Page:02  日常の塩梅

 真っ白なテーブルクロス。並んだ銀食器と、透き通ったグラスに清涼飲料水が注がれる。甘味料増々のそれが硝子の縁に滑ると、召人を模した姿の彼が、子供っぽく瞳を輝かせた。隻腕であるが故に給仕らしい給仕を勤めない彼は、まるで興奮を隠しきれていない様子だった。

 「こちらをどうぞ、マドモアゼル」

 きらびやかなハロウィンのコスプレに近い衣装を纏った女が、そのグラスを椅子に座る黒いテディベアの少女に差し出した。彼女は恭しくお辞儀をして、少女の隣に控える。召人の彼は、興味津々でグラスの内側で発生しては融合し浮上する泡を見つめている。

 「くるしうない! 近う寄りましたまひたまえ!」

 グラスを取った少女の口から、日本語として意味、用法、語句、何もかもが間違われたものが飛び出した。コスプレ女は、それを指摘するべきか悩むように目線を彷徨わせる。それに合わせて、女の帽子についた凹んだ鐘はガランゴロンと目立つ音を広い食堂に響かせた。

 「何だ! 物申したまひけれ!」

 「あの……何だか、敬語が渋滞している気がするのですが」

 「何と!?」

 悩んだ末に、女は口を開けた。黙って間違い探しをしても得はないと、彼女は考えたのだろう。人に扱き使われることに飽いた彼女らしい行動とも、諦観を抱く女には見合わない行動とも取れた。

 とはいえ。指摘された少女が、油絵の具に描かれた叫びになってしまう前に、コスプレ女の帽子が女の頬を摘まんだ。意思を持った帽子は、目も耳も手もある。まるでデフォルメされた猫のような顔がついた帽子だ。なお、その言葉遣いは大変よろしくなかった。

 「お黙りしろよ鳥の巣頭! ピーチクパーチクうっぜぇ!」

 「はひゃ。は、離してくださぁぃ」

 帽子の腕を頬から離そうとする女は、その猫の鋭い爪付きの柔らかい手を丁寧に掴む。ところが、帽子は一鳴きして女の頬を引っ掻くと、頭の上で四足歩行の猫に変化して、軽やかにテーブルに飛び乗り駆け抜けていく。女はそれを追って、あたふたとテーブルの周りを移動する。

 「ぴぇぇ、ぱ、パンプキンさん。テーブルの上を走っちゃ駄目です、猫、猫の毛が」

 「ケッ! テメェのブラッシング不足をオレサマのせいにすんじゃねぇ! オレサマはいつだって自由なネコサマなんだぜ! 慕え敬え畏れ戦け!」

 「あぁぁ、パンプキンさん。お願いします、彼女の前でその言葉遣いはやめていただけると……」

 「お黙りしろー! うっぜぇぞー、ピーちゃん!」

 少女が楽しそうに猫の帽子を真似して言い、グラスに入った清涼飲料水を回す。ついでにそれを上等な召し物に溢した。場が凍りつき、次の瞬間少女が沸騰して怒り狂う。「おまえのせいだー!」と責任を押し付けられた女は目を回して涙を浮かべ、ワンワンと泣きながら帽子を追う。

 「は、早く謝ってください、パンプキンさん!」

 「はー? テメェのせいですー」

 「わたしのせいじゃないですよぉ!」

 一連のやり取りを端から見ている召人の少年は、けらけらと声を上げて笑った。恨みがましい非難の目を向けた女に対して、少年は肩を竦めると1枚のシルクのハンカチを取り出して、清涼飲料水の染みに被せる。

 「ひぃ、ふぅ、みぃ、よっ」

 少年が唱えてハンカチを取り払うと、染みは綺麗さっぱり消えている。怒り狂う少女はすぐに機嫌を直し、再び楽しそうに笑い出した。そのついで、グラスを傾けすぎないようにハンカチ越しに触れながら、少年は付け足した。

 「お黙りしろ、ではなく、お黙りなさい、が適切ですよ。立派なレディになるためには、言葉遣いにもお気をつけくださると、爺も嬉しく思います。マドモアゼル・ビーチェ」

 きょとん、とした黒いテディベアの少女は次に少年を見ると、こう口にした。

 「うるせークソジジイ! レディごっこは疲れたからもうやめる!」

 「おやおや。左様でございましたか」

 少年は口を隠して、喉を鳴らして笑う。女は衣装を握り締めて、めそめそ泣いている。帽子の猫は伸びをすると、知らん顔で食堂を出ていった。


 この場の誰にとっても、生きていた頃より幸福な今日と言う日。塩梅を弁えた、かけがえのないその日常が何より好きであることを、彼等はお互い言葉にせずと知っている。

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