降シカたちが去って再び馬車が動き出してからも、行く先々で野生動物に出くわす事になった。その度にルーウェンが動物に反応し、それをラジャータが解説をするというのを繰り返すこととなる。


「見てくださいあそこ、鼻先に大きな角がついてますよ!」

「あれはサイだな。角が目に付くが、皮膚も鎧のように丈夫だ。目は悪いがその分鼻と耳が利く。不用意に近づくと危険だぞ」


「あの大きな生き物はなんですか?  鼻もすごく長いですね!」

「あれはゾウだな。温厚な性格で力持ちだから、あれを使役する民もいる」


「あれ! 川の中にも何かいますね!」

「あれはガビアルだ。凶暴だが近づかなければ人間が食われる事はない、この辺りの水辺では用心した方がいい」


「あの鳥すごく綺麗ですね! なんて鳥なんですか?」

「あれはクジャクの雄だな、鶏のように飛べない鳥だ。雄だけが綺麗な羽を持っていて、あれで求愛するんだ」


「あそこ! 木の上にも何かいますよ!」

「あれか、あれはラングール。サルの一種だな。神の使いとされている神聖な生き物だ」


「あ、あそこにも……」


 と言った具合に、ルーウェンはラジャータ森林ガイドによるサファリツアーを存分に楽しんだのだが、次にルーウェンが指し示したも物を見てラジャータは眉をひそめる。


「あれぇ、見えなくなっちゃいました。確かに何か動いていたんですが、茂みに隠れちゃったみたいですね…」

「…人間のようだな」


 馬車道を五十メートルほど進んだ先の路肩に、一瞬だけ人の姿があったようだ。肉眼では一瞬のことで分かり辛いが、ラジャータは視力でなく魔力で物を見るので、茂みに紛れるその存在を確かに感じ取っていた。


「誰でしょう? この辺りの住人なんでしょうか?」

「いや、何か嫌な予感がするな…ローガ、少し進んだところで馬車を止めてくれ」

「え? なんで?」

「いいから。嫌な予感がする」


 ラジャータは険しい表情で指示した。そうして言われた通りにローガが馬車を止めると、先ほどの人影を見た辺りの道は、何かが争ったよように深く轍が刻まれ、路肩の気が倒れてるように見えた。


「ローガ、着いてこい」


 ラジャータは銃を肩に掛け一人先に馬車を飛び降りた。


「ヤバそうなのか?」


 ローガは御者台から声をける。


「念の為だ。ルーウェンはそこで待っていろ」

「は、はい」


 ローガも銃を手に馬車を降り、ルーウェンは隠れるように幌の荷の影に座り込んだ。そして戦える二人が並んで先へと歩いて行き、轍の跡までやってくると、そこはかなりひどい有様となっていた。


「こりゃひでぇな……隊商が襲われたのか?」


 一帯には血を流して息絶えた牛や、車輪が外れ泥濘につかった牛車、そして人間の死体が点在している。ローガはその惨状に思わず眉をひそめた。


「そのようだな。さっきの奴がまだいるかもしれない。気をつけろ」


 二人は警戒しながら牛車や死体を調べて回る。死体はまだ固くなっておらず、どうやら襲撃を受けてからそれ程時間は経っていないらしい。また、持ち切れなかったのか、麦や野菜、干し肉などの食料が手付かずで残っているものもあった。


「まだ食えそうだな…」


 ローガは破れた小麦の袋を拾い上げながらそう言った。


「食料を運ぶ隊商を組織的に狙ったらしいな。ほとんどはもう持ち去られている」

「みすみす置いて行くとも思えないし、また戻って来るかもしれないぜ。早めにずらかろう」

「そうだな」


 仏様の持ち物を持ち去るのは不謹慎ではあるが、生きるか死ぬかな旅の道中でそう綺麗事を言ってもいられない。二人は残された小麦の袋や干し肉を頂戴すべく作業を始めた。しかし丁度その時、近くで茂みで何かが音を立てた。

 ローガは咄嗟に銃を構え、恐る恐る茂みに近づく。


「おい、誰か生きてるぞ!」


 どうやら生き残りがいたようだ。そこには下半身を泥に沈め、必死に這い上がろうとする男の姿があった。


「しっかりしろ、もう大丈夫だ!」


 ローガは声をかけながら、すぐに彼の両肩を掴み乾いた地面まで引きずり上げ始める。男は一瞬痛みに喘ぎながらも、沈んだ半身を引き上げられて次第に全身が露わとなっ。


「生存者か? 酷いやられようだな」


 同じく駆け寄って来たラジャータがそう言う。


「まだ生きてる。どうにか助かるかもしれない」


 ローガは男の身体から大雑把に泥を払い除け、すぐに男の怪我を確かめた。ざっと確認しただけでも、どうやら男は腕と腹に銃創があり、足も片方折れているようだった。重症のようではあるが、どうやら腹部の銃創は内臓を傷つけてはいないようで、今すぐ手当てすればどうにか助かる見込みがありそうだった。


「あ、あの! 何かあったんですか?!」


 離れた馬車から身を乗り出したルーウェンが声をかけた。慌ただしく動き出した二人の様子を見て彼女は不安になったのだ。


「ルーウェン! 馬車に人を乗せる! 場所を開けてくれ!」


 ローガは彼女に向けてそう声をかけた。続いてラジャータにも問いかける。


「ラジャータも手を貸してくれ。お前手当てはできるか?」

「ある程度はな、運よく薬もたっぷりある。できる限りの事はしてみよう」

「よし分かった。なら頼む」

 

 そうして二人がかりで男を担ぎ上げて、馬車まで彼を連れて戻った。

 怪我人が到着する頃には、ルーウェンが幌の荷物を片付けて人一人分のスペースが作られており、気を利かせて薬と飲み水もすぐ手に取れるようにしてくれていた。


「……す、すいません……旦那……」


 馬車の幌に男を横たえると、さっきまで呻くばかりだった男が消え入りそうな声でそう言った。


「喋るな、傷に触るぞ!」


 だがローガは彼の言葉を遮りすぐに準備を始める。

 まず水瓶の清潔な水を惜しげなく患部にかけ、泥にまみれた患部を洗い流してやった。これは貴重な飲料水だ。一滴でも無駄にはできなかったが、それを気にしている余裕も無かった。

 ローガがそうしている間に、一方のラジャータはアヘンチンキの小瓶を取り出して蓋を開け、それを男の口元にあてがう。


「飲め。気休めだが楽になる」


 男はカラカラに喉が渇いていたかのように小瓶を飲み干し、ゲホゲホと咳き込んだ。


「ローガ、これで傷を拭いてくれ」

 

 ラジャータはアルコールに漬けたガーゼをローガに手渡し、自分は縫合用の針と糸を用意する。

 ローガは言われた通りに傷口を消毒し、その後からラジャータが腕と腹の縫合を行った。


「お前、運が良かったな。内臓はやられていないし、これなら腕を切り落とす必要もない。足も暫くすれば歩けるようになるだろう」

「へへ……本当ですか……」


 ラジャータの言葉に対し、男は痛みに顔を歪めながらも小さくニヤリと笑ってみせた。




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