第3話 令和飛鳥山合戦ゲバゲバ 菊花の巻

夕たちは飛鳥山公園の遊具で遊ぶ家族連れを横目に、京浜東北の線路に面した崖沿いにある茶屋に足を運んでいた。自販機が何台か並んでおり、中にはテーブル席、外側にも木のテーブルが数席点在している。

「林先輩、お先にお選びください。遠慮はいりませんよ。どうせ大杉先生のポケットマネーです。あの人も外部の部活の人を危険な目に合わせて反省してるようですから、お酒以外なら何でも頼んじゃってください」

 お品書きの看板の前で、東雲は林に注文を促した。

「いいの?それじゃ、親子丼とコーラ」

「はい。わかりました。夕ちゃんは?」

「……醤油ラーメンと、烏龍茶で」

「それだけでいいの?」

「確かに緊張の糸がほぐれてお腹がすきましたが、夕飯もありますから」

「そういえばそうね。私は天丼とラムネでも頼もうかしら」

 午後4時過ぎ。売店は喫茶目的でそこそこの客が入っていたので、外の木の机に3人は座り、東雲が注文を届けに行った。先程の東雲の怒声を聞いたばかりの夕は、東雲の体育会系っぷりを感じていたので、先輩にさせてはまずいと思い変わろうとしたが、東雲は「2人への労いなんだから休んでなさい」と言われてしまう。

 結果、林と2人きりになった。

 あの後だとかなり気まずい。話のきっかけすら出せない。

「ええと、」

 最初に口を開いたのは、林だった。

「は、はい」

「さっきの義理の兄作戦はすごかったね」

「あ、あれは咄嗟に出たんです」

「いや、今思うと、ただの兄とかじゃなくて義理にした森本さんの作戦は大成功だったよ。ほら、俺はこんなキモオタだけど、森本さんは可愛いからさ。明らかに他人だってわかっちゃうし」

 夕は、この林という男がどうも自分を卑下しているように感じてならない。夕も決して自己肯定感は高くないし、ネガティブ思考になりがちだが。

 林は確かに「イケメン」と呼ばれるような男ではないが、決してブサイクというわけではない。髪型に多少気を遣えば、そこまで悪くないはずだ。

「お待たせしました」

 東雲の声がしたので振り返ると、なんとお茶屋のおばちゃんと一緒に料理を運んできているではないか。さすがに夕と林はすぐにお盆を手にして机に置いた。

「さて、大杉先生からのラインは未だ無し。でも、“便りがないのは元気な証拠“と先人の教えにあります。頂いちゃいましょう」

東雲は合掌した。夕や林も手を合わせて、遅めの昼食と言うよりは早めの夕食にありついた。陽はだいぶ傾いており、気温も少し下がってきた。これはラーメンを頼んで正解だったなと思いながら、夕はちぢれ中細麺を啜り上げる。

「先輩。先程のお話、少し聞こえていましたが、そんなにご自分を卑下するものではありませんよ」

 東雲は清楚な外見をかなぐり捨てたように、豪快に天丼をかき込みながら言った。

「太宰治の『富嶽百景』を、一年の頃大杉先生に読まされましたが、その中で太宰はこう書いてるんですよ。

 “私には、誇るべき何もない。学問もない。才能もない。肉体汚れて心も貧しい。けれども、苦悩だけは、その青年たちに、先生、と言われて、黙ってそれを受けていいくらいの、苦悩は、経てきた。たったそれだけ。藁一筋の自負である。“

 先輩にもそうしたものがあるはずです。私のクラスメートには、先輩方の知識量に圧倒されて、鉄道研究部入部を辞退した人もいたんです。自信をお持ちになってください」

 東雲はタレに塗れた唇をポケットティッシュで拭き、大きく一息ついた。

「さて、残ったお金は985円。レシートもある。このお金はどうします?甘味でも行っちゃいます?」

 どこまで食い意地が張っているのか。夕は苦笑いを浮かべるしかなかった。

「おう、やってるな」

 聞き覚えのある声に振り向いたら、大杉が歩いてきていた。

「先生! どうでしたか!?」

 夕は立ち上がって大杉に駆け寄った。

「うん。そのことで言おうと思ってな……おい、何だこれは。3人ともガッツリ頼みやがって。紙の金が残ってないじゃないか。俺の分も入ってたんだぞ」

 大杉は机に置かれてある硬貨とレシートを見るなり東雲を問い詰める。

「先生、それはない。途中で切り上げたとはいえ現役剣道部員と男子高校生、女子高生。この3人に五千円渡して好きなものを頼めと言ったら、これくらい行っちゃいますよ。食べ盛りなんですから」

「貴様。あの輩よりタチが悪いな」

「お釣りがあっただけマシです。それで、何かわかりましたか」

 大杉は茶屋のおばちゃんにホットコーヒーを注文して、席に座った。

「あいつは駅前にあるメガバンク四ツ井東京銀行の王子支店に入って行った。俺は行内のカタログを見るふりをして動向を確認したが、あいつはATMに通帳を入れて、記帳を行った。確認を終えるとそのまま奴は退店し、あのアパートまで帰って行った」

「拠点はやはりそこですか」

 林はカメラを取り出し、撮影したアパートの写真を表示して3名に見せる。

「そうだろうな。この写真にある2階の202号室。ここに入っている。そこからこの茶屋に来る道中に調べたんだが、あのアパートの名前は若葉荘。築45年。風呂無しの1DKだ。家賃は月6万。空き部屋はいくつかあるが、1階だけだな」

「敵が2階にいるなら、階段さえ押さえれば袋のネズミですね」

「いや、そうもいかん」

 林が他の写真を表示した。アパート裏の駐車場だった。

「見ての通り、2階はそこまで高い位置にない。雨樋や様々なものを伝って、裏から逃走する可能性は十二分にある」

 東雲がその写真を見ながら、

「では、この駐車場にも人員配置が必要ですね」

 と言いながら、駐車してある車や塀を見ていった。ここに2人は配置可能で……など、実戦が既に彼女の頭の中で想定されている。

「敵の武器だが、こればかりはわからん。奴らは極道か半グレかは知らんが、今時極道ですら滅多に拳銃を所持してはいない。リスクが高すぎるからだ。極道の場合は10年以上刑務所に入ることになるし、一般人でも懲役は確実だ。だからあったとしても刃物の類かとも思うんだよな」

「防刃チョッキや鎖帷子の出番ですか」

 東雲がプライベート用の手帳に必要な武具防具を書き連ねていく。

「そうだね。ただ、仮に鎖帷子が用意できたとしても、この春の陽気が敵になるな」

「どうしてですか?」

 夕が訊くと、代わりに東雲が答えた。

「鎖帷子は暑くて重いから、すぐにバテちゃうんだよね。鉄を纏ってるんだからしょうがないとは思うけど」

「ああ、それは確かに」

 大杉は得意げな顔をして夕に話しかけてきた。

「森本くん。鎖帷子が暑くて大変だというのを東雲くんに教えたのは私だ。『四十七人の刺客』と言う本を読ませたからね」

「ああもう、余計なことを」

 東雲が頰を膨らませている中、林は自分の撮影した写真を見返していた。

「100枚くらい撮ったけど、最低5、6人は居そうだね。全員は無理だった」

「えっ!?100枚も撮ったんですか!?」

「めぼしいものが撮れないんじゃ、100枚も1000枚も一緒だよ」

 ニコンのカメラを置いて、林は悔しそうに親子丼をかき込んだ。「畜生、すっかり冷めきってやがる」と独り言を口にした。

「いやいや、林くんの写真のおかげで敵の拠点の資料はしっかりとわかったよ。しかも電話口の男の顔もバッチリ押さえている」

 言われて、「そうだ」と夕はスマホを取り出した。

「私の方は、あいつの声を押さえました」

 大杉や東雲は「おおっ!」と身を乗り出した。

 映像は、男が電話をしている時や、夕をナンパした時などで、大杉は「よしよし」と満悦気味だった。

 茶屋のおばちゃんが珈琲を運んできた。大杉は薫りをゆっくり楽しむと、一口飲み込んでみる。「うん。並だな」と呟いたので、三人の学生は苦笑いを浮かべるしかなかった。

 大杉はカップを置くと、三人を見渡した。

「今この瞬間にも松下くんの携帯は鳴りっぱなしだ。決行は明日。若葉荘に殴り込む」




6.


 私立日野出学園高等部の北校舎1階にある薄暗い廊下を、複数人の生徒が歩いていた。

 現在12時55分。学園は昼休みの最中である。各々弁当や学食を早めに手繰ってきた学生たちが、普段昼休みであっても人気の少ない場所に集まっているのは物々しいものがある。

 集まっていたのは、日野出学園高等部歴史研究同好会の部室であった。ドアは解放され、室内の照明や中の学生達の声がドアの外まで漏れ出ている。

 大杉教諭は自分のデスクに座っていたが、他の生徒たちは様々な持ち寄り品を点検しながら話に興じていた。人数は30人を超えていた。

 その中には、高等部アメフト部の3年生堀部和馬、柔道部の宍戸丈二、映画研究部のアクションやスタント担当の千葉真二、釣り部の浜崎鯉太郎など、歴史研究会とは無縁の学生もいた。鉄道研究部の3名も、ヘルメットを抱えてソファに座っている。

 東雲は廊下で木刀の素振りをしていた。

 それを横目に、10数人の団体が固まっていた。女子比率が多く、7対3の割合である。

 堺彩香と松下由衣を囲む、「堺彩香ファンクラブ」の有志であった。

 ファンクラブの面々は、この企てを学園中に助っ人を探し回っていた木下から聞いており、いてもたってもいられなかった。由衣を助けたいと思う者はもちろんだが、そもそも彩香のファンは一心同体だ、と言い張る剛の者が多いクラブでもあるから、すぐに討ち入り志願者が30人以上集まってしまった。

 彩香は怒って戻れと言い張っていたが、遂に折れた。中等部以下の学生だけは問答無用で帰らせて、高等部より上の学年はひとまず残していた。

 高校生だからと言って、自己責任論が通用するわけもない。しかし、血の雨が降る危険が極めて高い場所へ義務教育期間中の学生を、しかも自分のファンを送り出すのは彩香の良心が決して許さなかった。

「みんなも、今からでも遅くないわ。先生も配慮してくれるでしょうけど、今から行くのは犯罪者の巣窟よ。私はみんなに怪我をしてほしくない。覚悟を決めかねている人は、何も見なかったことにして戻りなさい」

 ファン達は、動かない。

「彩香ちゃん。仮に貴女が、XJAPANのToshlさんがホームオブハートから逃亡していた時に匿える状態にあったら、どうしていたと思う?」

 高等部三年生の女学生、斉藤が訊いてきた。

「Toshlさん? 勿論、何日でも拙宅にご逗留いただきますわ。あの方の損失は世界の損失ですもの」

「私たちも同じです」

 周りも、そうだ! 由衣の危機はファンクラブの危機だ! と湧き立ち始める。

「わかった!わかりました。でもね、どんな結果になっても、この由衣だけは決して責めてはダメよ。いいわね」

「はい!!」

「それじゃ、みんなはここのドアから作戦会議を聞いてなさい。実行の際は、指示に確実に従うのよ」

 由衣と彩香は部室の方へ入って行った。

ーーあんなにたくさん。大丈夫かな。

 廊下の彩香ファンクラブに、夕は不安を感じている。歴研と兼部している東雲はともかく、室内にいる堀部や宍戸、千葉、浜崎も部外者である。鉄研ですら昨日までは全く関わりがないのだから、森本夕からするとこんなに大人数で結束が取れるのか不安になる。

 木下は、玉露を堀部達に差し出していた。堀部や宍戸などの筋骨隆々な男達は、目の前の少女と見紛う美少年を直視できていない。宍戸はノンケで、彼女もいるのだが、堀部はゲイである。中等部の頃から、木下にアプローチを仕掛けていた多くの男女生徒の1人であった。木下はそんな人物すら味方に引き入れたのである。そばに片想いしている人間が居たら、男は全力を出す。そんな作戦もあっての人選だった。

 無論、この場にいる者で、由衣の事情を知らないものはいない。相手が本物の犯罪集団であることも重々承知していた。みんな人助けのつもりで来ていたが、ある程度の見返りも求めていた。浜崎鯉太郎は、単純に網で人間を捉えて見てくれないかと大杉に直に頼まれて、「面白そうなことをするなあ」と思い参加している。

 学生スタントマンの千葉は、アクション演出を考えるにあたって、実戦を一度体験できるまたとないチャンスだと新聞部の藤野に言われ、参加を快諾した。

 柔道部の宍戸丈二は、試合に参加できない状態であった。非行を行ったわけではないが、学園の学生が都内の不良高校生にカツアゲされているのを見かねて懲らしめたところ、1ヶ月間の部活動停止処分を食らってしまった。柔道の技を素人相手にしたのはまずかったとは思うが、後悔はしていない。久しぶりの暇な期間を満喫しているところに、東雲が声をかけてきた。その腕と正義感をもう一度悪漢相手に振るってくれないかとのことである。

 これ以上の部停期間が伸びないことを条件に、彼は引き受けた。

 堀部は違う。無論、彼のタックルの腕を買われたことに内心嬉しかったが、木下の言葉に動いた。

「もし参加してくれるなら、空いてる日にデートしましょ」

 堀部は、木下の心が自分にないのを知っている。彼はバイセクシャルだと言うのを堀部は何となく察していたが、最近木下に女の気配がしているのを感じていた。

 もう自分は木下の相手にはなれない。そう思ってデートも告白も完全に諦めていたところへの誘いだった。

「でも、俺と付き合う気はないんだろ」と、堀部は期待せずにきいた。「はい。ですが、先輩のお力を貸してほしいんです。僕でできる、交際以外のお礼ならしたいんです」

 一日限りのデートならOKなんだな。堀部は明日まで返事を待ってほしいと木下に言った。

 そして、結局堀部はここにいる。

「ほっぺにキスくらいしてほしいぜ」

 大きな図体の男がそんなことを言うので、隣にいた宍戸は少し引いた。

「アホ。お前なんぞにされても嬉しくねえ。木下だからいいんだ」

「うへぇ。木下くんよ。お前さんはこんなゴリラとデートするのか。嫌じゃないのか」

「堀部先輩は、紳士ですから」

 木下はあくまで堀部の男を立てている。実際、言い寄られて悪い気がしていないのだ。木下の心の中には、自らの美貌を意識し始めた頃から淫乱な女が確かに存在している。体は許さないが、それ以外は許してやってもいい。それほど今回の大願成就を成したいと思っていた。

 歴史研究同好会の方は、兼部している東雲、藤野、松本の他に、新入会員の夕、木下、そして2年生の前田利三、大谷嘉男、3年生の会長浅野匠の8名が揃っていた。夕はここで初めて歴研の全会員に会うことができていた。

「森本さん、入会早々大変だね」

 浅野は頭をかきながら面目なさそうな初対面を行った。

「い、いえ。こちらこそ、先生を焚き付けてしまい、こんなに大事になって申し訳なく思っています。もしかして、これバレたら廃部になるんじゃ…」

 夕の心配はもっともだった。何しろ教師が学生を焚きつけて犯罪集団へカチコミしに行くなど前代未聞である。事成ると言えども、よくて学園内で処罰が降り、最悪警察沙汰になるのは見えていた。

 なぜみんなこんなにも和気藹々と話ができているのか、夕は不思議でならなかった。

「よし、時間がない。このまま始めてしまうぞ」

 由衣と彩香は大杉のデスク横に立っている。2人は昨日大杉達が持ち寄った敵情視察の結果報告を全て聞いていた。耳のいい彩香は、夕の録音した敵の声を聞いた瞬間、「電話口の男です!」と叫ぶように言った。もはや敵の拠点はあの若葉荘に間違いない。そう確信している。

 学生達はこれから始まる活劇に色めき立っていた。

「今日集まってもらったのは他でもない。ここにいる松下由衣くんの携帯に、架空請求詐欺の業者が電話をかけ続けている。普通ならば着拒にして、それでもダメならば学生課の生活相談にでも行くべきだ。しかし、被害者がここまでしなければならないのに、加害者である向こうはお咎めなし。これは許せないと堺彩香くんは言っている。ファンである松下くんのため、義のため、私に助けを求めてきた。経緯はこういう流れだね。

 私もできれば生徒を苦しめている悪漢に鉄槌を下してやりたいが、それもできないと諦めていた。だが、そちらの鉄道研究会の三人のお陰で、敵の拠点の割り出しに成功した」

 大杉はソファに座る三人の鉄道研究部員に手を向けた。他の学生達が拍手を送る。

「敵の拠点は、都電荒川線飛鳥山駅徒歩20秒の若葉荘202号室だ」

 昨日のうちにA3サイズにプリントしていたアパート全体の写真と202号室のドアの写真を、大杉教諭は机に広げていく。

「敵は確認できただけで6名。一応10人を想定している。武器の種類も不明だ。だから万全をきさなければならない」

 東雲は全員に黒い厚手のチョッキを配り始めた。

「防刃チョッキだ。敵のナイフから身を守れ。もし敵が拳銃を所持していたら、その時はこいつの出番だ」

 大杉教諭は警察の機動隊が使いそうな大楯が二枚重ねになったものを掲げる。

「あさま山荘でもこうして2枚重ねの大楯が、連合赤軍のライフル弾から機動隊員を守ったもんだ」

「どこにあったんです。そんなもの」

 大杉は全員を見渡して、咳払いをした。歴史教師の顔になっている。

「この学園にもその昔、1960年代には学生運動の嵐が吹き荒れた。血気盛んな若者達は、ゲバ棒を作って学園組織に叛逆したもんだ。だから、自警用に学園も防刃ベストや大盾をたくさん入手したんだよ。結局運動は下火になったのでほとんど使われなくて倉庫に眠っていたがね。あとは、映画部や演劇部の小道具をかき集めた。本物並みの強度だから、使ってくれ」

 大杉に言われ、とりあえず堀部や宍戸、東雲が持ってみる。案外重たいので、扱える人員は限られる。

「他に、発煙等十本、木刀5振、ゲバ棒18本、伸び縮み突っ張り棒10本、折りたたみヘルメット30個、全共闘ヘルメット2個、軍手40セット、特殊警棒5本、鉄パイプ4本、スターターピストル1丁に、予備の雷管12発。網1つ、刺股1つ、10メートル白ロープ20本、新品ガムテープ2個、週刊誌を入れた鞄5個、トランシーバー3セット、救急セット5つ。そして、最終兵器シュールストレミングが2つ。これくらいかな」

 大杉は一つ一つを取り出しながら個数をしっかりチェックしていく。

「堺くんのファンクラブの有志が10数人参加してくれるのならば、このゲバ棒や伸び縮み突っ張り棒は有効活用できるな」

「どのようにですか?」

 彩香が尋ねると、大杉はゲバ棒(2M以上ある細長い材木)を手に取り中段に構えた。

「向こうから敵が逃げて来たとして、10人以上の人間がこうやってゲバ棒を構えて道を通せんぼしていたらどうだい?」

「ああ。確かに」

「こうして、いわゆる槍衾をアパート付近の歩道で作ってもらえれば、敵を取り逃がす危険性はガクンと減る」

 彩香は納得したように頷くと、廊下のファンクラブ有志たちにゲバ棒を持って伝えに行った。

「週刊誌って、少年マンデーですか。これの入った鞄が何の役に立つんですか?」

 夕が聞くと、松本がカバンを手に取ってみた。

「たとえばさ、森本さんがナイフを持ってて、俺を刺そうとしているとする。でも俺は、こうして胸の位置にカバンを持ってきてる。どうする?」

「ああ、上手く刺せないんだ」

「そう。鞄を胸の前に持って来ることで盾にして心臓を守る。週刊少年誌は軽いけど紙だから、ナイフで貫通するにはかなりの力がいる筈なんだ。鞄本体も、硬めの皮を使ってるしね」

 すなわち、簡易的な防具というわけだ。夕は感心する中、大杉が最後に取り出した缶詰を見つけた。

「この最終兵器って何?爆発でもするの?」

 何人かの学生は、ヒエっ……と後ずさっている。

「シュールストレミング。世界一臭い缶詰だよ。室内で開けたら服から匂いが取れなくなるくらいの危険物だ。これはまた……」

 藤野が珍しい化石でも見るかのように、遠巻きに、しかし凝視して言った。

 夕はそれを訊いて思わず飛び退いた。

「いざとなったら、この缶詰を敵の拠点にぶちまけてやるつもりだ」

「すっげえ近所迷惑!!」

 宍戸がツッコミを入れると、座は沸いた。とてもこれから討ち入りに行くような連中とは思えなかった。

「段取りは、飛鳥山で話す。放課後、各々は各自この武器を持って京浜東北線王寺駅まで行き、飛鳥山公園の広場まで来るように」

「はい!」

 その場の学生達が答える。

「では、解散!」


 今回は、全員が私服で電車に乗っていた。ゲバ棒は長いので、弓道部の方で破けて使わなくなった弓入れの袋を譲ってもらい、それに入れて弓のような体をして車内へ持ち込んでいた。木刀は東雲含め五人が竹刀入れに入れている。各自のカバンには折り畳みのヘルメットと軍手、個包装の不織布マスクも入っていた。刺股は持ち手を取り外せるタイプだったので、二つに分割し、大きめの紙袋に網と一緒に入れていた。

 王子に着き、南口から30人以上の刺客がゾロゾロと飛鳥山へ向かっていく。

 飛鳥山公園は相変わらず家族連れで賑わっていたが、何やら物々しい若者の一団が固まって歩いてきたので、ギョッとした親が我が子を庇うような仕草までしていた。

 無理もないよなあ、と夕は思いながら、一行の流れに身を任せる。

 国道に面した広場に着くと、大杉は「荷物を置いて、最終確認だ」と指示を出す。

 各々が荷物を置いて、中を確認する。

「今日は、本当によくきてくれた。礼を言う。俺はみんなの先頭に立つ。怪我をしないようにするのはもちろんだが、絶対に死ぬなよ。死ぬ時は、俺が最初だ」

 大杉の悲壮な決意表明に、学生達は思わず背筋を正した。

「これより、敵の拠点に討ち入る。各部隊の隊長の指示に従い動け。編成は会長の浅野から指示が出る。みんなはそれに従うように」

 各々は大杉の言葉にうなずいていく。

――先生にだって奥様がいる。この人を死なせちゃいけない。私達も、責任問題に発展しないよう、怪我をしちゃいけない。絶対に……。

 夕は深呼吸を行いながら気持ちを落ち着けていた。

 浅野は、学園から出るまでギリギリまで大杉と詰め合わせていた編成表を広げると、大声で読み上げた。

「まず、玄関突入本隊。司令兼切り込み隊長、大杉正義。副司令兼通信、浅野匠。

敵との通話・特定担当、松下由衣。通話担当警護、堺彩香。

斬込み隊。隊長、千葉真二。隊員、大谷嘉男・松本泰司・森本夕。証拠映像撮影兼切り込み隊員、林淳。

後詰め、斉藤二葉。

伝令、寺坂楓。

アパート裏・駐車場部隊。隊長、東雲菜乃葉。副隊長、宍戸丈二。

捕縛要員、堀部和馬・浜崎鯉太郎・木下隼人・石井修司。

捕縛兼通信員、前田利三。

証拠映像撮影担当、藤野昌孝。

歩道槍衾隊1班・2班、堺彩香ファンクラブ有志13名。

交番通報要員・徳井純一。

以上、33名。

 注意事項は4点。一つ、司令及び副司令の命令厳守。一つ、敵を一人たりとも逃がさないこと。一つ、私的制裁の厳禁。一つ、助っ人以外の単独戦闘の厳禁。以上」

 刺客たちは、自分の名前が読み上げられるとわずかに反応して、それ以外のときはただじっと浅野の編成を聞いていた。

 終わると、大杉が一同に呼びかけた。

「注意事項については、必ず守ってくれ。怪我のないことは大前提だが、一人でも逃したら、俺達の方へどんな報復が来るかわからん。命が惜しければ必ず確保しろ。私的制裁も絶対にするな。正当防衛ならばいいが、捕縛した後、またその最中に過剰なまでの暴力を振るうと裁判で無罪になる可能性すらある。そして、単独行動も絶対に禁止だ。これは東雲くん、堀部くん、宍戸くん、千葉くんを除いたすべての人間に言っておく。一人に対し、3人でかかれ。どんなに手練でも、いきなり三人に襲いかかられたら勝てない。裏から逃げ出した敵が多かった場合は、歩道槍衾担当のファンクラブ有志諸君の中から数名来てもらう」

 はい!と、ファンクラブの少年少女達が元気よく返事した。

「では、不織布マスク装着。持ち場に着いたら、武器を取り出し、待機」

 大杉の指示で、各々は手荷物からマスクを取り出し顔を覆った。そもそも季節柄花粉症の時期である。マスク姿でゾロゾロ歩こうが不審に思われる恐れはない。ただし、長物やヘルメットをつけていると、職質が来る可能性もある。ギリギリまで武器の装備は控えていた。

「では、徳井くんはこの公園入り口で都電撮影のふりをしていてくれ。もし最悪の場合は、携帯電話で公園入り口の交番に助けを求めるよう通信させる。その時は、洗いざらいぶちまけていいから、とにかく警察をアパートまで来させるんだ。いいな」

「はい。……みなさん、お気をつけて」

 徳井が礼をすると、他の学生達は朗らかに答礼した。

「しかし、こいつはもはや合戦だな」

 浅野が呟くと、松本泰司はそうだそうだと賛同し、

「討ち入りなんて生ぬるい。これは言うならば飛鳥山合戦です」

 と、勝手に命名している。

「戦争は遊びじゃない。浮かれてると死ぬよ」

 東雲がピシャリと一喝して、松本の表情は引き締まった。

 国道を渡り、飛鳥山駅の脇の細い道を、32人の物々しい連中が通っていく。中には長い棒を、中には2枚重ねの大盾を運んでいる姿は只事ではない。

 確かに、これは戦だな。と、夕は他人事の様に思ってしまう。

 駅からすぐの場所に踏切があり、一団は迅速に渡った。

 敵の拠点となっているアパートが視界に入ってくる。大杉は槍衾隊を呼び、1班6名がアパート裏の駐車場に面した歩道の、駐車場からみて右側に、2班5名を左側に行くよう指示を出した。

 各班は駆け足で持ち場へ向かっていく。そこで、ヘルメットを装着し出していた。アパートだけではなく、周りの住宅街が気持ち悪いくらい静かに感じる。夕はブルっと体を震わせ、持っているゲバ棒を握る拳に力を込めた。

「よし、配置についたな。では、本隊はこの塀に隠れていなさい。駐車場部隊は、俺がここに向かってスターターピストルを二発撃ったらすぐに駐車場の車や建物の付近に隠れていなさい。今のうちに、ヘルメット着用!」

 アパート裏の駐車場担当である東雲、宍戸は静かに頷く。

「では、松下くん。堺くん。こちらへ」

 由衣と彩香は最前列の大杉の元に歩み寄った。由衣は途中で夕の手を握ってきた。

「松下さん、心配しないで。私たちがついてるから」

「夕ちゃん、私より震えてるよ」

「こ、これはその、武者震い!そう、武者震いだから」

 由衣は微笑んで大杉の元へ行った。

「多少はあれで松下さんもリラックスできたかもね。まさか森本さんの口から武者震いなんて言葉が聞けるなんて思わなかったけど」

 東雲にからかいの言葉をかけられても、夕は頷く程度しか反応できないでいる。

「よし、松下くん。今までの打ち合わせ通りだ。電話をかけて、外に出てもらえ。連中が外に出てきて、やはりこのアパートが拠点だと確定したら、俺と松下くん、堺くんが出て、階段の下まで行くぞ。そこで関東企画の名前を出す。そこで連中が逃げ出したら、一斉に飛びかかるぞ」

 由衣は頷いて、自分の携帯を起動し、詐欺業者へ電話をかけた。

 一同は沈黙している。由衣は数コールして相手が出たのを確認すると、指で丸マークを出した。

「あの、私前々からお電話いただいている物ですが……はい、いえ、実はお金は用意できまして。はい。ただ、私学生なんです。ですから振込とかよくわからなくて。だから、直接手渡しってできますか? 変なサイトを見ていたと親に知られると私携帯取り上げられちゃうんで」

 ああ、なるほど。夕は由衣の芝居に妙に感心した。そうやって詐欺業者の「出し子」……この場合は受け取り役になるのか、その男に出て来てもらう作戦なのだろう。

「私、上野の方には出てこれるんですが。え?来てくれますか?」

 他の学生達が声にならない歓声をあげる。

「ありがとうございます。え?どこで待ち合わせですか?どうもすいません。まだ耳の調子が治ってなくて。申し訳ないんですがこの前のように外に出ていただけますか?」

 由衣は真顔で嘘八百を口にしていた。夕からすると、これはこれで恐ろしい。だが、夕はそんな由衣の額に光るものを見つけ出した。彼女もまた、余裕はないのである。

 夕達の目線は、自然、由衣からアパート2階のドアに向かう。

 そんな中、ドアが開いた。昨日の茶髪の男だ。スマホで通話しながら、鞄を抱えている。

 林はすでにビデオカメラと、ヘルメットに装備したGo Proで録画を始めていた。

「ええ? あんた本当に耳悪いんですか? 中も外も同じようなもんでしょうが。ったく。それじゃあね、上野駅の、中央改札でたところにお願いしますよ。近くにスタバがあるでしょ」

 男の会話はここまで聞こえてきた。間違いない。やはりここが架空請求業者の拠点だったのだ。

 大杉と由衣、彩香はスッと立ち上がると、アパートの2階に続く階段まで駆け寄った。

 降りようとした男は、いきなり見覚えのない男女3人が来たせいか、少々驚いていた。

「おい、関東企画!!」

 大杉は凄まじい怒声で男に向かってその名を口にした。由衣も、自分のスマホを男へ向かって掲げた。番号が見えるようにである。

 自分達の団体名である「関東企画」などという名前を言われ、更にスマホも掲げられた男は自分の置かれた状況を悟り、顔面から明らかに血の気が引いていた。

 男は慌てて踵を返し、ドアに向かって走った。

「待てこらあ!」

 大杉が腰からスターターピストルを抜き取り、学生達の隠れている塀に向けて2発発砲した。撃つと大杉はすぐさまドアまで追いかけるが、間一髪のところで閉められてしまった。

「合図だ。皆、ご武運を!!」

 東雲が木刀をスラリと抜くと、駐車場に向けて走り出した。他の学生も続いていく。

「俺たちもだ。千葉!先頭へ!!」

 浅野の命令を聞くが早いか、千葉真二以下7名がアパート階段に向けて突撃した。

 大杉教諭はドアの前に立ち、「おい!開けろコラぁ!」などと叫びながら、ドアを蹴り飛ばしていた。どちらが犯罪者なのか全くわからない。

 しかし、これも当然演技である。大杉は本隊が来たのを知るや、指3本を掲げ、自分の後ろを親指で指差した。3名が自分の後ろに来いと言う合図なのだと瞬時に悟った千葉は、大谷、林、夕を大杉の元に先に走らせる。

 階段の足音は立てないように細心の注意を払いつつ素早く上がる。敵に大人数で来たと言うことを悟られないためである。大杉と少女2名。これだけの手勢だと舐めてもらえれば非常にやりやすい。

 夕はおっかなびっくりしながら、時にゲバ棒を落としそうになりながらも、3人と共に大杉の背後に回った。ドアから出る人間の目線からすると左側に配置された形になる。

 他の千葉を含めた本隊は、右側である。千葉はメリケンサックを指にはめていた。松本は木刀、後詰めの斉藤はゲバ棒を持っている。伝令の寺坂は、何かあったらすぐに報告に走れるよう階段に登らず真下でスタンバイをしていた。武器として特殊警棒を所持しており、最大まで伸びている。必要とあらば敵の脳天に打ち込む覚悟もできている様子である。副司令の浅野は寺坂よりもドアの近くで成り行きを見ている。由衣と彩香を背後に回し、庇っている状態である。ひとまず由の安全を守ることが本作戦の大前提だから、若い副司令はこの2人を一種の拠り所にしていた。

 大杉が戦闘に加わったら最後、全体の指揮は全て浅野が執らねばならないのだ。自分の指揮次第では、30人の学生の命が危ない。このプレッシャーに耐えられるほど浅野は強くなかった。おそらく東雲や、助っ人に来ていた堀部や宍戸、千葉も無理である。重圧に押し潰される。浅野が頼れるのは自分と、トランシーバーと特殊警棒にヘルメット。これくらいである。とにかくこの子を守る。他の奴らにも怪我がないようにする……こんなことが頭を支配していた。狭い二階廊下では、ゲバ棒は勿論、特殊警棒すらマトモに構えられない。とにかくは何が起きてるか確認し、伝達しなければと、トランシーバーを離せないでいた。

 夕は壁に耳を当て、中の様子を聞いて見ていた。

「外には男と女のガキだけです」

「どうやって突き詰めたか知らんが、来たことを後悔させてやれ」

 そんな話が聞こえてきた。

「先生、来ます」

「おう。みんな構えてろ」

 大杉が一際大きくドアを蹴ると、一瞬ドアの脇に体を隠した。次の瞬間、ドアは勢いよく開いて、2名の男が飛び出した。ドアは外開きの右吊り元である。なので、連中はまず大杉教諭の姿を一番最初に見た。大杉は、大谷の持っていた大盾を抱えて男に突進した。

「うわっ!」

 慌ててもう1人の金髪の男はドアの反対側に出ようとした。するとそこへ、千葉からの正拳突きが襲ってくる。

「何、お前ら一体……」

 言い終える前に、金髪の顔面に千葉の突きが炸裂した。

「ぐうっ!」

 うめき声を上げ、鼻頭を押さえてよろめいた。

 そこを目がけて、松本が脛に木刀を打ち込んでいく。最初の一撃は空振ったが、2度目はど真ん中に入った。威力は東雲の打ち込みの足元にも及ばないが、それでも弁慶の泣き所を木刀で打たれて、痛くないはずがない。男は打たれた脛の患部を抑えながら悶え苦しんでいる。鼻血を撒き散らしながら、である。あまりに痛々しい。

 そこへ、後詰めだった斉藤がのたうち回る男の体へゲバ棒を叩き落とした。

 斉藤二葉は堺彩香のファンクラブの人間で、現在3年生である。槍衾隊に入らず、一番危険な正面突入隊にいるのは、単純に斬り込み隊の人員が足りていなかったからだった。誰かここに後詰めでいいから来てくれないかと大杉に言われた時、斉藤は迷いなく志願した。他の1、2年生も声を上げたが、斉藤はそれを制した。危険な目に遭うなら年長者1人でいい、と言うのである。その代わり、歩道に出た敵は必ず仕留めるようキツく命じた。

 本来この討ち入りは、由衣の所属するこのファンクラブでやらなければならないものであると斉藤は思っていた。それを、大杉以下歴研の会員全員が中心となってくれて、更に他の助っ人が多数参加していた。

「この戦いは、私たちファンクラブの会員である松下さんのために、彩香ちゃんだけじゃなくさまざまな人たちが助けに来てくれています。貴方達は先生の計らいで一番安全圏にいるけれど、もし捕縛要員を掻い潜って敵が来たら……例え1人であっても私達素人にとっては脅威でしょう。

ですが、私達が怖い様に、向こうもこちらが怖い筈です。10人以上の人間が武器を向けているんですから。

だから怖い気持ちを偽ることなく、しっかり恐れながら、1人に複数人でかかり、率先して敵を確保しなさい。大楯を持つ人は、自分と他の仲間を死ぬ気で守るように。それ以外の人は、ゲバ棒で相手と間合いを取って、敵を叩きのめしてしまいなさい。決して、敵の腕が届く範囲まで近づかないよう。

 私たちは盾もある、全員分のヘルメットもある。ゲバ棒は長いし、木刀も頑丈そうですね。ですが、この武器や防具に頼らないように。武器は自分自身です。実際には怪我をしてほしくないですが、気持ちとしては、命をかけなさい。

 応援に呼ばれたら、各班2名ずつ行きなさい。いいですね」

 そんな事を討ち入り前に言ってはいたが、今思えば、この正面玄関突破の後詰めというのは、比較的安全だったかもしれないと斉藤は思っていた。何しろこのアパートはそこまで高くないので、降りようと思えば壁や何かを伝って下まで降りれそうなのだ。いくら東雲や柔道部員がいても、何人も降りたらその網を掻い潜って、槍衾を作っているファンクラブの方へと向かうものが出るだろう。急に彼女は心配になってしまう。

ーーいや、そもそも、こいつらさえいなければ、由衣は平穏無事に過ごせていたのに!

 斉藤の怒りが、ゲバ棒にますます込められていく。金髪の身体を叩く音がどんどん大きくなっていった。

 何度目かの振り落としを、浅野が止めた。

「それ以上はいけない」

 その声、必死な眼、腕を握り締める手の力の強さ。それらで斉藤はようやっと我に帰った。

 目の前にあるのは、血だらけの手で顔を守ろうとしている男の姿である。もはや足は立たず、体は恐怖で震えきっている。手指の間からチラリと確認できた目は、人間に虐待され続けた小動物のような怯えが感じ取られた。

 斉藤の顔は蒼白になった。自分のしたことの非道さをようやく実感できたのである。

「よし、ふん縛れ!!」

 千葉と松本は金髪の背中に覆いかぶさり、千葉は男の両手を押さえつけた。松本は腕と胴体に捕縛用ロープを通すと、すぐに固結びを行った。

 浅野は小刻みに震えた斉藤の肩を叩き、「よくやった」とフォローを入れる。

 斉藤は、震えながらもしっかりと頷いた。これは戦いだ。非情なものだ。命と命のぶつかり合いである。相手を慮ってばかりはいられない……そう自分に言い聞かせている。

 額の汗を軍手の甲の部分で拭い、斉藤は改めて現在捕縛中の男に対しゲバ棒を下段に構え直した。縛られている最中に暴れ出した時、攻撃を加えるためである。今度は突きで、男の横っ腹を強か攻撃するつもりである。震えは残っていたが、顔色は元に戻っていた。しかし、その心配も杞憂であった。男は抵抗もできず、両手足を縛られ、自立も不可能になっていたのである。

「玄関突入本隊、副司令から各局。敵一名確保!我が方に損害なし。各員一層敵の攻撃・逃亡に警戒されたし。回信は省略。以上」

 浅野がトランシーバーで現状を全体へ報告し、共有した。

 大杉はその言葉をドア越しに聞いた。

「よし、俺たちもいくぞ!!」

 大杉は腰を落としたかと思うと、大盾で男を押し返した。怯んだ男はよろけながら開きっぱなしのドアにガタンと大きな音を立ててもたれかかる。

 そこへ、大谷が木刀を構えて大盾の脇をすり抜けてきた。

「はぁーーッ!!」

 右手に持った木刀を横に振りかぶると、思い切り男の脛に命中させた。

 男は目を見開いて、声にならない叫びが口から飛び出した。夕は思わず目を覆った。これが喧嘩。これが戦か。

 司馬遼太郎の『燃えよ剣』に出てきた、脛うちに特化した田舎の喧嘩剣法とは恐ろしいものだと、夕は初めて実感できた。ズボンの布一枚しか覆うものがない脛に木刀を打ち込まれて、平気でいられる人間はまずいない。

「も1発!!」

 脛を押さえずにはいられない男は、自然背中を丸めたような形になる。大谷はその背中に木刀を振り落とした。男はうめき声を上げて遂にダウンする。

 夕はそこへゲバ棒を何度も振り落とした。顔に当てては危ないと思い、腕や胴体に思い切り打ち落としている。振り上げた際に天井にも何度も当たっている。ガン! という音と、肉を打たれる鈍い音が速いテンポで廊下に響く。男の抵抗はもはや皆無に等しかった。

「よし、確保!!」

 大杉は、他の仲間がドアから出てきたり、武器を投げてこないように入り口に立ち大盾を立てる。その後ろで、大谷と夕が携帯していた捕縛用の紐で手足を縛り上げる。うまい捕縛方法など知る由もないので、とにかく自力で外せないように両手首や足首をぐるぐる巻きにし、固結びにした。

「浅野くん、こっちも捕縛完了!!」

「了解。玄関突入本体副司令から各局。敵、新たに1名確保!こちらに損害なし。以上!」

 夕は、そんな中でも室内の様子が気になっていた。

 室内は先ほどからバタバタと騒がしく、たまに怒声も混じっていた。

「ガサ入れか!?」

「いや、それにしては……とにかく相手は3人だろ?裏から逃げろ」

 夕は慌てて大杉に今の発言を耳元で小声で報告する。

「よーし、夕くん。モクモク用意」

 モクモクとは、発煙等の隠語である。もし相手にこの会話が聞かれでもして、発煙等だとバレないようにあらかじめ決めていた符牒であった。

「はい」

 夕は内ポケットから発煙筒を取り出して大杉に手渡す。

 大杉は煙を出すと、「ダイナマイトだ!みんな伏せろ!」と大袈裟に叫び、室内に放り込んだ。

 案の定、室内は天地がひっくり返るかのような大騒ぎとなり、半狂乱の男が一名飛び出してきた。大杉はその瞬間ドアを閉め、慌てて出てきた男を千葉側と大杉側で挟撃した。

 男が気づいた時には既に遅く、大杉の盾で体を押されたと思いきや、腹に千葉の拳が入る。さらにゲバ棒が左右から振り落とされて、頭頂部や肩などへ強かに当たった。

「や、やめてくれ!降参だ!!」

「よし、縛り上げろ!!」

 またも大杉は、今度は室内に向かって大袈裟に叫んだ。室内はまだ慌てている様子だったが、1人が冷静な声で

「おい、これは発煙筒だぞ!」

 と言っていたが、他の連中は聞いていないらしい。「窓開けろ窓!」と言っている者もいた。

 夕が浅野へ窓を開けるジェスチャーを送ると、浅野はすぐに無線で通信を始めた。

「至急至急、副司令から駐車場。敵が窓を開けるようだ。裏からはどう見えるか。どうぞ」

 しばらくすると、浅野のトランシーバーに前田から無線が入る。

「駐車場から副司令」

「こちら副司令。駐車場どうぞ」

「現在202号室の窓が開き、白煙が見える。えー、男が、角刈りの男が、咳き込んでいるのを視認。そのまま窓枠に乗り出して、脱出を図る模様。隊長は既に木刀を構えている。どうぞ」

「了解。窓からの脱出を図っているのは1名だけか。どうぞ」

「はい、更に1名脱出を図る模様。捕縛部隊の交戦開始はまもなくと思われる。隊長の命令があるまで車の影に隠れ、待機を徹底中。各隊員の士気旺盛。以上。どうぞ」

「敵2名が駐車場へ脱出を図っている。副司令了解。各員、注意事項の遵守を徹底されたし。以上」

 浅野が通信を終えると、大杉はふん縛った3人の架空請求詐欺業者のロープを廊下の手すりにくくりつけたところだった。

「先生、まもなく駐車場でも交戦が始まります」

「そうか…3人捕まえた。窓には2人。他に何人いるんだ?」

 大杉は独り言のように呟く。

 その時、銃声が響き渡った。思わず全員が体の位置を落とす。

「みんな伏せていろ。浅野くん、状況を確認」

 大杉は冷静さを漂わせた声で話している。生徒たちを怖がらせない為であるのはみんなわかっていた。

 大杉は、全員を階段側に寄せて、自分は部屋に一番近い場所で大盾を構えている。

 夕は、更に一発響いた銃声にビクッと身体を震わせた。敵は殺しに来ている。そう痛感した。

ーー神様、どうか誰も怪我を負いませんように……!

 合戦に参加している身でありながら、この願いはずいぶん身勝手なものだった。しかし夕は悪びれず、味方の安全をとにかく祈った。戦の神である毘沙門天には言うに及ばず、天照大神、伊邪那岐・伊邪那美命、釈迦、弁財天、スサノオ、地蔵菩薩、菅原道真など、兎に角知っている神や仏に片っ端から祈っていた。



 まもなく敵の1人が地面に飛び降りる……駐車場の車に身を隠している木下がそう思った矢先に、煙の充満する室内から一発の銃弾が放たれた。

 弾自体は車の一つに当たり、他の者に危害を加えてはいない。今の銃の威力はどれ程のものなのか、木下には知る術もなかった。

「体を低くしろ!跳弾にも気をつけるんだ」

 通信員の前田が車の陰で叫ぶ。

「何だ、チョウダンって」

 堀部がつぶやくように言った。

「跳ねる弾、と書いて跳弾です。物に跳ね返った弾は、あらぬ方向へ飛びますからね」

 木下は大盾を構えながら言う。この盾が敵の撃つ弾に耐えてくれることを切に祈っていた。

「よく知ってるんだな」

「伊達に大杉先生の知り合いじゃ無いですよ」

 木下はニカっと笑って見せた。頬には冷や汗が伝っている。堀部はこの美少年の抱く恐怖心を悟って、ずい、と近寄った。

「安心しろ。俺が守る」

「とんでもない。私が呼んだんですから、お守りするのはこっちです」

 木下は車の脇からアパート壁面を見た。1人の男が地面に降り立とうとしている。しかし、男からは死角になっている場所に、東雲が潜んでいた。文字通り虎視眈々と狙いを定めている。

「おお、まさに女豹。いや、貫禄からして虎と言うべきかな」

 木下は、まるで他人事のように感心していた。

 


 角刈りの男は遂に地面に降り立った。

 そこへ、声も無く東雲が飛び出す。

 地面は砂利道である。どうしても足音が出てしまうから、彼女はスタンバイを始めて直ぐに敵が降り立ちそうな場所を予め3ヶ所見積もっていて、そこまでの道の砂利を極力どかしていた。その結果、4歩の前身の際、砂利を踏む音は全く出なかった。

 音もなく間合いに入れた東雲は木刀を上段に構え、角刈り男の右肩に思い切り振り落とした。狙い通りである。鈍い音と共に、男はうめき声をあげる。

 入った。と、東雲は確かな手ごたえを感じる。防具相手の打ち込みしか経験が無いのだが、かなりのダメージであるのは間違い無いと思われた。

 男は慌てて間合いを取ろうとしたが、右肩の激痛が酷くまともに走れない。そこへ、副隊長の宍戸が掴みかかった。何にも分からぬまま、角刈り男は背負い投げをマトモに喰らった。しかも地面は駐車場の砂利で、一つ一つの小石は粒が存外大きい。この痛みは筆舌に尽くし難いであろう。

 角刈りの男に2人の人間が関わっている。これで大丈夫だ。そう思ったのか、窓から出ていたもう1人の小太りな男は飛び降りて、歩道へ駆け出した。

 それを見た東雲は、まずいと一瞬思ったが、そんな心配はすぐに消え失せた。

 ワゴン車の影から堀部が飛び出したのである。アメフト部で鍛えたタックル技術は、素人をいとも簡単に封じ込めた。

「先輩!危ない!!」

 木下が叫ぶ。タックルした相手に返り討ちに遭うから、と言う理由では勿論無い。

 車から飛び出したので、障害物が何も無い場所で2人共転がっていた。敵の銃から身を守るものがない。

 堀部は学園のアメフト部の財産である。傷ひとつつけるわけにはいかない。

 木下は脱兎の如く大盾を構えたまま2人のいる場所まで駆け出した。ふと202号室の窓を見ると、何か光が点滅したような気がした。

 その瞬間、彼の抱えていた盾に凄まじい衝撃がきて、思わず木下は盾ごと倒れ込んだ。敵の狙いは粗方正しく、木下がいなかったら堀部の超至近距離に着弾しているはずだった。木下は盾の下敷きになり、しかしすぐ起き上がった。砂利で打ちつけた体が痛い。だがすぐにもう一発撃ってくると思った彼は、堀部の体の前に大盾を構えて立ち塞がった。

「先輩には、傷ひとつつけさせない!!」

 そう言っている木下は、手や顔に擦り傷ができている。転んで打ち付けた箇所も砂利の白い砂で汚れていた。おそらくその服の裏は痣になっているだろう。

「くっ……」

 敵を押さえつけているので、木下を助けることができない。堀部は試合に負けた時以上の悔しさに襲われた。

ーー木下が傷ついているのに、俺は銃を撃ってきた外道を殴ることもできないのか。

 もう一発銃声がしたと思うと、盾に命中したのか、凄まじい金属音がした。

「うわああッ!」

 木下はあまりの音と衝撃に腰がひける。盾を持つ腕がガクガクに震えた。音が思っていたより遥かに大きい。木下にとって、非常に凶悪な音に聞こえた。何度も撃たれたら盾が持つとは到底思えなかった。あまりの恐怖に目に涙が浮かぶ。両腕で盾を掴んでいなければならないから拭き取る事も出来なかった。しかも、段々と転んだ時の痛みが自覚できるようになってきた。その痛覚も落涙を促している。しかし、木下は決してその場からは動かなかった。

 片思いしている美少年の様を見て、堀部がキレた。

「てめえふざけんなぁぁぁぁ!!」

 202号室から射撃している男に向かって走り出そうとする。その巨躯を、木下の細い腕が必死に食い止めた。

「ダメです!!盾の内側にいて下さい!」

 その手の甲からは血が滴っていた。珠のような肌を誇る木下にこんな怪我をさせた敵を、堀部は許すことができない。しかし、それ以上出ようとした時、ふと自分の役目を思い出した。

「しまった、あの男が」

 堀部がタックルした男は、腰を押さえながらその場から逃げようと立ち上がっていた。

 まずい、逃げられる。そう思った時、横から走ってくる人影があった。

 網を持った浜崎と、盾を抱えた石井である。

「やーッ!」

 浜崎は網を放り投げ、小太りの男に絡ませる。

「うわ、うわあ!!」

 いきなり網が体を覆ってきたので、男はパニック状態のようだ。

「捕まえたぜ!!」

 浜崎が叫び、その声で堀部も我に返る。すぐさまタックルして、男を確保した。浜崎はすぐにロープで男の腕と胴体を縛り上げる。釣りの経験ゆえか、結ぶのがかなり早い。堀部はその芸術的な手捌きを見てこんな状況下であるのにも関わらず感動した。

ーー早い! 大杉先生が浜崎を呼んだ理由はこれか。

 木下と石井は、捕縛に一切の邪魔が入らないように、双璧となって202号室に対し大楯を向けていた。

 


 東雲は角刈りの男を縛り上げながら、その成り行きを見ていた。1人に対して自分と副隊長が掛かってしまった。結果的には良かったが、危険な状態だった。

 ふと、東雲は202号室からまた3名の男が出てくるのが見えた。

 一体何人いるんだ!東雲は再び中段に構えようとしたが、窓から銃口が突き出され、すぐに建物の影に逃げ込む。タイミングがずれて発砲されたから、命中せず目の前の地面に着弾した。

 その隙に、男が3名飛び降りてきた。

 東雲は202号室に石を投げつけ、その後すぐに飛び降りてきた男の1人に襲いかかった。男はモップを手にしていたが、隙だらけだった。東雲は俊敏に踏み込むと、敵の左胴体に木刀を打ちつけた。悲鳴が上がり、そこを宍戸が取り押さえた。

ーーまずい、2人逃げた!!

 東雲が追いかけようとすると、すぐ近くの地面を銃弾がえぐった。東雲は舌打ちしながら反対方向へ飛び退いて、宍戸の元に援護しに行く。

 堀部や浜崎が盾に守られながら出て行こうとしたが、盾自体に着弾があり、とても出ていける状態ではない。

 結局、2人の男が駐車場を突破し、歩道へ出た。

 2人は、すぐに逃げようと思って、王子駅方面の歩道へ走ろうとしたが、そこで足が止まる。

 目の前には、アパートからは死角で気づかなかったが、大盾を抱えた若い男や材木を持った若い女が道幅いっぱいに展開していたのだ。全員ヘルメットを被っている。準備が良すぎる。

「な、こいつらいったい何人いるんだ!」

どこかの組の殴り込みか?と思い、仕方なく反対方向から迂回しようとすると、その歩道にも同じように大盾と材木の面々がいた。全員、酷く若い。ヘルメットやマスクで顔は見えないが、体躯からして女など女子高生のようにも見える。

「てめーらいったい何もんだ! どこの組からきやがった!!」

 男は片方の槍衾隊に突っ込んでいった。

 槍衾隊第2班は、盾の間から古のスパルタ兵よろしくゲバ棒や伸び縮み棒を突き出し、僅か6本ながらも簡易的な槍衾を作った。伸び縮み棒に関しては、1本だけでは強度に難があるので、最大限まで伸ばした棒を3本まとめてガムテープでぐるぐる巻にしてある。ゲバ棒よりは軽いので、大盾を持つ2名が装備していた。

 突き出された棒は、殺傷能力こそ低いものの、それが何本もあると流石に怯む。

「攻撃ーっ!」

 盾を抱えている2名はその場にとどまり、他4名が前進した。十二分に間合いをとりつつ、突きや振り落としなどで敵を寄せつけない。敵は素手だったので、攻撃を交わすしかできなかったが、駐車場まで戻り石をいくつか拾って投げつけていく。飛び道具が出てきたので、盾2名は慌てて前進し仲間を投石から守りに入る。

「へっぴり腰になるな、気合い入れろ!何の為のヘルメットと大盾だ!」

 盾を抱えたファンクラブ会員はそう檄を飛ばすと、一歩二本と前進し、男との間合いを詰めた。

 もう片方の、1班と対峙している男は、金属バットは持っていたが、戦うべきか明らかに迷っている様子だった。何しろ、1班の人数は7人。しかもヘルメットやゲバ棒、大盾まで持っている。

 しかし、目の前の男がどう思っていようが槍衾隊1班は知ったことではなかった。遥か前方では2班が必死で戦っている。わたしたちも続かねば。

ーー気持ちとしては、命をかけなさい。

 斉藤の言葉を各員が思い起こしていた。全員で、命そのものをこの男にぶつける。その気迫が一同から湧き立っていた。

「ええい、死ね死ね!悪党に有志一同の死に様を見せつけろ!!」

 大盾を抱えていた生徒が檄を飛ばすと、一斉に部隊が前進し、ゲバ棒の先端が金属バットの男に襲いかかった。

「ひええええ」

 男が悲鳴を上げながらバットを振り回すが、威力はすこぶる弱い。槍衾隊はそれを見て、喧嘩の勢いと主導権はこちらにあると確信した。決して負けてはいない。そう思うと身体に力が漲り出した。やっと身体が温まってきたと言った所である。恐れはあるが、勝てる相手だ。戦いは数である。7人が1人に対し火の玉となって吶喊し、負けるはずがあろうか。

「うおおおおおおおお!」

 腹の底から出した鬨の声で自らを奮い立たせ、相手を圧倒する。日頃の堺彩香のライブで観客として発声をしていたが、その杵柄がこんな場所で役に立ってしまった訳である。

 男には5本のゲバ棒が振り下ろされ、もしくは脛めがけて突き出されてきた。

「頭を攻撃したら致命傷になりかねない。私達は人殺しをしに行く訳じゃ無いんだから、やるなら脛を狙いなさい。露出して一番狙いやすい急所は脛だし、立てなくしてやれば、そいつはもう戦力外よ。戦場で歩けなくなったら死ぬ時だからね。相手を決して五体満足にしておかない事。脚を執拗に狙って狙って狙いまくる。脚を潰したら全員でのしかかり、必死なら1人が腕一本に動物のナマケモノが木に抱きついてるような格好でしがみついちゃいなさい。いくら大人でも、2人の高校生が両腕に全体重を掛けてきたら持ち上げるなんて不可能です。相手がプロなら、素人の私達は数で圧倒する。ゲバ棒の長さとヘルメット、防刃ジョッキを味方にして、コテンパンにしちゃいなさい」

 決行前に東雲がアドバイスしてくれたことであった。

「脛だ!!脛を狙え!」

 そう叫びながら、大盾を片腕で支えているファンクラブの男子生徒は、もう片方の腕で必死にゲバ棒を振るっていた。素人の片腕捌きに威力などあろうはずもなく、すぐ力も尽きてきた。腕がちぎれそうだという感覚を、生まれて初めて抱く。

「ああもう!そのバット邪魔!まず腕を狙うよ!!」

「棒で突くと思うな!体で突き刺せ!」

 そんな中、アパートから撃たれた銃弾が、一隊の近くに着弾する。

 ここでようやく、槍衾隊の面々は頭まで登り切っている血を下げることができた。今自分達は班の横っ腹を銃架に晒しているのだ。目の前の金属バット男などは造作もないが、遠距離の狙撃手には敵わない。

「大盾!前方はいい、右側面に回り込んでこの班の右翼を銃弾から守れ!ゲバ棒は捨てろ。両腕で盾をしっかり持て!この男は5人でヤれる!!」

 班長の女生徒に言われ、盾を持った男子生徒2名は班の右翼側、つまりアパートに面した側についた。

 もし銃弾が盾を貫通したら…

 そう思うと、男子生徒の脚は震えてしまう。それでも腕には力を込めていた。必ず班の5人を護る。その意志だけが2人を直立させていた。

 5人の女生徒達も、男の了見を察しているからこそ、速やかに金属バットの男を確保したかった。

「このやろう!なめんなあ!!」

 金属バットの男は一瞬の隙をついて、前方にてゲバ棒を突き出した女生徒の突きをかわすと、間合いに入ってきた。

「死ねええ!!」

 男はバットを振りかぶって、女生徒のヘルメットの頂部に叩き落とした。

ーーしまった!

 班長は顔面蒼白になる。いくらヘルメットを被っていても、大の大人がバットを振り下ろして、それをまともに食らったのである。大盾を全て側面防御に充てた自分の責任だと思うと、班長は涙が溢れてきた。

「きっさまぁぁぁ!」

 殴られた女生徒は伊藤充希と言い、ファンクラブの二年生だった。班長とは同期で、堺彩香のワンマンライブのチケットを買うために、12月の朝6時からライブハウスの前で共に並んでお互いを励まし合いながら、突き刺さるような寒さを乗り越えた仲である。そんな伊藤を、このような下衆に殴らせてしまった己の不徳を腹の底から恨んだ。

 班長はグッと腕に力を込めると、伊藤の目の前にいる男の右脇腹にゲバ棒をつき刺した。まさに「突き刺す」と言う表現がぴったりな様であり、先端が腹にのめり込んでいた。

 男はうめき声をあげるとすぐに後退した。激痛が走る右脇腹を押さえてしまい、手が離せなくなった男は、左腕にバットを持ち替えていた。

ーーおそらくあの下衆の利き腕は右。左腕でバットを持たざるを得なくなった時点で、奴に勝ち目はない!

「充希、大丈夫⁉︎すぐ後退して、大盾の真後ろにいなさい!誰か伝令を。救急車…」

 涙まじりに叫ぶ班長の真横で、しかし佐藤は冷静だった。

「大丈夫!このヘルメットすごい丈夫だよ!!」

 佐藤は、一瞬死んだかと思っていた自分が全く痛みすら感じなかったので、命拾いしたとはしゃぎかけていた。班長は信じられないと言った顔で、佐藤の被っている「全共闘」の赤ヘルメットを見つめていた。ヒビ一つ入っていない。それどころか金属バットの塗料すらついていた。

 班長は、これで安心した。

「みんな見たね!ヘルメットは頑丈だ。多少叩かれても死なない!恐れるな、身体でぶつかれ!突撃!!」

 班長の声で、一班は前進した。最早恐怖心は無い。

 むしろ恐怖心を抱いているのは金属バットを持つ男の方だ。突かれた脇腹は痛む、バットを振り下ろしてもヘルメットのせいでノーダメージ、更に長い棒を手に大人数で押してくる。

 あたかも、竹槍を持った百姓に追われる落武者のような状況だ。

「被害に遭った者の恨みだ!思い知れ!」

 ブンッ! とゲバ棒が鈍い音を立てて男のすぐ脇に振り下ろされた。この鈍く風を切る音も、男の肝を冷やすに十分だった。

 金属バットの男は後退し、いつの間にか一緒に飛び出ていた男と背中合わせになっていた。

「刺股用意!絶対に逃すな!!」

 1人がゲバ棒を捨てて、脇に置いていた刺股を構えた。刺股とは、先端が輪を真っ二つに切り離したような、半円形の又状になっている金属が付いた棒であり、暴れる人間を押さえつける為のものだった。多くの学校にも探せば見つかる所に置いてあるもので、今回大杉は学内の用務員から一つだけ借りていた。

 しかし、刺股を突き出しても思うように敵の胴体に当てられない。

「脛だ!ゲバ棒を持ってる者は敵の脛を狙い続けろ!」

 2人の男は既に包囲されていた。唯一残っている逃げ道は駐車場だが、そこには逃げられなかった者が捕縛されている。

 絶望的状況の中、逃げた男たちに出来ることはゲバ棒を避けることだけだった。

 そんな中、1班と交戦していた男の手にゲバ棒が当たり、思わずその男は片方の手で患部を押さえつけた。

 そこへすかさず4人の学生はゲバ棒を力一杯振り落とした。肩、頭、背中に当たり、一度そうなると最早抵抗のしようが無かった。

「えいっ!」

 1人がかろうじて直立している男の脛めがけてゲバ棒を打ちつけた。

「ぎゃー!」

 絶叫するのも無理はない。脛には面ではなく、角面が命中したのである。余りの悲鳴に、学生達の方が驚いてしまう。

 男は思わず両方の脛を押さえてうずくまった。そこへすかさず複数本のゲバ棒の乱打が始まる。

「これ以上は我々が罪になる。刺股!こっちだ!!」

 刺股を持った学生は疾走してきて、地面にうずくまる男の背中を押さえつけた。

「今だ、ロープ用意!捕縛しろー!」

一斉に学生達が男に飛び掛かり、腕や足を押さえつける。まごつきつつも何とか男の腕と胴体をぐるぐる巻きにする事が出来た。足も両方の足首を完全にロープで巻き付けてしまう。

「確保!確保ーーっ!」

 刺股を必死に掴んで男の背中を押さえている生徒が通信員の居るであろう方角へ向かって叫んだ。本来なら伝令を送るべきだが、裂ける人員が居ない。

「よし、やった!2班を援護に行け!友沢さんはコイツを見張ってなさい」

 友沢と言われた女生徒は力強く頷き、グルグル巻きにされた男が万一にも逃げ出さないようゲバ棒を突き出しながら見張っていた。


 金属バット男の状況は正に地獄だと言えた。

 大盾の4人は直接戦ってはいない。必死に隊の側面を守り続けていた。他の人間は、その盾のおかげで一切恐れることなく目前にいる敵の殲滅に全集中していたのである。

 8人が、ゲバ棒や刺股で攻撃をしてくる。もはや男の目には涙すら浮かんでいる。勝負はついていると言えた。しかしこの男最大の誤算は、武器である金属バットを捨てて降参を宣言しなかったことである。武器を持ち続けている以上、交戦の意思ありと捉えなければならない。

 そこへ、刺股が男の胴体を捕らえた。男がその刺股をどかそうと棒を掴んだことで、ゲバ棒に対して全く無抵抗になってしまう。

 そこへ、何本ものゲバ棒が男の体に一斉に襲いかかった。ある棒は肩に叩き落とされ、ある棒は胸を突き、ある棒は横腹を、ある棒は脚を突いてきた。ゲバ棒同士がカチ合うこともあり、その時は互いの腕が痺れるほどの衝撃が走る。

 たまらず男はその場に倒れた。ここぞとばかりに刺股を持つ学生は腕にありったけの力を込めて、男を地面に伏せさせたままにする。

「捕縛だ!」

 班長が言った瞬間、何人もの学生が男にまたがって手や足を縛り上げた。

「伝令!東雲隊長へ報告して。歩道に来た敵2名、全員確保。班員に負傷者無し!」

 班長が班員の1人に言うと、その生徒は復唱するとすぐに駆け出した。

「東雲隊長ーっ!歩道に出た敵は全て確保です!1班2班全員無傷です!」

 東雲は、その様子のほぼ一部始終を見ていたので、言われずともわかった。分かってはいたが、あまりに見事な戦闘結果に、思わず感涙してしまう。

「よろしい!!槍衾隊は全員、捕虜を202号室の死角まで運べ!そこで別名あるまで待機!」

「了解しました!死角まで運び、全員そこで別名あるまで待機します!」

 伝令は復唱を終えると、202号室の窓からの銃撃を気にしながら本隊に戻る。東雲の命令が伝わると、槍衾隊はすぐに転がっている敵を全員で引き摺って、他の住宅の塀まで後退した。

「至急、至急。駐車場から副指令」

 通信員の前田は浅野へ報告する。

「至急、至急。駐車場どうぞ」

「駐車場に降り立った敵、全5名。捕縛隊と槍衾隊の働きで全員確保。全員確保!どうぞ」

「全員確保、副指令了解!……我が方の被害は?どうぞ」

「了解。我が方は損害微弱。202号室から銃撃あるも、被弾なし。どうぞ」

「我が方の損害微弱。被弾無し。副指令了解」



 全員確保。そして、あれだけ銃撃があったのに誰1人被弾しなかったという報を聞いて、森本夕はドッと脱力してしまった。由衣は号泣しているが、それを彩香は「まだ戦いは終わっていない」と窘めていた。

「大杉先生!」

 浅野は大杉に駆け寄った。

「もしかすると、残りは202から射撃していた者だけでは」

「そうだろうな。俺だけが突入する。君らはドアの外で待っていなさい」

 大杉は盾を抱えてドアの横にきて、深呼吸を一回するとドアを蹴破った。

「神妙にしろいっ!!」

 大杉が暗い部屋の中へ叫んだと思ったら、いきなり室内の人間は発砲してきた。大盾の表面に火花が散った。

「せ、先生!」

 千葉や松本、夕が近づこうとするが、大杉はバッと手を突き出し、来るなと意思表示した。そうされると、千葉たちはその場に立ち止まるしかない。司令の命令は絶対である。

 大杉は屋内の人間に問いかけを始める。

「関東企画、もう観念しろ。表は勿論、裏も我々の手勢で固めている。逃げられんのだ。大人しく武器を捨てて出てこい。どうしても抵抗すると言うなら、私たちは命懸けで貴様を捕まえるぞ」

 部屋の中にいた男は、再び発砲した。

「畜生、てめえら何者だ!おかげで俺たちの商売めちゃくちゃじゃねえか!」

「貴様らの蒔いた種だろうが!!」

 大杉は盾に身を隠していながらも激昂している。

「俺の生徒に架空請求詐欺なんかしやがって。貴様は絶対許さん!」

「う、うるせえ!」

 男は再び撃とうとした。しかし、弾が出ない。

 弾切れか? と夕は思って室内を覗くと、男が慌てている様子が見て取れた。

 どうも、弾が出ないようだ。弾切れかと思ったが、銃身を何かと弄っている。

 排莢不良だ。そう思った途端、大杉は内ポケットからオレンジ色の球体を取り出し、振りかぶって投げつけた。

 球体は男の体に当たると破裂して、中の液体が男を覆い尽くした。

「うわっ! なんじゃこりゃ!!」

「防犯用のカラーボールだよ!オレンジに染まった貴様の体をよく見ておくんだな。それがてめえらのユニフォームだ!」

「なっ……この野郎!!」

 今の大杉の言葉にキレたのか、男は排莢不良の拳銃を投げてドアのすぐ外に立つ大杉に突撃した。

 大杉は、男が掴みかかろうとした瞬間に右によける。男は視界不良のせいもあって、肩透かしを喰らう形になった。

 そこで大杉はドアを閉めた。この男が再び室内に逃げ込まないようにである。

 瞬時に大杉は、壁際に体を寄せてうずくまった。

「今だ! かかれーっ!!」

 大杉の指示が出た瞬間、男の頭上や肩にゲバ棒が振り下ろされた。脇腹や背中には木刀が入ってくる。

「ぐおおおっ!」

 流石に2つの方向から同時多発で攻撃をされるとたまらない。反撃しようと拳を繰り出すが、その拳はゲバ棒を振る夕や斉藤のことを守っている大盾に炸裂した。

 凄まじい音と共に、男はうめき、拳を押さえつけた。そこへゲバ棒が追い打ちをかけるかのように何度も振り下ろされる。たまに盾の間から体を出して松本が男の脛に木刀を見舞っている。

 そこへ千葉が飛び出し、男の腹と顎に拳を入れた。

 男はぐらりと体が揺れると、そのまま仰向けに倒れ込んだ。完全なるKO状態であった。

「よっしゃ、確保だ!」

 大杉が男に飛びかかると、千葉や松本、夕もその男の体にのしかかった。

「確保ーっ!確保ーっ!」

 松本が叫ぶと、浅野は無線を入れる。

「至急至急、玄関正面から公園前」

 公園前、すなわち飛鳥山公園入り口の交番に待機している徳井に向けての通信である。

「至急至急、こちら公園前。どうぞ」

「全員確保。繰り返す、全員確保。交番に通報せよ。どうぞ」

「交番に通報、公園前了解。……みんな無事か?どうぞ」

「全員無事。安心して交番に駆け込んで頂きたい。どうぞ」

「了解了解。皆様本当にお疲れ様でした。以上、通信終わり」

 浅野は通信を終えると、張り詰めていた糸が切れたように壁に寄りかかるとそのまま床にまで崩れ落ちた。

「私、みんなに伝えてきます!!」

 目に涙を浮かべた伝令の寺坂が、満面の笑みで敬礼して駆け出した。

 大杉たちは男を文字通りロープでぐるぐる巻きにして、廊下を引き摺っていた。階段は流石に大杉、松本、夕の3人で抱えて降りてゆく。

 階段を降りたところはアパートの正面口で、そこに3人の若い衆が縛られて座らされていた。堺彩香と松下由衣が、3名をゲバ棒で牽制している。

「こいつが親玉だな。銃刀法違反だし、ムショに入るのは間違いなさそうだ」

 大杉が親玉と認定した男を3人と一緒に座らせる。

「先生!」

 駐車場の部隊が、捕らえた者たちを抱えながらやってきた。

「おお、東雲くん!」

 東雲と宍戸は、2人の男をそれぞれ抱えていた。無論抵抗などあるはずもないが、いざと言うときは自分達だけが危害を被る為に捕虜連行の中心人物となっていた。

「みんな、怪我はないか!」

 堀部が木下をグイッと前に突き出した。

「木下くんが軽傷です!」

 大杉はギョッとした表情で木下の元へ駆け寄った。

「き、木下くん。傷の具合は」

 美少年はにっこり笑って、

「手に擦り傷や、数カ所に打ち身があります!この傷は、草津か箱根でなければ治せません!あ、奥日光でも可能かもしれません。岐阜でもいいかな?」

「よし、健康そのものだ」

 大杉は木下が決してやせ我慢で言っているのではないと確信した。ただのジョークであるならば、心配して損したからツッコミも無しである。

「ちょっとちょっと!名誉の負傷ですよ。先生のお金で湯治に行かせてくださいよ。堀部先輩との取引も成立するんですから」

「何だい、取引って」

「成功した暁には、1日デートをするというお約束」

「いかん。不純同性交友に教師が金を出したとあっては、俺は学校に居られなくなる」

 大杉は他の生徒を見渡した。

「本当に、木下くん以外は怪我がないんだな」

「ええ、そうです。私も一人一人確認しました」

 東雲が答えると、大杉は感極まったのか、目に手を当てる。

 松下由衣と堺彩香が前に出てきた。

「みなさん、本当に、本当にありがとうございました!」

 由衣が頭を下げるのを見た大杉は、急いで目頭をハンカチで拭く。

「よし、勝鬨!」

 アパートの目の前で、30人の勝鬨の声が響き渡った。流石に近隣住民もその様子を怪訝そうに見つめていたが、勝鬨が終わる頃には遠くからパトカーのサイレン音が聞こえてきていた。

 都電荒川線の車両が、何事もなかったかのように飛鳥山の停留所に入っていった。



7


 その後については、全員討ち入りの時以上に大慌てなものになった。

 まず、大杉と由衣、彩香の3名はこの場に残って、他のものは一目散に解散を下知された。大杉は同期の教師、柴田数家にハイエースの出動を頼んでおり、到着した頃にはすでに合戦の決着はついていた。その車に人員と武器を詰め込ませたのである。特にゲバ棒とヘルメットは最優先で搬入した。学生運動のシンボルである。下手をしなくても凶器準備集合罪だ。

 柴田は降りてきて大杉を一発ブン殴ると、すぐに搬入作業を始めて、負傷した木下を助手席に乗せた。

「若いもんは歩いて帰れ」

 柴田の命令で、他の学生たちはそれぞれ別ルートで王子駅に向かっていった。

 その後、通報でやってきた警察の事情聴取が始まり、大杉はこっぴどく絞り上げられた。何度か大杉は音を上げて、「弁護士を呼んでくれ」としか言えなくなった。

「架空請求詐欺業者のアジトを特定したのは私です。鉄オタの知識がこんなところで役立つとは思いませんでした」

 と、通報した徳井は署で得意げに話しては刑事にどやされていた。

 この架空請求詐欺業者はかなりの件数で被害者を出しており、この集団を撲滅させたことに関してだけは大杉も警察から感謝されたらしいが、これは大杉が後日歴研の部室で自慢していたことなので、詳しいことは夕にもわからない。少なくとも署から感謝状の類は一切出ていないのが、大杉に対する当局の答えを無言ながら雄弁に物語っていた。

  

 討ち入りから一夜明けた学園内は、すでに噂で持ちきりだった。

 大杉が拳銃で敵を次々撃ったと言うもの、東雲は5人の架空請求詐欺業者を木刀でバッタバッタと打ち捨てたと言うもの、木下が大怪我をしたと言うもの、全ての噂話に尾ヒレと葉ヒレがついていた。

 当の大杉はその日、授業を淡々とこなしていた。

「先生、架空請求詐欺の業者さんとはどんな戦いを見せたんですか?」

「何のことかさっぱりだ。君、そんなことより日本史資料集のページが違うぞ。何で江戸時代のところを読んでいる。今は縄文期だ」

「討ち入りっていうなら、元禄赤穂の……」

「だまらっしゃい。その場に起立。良いというまで座るな」

 このようなやりとりを各学年の教室で繰り広げることとなっていた。

 理事長に呼び出しを受けたのは放課後のことである。

 大杉はどこから用意したのか、純白の裃を着込んで理事長の会見に臨んで行った。目撃した学生たちは、「今から切腹に臨む出立だったが、悲壮感というよりは一世一代の大仕事をやりきった男のような、どこかスッキリした表情だった」などと証言している。

「もしかしたら、先生は辞めようとしてるのかもしれないな」

 部長の浅野が呟いたのを、夕たちは聞き漏らさなかった。

 歴史研究同好会の面々は、放課後部室に集まっていた。何となく気になっていたのか、昨日討ち入りに参加した人間は勿論、参加しなかった人間、野次馬なども多数集まっている。

「ええ!そんな……」

「大杉先生は、着替え終えてこのPCで文章を書いているんだ」

 浅野はPCを立ち上げると全員の方へ画面を回転させた。


 ‘’辞表 私、大杉正義は、一身上の都合により日野出学園高等部の教員を辞職致します。

 令和✖️年4月✖️日 大杉正義‘’


 あまりにも簡単で無味乾燥な文面である。

「先生が辞めちゃうなんて、そんな……」

 夕は震えていた。元はと言えば自分が大杉を焚きつけたのがいけないのだ。そう思っている。

「私、今度こそ理事長に直訴してきます」

「辞めさせないでくださいって?」

「そうです。今回のことは私が、私が先生を戦いに仕向けたんです!」

 夕が全責任が自分にあると言おうとしているのを聞いて、由衣はたまらず反論した。

「そんなことない、私がそもそも架空請求詐欺の罠に嵌まらなければ済んだんです!みんな私が……」

 夕と由衣はその場で泣き出してしまう。困ったなと浅野は頭を掻くしかない。

「大杉先生を頼ろうとしたのは私よ。貴女たちが泣くことないの」

 そんな2人を慰めに入ったのは堺彩香である。

「今度は、理事長室に討ち入りね」

 彩香の言葉に、夕は勿論、由衣も力強く頷いた。

「…よし、堺さん。悪いがTwitterに大杉先生の助命嘆願をする為に理事長室に行く旨を投稿してくれませんか。学内のフォロワーが何十人か来てくれると思うのです」

 浅野は、決めると決断が早かった。恐らく考えていたものの賛同者がどれほどになるか分からず、タイミングを見計らっていたのだろう。

「分かりました」

 彩香は早速スマホを操作する。

「この中で理事長室に行ってもいい者は、ついて来い」

 浅野が立ち上がると、他の者も追随して行った。

 理事長室の前に着いた頃には、半数は野次馬と思われるが黒山の人だかりができていた。

 ドアは固く閉じられていて、生徒の侵入を阻んでいる。

「いつでも来い、ドアは開けておくと言った台詞をもう忘れたのかーっ」

「令和の田中角栄が聞いて呆れるぞー!」

「無理矢理お金を突き出して収賄疑惑を作り出してやろーか!」

 ダメだ。段々悪ノリが過ぎて来ている。大体その場合贈賄した方も危ないではないか。

 夕がヒヤヒヤしてる中、ドアがゆっくりと開いた。

 立っていたのは大杉である。

 一同は一斉に駆け寄った。

「先生、腹は切ってないですね⁉︎」

「辞めるなんて嘘ですよね? 辞めるなら歴研の部室にある新撰組セット下さい!」

「俺の恋愛の面倒を見てやると言ったあの言葉は嘘だったんですか!」

「お前、辞めるなら去年の有馬記念の借金ちゃんと返してから辞めろよ!」

 いつの間にか柴田教諭がこの場に来ている。

「どう言う事ですか?」

「いやね?この外道、去年の年末俺に2万円貸せって言ってきたんだよ。有馬記念で倍にしてやるからとか言って。仕方なく貸したら、大穴が来て思い切り負けやがったんだよ。まだ完済してもらってないんだ」

「うわ、それは最低」

 森本夕はあからさまな侮蔑の眼差しを大杉に向ける。

「ええい、だまらっしゃい!!今理事長先生と大切なお話をしているのに、何だ君達は」

「お前の事が心配でこうして来てるんだよ。分かれよこの借金野郎」

 柴田教諭が夕達の前に立って大杉と対峙する。

「大体柴田は何でここに居るんだ。居るなら学生を解散させなさいよ。教師だろ?」

「お前に言われたかないんだよ借金野郎」

「だーっ! 借金借金とうるせぇっ!大体てめぇは自分の悪行を棚に上げて何を善人ぶっているんだ!18%の金利で貸しやがって!」

「日本の金利の上限は18%だ。法律は守っているぞ。何もトイチで貸してるわけじゃないんだし、悪行と言われる筋合いは無い!」

「ぎぎぎ…過払い金請求をしてやる」

「まず元本を完済しろ!借金は2万円だろうが。いい大人が、数ヶ月も経っているのに2万円も返せてないで、よくもまあ教壇に立てているもんだ」

「その辺にしておきなさい。ご両人」

 大杉達の汚い会話が、部屋の奥にいる人物の声でピタリと止まる。

 声の主は、入口に近づいてくる。夕は息を呑んむ。目の前に来た人物は理事長に相違なかった。

「大杉先生、ここまで生徒に慕われている君を懲戒解雇してしまったら、私は断頭台に送られてしまうね」

「は……恐れ入ります。あの様な罵詈雑言を理事長室の前であげるなど、言語道断。私の指導者として不徳の致すところです」

「令和の田中角栄だって?参ったね」

 理事長は哬々と笑っている。底知れぬ余裕の見せ方に、夕は戦慄すら覚えた。

「皆さん、私は何も大杉先生を辞めさせるつもりは無いんですよ。ただ、報告を聞いていただけです」

 理事長はタブレットを掲げる。そこには討ち入りの際記録班が撮っていた映像が映っている。

「もし、重傷者や、死者が出ていたら私も辞めていました。しかし今回は、1人の重傷者もなく、死者も無かった。運が良かったと言えばそれまでですが、事前準備と皆さん一人一人の実力がもたらした完全勝利でした。理事長の立場では無かったら、私は今頃皆さんにハグして回っていた筈です」

 理事長の立場で助かった、と、夕は思ったが、勿論口には出さない。

「その勝利、運に免じて、大杉先生の懲戒解雇は行いません」

 学生達は「ワッ」と湧き立った。大杉教諭が学校に残る。それだけで彼ら彼女らは有頂天になりかけている。

「懲戒解雇"は"」

 理事長の含みのある言い方に、学生達はピタリと押し黙った。何を言い出すつもりだ、この狸は。夕は表情の読めない理事長の顔を恐る恐る見るしかない。

「大杉正義」

 理事長がいきなり大杉を名指しした。

「はい!」

「理由は考慮するも、ご両親からお預かりしている、我が校にとって何よりも大切な学生30名を犯罪者検挙のために動員するなど言語同断。半年間の減俸と、夏のボーナス完全カットを申し付ける!また、軽傷を負った木下君の傷の治癒とケアに尽力すべし」

 理事長は署名捺印の入った書類を掲げる。

「ははっ。謹んでお受け致します」

 大杉はその場に正座すると深く頭を下げる。その形が余りにも美しく、夕は一瞬見とれてしまった。

「そして、今回参加したすべての学生にも罰を言い渡す」

 夕は背筋を伸ばした。

「よし、みんな入ろう」

 浅野の言葉で、討ち入り参加者全33名が入室する。

「目的はどうあれ、住宅街での騒乱は許されない。よって、これから1ヶ月間、放課後に飛鳥山近辺の社会奉仕活動に従事し、当該地域の方々への謝罪、地域貢献を行うように。役所には話を通してある」

 ひええ…と、何人かが悲鳴を上げたが、退学よりはマシだと夕は思っていた。

浮かない顔をしているのは大杉である。



 翌日、早速奉仕活動に向かうため、歴史研究同好会の部室は学生たちでいっぱいになった。ゴミ拾いの類だろうと言うことで、軍手やゴミ袋、ほうきやちりとりが沢山持ち寄られている。

「先生、明日から土日ですが、その日も奉仕活動ですか?」

 彩香が恐る恐る大杉に聞いてきた。土日はライブもある。生配信や取材もある。できれば休ませて欲しいのである。

「ない。平日の放課後だけだ。そこはご配慮いただいた」

 彩香や由衣はほっとしたような表情になった。

 そこへ、木下が絆創膏をいくつか貼ってある手を差し出した。

「何だこの手は」

 大杉が木下を睨みつける。

「やだなあ。怪我の治療として湯治に行くための資金を要求してるんですよ」

「ふざけるな。君は土日使って堀部くんとデートでもしてこい」

「だから草津か奥日光に……」

「東京ですごせ!!」

 夕は、大杉の不機嫌さがちょっとおかしいように思い、そこはかとなく尋ねてみた。

「何でそんなにカリカリしてるんですか?頸にならないだけマシじゃないですか」

「君は若い。俺の苦労はわからんよ。半年間手取りが激減するんだぞ。ボーナスも無しだ!これがどれだけヤバいことか、君たちにわかるか!」

 大杉の嘆きに、夕たちは押し黙るしかなかった。

 そこへ、何処からか電話がかかってきた。デスクに置いてある固定電話で、表示には職員室となる。

 大杉は、その電話の着信音にビクッと体を震わせる。そして電話機から離れて

「浅野くん、すまないが出てくれ」

 と、力無く言った。大杉教諭の顔面は蒼白で、死人のようである。一瞬で血の気が引いてしまった訳で、室内の空気は一転、不穏なものになった。

 もしや、敵の報復か?

 夕が大杉にどうしたのか尋ねようとした時、浅野が先に大杉へ声をかけてきた。

「先生、奥様です」

 何だ、奥さんか。夕は一瞬安心したが、「奥様」と聞いた瞬間の大杉のリアクションでその安心感は吹き飛んだ。

「ひいいいいいいいい」

 このような奇声を発すると、大杉は棚にしまってあったヘルメットを取り出して被り、顎紐を締めて机の下に潜り込んでしまう。まるで地震でも来たかのようである。

「つ、妻がくる。妻が……みんな、俺はしばらく家には帰れない。学園内に泊まるぞ。妻に殺される!」

 大杉は自分のスマホを取り出して机の上へ放った。

 夕は興味本位で覗いてみたが、表示されているものを見て戦慄した。同じ電話番号で数十回もかかってきているではないか。この間の由衣の状況よりタチが悪そうである。

「これは…奥様も架空請求詐欺業者だった?」

「そんな訳ねえだろ! あんな連中よりよっぽど怖いんだ」

 何だ、ようは恐妻家だと言うことか。夕は心配して損した気分になる。実際、給料が半年間減額され、ボーナスも0になるのでは仕方がない。

 歴研の部室のドアが開く。

 あれ、まだ奉仕活動参加者で到着してない生徒がいたかな?と夕はドアのほうへ目線をやったら、見知らぬ女性が立っていた。身長は170センチを超えているように見えた。背中まで伸びた黒のストレートヘアーが廊下の蛍光灯を反射して煌めいている。モデルのようなスタイルの、息を呑む美人がそこにいた。

「あ、奥様」

 浅野が受話器を置いて挨拶をした。

「奥様?こんなに綺麗な人が!?」

 思わず叫んだ夕は、これは失言だと口を抑えた。もう手遅れであったが、つい手が動く。

「ありがと。大杉の妻です。みなさんは、例の討ち入り参加者ね」

 笑顔ではあるが、目が全く笑っていない。噴火している富士山のような感情を、鉄の意志で覆い隠しているように夕には見えた。

「は、はい」

 細君は机の下に大杉の靴を見つけたが早いか、しゃがんだ瞬間机の下に腕を突っ込み、大杉を引っ張り出した。

 足の脛を掴まれた状況で横になった状態で出された大杉は、震えながら弁解を始めた。

「ひゃ、百円が机の下に落っこちて探してたんだ」

「ふ〜ん、見つかった?」

 口からの出まかせである。見つかるはずがない。大杉は脂汗を浮かべてポケット類を探るしかできなかった。

 細君は大杉の太ももを地面に置くと、ヒールの足で思い切り踏みつけた。

「携帯出てよね。逃げちゃったんじゃないかと思って心配したわ」

 額に青筋を浮かべて話す細君を見て、夕は犯罪者よりよほど恐ろしいものを見せられた気がする。

「あなた、新入会員さんでしたわよね」

 細君は努めて笑顔で夕に話しかける。

 夕は泣きたい気持ちを堪えてブンブンと首を縦に振った。

「新人さんは、海と山、レジャーなら何処に行きたい?」

 いきなりそんなことを言われて、夕は頭が混乱してしまう。しかし、床に寝転ばされている大杉の表情はいつになく緊迫していた。大杉は口を大きく開けて動かしていた。読唇術の心得がない夕であっても、それが「警察」と話しているのが伝わってきた。

「山ですね」

 夕は自己の防衛にでた。

「こ、この裏切りも……」

 細君は大杉の口元をがっしりと押さえつけ、夕の方を見てお辞儀した。

「この度は、大杉が危険な真似をして申し訳あリませんでした。今日は、この愚か者をお借りしますね」

 大杉はジタバタと暴れたが、細君の腕力は存外強く、そのまま外へと出て行かれてしまった。

 その後、大杉がこの土日にどうなったのか知るものはいない。

 ただ、翌週月曜日の大杉はやつれ切って別人に間違われるほどだった。


 どっとはらい。



令和飛鳥山合戦ゲバゲバ 終

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私立日野出学園 中嶋條治 @nakax-7

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