ルーウェン

 父親との一件からしばらく経ち、一通り片づけが済んだ。

 作業を終えたローガは、やれやれといった具合にルーウェンと向かい合うように椅子へ腰かける。


「ほら、お茶でも飲んでゆっくりしよう」


 ローガは片手間に淹れていたチャイを二人分机に置く。心を落ち着かせる茶葉とスパイスの優しい香りが部屋じゅうに立ち込めた。


「で、ですが……」

「母さんの特製チャイだ。ケガの痛みにも効くだろう。北の植民地にいい産地があってな、それなりにいい茶葉だぞ。いいから飲んどけ」

「あ、ありがとうございます」


 少女はおずおずとお茶を一口すすった。


「まったく、やっと落ち着ける……」


 ローガも温かいお茶を口に運び、リラックスしてため息をつく。


「ここで目覚めてからろくな事がない。親父はあの調子だし、母さんは死んでるし、街の奴らもどうかしてる」


 ローガは湯飲みを片手に握りながら、部屋の片隅にある祭壇の方を見つめた。彼の母親は今、その祭壇に置かれた骨壺の中に納められているのだ。


「お母様のことは、残念です……」


 ルーウェンは湯飲みを握りしめてそう答えたが、本心で悔やんでいるというより、正直忖度しての台詞だった。彼女はローガの母親とは会ったことがない。


「まあいい。目覚めてから三日目になるが、そういえば忙しくてお前とはろくに話したことが無かったな」

「そうですね……」

「名前はルーウェンだったか?」

「はい。ルーウェンです。ルーウェン・タクリ・ガウリ・アウサディです」

「タクリ・ガウリ・アウサディ? こう言っちゃなんだが、あんた身分のわりに長い名前なんだな」


 ルーウェンのような奴隷や貧困者は苗字すら持たないことが一般的だ。その者の血筋だけでなく、親すら誰か分からない事すらままあり、奴隷商人や買い手が名前を付けることすらある。ルーウェンの名前はそれだけで過去になにか経緯のあることを意味したのだ。

 

「家系のことはよく知りませんが、元々はよその村に住んでて、家族とこの街に移り住んだ自由人だったんです」


「ふーん、そうか。だがこの街の状況で、奴隷に堕とされたってわけか、あんたも災難だな。家族はどうしたんだ?」


 ルーウェンは湯飲みを握ったまま少しうつむいた。


「家族は……死にました」

「そうか……」


 ローガもルーウェンの様子を察し悲しみの表情を浮かべる。


「あまり言いづらいなら言わなくていい。だが、家族はどうして?」


「ええ、はい、その。私はお父さんとお母さんと三人で小さい頃にこの街へ引っ越してきたんです。それで八百屋の手伝いをして暮らしてたんですが、この間の事件があって、八百屋の店主に言われたんです。全員奴隷にしてから、私一人を残してお父さんとお母さんを売り飛ばすって。それが嫌なら全員殺すって。それでお父さんとお母さんがどっちも拒否したから。それで二人とも殺されちゃったんです」


「そうか……辛かっただろうな。わざわざ教えてくれてありがとう」

「いえ、いいんです。私にできることなんてそれくらいですから。それで私だけは生かされたんですが、私も公有奴隷(私財でなく国の管理する奴隷)として売られて、それでこの家に買われたんです」

「なるほどな。しかしこの家にも前からヒト族の奴隷がいたんだ、それが気が付いたらルーウェンに代わっていたんだ。その辺りの事情は知ってるか? 親父があんな状態だからな。あんたのこともそうだが聞くに聞けなくさ」

「前の奴隷の方は売られたらしいです。あの薬を買うために売ったらしくて」

「ったくあのクソ親父、薬の為に奴隷まで売ったのか……確かにいろいろと家財がなくなってると思ったが」

「はい、それで私は、精神系の魔法が使えるんです。だから薬の副作用を抑えることができて安く買える獣人の子供だから私を買ったそうです」

「はぁ、嘘だろ」


 ローガは呆れかえって深く背もたれに腰かけた。


「そんなことの為に魔法の使える奴隷を買うやつがあるかよ……」


 この世界ではヒトでも獣人でも魔法の使える者が時々存在する。見た目に派手な能力ではないが、物に触れずに操ったり、物体を潰したり破裂させたりといった念力を使える者と、彼女のようにテレパシーや感情に作用する精神系の魔法を使える者がいるのだ。

 魔法というよりは所詮超能力に近いもので、物理干渉か精神干渉かはいわば理系と文系のような違いでしかなく、魔法使い達の得手不得手によって分かれる。


 ルーウェンの場合精神に干渉する能力を得意とする魔法使いだった。

 一般的には魔力のある奴隷は高く取引される。しかし、どんなにカッコいいゴキブリがいたところで、ゴキブリはゴキブリであるように、彼女は極めて安い値で買い叩かれたのだ。


「もうあの親父にあんたの魔法は使わなくていい。そんなものに頼っていたらいつまでたってもあの調子だ」

「ですが、それじゃあ私がいる意味がありません。私はどうなるんですか?」


 ルーウェンは少し焦った様子だった。無理もない、奴隷が仕事を奪われればいつまでも家に置いておく理由はなくなってしまう。


「買っちまったもんは仕方ないからなぁ。また考えるさ、しばらくは普通の家事をして、俺の話し相手にでもなってくれ、まだガキだがそれくらいできるだろ?」

「は、はい。わかりました」

「どれだけ家事ができるかは知らんが、あんたと話してて悪い気はしないんだ。目覚めてから落ち着く暇もありぁしない。外はいつもうるさいし、どいつもこいつも別人みたいで、今日の宴会も最悪だった」

「そう、ですか」


 ローガが少し身を乗り出す。


「ルーウェン。なあもう少し身の上話を聞かせてくれないか?」

「え、私の身の上話ですか? そんな、話しても面白いものではないと思いますが……」

「いいんだよ、俺は戦場とこの街しか知らない。ここへ来る前はどこにいたんだ?」

「ここに来る前は……。実はどこなのかはよく覚えていないんですが、小さい頃は山に囲まれた小さな村に住んでて……。それでたしか、近くの丘に町があったのを覚えてます。それから、一つだけはっきり覚えてるのはそこらじゅう一面の花畑があって、その中を駆け回って遊んだ記憶ですね」

「花畑かぁ、いいなあ。ここいらじゃ街の外には田んぼと麦畑しかないからな。そういうのにはあこがれるよ」

「そうなんですか、すごかったですよ。周りの山みんなが一面薄いピンク色に染まってて、私の肩の高さくらいまで花畑で埋まるんです。すごく綺麗でした」

「そいつはいい、俺もいっぺん行ってみたいもんだ。他にはどうだ? 故郷について何か覚えてるか?」


 ルーウェンは少し黙った。


「ごめんなさい。あそこに居たのはほんとに小さい頃だったので……。あ、そうだ」


 ルーウェンは思い出したように自分の胸元に手を入れ、小さなネックレスを取り出した。


「これ、両親の形見なんです。何かあったらこれを出せって。奴隷になったときもこれだけは取られないように隠し持ってたんです」


 ローガはすこしにやりとして見せた。


「俺に盗られるとは思わなかったのか?」

「そ、それは!」


 ルーウェンはハッとして猫耳をピンと立て、隠すようにネックレスを握りしめた。


「いやいや安心しろ、大事なものなんだろ? わざわざ盗ったりしないさ」

「そ、そうですか……。ありがとうございます」


 ルーウェンの耳がゆっくり垂れ下がった。


「少し見てもいいか?」

「はい、どうぞ」


 ルーウェンは少し警戒しながら、そのネックレスをローガの前に差し出した。

 ネックレスは細かな模様の彫られた真鍮でできており、中心にはトルコ石がはめられている。


「きれいだな」

「詳しくはわからないんですが、私の家にとっては大事なものらしいんです」

「そうか、どういう経緯かは俺にも分からんが、かなりいいものみたいだ。大事にするといい」

「はい、分かりました」


 ルーウェンはそのネックレスを掛けなおして胸元にしまった。


「他には何か昔話はないか」

「他には、話せることは、あまりないです」


 実際には無いこともないのだろう。だが後はこの街に来てからのことであまり話したくないのであろうことはローガも察しがついた。


「そうか、いいさ。いろいろ話してくれてありがとう」

「あの、私もローガ様のことをもっと知りたいです」

「俺のことか? そうだなぁ」


 ローガはお茶を口に運びながら少し考えた。


「俺はな、商人の息子で、生まれてからずっとこの街で育ったんだ。今はあんなだが、前の親父はかなりの堅物でな、小さい頃からかなり厳しかった。軍に入ったのも父の影響さ。親父によく言われていたんだ。弱い山羊にはなるな、皆を守る番犬になれ。って、だから軍に志願したんだ。それから母さんはすごく優しい人でな。外で喧嘩して泣きながら帰ってくると、いつもこのチャイを淹れてくれたんだ」


 ローガはかみしめる様に湯飲みをすすった。


「もうこの味ももう飲めなくなっちまうな、これは母さんの特製の調合で、スパイスの分量が分からないから今とってある分で最後なんだ」


 ローガはそう言うと、また祭壇の方を眺めた。


「残念です、たしか病気で亡くなったってお父様から聞きました」

「ああ、戦場に出て以来会えずじまいだ。あの時もっとちゃんと挨拶しておけばよかったよ」

「ごめんなさい、私なんかがそんな大事なチャイを頂いてしまって」

「いいんだよ、お茶は誰かと飲んだ方が楽しいもんだ」

「そう、ですか。ありがとうございます……。あ、あの。どうしてローガ様はそんなに優しくしてくれるんですか? 私は穢れた獣人の身なのに」

「べつに優しくしてなんかないさ、これくらい普通のことだろ」


 ローガはルーウェンの疑問に反して、さも当然かのようにあっけらかんとして見せた。


「でも、私は獣人で奴隷です。貴方みたいに気遣ってくれる人なんて他にいません」

「町のやつらがおかしいんだ。俺があんたに優しくするのはあの戦争のせい。いや、あいつのおかげだろうな」

「あいつ?」

「ああ、一緒に戦ってた戦友だよ。そいつも獣人でな、たぶん一番仲が良かった」

「そう、だったんですか」

「ついでにそいつも奴隷だった。だから俺にはそうかしこまらなくていい。楽にしてくれ」

「で、ですが……」


 少女にとってローガのような人物は初めてだった。ここまでのやり取りで少しは心を開けてはいたものの、いきなり楽にしろと言われても難しい。


「獣人は穢れた存在で、ヒト族より劣っているなんて巷じゃ言われているがな、俺だってそう大差ないんだ。あの戦争で俺ももう穢れ切ってる。俺ももうあんたら獣人と大差ないんだ」


 ルーウェンは返す言葉が思いつかず黙り込んだ。ローガの言葉を肯定すれば彼が穢れた人間だと認めることになるし、否定すれば自らの差別を肯定することになってしまう。


 「町の奴らもどうかしてる。みんなどこかイカれちまったんだ。昔からの馴染みの奴らも、もうあの頃のあいつらはどこにもいやしない。親父だってあんなになっちまった。俺の知ってる奴らは、皆別人みたいになっちまったんだ」


「そうなんですか?」

「ああ、もうここは俺の知ってる街じゃないみたいだ。今日出かけた時もそうだ、そこらじゅう襲撃の跡だらけだし、朝から晩まで公開処刑をしてやがる。戦場に出てる間に何もかも変わっちまったよ」


 ローガはお茶をすすって一息つく。ルーウェンはまた返す言葉が思いつかず黙っていた。

「きっとみんな気づいていないんだ。この街の連中も、この街自体も、もうとっくに救いようが無いほど穢れ切っていて、皆で神を冒涜してるってことにな。パヴィトラの神はもう俺たちに救済の日を与えてはくれない。俺たちの魂は永遠にさまよい続けるんだ」


 ローガの発言は彼らの宗教観によるものだ。彼らの信じるパヴィトラ教の教えによれば、人類の信仰心と道徳的な行いの為に穢れを捨てることができれば、救済の日が訪れて皆楽園へと帰還できると言われている。


「そう、なのでしょうか……」

「さあな、俺は僧侶でもなんでもないからな。本当のところはよく分からないさ、俺にはもうよく分からないんだ。あの戦場では神の教えなんか関係なかった。未だって、こうして穢れた獣人のはずのお前と話している方がよっぽど気が楽でいるくらいなんだ。だから もうよく分からない」

「私なんかと、ですか?」

「ああ、ルーウェンと話せて良かったよ」

「よかったです、私なんかでもお役に立てたみたいで」

「そう謙遜するな、俺はお前が獣人だろうとなんだろうと知ったことじゃない。きっと人間は出会い方次第でいくらでも関係が変わるんだろうな。こうして主人と奴隷の間柄じゃなけれりゃ、いい友達になったりしたかもしれないさ」

「と、友達ですか?」


 ルーウェンは思いがけないローガの言葉に少し驚いたようだった。


「ああ、友達だ。まあ、俺にはもう友達なんてもん誰一人いなくなっちまったし、俺なんか友達にしたところでいいことないだろうけどな」


 その時だった。廊下から物音がしたと思って見てみると、そこには寝かしつけたはずの父親が佇んでいたのだ。


「ローガ! お前何を話してやがる! この不信心者の売国奴め!」


 どうやら、どこからかは分からないが二人の会話は父親に聞かれていたのだ。しかも父親の手には狩猟用のショットガンまで握られていて、その銃口はまっすぐルーウェンに向けられていた。


「親父! 寝てたんじゃないのか!」


 ローガは反射的に椅子から立ち上がった。


「この売女に何をそそのかされた!」

「よせ親父! その銃を下ろせ!」


 ローガは父親から向けられた銃口を前にし、怯えるルーウェンを庇うように前に出た。


「何が救済は訪れないだ! 聖戦に臨む英雄たちを愚弄する気なのか? しかも穢れた獣人と友人になろうなどと! 貴様にはナヤーム人としての誇りは無いのか!」


 父親はひどく興奮しているようだったが、彼の発言は中毒者ゆえではなく、この街のヒト族ならだれでも考えうるようなことではあった。


「いいから銃を下ろせ!」

「獣人は神の名の元に裁かれるべき穢れた存在なんだぞ、こいつらは獣と交わった罪深き種族だ。そんな奴らに慈悲を与えるどころか、信心深い街の人間を愚弄するなど神と崇高なヒト族への冒涜だ!」

「待ってくれ! 親父は何もわかっちゃいない! 落ち着いて話し合おう!」

「分からないのか! お前は神の名を穢したんだぞ!」

「都合よく神の名を語るなよ! あんたらも街の人間も都合よく踊らされているだけだ!」

「踊らされているだと! お前こそこのガキに何を吹き込まれた!」

「獣人だろうとなんだろうと差別されて殺される理由にはならないだろ! 俺が見てきたものは違ったんだ!」

「聞き分けの無い奴だ! お前もこいつと一緒に殺されたいのか!」


 父親はグッと銃を握りしめ、ローガに向けて構えなおした。


「殺したきゃ殺せよ! どうせみんなおしまいなんだ! 戦争に勝ったところで救済なんか訪れやしない! 俺も親父もこの街も! 永遠にさまよい続けるだけなんだ!」


 ローガも少し頭に来ていた。銃を持った男を前にして挑発的なことを言うべきでないのは当たり前だが、それを抑える理性が外れかけていたのだ。


「あんな薬になんかはまりやがって! あんたは現実を見たくないだけなんだろ!」

「この破滅論者め! お前はこの家の、国家の恥だ!」

「薬漬けのヤク中が何言ってんだよ! いい加減にしろ!」

「父親をヤク中呼ばわりだと? どこまで腐ってるんだお前は!」

「腐ってるのはどっちだ! 働きもしないで酒とタバコと薬をやってるだけじゃないか!」

「だまれ! 反抗的なガキだ! お前も母さんのように殺されたいのか?!」

「……どういうことだ?」

「あの女は俺に盾突いて薬を捨てやがったんだ!」

「……母さんを?」


 ローガは父親の言葉が理解できず、困惑し語気を弱めてしまう。だが父親はそんな息子などお構いなしに捲し立てた。


「あいつは死んで当然の女だ!」

「母さんは病気で……病気で死んだんじゃなかったのかよ!」

「俺が殺したんだ! いいか! この家は俺のものだ! お前もおとなしく従わないなら同じように殺してやる!」


 ローガは抑えていたものが完全に吹っ切れてしまった。


「ふざけるな! よくも母さんを殺しやがったな!」


 銃を持った人間を相手に、正面から突っ込むなど愚の骨頂だ。だがローガは感情に流され、父親めがけてお構いなし掴みかかりにいった。

 そして、それに気づいた父親は咄嗟にショットガンの引き金を引いてしまう。


 バーン! と甲高い音が鳴り響き、ルーウェンが恐怖に悲鳴を上げた。


 だが幸い薬物で手元の狂った父親の銃弾は、ギリギリローガの脇をかすめ、漆喰の壁を削り取った。

 ローガはそのまま間合いに潜り込み、父親の首をつかんで壁に押し付ける。

 鈍い音がして、父親の後頭部は激しく打ち付けられた。そしてローガはそのまま、父親の首を締めあげていった。


「お前が! お前が殺したのか!」


 父親は気道を塞がれろくに声も上げれず、うめき声をあげる。


「このクソ親父!」


 ローガは締め上げた手を一瞬緩め、父親の頬に強烈なフックを浴びせた。

 彼のこぶしは綺麗にヒットし、父親は血反吐を吐きながら吹き飛ばされるように地面に倒れ込んだ。


「ふざけんな! よくも!」


 そのまま馬乗りになったローガは左右、順番に父親の顔を何度も殴りつけた。


「いたい! やめてくれ! いたい!」


 さっきまでの勢いはどこへやら、父親はまたしても感情が真逆に振り切れ、もはや抵抗する余地などない。ゆがんだ顔に血の混じった涙を浮かべ、必死に許しを乞い始めた。


「よくも! よくも殺しやがったな!」


 しかしローガの耳には父の声は届いていなかった。抵抗のできない人間を相手にこれだけ殴れば危険だ。実の父親であろうと本当に殺してしまうかもしれない。だがローガの昂った感情はもはや歯止めが利かず。ローガは必死に許しを乞う父親をなおも殴り続けた。


「ローガ様! やめてください死んじゃいます!」


 ルーウェンも流石に見兼ねてローガを止めようと、後ろからしがみついて彼を引きはがそうと試みた。


「放せ!」


 しかしローガは身を捩ってルーウェンを振り払い、その拍子にルーウェンは尻餅をついてしまった。

 父親は泣きじゃくりながら未だ許しを乞っている。ルーウェンの咄嗟の仲裁のおかげもあってか、ローガは一応は殴る手を止めた。ルーウェンはその様子をみて一安心したが、それも束の間だった。


 立ち上がったローガは、さっき父親が倒れた拍子に放り投げたショットガンを拾い上げ、薬室の銃弾を確認してからその銃口を父親に向けて突き付けたのだ。


「ローガ様だめです!」

「なぜだ! こいつは俺の母さんを殺しただけじゃない! お前のことまで殴って虐げたんだぞ?! なぜ庇う?!」


 ルーウェンはそう聞かれて焦った。いきなりそんなこと聞かれてもなんて返せばいいか分からない。

 父親はひどく怯えているようで、頭を抱えてうずくまり「許してくれ、寒い、死にたくない」と必死に訴えている。

 ローガはそんな父親の様子には目もくれず、ルーウェンの返事を待ち、彼女を睨みつけたままだ。


「わ、私は……」


 答えに困ったルーウェンはぶるぶると震えて一歩ずつ後ずさりながら、怒りに支配されたローガの顔をじっと見つめ続けた。

 ローガも息を切らしながら尚もルーウェンを睨み続ける。


「こいつはお前の両親を殺した奴と同じ類の人間だ! 憎くないのか? 殺したいとは思わないのか?!」


 ルーウェンには答えられなかった。確かに憎む気持ちはあった。だがその決断をする勇気は出せない。震えながら目を見開き、ただローガを見つめるルーウェン。そこでローガは先ほどまでと違い、諭すようにルーウェンに問いかけた。


「……一言『殺せ』と言ってみろよ」


 彼自身も父親を殺すという決断を渋ったのかもしれない。だからその判断を委ねようとしたのかもしれない。だが当然ルーウェンにはそんなこと、知る由もないことだ。

 ルーウェンはしばらく口をパクパクしていたが、結局彼女にはその罪を背負う勇気はなかった。


「……だ、だめです。殺しちゃ、だめです」


 ルーウェンはひと時もローガから目を離さず、たまらずそう言葉にした。

 ローガは何も答えなかった。息を切らしながらルーウェンをじっと睨み、しばらくしてから目線を変えず、手の動きだけでショットガンの薬室を開いた。

 勢いよく銃弾が飛び出して、コロコロと未使用の銃弾が転がる音だけが部屋の中に響き渡る。ルーウェンは一気に気が抜けてその場にへたり込んだ。


 ローガは大きくため息をついてから、銃を置いて父親を担ぎ上げ、後は粛々と事後処理を済ませていった。

 結局その後は父親がわめくばかりで、二人ともその日一日一言も何も喋ることはなかった。

 重たい空気が家の中に張り詰めて、二人とも何か話す気にはなれなかったのだ。


 ルーウェンは、あの時自分が「殺せ」と言っていたらどうなっていただろうと想像すると恐ろしかった。

 彼女も両親が殺される姿を目にしているし、ローガも戦地で人を殺してきた男だ。彼が本当に父親を殺そうとしていたことは、直観で分かっていた。もしルーウェンが望んだのなら、本当にローガは引き金を引いていたかもしれない。


 ローガ自身もそうだった。あの時ルーウェンが止めなければ自分は本当に父親を殺していたかもしれない。親殺しなど大罪だ。

 決してあってはならない事だと分かってはいたが、あの時の自分は本気で実の父親を撃ち殺そうとしていた。


 今となっては違う結末があったのかは分からないが、翌日の朝にはもはやそれもどうでもよいことと化すことになる。


 父親は自殺したのだ。


 家屋の中で最も不浄とされる便所を選んだのが意図的なものか分からないが、父親は便所の天井の梁に縄を括り付けて首を吊った。


 そして彼の足元には、ただ一言「すまない」とだけ書かれた紙が残されていたのだった。

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