Page:03  格子の先

※かなり非道徳的な描写が含まれます


 回想。

 パチパチと、拍手が聞こえています。夜も更けた庭の枯山水が、橙に照らされています。その日は酷く熱くて、自棄に水を飲みたくなる夜でした。

 まるで、恋にでも落ちたように顔が火照っていて、全身が熱を持っていました。いやに早く鼓動が脈打つものだから、私は初めて彼に出逢った日を思いました。

 根をはる想いを携え、私はその橙の明かりを見つめ続けておりました。喉が渇いて唾を呑んでは、それでも爛々と瞳に秋の枝のような彩りを写して見つめ続けます。枯れて尚も愛しい声が、格子の先から自分を呼んでいることに気付いていました。


 ――嗚呼、旦那様。私は覚えております。貴方に出逢った日を。貴方と過ごした日々を。貴方の言葉を。貴方の立ち居振舞いを。貴方の所作を。貴方の懺悔を。貴方の罪を。

 覚えております。何一つ、間違いなく。

 腹帯の上から命を撫でる、皺のある手に触れた日。泣かず飛ばず文学を研究する職の貴方はこう言ったのです。


 産まれる子が女子ならば、いろは。

 男子ならば、ひふみ。そう名付けよう。


 旦那様、貴方は覚えておいでですか? お恥ずかしながら耄碌してすっかり忘れてしまうだけの、年月が過ぎ去りました。それでも私は、覚えております。

 忘れることなどできるはずがない。

 あの日。あの夜。近隣では身重の女性を狙う通り魔が出るなんて噂でした。よもや狙われるなどと思いもしない私は、学友との茶会の帰り、屋敷のすぐそばまで来たところで、件の通り魔に腹を刺されました。

 旦那様があれだけ楽しみになさる稚子もこの世に産まれることはないと悟ると、自らの命を失うことよりも悲しく思いました。冷たい舗装の道に臥せた私の意識は、蝋燭に灯る火と然程変わらなかったでしょう。

 帰りを心配した私の迎えに来た貴方が、私を見つけるのに時間は掛かりませんでした。貴方は私を揺すり、激しくお泣きになられました。まだ微かに息のある私を医者に見せることもできた貴方は、けれどそうはしませんでした。

 私を抱き帰った貴方は、納戸の中に私を連れ、肉切り包丁を持ち出します。旦那様は鹿や猪を自身の学友から頂くこともあり、自ら捌くこともありました。それ故に、肉切り包丁はしっかり研いで納戸にございましたが、嗚呼、どうしてそれを、私の露になった柔肌に向けていらっしゃるのでしょう。


 せめて、どちらだったか教えておくれ。


 旦那様はそう仰って、死にかけの私の腹を捌くと既に事切れた稚子を取り上げました。そして泣くことのない命を見て、また酷くお泣きになりました。

 嬰児は可愛らしい女子だそうで。

 私の命を繋ぎ止めるのは、もはや痛みと狂気だけでした。旦那様は、私の腹に嬰児を詰めると、罪滅ぼしとでも言うように縫い合わせました。そうしていつか、新しい木を植えようかと考えて、と言いながら開けた大きな穴に、私を納めました。四肢も滅茶苦茶に折り曲げて、おおよそ生きた人間にする仕打ちではありません。それも仕方がありません。


 貴方は私が死んでいると思っているから。


 そうして土が被せられました。ゆっくりと優しく。けれど嫌なことを隠すように手早く。口に入り続ける土の味は、とても褒められたものではなく、か細い私程度の悲鳴も貴方は耳にしていないようでした。


 旦那様は、私と嬰児を埋めたその場所に、紫陽花の苗を植え、大層大事にしておりました。毎日欠かさず水をやり、毎日欠かさず愛しい妻子へ声を掛けました。

 それがいつからか、妻子ではなく子だけを呼ぶようになりました。紫陽花に向かって貴方は、いろは、と声にするのみになったのです。長い月日も経ちました。私は茶会の帰りに失踪し、行方不明になったようですから、旦那様の中からも、疾うに私は居なくなってしまったのでしょう。

 それもまた、私達夫婦の在り方。私は貴方を恨むことなどしません。例え、貴方が物怪に化けて庭を徘徊する私を疎んだとしても。私は間違いなく貴方を愛していたのだから。


 旦那様。貴方の呼ぶ声が聞こえます。

 秋の寒空。火の不始末で燃えた大きな屋敷の庭。枝に移った橙の光。紫陽花の木が燃えていく。貴方と私が共に亡くなった、あの日のことを私は忘れることはないでしょう。


 けれども、まあお恥ずかしいことに。私もすっかり耄碌してしまうような月日が経ちましたから。

 「――!!」

 貴方が口にするそのお名前がどなたのものだったか、どうしても思い出せないのです。ご学友か、親しい間柄の女友達のお名前でしょうか。それなら私も知っていたかと思ったのですが、私も未熟だったということでしょう。

 それに私が居なくなって長らく経ちます、新しく恋人と連れ沿ったって何らおかしくありません。

 死の間際でも尚、私の名を口にしてはいただけないなんて、いささか殺生な旦那様のことを、それでも私は愛しております。


 そうして待ち続けております。

 貴方が私を呼んでくれる日を。



※当話は2021年11月12日投稿のSS『格子の先の景色』を加筆改編したものです。

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