【二章】キッチナーに指をさされて
出征
祖国よ我は汝に誓う
比類なき完全なる愛を捧げんことを
疑うことなき愛 試練に耐える愛
祭壇にささげし最高の愛を
揺るぎなき愛 代償を厭わぬ愛
臆することなく最大の犠牲を払う愛を
【祖国よ、我は汝に誓う/イギリス愛国歌】
809年アーシャーダの月2日(サ・ニマ)
一旦時は遡り、半年ほど前の話になる。ローガが戦地に出た当初の話だ。
ローガの所属するナヤーム軍は、親ナヤームの小国シャンダビカで起きた革命鎮圧に協力する為、義勇軍を派遣していた。
そしてナヤームは革命軍とそれを支援するフタデサ国とを相手取り、この戦いに勝利しすることとなる。
だが、それでこの長い戦争が終わりを迎えることはなかった。
小国を火種とした戦火は、ヒト族の大国ナヤームと獣人の大国フタデサとの民族紛争へと発展していったのだ。
その後幾度もの戦闘を経て、善戦したナヤーム軍は革命軍残党の討伐とフタデサ国内からのヒト族解放を大義名分に掲げ、フタデサ国内への侵攻を開始することとなる。
そして北上した前線はサングルマーラという街まで到達し、そこで長らく膠着状態に陥っていた。
ローガはそんな戦場のただ中に、新兵訓練課程を終えたばかりの新人志願兵として向かうこととなっていた。
ローガ達新兵は後方の訓練施設から一日中牛車に揺られ、前線の近くまで来ている。街道にはローガの乗り込んだもの含めて前後三台の牛車が並び、焼き払われた田畑が広がるだだっ広い平原を走り抜けていた。
幌付きの牛車の中には、二十人ほどの新兵たちがぎっちり詰め込まれて座っており、ローガもその一人だ。ローガと共に牛車に揺られる面々は、共に訓練学校に居た同期達で、特に仲の良かったシンカという男も一緒だった。
「ローガ、吸うか?」
シンカはそう言うと、ベンチで隣に腰かけるローガに紙巻タバコを差し出した。
「いや、俺はいいよ」
「なんだよ、お前も二十歳になったんだろ? タバコくらい覚えとけって」
「悪いな、親父が堅物でタバコは嫌うんだよ」
「なんだよ、面白くないやつだな!」
シンカは同期とはいえ一足先に二十を超えていて、酒もタバコもやる男だった。だが柄が悪いというわけでもなく、気立てがよくて同期達の中では割と中心的な人物だった。
シンカが諦めてタバコを仕舞おうとすると、向かいに座っていた同期の一人が「俺にもくれよ!」と身を乗り出してきたので「しかたねぇな」とシンカがタバコを差し出してやると、俺も俺もと何人かが便乗してシンカのタバコを奪っていく。
彼らがマッチでタバコに火をつけはじめるので、牛車の中はあっという間にヤニの煙が立ち込めた。
「ったくお前らな、これから戦いに出ようってんだぞ? そんな緊張感無くてどうすんだよ? 銃の手入れでもしたらどうだ?」
ローガは呆れたように語ったが、それも含めて同期同士の他愛ない会話のうちだ。みんなまともに聞いていないし、ローガ自身もまだ余裕があった。
「お前こそ優等生ぶりやがって! こっから先は戦場だぜ? 今のうちに楽しんどかないと!」
シンカはそう言いながら肩でローガの肩を小突いてみせる。
「まあそれもそうだな」
ローガは懐から酒の入った小瓶を取り出し、皆の前にチラつかせて見せた。
「こっから先はそれぞれ別の部隊に配属されるだろ? 今が最後の晩餐ってわけだ!」
「お前、どこにそんなもん隠していやがった!」
「水臭いぞローガ!」
「酒があるなら早く言えよ!」
同期達は口々に捲し立てて、ローガの前へ我先に群がりだす。
「おい! 待て待て俺が最初だ!」
ローガは小瓶のキャップを開けて「ナヤームの勝利に!」と宣言すると、度の強い蒸留酒をグッと飲み込んだ。
直後に鼻の抜けるアルコールの臭いと喉を焼く味がして、思わずうつむきながら瓶を前へ差し出す。すると、その酒瓶を皆我先にと奪い合い始めた。
「ナヤームに!」
「ローガの馬鹿に!」
「勝利の為に!」
同期たちは皆思い思いに宣言しながら回し飲みを始める。
「おい、それは俺のだからな! 全部飲み干すなよ!」
ローガは慌てて止めようとしたが時すでに遅く、酒瓶はどんとんと回されていき、結局「わりぃ、全部飲んじまった」と空の酒瓶を手渡されてしまった。
「おい……ふざけんなよ! 折角あのウザイ訓練教官からくすねて来ってのに!」
ローガは受け取った空瓶をぽいと牛車の外へ投げ捨ててから、どっしりとベンチに座りなおした。
「嘘だろローガ! あのクソジジイから盗んで来たってのか?」
「畜生……もっと大事に飲めばよかった」
そう、ローガの持っていた酒瓶は、訓練学校で教官として彼らを苦しめた男のものだった。
「聞く前に飲んじまうお前らが悪いんだろ? あのジジイには世話になったからな、これくらいの餞別受け取ったっていいよな」
「そうだとも! 俺たちはこれからお国の為に戦おうってんだぜ! 酒瓶一本じゃ足りないくらいだ!」
「まったくだよ、それなのに酒どころか飯もろくに食えないんじゃやってられないぜ!」
皆ここに来るまでの間にだいぶ鬱憤が溜まっていた。訓練学校で半年間泥だらけで訓練を受けて、やっと憧れの戦場に出られると思ったのに、昨日からすし詰め状態で牛車に揺られているだけだ。おまけに酒どころか今朝から何も食べていない。それでも、これから待ち受ける冒険に思いを馳せ、どうにかモチベーションを保っているような状態だった。
「なあ見てくれよこのブーツ、暇だからピカピカに磨いておいたんだ。この軍服もそうだぜ、訓練で泥だらけにされたからな、いったい何度水洗いしたことか」
同期達の一人はそう言って自慢げにブーツを見せつけた。確かに彼の履く革のブーツはピカピカに磨き上げられていて、黒い軍服も仕立てたばかりのように鮮やかだ。ローガはそれを見て素直に羨ましくなった。
「いいなあ、俺も靴くらい磨いておけばよかった」
ローガは足を伸ばして自分のブーツを見てみたが、泥だらけでくすみ、テカって見えるところはどこにもない。軍服も一応洗ってはいたものの、なかなか泥が落ちないので途中で諦めてしまっていた。
ピカピカのキザ野郎は、得意げにそんなローガを馬鹿にしてみせた。
「いいか、俺たちは偉大なナヤーム国の顔なんだ。忌々しいフタデサの獣人共に俺たちの威信を見せつけてやらなきゃいけないんだぜ! それがみすぼらしい恰好をしてちゃ勝てる戦も勝てやしないだろ?」
キザ男の発言にムッとしたローガは、被せるように反論する。
「いやいや、確かに恰好は見すぼらしいかもしれないがな、大事なのは中身だろ? どんなに見てくれが良くてもな、敵を倒し国を守る強い意志がないといけない。そうだろ?」
ローガがそこまで語ると、皆「やっちまった……」といった表情になる。
「いいか? この世には三種類の人間がいる。山羊、狼、それから番犬だ。目の前に悪が現れたときにどうやって身を守るか分からない連中が山羊。暴力をもって山羊を捕食しようとする連中が狼だ。そして戦う能力を持ち、山羊を守る為に狼へ立ち向かう特別な存在。それが俺達番犬なんだ!」
「ローガ……その話は聞き飽きたよ」
「何回その話を聞かせりゃ気が済むんだ」
ローガは父親から語られたその言葉を、これまで何度も何度も彼らに言って聞かせていた。おかげで皆はもううんざりさせられていたのだ。
「ローガよう、どんなに意志が強くたってな鍛え上げられた肉体が無きゃ意味がないぜ?」
シンカはそう反論し、二の腕に力こぶを作ってみせる。彼はこの同期達の中で一番腕相撲が強い男だ。しかし今度はまた別の男がシンカに反論する。
「馬鹿言えシンカ! 筋肉があったって銃弾は防げねえぞ? 射撃ができなきゃ意味がないさ!」
そう語った男は、肩にかけた小銃を持ち上げて皆に見せびらかしてくる。彼は同期達の中で一番射撃の腕が立つ男だ。前線では選抜射手として狙撃部隊に配属されることになっていた。
彼の言い草に、今度はローガが反論する。
「確かに射撃じゃ俺もシンカも負けるがな、敵は殺せても生き延びなきゃあ意味がない。
あんたが一日に五人殺したとしても、直ぐに死んじまったらそれまでだ。俺は一日一人しか殺せなくとも、強い意志でしぶとく生き延びるぜ。そうすりゃ一年で365人だ!」
ローガの反論にシンカも負けじと茶々を入れる。
「は! ローガ、お前なんか一週間でくたばっちまうよ! せいぜいその間に点数を稼ぐんだな!」
彼の言う『点数』とはもちろん殺した人間の数だ。彼らは戦争を、どこかそういうゲームか何か腕試しのようなものと考えていた。
その時だった。
彼らが談笑をしているその最中、牛の唸るような轟が彼らの耳に聞こえたのだ。
そして彼らがそれに気付くか気づかないかのうちに、続けざまに鈍い爆音が聞こえてくる。
牛車に乗った面々は浮足立ち、一番後ろに座った数人が外の様子を見まわして報告した。
「砲撃だ!」
さっきまでの余裕はどこへやら、男たちは一気に冷や汗をかいてしきりに互いの顔を見合った。
彼らは砲撃に遭ったら急いで地面に伏せろと叩き込まれている。だが、この狭い牛車の中で伏せることはできないし、幌に囲まれて外の見えない者にとっては「砲撃だ」という報告が本当なのか、砲弾がどこに落ちたのか、まだ砲弾が降り注ぐのか、自分たちは安全なのか危険なのか、何一つ判断がつかない。
新兵たちが慌てふためき何もできずにいると、再び爆音が鳴り響いた。さっきより音が大きく。どうやら自分たちの馬車により近い場所に落ちたのだということだけは彼らにも把握できた。
しかし状況は掴めず、どう対処するべきかも彼らには分からない。少なくとも今すぐどうにかしなければならないという焦りだけは、これでもかと湧き上がってくる。
とうとうしびれを切らした一人がたまらず前の御者台へ身を乗り出し、御者の兵士を問い詰めた。
「おい! 一体どうなってる!」
「知るか! 敵の砲撃だ!」
だが残念なことに御者から期待する答えは返ってきてくれない。彼もただの一兵卒に過ぎず、戦況について知る由もないし、対処をとれる身分でもないのだ。
彼らを引率する将校は一つ前の牛車に乗っており、その牛車が進み続けている以上は自分も牛車を走らせ続けるしかできないでいた。
幌の中の新兵たちは「どうする」「まずいぞ」と口々に言い合いながら、周囲の音に耳を凝らした。今までくだらない会話に夢中で気が付いていなかったのだが、外では車輪が軋み泥をはね上げる音に交じって、遠くで敵の砲撃の音が無数にこだましている。
そしてその砲弾の音がまた一つ鳴り、その音は一秒と経たないうちにすぐ間近にまで迫った。ローガ達が思わず手で頭を覆い身を屈めた時には、けたたましい爆音が牛車の後方で鳴り、汗を一滴残らず吹き飛ばさんばかりの空気の振動が彼らを打ち付け、そして一瞬 遅れて爆風と共に土砂や瓦礫が彼らの幌の中にまで飛び込んできた。
「畜生どうなってる!」
ローガが叫んだ時には牛車は立ち止まり、耐え兼ねた同期の何人かが慌てて牛車から飛び出していた。
それが正しいことだったのかは分からなかったが、皆がそうしているのでローガも同じように牛車を飛び降りた。
見ると、自分たちのすぐ後ろを走っていた牛車が半分吹き飛ばされている。破片が飛び散り、残った右半分が砲弾によって開けられた大穴を覆うように倒れてしまっていた。どうやら敵の砲弾はピタリと牛車に直撃したようだった。
牛車を引いていた二頭の牛のうち、一頭は内臓をさらけ出してうめき声を上げながら倒れこみ、もう一頭は見当たらない。いやいないことは無いのだろうが、そこら中に血や肉団子が飛び散っており、たぶんそれが牛だったものだとローガには見当がついた。
更にローガの目には、瓦礫や肉片の中にあちこち黒い何かがうごめいているのが見て取れた。黒い何か、それが何か最初は何か分からなかったが、直ぐにそれが何なのかローガは思い知らされる。ナヤーム軍の軍服と、泥と煤だらけにになった人間の身体だ。
ある者は牛車から五メートルほど吹き飛ばされ地べたに倒れこみ、ある者は砲弾穴から這い上がろうともがき、ある者は光を失い前後も分からず手探りに彷徨っていた。
牛車から降りた面々は、この惨状を目の当たりにしてどうすることもできずに暫くあたふたとしていたのだが、直ぐに前の牛車から将校が駆けてきて、彼らに怒号を浴びせてきた。
「何をしている! 早く負傷者を救助しろ!」
こんな砲弾の雨の中救助活動をしろなどローガはごめんこうむりたかったが、上官の命令を無視するわけにはいかないし、歯向かうだけの心の余裕も無い。ローガ達も駆け足に牛車の残骸へと向かった。
ローガはまず、よろよろと前後不覚で歩く男の元へと駆け寄った。彼は煤で真っ黒になった顔を手で覆い必死に呻いている。ローガは急いでその男の手をどけて、水筒の水をかけながら顔を拭いてやった。
グッと閉じた目からは血を垂れ流し、何度手で拭っても血が流れてくる。どうやら破片に目をやられたらしい。男は「痛い、死にたくない」と血の涙を流しながらローガにすがりついた。ローガは彼をなだめながら肩を貸し、自分たちの乗ってきた牛車まで連れて行ってやることにした。
ローガが彼を椅子に座らせてから、水筒を手渡して次の負傷者を救助すべくその場を離れようとすると、盲目の男は「いかないでくれ! 母さん! いやだ!」とローガを引き留めてくる。
当然のことながら、ローガは彼の母親などではない
「大丈夫だ。お前はきっと助かる。他の奴も助けたらすぐにくるから戻ってくるからな」
としかたなしに男をごまかして、再び救助へと向かった。
しかしローガが砲弾穴へ戻る途中、誰かが「伏せろ!」と叫び。それを聞いてローガは急いで地面に突っ伏した。
ローガの身体が地面に擦り付けられるかされないかのうちに、すぐ近くでまた爆音が鳴り響き、直後大量の土砂がローガに降りかかる。
ローガの身体は半分埋まって泥まみれになってしまった。一瞬死んだんじゃないかと思ったが、幸いなことに難なく降り積もった泥をどかして立ち上がることができた。
辺りを見回すと、すぐ近くにまた大きなクレーターができており、再び何人かが犠牲になったようだ。さっき磨き上げたブーツを自慢していたあの男も、もう泥まみれで努力が水泡に帰してしまっている。
そうしてローガが呆然としていると、シンカが「大丈夫か?」と声をかけて近づいてきてくれた。
「あ、ああ大丈夫だ……」
大丈夫でないと言えば大丈夫ではないのだが、ひとまず身体には擦り傷程度しかない。ローガの身体は問題なく動いた。
だが、そうでない者も何人かおり、下半身が無くなって手の力だけで這っている者や、のたうち回って叫んでいる者もいる。中には、外傷は無くとも恐怖に足元をすくわれ立ち上がれずに座りこんでいる者もいた。
ローガがそうした負傷者達を見ていると、突然誰かが大きな叫び声を上げる。
ローガが反射的にその方向を見ると、一人の兵士が銃も背嚢も捨てて大急ぎで走って行こうとしていた。
逃亡者だ。
将校は彼を逃がすまいと慌てて怒鳴りつけたが、時を同じくして牛の唸るような砲弾の音がまた聞こえ、ローガは再び地面に突っ伏した。
直後再び爆音が鳴り響き、土砂が降り止むのを確認してから頭をもたげ、逃亡者の方を見てみると、彼がいたはずの場所では土煙が上がり、大きなクレーターが出来上がっている。
不幸なことに、砲弾は逃げようとする彼の足元にピタリと落ちたのだ。
将校は胸元にある拳銃のホルスターに手をかけたまま立ち上がり「お前たち何をしている! 早く仕事を済ませろ!」とまた怒鳴りつけてきた。
ローガはあの将校がなぜホルスターに手をかけていたのかすぐに分かった。命令に背けばあの男に殺されるのだ。
救助活動に戻ったローガは、滑り落ちる様に牛車の残骸がある穴へ入り込んだ。そして下敷きになった犠牲者を救出すべく、他の者と協力してその馬車の残骸を持ち上げにかかる。
ローガがその残骸に手をかけてぐっと力を入れると、直後ローガの手に激痛が走った。
彼の手に、ささくれと言うにはあまりに大きい木片が突き刺さったのだ。だが、他の者も力を込めて牛車持ち上げたままだし、犠牲者を助けるには刻一刻を争う。ローガはぐっとこらえて血のにじむ手に力を込め続けた。
下敷きになった者を三人引きずり出して、乱暴に残骸を倒してから自分の手を見てみると、手の平は大きくえぐれて血がだらだらと流れてしまっている。だが不思議なことにまったく痛みは感じられなくなっていた。
ともあれ、状況からして自分の手などに構ってはいられないので、皆で協力してどうにか三人の犠牲者を砲弾穴の外の平地まで運び出してやった。だが努力もむなしくそのうち二人は既に死んでいた。
一人は右腕がなくなり、胸部を突き破ってよく分からない方向に骨が飛び出している。
出血多量で息絶えたのだろう、彼の煤だらけの顔は苦悶の表情そのままに凍り付いていた。
もう一人の死者は、頭がまるまるちぎれてどこかへいってしまっており、骨の飛び出した首からわんさか血をふきだしていて、黒い地面をさらに真っ黒に染め上げている。彼は即死だろう。
頭が無いのなんてすぐ気づきそうなものだが、ローガ達はとにかく彼を運び出すことに必死で、頭が無くなっていることにすら気付けていなかったのだ。
そしてもう一人。まだ息のある男は、餓えた犬のように必死に呼吸しようとしている。彼が息を吸うたび、胸元からホースのように血がピューピュー噴き出していた。ローガはさっきケガをしたばかりの手で、彼の手を取りぐっと握ってやった。
「大丈夫だ! きっと助かる! こんなところで死んだりなんかしない!」
ローガは必死に語りかけたが、男は返事をするどころか顔を向けることすらできずに空を仰ぎ続ける。
「衛生兵! 衛生兵来てくれ!」
ローガは手を握ったまま周囲を見渡して叫んだ。しかし誰も反応しない。再び男の顔を見てみると、口をパクパクして何か言おうとしている。
ローガが急いで彼の口元に耳を近づけると、男が消え入る声で「水……水……」と言っているのがかろうじて分かった。
だが運悪くローガは、さっき盲目の男に水筒を渡してしまっている。どうしようもないので、ローガは顔を上げて大声で再び衛生兵を呼んだ。すると、それに応えて今度はすぐに衛生兵が駆け寄ってきてくれた。
「邪魔だどけ!」
衛生兵はローガを強引に押しのけて、地面に寝かされた男の様子を見始める。
ローガはその男の頭上に座りなおして、ひたすら「大丈夫だ、大丈夫だ、きっと助かる」と声をかけ続けた。
しかし、しばらく衛生兵があれやこれやと診察すると。彼は何も言わずに立ちあがってどこかへ行こうとしてしまう。
「おい! 何してる! 手当はしないのか!」
ローガは衛生兵を追いかけて呼び止めようとしたが、彼はお構いなしに別の怪我人の手当てを始めてしまった。そんな彼を見て、ローガがまだしつこく衛生兵を問い詰めたので、彼はやれやれと手を止めて振り返った。
「あいつはもう死んでる」
ローガは、いったい何を馬鹿なことを言っているんだ? と理解できないでいたのだが、そう言われてさっきの男を見てみると、確かに息をする口や胸の動きはもはや止まり、ホースの蛇口を絞めたようにだらだらと血が流れるだけになっていた。
あの男は、ローガが声をかけてから衛生兵が診ている間に絶命していたのだ。ただローガ自身がまったくそれに気が付いていないだけだった。
結局死に際の水が欲しいという願いすら叶えることができず、自分の手の怪我は骨折り損だったことになり、ローガは納得がいかなかった。だがそれ以上衛生兵を問い詰めることもできない。
ローガは暫く今死んだばかりの男を見て呆然としていたが、状況は彼に心の整理の時間など与えはしない。誰かがローガに手伝いを求めて怒鳴りつけて来たので、仕方なしにまた救助作業を再開した。
ローガ達はまだ生きている者を引っ張ってきて牛車に乗せ、時々砲弾の音に身を伏せながら、また別の負傷者を運び込むのを繰り返した。ローガは随分長い間ここで救助をしていたような感覚がしていたが、実家から持ってきた懐中時計を見てみると、実際には数分の出来事でしかなかった。
一通り負傷者を担ぎこんで再び出発する頃になると、牛車の中には血と硝煙と泥の得も言われぬ臭いが立ち込めて、負傷者のうめき声やすすり泣く声でいっぱいになった。
仏様をこんなところに野ざらしにするなど平時ならとてもできないが、生憎彼らの牛車にはこれ以上『荷物』を載せる余裕などあるわけもなく、哀れな死体はそのまま置いていくこととなってしまった。
それでも、幌馬車の床もベンチも負傷者に占有され、ローガのような五体満足の者は彼らを踏みつけないよう、どうにか足の踏み場を探して気を付けながら立っていなければならない状態である。
先程までの和気あいあいとした雰囲気などどこへやら、牛車の中では誰一人言葉を発することは無い。それでも酒場のように騒がしく、ローガは負傷者達の鳴き声やうめき声で頭がおかしくなりそうなほどだった。
実際頭がおかしくなった者もいる。
砲弾はその爆発力だけでなく、魔力のように若者たちの精神をも吹き飛ばしていったのだ。
たとえその身を傷つけることが無かったとしても、彼らの心には大きな砲弾穴が開いてしまった。
ぶるぶると震えて目を開けることも叶わぬ者や、チック症のように時折身体を震わせる者、きょろきょろとしきりに周囲を見回す者など、彼らの精神状態をうかがい知ることのできる症状が各々現れていた。
ローガ自身もそうだった。彼が一番後ろに立っていたのは幸いだろう。ローガは血まみれで苦痛にうごめく負傷者達を見て、今更猛烈な不快感に襲われてしまっていたのだ。
ローガは結局吐き気をこらえることができず、盛大に牛車の外へ嘔吐した。
昨日からろくに食べていないので、濃い胃酸がローガの喉を焼き、未消化のアルコールの不快な臭いが広がる。ローガは酒なんて飲むべきじゃなかったと激しく後悔した。
だが彼の不幸を案じてくれる者など誰もいない。皆自分のことで手一杯だし、牛車の中でうめき声を上げる負傷者や、外に横たわる死者の方がよほど不幸だった。
結局ローガはその不快感を必死に堪えるしかなく、血の滴る手にも自分で包帯を巻いて手当をした。
程なくして、御者が「出発するぞ!」と言って牛車が再び走りだした。
こんな砲弾の雨あられのなか、戦うこともできない負傷者を載せて尚も前線に向かうなど、正気の沙汰ではない。
今すぐ引き返して敵の大砲の射程外へ逃れるべきで、あの将校は気でも狂ったのかと誰もが思った。
だが自分たちですら本当に正気なのか定かではない。
皆状況を打開する手立てを知っているわけでもなく、彼らにできることは何一つない。結局牛車はそのまま前線の野営地へと向かっていったのだった。
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