ようこそ前線へ
「おい新人。まだ終わっちゃいないぞ」
カプタナの言葉に、ローガは目をまん丸くした。まさかまだ戦えと言うのか?
「いや、でももう俺たちは……」
ローガが言いかけたところで、カプタナが遮る。
「今は敵を砲撃で釘付けにしている。奴らが疲弊しきった今が一番のチャンスだ。奴らが態勢を立て直す前に塹壕を奪い返すぞ」
ローガに拒否権は無かった。上官が戦えと言うなら戦うしかない。
「シンカ、お前はまだ戦えるか? 動けるなら戦え、戦力は一人でも多い方がいい」
シンカは血こそ止まっていたものの、片目を失った状態だし、ローガと同じく疲労困憊だ。万全の状態ではない。
これがまともな場所であれば、戦わず治療に専念すべきだろう。だが、シンカは重い腰をどうにか持ち上げて応えてみせる。
「大丈夫……です……」
彼の中で、男としての何かがその重い腰を突き動かしたのだった。シンカは手榴弾の柄を掴んで受け取り、行動でその戦意を示して見せる。
「よく言ったシンカ。生き延びろよ」
自分より深手の同僚がこうやる気では、その手前ローガも決心せねばならない。彼も諦めたように、痛む手で手榴弾を受け取った。
「お前たちには手榴弾を持てるだけ持たせる。小銃は邪魔になるから置いて行け、お前たちのその身体じゃまともに銃で狙うなんてできないだろう? とにかく第一塹壕まで走って近づいて、手榴弾が投げ込める距離になったら全部投げ込むんだ。そしたら味方達が一斉に塹壕の中へ飛び込む。お前たちも続いて塹壕へ飛び込んで格闘戦をするんだ。分かったか?」
言わんとすること自体は二人にも分かった。だがさっき命からがらここまで来たというのに、この身体で、しかも小銃を置いて再び死地へ赴くなど自殺行為としか思えない。
だがそれでもここまで来てしまっては今更引くこともできないので「はい」と返事をしてその作戦を承諾しておいた。
ローガとシンカは肩掛けのポーチに手榴弾を五~六本詰め込み、軍服のD環にも手榴弾を二本とりつけ、手には格闘戦用にスコップを持っておいた。
ローガの手に持ったそれは、さっき敵兵から奪ったものだ。ローガは血にまみれたそのスコップを泥にこすりつけ、軽く血糊を落としておいた。
暫くすると、士官服に身を包んだ将校が大きな缶詰の空き缶を持って歩いてくる。
「あと五分で突撃だ! 貴重品があるやつはここに入れろ!」
見ると、周囲の兵士達は腕時計やロケット、指輪など各々の持つ貴重品をその缶に入れていっている。ローガとシンカがその様子を不思議そうに見ていると、マヘンドラが理由を説明してくれた。
「後で生き残った奴らで分け合うんだ。死人には必要ないからな」
そうこうしているうちに、その将校は二人の前までやってくる。そして同じように貴重品の詰め込まれた缶詰を二人の前に差し出した。
シンカは直ぐになけなしの小銭を缶詰に入れたのだが、ローガは「俺は死ぬ気はない」と言って拒絶して見せた。
しかし将校はひとつため息をついたかと思うと、なおも缶詰を持った手を突き出し続け、無言でローガを睨み続ける。
暫く将校とローガは睨み合い、お互いに沈黙を守ったが、結局ローガは無言の圧力に負けてポケットの懐中時計を缶詰に放り込んだ。
将校はそれを見て満足したようで、直ぐに視線をそらしてまた回収の為に歩いて行った。
「欲しけれゃ死体からくすねりゃいいんだ。どっちにしろ、あんなものここじゃ何の役にも立たねぇよ」
プラカシュがそう言って肩を叩き、慰めてくれたのだが、正直慰みにもなっていない。
ローガとしては、もうどうでもいいからさっさと突撃して吹っ飛んでやろうかという気分になった。
ローガはそうしてある種自暴自棄のような心持ちであったのがだ、一方のシンカはというと、かなり神妙な面持ちとなっており、穏やかながら遠い虚空を見るような、そんな目で足元を見つめている。
彼が何か、大事なものを諦めたような、そんな覚悟を決めていた。
猫は時に自らの死期を悟って主人の元から姿を消すという。シンカも同じように何かを悟っていたのだろう、しかしそれは漠然とした感覚であり、言語化することは叶わない物だ。
それでもシンカにとっては確信を持って実感できたし、彼の表情や立ち居振る舞いから、ローガのような周囲の人間にも理解のできるものだった。
だがシンカはそれについて何も話さなかったし、ローガも他の隊の仲間も、彼が死臭を漂わせていることを分かっていても、それをあえて口にすることは無かった。
それでもただ、唯一マヘンドラだけがローガに対して耳打ちをしてくれた。
「死ぬ奴は分かるんだ。今まで死んだ奴もそうだったよ。魔法だとか超常現象だとかそういうんじゃなくてな、勘とか本能みたいなもんさ」
ローガにもそれは伝わっていた。だがそれでも信じられなかった。シンカは訓練学校で仲の良かった男だ、正直自分なんかより余程優秀な奴だと思っていた。そんな彼が死ぬなんてありえないし、そもそも今まで身近な人間が死ぬ事なんてきちんと考えてもいなかった。
ここへ来るまでに死んだ同期達の事もそうだ。正直心のどこかでせき止めたままにしてあって、その事実を真正面で受け止めたわけではない。
だがローガも、戦場とあっては死ぬ覚悟は持ってきている。とはいえそれは自分が死ぬ事についてだけだ。彼の同僚や友人、部下や上官が死ぬ事についての覚悟など、全く頭になかったのだ。
ローガはもやもやとした感覚に囚われていたが、この戦場は彼に心の整理をつける時間を与えてくれるわけではない。
「着剣! 着剣!」
ローガ達の前にさっきとは別の将校が怒鳴りながら歩いてきた。彼の号令を聞いた周囲の兵士達は、腰から銃剣を取り出し長い小銃の銃口部分に取り付け始めている。多くの者はきちんとナイフになった銃剣であったが、中には単純な針でしかない銃剣を取り付けている者もいた。
ローガの隊の皆も銃剣を取り付けているのだが、ローガとシンカは手榴弾を投げる役目を与えられていたため、腰の銃剣はそのままにスコップを握りしめ、受け取った手榴弾を再度確認した。
「第一突撃隊配置につけぇぇ!」
将校が声をかけると、兵士達は塹壕の壁に張り付いて戦闘態勢を整えはじめる。彼らはローガ達より先に突撃する面々だ。後方にいて損耗のない兵士達が先に突撃し、その後を追うようにローガ達第一塹壕線にいた者たちが突撃する手はずとなっている。
ローガは緊張で息が上がるのを感じながら、ぐっとスコップの柄を握りしめたまま突撃の時を待った。
準備を整えた兵士達の中には、ローガと共にこの戦線に到着した新参者達もいる。先の戦闘を回避できて一安心していたものもいただろう。
兵士達の中にはがくがくと震えて目線のおぼつかない者や、ぶつぶつと一人ごとを呟いている者もいた。
やる気と戦意に満ち溢れ、突撃のその瞬間を今か今かと待ちわびている者などそうはいない。この場所に慣れた古参達は、確かに腹が据わっているように見えたが、どちらかというと、これから近所へ水汲みにでも行くような悪い意味での慣れがあるようだった。
彼らの多くは、死への覚悟ができているのではなく、死を諦めたか、単に考えるのをやめただけだった。
将校は落ち着きなく、しきりに腕時計と塹壕のその先を交互に見つめ続ける。そしてとうとう「その時」が来たようで、口元にホイッスルを咥えると、勢いよくそれを吹き始めた。
ビィィィィィィッ!!
と甲高い音が鳴り響き、間髪いれずに兵士たちは咆哮上げ、塹壕の壁を駆け上がる。小銃や隊旗を携え、塹壕の上にその身を晒すと、彼らは一心不乱に向こうの塹壕へと走り出した。
そして、それに呼応するように、銃弾の発火音と風きり音が無数に鳴り響き、突撃を始めたばかりの兵士たちに激しい銃撃が浴びせられる。その銃弾は兵士たちの脳天や手足、心臓を貫き、ヘルメットが吹き飛んで、臓物をぶちまけながら兵士たちは次々と倒れていった。
ローガは塹壕の壁に阻まれてその状況を直接目にすることはできなかったが、それでもローガのすぐ近くに銃弾が飛び込んでは、風きり音と共に土を蹴りあげ、塹壕を駆け上がったばかりの兵士が撃たれて塹壕の中へ落ちてくるのは見えた。
そして突撃が始まってすぐに、兵士たちの雄叫びはその半分ほどが悲鳴へと変わっていった。彼らの断末魔をかき消さんばかりの銃声と爆音の中、撃たれた兵士達は苦痛に悶え、叫び、必死に衛生兵を呼び続けている。
その時、ローガの立っているところへ、兵士の一人が這い寄ってきた。男は凶弾に撃たれたようで、血を吐きながら塹壕の中へ転がり込もうとしている。
ローガは咄嗟にスコップを置き、彼の軍服の襟を掴んで塹壕の中へ引きずり込んだ。
「大丈夫か?! しっかりしろ!」
男は血を吐きながら口で呼吸し、脇腹には大きな穴が空いている。男はただ息を切らしながら、ローガの目をじっと見つめてきた。
ローガには彼が何を求めているのかよく分からなかった。彼の目には悲しみや絶望にも、怒りや憎しみともとれる感情が読み取れた。助けを乞う弱者のようでありながら、追い詰められた狼のような殺気をもその瞳に湛えていたのだ。
ローガはどうすべきか一瞬迷った。しかしすぐマヘンドラが駆け寄ってきて様子を見てくれた。
「腹を撃たれてやがるな、こりゃ内蔵も抉られてるぞ……」
「助かるんですか?! どうすればいいですか?!」
「俺達じゃどうにもならんよ、衛生兵を呼ぶしかないな」
「衛生兵!! 衛生兵!!」
ローガは何度も衛生兵を呼んだ。しかし銃声と悲鳴の最中ではその声が聞き届けられる事は無い。そもそも気付いてもらえたところで、彼らに対応していられる余裕など微塵もなかった。
そうこうしているうちに、将校が再び掛け声をかける。
「第二突撃隊配置につけぇえ!!」
とうとうローガ達に白羽の矢が立った。今瀕死の男を手当しようという最中だと言うのに、彼を無視してまた人を殺しに行かなければならない。
厳しい父が見たらなんと言うだろう? 優しい母に話したらなんと言われるだろう? 彼を見捨てろというのは命令だ、自分には仕方の無い事だ。どうせ放っておいても死ぬ奴だ。自分が何をどうしようと関係ない。
ローガはそう自分に言い聞かせてみたが、誰かに後ろ指刺されるような感覚は消えなかった。ローガは仕方なしに、泥に浸かって死にゆこうとする男に背を向けて突撃の準備にかかる。
ローガが待機する最中、そっと塹壕の淵から外の様子を見てみると、彼の目に映ったのは地獄など生ぬるい有様だった。泥にまみれてうごめく無数の何か、あえて形容するならば、日の元に晒された無数のミミズが這いつくばっているような光景が広がっている。
言わずもがな、それは先ほど突撃をしたばかりの味方の兵士達である。彼らは敵の銃撃に晒された挙句、地の底まで響くような断末魔のうめき声をあげながら、血と泥にその身を沈めてちんけな虫けらへと成り下がっているのだ。
それでもまだ、この地獄にあってなお走り続ける兵士達の背中が、土煙の中で陽炎のように揺らめいていた。
次は自分がその列へ加わる番だ。
そしてまた「ビィィィィィィッ!!」と甲高い音が鳴り響いた。
兵士達は我先にと咆哮をあげ、次々に塹壕の壁を駆け上がる。隣に立っていたはずの仲間やシンカでさえも、躊躇うこともせずにあの肥溜めへと飛び出そうとしているのだ。
ローガは一瞬躊躇ったが、とうとう自らも恐怖と絶望をかき消すように咆哮を上げ、塹壕の縁から飛び出す。
兵士達は津波のように一列になり、叫び声と共に一心不乱に敵の塹壕を目指して走り出した。
彼らの向かう先からは、敵の一団が一列に顔を覗かせており、硝煙と雷光を轟かせて無数の弾幕を浴びせて来る。
その銃弾はローガのすぐ側をかすめつつ、彼の前後左右を共に走る兵士達を一人、また一人と貫いていった。
その度に血しぶきが上がり、苦痛にあえぐ断末魔の叫びがこだまする。
ローガは何も考えないように、ただひたすら叫びながら、仲間たちの屍を踏みつけ、わき目も振らずに必死で走った。
息が切れるのもそのままに、ぬかるみにはまって態勢を崩しても、死体に躓いて転んでも、ただ死に物狂いで走った。
敵の塹壕までの五十メートルは、そう遠い距離ではない。それでもローガにとっては延々とも思えるほど遠かった。その歩みを一歩、また一歩進めるたびにゴールが遠のいていくようにさえ感じられた。
それでもただ叫びながらに走り続け、とうとう敵の目と鼻の先まで辿り着くことに成功する。ローガはそこで適当に目についた砲弾穴へ飛び込み、ひとまず敵の射線を切る事ができた。
ローガの頭上では、リズミカルに射撃音が鳴っている。どうやら敵の機銃の真ん前に潜り込めたようだ。
ひとまずここにいれば、敵が塹壕から這い出して来たり、手榴弾を投げ込んだりしてこない限り殺されることはない。
他のみんなはどこへ行った?
ここへ到着して真っ先に思い浮かんだのは仲間の事だった。仰向けに砲弾穴に伏せながら、呼吸が落ち着くのを待っている間にも、彼の周りで無数の味方達が撃ち殺されいく。だ
が幸いにも、すぐにガラタとカプタナがローガのいる砲弾穴へと飛び込んできた。
「お前よく生きてたな!」
ガラタは穴の縁から銃口を覗かせ、敵を撃ちながらそう言った。
「敵の塹壕は目の前だ! 手榴弾を寄こせ!」
カプタナはローガの隣に来て、手榴弾を差し出すよう促している。ローガは震える手で肩掛け鞄を下してからカプタナの前にそれを置いた。
するとカプタナはすぐに鞄から手榴弾を取り出し、ピンを抜いて敵の塹壕めがけて放り投げ始める。ローガもすぐ後に続き、腰の手榴弾を取り上げてピンを抜くと、頭を出さないように注意しながらそれを放り投げた。
砲弾穴の三人が地面に突っ伏して頭を手で覆うと、数秒の間をおいて立て続けに二つの爆音が鳴り、その衝撃がローガの身体にも伝わる。
「全部だ! 全部投げ込め!」
直後、カプタナは続けざまに指示を出し、二人で次から次へありったけの手榴弾を塹壕へ投げ込んだ。
そうして投げた数だけ何度も何度も爆音が響き、その衝撃がローガの身体を襲う。そしてとうとう最後の爆発が鳴った時、カプタナは間髪入れずに次の指示を出した。
「いけ! いけ! いけ! 突っ込め!」
ローガはスコップを握りしめて立ち上がり、また大声で叫びながら砲弾穴を飛び出した。
カプタナとガラタも銃剣を進行方向へと突き出しながら、同じように飛び出す。
飛び出した先は、既に度重なる爆発で塹壕と平地の見分けがつかなくなった窪みになっていて、ローガはそこへ駆け降りると、とりあえず一番最初に目についた敵兵に向けてスコップを振り下した。
鈍い金属音が鳴り、ヘルメットが吹き飛ぶ。そうしてむき出しになった頭部を続けざまに殴りつけた。
カプタナとガラタの二人も、銃剣で兵士の腹を貫き、次の獲物を狙わんとしているようだ。そして三人の背後からは、後に続いた味方の兵たちがわんさかとなだれ込んで来ている。
ローガは今殴りつけた男が倒れ込むのを確認すると、周囲を見渡して次の獲物を探した。
そうして哀れな犠牲者を見つけると手あたり次第次々に殴りつけて、わき目も振らずに殺戮を繰り返していった。
もはや敵の守りは崩された。ローガ達の猛攻に戦意を挫かれた敵兵達は防戦一方となり、驚くほどあっさりと振り下ろしたスコップが命中してくれる。
さらには、ちらほらと塹壕を飛び出して逃げ帰ろうとする敵兵の姿も見えていた。
ローガは手あたり次第に敵を殺して、もはや周囲に殴り殺せる相手がいないことに気付くと、適当にその辺りから小銃を拾い上げ、逃げる敵兵の背中をその銃で狙い撃った。
「くたばれ! くたばれ! 全員殺してやる! 腐った獣人共が! ふざけやがって! 皆殺しにしてやる!」
ローガは敗走する敵兵を皆殺しにしようと銃を撃ち続けたが、あいにくと小銃の装弾数は十発ほどしかない。弾を撃ち切って銃が空うちするようになっても、納得がいかないとでも言わんばかりに引き金を引き続けた。しかしそれでも弾が出ないので、ローガはとうとう諦めて小銃を地面に叩きつけ、それを思いっきり蹴飛ばした。
「畜生が! ふざけんな! 戻ってこい! 全員殺してやる!」
気が付けば、周囲の兵士達の咆哮は歓声に変わっていた。
ローガ達ナヤーム軍は勝ったのだ。
実際には、ただ攻めて来た敵を追い返したに過ぎなかったが、それでも兵士達は喜びに歓声を上げて勝利に酔いしれた。
「よくやったじゃねえか新兵さんよ!」
プラカシュがローガに歩みより肩を叩く。
「まだだ! まだ奴らを殺してない!」
プラカシュは仕事終わりの労いくらいのつもりだったのだが、ローガはまだひどく興奮している。
「おいおい、そのくらいにしとけ」
プラカシュは怪訝そうにローガの顔色をのぞき込んだが、彼はアドレナリンで昂ぶり、獲物を狩る捕食者としてのマインドセットが出来上がっていたのだ。
見かねたガラタも歩いてきて、ローガを羽交い絞めにすると無理くり塹壕の中へ引きずって戻った。
「調子に乗るな新人! いい加減落ち着け!」
「ふざけんな! まだ奴らを殺してない!」
「いい加減にしろ!」
ガラタはローガの胸倉を掴んで大声で怒鳴りつけた。
そのおかげかローガはようやく我に返り、少しは冷静さを取り戻す。しかし心に余裕ができると、今度は仲間たちの事が気になりだした。
「みんなは?! 生きてるのか?! シンカは?!」
「私とプラカシュはここにいるよ、あいつらもそこにいる」
ローガがそう言われて周囲を見渡すと、兵士達の中にカプタナとカマル、そしてマヘンドラの姿が見えた。しかしシンカの姿がどこにも見えない。
「シンカは?! シンカだ! あいつはどこに行った?!」
ガラタは少し俯き、さも言い出しづらいかのようにゆっくりと言葉にした。
「……多分、このどれかだ」
ガラタが振り返って指し示すその先には、先程ローガが必至で走り抜けた塹壕の間の台地がある。
そこに見えるのは、敵も味方も、種族も宗教も関係ない。ただこの場所で、同じように戦い、そして命を落としていった戦士達のなれの果てだった。
見渡す限り、血と泥にまみれてゴミのように横たわる死体が、地面を埋め尽くさんばかりに転がっている。
ローガと共にここへ来て、肩を並べて戦ったシンカという男は、もはやこの肉の塊のどれか一つへと変わり果てているのだ。
そしてローガ自身も、この死体を積み上げることに加担した一人でもあった。
ローガは一線を超えたのだ。もはや彼は今までの自分とは違う。この場所へ来て、敵を殺し、仲間を失い、自らが狼へと成り果てていた。
「へっへっへ! 自分の股を見てみろよ!」
傷心のローガを前に、プラカシュは大声で笑いながら彼の股間を指さす。ローガがはっとして自分の股間を見下ろしてみると、その場所はぐっしょりと濡れて湯気を上げ、悪臭を漂わせていた。
「情けねぇ! お前漏らしやがったな!」
プラカシュはまたも大笑いしてローガを馬鹿にする。見かねてガラタが肩を叩いた。
「いいか? 若造。ここに来た奴の半分は小便を漏らす、四人に一人はクソを漏らす。残りの四分の一が何か分かるか?」
「……い、いや……分からない」
「嘘つきと両方漏らした奴だ!!」
プラカシュは今までに無いほど高笑いして、タバコに火をつけながら歩き去っていく。ローガは信じられないとでも言わんばかりにガラタの方を見つめた。
「通過儀礼みたいなものだ、あまり気にするな。…………わ、私は漏らしてないからな……!」
ガラタは照れたように顔を逸らしてしまう。
「まあ、そのなんだ……。とにかく、よく生き延びたじゃないか」
ガラタは再びローガの目を見て続けた。
「ようこそ前線へ」
「ローガ様! ローガ様大丈夫ですか?!」
ローガは身体を揺さぶられる感覚と、誰かの手の感触をその胸に感じた。
言い知れぬ不快感に苛まれながら恐る恐る目を開けてみると、まぶしい日の光と共に心配そうにのぞき込むルーウェンの顔が目に映る。
どうやら随分と眠っていたらしい。
「良かった! 起きたんですね!」
「あ、ああ……」
ルーウェンに起こされたらしいことは分かったが、ローガはどうにも状況が掴めない。身体じゅうだるいし、ひどく寒気がしている。
「ずっとうなされて、汗びっしょりになりながら寝てたんですよ? 何か悪い夢でも見てたんですか?」
ローガは目をこすりながら辺りを見渡して答える。
「……ここはどこだ?」
「何言ってるんですか? 昨日家を発ったばかりじゃないですか? ナヤームの町からコンピラ川を北に渡って、シャンダビカの国境近くですよ」
ローガはここまで言われて、やっと状況を思い出した。昨日町でありったけの家財を売り払い、その金で食料や物資、馬二頭に幌馬車を買い込んで、その後ルーウェンと二人で町を出たのだ。そうして夜になってこの場所で野営をしているところだった。
ローガは菩提樹の木の根元に横たわり、周囲には馬車と馬二頭、そして消えかけた焚火の跡がある。
「そうか、そうだったな……」
「もう、しっかりしてくださいよ、心配したんですからね」
ルーウェンは頬をぷっくりと膨らましている。
「すまないルーウェン……。なあ、喉が渇いた。水をとって来てくれないか?」
ルーウェンは快くそれを引き受けると、馬車へと向かって水瓶から革の水筒に飲み水を移し、それを持ってきてくれた。
ローガはそれを受け取ると、脇から水がこぼれるのも構わず勢いよく全部飲み干してしまう。
「ああ……貴重なお水なんですから、もっと大事に飲まないと」
「……許してくれ、とにかく喉が渇いて仕方ないんだ」
ルーウェンは空になった水筒を受け取ると更に問いかけた。
「ローガ様、よく寝る時うなされてるみたいです。大丈夫なんですか?」
「……ああ、あの頃の、あの戦場にいた頃の夢を見てたんだよ。いつもそうだ、あの場所の事が頭から離れない」
「そうだったんですね……。それは、辛いですね。あの、よかったら詳しく聞かせれください。他人に話せば気が楽になるかもしれないですよ」
「そうだな。そうかもしれないな……」
ローガは俯いて少し考えてから、おもむろに語りだす。
「あれは……あれは、俺が初めて戦地に行った時の夢だ。俺はあそこで……」
ローガはそこまで言いかけたが、結局俯いて黙ってしまった。
「……大丈夫ですか?」
「いや、なんだ、その……。やっぱりやめておくよ。話したくないわけじゃないんだがな。あの時の事は、あそこにいた連中にしか分からないんだ。本当に夢だったんじゃないかと思うくらいに、だから、その、たぶん。言っても無駄なんだ」
ルーウェンもローガも少し黙った。これ以上無理に聞き出すのも忍ばれる。
「……そうですか……分かりました。ローガ様は少しここで休んでいてください」
ルーウェンは幼いながらも中々に気の利く人間で、下手に触れるよりかは一人にしてやった方がよいだろうとうまく察したのだ。
「私はチルチルとミチルのお世話をしてきますから」
「ちるち……なんだそりゃ?」
「お馬さんの名前ですよ! 私が勝手につけました! こっちの黒い子がお兄ちゃんのチルチルで、こっちの茶色い子が妹のミチルです! あの、気に入らないなら変えますけど……」
ルーウェンは猫耳を垂れて、もの欲しそうに上目遣いで訴えかける。
「好きにしろ」
「やった!」
ルーウェンは耳をピンと立て、ニコニコと飛び跳ねるように馬の元へ駆け寄った。
「準備は私がやっておきますから! ゆっくり休んでいてくださいね!」
楽し気にテキパキと作業をこなすルーウェンを見て、ローガも少し気が晴れたような気がした。
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