若い作家の輪郭

@ujou_otaru

第1話 石川啄木 / 二一歳 明治四十年・十月一日

「なんだこの泥まみれの悪道あくどうは、まるで天下のちんだな」

 石川啄木は、新しく務める新聞社の編集会議に向かう道中、足を止めて悪態あくたいをついた。昨日から降り続けた雨のせいで道路がぬかるみ、もはや道路はただの泥沼どろぬまと化していた。

「北海道の鉄の心臓。その血管はボロボロじゃないか」

 悪口を重ねていたら突然、後ろから声をかけられた。

「いよいよでやんすね、二人でこの町を盛り上げましょう、ペンの力を使って」

 小樽おたる日報にっぽうで一緒に働く野口雨情が、啄木の左肩にそっと手をかけた。

 啄木は、会社勤めの初日に相応しいとは言えない使い古した着物だったのに対し、雨情の服装は丁寧に皺を伸ばした背広を着こなし、靴下は白いままだった。

雨情も札幌の新聞社に勤めていたが、新会社の立ち上げを知って移った。会うのは二度目だったが、以前からお互いにその名前を知っていた。

「それにしても、札幌と比べると酷い道でごあんすね」

 絶え間なく往来する荷馬車を横目に、啄木の悪態を聞いていたからか、話を合わせるように雨情が笑いながら言った。

「そうですね、日本一の悪道ですよ。でも、善悪に関わらず日本一を名乗れるのは凄い事じゃないですか、私の靴下が何枚ダメになっても良いですから、ずっと日本一であり続けて欲しいですよ」

 そう言いながら、泥まみれになった靴底を雨情に向けて、啄木は大声で笑った。

 啄木が小樽に来た時の印象は悪くなかった。

 北海道での成長が最も早かった函館、開拓使かいたくしが置かれ、文字通り北海道開拓の拠点になった札幌。どちらの町にも住んだからこそ感じる、小樽独特の気配があった。

 明治になってから北の大地は北海道と名づけられ、明治政府は拓殖たくしょくという言葉を用いて開拓を急いだ。北海道の中心から少し左に位置する幌内ほろないと呼ばれる地域で良質な石炭が発見されると、それを本州へ運び出すために小樽港が選ばれ、北海道初の線路が小樽と札幌、そして幌内へと繋がった。

 本州や海外など、海の向こうから届く物資は小樽で仕分けされ、そこから鉄路で道内各地に送られる。一方で、道内の物資は小樽に集約され、小樽港から本州などへ送られる。海路と鉄路の両方を持つ小樽は、北海道発展の要だった。

 啄木は小樽に到着してすぐ、物流の拠点になっていた港で働く人の様子をしばらく眺めていた。

 岸辺に寄せた艀は隙間なく重なり、穏やかに揺れる湾内で押し合って軋む音が絶えず聞こえてくる。艀をロープで繋ぎとめている支柱の上には、嘴に鰊の尻尾を加えた鴎が、荷物を担ぐ仲仕が運び込んでいる先の倉庫を見つめている。その倉庫の屋根は、雪の重みに耐えるため、四方向に傾斜面を設けた豪華な瓦で、そこに聳え立つ鯱が港から来る流浪の民を睨みつけている。港に堂々と立ち誇る倉庫。これが繁栄の象徴にも見えた。

「倉庫に鯱を掲げるとは、品格の欠如か、先見の明か」

商人に対して皮肉をこぼした後に啄木は呟いた。

「港で働く人は、ただ歩くのでは無く、突貫している。この人たちこそが北海道を作っているのだ」そんな印象を持っていた。

 この町には不思議な活気がある。啄木は自分自身に言い聞かせるように言い、握りしめた拳が少し震えているのを見て、雨情も小さな声で静かに相槌あいづちをうった。

  ◇

 啄木はそれまで函館で働いていた。仕事もようやく落ち着いてきたとき、一万五千戸を焼く大火が町を襲い、函館の中心街は壊滅かいめつ。自宅も職場も失った。東北から北海道へ移り、成功を掴みかけていた新生活。詩や小説を書き進める余暇の時間をようやく見つけられた矢先の出来事だった。

 復興を待っていれば仕事に戻れる話もあったがそれを断り、家族を親戚の住んでいた小樽へ行かせる為に停車場で見送った後、知人から汽車賃を借りる算段をつけ、札幌へ向かう準備を急いだ。

 突然迫られた大きな決断の幾つかは、啄木自身が詩人になる決意を含めたものだった。

 辿り着いた札幌での職場は新聞社で、十日ほど経ったある時。

「隣町で新しく新聞社が出来る。給料が良いらしいぞ」と噂を聞いた翌日、実際に勧誘された。啄木はすぐに決心し、札幌での仕事を辞めて小樽日報で働くことにした。奥さんが様子を見に小樽から来る予定になっていたが慌てて電報を打ってそれを止めさせ、啄木の札幌滞在は嵐のように過ぎ去った。

函館から一時的に家族を避難させた小樽。義理の兄がいたからという理由ではあったが、何かしらの縁を感じるには十分であった。

  ◇

 小雨で霧がかった幻想が、町の喧騒けんそうを少し和らげていた。

中心街に近い小樽日報の本社。この通りで一番の豪華絢爛な二階建ての建物は威厳を放ち、奥に続く家屋も立派な作りで、全てが真新しかった。それらをゆっくり眺める時間もなく、シャンデリアが所狭しと並ぶ二階の大広間で、第一回編集会議が始まった。

「こちらが、三面の記事を担当してもらう野口さんと石川さんです」

 二人を誘った社員が、会社の宗像むなかたオーナーと赤石社長に紹介する。

「二人は札幌や函館の新聞社にお勤めの経歴がありまして、記者、校正係、コラムの執筆しっぴつなどの経験があり、本日の編成会議にも特別に参加してもらいました」と、すかさず赤石社長がオーナーに向かって言った。

 自己紹介を促され、短く終えた雨情とは対照的に、啄木は立ち上がって静かに深く、息を吸った。

「この小樽と言う町は可能性を秘めております。まるで町全体が市場のような活気に満ちており、外国貿易港に指定されてからの賑わいたるや、函館まで届いておりました。そんな地でうごめく経済や政治はもとより、市民や放浪者一人一人の話を聞けば立派な記事になりましょう」

 身振り手振りを使いながらの演説に近い自己紹介は、その情熱が伝って秋陽が差し込む十分に明るい部屋の電球を灯しそうなほど、部屋中に伝染した。あえて少しの沈黙を作って興味をあおり、まだ独壇場は続く。

「人や物が本州から小樽を経由して全道各地に拡散される。いわば心臓のような町です。ここを通過するすべての人や物に宿る物語を書き起こし、新聞によって人々の生きる希望を更に照らしましょう。読者の心を豊かにしましょう。函館と札幌で磨いた記者の腕、ここで存分に発揮させていただきます」

 毎日綴つづっていた日記や、すでに一部のファンからは天才詩人とうたわれていた言葉のつむぎ方。また、函館では学校の先生として働いた経験もあり、人に伝えるのは上手だった。啄木のその能力は、自己紹介をする数分だけで周りの目に輝かしい印象を与え、それ以降も、会議で最も多く話しているのは一番若い啄木であった。

 議題は進み、意見を求められて長めに答える啄木の発言に宗像オーナーも赤石社長もにこやかで、隣に座る雨情も笑顔を浮かべ、目を瞑りながら頷いていた。そこで突然、冷たく重たい空気をまとった言葉が室内に響いた。

「夢物語で新聞は食えません、しっかりと事実を確認して裏を取り、小樽の商人が一歩でも早く価値ある情報を掴んで次の商売を充てるためにも、我ら小樽日報は政治と経済が魅力の新聞社となります。三面記事の諸君らは、スリや疫病えきびょう、怪談話をまずは聞き取るのがよろしい」

 ひげが目の上から生えてきたかような、図太く散かった眉毛をゆらしながら編集長の花泉が空気を変えた。

 シャボン玉が割れる音まで聞こえそうなほど静まり返った会議室で、何か言いかけようとした啄木を雨情が右手で静止し、赤石社長は雨情に目配せした後、まあまあ両人ともと言いながら場を和ませた。

  ◇

「いやいや、疲れやんしたね」

 会議が終わり、外に出ると、雨情がつぶやいた。

「それでも午前中で会議が終わって良かったですね。ところで、兄から教えてもらったんですがね、少し歩きますが、中学校の下に人気のパン屋があるのですよ」

 小樽に住んでいた兄のお陰で、啄木は小樽の情報が少し入っていた。会議の話もしたかったため、歩いて三十分ほどの距離にあるパン屋に二人で向かうことにした。

「社長の隣にいたあの仏頂面のあいつ、どう思いました?」

「編集責任者の花泉さんでごあんすね。確かに気に食わない態度でやんすね」

「私にはあの太いゲジゲジ眉毛が毛虫に見えましてね、私が世界で一番嫌いな存在は毛虫なのですよ」

 啄木は第一印象で人間性を見抜くのに自信を持っていた。

小学校の頃から学力が高く、天才や神童しんどうなどとチヤホヤされる事が多かった。そんな大人の言葉を聞き重ねることで、それが本心なのか無責任に言っているのか、その人の仕草などからも本音を聞き分ける能力を身に付けた。雨情と最初に会ったときも詩人としての才能を見抜き、髭のせいで老けた風貌であったが、年齢が近いだろうという予想も当たっていた。

「そのゲジゲジ眉毛に向かって、最後まで言い合いをしていましたね、啄木さんは」

 眉毛の動きを真似しながら雨情が言い、二人は大声で笑い合った。

 水たまりには栄華を極めた銀行街の建物が映り込み、壮観な町並みは雨の匂いを少し残し、二人はゆるやかな坂道を下って歩いた。いつもより空が高く、雨上がりの澄みきった空に浮かぶうろこ雲を追うように歩いていると、先ほどまでの緊張感はどこかへ飛んでいき、オーナーが手がける他の事業や、小樽日報の発展について意見を交わした。

 しばらくして、目的のパン屋が見えてきた。「いやあ、いい香りでやんすね」遠くからでも分かる賑わい、お昼時を少し過ぎても混んでいるのは人気店の証拠だ。二人は中へ入ると、異様な身なりのお客が目に入った。ぼろの布切れを羽織はおり、顔には生命の気力が無く目はどこかくすんでいる。手にぶら下がる袋にはパンの端が入っており、お店の女性に何度も頭を下げていた。

「あれは港の労働者ですね」雨情が小声で言った。

「タコ部屋と呼ばれる部屋から出られず、労働を命ぜられた人達の集まりですね」

「おや啄木さんも、流石は新聞記者でやんすな」と言って、笑みを浮かべた。

 啄木は函館で仕事をしていた時、囚人しゅうじん足枷あしかせをつけて奴隷どれい同然のように働かせていた労働部屋があると聞いていた。更にひどい地域では、重労働と栄養不足で倒れた労働者を治療せずに暴行し、遺体を作業現場近くの山林に埋めていたという怪談めいた話もあった。小樽のタコ部屋は囚人労働部屋とは違ってそこまで酷い扱いをされていると聞いた事はないが、北海道の開拓が進むにつれて、そういった労働環境は悪化するだろうと予想していた。

「伊藤博文の政権から、囚人を機械のように扱うことを決めたらしいでやんすね」

「罪を犯した囚人は人間以下になる。人間が考える法律とはむごいものですね」

「・・・・・・どれも美味しそうでやんすねぇ」

 少し沈黙が続いた後、雨情がいつも以上に陽気な声で強引に話題を切り替えた。

「会計が混んでいますから、一緒に支払っちゃいましょうか、主任」と啄木がおどけて返す。

 雨情は三面記事の主任で、啄木はその部下の立ち位置だった。他人からごちそうになる術を持っていた啄木は、雨情の先輩心をくすぐった。主任とは言っても安月給で雨情も苦しい生活をしてはいたが、啄木の子どものような笑顔に唆されたようで、選んだパンと少し余るほどのお金を啄木へ渡した。店内から外へ向かう雨情の背中に「すみません、ごちそうさまです」と、内心はしめしめと思いながら笑みを浮かべた。

 啄木が会計の方へ振り返ったとき、奥の方で熱心に本を読む少年の姿が目に入った。年齢は四歳ほどだろうか。背筋を伸ばし、本の世界に潜って浸っているかのような真剣な眼差しに目を奪われた。子供なのに怖いくらいの集中力を持っている。

 人物を見抜くのが得意な啄木の目に、少し顔が青白い少年の未来が映り込んだ。

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