【四章】リヴ アンド レット リヴ

サングルマーラ戦線異状なし

  敵か それとも味方か 私が攻撃すれば敵になる


  私がなんの恐れも抱かず 微笑してみせれば味方になる




【アラン】










 809年シュラーバナの月23日(サ・ミクマル)




 再び話はローガの過去に戻る。

 サングルマーラの最前線では、ローガが初めて訪れてからもうすぐ二か月が経とうとしていた。


 ローガはこの一ヶ月間で、何度も戦闘を経験している。

 昼夜を問わず毎日のように砲弾の雨が降り注ぐなか、幾度となくお互いが無数に張り巡らせた塹壕線を行ったり来たりしてきたのだ。


 その度に築き上げた陣地は破壊され、建造物は吹き飛び、死体の山が積みあがってきた。

 それでもローガが寝泊まりをする場所は、ここへ来た当初と変わらず同じ塹壕線の同じ掩体壕の穴の中だった。


 一時的な進撃や後退はあれど、長い目で見れば戦況に変化はない。ローガが来て以来一ヶ月間、前線は全く動いていなかったのだ。

 それどころか、ナヤーム軍がサングルマーラの町へ到達してから早半年の間、未だに町を陥落させることはできず、延々と膠着してしまっている。

 ローガ達ナヤーム軍も、対するフタデサ軍も、退くことも攻めることも叶わずにいたずらに戦費と人命を浪費することしかできないのがこの最前線だった。


 さらに、状況は季節が雨期に入ったことで余計に悪化していた。この地域では、ローガが戦地へ訪れたアーシャーダの月の中頃からモンスーンが発生し、一気に降水量が増す。連日豪雨続きで塹壕は冠水しっぱなしとなり、穴だらけの中間地帯も砲弾穴の一つ一つが大きな水溜まりとなっているのだ。おまけに雨にほぐされたシルトの大地は程よくぬかるんでいて、簀子板が無ければ足を取られて数メートル進むのも苦労する有様だ。


 おかげで中間地帯を駆け抜けて突撃するなど、とてもできる状態ではない。泥濘に足を取られて右往左往しているところを機関銃に蜂の巣にされるのがオチだった。

 実際、膠着状態に功を焦った将校が小規模な突撃を何度か繰り返したが、いずれも失敗に終わり、全員泥の中へと沈んでいくこととなっていた。


 さらにこの恵みの雨がもたらしたのはそれだけではない。水気が多ければそれだけ湿度も上がるし、おまけに気温も連日30度を超える暑さだ。生ものが腐るのには絶好の環境である。

 放置された死体は疫病の温床となり、食べ物は少し油断すればすぐに腐り落ちて食中毒の原因となる。この地獄にあって唯一の娯楽とも言える貴重な食事でさえ、人間を死に至らしめる要因となっていた。

 とどめに、水溜まりに湧いたボウフラから蚊が大量発生する始末。おかげで兵士達は敗血症、壊血症、手足の壊疽、コレラ、腸チフス、マラリア……様々な感染症や餓えと戦わねばならなかった。


 もはや両軍とも戦争どころではなく、お互いに相手を蹴散らす前に、第三の敵たるこの雨期を乗り越さなければならない状況だったのだ。

 そんな状況が一月近く続く中、今日もローガは掩体壕の中に篭っている。彼ももう慣れたもので、砲撃の中泥だらけで過ごすことも、悪臭の中なけなしの食事を口にすることも全く気にならなくなっていた。

 尤も、気になっているようであれば気が触れて後送されるか、何らかの理由で死ぬかのどちらかではあるのだが。

 幸運なことに部隊のメンバーもシンカ以外皆生きている。一人死人が出ているというのに幸運などというのは不謹慎かもしれないが、この状況で死者が一人だけと言うのは充分奇跡的だった。

 加えてローガは、そんな塹壕での生活を共にする仲間たちとも大分打ち解け、もう気軽にタメ口で話すような仲になっている。

 彼らと話していく中で、各々がどういう人物なのかものだいぶ分かってきている。


 まず隊長のカプタナ。彼は戦争以前からの職業軍人で、突貫工事のローガと違い、兵士としての知識、技能を多く習得している。加えて隊内で最も古参と言うこともあり経験も豊富だ。一番頼りになる男である。


 次にお調子者のプラカシュ。お調子者と言うか、不真面目で浮ついているといった方がいいかもしれない。彼は元々ただの農夫だったが、怖い女房の恫喝から逃げてここまで来たらしい。妻がいるくせにガラタにやたらとちょっかいかけているかと思えば、一生懸命妻に宛てた手紙を書いていたりと、掴みどころのない男だ。

 ローガも最初はいけ好かない奴だと思っていたのだが、話せば意外と根はいい奴という印象であった。


 次は長身のカマル。彼は製鉄所の作業員だ。だが妻と子を養うためにこの戦場へ出てきたと聞いている。今は彼の妻と娘が製鉄所の仕事を引き継いでいて、戦前は男所帯だった製鉄所も、今は社長以外全員女だそうだ。


 それからマヘンドラ。彼は他のオヤジ達よりいくらか品がいい。とはいえここに住んでいれば誰でも炭鉱夫よりひどい見てくれになるので、民間人にその違いは分からない程度だ。彼も職業軍人で、ナヤームの属国の出身である。宗主国ナヤームの要請に応じてここまで連れてこさせられたのだった。


 最後にガラタ、この部隊唯一の女だ。彼女については正直ローガもまだあまり分かっていなかった。自分からあまり話そうとしないし、話しかけても素っ気ない。他の面子にも同じような対応で、あまり相手にはしてくれないようだが、時々プラカシュに下品なことを言われ、ゴミを見るような目で罵っているところは見かけていた。

 彼女について強いて語るならば、射撃の腕がいい事くらいだろう。選抜射手にもなれる腕前だというのに、普通歩兵としてここにいるのが不思議なくらいだった。


 そんな彼らだが、今朝は皆とにかく寝覚めの悪い思いをしていた。このところはどうせ攻勢が無いので、砲撃は殆どない。おかげで夜間の騒音に悩まされることも無くなっていたというのに、昨日の夜だけは少し事情が違っていた。


 敵の工兵達が鉄条網を修理しようと夜の闇に紛れて中間地帯に上がり、ちょっとした音を立てたばかりにこちらの見張りに見つかってしまったのだ。おかげで彼らはたちまち蜂の巣にされることになった。

 だがそれだけならまだよくある事だ。散発的な戦闘は昼夜問わずいつもどこかで起きているようなことである。

 問題はその後だ。一人殺し損ねた敵兵がいて、彼が運よく砲弾穴に逃げ込んだばっかりに、こちらの射線は切られ、重傷を負いながらも生き延びてしまったのだ。

 おかげで昨夜は彼のうめき声や叫び声が一晩中響き渡り、ローガ達はまるで悪夢にうなされるかのような思いをさせられていた。


「畜生……あの野郎まだギャーギャー言ってやがるぞ」


 掩体壕の壁に座り込んだプラカシュは耐え兼ねて愚痴をこぼした。


「もう日が昇ってだいぶ経つってのに、しぶてぇ野郎だよ。もうかれこれ九時間くらいになるんじゃないか? よく生きてるよなぁ」


 そう語ったローガは、掩体壕の入り口に座り込んでいる。彼は飯盒をバケツ代わりに使い、何度も中に入り込んでくる水を外に掻き出しているところだ。


 外は今、スコールに見舞われて豪雨となっている。入り口に土嚢を積み上げて高さを稼いでいるとはいえ、そのせいで次から次に雨水が流れ込んでくるのだ。

 だからわざわざ内側に溝を掘って水を溜め、四六時中掻き出してやらないとあっと言う間に粗末な掩壕は水没してしまうのである。


「いい加減今日中に死ぬだろうさ、明日もこれならこっちまでおかしくなっちまう」


 プラカシュはローガにそう言い返した。


「まあそうだろな、さすがに日が昇ってる間に死んでくれるか」

「なぁガラタよ、お前の彼氏が寂しい寂しい辛いよぅ、って呼んでるぜ、息の根止めて来てやれよ」


 プラカシュがニヤニヤしながら、少し離れて座るガラタに冗談を言った。


「何言ってる。お前の嫁だろう? 添い寝でもしに行ったらどうだ?」


 ガラタは険しい顔をして言い返した。


「そう怖い顔すんなって、ただの冗談だろう」


 プラカシュはガハハと笑い返して見せる。


「まあ確かに、死ねとまでは言わんがせめて黙っていてくれりゃいいんだがな」


 ガラタは思わずそう漏らした。彼女も二人と同様、かなり声に悩まされていたのだ。


 今掩体壕にいるのはこの三人だ。カプタナは外で歩哨に、カマルとマヘンドラは食料の調達に出かけている。

「向こうの奴らも俺達みたいに寝れなかったのかな」


 ローガは水を掻き出しながらそう言った。ローガの言う向こうの奴らとは、中間地帯を隔てて反対側に居座る敵兵の事だ。


「まあそりゃそうだろうさ、あんだけ騒がれちゃ誰だって気になって仕方ねぇよ。この雨の中でさえ聞こえてくるんだぜ?」


 プラカシュがそう言うので、ローガが塹壕の外に聞き耳を立ててみると、確かに「助けて!」「死にたくない!」「誰か!」と飽きもせず未だに叫んでいるのがはっきり聞き取れた。

 昨日の夜から休みもせずにずっとこれである。ローガはそれを聞いてさらに愚痴をこぼした。


「ったく死に損ないのくせして、元気だけは有り余ってるんだな」


 溜息をつくローガに、プラカシュが諭した。


「しかし敵さんも災難だよ。俺達以上に耳障りなんじゃないか? 場所がこっちよりも近いし、見知った仲間の叫び声だと考えたら余計に寝覚めがわりぃってもんだ」

「確かにな、あんたやガラタ、他の奴らが叫んでると考えたらゾっとするよ」

「そうだろう? 奴ら相当堪えてるだろうぜ。ま、俺は取り残されても叫んだりしねぇがな、夜のうちにどうにか這って戻るさ」


「じゃあ手足が動かなかったら?」

「そん時はそん時だよ……また別の手を考える。そうだな……頭を振って首の力で戻るか」


 威勢がいいだけのプラカシュは、少しどもったようだった。それを見てローガは笑い出す。


「馬鹿言え、そんなことできるわけないだろ? 助けてくださいローガ様、お願いします! って叫んだら助けてやらないことも無いぜ?」

「くたばれ若造! 誰がてめぇなんかに助けられるか。そういうお前はどうなんだよ?」

「俺か? 俺はもう諦めて死ぬさ。拳銃でもありゃ楽だがな、無けりゃもう死ぬまで大人しくしてるよ」

「まさか! お前さんはママに泣きついて、ケツをひっぱたかれながらお家まで戻るのさ!」

「なんだと? ならプラカシュこそ、あんたの女房が引きずって帰ってくれるだろうよ」

「おいおい勘弁してくれよ……それならいっそ死んだほうがましだぜ……」


 プラカシュは急に青ざめたようになる。よほど女房の事が怖いらしい。気を紛らわすように、今度はガラタに軽口を叩いた。


「ようガラタ。ローガの奴がママのおっぱい吸いたいらしいぜ」

「くたばれ、誰がママだ」


 ガラタはまた怖い顔をしてプラカシュに言い返してから、今度はローガを睨みつけた。


「指一本でも触れてみろ。お前の顎を外して泥の中に捨ててやるからな」

「おー怖い怖い、とばっちりもいいところだぜ。どうせおっぱいなんか出ねぇくせに、このオヤジには自分の女房の乳でも吸わせておくよ」

「バカいえ! あいつはもう絞り切った雑巾みたいなもんだ! もう一滴も出やしねぇよ!」


 そうしてプラカシュが笑い声を飛ばしていると、掩体壕の外から足音が聞こえてきた。


「おーいお前達、飯の時間だぜ」


 声の主はカマルだ。後ろにはマヘンドラも続き、ガラガラと缶詰の擦れる音を立てながら三人の待つ掩壕の中へと入ってきたのだ。


「今日は水牛肉の缶詰とチャパティだ」


 マヘンドラはそう言うと、中の三人に缶詰を放り投げた。そして三人ともそれを難なく受け取る。


「これで今日一日分か?」


 ローガは缶詰を見て不満げに問いかけた。


「バカ言え、二日分だ。あるだけマシだろう?」


 マヘンドラはさも当然の如くそう答えた。

 ローガは受け取った缶詰から巻取り鍵を取り外して、缶のツメに引っ掛けるとくるくると回していく。そうして鍵をぐるりと缶の周りで一周させたら、缶本体を引き抜いていよいよ赤々とした水牛肉のコンミートのお出ましだ。

 ローガは、前回の残りカスがついたスプーンを取り出すと、躊躇いもせずに肉を掬い取って頬張った。


「おい、チャパティはいらんのか?」


 カマルがもしゃもしゃとチャパティを咀嚼しながらローガに問う。


「いるに決まってるだろ」


 ローガも肉を咀嚼しながら答えた。

 するとカマルがローガの元まで寄って来て、雨でべしょべしょのチャパティを三枚渡してくれた。

 ローガは軽く礼を言ってから、そのチャパティにコンミートを挟んで勢いよく頬張った。

 決して美味いと言える食事では無かったが、それでも唯一の娯楽と言える食事を皆夢中で食べている。だがこのごちそうは人間以外にとっても、またとないごちそうだ。奴らはすぐに寄ってくる。


「畜生出やがったな!」


 プラカシュが叫んで立ち上がると、びっくりしたネズミが慌てて逃げだしていくのが見えた。


「このやろう! 殺せ!」

「この泥棒ネズミめ!」


 他の皆も立ち上がり、あのガラタでさえすばしっこいネズミを捕まえようと、あちこちめがけて地団駄を踏み始めた。

 ちょこまかと駆けまわるネズミは数匹いて、満足に飯が食えているのかよく肥えている。下手したら普段飲み屋の裏で見るようなネズミよりもよほど大きいだろう。

 彼らが何を食ってそこまで大きくなったかと言えば、べつに人間から飯をくすねるのが上手いからという訳ではない。現に彼らの奮闘により既に一匹は仕留められた。

 ネズミ達の身体は、そこらじゅうに打ち捨てられた人間の死体から成っているものだ。だからただのネズミとは言え、仲間の死体をむさぼり食うネズミを許せないし、貴重なタンパク源だからと彼らを煮て食べようという者はいなかった。


「このクソ野郎!」


 プラカシュは走りぬけるネズミめがけて器用に蹴りを入れ、キュッっと鳴いたかと思うと、ネズミは勢いよく掩壕の壁に打ちつけられた。


「ったく目障りなんだよ」


 他のネズミは慌ててどこかへ逃げていったが、ひとまずこれで二匹は仕留められた。ローガは尻尾を掴んで死体を宙ぶらりんに持ち上げると、そのまま掩壕の外へと這い出す。そして大きく振りかぶると、ネズミを勢いよく中間地帯に投げ捨てた。


「二度と面見せんな!」


 そうしてローガはいそいそと塹壕に戻り、食事の続きを食べ始めるのだった。


「お前の飯、かじられてたりしないよな?」


 マヘンドラがローガに聞いた。


「たぶん大丈夫だ。それに、かじられてたってどうせ食べるしかないしな」

「そりゃあそうだ、だがお前が何故死んだのか後で分かるぜ」


 カマルが冗談を言ってみせる。ネズミが口をつけていれば、そこから感染症が広がり死に至るかもしれないのだ。


「何で死んだかなんて知ってどうする? なんでもいいからさっさと死んじまえた方がいいさ」


 ローガはそう言い返した。死は救済とはよく言ったもので、死んでさえしまえばこの地獄からさっさと一抜けられるのだ。


「しかしネズミの運ぶ呪いは恐ろしいぞ、敵さんも相当やられてるらしい。どうも向こうじゃ後ろの町にまで広まってるらしいじゃないか」


 マヘンドラがそう語った。それを聞いてプラカシュも愚痴をこぼす。


「ざまあ見やがれってんだ、そのままみんな喉を焼かれて死んじまえば仕事が楽なんだがな」


 さらにはカマルも後に続いて愚痴をこぼしはじめる。


「なんでもあいつら、俺達より数段いい飯を食ってるらしいぜ。後ろのサングルマーラに備蓄ができるからな。それにここは奴らの国内だから安全だし、補給線も伸び切ってないからだとさ。羨ましい限りだよ」

「食い物で負けてるのに、勝てるわけがないってんだよなぁ」


 マヘンドラもカマルの愚痴に同意した。


「その代わり奴らには酒とタバコの配給が無いらしいぜ、そういうお国柄なんだとさ」


 プラカシュはそう言いながらタバコを咥えてマッチに火をつけ始める。


「嘘だろう?! それが無きゃ飢え死にする前に気が狂っちまうよ」


 同じようにタバコに火をつけるカマルも、ひどく驚いているようだ。

 そうして隊のメンバーが談笑していると、また外から足音が聞こえてきた。

 今度は隊長のカプタナが中へと入ってきたのである。


「俺の飯は取っといてあるか?」

「ああ、あるよ」


 返事をしたマヘンドラがカプタナにチャパティと缶詰を手渡し、カプタナは塹壕の奥へと歩いて行く。


「もう歩哨の交代の時間か?」


 ローガが問いかけた。彼が次の当番なので、もし本当に交代ならローガがこの雨の中外へ出なければならない。


「ああ、そうだ。だがその前にな、一つ仕事がある。プラカシュ、ガラタ、お前たちも手伝ってくれ」


 カプタナは缶詰を開けながらプラカシュとガラタの方を見た。


「仕事とはなんだ?」

「めんどくせぇなぁ勘弁してくれよ」


 ガラタとプラカシュはそれぞれに反応を示した。


「外で一人兵士が死んだんだ、恐らく呪いに罹ってる。このまま放置しておくと呪いが広がって危険だからな、塹壕の外に捨てておいてくれ」

「飯食ったばかりだってのに死体処理か? 最悪だな。なんであんたがやっといてくれなかったんだよ」


 プラカシュはさも不満げに反発した。


「呪われた死体に触れた手で飯を食えというのか? 危険すぎる」


 その返事にはプラカシュも言い返せない。代わりにローガが応えた。


「分かったよ、任せてくれ。なあプラカシュ、面倒な仕事はさっさと片付けちまおう。ガラタもな」


 ガラタは特に不満が無いようで、残った食事を平らげるとすぐに立ち上げって準備を整えた。プラカシュは納得のいかない様子だったが、やれやれと言った具合にタバコの火を消して同じように立ち上がった。

 そうして三人が外に出ると、すぐそばの塹壕の壁に、寄り掛かって座る一人の兵士がいた。


「おい、お前か?」


 プラカシュが問いかけたが返事は無い。その兵士は伸ばした足を泥濘の中に半分沈め、俯いて微動だにしなかった。

 三人は更に近づいていき、ローガが再び呼びかける。


「返事をしないと外に捨てちまうぞ、いいのか?」


 だがやはり返事はない。その兵士に外傷はなく、皮膚が白くなり、全身に力が入っていないようだ。ガラタは素肌に触れないようヘルメットを掴み、その頭を揺らしながら更に声を掛けた。


「おい、起きろ」

 だがやはり返事はない。下手に触れたせいで、兵士の身体は力なく泥濘の中へと倒れてしまった。

 どうやら栄養失調か何かで眠るように死んだらしい。無駄に動くことも声を上げることも無く死んだので、しばらく周りの人間に気付かれなかったようだ。


「おい何やってんだよ、これじゃ泥だらけじゃないか」


 プラカシュは思わずそう言った。この死体を運び出そうというのに、泥まみれで余計に状況を悪くしてしまったからだ。


「悪かったよ、私が腕を持つからプラカシュは足を持ってくれ、そっちは状況が悪化してないだろう?」

「いや結局泥だらけじゃねぇか」


 プラカシュが諦めたように小声でそう発言している間に、ローガは死体の懐を物色し始める。そして何かを見つけたようで、二人にそれを報告した。


「そう愚痴ばっかり言うなよ。見てみろ、いくらか小銭があったぜ」


 ローガは数枚の硬貨が入った袋を取り上げ、じゃらじゃらと音を立てて二人にその存在を示して見せた。


「そんなもん何の役に立つってんだよ、慰みにもなりゃしねぇ」


 だがプラカシュは不満そうだ。ローガは不敵に笑って言い返した。


「役に立つなら何も言わずにくすねてるっての」

「それなら私にくれ、家族の為に貯めてるんだ。手紙と一緒に送金する」


 ガラタの意外な返事に、ローガは一瞬きょとんとした。


「え? ああ、別に構わないが、意外だな。家族思いだなんて」

「悪いか? 私の勝手だろう?」

「いや悪かないけどよ」

「なんだよ、私が家族思いじゃいけないのか?」


 少し気に障ったようで、ガラタはむすっとして言い返した。


「だから家族思いじゃいけないなんて言ってないって?」

「ああそうかい、私は冷酷なお姫様だもんな」


 ガラタは嫌味ったらしく言い返した。この二人が雨の中死体を前に問答を始めそうになるので、プラカシュはやれやれと止めにかかる。


「なあお前ら。いいから、さっさとこいつをどかしちまおうぜ」


 おかげで二人も我に返り、皆作業に戻った。

 ローガが死体の首から認識票を取り外してから、三人は協力して死体を持ち上げる。

 死んだ人間の体というのは意外に重い。不思議なことに、ただ動かなくなったというだけで生きている人間を運ぶより負担がかかるのだ。

 おまけに感染症予防の為になるべく接触を避けなければならない。身体を近づけないよう腕を突き出して、重心の外で持ち上げるため余計に筋力を要した。

 三人はびしゃびしゃと跳ね上がる泥水を浴びながら、どうにか死体を塹壕の縁の高さまで持ち上げると、「三、二、一」の掛け声で塹壕の外へと死体を投げ飛ばす。


 直後、それに気づいた敵の機銃が反応して何発も銃声が鳴り、あっという間に死体は蜂の巣にされてしまった。

 ローガ達は慌てて身を屈めたのだが、結局は蹴り上げられた泥や血をいくら被ることになってしまった。

 だがあの死体をこうして捨てるしかできないように、感染症予防の為に後方へ戻って手洗いうがいをする余地など微塵もない。彼らにはただ何事も無いことを願うしかできないのだった。


「それじゃ、あとは任せたぜ」


 プラカシュがそう言い、彼とガラタの二人はさっさと元いた塹壕へと戻っていった。

 ここからはローガが一人だ。厳密には五メートル程の間隔を空けて歩哨を立てているので本当に一人というわけでは無かったが、話し相手はいないのでほとんど一人のようなものである。

 ローガはすぐ近くのトーチカに入って歩哨の任に就いた。

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