心的外傷

 父親が自殺したその日の夕暮れ、彼の遺体はナヤームの街に沿うように流れる大河、コンピラ川の河川敷へと運ばれていた。


 この川は川幅が二百メートルから千五百メートルはある大河で、彼らパヴィトラ教徒だけでなくフト教やその他土着の諸宗教でも神聖な場所として扱われる場所だ。

 だだっ広い河川敷ではそこら中から煙が上がっており、ローガの父と同じように何人もの人が火葬されている。時勢もあいまって死ぬ人間は多い。普段はこれほど多くの煙が上がることはない。


 さらに川を超えた遠く北の平原の先には、神の名を冠したパヴィトラ山脈の雄大な連峰が赤く色づいているのが見えた。


 父親の遺体は川岸に設けられた石造りの火葬台に横たわらせてあり、黄土色の布にまかれて、腹の上にはここまで担ぐ間に道行く人から喜捨された小銭や紙幣が乗せられていた。

 ローガは僧侶から壇上へと招かれ、ギー(牛のバターオイル)の入った容器を手渡されると、それを手ですくって父親の身体にふりかけていく。

 とろりとした黄色く透明なギーは、ローガの手を離れて、満遍なく父を包む布を湿らせながら故人の身体を清めていった。

 ローガが一通りギーを撒き終え、容器の中身を空にしたのを確認すると。僧侶は父親の身体にどんどんと用意した薪をくべていく。やがて父親のからだが埋まるほどに薪がくべられると、僧侶は父親の身体に火をかけた。


 小さな火種はだんだんと燃え広がり、夕暮れの赤い空の中にあって更に赤々と火柱を立ち上らせていった。

 既に火葬台から降りたローガは、ルーウェンと並び立って静かにその様子を眺めた。


 ローガとルーウェンの他に参列者は無い。既に親戚と呼べるものがいない上に、あまり親族以外を呼ばないのが一般的とはいえ、父親の為に親しい友人の一人や二人呼んでやった方がよかったかもしれないとは思った。だが昨日の今日で今更友人を呼ぶ気にはなれな かったし、父の死の経緯を聞かれても答えようがないので仕方ないと言えば仕方ない。


 そんな二人が見つめるなか、父親の身体は盛大な火柱を上げ、炎と灰の焦げた匂いと、肉の焼けるバーベキューのような臭いを立ち昇らせている。

 僧侶はそんな父親の前で延々とパヴィトラの真言を唱え続け、時折長い棒で火の中をかき回し続けた。


 ルーウェンはその匂いにやられて表情をゆがめたり、時々煙を手で払ったりしていたが、ローガにとっては嗅ぎなれたもので、顔色一つ変えず、それどころか不思議と安心感さえ覚える程だった。

 この煙も、炎も、肉の焼ける臭いも、人の死でさえも。ローガが嫌というほど経験してきたものだったのだ。

 だから今更驚きも不快感もなかったし、父親との最後があんな形でもあったので、いったい自分がどんな心持でこの場に臨めばいいのかわからないくらいだった。


 ルーウェンもそうだ。まだ知り合って日が浅く、酷い目にあわされた覚えしかない相手だし、わざわざ弔いをしたい相手でもない。とは言っても今朝首を吊ったばかり者への哀れみの念が無いわけではないし、死んでせいせいしたと思うわけでもない。


 周囲で火葬をしている他の遺族達を見れば、声を上げて泣いている者やすすり泣く者、思い出話に花を咲かす者など思い思いに故人を弔っているのだが、ローガとルーウェンは泣くこともなければ語らうこともなく、ただ黙って火葬される父親を眺めるだけだった。


 そうしてただ黙々と時間だけが過ぎていき、二時間ほどたって空が真っ暗になる頃には、父の身体はすっかり灰になってしまった。

 火葬の間延々と真言を唱え続けていた僧侶は、ガス灯の僅かな灯りを頼りに、用意した骨壺に入る分だけを残して、棒切れで火葬台から遺灰をコンピラ川へと落としていく。


 この川の聖なる水で故人の心身は清められ、生前の罪を清算される。そしてその流れに乗ってパヴィトラの神の元へと向かうことになるのだ。

 ローガは僧侶から骨壺を手渡され、残った遺灰を丁寧に骨壺へと入れていった。

 これで一通り葬儀は終わりである。残った遺灰に故人の魂は残り、来る救済の日まで家族の元で守られることとなるのだ。


 きっと、これほど味気ない葬式になるなど、誰も予想してはいなかっただろう。

 だが精神的に疲弊しきった二人にはこれが精いっぱいだった。

 ローガとルーウェンは骨壺を抱えて、その日はまっすぐ家に帰ることにした。





 こうしてローガの実家は、とうとうローガとルーウェンの二人だけになってしまった。


 葬式から数日が経ち、日常を取り戻してもいい頃合いになっても、ローガはろくに家を出ることもなく、酒を飲むことに時間を費やしている。

 戦地から戻ったばかりで、いわば休暇の期間なので仕事が無いのは当然だったが、何か遊びや趣味でもすればいいものを、そんな気力すら無くなってしまったローガは、日がな一日じゅう酒を片手にぼーっとするくらいしかしないでいたのだ。


 彼は元々居場所のなかったこの街で、唯一の肉親すら失い、いよいよ孤独になったと思い知らされてしまっていた。もはや彼のそばにいるのは奴隷の少女一人だけ、彼の心はぽっきりと折れてしまったのだ。


 主人がこの調子ではルーウェンもあまりやることがない。家の中の空気は重苦しく、彼を元気づけようと何度か試みてはみたものの、結局ローガは取り合わず徒労に終わっていた。

 そうして葬儀から一周間ほど経ったある日、ローガの元に一通の手紙が届く。


「……ローガ様。あの、お手紙が届いています」


 椅子に深く腰掛けて、ただぼーっと虚空を眺めているだけのローガは、すぐ横に立つルーウェンの呼びかけに振り向きすらせず無反応で応えた。


「軍からの、再招集の伝令みたいです」


 ルーウェンは空の酒壺が放置されたままのテーブルに、その手紙をそっと置いた。しかしまたしてもローガは無反応だ。


「やっぱり戦地へ戻るんですか?」


 ルーウェンの問いに、今度は口だけ動かしてやっと答えた。


「……いいや、戻る気なんてない」

「そうなんですか?」


 ルーウェンはローガが何か理由を語るものと思い少し黙ったが、結局ローガが黙ったままなので再び聞いてみた。


「じゃあ、この街で働くんですか?」

「……いいや、この街で働くなんてごめんだ」

「じ、じゃあどうするおつもりなんですか?」

「……俺の知ったことじゃない」

「でもそれじゃ、いつかお金が無くなっちゃいますよ」


 ローガはまた答えなかった。何も答えずにテーブルの酒壺を手に取って少し振り、中身が無いのを確認するとまた黙って虚空を眺めた。


「戦場の方がまだマシだって前言っていたので、てっきり戦地へ戻るんだと思っていたんですが」

「……気が変わったんだ。今更国の為に捧げる命なんかありゃしない。だからあの場所に戻る気なんかない。それに、俺の知ってるあの場所には戻れないからな」

「戻れないって? どういうことですか?」

「もう俺の知ってる奴は誰一人いないんだ。役に立たないガキと、老人のお守りをしながら野垂れ死にするのを待つなんてまっぴらごめんだよ。それならここで酒を飲んでた方がよっぽどましだ」

「でも、お酒飲んでるだけじゃ本当に死んじゃいますよ? 何かお仕事でも探したらどうですか」


 ローガは鼻で笑った。


「働けって? この街でか? 招集を拒否してこの街で働いたって、非国民の臆病者と詰められてみじめに暮らすだけだ。それもまっぴらごめんだよ」

「なら、街を出てどこかへ行きましょう。きっといいところがあるはずです」

「どこへ行ったって一緒さ、戦争でどこもかしこもろくなもんじゃない」

「でも、探せばきっとどこかに」

「まあ、シャンバラにでも行ければ楽しく暮らせるかもな?」

「シャンバラ。ですか?」

「なんだ知らないのか? おとぎ話だよ」


 ローガはやっとルーウェンに顔を向けて話し始めた。


「パヴィトラの山を越えてさらに遠く、東の彼方の塩の湖を超えた先にあるって言われる国だ。なんでも人々は皆平等に暮らしてて、全員読み書きができるし、飢えるものも居ないらしい。おまけにその国の人々は平和を愛していて軍隊も無いそうじゃないか。さらにその国には、天にも登る巨大な建物が建ち並んでて、光る板で誰でもあらゆる知識を網羅できるし、遠く離れた人とも会話ができるんだとよ」


「夢みたいですね……そんな国が、本当にあるんですか?」


 ルーウェンの問いを聞いてローガはまた鼻で笑ってみせた。


「まさか、ただのおとぎ話だ。俺みたいに現実に飽き飽きした奴らの妄想だよ。要するにどこにも行くアテなんかないんだ。もうここで死ぬしか道はないんだよ」


 ローガは既に絶望し、自暴自棄になっていた。もしこの時代に精神科医がいれば、彼を抑鬱とPTSD(心的外傷後ストレス障害)と診断していたことだろう。

 だが残念なことに、彼を病室に入れてくれる者はいないし、障碍者年金も退役軍人年金も遺族年金もない。

 救いの手がない以上、このまま腐って死んでいくしかないのだが、困ったことに彼の命は彼一人のものではなかった。


「なら、私はどうなるんですか?」


 ルーウェンは恐る恐るそう聞いた。奴隷であるルーウェンにとって、ローガの行動次第で自分の人生まで決められてしまうのだから、彼女にとっても極めて重要な問題だったのだ。


「知ったこっちゃない、どこかに売られるか俺みたいに死ぬだけだ」


 だがローガの返答は残酷なものだった。


「そんな! 私は死にたくありません! 誰かに売られてもきっと死ぬまで働かされます! もっとつらい目にあうだけです! どうにかならないんですか?!」


 ルーウェンは自分の生き死に掛かっている以上必死だ。だが一方のローガも冷め切ったままで態度は変わらない。


「そうか、ならお前の事は解放する。元々お前は親父の奴隷だからな、親父が死んだ今お前の権利は宙に浮いてるんだ。俺が相続しなければそのまま自由人だ」


 奴隷からの解放、普通なら喜ばしいことだ。だが時勢がそれを許しはしなかった。


「待ってください! 今解放されても、私みたいな身寄りの無い獣人の子供なんて、また捕まって奴隷にされるか、その前に殺されるだけです! だからそれは困ります! あなたの奴隷であるうちは私は財産として保護されるんです! だから……」


 この街で自由人の獣人はゴキブリに等しい。だがペットのゴキブリなら駆除されないように、彼女にとって奴隷で居ることは命綱になるのだ。

 しかしローガは一人で盛り上がっているルーウェンに少しイラっときて、彼女の言葉を遮ってしまう。


「なら他の奴に奴隷にしてもらえ、もっといい主人なんていくらでもいるだろ? 俺みたいなクズとはさっさとおさらばしちまえよ」

「そんな、他にいい主人なんていません! ローガ様しか頼れる人はいないんです!」

「わざわざ俺にばかりこだわるなよ、他にも物好きな奴の一人二人くらいいるだろ?」

「確かに探せばいるかもしれません。でもそんな人見つかるか分からないんですよ! 見つける前にきっと死んじゃいます」

「だからなんなんだよ、俺には関係ない話だ」

「ローガ様はいい人です! だからお願いです。見捨てないでください!」


 ローガはルーウェンのその言葉に余計イラついて眉をひそめた。


「俺はいい奴なんかじゃない。イカれた最低のクソ野郎だ」

「そんなことないです! 本当は、本当はいい人です!」

「お前に俺の何が分かる!」


 ローガはついに語気を荒げてルーウェンに言い返した。急に怒鳴ったのでルーウェンは怖気づき、猫耳を垂れておどおどと委縮してしまう。


「ご、ごめんなさい………」


 それでもルーウェンは必死にローガを説得しにかかった。


「た、確かに。私にはローガ様のことは分からないかもしれません。でも、でもこの街の他のヒトとは明らかに違うんです。私に優しくしてくれたのはローガ様だけなんです……」


 だがやはりローガは取り合ってくれない。また声を荒げて言い返した。


「いい加減にしろよ! お前にどうこう言われる筋合いなんかない!」

「ローガ様に見捨てられたら、私はもう死ぬしか道が無いんです! お願いします。貴方の奴隷として、おそばに居させてください!」


 ローガはその言葉を聞いて、とうとう堪忍袋の緒が切れたと言わんばかりに立ち上がった。

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