いくつもの時を超えて君と「緑のたぬき」を食べたから。
成井露丸
Loop 255
こたつの上に二つのカップ麺が並ぶ。東洋水産の「緑のたぬき」。
蓋緑をめくると、白い湯気が立った。
「
「ああ、ハピクルサワー味、あるだろ? 俺、それで」
「なんかお子ちゃまだね〜。まぁ、いいんだけど。年越しくらい、もっといいお酒飲んでもいいんだよ?」
背中から声がする。女性にしては低めの声。仕事のときは、もう少し高い声になっていることを僕は知っている。
僕が「チューハイで、いいよ」と返すと、彼女は冷蔵庫を閉めて、両手に缶をぶら下げてこたつまで戻ってきた。
時計を見上げる。もうすぐ十二時だ。年が変わる。年を越える。
ようやく僕は――僕らは、この境界線を越える。
「――カシスオレンジ味?」
「えへへ。チューハイ、ご相伴に預かります」
「別に遥香はビールでもいいんだよ? 冷蔵庫に在ったでしょ? プレミアムのやつ。『緑のたぬき』に合わなくはなくはないと思うよ?」
「それ合うのか、合わないのかどっちよ?」
「――う〜ん。……わからん」
「自分で言っといて、それ?」
「それな〜」
僕は適当を言いながら、そんな彼女のことを眺める。彼女は腰を下ろすと、こたつの中に足を入れた。僕の伸ばした足の先に、彼女の指先が触れる。靴下越しに触れる彼女の親指は、くすぐったくて、こたつのストーブなんかよりずっと暖かかった。――泣きたくなるくらいに。
「どうしたのよ? そんな涙ぐむみたいな顔をして? ……何かあったの? 幹生?」
「……なんでもない。……なんでもないさ」
僕はチューハイのプルタブに指を掛ける、そして缶を開けた。
プシュッ、と音がなって、それから炭酸の泡の音がした。
遥香も自分の缶を開ける。それから「緑のたぬき」の蓋をめくった。
「緑のたぬき」のカップの中で温かいお湯を吸った緑の天ぷらが浮かんでいる。僕らの年越しそばは、お汁の中で揺らいでいる。
やっとここまで来た。やっと君と年を越せる。
――何十回、何百回という時を超えて。――君と未来へ進めるんだ。
「――泣いてるよ? ――幹生? 大丈夫?」
おかしいな。嬉しいはずなのに。どうして泣いているんだろう?
あ、――そうか、忘れていた。
人間って嬉しい時にも泣くんだ。
安心した時にも泣くんだ。
だから、僕は泣いていいんだ。
嗚呼、遥香、……遥香、遥香。――遥香!
「……ごめん。本当に、ごめん。……嬉しくて。――遥香と一緒に年を越せることが……嬉しくて」
「えええ、大袈裟だなぁ。……そこまで言ってくれるのは嬉しいけれど。若干、ドン引きだよぉ。普通に考えると」
「……引いた? ――突然、泣かれると、流石に?」
「ううん。嬉しいけど。幹生がそこまで思ってくれることは嬉しいんだけど。――でも、何かあった?」
彼女は僕のことを覗き込む。「緑のたぬき」から立ち上る微かな湯気の向こうで、その姿が天使みたいに見えてくる。――まるで奇跡みたいに。
だってそうだろ? 僕はずっと君を求めていたのだから。
この年末の境界線を一緒に越える君を――ずっと。
「とりとめもない話だと思うよ? 荒唐無稽な話だと思うよ?」
「――いいよ。何でもいい。幹生が泣くくらい、何に悩んでいるのか、何を思っているのか、私は、知っていたいから。来年には――私たち、夫婦になるんだし」
彼女はそうやって、はにかむみたいにして笑った。
「じゃあ、――食べながら、話すよ」
「だね。もうすぐ、今年が終わるから」
そして僕らはチューハイの缶を掲げて、乾杯した。
*
恋人の
呼吸を失った彼女の遺体を抱えながら、僕はその現実を受け入れることができなかった。
そんな時、僕の目の前に女神オリエンタルフィッシャリィが現れた。
女神は僕に告げた。いくつもの運命の糸が絡まりあい、その捻れた交差の中で、水瀬遥香は、――その生命を奪われたのだと。
僕と彼女が出会い、生きてきたこの三年間。いくつもの選択肢があり、いくつもの分岐点を僕らは通り抜けてきた。その世界の選択が、数多の人々の世界線と交わりあい、その先に遥香の命は尽きたのだと。
正直、意味がわからなかった。なぜ彼女が死ななければならなかったのか、全然わからなかった。納得なんてできなかった。
遥香は――遥香が死ななければならない理由なんてどこにもなかったはずだから!
『過去を変えるチャンスをあなたにあげましょう、
僕はその危険な誘いに、手を伸ばした。
禁断の果実を手にするみたいに。
『ただ忘れないで、幹生。これは終わらない〈ダル・セーニョ〉。あなたが水瀬遥香を救うまで、無限に続く〈ダル・セーニョ〉。あなたが水瀬遥香を救えない限り、あなたは永遠の時の檻に閉じ込められる。――それでもいいのですか?』
女神がくれた〈ダル・セーニョ〉は「赤いきつね」の形をしていた。
大晦日の夜。年越しそばの代わりに、「赤いきつね」を食べる。すると僕の身体は過去へと飛ぶ。除夜の鐘を合図にして。〈セーニョ〉の置かれた過去の時間へと。
そして僕は、やり直した。君との時間を。――この年末の境界線を無事に乗り越えるために。
「もちろんだよ。女神オリエンタルフィッシャリィ。――僕の未来に、遥香の存在は必要なんだ。遥香のいない未来なんて……何の価値もないんだからッ! 僕は飛ぶよ、過去へ、――そして始める、また遥香と、その〈セーニョ〉から!」
僕は「赤いきつね」 にお湯を注ぐ。湯気が立ち、あげが香ばしい香りを生む。
飲み込んだうどんが胃袋を満たしていく。そして除夜の鐘が鳴った。
世界は光に包まれて、〈ダル・セーニョ〉が起動する。
そして僕は過去へ飛んだ。彼女と過ごした始まりの時間――〈セーニョ〉まで。
それから僕は何度、君と生きただろう?
それから僕は何度、君と笑いあっただろう?
――そして死にゆく君を見ただろう?
絡まりあった運命は複雑で、世界はあまりに残酷だった。
一度目の繰り返し、君の命は大晦日まで持たなかった。二度目の繰り返しでは、君は病に倒れた。三度目の繰り返しで、君はまた交通事故にあって、その体は宙に舞った。
――なんで、なんで、なんで、なんで!?
どうして僕は君を救えないんだ? どうして運命は君の命ばかりを奪っていくんだ? ――どうして僕は生きているんだ?
何度も重ねる時間の中、気が狂いそうになった。
何度も重ねる時間の中、世界を呪わないことはなかった。
女神は言った「終えることもできるのだ――全てを」と。
全てを終わらせるだって? ――笑わせるな。
それじゃあ何のために、いくつもの時間で、僕は、――幾人もの遥香を見殺しにしてきたんだ!!
止まれない。止まらない。
僕は――救う。遥香を。そして行くんだ――〈ダル・セーニョ〉の先へ!!
いくつの時を超えただろう?
いくつの「赤いきつね」を食べただろう?
全部、無駄だったのかな? 全部、無駄に終わるのかな?
諦めそうになったこともあった。
――でも、出口のない洞窟の先に、一条の光が差し込み始めた。
それは君の笑顔で。それは僕の想いで。
いくつもの絡まりあった運命の糸は、差し込む光の中で解けていく。
やがて、僕は辿り着いた。洞窟の出口。無限の螺旋階段の先へ。
これが――これが、最後の〈ダル・セーニョ〉なんだ!
僕は歩き始めた。今、目の前にいる、君と――水瀬遥香と二人で。
あの日の〈セーニョ〉から。
*
チューハイの缶が、またぶつかる。カランと音がした。
僕らの目の前には、二つのカップ麺が並ぶ。
「――どうだい? 信じられないだろ? 荒唐無稽だろ?」
彼女は目を閉じる。彼女は知らない。何度も飛んだ僕のことを。
だって彼女はこの瞬間の彼女で、この時間軸の彼女だから。
でも、遥香は閉じた目を開くと、すっと目を細めた。
「ううん。わかるよ。――なんだか不思議なんだけど、わかるんだ。幹生。……ありがとね。私の中に、なんだか、見たこともない景色、過ごしたことのないはずの時間があるの。それが記憶なのか、空想なのか、わからないけれど。きっとそれが何度も何度も私と生きてくれた、幹生の時間なんだね」
そう言って、彼女は白い頬を赤く染めて、微笑んだ。
――それだけで、僕にはそれだけで十分だった。
やがて、除夜の鐘の音が鳴り響く。
この音を聞いては、僕は過去へ飛んだ。何度も、何度も。
思わず、お腹に力を込める。またあの締め付けられるような痛みが襲ってくると、身体が条件反射みたいに反応する。――でもその痛みは来なかった。
僕らは境界線を――超えたのだ。目頭が熱くなる。
『繰り返しの終わりは〈トゥ・コーダ〉。君たちは
〈ダル・セーニョ〉を越える〈トゥ・コーダ〉は「緑のたぬき」の形をしている。
年越しそば。それが僕らを未来へ運ぶ、たった一つの鍵。
今、除夜の鐘が鳴った。そして、目の前には君がいる。――水瀬遥香。
ありがとう。――君という存在に、ありがとう。
「あけましておめでとう。――幹生」
「あけましておめでとう。……遥香」
僕は右手を差し出す。その手を君が掴む。
そして引き寄せる。抱き寄せる。
いくつもの時を超えた。そして君との未来を探し続けた。
ぼくらは今、「
――境界線を越えた。
だからこれからは二人の未来。
新しい年が始まる。新しい人生が始まる。
僕は彼女を引き寄せる。
ずっと抱きしめたかった未来をその腕の中に。
そして君の唇に触れた。
今年、僕らは、結婚する。
いくつもの時を越えて、いくつもの困難を越えて。
「赤いきつね」と「緑のたぬき」を越えて。
いくつもの時を超えて君と「緑のたぬき」を食べたから。 成井露丸 @tsuyumaru_n
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